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きょうのことば 『聖言』と『導き』

インマヌエル盛岡キリスト教会2022年36()のメッセージをお伝えいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で48年目のご奉仕をしておられます。

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説教題 『聖言』と『導き』(國光勝美 牧師)
引証聖句 イザヤ301824
18 それゆえ主は、あなたがたに恵みを与えようとして待ち、それゆえ、あわれみを与えようと立ち上がられる。主が義の神であられるからだ。幸いなことよ、主を待ち望むすべての者は。
19 ああ、シオンの民、エルサレムに住む者。もうあなたは泣くことはない。あなたの叫ぶ声に応え、主は必ず恵みを与え、それを聞くとき、あなたに答えてくださる。
20 たとえ主があなたがたに、苦しみのパンと虐げの水を与えても、あなたを教える方はもう隠れることはなく、あなたの目はあなたを教える方を見続ける。
21 あなたが右に行くにも左に行くにも、うしろから「これが道だ。これに歩め」と言うことばを、あなたの耳は聞く。
22 あなたは、銀をかぶせた刻んだ像と、金をかぶせた鋳物の像を汚れたものと見なし、不浄の物としてそれをまき散らし、これに「出て行け」 と言う。
23 あなたが土地に蒔くあなたの種に主は雨を降らせてくださる。それで、その土地の産する食物はみずみずしく豊かである。その日、あなたの家畜の群れは広々とした牧場で草をむ。
24 土地を耕す牛やろばは、シャベルや熊手でふるい分けられた味の良いまぐさを食べる。

<メッセージ>

この朝は『聖言』と『導き』という題です。私たちの信仰生活において、極めて現実的な、ある意味、日々このことについて教えられ、考えさせられる『聖言』と『導き』、これに焦点を合わせたく願っております。きょうは特にイザヤ書3021節、このおことばだけに集中して恵みをいただきたいと願っております。


21 あなたが右に行くにも左に行くにも、うしろから「これが道だ。これに歩め」と言うことばをあなたの耳は聞く。
 
これは聖書だからこういう表現なのか、これを自分の問題としてとらえるときに、いったいこれは何を意味するのだろうか。ここでもう一つ思い起すおことばは、
「わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。」(ヨハネ1027)

「わたしの羊たち」の「わたし」というのは主イエス様ですから、主イエス様というよき飼い主に属し導かれている私たち羊は、イエス様のお声を聞き分けることができる。そして「彼らはわたしについて来ます」とイエス様は仰る。
「イザヤ30:21なんぢ右にゆくも左にゆくもその耳に これは道なりこれを歩むべしと後邊(うしろべ)にてかたるをきかん」(文語訳)と合わせ考えますとき、私たちは主イエス様のお声を聞くことができる。また、もっといえば聞かなければならない。

 その道を右か左かちゃんとわきまえるように。そして、「その道」にまた思いをいたしますとき、
ヨハネ146節わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれも父のみもとに行くことはできません
 このおことばが深く心に留まるのです。「わたしが道なんだ。右に行くにも左に行くにも、うしろでこれが道である、これを歩みなさい」という声がする。これに聞こうではないかと仰るイエス様。私たちはイエス様と共にイエス様のお喜びになる、イエス様が指し示してくださるその道を、つまり、それは天国に通じる、父のみもとに続いている道です。地上における旅路の選択肢をきちっとわきまえて、「これは道なり、これを歩むべし」と選択をし、導かれていきたいものです。

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 先ほどまで申し上げましたことは、イエス様の導きについて考えるときの前振りとでもいうべきものです。きょうの大切なポイントの前振りをさせていただきました。
 それはわかった。じゃ、自分自身の現実問題として、どうしたのならば実際にこちらを選ぶべきか、もう一つを選ぶべきか、もうすこし詳しく聴きたくなるでしょう。

 私が救われて信仰生活を始めたまもないころを思い出します。日曜日の午前礼拝は丸の内教会で、週半ばの祈祷会、そして日曜夜の伝道会は雪谷伝道所でまもり、養われ導きを受けておりました。雪谷伝道所の責任者は國光幾代子先生です。そういうこともあり、雪谷伝道所は女子神学生の実地訓練のような場所となっておりました。
 よく「救いの証し」が語られました。入学した女子神学生の何々さんが自分の救いの証しを、或いは、あの時にはこうこうでしたと自分のきよめの証しをお話をする。そういう訓練をする場所であったわけですから、必然的に私はそういうことを聞く機会に恵まれていたわけです。するとある方々は、珍しくなく、「神様がこのように私を導いてくださいまして」、「このような導きの道を歩んでおります」という類の話しがめずらしくない。
 神さまは私を導いてくださってると軽く仰るけれども、いったいそれどういうことなのかな。真剣に考えれば考えるほど、私には分かったようで分からない。そんなときでした。丸の内教会では、第3日曜日の午後に、近隣の諸教会、たとえば富士見台だとか、船橋とか、深川だとか、王子教会もそうでした。みんな第3日曜日の午後には丸の内教会に集まって、きよめのメッセージに耳を傾けるのが恒例でありました。
 そのきよめということをまた真剣に聴衆の一人として聞くのですけれども。私は神様のおことばに従って道を選択し、祝福を受けるということに反対する気持ちはさらさらないし、いや、そうありたいと心から願っている。だけども、その神様が、「私をこう導いてくださった」と証ししている意味が私にはよく分からない。そのジレンマがありました。

 2月の礼拝で、サウル王様とダビデ王様のことを例に、「聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる」(第一サムエル1522というメッセージを取り次ぎました。そのときに、サウル王様は神様のお声に聞き従わなかった。しかしダビデ王様は神様のお声に聞き従った、そういう前提が当然あるわけなんですけれども、私はたまたま聖別会でサウル王様のことが扱われたとき、神様から捨てられた惨めな最期を遂げたサウル王様をおもいながら、勿論ああはなりたくない。当然です。

 ああいう選択はしたくないと思いながら、こうも思ったのです。
 私はサウル王様が羨ましい。もし私が神様の声を聞いたなら直ぐに従いたいと心から思っているのに、それができていない。だけどサウル王様はとにかく従わなかったけれども、神様のお声を聞くということをちゃんと経験してるじゃないか。聴いて従わなかったのは彼の結末をみれば分かることであるけれども、そうはなりたくないけれども、しかし、サウル王様は神様のお声を聞いたという事実。従う従わないは別問題として神様のお声を聞いた。ああ、私はそれができていない。そう思ったのです。このことを今でも皆さんにお話しできるのです。
 それほど「これは道なりこれを歩むべしと後邊(うしろ)にてかたるをきかん」とはどういうことなんだろうか。 

 今このみ言葉を信じ歩んでいる中に、私はこのようにまとめてみました。
消極的に表現するのならば、これはいわゆるカミサマのお告げではない。私は異教社会の中に育ちました。郷里の長野県の両親の家には一般的な神棚もある、仏壇もあるというような家庭でありました。占いもおみくじも当たり前のようにあった。やれ大吉だとか、こちらの方向がいいだとか悪いとかいうようなことも耳にしました。私の母が何か悩んでいたらしい。長野にはいわゆる御嶽信仰があります。御嶽山には天狗がいる。探し物だとか右か左かというときに天狗に尋く。母の課題がなんのことかもすっかり忘れましたけれども、母がお天狗様に聞いてみたいというので、ついて行った記憶はあるんです。うちだけが特別なことではなく、日本の家庭はけっこう日常的にしている方が多いと思いますね。
 聖書のこのイザヤ書3021は、お告げではありません。右に行きなさい、左ではないよというようなお告げのようなものが神様からあり、それを期待するということでは決してない。「これが道だ、これに歩め」というこれは決して今わたしが例話にしたそういう意味合いで絶対に捕らえるべきではない。
 どういうことなのかというと、クリスチャンとして極めて合理的な判断をすべきである。信仰というものを考えるとき、何かに取りつかれたような、おどろおどろしさでは全くなくして、ほんとうに健全な信仰、極めてクリスチャンとして合理的な導きを求めていいものなのです。
 ちょっと付け加えますけれども、雪谷の神学生たちの証しを聞いて、私はどうしてもわからない。「神様がこう導かれたので」という表現がしばしば出てくる。それで私が先生に聞いたんです。「これいったいどういうことなんでしょうか」。先生は「そうねえ」とちょっと困ったようでした。そして、私に、「クリスチャン的な一つの表現であって、何か神秘的なことがらをいっているのではない」と仰った。その後、女子神学生たちに、「こういう表現は誤解を与えるから、あまりしないように」とご指導なさったということを聞きました。
 私たちクリスチャンの世界であたりまえのように話している事柄が、ほかの人たちには違和感を感じさせる、そういうことがあり得るのです。

 さて、話を戻しますが、
  クリスチャンとして極めて合理的な判断をする。
 画像に小さく田中陽希さんの判断と書き込んでおきました。参考になりそうなので、お話ししたいと思ったのです。
 みなさん、アドベンチャーレーサー田中陽希さんの番組をご覧になったことはありますか。200名山、300名山と自分の足だけで、海峡や湖はカヤックを使うのですが、道なき道をたどることもある。コンパスや地形図で行き先を読める。そのような人なんですけれども、その田中陽希さんが笹薮に踏み込んだ。登山の初心者にとって一番危険なのは笹薮なんです。これは経験した人でないと分かりません。視界を遮ってしまうような背丈を超す笹薮に迷い込んでしまうと、もうどちらに進んでいいのかわからない。その恐怖心を、私も一度美ヶ原で経験したことがあります。私の場合には迷うもまだ序の口だったんですが、田中陽希さんは、ほかの人なら絶対に分からなくなってしまうような道なき道をいくときに、ちゃんとコンパスを持っている。コンパスで、方角、自分のいる位置というものをしっかりと確認して、それからもう一つは地形図というのを見て、斜面がこちらになっている、或いは、登りがこちらになっているなどなど総合的に判断して、目指す山はこちらの方だと、笹薮をかき分けてかき分けて、それこそ1時間、2時間、歩いて、そして、その先にちゃんと目指す標識を見出す。さすがすごいなと思いました。彼は地図の読み方、地形図の読み方、コンパスの読み方というものをちゃんと経験して総合的に判断して、ここだという道を選んでいくことができました。それにはよほどの熟達、訓練があったでしょう。
 もう一つ、愉快なコントを思い出しました。子どもたちが小さかったころ、ドリフターズの「8時だヨ!全員集合」という番組がありました。ドタバタながら忘れられない山登りのコントがあります。あれは秀逸だったと今でも思っていますが。
 とにかく仲間たちが山登りに来た。道に迷ってしまいます。さあ、私たちはどこにいるんだろうか。わからない。みんなが慌てふためいているときにリーダーのいかりや長介さんが「あわてるな。こんなことがあるかもしれないと思ってちゃんと地図を持ってきてる。だいじょうぶだ。迷うことはない」。そしてコンパスを持ち出し地図を見て、「よし、いまオレたちのいるところが分かった。ほら」と指さす。向こうに高い山の絵があるんです。「ほらオレたちが今いるところは、あの山のてっぺんなんだ」。
 みなさんこのロジックのおもしろさが分かるでしょう。自分たちがいるところはまさにここなんですよ。まさにここにちがいないんですけれども、その地図を見たときに、そして、一生懸命に長介さんが読んで、「分かったぞ、オレたちがいるところは今前に見えるあの山のてっぺんなんだ」。このコントの秀逸さ、ユニークさ。
 同じことを私たちはやりかねない。地図の読み方が分からない。聖書の読み方が分からない。聖書をどう読んでいいかわからない。そして、聖書はこういっているからと短絡してしまうことがある。ある人は、笑い話のようですけれども、聖書を開いて、「ユダ首をつれり」、ああヘンなとこ開いちゃったな。こんなところ欲しいんじゃないんだ。また、聖書を開いたら、よきサマリヤ人のところが、「汝も行きてそのごとくせよ」。笑い話と言えばいえるのですが。聖書のおことばで、「これは道なりこれを歩むべし」「後邊(うしろべ)にてかたるをきかん」を本気になって自分の信仰生活に当てはめようとするとき、私たちはクリスチャンとして、最も合理的で的確な判断をし、歩んでいくべきであります。

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自分の行くべき道が右か左か迷う、これまでもきっとそうだったでしょうし、これからも現実に問題に突きあたることがあり得る。右か左かに迷うときの判断に、自分自身に与えられた願い、願望、これは大切な導きの一つであろうと思います。何をしたいのか。どうなりたいのか。それからもう一つ、自分を取り巻く環境。果たしてどうなんだろうか。これを冷静に客観的に見ること。それと同じ神を畏れて歩んでいる信頼できる友人の意見を聞くことです。そしてこれらの思いめぐらしに聖書のことばが後押しとなり保障となるということがあります。
 唐突ですが、パウロの船が難破したときの話しをします。彼はローマの囚人となり、護送されて、地中海を渡っておりました。もう航海には危険な時期になっていました。囚人たちを乗せ、そのほか穀物、或いは商取引のための物資が積まれている。そういったところにパウロが乗っていたわけですけれども。パウロも、今この時期に航海するのはよくない、留まった方がいいと進言したのでしょう。けれども、船主たちは出帆してしまう。船乗りたちは、自分たちはプロだ。ちょうどいい風が吹いてきた。こんなチャンスに、船のことなど何も知らないド素人のこんな男の意見を聴くことはない。こういって自分の経験を最優先し、船主の意見を優先して航海に出てしまい、とんでもない災難にあうことになるわけです。

私たちがどう行動すべきかを決めるとき、自分の健全な希望や願望は何か、節理的に今自分が置かれている立場はどうであるか、そして信頼できる信仰者にどちらがいいと思いますかと尋ね、そして励ましとして神のことばをいただくこと。

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私は、これらのことが一つにまとまっていくとき、「わたしの羊はわたしの声を聞く」「彼らはわたしについてくる」。イエス様、どうか私の歩む道、選択したこの道に主がともなってください。そして、私の選んだ道が主イエス様の微笑みのある道であること。これを大切な要素として、この道が正しい道であったのか、そうでなかったのか、自分自身歩んできた道を振り返りながら、神様のご臨在、イエス様の微笑みのある道を、今自分が歩いているというそのことが一番大切なことであって、そして、これからも一番大切なもう一つの要素なんでしょう。
 けれども、もし私たちが誤って別の道を行ったのなら、神様はご自分を愛して、ご自分を信じて歩んでいた人が誤った方向に行ったとするならば、神様は必ず責任をとってストップをかけてくださる。さきほどパウロの話しをしましたけれども、パウロは、伝道旅行をしていたときに、自分がアジアの方に行きたかった。当時のアジアというのはトルコの方を指すのですが、そちらの方に行こうとした。彼らは何回もそれを願うんですけれども、そのたびに「イエスの御霊これを禁じたまえり」。聖霊がこれを禁じられた。

そしてやがて、結局パウロはこの道もダメ、この道もこの道もダメで、残った道はマケドニヤ。「マケドニヤに渡りて我らを助けよ」という夢を見てエーゲ海を渡って初めてピリピの方へ進んで行った。これが、福音がヨーロッパ経由になった理由であり、これが神様の節理の中にあったということを私たちは思います。私たちが、これこそが神様の微笑みの道だと思って選択をして、もし、それが間違っていたのならば、神様は責任を持ってストップさせてくださるし、そのことのゆえにかえって、祝福が与えられるということがあります。ですから今私たちがいるこのところが、イエス様の臨在の微笑みの、御顔の光の中に、「わが臨在、汝と共にあるべし」とというところにあるかどうか。私が信仰を持った当初、これが分からなくて、先生にどういうことですか聞きました。「神の声を聞く、導かれるってどういうことですか」というところから始まって、今日までいろいろと歩ませていただいた今、私が皆さん方に申し上げたい。それは、

イエス様という道を踏み外さないようにしっかりと歩み続けること。そして今でも遜(へりくだ)って、もし違っていたのならば、神様がちゃんと責任を取ってストップをかけてくださるから、感謝してストップを受ける、その謙遜さをもつことです。これが非常に大切なものであろうと私は思っております。

神様は私たちにご自身の御名のゆえに、その道にある私たちの祈りに必ず必ずお応えくださいます。

 

※音声データ、スクリーンショットは教会からお借りしています。
⏰6時00分更新

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