きょうのことば「みことばの味わい」
インマヌエル盛岡キリスト教会2022年1月30日(日)のメッセージをお伝えいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で48年目のご奉仕をしておられます。
説教題 『聖言(みことば)の味わい』(國光勝美 牧師)
引証聖句 詩篇119篇103節
あなたのみことばは私の上あごになんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。
きょうの礼拝の後に第48回教会総会を控えておりますこの朝、詩篇119篇103節のおことばに導かれております。
きょうのメッセージの前に、マタイの福音書8章8節「ただ、おことばを下さい」を簡単に振り返っていきたいと思います。
「あなたのみことばは」。まずこれに注目したことであります。印刷された聖書のことばではありますが、それが「あなたの」という神様と私の人格的な交わりの中で、「あなたのみことば」は私たちにとりまして、第一ヨハネ4章9節
神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。
このように、聖書のおことばが、まさに信仰生活を歩む私たちの「足のともしび道の光である」。これが、今年、2日目の、つまり、元旦礼拝に続く第一回目の聖日礼拝のメッセージでございました。
またその思いめぐらしの中に、神様のおことばをいただきたく今年も導かれておりますけれども、いったいそれがどうして「あなたのおことば」と理解できるのか、或いは、これであると捕らえたおことばが、それはあなたの勝手な思い込みではないのかなど、いつでも、みことばに対する疑惑を投げかけてくるサタンがいる。その中で私たちは神様のみことばを100パーセント信じて行くものであらせていただきたい、このように思いました。
そしてその次の聖日では、この神様の光、あなたのみことばの光、それは聖なる臨在に輝き出る光である。幕屋の神様の臨在の箱の前に聖なる光がともされているその光。そしてそれは搾られた最高のオリーブの油なのだということも語らせていただきました。
そして前回、詩篇119篇130節「みことばの戸が開くと光が差し浅はかな者に悟りを与えます」。これを文語訳ですと「「聖言(みことば)うちひらくれば光をはなちて愚かなるものをさとからしむ」。
さて、「みことばの戸が開く」、これはどういう意味なのか、それは物理的な扉というよりも私たちの心の隔てとなっている扉をいっているのですが、その扉をイエス様がたたいていてくださる。そして「みことばの戸が開くと」とあります。誰がみことばの戸を開くのか。外側から強引に開けられることはありません。私の方で内側からどうぞお入りくださいと扉を開くこと、それを「みことばの戸が開く」といいます。このことをヨハネの黙示録から語らせていただきました。聖霊の呼びかけがあるとき、主イエス様とのみことばの交わりができ、主のみことばの饗宴に与り楽しむときとなる。すばらしい主の導きです。
そして今日は、ほんとうに短い時間ですけれども、「あなたのみことばは私の上あごに何と甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです」
いつものようにこのおことばを記し心に思いめぐらしておりますときに、さて、不思議な気がしました。「わたしの上あご」、「何と甘いことでしょう」、これらはどういうことなのか。
ふつう味は舌で感じる。それがなぜ「上あご」というのだろうか。好奇心がわきました。「上あご」の原語を見ますと、やはり舌で上の方を触ると堅い口蓋というんでしょうか、それが言葉の意味でした。舌ではなく「上あごに甘い」。おもしろいなと思いました。「口」という訳もあります。「私の口に何と甘いことでしょう」と。「歯ぐき」とも訳される言葉だそうです。「歯ぐき」、歯周病にでもならないかぎり使うことはなさそうですが。
それはそれとして、むしろ、「私の口に何と甘いことでしょう」。伝えたいことはこのことであり、「上あご」にはそんなにこだわるところではない。何れ「何と甘いことでしょう」、これがいちばんのポイントであることは間違いありません。
私は山歩きが好きです。登山というとオーバーですが、とても山歩きが好きなんです。ご存じのとおり、鞍掛山を私の家の裏山のようなつもりで歩いている。その登山道でのことです。登山口から20分ほどだらだらした上り坂を行くと分岐点があります。そこからまっすぐに行ってもいいのですけれども、右側の方に行きますと、そこはもう急登、急な登りになります。私はその急登の方を登って頂上まで行く。それがいつものルートです。ある日のこと、その分岐点にたどり着くまでのたかだか20分にもならないうちに、体が動かなくなった。どっと疲労を感じました。おかしいなあ、今までこんなことはなかったのに。自分でもびっくりしました。急登が登れないのです。
はたと気づきました。だいたい私は月曜日の朝に鞍掛山に登ります。どうも日曜日の夜の食事に原因があったようです。日曜日の最後の食事は、何かの関係で軽めに摂ったのでした。その翌日のことですから、ちょうど12時間経った月曜日の朝。胃の中には何も入っていない。たまたまのことなのですが。これはシャリバテだと思いました。登山用語です。ごはんを食べていないと力がなくなってしまう。このシャリバテは笑いごとでない、それで遭難することがある。そう気づきました。そのとき以来、私は、山に登るときには、必ず朝に一口でも、甘いものを胃の中に入れていきます。マラソンのときに、沿道にドリンクなどが準備されているのがわかる気がしました。
皆さん方、私たちが信仰生活を歩むときにシャリバテの状態にならないように。私たちのシャリはみことばです。聖書のみことばをちゃんと読み続けているのならば、その日その日のそれを食べているのならば、シャリバテにはならない。力が与えられる。
疲れたときにチョコレート一かけらでもいい。私の場合にはそれが教訓になっています。私は自家製の甘ざけを作るものですから、その甘ざけを飲んでいくようにしています。
シャリバテになることがある。これは私の体験談です。決して作り話ではない。間違ったことは言ってはいません。私たちが信仰生活を送っているときに、非常に疲れた、歩くことができない、戸惑ってしまう。自分でも自分が信じられない、どうしてなんだろうというときに甘いものを摂る。そのときの自分にぴったりなおことば。そうそう、このおことばだと読み、思い出して、このおことばに励まされるという経験があります。思いがけぬ危機を乗り越える食べ物として、是非おことばを食べていただきたい。
この「甘い」というときに、子どもの味覚があります。しかし、やがて大人の味覚というものが分かるときがある。先ほどの「上あごに」ということばの意味がピンときた気がします。そうか、「上あごに甘い」、これって大人の味覚じゃないのかな。舌で甘いというのは子どもの味覚。けれども、「苦しみにあったことは私にとって幸せでした。それにより私はあなたのおきてを学びました」という詩編119篇71節のおことばがあります。苦い、苦しい、辛い、大きな障害に直面したときに、神様のおことばが与えられる、そのときに、なるほど、そうか神様は、このおことばをもって私に力を与えてくださるというときに、舌の感覚が子どもの味覚ではなく、大人だけにしかわからない、信仰生活の意味が、つらい経験をした者だけがわかる単なる甘さではなく、こくがあるというのか、そこを通った者でなければ味わえないような深さ。苦さの中にうまみがある。そうだ、これで神様の掟を学んだのだ。そのおことばによって励まされ慰められ勇気が与えられるという経験を私たちは持つことができます。
どうぞこの2,022年、「ただおことばをください」。どうか、上あごで神様のおことばを味わうことができるような大人として歩ませていただこうではありませんか。
―この後、ハイブリットではありますが、厳かに聖餐式が執り行われ、休憩を挟んで、教会総会が開かれました。―
※データは教会からお借りしています。
⏰5時38分更新
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