きょうのことば「大いなる逆説」
インマヌエル盛岡キリスト教会2022年4月24日(日)の礼拝メッセージをお伝えいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で49年目のご奉仕をしておられます。
説教題 『大いなる逆説』 (國光勝美 牧師)
引証聖句 コリント人への手紙 第一15章12~20節
12 ところで、キリストは死者の中からよみがえられたと宣べ伝えられているのに、どうして、あなたがたの中に、死者の復活はないと言う人たちがいるのですか。
13 もし死者の復活がないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。
14 そして、キリストがよみがえらなかったとしたら、私たちの宣教は空しく、あなたがたの信仰も空しいものとなります。
15 私たちは神についての偽証人ということにさえなります。なぜなら、かりに死者がよみがえらないとしたら、神はキリストをよみがえらせなかったはずなのに、私たちは神がキリストをよみがえらせたと言って、神に逆らう証言をしたことになるからです。
16 もし死者がよみがえらないとしたら、キリストもよみがえらなかったでしょう。
17 そして、もしキリストがよみがえらなかったとしたら、あなたがたの信仰は空しく、あなたがたは今もなお自分の罪の中にいます。
18 そうだとしたら、キリストにあって眠った者たちは、滅んでしまったことになります。
19 もし私たちが、この地上のいのちにおいてのみ、キリストに望みを抱いているのなら、私たちはすべての人の中で一番哀れな者です。
20 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
<メッセージ>
20 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
今日は、「大いなる逆説」、パラドックスと申しましょうか、これに私たちの心をしばし向けたく願っております。
いつものように、前回の簡単なおさらいをさせていただきましょう。
前回は「私の主、私の神よ」というトマスの信仰告白について心を止め、聖餐のテーブルに与ったことです。この「私の主、私の神よ」ということば、まさにこれは、神の御名をみだりに口にするということは絶対にユダヤの人たちにとっては、これほど畏れ多いことはない、これはあり得ないことでありました。それを敢えてトマスは、「私の主、私の神よ」と。これは単なる感嘆の言葉ではなく、むしろ、これを主イエス様は禁じなさらずして、むしろよく言ったと真正面から受け止められました。「私の主、私の神よ」、この信仰告白を思いますとき、私はペテロの信仰告白のことを心に止めたく願いました。「あなたは生ける神の子キリストです」。これは皆さんご存じのマタイ16章16節にでてくるあの変貌山直前のピリポ・カイザリヤ地方におけるペテロの信仰告白であり、これを、弟子たちの口から受けたイエス様は、これに励まされるようにして、十字架の道に歩んで行かれたことを御前に覚えます。まさにこれこそ、「このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です」(マタイ16:17)とイエス様は仰られたように、聖霊様が働いてくださるときに、ほんとうの意味で、「私の主、私の神」と私たちは告白することができるのであります。そしてこのトマスの告白が私の告白となる。ここにたしかな希望、たしかな栄光、これを見ることであります。このように前回は恵みをいただいたことであります。
そしてこの後、私たちは、いつものように墓前燭火のときを穴口公葬地、そして教会のお墓がある松園墓地の方へ、そして関係者のいらっしゃる新庄墓園のほうへと行ったことであります。そのとき私の心の中に、まさに、これこそ大いなるパラドックス、この思いがずっと強く迫ってまいりました。賛美を流しますので、きょうの主題を思いながらどうぞお聴きください。
♪いかなるめぐみぞ
(インマヌエル讃美歌257、教会福音讃美歌304)
1、いかなる恵みぞかかる身をも
妙なる救いに入れたもうとは
2、この身もかつては世の闇路に
さまよい出でたる者なりけり
3 、救いにあずかり日々保たれ
かくあることさえくすしきかな
4、御国にいたらばいよよせちに
恵みのみ神をたたえまつらん
「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じるものはみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」(ヨハネ11:25)
このお墓を教会のものとして、皆様方とアイデアを出し合い、デザインをし、そしてここに刻むおことばを祈り求めたときに、「我は復活なり、生命なり」というこのヨハネ11章25節のおことばでした。讃美歌もリクエストいただいて、「いかなるめぐみぞ」の讃美歌の一部を刻んでいただきました。ほんとうにすばらしい恵みの教会墓地を作っていただいたと思います。
お墓というものは、私たちにとって避けられない死という情け容赦のない現実が勝ち誇ったしるしとしてあるという表現をできるかもしれません。しかし、このみことば、「生きてわたしを信じるものはみな、永遠に決して死ぬことがありません」これほど大いなるパラドックスはありません。イエス様は、「あなたはこのことを信じますか」と福音書の中に記しております。お墓ほど大いなるパラドックスはありません。人間にとって敗北のしるしとさえ考えられる死というものは、見事に永遠の希望と確信をもって、よみがえられたお方と結びつく、こんなにすばらしい大いなるパラドックスはありません。
この大いなる逆説ということを改めて思います時に、聖書の中には、逆説が満ち満ちている、このように言わざるを得ません。
第二コリント12章9節にこんなことばがあります。
「『わたしの恵みはあなたに十分である。わたしの力は弱さのうちに完全に現れるからである』と言われました。ですから私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」
ここに逆説が満ちていますね。私の力は弱さのうちに完全に現れる。弱さのうちに完全に現れるのがわたしの力だ。こう聖書はいっています。
復活の主。このお墓を前に、またこれを思い巡らしますとき、ほんとうにそうだ。私たちの弱さのうちにこそ、完全な神様の力が現れるのだ。こう心底アーメンと告白をしたことでございます。
ここにその根拠があります。なぜなら、それはキリストの恵みなのです。「わたしの恵みはあなたに十分である」。神様は恵み。不十分ですから、わたしの恵みはあなたに十分だ。そうです。弱いとき、辛いとき、悲しいときに、神様はいつでも、わたしの恵みはあなたに十分だよと仰る。「キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇りましょう」。弱さは恥ずかしいもの、そのような価値観の中で世の中は動いています。しかし、福音は違うのです。弱さのうちにこそ神様の恵みが十分に現れるから、キリストの大いなる力が私をおおうために、自分の弱さをほんとうに誇ろうじゃないかと。
新約聖書のローマ人への手紙というところにあります。パウロは、この7章24節で、「私は本当にみじめな人間です。だれがこの死のからだから、わたしを救い出してくれるのでしょうか」
このように嘆いています。
しかし、ローマ8章1節に、その嘆いていたパウロは言います。
「今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません」
律法に苦しんでも、到底私は神様の物差しに適うことはできません。こんな弱い者、どうしようもない者です。しかしそこにキリストの十字架が働くとき、そこに信仰が働くとき、心は凱歌ををあげているのです。ハレルヤ。
「この故に今やキリスト・イエスに在る者は罪の定めらるることなし」(ロマ8:1)
そしてこのことを、以前の私そして今の私というように考えてみましょう。
第一コリント15章10節にパウロは
「ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました」
こう言っています。同じです。「神の恵みによって今の私になる」。このパラドックス、お分かりいただけるでしょうか。世の中の価値観は、弱い者はダメ、強くなければダメ。そういう価値観の中に世の中は動いていますけれども、しかし、弱さの中にほんとうに神様の力が現れます。
イザヤは嘆きました。「ああ、私は滅んでしまう。この私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。しかも、万軍の主である王をこの目で見たのだから」(イザヤ6:4)
ああ、もうダメだ、私は滅んでしまう。イザヤがあの神様の栄光輝く前に「私は汚れた民のうちにあって、汚れた者であるのに、栄光の主を見てしまった」。そのときに、イザヤがほんとうに「災いなるかな。我滅びなん」と自分の足りなさを自覚したときに、セラフィムが祭壇から取った燃えさかる炭をイザヤの口に触れさせて罪をきよめました。
また、ダビデは詩篇51篇の中で、バテ・シェバと通じた後に悔い改めています。
「私はあなたの目に悪であることを行いました」(51:4)「私は咎ある者として生まれ罪ある者として母は私を身ごもりました」(51:5)と告白をするほど、ダビデが罪を犯し汚れた自分自身を自覚し、ああもう私はダメだといったときに、自分の弱さをほんとうに自覚し認めたときに、キリストの恵みが、勝利がやって来ました。中途半端に頑張ってしまうからダメなんです。自分自身の弱さを神様の前にほんとうに主よ助けてくださいと出るとき、神様は、そうだよ、ようやくわかったね。そう。わたしの恵みは弱きうちに現れるんだよと仰る。むしろ大いに喜んで自分の弱さを誇ることができるのです。
ここに先ほどの第一コリント15章のことばを書いておきました。
「神の恵みによって、私は今の私になりました。そして私に対するこの神の恵みが無駄にはならず、私はこのすべての人たちよりも多く働きました。働いたのは私ではなく、私とともにあった神の恵みなのです」
自分の弱さにほんとに気づくときに、キリストの力が、恵みが現わされる。ほんとうに弱さに徹したとき、生きることができる。
「私はキリストとともに十字架につけられました。もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです」とガラテヤ書2章20節にございます。このような神様の恵みを、私たちはほんとうにアーメンと、自らの弱さを誇るというこのパラドックスを、聖霊によって経験させていただきたいと思うのです。そのパラドックスを可能にしてくださるのはキリストの十字架と復活です。ほんとうに弱く十字架で死んでくださったからこそ、生きるのです。このことを心に止めながら、今日もう一度、この第一コリント15章12~20節を読んでみましょう。
19 もし私たちが、この地上のいのちにおいてのみ、キリストに望みを抱いているのなら、私たちはすべての人の中で一番哀れな者です。
20 しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。
※データは教会からお借りしています。
⏰5時47分更新
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