きょうのことば 『神を畏れる人』
インマヌエル盛岡キリスト教会2022年2月27日(日)のメッセージをお伝えいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で48年目のご奉仕をしておられます。
説教題 『神を畏れる人』(國光勝美 牧師)
引証聖句 伝道者の書12章13~14節
13 結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。
14 神は、善であれ悪であれ、あらゆる隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからである。
この朝は「神を畏(文語訳)れる人」と題しまして、みことばのご用をと導かれております。
早いもので今日は2月最後の礼拝となります。そして私たちの群れインマヌエル綜合伝道団では3月23、24日と年会が開かれます。いつもですと東京に集まるのですが、このような時ですので、去年に引き続きズームでの開催となります。このインマヌエル綜合伝道団の1年の働きを振り返り、そして主ゆるし給わば、またこれからの1年、どのような営みをどのような体制で進めていくかを話し合う大切な教団の会議です。
これまでの年会で思いだしますのは、私が神学院を卒業した1974年の年会です。最後に任命式というのがあります。北は北海道から沖縄まで、その当時はまだ沖縄は返還されていませんから、沖縄に任命される先生方は特別な思いがあられたかと思います。何れにいたしましても、北の方から、奉仕者を任命する教会と名前が発表される緊張感は、半世紀近く経った今でも覚えております。
1974年に盛岡に任命をいただきました。さあ、これで伝道者としての奉仕、働きがスタートする。ついこの前のような気がいたします。小さい働きでありましたけれども、真実な方々に恵まれて、喜びも悲しみもともに歩ませていただき、今日に至っております。
どうして改めてこのことをお話しするかと申しますと、つい数日前に盛岡市から郵便が届きました。封を切って見たところ、後期高齢者医療費保険者証です。この名称は色いろなメディアで何度も耳にし知ってはいるのですが、いよいよ私にも。後期高齢者医療費保険者証。改めて時の流れを感じざるを得ません。
その時私は、この盛岡で何をしてきたのだろうか、こう自問しました。勿論、福音を語らせていただく以外に私は何もできないし、これだけをやってきた者であり、ひたすら福音を語らせていただきました。最初のころはクルマもありませんから、自転車の荷台に手作りの教会の案内表示を載せ、チラシを配りながら、一生懸命盛岡のまちに福音を語らせていただいた、その若かりし頃を思いだします。
そしてそんな中に、ほんとうに福音の恵みに与って、心から悔い改めて、神のいのちが与えられたクリスチャンの方々を神様が備えて、お与えくださいました。その方々の真実な変わらないご奉仕をいただきながら今日まで歩ませていただきました。長い間には、私の未熟さから、つまずきを与えてしまった方々もいらっしゃいます。心ならずも痛みや苦しみを与えてしまったそのことを思うと、ひたすら神様の前に憐みと赦しを請い願うものであります。それにも関わらず、この半世紀、きょうまで教会のために共に歩んでくださったまさに宝物のような方々です。この方々は、福音の救いを受けて神と共に歩む方々です。これこそわたしのこれまでのご奉仕の大きな感謝、主からのお報いであるような気がいたします。
そして、共に労させていただいておりますひろ子先生も4月で75歳。私は3月で75歳となりました。ひろ子先生にも間もなく後期高齢者保健証が盛岡市から送られてくるでしょう。
私共のことは、みなさんよくご存じで、ほんとうにみなさんで祈っていてくださいました。どれほどこれが大きな恵みであり特権であるかということ、もうそれは言い表すことができないほどの恵みでありました。そしてそれを通して、私自身ほんとうに神様から扱われました。あなたが伝えている福音とはいったい何なのか。いろいろな表現があるだろうけれども、それは、死というものに対する確かな勝利。死の恐れにたいする圧倒的な勝利、これを伝えてきたし、この福音のなかに私たちは今いるのだ。そのことを思わせられます。
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先週の復習は、きょうは以下をご覧いただき、ああそうだったなと思い返していただくだけで十分であります。
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今日のところに入ります。
私は、先ほどから、「福音」ということを言っております。福音を皆さんと一緒にこの50年間語らせていただいたし、この福音を伝えてきました。その中味は何かといえば、「罪の赦し」「罪は赦される」ということです。神学校で「救いとは何ですか」と問われて、これを書いたのならば所謂合格点となるのでありましょう。でもそういう意味を超えて、ほんとうにそうだなと皆様方お思いになりませんか。罪は赦される。これは神様の主権のもとで、「わたしはあなたを赦す」ということなのです。 大きな大きな大きな返すことなど到底できないような負い目を持っておりますこんな者に、神様は「あなたの罪は赦された」(マルコ2:5)と言われる。皆さんこのことばの持つ意味がどれほどのものか、私は今このように語りながら、かつてあの神学生時代、半世紀前にクラスで学んで、謝罪とはどういうことであるかを先生がクラスで語ってくださったことなども思い出しながら、その時はその時で精一杯なんですけれども、確かにここまで生きてきて、神様から「あなたの罪は赦された」、或いは、ここにはきよめということは直接述べてはおりませんけれども、この罪が赦されるということがほんとうにわかったときに、もうわたしはあなたの罪を探そうと思っても見つからない。御子イエス様の十字架の血潮によって罪の問題は見事に解決して、海の最中にあなたの罪はもう沈められてしまう。
ミカは7章「18あなたのような神が、ほかにあるでしょうか。あなたは咎を除き、ご自分のゆずりである残りの者のために、背きを見過ごしてくださる神。いつまでも怒り続けることはありません。神は、恵みを喜ばれるからです。19もう一度、私たちをあわれみ、私たちの咎を踏みつけて、すべての罪を海の深みに投げ込んでください」
イザヤは1章で「18たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとえ、紅のように赤くても、羊の毛のようになる」
御子イエス様の尊い血潮のゆえに、このひと文字「血潮」を見ただけでも、福音、それから義認という言葉があります。ずっと以前に聞いた羽鳥明先生のラジオからのメッセージで思い出すのは、このような内容でした。「私たちがこの世を終えて人はみな裁きの前に出なければならない。その時に、サタンはやって来て、この男は、この者はといって、生まれた時から今に至りますまでのあらゆる真実なこと、ぜんぶサタンは述べあげつらう。その時に、御子イエス様は『お父様、彼の言っていることはその通りです。だけれど私は彼のそれらのぜんぶを背負って、わたしのすべてをあの十字架の上で罪の裁きを受けました。この者はそのわたしの十字架のみわざを私の罪が裁かれたものとして受け入れています。ですから、わたしの十字架に免じてこの男は無罪です』とこのように御子イエス様が力強くとりなしてくださる」
神さまの前に正しい者と認められる。そしてヨハネの3章3節に「人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません」。神の御子を信じる聖霊によって、聖霊が、ほら罪を悔い改めて十字架を仰いでご覧。そのときに新しく生まれる。神のいのちが与えられる。そのいのちが与えられているという喜び、確かさ。ですから私たちは天国にあるところのいのちをまったく知らない者じゃない。むしろその手付金といったらいいか、同じものがもうすでに私たちの心に与えられている、この新しく生まれるというこの生き方、そして、それと密接に関わっておりますけれども、天にある驚くべき嗣業。黙示録を見るとき、もう想像を絶するような、私たちの有限な頭ではとても考えることができないような、ほらこれはあなたのために御子イエス様がいのちに代えてあなたのために備えてくださった天の譲り、すばらしいものですよと啓示されている。それを思うときにもういう言葉がありません。これが私たちに与えられている福音というもので、そしてこういうものが、たとえば2年半前にある方がいよいよ手術に行く、そのときに、待っているときに、「われ活くれば汝らも活くべければなり」(文語訳 ヨハネ14:19)という神様の、聖書のおことばが心の中に与えられました。ああ、これこそ福音だな。「わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです」(新改訳2017 ヨハネ14:19)イエス様と同じいのちの中にある。このようなことがある。これまでのそれぞれの信仰生活の中で、謝罪、義認、新生、そして、嗣業。このいかばかり豊かなものがあるかという、これをだんだんと知り続ける。宇宙は膨張しているといいますけれども、福音もまたほんとうにそうです。何という恵みでしょう。
死の恐れに対する圧倒的な勝利。これがもし神学院の試験で、福音の究極をあなたはどう思いますかといったら、私はこれを書きたいのです。「主の恐れに対する圧倒的な勝利」。これが福音です。もしかしたらば神学院のテストでは、辛うじて合格点といわれるかもしれませんけれど、そうではない。わたしにとって50年、その神学院のときから今まで主のご奉仕させていただいている中で、福音、あなたにとって福音とは何ですか。「われ活くれば汝らも活くべければなり」。よみがえってくださった主イエス様、この圧倒的な勝利、このように申し上げたいのです。そして、もしきょうのこのメッセージに、そうです、その通りですと、おそらく皆様方の心に鳴り響く、共鳴しているものがあると思うのです。この鳴り響く共鳴するものがあるということ即ち皆さん方の心の中に同じ神のいのち、福音のいのち、福音の恵み、それが、皆さん方の心の中にあるのです。クリスチャンの共鳴するそれが福音なのです。
その私たちはこの世界にこの世に生きておりますから、サタンが必ず私たちにこういう語り掛けをしてきます。たとえばヨブという敬虔な人物。きょうはそれを十分に扱うことはいたしませんけれども、そこに書かれていることはまさに生きるということを根本から揺すぶられ、考えさせられるものです。ヨブはほんとうに神様を信じていた人物であるのにも関わらず、試練という試練をことごとく受けた人物であります。その背景でサタンはいつでも言うのです。
「神様はね、ヨブはあのように神様を恐れる敬虔な者だといってるがね、なあに、彼の持ち物を失わせてごらんなさい。彼は神様を呪うに違いない。なあに彼の健康を打ってごらん。なあにあんなに敬虔なことを言ってても、彼は神様を呪うに違いない。そう、ご利益があるうちは人はみんな神様神様と言ってるんだ。人はいたずらに神を恐れるものか。」
これがサタンがいつも私たちの心の中に、隙あらば、「なあに今の事業をつまずかせてごらん。彼はもう信仰なんてやめたというに違いない。やってごらん」。サタンはいつでもこのことばで私たちに襲いかかってきます。
神様は私たちをどのようにご覧になるでしょうか。これをきょう一か所だけではこれだけじゃわからないよと言われたらば、すみませんと言うより仕方がありませんけれども、それを前提に分かっていながら申し上げさせてください。
アブラハムという旧約聖書を代表する人物が創世記に出てまいります。このアブラハムがどんなに子どもが欲しかったか。待ち望んでようやく子どもが与えられた。それがイサクです。アブラハムはイサクをほんとうに可愛がっていました。けれども神様はアブラハムを試み言われた。「アブラハム、そのあなたの宝物のイサクをいけにえとして私に捧げてごらん」。これはアブラハムにとって大変な試みでした。しかし、アブラハムが神に祈ってやっと与えられたこのイサクです。神様はそのイサクを屠れと仰った。アブラハムは神を微塵も疑わなかった。
いま彼の心臓に向かって私は刃を突き立てる。神は死者をもよみがえらせてくださるお方なのだ。そして、今まさにイサクを屠ろうとしたときて、ほんとうに殺そうとしたときに、神様のお声が。「待て、ようくわかった。今私はあなたが神を恐れていることがよくわかった」
神様は、人間にとって何が一番大切であるかを教えられた。神を畏れるという気持ち、このことを私たちに一番大切なこととして教えようとしておられた。
もう一つ、神を畏れるということばを思い巡らす中に思い浮かんだのは、あのイエス様の十字架、イエス様が十字架に架けられたとき、その右と左には、同じくその日に死刑にされる強盗が架けられていた。真ん中に主イエス様です。
イエス様が、「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」(ルカ23:34)と、自分を十字架に架けた者たちをとりなしているのを、この二人の強盗たちは聞いているわけです。崇高な使命を全うされるイエス様を物理的にも心理的にもイエス様の一番近くで同じ苦しみに遭いながら聞いている。まさに自分たちも、これから死にゆくときに、一人の強盗は最後まで悔い改めませんでした。けれども、一人の方が彼をたしなめて言った。「おまえは神を恐れないのか、おまえも同じ刑罰を受けているではないか。おれたちは、自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だが、この方は、悪いことを何もしていない」(ルカ23:41)そして「イエス様。あなたが御国に入られるときには、私を思い出してください」(ルカ23:42)。この強盗は、ほんとうに神を畏れるべきことを知ったのです。
お開きした伝道者の書12章13節には、きょうのこれまでお話しの結論がございます。
私がこれまで半世紀、福音を皆さんとともに語り、そして教会生活をさせていただいていた皆さん方に、いちばん最後に、いいですか、神を畏れるこのこと。神を畏れ、神の命令を守る、これが人間にとってすべてである。伝道の書云々のことをきょうは申し上げません。しかし、結論、結局のところは、もうすべてが聞かされていることだ。神を畏れ、神の命令を守れ。聖書、これが私たち人間にとってすべてなのだということを神の聖言はのべているのです。
伝道の書12章12~14節
12わが子よ、さらに次のことに気をつけよ。多くの書物を書くのはきりがない。学びに没頭すると、からだが疲れる。本を作ることには、限りがない。多くのものに熱中すると、からだが疲れる。
13結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。
14神は、善であれ悪であれ、あらゆる隠れたことについて、すべてのわざをさばかれるからである。
結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。
神を畏(恐)れよ。
神の命令を守れ。
これが人間にとってすべてである。
※音声データ、スクリーンショットは教会からお借りしています。
⏰6時14分更新
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