インマヌエル盛岡キリスト教会2022年4月3日(日)のメッセージをお伝えいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で49年目のご奉仕をしておられます。

説教題 『十字架と私』(國光勝美 牧師)
引証聖句 コリント人への手紙 第一 1章18~31節
18十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。
19「わたしは知恵ある者の知恵を滅ぼし、悟りある者の悟りを消し去る」と書いてあるからです。
20知恵ある者はどこにいるのですか。学者はどこにいるのですか。この世の論客はどこにいるのですか。神は、この世の知恵を愚かなものにされたではありませんか。
21神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることがありませんでした。それゆえ神は、みこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。
22ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。
23しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えます。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かなことですが、 24ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者たちにとっては、神の力、神の知恵であるキリストです。
25神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強いからです。
26兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。
27しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かな者を選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱い者を選ばれました。 28有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。
29肉なる者が誰も神の御前で誇ることがないようにするためです。
30しかし、あなたがたは神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と、贖いになられました。
31「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。
<メッセージ>
今週は「私の十字架」と題しまして、主イエス様と私たちの十字架に関わるメッセージをと導かれております。
前回は「十字架と私」というテーマでメッセージを取り次がせていただきました。イエス様の十字架と私がどのような関わりをもっているのか。そしてその十字架は、一面において罪の裁きである。またそれこそが神の愛のあらわれであるとも。神の裁きと神の愛というこの二つが、聖霊なる神様のお働きによって一つとされる。そのことを前回は語らせていただきました。そして今日の聖書朗読の中にもありましたけれども、聖霊なる神様の働きによらなければ、誰もイエス様の十字架の意味を悟ることはできません。要するに、この地上における人間の探求によって分かるのはキリストの十字架とその救いであって、つまり、それだけでは福音ではないということ。聖霊なる神様の働きによってのみ、初めてそれを私たちは自分のものとして受け取ることができるわけであります。
すこし改まった言い方をしますと啓示ということばがあります。それは、今まで真理を覆い隠していたベールがぱっと取り除かれたときに、ああ、こういうことなんですか、というように隠されていたものが分かる。つまり、十字架の福音というのは、啓示によってはじめて私たちが肯くことができるものであります。そして、それは、分かりました。罪が分かりました。また、その私の罪のためにイエス様の身代わりの十字架がある。贖いの十字架があった。わかりました。もうこれを私は受ける以外にありません。ほんとうにただただ神様のご愛に、恵みに浴する以外にありません。もっと別な言い方をすると、神様から恵んでいただく以外には方法がない。私は自分の功(いさお)しによっては何一つすることができません。
人は何らかの対価として、これだけのことをやったのだから受けられるという場合には、素直に受けることができる。肯くことができ、落ち着きどころがある。しかしそんなものは何の意味もありません。ただただ、憐れんでいただく以外にありませんという場合には、それはある意味人間にとって一番屈辱的な救いの方法です。でも、これこそ一番屈辱的な救いの方法、ただ憐れんでいただくのにすがる以外ないということこそ神の知恵に適う。これこそ、傲慢によって堕落をしてしまった人間が一番したくないことなのです。憐みにすがる以外にないというこの十字架の恵みということに、私はそれが必要ですという心からの肯きを持った者のみが初めて知ることができる。信仰によって救われるとはそういうことです。これが、キリストの十字架と私との関係であります。
今日は、この「私の十字架」というテーマで、もうすこし掘り下げていきたく願っております。
ここに掲げた「私のための十字架」、「私の内の十字架」、「私の負う十字架」、の三つのテーマのうち、特に「私の十字架」ということを扱わせていただきたく願っております。
「私のための十字架」、「私の内の十字架」、「私の負う十字架」。もうこれは皆さん、何を意味しているかお分かりでしょう。前回の「十字架と私」というとき、「私のための十字架」、このことがイエス様の十字架の身代わりということ、そして、神の裁きということがどういうことであるのかを前回語らせていただきました。
私は大学を卒業する4年の秋に信仰に導かれクリスチャンとなりました。そして、あくる年の4月には、会社に就職をし、そこで、全力を尽くそうとの思いでいたのですけれども、しかし、どうしても心の中に、自分はこのところにいてはいけない。牧師になる道を選ぶべきではないのだろうかということが心に深く迫ってまいりました。ほんとうに当時のことが思い出されます。具体的な行動をとるには、先ず今自分が働いております営業所長さんに、このことを言わなければならないと思いました。
「実は、牧師になるために営業所を辞めたいと思います」。所長さんもびっくりしたんですが。所長さんが言いました「きみはどこ出身だったっけ」「長野県の松本、浅間温泉というところです」「浅間温泉、聞いたことあるなあ。知ってる知ってる、俺の親戚のいるところだ。きみ坂口酒店って知ってる?」「知ってます、浅間温泉の旅館街の中で一番大きな酒屋さん」「あれね、俺の親戚なんだよ」。不思議な感じがしました。だからといってどうのということもないんですが、まさかそこにそういう人が所長さんだったとは。「きみはまだ若いからそう言うんだ。私はきみより人生経験があるから」と一生懸命に私を止めてくださったんです。そんなことがふと今思い起されました。
さあいよいよ両親にこのことをきちっと会って話をしなければならないと思いました。松本の浅間温泉の家に、こういうことで、そうなりますと伝えました。
よくお話ししている通り、私の家は満州から引き揚げてきております。一族郎党を引き連れて行ったのが、私の母のすぐ上のお兄さん。満州で一旗揚げるということで一家を率いていった、そして、まさか敗戦です。苦労しながらやっと帰国し、そして、盛岡でいえば奥中山のような山に入って開拓に従事した。その伯父が、やはり母方の親戚の内では一番力がある中心的な伯父さんです。浅間温泉からちょっと山の方に入っていった山の中で開拓していた。その伯父さんが、私がこういうことで会社を辞めて牧師になると決意したと言ったとき、ほんとうに親身になって怒ってくれたんです。「勝美、人間の醜さってえものを知らねえから牧師になるとか、人間が罪びとだとか。てめえ、罪びとってことがどういうことかわかるか」。こちらが言いたいことなんですけれども、しかし、伯父さんは伯父さんなりに、「俺は満州で人間の醜さ、残虐さをイヤというほど見てきた」。まさに命を賭けて逃避行できたほどの伯父さんですから、「てめえのようなまだ尻の青いものに、人が罪びとだとか何をぬかすか」こういう言い方だったんです。それはほんとうに伯父の真剣な説得でありました。私はその時、どういうようにその話を終えたのか覚えていません。しかし私が帰った後、やっぱり松本の両親はショックであったし、そして両親は、伯父から「勝(父)、きみ子 (母)、てめえの育て方がいけねえから」と徹底的に絞られたそうです。
なぜこんな話をしたか。私は伯父さんが満州で経験した人間の残虐さ、野蛮さ、それを直に知ってはいません。だけれども、人間というものが、それほどんのものであって、そしてイエス様は、まさにそのような人間の野蛮さと罪深さを十字架の上で一身に負ってくださった。それはまさにおじさんのそれではない、私自身も同じ者なんだ、この私のためにこのお方が身代わりとなって神の裁きを受けてくださったということを、ほんとうに聖霊によって知らせていただきました。
「私のための十字架」、22歳の時にお救いに与って今日まで、この「私のための十字架」という、自分の罪とその故の神様のご愛というものは恐らく、ずっとずっと深く深く知り続ける生涯なのだろうなと私は思うのです。「私のための十字架」、どうか皆さん方、自分が初めてイエス様の十字架の恵みを知った、自分の罪を本当に知った。そしてそのキリストの愛を知った、それをどうか深め続けていただきたい、このように思うのです。
もう一つ、私のための「私の内の十字架」。これは先ほどお話しさせていただいた「私のための十字架」という自分の罪深さ、そして神の赦しという、罪というものは分かれば分かるほどこの罪を持ったままで、この罪のほんとうの解決がなされないままで、クリスチャンということは凡そあり得ない。これをきよめという表現を使うかどうか私たちはもう大胆にこれをいうのですけれども、自分の罪が分かれば分かるほど、このキリストの愛がわかる。そしてこのイエス様がわがうちにある罪をきよめてくださる。
第一ヨハネ1:7「其の子イエスの血、すべての罪より我らを潔む」
そして
ガラテヤ書2章19、20節「19 しかし私は、神に生きるために、律法によって律法に死にました。私はキリストとともに十字架につけられました。20もはや私が生きているのではなく、キリストが私のうちに生きておられるのです。今私が肉において生きているいのちは、私を愛し、私のためにご自分を与えてくださった、神の御子に対する信仰によるのです」
このキリストの十字架、このきよめの信仰をほんとうにアーメンと告白する生き方をともにさせていただきたい。だから、よくお救いに与ったとき、きよめ派だからきよめというんだとか、そういうことではまったくなくって、ほんとうに罪というものがわかり、ほんとうにキリストの十字架が何のためであるかということが分かって、罪の解決がキリストにある。そして、十字架の血潮によってそれは信仰によってのみ受けられるということが分かったのなら、人はこのきよめの信仰に進むのが極めて当たり前のことなんだ。特別なことでも何でもない。どうか、わがうちにあるキリスト、わがうちの十字架、アーメンと肯かせていただきましょう。
そして今日はもう一つは、「私の負う十字架」
マタイ10章38節「自分の十字架を負ってわたしに従って来ない者は、わたしにふさわしい者ではありません」
皆さまはイエス様の十字架の場面、福音書でご存じのあのときに、イエス様が十字架を担がせられて刑場への道を歩むのですが、ついに疲労困憊、倒れてしまったときに、ローマの兵隊はこの騒ぎを見に沿道に来ていた一人の屈強なクレネ人シモンに、「この男の代わりに十字架を担いで刑場まで行け」と命じます。ただ見物をしていたこのことには何も関わりがなかったクレネのシモンがイエス様に代わって十字架を負いました。きょうはこのことには詳しく触れませんけれども、それが彼の生涯に大きな祝福の原点となったということを私たちは知っています。
思わずもキリストの十字架を背負う人生を歩む。それぞれの人生がありましたけれども、ある時にキリストの十字架に出会い、そして神のご愛に触れて、キリスト共に十字架につけられたりというこの恵みの中に生きているときに、イエス様と一緒に働くことができる。イエス様のお手伝いをすることができる。皆さん方で、もし失礼でなかったのならば、お仕事をしておられるそのお仕事の中で、教会に献金をささげてくださる、どれほどの大きな恵みでしょうか。これもまたキリストの十字架を負わせていただいてるのです。
マタイ16:24だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従ってきなさい。
伝道会の時にしばしば開かれるマタイの11章28~30節のおことばを読ませていただきましょう。
28すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなた方を休ませてあげます。29わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。30わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。
イエス様は、さあ私と一緒にくびきを負わないか。そうすれば魂に安らぎを得ますよ。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからですと言っておられる。
自分の生涯の中で、キリストの十字架をともに負わせていただく、「私のための十字架」、「私の内の十字架」、「私の負う十字架」これは「私の負わせていただく十字架」ですが、これが「私の十字架」であります。
18十字架のことばは、滅びる者たちには愚かであっても、救われる私たちには神の力です。(第一コリント1:18)
「私の十字架」、これをしっかりと心に止めさせていただきましょう。
※データは教会からお借りしています。
⏰6時12分更新
たった今眩しい曙光が夥しい矢を放ちはじめました。
平和を祈りつつ。
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