きょうのことば「私の主。私の神よ。」
先週はイースター礼拝でした。聖餐式に与り、また午後からは、この教会で故人となられた方々のお墓参りをしました。
☆ ☆ ☆
インマヌエル盛岡キリスト教会2022年4月17日(日)のイースター・メッセージをお伝えいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で49年目のご奉仕をしておられます。
説教題 『私の主、私の神よ。』―復活節講壇―(國光勝美 牧師)
引証聖句 ヨハネの福音書20章24~31節
24 十二弟子の一人で、デドモと呼ばれるトマスは、イエスが来られたとき、彼らと一緒にいなかった。
25 そこで、ほかの弟子たちは彼に「私たちは主を見た」と言った。しかし、トマスは彼らに「私は、その手に釘の跡を見て、釘の跡に指を入れ、その脇腹に手を入れてみなければ、決して信じません」と言った。
26 八日後、弟子たちは再び家の中におり、トマスも彼らと一緒にいた。戸には鍵がかけられていたが、イエスがやって来て、彼らの真中に立ち、「平安があなたがたにあるように」と言われた。
27 それからトマスに言われた。「あなたの指をここに当てて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、私の脇腹に入れなさい。信じない者ではなく、信じる者になりなさい。」
28 トマスはイエスに答えた。「私の主。私の神よ。」
29 イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じた人たちは幸いです。」
30 イエスは弟子たちの前で、ほかにも多くのしるしを行われたが、それらはこの書には書かれていない。
31 これらのことが書かれたのは、イエスが神の子キリストであることを、あなたがたが信じるためであり、また信じて、イエスの名によっていのちを得るためである。
<メッセージ>
今日は、「私の主。私の神よ。」という題でイースター・メッセージをお取り次ぎさせていただきます。
前回「地の果てのすばての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。」(イザヤ書45:22)、私たちはイエス様のご受難の十字架におもいを致したことでございます。たしかに、このキリストの十字架こそ福音の中心であるといってさしつかえございませんが、しかし、十字架ですべてが終わってしまったとするならば、それは違います。イエス様の十字架はいつでもその復活と表裏一体を成しているものだからです。ここに私たちのたしかな希望、たしかな栄光を見ます。
私たちはクリスマスの時にイエス様のお誕生をいつも心に止めますように、この受難週からイースターのときには、イエス様のご復活ということを、毎年毎年教会で心を止めていることでございます。イエス様がアリマタヤのヨセフの墓に葬られたこと、そして、イエス様の「わたしは三日目によみがえる」ということばを耳にしていた者たちは、もしほんとうにこのようなことが起こったのならば、これは一層大変なことになるということで、イエス様の亡骸を葬った、その日本とは違う横穴式の、その入り口に大きな大きな石をもって塞いでしまいました。そして誰もこれを開けることがないようにということで、ローマの皇帝の印、封印をいたしまして、誰も開けられないように、そして兵隊たちも番をしてこのようなことが起こらないようにしていたわけであります。
しかし十字架の金曜日の後、日曜日、私たちはそれを今日迎えているわけですけれども、朝に墓に行ってみましたのならば、その墓穴の石が転び去られて、イエス様の亡骸はすでにそこにはありませんでした。このようにイエス様の復活というできごとが、ほんとうに、こうお話ししていて、またメッセージの準備をしていて、ほんとうにアーメンと思うのですけれども、このことが実際に起きたからこそ、福音、キリスト教と呼ばれるキリストの福音というものがあるのであって、もしこの復活の事実がなかったのならば、福音はなかった、そう思うと一層この今朝のイースターの出来事は大きな大きな意味があるというように思います。
その時に色々なエピソードがあるのですが、きょうは、一つのエピソードに心を向けたく思っています。それはお弟子さんたちです。お弟子さんたちは、イエス様を十字架につけた勢力が、イエス様の弟子たちのグループを同じような目に遭わせようと狙っていると怖れまして、ペテロはじめお弟子さんたちは、一つところ、部屋に鍵をかけて、止まって居りました。よみがえられたイエス様は、鍵が掛けられいたにもかかわらず、弟子たちがいた部屋に、私たちの今の肉体とは違う次元の肉体なのですが、もはやそういう制約を受けないで、その部屋に入ってお弟子さんたちの前に現れました。「ほら私だよ」。よみがえられたイエス様はお弟子さんたちの前に自らが現れなさった。よみがえったご自分を、はっきりと示されました。しかしそこに一人トマスというお弟子さんが、どういう理由かは分かりませんけれども、ちょうどイエス様が復活をされたその場面にトマスだけはいなかったのです。しかしやがてトマスがそのグループに戻ってきたとき、お弟子さんたちが、「おい、トマス、トマス、こういうことだったんだよ」。といって、よみがえられたイエス様がご自身を現してくださったことを伝えました。
トマスは、あまりに想像を超えた出来事でしたので「信じられないね、あなたたちは自分たちの集団的な幻想をもってそんなことをいったんだろう。私はイエス様の脇に傷跡があるのを、手に傷跡があるのをちゃんと自分で見るまでは、そんなことは信じられないよ」。トマスは言いました。しかし、イエス様はちゃんとそのことを聞いておられたのですね。1週間後です。今度は弟子たちと一緒にトマスはいました。「トマス、見てご覧。わたしだよ。さあ、脇腹に手を入れ、さあ手の釘跡を見てご覧」。トマスにイエス様はご自身を現してくださいました。その時、トマスは、「私の主、私の神よ。」。そこでイエス様は仰ったのです。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ないで信じた人たちは幸いです。」
きょうは「私の主、私の神よ。」というこの一つのトマスの言葉に注目をしてみたいと思っています。
みなさんはこのトマスの言葉をどのように考えなさるでしょうか。「私の主、私の神よ」。当時のユダヤの人たちにとってこれはあり得ない言葉だったのです。ユダヤの人たちは神様の名前を決してみだりに口に出してはならない。ですから、よくこれは言われているのですが、文語訳聖書で「エホバ」ということばがあります。そのように訳されているのですけれども、ほんとうはどのような言葉で神様のお名前が言われていたのかということは、ユダヤの人たちは代々決して神様のお名前を出さないように、この聖なる畏れをもって、ずっと神様のお名前は主という言葉で表す以外なかったのです。ですから、ほんとうはどのような発音をされたのかということは、あったんでしょうけれども、もうわからなくなっていた。しかし現在の学者たちがへブライ語の発音というもの、やはり、聖なる探求心をもって研究して、たぶんこのお名前は「ヤーベ」と発音をするのだろうと、だいたいの方々はそのように言っております。それほど神様のお名前を言うということはユダヤの人たちにとっては絶対にあり得ない。その時、トマスはイエス様に対して、「私の主、私の神よ」。これはよく日本人がびっくりしたときに発するような単純な感嘆の言葉ではない。むしろ、トマスはあまりの出来事の大きさゆえに、「ほんとうに神様なんだ」、この表現をトマスがしたということは、それ自体ものすごく大きな意味があることなのです。これは日本人的な感覚で、「まあ」といった感嘆の言葉というようなことをはるかに超えたものすごく大きな意味のある言葉なのです。そしてそれをよくよくご存じの主イエス様はその言葉をしっかり受け止めなさった。否定されるのでもなく、「トマス、よく言った」。イエス様はこれをしっかりと受け止めなさった。ほんのちょっとだけ横道に入りますけれども。
所謂わたしたちのような正統的な信仰から外れた方々は、イエス様は神様ではないというような信仰を持って表している人たちがいますけれども、しかしトマスが、「私の主、私の神よ」と心の底から告白したときに、イエス様はそれを100パーセント受け止めていらっしゃる。このことをもってしても、イエス様が神様ではないということなどは到底あり得ない。イエス様こそまことの神様でいらっしゃる。これを信仰告白、トマスの信仰告白といいますし、これを私は、「私の信仰告白」とこの朝、共に確認をさせていただきたく思うのです。
その時、信仰告白というときに、私はペテロの信仰告白のことを思い起します。これはこの講壇からしばしばマタイ伝の16章のところから、イエス様がピリポ・カイザリヤのほうに退かれたとき、弟子たちに、いよいよ御自分が十字架を前に、これからエルサレムの方にのぼっていかねばならない。お弟子さんたちとのお別れのある意味最後のクライマックスのようなときに、イエス様は、お弟子さんたちを集めてヘルモン山近くの、ピリポ・カイザリヤと言われる地方に退かれて行きました。その時イエス様は、「人々は私のことを誰といっているのか」と尋ねられます。「はい、人々はあなたのことをエリヤだとも或いは預言者の一人とか言っています」。「じゃ、あなた方はわたしをだれと言うか」。そのときに、右代表のようにペテロが「あなたは生ける神の子キリストです」。この信仰告白をイエス様は引き出したく願っておられた。「よしよく言った。このことをあなた方に、あなたに示したのは、血肉ではない、天にいる私の父だ」。この信仰告白。「あなたはわたしをだれと言うか」。イエス様は今でも私たちにそのように問いかけなさっております。聖霊なる神様が私たちにこの信仰告白を可能にしてくださるのです。
今日の私のメッセージは、「私の主、私の神よ。」ここに集約させていただいております。「私の」、です。「私の主」、誰彼の、或いは学説のというようなそういう知識ではなくして、私が今ある、私のこの主である。そして、私の神である。ですからこそイエス様の十字架の贖いがまことに私のものであり、そしてイエス様を、十字架の贖いを信じているとき、この復活こそ私の希望であり、私の栄光なんです。今日これから聖餐式を共にさせていただきますが、どうか、「私の主、私の神」、この告白をもってイエス様の十字架の贖い、復活の恵み、聖餐式に臨ませていただきたく存じます。
※データは教会からお借りしています。
⏰5時39分更新
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