きょうのことば「地にては旅人」
インマヌエル盛岡キリスト教会2022年3月20日(日)のメッセージをお伝えいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で49年目のご奉仕をしておられます。
説教題 『地にては旅人』(國光勝美 牧師)
引証聖句 創世記12章1~4
1 主はアブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。
2 そうすれば、わたしはあなたを大いなる国民とし、あなたを祝福し、あなたの名を大いなるものとする。あなたは祝福となりなさい。
3 わたしは、あなたを祝福する者を祝福し、あなたを呪う者をのろう。地のすべての部族は、あなたによって祝福される。
4 アブラムは、主が告げられたとおりに出て行った。ロトも彼と一緒であった。ハランを出たとき、アブラムは七十五歳であった。
<メッセージ>
この朝は「地にては旅人」と題しまして、年会のある週に向かい、講壇のみことばの御用をさせていただきたく導かれております。
1 主はアブラムに言われた。「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。
何度か週報でもお知らせしておりますが、3月23、24日の両日には教団の第77次年会がございます。聖会、宣教会が開かれ、最終日には宣教師、牧師の任命式が執り行われます。非常に意味のあるものです。
このようなコロナの影響がなかったときには、私はだいたい年会のある週に、盛岡教会で発行しております文集「葡萄の樹」を作りあげてから年会に出発したものです。昔の年会の会場は九段会館でした。だいたい最終日曜日が年会でした。桜は満開です。青山学院の講堂をお借りしての年会がしばらく続いたことも思い起します。盛岡からも九段会館や青山学院講堂での年会に出席された方が多くいらっしゃいます。あの桜の咲いている下でお弁当を使いながらということもありました。
すこし横道に逸れますけれども、年会に行くときは子どもたちも一緒です。盛岡での日曜礼拝が終わりますと、さあ年会にいくぞということで、車の屋根にスノータイヤを積み、高速道に入るときにスタッドレスに交換。慣れない自動車道でしたけれども、だいたいは車で、家族そろって年会に出席します。そして任命式が終わった後は、年に一度のこういうときなので、私の実家の松本の方に車を走らせ、そして、松本で数日過ごしました。帰りは、松本からこんどは軽井沢の方を通り、碓氷峠を通って、群馬の方へ出ます。それから東北自動車道に乗って帰ってきました。
年会となりますと、教会もそうですけれども、牧師たちにとりましても、また格別な意味合いがあります。それは、自分がご奉仕させていただく任地、私の場合には開拓からずっと盛岡に任命をいただいて今に至っているわけですけれども、この時に、もうひとたび自分自身の原点を確認させていただく、それが年会を前にしたきょうの任地における最後、これは年会に行くにあたってのという意味なのですけれども、それを締め括る講壇でもあります。
このとき、自分が牧師となったきっかけのおことば、それを確認させていただきたいと導かれまして、創世記12章1節のおことばを選ばせていただきました。ここに、私の牧師として遣わされ、奉仕をさせていただいた原点があり、またこれによって今に至らせていただいた信仰の証しでもあるとこのように思っているわけであります。
振り返りますと、1968年に私は大学の4年を迎えておりました。その6月に、一応自分の希望していた会社に内定いたしました。そんな中に不思議なことに、神様から恵みをいただいたのでしょう、自分はこれからの生涯をこの会社で過ごすことになったけれども、しっかりとした自分の生き方を確立してはいない。しかし私はどうしても、聖書というもの、これをしっかりと自分なりに向き合ってそれから社会人として踏み出したいという思いでした。これは神様の導きとしか言いようがありません。
そんな中に、11月に、お茶の水の当時の学生キリスト教会館でダビット・マーチン先生の集会がありました。そのときに住んでおりました場所が大田区の雪谷です。小さなアパートでの自炊生活でした。そして雪谷伝道所に導かれました。
翌年に卒業して新入社員となったわけであります。どこに配属されるかはその時点ではまだ分からなかったのですけれども、会社の人事の方に、「お出しした履歴書の中で、一つだけ訂正するところがあります」と申し出ました。「何だね」。「宗教欄に、仏教と書いたはずなんですが」。日本では仏教がふつうですので仏教と書けば間違いないだろうと思って書いたのが6月の内定が決まったときのこと。それからいきさつでクリスチャンになったものですから、「すみません、キリスト教と書き直してもらいたいのです」。こうお話ししました。配属がどこになるか。営業所は日本全国あります。「じゃ君はどこに配属されてもいいんだね」。「はい。いいです。ただ行っている教会が丸の内教会ですので、敢えて希望といえば、丸の内教会に通えるところがいいなあと思っています。それが私の希望です」。「君はこれを見ると、実家が松本の方で、実家はお姉さんが継いでいるとなっているからどこでもいいね」。「はい、いいです」。そういうことで、そのあと何と決まったところが有楽町の一つ隣の山の手線の新橋というところ。新橋レコード営業所というところに配属されました。ですから、もしあのときに違うところに行っていたなら、信仰を持ったばかりのまだハイハイの段階の自分がどうなっていただろうかなと今でも思うのです。丸の内教会、そして、雪谷伝道所というところで、薫陶をいただき、そこで、ほんとうの福音というものを叩きこまれた、こういう言い方がいいかどうかわかりませんけれども、本物のキリスト教というものに、福音というものに養われたときでありました。
そして、これは折々に今まで申し上げたことがあるのですけれども、そこでの働きの中で、ほんとうに私はこの会社で、一生を送っていいものなんだろうか、どうだろうかという突き詰められた自分自身の選択を真剣に祈り求めていたときに与えられたおことばが、この創世記の12章1節からのおことばでした。
1「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい。
これを当てはめてみるのならば、松本から離れて横浜の神学校に入った。離れました。親族からもその意味で離れました。父の家からも離れました。そして神学校でご訓練を いただいた後、いよいよ年会がありまして、1974年3月29日がその年会の時でした。任命式では北から呼ばれます。4番目に「盛岡、國光勝美」と呼ばれ、そこで、「ハイッ」と返事はしました。そして任命が終わった後、呆然としておりましたときに、その当時の東北教区の教区長であった河村襄先生が私の所に近寄って来られて、そして「宜しく。君に渡したいものがある」と言われました。「何でしょう」。河村先生から分厚い封筒を手渡されました。私はお札が重なって入っている封筒というものをそれまでの人生で受け取った経験がなかったのです。「ここに盛岡開拓のお金がある」と、その時50万円だったと記憶しています。「ここにアパートのカギがある。これで盛岡の開拓をお願いします」。
ですから、年会を牧師が意識するのはそういうことが経験として原体験としてあります。そしてあとは皆さんご存じの通り、この約半世紀、この場所でご奉仕をさせていただきました。
これからが、導かれているきょうのみことばをお取り次ぎしたいところでありますけれども。
私たちはこの地上の旅人であるということ。この地上における旅人というとき、これは一人の人間として皆さん方が、この地上における旅人である。改めてそのように思うのです。 イザヤ書の46章の3~4節にありますが。
3 胎内にいたときから担がれ、生まれる前から運ばれた者よ。
4 あなたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す。
私が胎内にいたときから、神様はこの者を担いで、生まれる前から神様のご用をする牧師として選んでいたのだ。畏れ多いような言い方になってしまいますけれども、私はこの神様のおことばをかたじけなくアーメン、有難うございます。神様はこのような者を胎内にいたときから担いで、生まれる前から選んでくださった。そしてあなたが齢をとっても、つまりこれまでと同じようにする。あなた方が白髪になっても私は背負う。私はそうしてきたのだ。私は運ぶ。背負って救い出す。これは、ただに私個人を自分で励ましていることだとそれだけではけっしてなく、これは皆さんがたお一人おひとりに適用されるべきものです。皆さん方自分で好きこのんで生まれてきた人は一人もいません。気が付けば、私が生まれていた。それが、例外なく。でもその時に、あー、神様はこの私をこの世における旅人して胎内にいるときから、そして白髪になっても、ずっと神様はともにいてくださる。つまり、いちばん上の所に書いてある
「あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしが示す地へ行きなさい」。
神様のお示しになるところに行くというそのコンパスで、その通りに歩んでいくのならば、この世の旅人として神様が必ず責任を取って導いてくださる。わたしはそれを断言させていただきます。神様のお声に従って、神様の教えに導かれて、信仰を持って進んで行くこの地上の旅人。神様が責任を持って私たちを導いてくださいます。そしてどうでしょうか、私も皆さん方も、この地上における旅人として苦しい時がありました。しかし、この地上においては苦しいこと辛いことがありますけれども、「彼らが苦しむ時には、いつも主が苦しみ、主の臨在のみ使い、これはイエス様のことですが、イエス様が彼らを救ってくださる」。その愛と憐れみによってイエス様は彼らを贖い、昔からずっと彼らを担い背負ってくださった。
マーガレット・F・パワーズの「あしあと」という詩があります。
ある夜、わたしは夢を見た。
わたしは、主とともに、なぎさを歩いていた。
暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。
どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。
ひとつはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。
これまでの人生の最後の光景が映し出されたとき、
わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。
そこには一つのあしあとしかなかった。
わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時だった。
このことがいつもわたしの心を乱していたので、
わたしはその悩みについて主にお尋ねした。
「主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、
あなたは、すべての道において、わたしとともに歩み、
わたしと語り合ってくださると約束されました。
それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、
ひとりのあしあとしかなかったのです。
いちばんあなたを必要としたときに、
あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、
わたしにはわかりません。」
主は、ささやかれた。
「わたしの大切な子よ。
わたしは、あなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。
ましてや、苦しみや試みの時に。
あしあとがひとつだったとき、
わたしはあなたを背負って歩いていた。」
歩んできたあしあとがある。これが今まで歩んできたあしあとだよ。そこにいつも自分のあしあとと一緒にイエス様のあしあともあった。わたしはあなたと一緒にいただろう。ありがとうイエスさま。けれども私が自分の人生の中でいちばん辛かったとき、そこには私一人のあしあとしか見えませんが。いちばん私があなたを必要としていた時だったのです。どうしてあそこが二人のあしあとではないんですか。そのときは、わたしがあなたを背負っていたのだ。だからひとりのあしあとだけなのだ。このような意味の詩です。
彼らが苦しむときにはいつも主も苦しみ、主の臨在のみ使いであるイエス様ご自身が彼らを救い、愛と憐れみによって彼らを贖い、昔からずっと彼らを背負い担ってくださった。
この地上における旅人、それはイエス様が差し示していてくださるその場所に行くそのプロセスのことです。わたしが示す地へ行きなさいという旅の中で、いつでもイエス様がこのようにしていてくださるのです。
最後に異次元世界の旅人などというちょっと持って回った言い方をしてしまいましたが、それが一番言いたいところなのですが。
私たちは異次元世界への旅人としてこの地上を歩いているのです。人それぞれのコースがあります。あの人のようにではない、この人のようにではない。神様はその人その人に別々のプロセスの人生を用意しています。そして今のようにイエス様の行けという道を歩んでいくときに、主はともにいてくださいますが、一番の究極は何でしょうか。 それは私たち例外なしに訪れる死という、この世を締めくくって、そして次の別の次元へ旅立つとき。
今日はへブル11章13節だけをご紹介いたしますけれども、
13これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものを手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。
この地上にいろいろな歩みを、人生をおくられた人たち、私たちも含めて、一番の究極は何かというと、その一番最期の時に、この世とは別の次元、そこへ旅立つ者たちなのです。その祝福された天国という、天国というのは、私たちが歩んでいるこの世ではありませんから、その意味で異次元ということばを敢えて使わせていただきました。この世にある私たちの今の次元の中に、天国、イエス様が用意していてくださるすばらしい天国がある。
そこには、この次元において何をどう極めても、その異次元に行くことはできない。どんなに人間があがいてもその次元に行くことはできない。
ただ一つ、その天国という異次元のところから非常手段のように神の御子が、この次元、私たちの世に道を付けてくださった道があるだけです。「わたしが道です。いのちです」と、イエス様が、異次元からその道だけを通って行ける道を、つまり異次元に通じる、その穴を、ブラックホールのようなことを言ってしまいますけれども、通じるその道をイエス様が作ってくださった。私たちには、このイエス・キリストが、神の御子がすべてを注いで開いてくださった異次元に向かう通り道がある。それを入ることができるのはただ信仰です。私たちがただ信仰をもってその異次元に通じるその道を行くとき、そこにほんとうの私たちの行くべき道がある。私が示す地というのはそこなのです。神様が私たちに、あなたが行くべきところはどこかと。はい。それはイエス・キリストの十字架によって開かれた異次元に通じる道をイエスキリストの十字架の贖いを信じるその信仰によって、そう、「わたしが示す地」へ行きます。
13これらの人たちはみな、信仰の人として死にました。約束のものをこの世においては手に入れることはありませんでしたが、はるか遠くにそれを見て喜び迎え、地上では旅人であり、寄留者であることを告白していました。
地上ではそう、私は旅人ですよ。ここが究極的にいるところじゃない。私がほんとうにいるべきところはあそこです。神様が示される祝福される場所、その異次元への道を、私は畏れ多くも水先案内人のように、こんなものが盛岡に来て、さあ、ここに道がありますよ。こう示させていただいたのです。どうか、皆さん方が、この皆さん方に示されるほんとうの究極の場所、「わたしが示すこの地」、それは栄光の天国です。イエス様と共にある祝福されているところです。そこに行かせていただこうじゃありませんか。このご奉仕をさせていただいて私は物理的にはこうやって盛岡にいますし、任命がまた盛岡ということもありますけれども、しかし、一つの大切なけじめといいましょうか、それとして、私が示すその地へ、皆さん方と一緒に、信仰を持って進ませていただきたいと願っております。
※スクリーンショット、音声データは教会からお借りしています。
⏰5時54分更新
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