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きょうのことば「聖書の主人公」

インマヌエル盛岡キリスト教会2022年26()のメッセージをお伝えいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で48年目のご奉仕をしておられます。

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説教題 『聖書の主人公』(國光勝美 牧師)
引証聖句 ヨハネの福音書539
あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているものです。

 きょうは 『聖書の主人公』というテーマでメッセージをと願っております。

 このあなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているものです。というときに、私は今日、使徒の働きの8章を皆さんと一緒に聖書講読をさせていただいたことを思い起しています。

 先ず前回のところを簡単に振り返ってみましょう。
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 ああ、そうだったなというように思い起していただければと思います。

 

 さて、きょうの聖書講読は使徒の働き8章でしたが、みなさんも聖書をお開きください。826節からでしたが、まず81節をご覧いただきますと、「サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた」とございます。このサウロというのは、後にはパウロと名前が変えられた人物です。サウロとパウロは同一人物です。まだサウロと呼ばれていたパウロは、当時はキリスト教の迫害者として登場しております。そしてクリスチャンたちを、イエス・キリストを宣べ伝え広めるとんでもない者たちだという誤った正義感に駆られ、その中の一人であるステパノを石打ちの刑に処します。8章のすぐ前の759節から見てみましょう。
7:59こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで言った。「主イエスよ、私の霊をお受けください。」 7:60そして、ひざまずいて大声で叫んだ。「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、彼は眠りについた。
 ステパノはエルサレムで殉教しました。そして、このステパノの仲間たちのことが8章の2、3節です。
8:2
敬虔な人たちはステパノを葬り、彼のためにたいへん悲しんだ。 8:3サウロは家から家に押し入って、教会を荒らし、家々にはいって、男も女も引きずり出して、牢に入れた。
11.新約の時代の聖地


 ステパノを迫害した人たちの手が自分たちにも及んできます。それでピリポを含めてですけれども、4節に
8:4
散らされた人たちは、みことばの福音を伝えながら巡り歩いた。
 この彼らが持っている福音が、どんなにすごいものなのかと思います。
 散らされた人たちであるピリポや使徒たちは、エルサレムからサマリアの方面に福音を伝え、そこで大きなリバイバル的な働きを為して、またエルサレムに戻るというエピソードが続いております。25節を見ていただきます。
8:25
こうして、使徒たちは証しをし、主のことばを語った後、エルサレムへに戻って行った。彼らはサマリア人の多くの村で福音を宣べ伝えた。


8:26さて、主の使いがピリポに言った。「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。」そこは荒野である。
 エルサレムからガザへ下る道に行きなさいとピリポに導きがありました。すばらしいことです。
8:27そこで、ピリポは立って出かけた。すると見よ。そこに、エチオピヤ人の女王カンダケの高官で、女王の全財産を管理していた宦官のエチオピヤ人がいた。彼は礼拝のためエルサレムに上り、 8:28帰る途中であった。彼は馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた。
 このようにございます。このエチオピヤ人の女王カンダケ、これは、日本ではちょうど天皇というような、それが一人の人物をさすというのではなく、そういう地位にある人を指しているのですが、エチオピヤ人のカンダケ、女王に信頼をされて全財産を管理しているエチオピヤ人がいました。最近よくテレビのドキュメンタリー番組などでエチオピヤが紹介されていますが、エチオピアにはクリスチャンが非常に多いということです。どうぞこんどこの聖書の記事を意識してご覧になってみてください。エチオピヤは古くからクリスチャンが多かった。それはやはり、この一人のカンダケの高官の回心の大きな影響があったのではないかと思います。
 このエチオピヤ人の高官がなぜエルサレムに行ったのか。れは聖書には書いてありませんが、しかし、想像するに、エルサレムにいるクリスチャンたち、あの彼らが信仰しているものには真理があるのではないかという渇きをもって、彼は巡礼の旅に出ていったわけです。真理を求めるすばらしい人物。そして、エルサレムで礼拝をささげた後に何としても記念となるべきものが欲しいということで、彼は非常に高価であったであろう聖書の写本、それを手にして喜びながら馬車に乗って、エチオピアへの道、ガザへの道を走っていた。これが背景にあります。
 そこに主から遣わされたピリポがまさに走り寄っていく。この人は馬車の中で、聖書を読んでいた。このエチオピヤ人の高官、この人物が、どのような人であるのか、自分が高貴な方の、いちばん高い地位を得ている者、片や駆け寄ってきた得体のしれない人物はおそらく貧しい服装の人物であったに違いありません。自分に教えてくれる人が何か立派な肩書のあるそういう人のお話しならば聞くけれども、何の肩書もないただ人の話しに耳を傾けることは、よほど整えられた人といったらいいのか、真実をほんとうに求めている人です。新幹線の揺れない中で本を読むというのじゃないのです。これを想像してください。彼の真実さ。

 さて聖書を見ていただきますと、使徒の働き828節から
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帰る途中であった。彼は馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた。
 8:29御霊がピリポに「近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい」と言われた。 8:30そこでピリポが走って行くと、預言者イザヤの書を読んでいるのが聞こえたので、「あなたは、読んでいることが分かりますか」と言った。 8:31すると、その人は、「導いてくれる人がいなければ、どうして分かるでしょうか」と答えた。そして、馬車に乗って一緒に座るよう、ピリポに頼んだ。
 タイムリーです。うるわしい、これこそ神様の節理の時なのでしょう。
 8:32彼が読んでいた聖書の個所には、こうあった。
「屠り場に引かれて行く羊のように、
毛を刈る者の前で黙っている小羊のように、
彼は口を開かない。
8:33
彼は卑しめられ、さばきは行われなかった。
彼の時代のことを、だれが語れるだろう。
彼のいのちは地上から取り去られたのである。」
8:34宦官はピリポに向かって言った。「お尋ねしますが、預言者はだれについてこう言っているのですか。自分についてですか。それとも、だれかほかの人についてですか。」
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 いい質問だなあと思います。

 8:35ピリポは口を開き、この聖書の箇所から始めて、イエスの福音を彼に伝えた。
 このようにあります。
「イエスの福音を彼に伝えた」。先ほど読みましたサマリヤの方に散らされた人たちは、福音を伝えた。そしてサマリヤの人たちが回心して救われていった。彼はほんとうに聖書を通してイエス様というお方をよく知っていた。そして、聖書がイエス・キリストの救いを宣べ伝える事であることをしっかりと捕らえていたのです。まさにナイス・アンサー。ピリポは言ったに違いありません。どうですか。あなたはこのままで天国に行くことができると思いますか。いいえ、分からないから私はこうやってあなた方の信仰しているエルサレムに巡礼に来たんです。そうですか。そして、あなたが、聖書を手にした写本を手にしたということはとっても素晴らしいことですと言って、このちょうど読んでいる53章のところから、このお方こそ私たちの罪をその身に背負って身代わりとして十字架に架かって、そして、私たちの前に三日後によみがえられたお方なんです。このイエス様こそほんとうのメシア、救い主なんです。確信をもってピリポは答えました。

 あなたが読んでいる聖書には救い主イエス様のことが書いてあるんですよ。聖書ってイエス様についてなんですか?そうです。イエス様を信じる人は天国に行けるんです。ほんとですか。もっと詳しく教えてください。

「この聖書の箇所から始めて」とあります。ピリポはすごいですね。私たちの罪を赦すために十字架に架かり三日目によみがえられたイエス様のことを語った。そして、この何も知らなかったカンダケの高官はピリポの話しによって、「わかりました。イエス様を救い主として信じます」と彼は言いました。そしてどうでしょうか。見てください。この使徒の働き835

8:35ピリポは口を開き、この聖書の箇所から始めて、イエスの福音を彼に伝えた。
8:36道を進んで行くうちに、水のある場所に来たので、宦官は言った。「見てください。水があります。私がバプテスマを受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」
 聖書では36節の欄外に次のようにあります。
異本に37節として「そこでピリポは言った。「もしあなたが心底から信じるならば、よいのです。」すると彼は答えて言った。「私はイエス・キリストが神の御子であると信じます。」を加えるものもある。
 この宦官は、たった一度のこのチャンスでしたけれども、イエス・キリストのことを、十字架を知って、自分の罪の贖いということを知って、分かりました。信じます。「私がバプテスマを受けるのに、何か妨げがあるでしょうか」と申し出ます。
水たまりなんでしょう。彼はそこで水の中に下りて行く。
8:38そして馬車を止めるよう命じた。ピリポと宦官は二人とも水の中に降りて行き、ピリポが宦官にバプテスマを授けた。
 聖書のいっているイエス様というお方がほんとうに分かるとき、私たちはもうその場で洗礼を受けることができる。何年経ったからとか、或いは何十年経ったからといっても聖書を読んでイエス・キリストのことが分からない人がいるのです。けれどもたった一度だけでも聖書を読んでイエス様ということが分かったならそれで十分です。ナイス・リクエスト、ナイス・アクションとわたしはここで申し上げたいと思うのです。そしてナイス・エンディング。果たしてこういう使い方がいいかどうかわかりませんが、ナイス・エンディング。
8:39
二人が水から上がって来たとき、主の霊がピリポを連れ去られた。宦官はもはやピリポを見ることはなかったが、喜びながら帰って行った。
 ここで二人は、ほんとうに不思議に神様によって出会い、聖書を通してイエス様を知り、そしてお救いに与ったときに、ぱっと別れていった。
 私はこんな想像をしてみました。もしピリポに邪心があったのならば、高官クラスの人物に、自分はこんなすばらしい福音の恵みを伝えたのだ。私は彼の教師なのだ。このままエジプトの女王カンダケの高官の第一秘書というように遇されても当然。富を得ることもやぶさかではない。ピリポの生涯が変わっていくチャンスだったかもしれない。しかし、ピリポにはそのような思惑は微塵もない。それどころか、ピリポはこのエチオピヤの高官が福音をわかりお救い与ったときに、もうそこからぱっと離れて、次にはアゾトに現れたとあります。使命が終わったらば、そこでさっと引き上げる。この在りようは見事ですね。そして高官です。彼らはもはや自分を導いてくれたピリポ先生を見ることはなかったけれども、彼はほんとうに喜びながら帰っていった。彼の心は喜びに満ちていた。ナイス・エンディングですね。

 このことを私はほんとうに大きな恵みとして教えられました。
ヨハネの福音書539
あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているものです。
 イエス様こそ、聖書の主人公です。聖書を読んでイエス様を捕らえそこなうということが決してないように。私は何かこれに、相応しい締めくくりの絵のようなものはないだろうかと思ってちょっと探してみました。
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 これは、まさしくことばですね。ひらがなのようなものとか、或いは?マークなどさまざまな記号の集合で伝えたいものを浮かび上がらせる。聖書もそうです。創世記から黙示録まで読みながら、そこにイエス・キリストというお方を、ピリポのように捕らえて歩ませていただきたいとこのように思っています。

 

※画像、音声データは教会から、地図はネットからです。
⏰6時47分更新

 

 

 

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