きょうのことば「聖言に聞き、従う人」
インマヌエル盛岡キリスト教会2022年2月20日(日)のメッセージをお伝えいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で48年目のご奉仕をしておられます。
説教題 『聖言 (みことば)に聞き、従う人』(國光勝美 牧師)
引証聖句 第一サムエル 15章17~23節
17 サムエルは言った。「あなたは、自分の目には小さい者であっても、イスラエルの諸部族のかしらではありませんか。
18 主があなたに油を注ぎ、イスラエルの王とされたのです。『行って、罪人アマレク人を聖絶せよ。彼らを絶滅させるまで戦え。』
19 なぜ、あなたは主の御声に聞き従わず、分捕り物に飛びかかり、主の目に悪であることを行ったのですか。」
20 サウルはサムエルに答えた。「私は、主の御声に聞き従い、主が私に授けられた使命の道を進みました。私はアマレク人の王アガグを連れて来て、アマレク人たちは聖絶しました。
21 兵たちは、ギルガルであなたの神、主にいけにえを献げるために、聖絶の物の中の最上の物として、分捕り物の中から羊と牛を取ったのです。」
22 サムエルは言った。「主は、全焼のささげ物やいけにえを、主の御声に聞き従うほどに喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。
23 従わないことは占いの罪、高慢は偶像礼拝の悪。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」
前回のこの場面思い出していただけますでしょうか。
この石の上に、つまり聖書の上に落ちる人は粉々にくだかれ、この石が人の上に落ちれば、それに反対する人たちの上に落ちれば、その人を押しつぶします。
この画面を皆さん方の印象にとどめていてくださるならば、神様の聖言(みことば)こそ世々に変わらない確かなものである。神様のみことばに聞き、このみことばに従う、このことを特に今年は心しているのだなと確認いただけると思います。
そしてきょうは、このサムエル第一のところを開きましたけれども、おはなしはこれだけにとどまりませんので、どうぞ主のおことばに扱われるということはどういうことなのか、主のおことばにくだかれるということはどういうことなのか、そして主のことばに聞き従う人の幸い、これを結論のように心に止めていただきたいと願っていることです。
きょうは、サムエル第一の15章のところであります。このサムエルのところをずっと学んでいてもなかなか聖書の内容をすぐ理解するのは難しい、そういう部分であります。ですので、その背景ということをある意味抜きにして、きょうは、とにかくサウルという王様がいた、そのことをまず覚えてください。実はこのサウルという王様は、イスラエルの第一代の王様として神に選ばれた器であります。しかし、せっかくそのような神様の恵みの選びをいただいたサウル王でしたけれども、神のことばに聞き従うということに失敗をしてしまい、そして、とうとうこのサウル王様は神様から捨てられてしまいました。第二代の王様として、ダビデという王様が現れる。きょうはこのサウル王様とダビデ王様につて、神様のおことばということを中心に考えて、何がこのような違いをもたらしたのだろうか。このことをお話ししたいために、サウル王様の背景だとか第何代目だとか何年ごろというようなことを、ある意味いっさい省略して、このサウル王様、神に捨てられた王様。そして神に選ばれたダビデという王様、神様のおことばで、どう違うのかというところをきょうの焦点として覚えていただきたいと思います。
サウル王様は結局捨てられてしまった、失敗をしてしまったその場面なのですけれども、サウル王様は、神様の預言者サムエルに対してこたえたわけです。いいや私はちゃんと神様のお声をを聞きましたよ。そしてちゃんと私は神様が仰った使命の道を歩みましたよ。ちゃんと私は神様が仰ったとおりにやりましたよと。ところが実際はそうではなかった。アマレク、これは聖書に登場するときに、かわいそうな気もするんですけれども、いつでも神様に敵対する悪の勢力として登場する。神様はサウル王様に「アマレクを滅ぼし尽くしなさい」と命じられた。ところがサウル王様は、そのアマレクを滅ぼすときに、いちばんいい物、これは自分たちに取っておいて、そうでない物は、というような私欲に駆られ、滅びつくさなかったのです。自分のいいように、都合のいいように解釈して、表面上はたしかにアマレクを滅ぼした。ところが神様がことごとくそれを聖絶しなさい、無きものにしなさいといったのに、サウルはさっき申しました通り、自分に都合のいい物はこっそりと持っていた。嘘を言ってしまった。私はそれを思いながら、私はここに人間の本性というものがあらわれているなと。これは創世記3章12節、これはもう皆さんよくご存じのところだろうと思います。アダムとエバがサタンの誘惑に乗ってしまいまして、神様が食べてはならないという禁断の木の実を食べてしまったときの言い訳です。
人は言った。「私のそばにいるようにとあなたが与えてくださったこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」すると女が言った、「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べました」。やってはいけないと分かっていながら失敗をしてしまった。このときに、ごめんなさいとほんとうに心から悔い改めたなら、どんなに幸いだったでしょうか。
人間の本性は、自分を正当化して何とか言いつくろう、言い訳をするのです。そして責任を擦り付ける。神様を恐れてちゃんと聞き従えばよかったものを、彼の、彼女の、あの人の、この人の声に聴き従ったんですといって、あくまで自分の失敗というものを隠そうとする。或いは、何とか言い逃れようとする。このサウル王様に私は人間の本性、これを見る気がするのです。そして、それは、私たちは聖書の中の人物をそのようにみるんですが、これあは、自分自身の問題、私自身の問題としてみる。ほんとうに人間の本性として、そういうことをやってしまう。それを認めざるを得ません。
さきほど、言及したダビデ、これは皆さん方には、聖書の代表的なよい人物として多くの人に慕われている理想の王様として位置づけられておりますし、何よりもそれを裏付けるようにイエス様は、ダビデの子である、というそういうほめことば、ダビデの直系の子孫だということがどれほど誇らしいものであるか。それほどイスラエルの人たちには理想的な王様。それに対して、悪役として登場してしまったのがサウルという王様。ところが、皆さんどうでしょうか。私は、サウル王様の行った罪と、ダビデが犯した罪、失敗をどっちがていると比べることができませんが、私たちはあまりにダビデを最初から理想的な模範的なというような眼鏡で見てしまうんですが、むしろ、そうでなく、ダビデはほんとうに大きな罪をその生涯の中で犯したことがあるのを思い起しながら、想像していただけるだろうと思います。なのに、なぜサウルは捨てられ、なぜダビデがこれほどまでに素晴らしい人物と評価されるのだろうか。
それは、サウルは最後まで自己弁護、責任転嫁、神様の前に素直になりきれない、そういう態度をとっているのです。ところが大きな罪や失敗を犯したダビデですけれども、彼は、詩篇に自ら証ししているのを見てもお分かりの通り、率直に神様のことばの前にくだかれるということを経験している。私たちがことし、神様のおことばということを、そして私ということを主題としてずっと講壇お話しさせていただいているんですけれども、このサウルのようなものでなく、私たちはダビデのように神様のおことばにくだかれる、そういうあり方生き方をぜひさせていただきたいなあと。
この決定的な違い、それを罪の解決ということばで、まとめてみました。ダビデは神様のおことばで自分のほんとうの姿を知らされたときに、詩篇の51篇、そうですけれども。ほんとうにああ、私の母はほんとうに罪のうちに身ごもったともう徹底的に自分自身の罪を神様の前に認めて、ああ主よ、あなたにはとこしえの赦しがあり、きよめがあります。こういって、罪の解決ということを神のおことばを通して砕かれる経験をしている。残念ながら、サウル王様はこのことができていなかった。
さあ、いつの間にか名前が変わりましたね。私はこれを思い巡らしながら、マリアとマルタという二人の姉妹を思い巡らすことにしました。これは新約聖書のルカの福音書10章41、42節の場面です。
これも限られた場面ですから背景を省略いたします。
いずれにせよ、マリヤとマルタ、ここには出てきませんがラザロというこの3人は主に愛されたすばらしい兄弟姉妹でした。お父さんお母さんは出ていない。たぶん3人はその当時両親を失って、互いに力を合わせながらうるわしい生活をしていたのです。それでイエス様は、マリア、マルタ、ラザロの家に行くことをとても楽しみにしておられたというのがこのルカの10章の背景にはある。
そのとき、マルタは大好きなイエス様をおもてなししなければと、いろいろな接待に心をくだいていました。ところが片や、マリアは、イエス様よくおいでくださいました。恵みのおことばを待ち望んでいましたとイエス様のあしもとに行って、イエス様のおことばを聞こうとしている。それを目にしたマルタは、私がイエス様をおもてなししようとこんなに動き回っているのに、「先生、マリヤに私を手伝うように言ってください」と、ついつい言ってしまった。ところが主はこたえられました。
「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです。マリアは、その良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません」とマルタに教えたわけです。
これはよく親しまれている場所でもありますから、私たちは、そうそうマルタはそうで、マリヤはイエス様に受け入れられたんだと思いますね。だけれども、これを自分自身の問題として世の中で社会で会社で或いは家で果たしてどうなんだろうか。私はこの二人の決定的な違いがあるとすれば、それは、いい悪いを超えて性格の違いだと思うのです。マルタはもてなす方が好きなのです。マリアはひとり静かにしていることの方が好きなのです。いい悪いの問題ではなく、性格が違う。私は、このようにこの場面を捕らえました。
このイエス様のおことばで、マルタもマリアも教えられたでしょう。光が与えられたのです。そのとき、マルタは自分の欠点に気が付いた。イエス様をお喜ばせするのはマリアのように静まることなのだな。しかし一方マリアはこのとき、どのようにイエス様のことばを受けたのでしょう。そうよ私の方がふさわしい態度なのよといったのか。それともマリアは、お姉さん手伝わなくてごめんなさいと思ったのか。そのことに気が付いただろうか。私の方がいいのよと言ったのだろうか、それとも。マリアは、そのことに気が付いたと思うのです。
マルタのこの自分の欠点、主の光が与えられたときに、それに気が付く。そのときに二人とも教えられやすい心、そして、くだかれやすい心、これを持つことがほんとうに大切なことであろう、このように思うのです。聖書を通して光が与えられたとき、自分の欠点に気がついたとき、それにサウル王様のように自己弁護したり、弁解したりというのではなく、素直にくだかれる。そして、本当にそうでしたというように出ることがどんなにみことばの前に喜ばれることであろうかと思います。
これは私の忘れられないエピソードとして、三森春生先生から伺ったことがありました。教団が発足してまもなくのことです。三森春生先生と言えばこの教会にも一度ご夫妻をお招きしたことがあります。年代は河村襄先生、或いは竿代忠一先生方とほぼ同年の先生です。発足当時からインマヌエルの働きに深く関わってくださって、そしてほんとうによき賜物を持っておられる。今現在インマヌエルの本部がお茶の水学生キリスト教会館に置かれておりますことも、この三森先生のもっておられた賜物といいますか、それらのことがあったということ。そのような三森先生がまさしくマルタのように教団のために一生けん命に労しておられたときのことでした。ちょうど年会がありました。そしてさまざまな忙しさの中に、年会を指導しておられました蔦田二雄先生から三森先生が呼び出しを受けた。「三森君、いったいこれはどういうことなんだ」と。蔦田先生の指摘を受けたとき、それは明らかに、蔦田先生の誤解によるものだったのです。三森先生はほんとうによく気を利かしてよかれと思ってなさったそのことが、蔦田二雄先生にはわからなくて、三森先生が出しゃばったことをしたというので、そのことで呼び出しを受けた。蔦田先生から「君は年会のあいだ、今のところで動かなくていいから、(その当時の浦和の神学院の)図書室で、君は年会の期間中、祈っていなさい。悔い改めなさい」という指導を受けたそうです。三森先生は、先生、それは違います、これこれこういう事情があって私は先生のためを思ってこのようにしたんです」と言いたいことがいっぱいあった。
けれども思ったそうです。僕はきっと今までマルタ的なことをしていたものだから、今回のことも、いうなれば先生からお灸をすえられて、年会期間中に図書室でひとり悔い改めの祈りをするように指導を受けたのだろうと。
おそらく三森先生はこのことは生涯忘れられなかったでしょう。このことを私は教団発行の月刊誌「翼」の証しで読んでいたのですが、三森先生から直接伺った記憶があります。
僕はあのとき、ほんとうに扱われた。自分の仲間たちが年会のために一生懸命に奉仕をしているときにそれを外されて、やはり悔しかった。しかもそれが誤解であって真実ではない。けれども僕は、あのときほんとうに砕かれた。言いたいこと言い返したいことがいっぱいあったけれども、図書室から出て、先生ほんとうに申し訳ありませんでしたと申し上げた。これはとり繕いではなく、真心から自分の足りなさ、欠けているところを教えられたのです。
この三森先生のエピソードは、私には、ほんとうに忘れられない大きなことでありました。自分の欠点を指摘され、そのときに、心から主の前に申し訳ありませんでしたと自分のありようを知らされ続けること、これが、きよめという生涯的な成長であり、きよめというものがここに現れているのだろうなと思ったことであります。ほんとうに主のことばにくだかれるということは次のおことばの通りです。
1サムエル 15:22 「見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」
このようなメッセージをさせていただきながら、自分の心の中にある弱さ、足りなさというものを、機会が与えられたならば、弁明するのではなく、その前に悔い改めて、主よ、そして、文語訳ですが、詩篇の19篇14節
詩篇の19篇14節「我が口の言葉、わが心の思念(おもひ)汝の前に悦ばるることを得しめたまえ」。
生涯的にこのようであらせていただきたい。神様が皆様方に、ことしどのようなおことばをかけてくださるでしょうか。そのとき、どうかみことばに素直に聞き従い、そして、耳を傾け、ダビデのごとくあらせていただきたいと願っております。
※音声データ、スクリーンショットは教会からお借りしています。
いちどの説教に使われる画像はここに掲載している枚数の数倍ありますが、ここではごく限られたものだけをアップしています。
⏰5時59分更新
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