きょうのことば「十字架と私」
インマヌエル盛岡キリスト教会2022年3月27日(日)のメッセージをお伝えいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で49年目のご奉仕をしておられます。
説教題 『十字架と私』(國光勝美 牧師)
引証聖句 コリント人への手紙 第一 1章18~31節
18十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。19「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、悟りある者の悟りを消し去る」と書いてあるからです。
20知恵ある者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の論客はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。21神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることがありませんでした。それゆえ神は、みこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。 22ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。 23しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが、 24ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者たちにとっては、神の力、神の知恵であるキリストです。 25神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
26兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。27しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。 28有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。29肉なる者が誰も神の御前で誇ることがないようにするためです。 30しかし、あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と、贖いになられました。31「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。
<メッセージ>
この朝は「『十字架と私』という説教題で、年会後の、そして、レントと呼ばれるご受難を格別に意識するこの数週間を、「十字架と私」というテーマをしっかりと捕らえて歩ませていただきたいと導かれております。
まず、この年会におきまして私たち二人はもう一度盛岡教会に任命をいただきました。49年目の奉仕を、ある意味1月1日からということで、進んでいることでありますが、 正式にはこの年会においてですので、いよいよ今日からだなという思いでございます。どうぞ宜しくお願いいたします。
既に週報にご案内のとおり、大きな異動というのは、教団全体から見るとありませんでしたけれども、東北教区では、青森教会に12年間労してくださいました中尾道程先生ご夫妻が引退をなさいまして、奈良に生活の場所を移動されるということであります。教区の先生方に、中尾先生方のご挨拶のメールをいただきました。ぜんぶ青森教会の個人的な荷物は既に奈良の方に送ってあるので、今は、教会をキャンプのような形で生活をしていますということでありました。新幹線がご存じのようなわけでもありましたし、たぶん新幹線が普通どおりであったとしても、たぶん飛行機で飛ばれるんだろうかなと思いますけれども、この聖日の後、区切られて奈良の方に行かれるのだろうと思いました。
また、私の同期の大分の別府の方で労しておられる徳田先生、とても大きな教会で現在は小川先生が牧しておられますけれども、数年前から協力牧師という形で関わっておられましたが、今期年会で正式に引退なさる。どうか個人的な面では大きな変化であったと、このように思っております。しかし、皆さん方にとりましては、ユーチューブでメッセージに触れる機会がおありであったということ。特に「我を呼べ、さらば我汝に応えん」とエレミヤのおことばから、小川宣嗣先生が聖会で語られたユーチューブのメッセージは今も見ることができますし、それから、宣教会で語られました岩上祝仁先生の「収穫の主が働き手を求めなさい」と切なる祈りがこめられたメッセージが、これもユーチューブにおいて見ることができます。そして、任命式、按手式というようなところは、皆様方の週報で書いてあるもので見ることができますが、おそらく任命式の方は一般では検索しても出てこないというようになっておりますが、皆様にとりましても、年会というものの雰囲気を知っていただく機会だなと思いました。
この年会、新しい踏み出しをさせていただき、十字架と私というテーマでみことばのご用をさせていただきたいと思っております。
18十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。
この十字架のことば、これは私もいつも教会の玄関にこの日のメッセージの題を表示しているので、ご近所の方々は、見るともなしに見ておられるんですね。約1年間ぐらいだったでしょうか、会堂での集会ではなく、ズームがメインになっていたので、その間はずっと説教題を書くということは致しませんでしたが、ご近所の方が、「教会に車が集まってないし、いつも日曜日の朝に玄関に出てる大きく書いたおことばが無いんですが」とご心配くださり、声をかけてくださった方もございました。一応収束して、集まってくださってもけっこう、その代わり注意をしてという形で、すこしそれが方向転換と言いますか、通常に一歩踏み出したときからは、ずっと玄関に説教題を表示しています。きょうも「十字架と私」という説教題を玄関に出してあります。これをご覧になって、ご近所の方々は、どういうように受け止められるんだろうかな。教会だから、十字架というのはシンボルなので、きっとそれなりに想像はなさるんだろうとは思います。しかし、私が今朝皆さん方とともに心したいのは、ご近所の方々が十字架と私という説教題をご覧になって意識されるようなことではなく、もうすこしきちっと十字架と、キリストの十字架と自分というものに対峙する、向き合うときを持っていただきたいとこのように思っているのです。
私自身の実体験をお話しします。ご存じの通り私はクリスチャンの背景がほとんどないまま信仰に導かれたのが大学4年の秋のことでありまして、聖書を手にしたのも1968年11月に初めてということでした。十字架ということの大切さは勿論分かっています。そして11月16日のデビッド・マーチン先生のメッセージで、イエス様を救い主として信じたい人は手をあげなさいと促されたときに、真心から手を挙げたということは確かです。ですから十字架は分かっていたはずなのです。勿論程度はもうご存じの通りですけれども、理解の程度は別として、確かに私とイエス様との十字架というものは、出会いました。対峙しました。でもそれからの実体験なのですけれども、ほんとうに乾ききった砂が水を吸い尽くすように講壇で語られる先生のメッセージ、ああなるほど、ああなるほどと心にしみわたってきた中に、おや、昨日講壇で、勿論この講壇というのはお茶の水キリスト教会館の集会のことですけれども、昨日講壇で語られたあの先生は、十字架に神の愛があらわされている、あなたは愛されているんですよと仰った。アーメンと思いながら、恵みに浴したんですけれども。今日語られる別の先生は、あなた方の罪がイエス様を十字架につけたのです。十字架は神の裁きなのですと仰った。これって、あれ、昨日の先生は愛が十字架だ、ところが今日の先生はあなた方の罪がイエス様を十字架につけたのだ。あれ、どう理解したらいいんでしょう。戸惑ってしまった。でも恵みですね。わからないから、だから自分は十字架と関係がないんじゃないんです。ほんとうに救われてましたから。この十字架の意味が知りたい、どういうことなんだろうか、知りたい知りたいという思いで、分からないこと矛盾したことをそのままにしながら神様の恵みにあったときに、この二つのものが一つになってくる。
また、これを話すと時代が分かりますが。私が小学生のころ、学習雑誌、小学一年生とか何年生とかいうような雑誌がありまして、そこに付録が付いてきたんです。家は貧しかったものですから、お前はお姉さんの学習雑誌を一緒に見ればいいということで、2つ上の姉の買ってもらっている月間の雑誌を一緒に見ていたんですが、その付録に、立体写真というのがあったんです。その当時ですからお相撲さんの写真でした。土俵入りの写真です。たぶん若乃花か栃錦かその土俵入りの写真だと思います。二つの写真は一見同じように見えるんですけれども、それを立体のぞきカメラというか、要するに双眼鏡のような簡単な箱があって、右にも左にも双眼鏡のような箱の穴に入れて、そしてその見える向こう側に横綱、たとえば若乃花の土俵入りの少しだけ角度が違った二つ、同じような写真があって、それを見ていると、ある時点で、一つにその像がなるんです。右と左、すこしちがっている土俵入りのそれが、なんとなく一つになって、一つになったと思ったらば、すこし立体的に見える。なるほどこれが立体写真なのかと妙に感心したことを思い出します。特に皆さん方も、こういうお話をしますと、ご想像はいただけるのかなと思うんですね。
そうなんです。この前の時の先生の十字架のお話しと、それから今日の先生のお話しとちょっと違う。ちょっと違うけれども、キリストの十字架の救いというところから見ると2つのものがなんとなく、ぐーっと、ああ、そうか。立体的にというか、わかった、福音とはそういうものだなあというように私は、今日、この例話が私自身が経験したときのその違いとしてお分かりいただきたいと思うのです。同じように見えた十字架ですけれども、明らかに違っているというそれはキリストの十字架というものは、罪の塊。きよい神様の前で絶対に立つことができない私という人間は、聖書という角度から見てということだけでなくほんとうに罪の塊なんだ。それをみことばから見れば、いよいよそう告白せざるを得ない。ローマ人への手紙、ガラテヤ人への手紙などなどもう読むまでもありません。
神は罪を知らない方を私たちのために罪とされました。(コリント第二5:21)
しかし、このほんとうに滅んでしまう罪の塊であるような私たちの罪を、何の罪も持っておられないお方が、私のその呪われて当然であるような 罪をぜんぶその身に背負ってくださった。そして、十字架の神の裁きをこれでもかというばかりに、徹底的に私たちの罪を神の裁きをそのうえで成し遂げてくださった。私の罪のそのすべてを、このキリストという罪のないお方が、これほどまでに私の代わりに神の裁きを受けて、わが神我が神どうして私をお見捨てになったのですかと十字架の上で叫ばれるほど罪というものの裁きをぜんぶ残すところなく受けてくださった。これ以外に私たちは罪の解決方法を持っておりません。これ以外に私たちの罪の解決はどこに行ってもありません。しかし、このとき、このお方は神の裁きをことごとく受けてくださった。ご自分を私の罪の身代わりとし神の裁きを受けてくださった。この十字架こそ、これ以外に私にはありませんと心の中で、そして口で言い表してということもロマ書の中にありますけれども。このキリストにあるその血の贖い、これ以外のものありますか。このお方の贖いの血によって私たちの背きの罪の豊かな赦しを私たちは受けているのです。
ヨハネは言います。「人が自分の友のためにいのちを捨てる事これより大きな愛は誰も持っていません」。「自分の友のために」。生まれながら神に敵対していたこんなものを友と呼んでくださる。私はここでヨハネ3章16節のおことばを、皆さんとご一緒にお読みしたいと思うのです。
神は実にその一人ごをお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者 が一人として滅びることなく永遠のいのちを持つためである ヨハネ3:16
誰も聖霊に感じなければイエスを主ということはできない、
18十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。
「十字架のことば」というのは福音ですけれども、これが、救われている私たちには神の力だというのです。神の力。いろいろな表現ができると思いますけれども、私は、
「われ活くれば汝らも活くべければなり」(ヨハネ14章19節)
神の力がいちばんはっきりと顕れるのは、復活に顕れる力です。今まですべての人をのみ込んできた、ブラックホールということばが適切かどうかどうかはわかりませんけれども、すべてのものをのみ込んでしまう、そのような中に、神の力、「われ活くれば汝らも活くべければなり」、イエス様が十字架の死からよみがえってくださった。「よみがえらされた」というのが原語の意味だと伺ったことがありますけれども、神はよみがえらせてくださる、そのお力を持っておられる。このお方に私たちが一つになっておりますから、だから私たちも生かされるのです。「われ活くれば汝らも活くべければなり」。この驚くべき神の力、ほんとうに私はお救いに与ったとき、十字架というものはキリスト教のシンボルということでしか救われる前は、ありませんでした。しかしマーチン先生のメッセージで、神の愛、イエス・キリストの十字架の救いということを聞いた時、十字架というものを初めて知ることができ、「きょうこれを受け入れる人がいますか?」と促しがあったとき、私は手をあげました。この2つのものが1つに集まって立体的にここに神の愛、神の力がある。
救われる私たちに福音こそ神の力だと教えてくれるのは、聖霊による神様の働き以外にはありません。三位一体である聖霊なる神様は私たちにイエス・キリストの十字架を示し、そして、それがあなたのためだということを知らせるために、聖霊は私たちがいかに罪人であるかということをこれでもかというほどまでに光を照らしてくださり、光を照らしてくださる聖霊様は、それ以上にそのためにといってキリストの救いの方へと私たちにスポットライトを当ててくださって、ほらここに救いがあるんだよ、と教え納得させてくださいます。
聖霊によるのでなければ、だれも「イエスは主です」と言うことはできません。(コリント第一12:3)
このようにみことばにありますけれども、ほんとうにそうです。聖霊に感じなかったのならば、誰もイエス・キリストの十字架を私の十字架と告白することはできないでしょう。
どうぞこの時、私たち一人ひとりがキリストの十字架と対峙し、向き合い、神の義と神の愛がそこにしっかりと出会い、立体として、自分の心の中に、しっかりと自分の中に受け止められますように、そのような恵みの期間をともに過ごさせていただこうではありませんか。
※音声データ、スクリーンショットは教会からお借りしています。
⏰5時47分更新
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