きょうのことば『聖言 (みことば)に委ねる』
インマヌエル盛岡キリスト教会2022年2月13日(日)のメッセージをお伝えいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で48年目のご奉仕をしておられます。
説教題 『聖言 (みことば)に委ねる』(國光勝美 牧師)
引証聖句 テモテへの手紙第二 3章10~17節
10 しかしあなたは、私の教え、生き方、計画、信仰、寛容、愛、忍耐に、
11 またアンティオキア、イコニオン、リステラで私に降りかかった迫害や苦難に、よくついて来てくれました。私はそのような迫害に耐えました。そして、主はそのすべてから私を救い出してくださいました。
12 キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。
13 悪い者たちや詐欺師たちは、だましたり、だまされたりして、ますます悪に落ちて行きます。
14 けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分がだれから学んだかを知っており、
15 また、自分が幼いころから聖書に親しんできたことも知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えて、キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができます。
16 聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。
17 神の人がすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるためです。
きょうは「聖言(みことば)に委ねる」。説教題を準備しながら思い巡らす中に、そうだ、最善な教会であるかどうかという以前に、私たちのすべてをみことばに委ねようという姿勢になっているかどうか。もしきょう、すべてをみことばに委ねるという結論に至ったのならば、きょうの私の主の御用は果たせたといえるのでしょう。
前回の復習ですが、イエス様のおことばです。
「あなた方は、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているものです」(ヨハネ5:39)
私たちが、神のことば聖書をしらべるとき、読むとき、学ぶとき、その結論として、そこに救い主イエス・キリストというお方を見出すことができなければ、ほんとうの意味で聖書を学んでいるとはいえません。けれども聖書を読んでイエス・キリストをしっかりと捕らえることができたならば、もう聖書の核心部分を握ったと言えます。そのみことばをしっかり握って、みことばに委ねていく、こういう生き方をさせていただきたい、そんな思いで今講壇に立っております。
ここにマタイの21章42~44節を抜き書きいたしました。これはイエス様に論争を仕掛けてきた、どちらかといえば敵対する側の人たちからの攻撃に対して、イエス様が彼らに言われたことばです。
42 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、聖書に次のようにあるのを読んだことがないのですか。
『家を建てる者たちが捨てた石、
それが要の石となった。
これは主のなさったこと。
私たちの目には不思議なことだ』
43ですから、わたしは言っておきます。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ民に与えられます。
44 また、この石の上に落ちる人は粉々に砕かれ、この石が人の上に落ちれば、その人を押しつぶします。」
分厚い聖書の中から、突然このマタイの部分だけを抽出いたしました。お分かりいただけるように、イエス様が彼ら敵対する人たちに対して、あなたたちは聖書に書いてあることを読んでいないのかと問います。
イエス様が最も論拠を置いているのは聖書です。最も大切なベースが聖書です。聖書にこう書いてあるじゃないかと引用している。それほど聖書に基づいて話されている。イエス様ご自身がご自分の土台を聖書に置いておられました。そして、あなたがた、つまり、ここで言うあなたがたというのは、敵対するパリサイ派、宗教学者、また既成の、自分たちこそが聖書を知る者であるといっているような人たちに対して、「聖書にはこう書いてある。家を建てる者たちが捨てた石。つまり家を建てた者たちというのは、自分たちこそが、と言っているそういう人たちが、こんなものは要らない、何の役にも立たないと言って捨てた石、この石は聖書のことですが、実はその捨てた石が建築の一番の要の石となったというのです。
自分は家を建て、何でもできるのだ、専門家なのだと言っている人たちにとって、これは 不思議なことだけれども、これは、主がなさっていることである。そして、いいですか、神の国はあなた方から取り去られ この石に対して反対する人たちが粉々に砕かれるし、またこの石がその人たちに落ちたとすれば、その人たちを押しつぶすんですよというのです。
イエス様は詩篇の118篇22節、23節も引きます。
22家を建てる者たちが捨てた石それが要の石となった。
23これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。
さあ、あなたたちは詩篇にこう書いてあることを知っているんじゃないか。なのに、どうして聖書はわたしについて証ししているというイエス・キリストご自身を信じないんだとイエス様がお怒りになっている。これが主がなさったことなのです。
聖書の上に落ちる人は粉々に砕かれる。今まで聖書に対して反対している人たちの生き方、これは粉々に砕かれてしまう。そして、聖書がそういう人たちの上に落ちたときには、その人たちを粉々に砕いてしまう。
「聖書の聖言(みことば)」と繰り返しくりかえし申しますけれども、これだけ年を振って、今日私たちが手にしている聖書というものが、どれだけ大きな意味のあるものであるか。この聖書の中から「この聖書はこのわたしについて証ししている」と仰るイエス・キリストというお方を見出すことができなければ、それは意味のないことです。お分かりいただけるだろうと思います。
そして今日のところに入ります。テモテ第二の3章、きょうのテキストのところです。皆さん方も聖書をお開き下さい。ここからが実はきょうのポイントとなります。
テモテ第二3章14節けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分がだれから学んだかを知っており、15また自分が幼いころから聖書に親しんできたことも知っているからです。
テモテ、わかるね、あなたは、小さいころからこの聖書を学んでいたんだよ。
このテモテの第二の手紙の背景を、今日は、十分な解説をしかねるのですけれども、これはパウロが殉教を前にしている遺言書のようなお手紙であります。愛弟子テモテに、「いいかいテモテ、わたしが最後に言いたいのは、このことなんだよ」と言っている。
そのすぐ次の
4章1節「神の御前で、また、生きている人と死んだ人をさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現れとその御国を思いながら、私は厳かに命じます。」そして2節に「みことばを宣べ伝えなさい。」
テモテ、いいですか、聖書を宣べ伝えるんですよ。だけどこの末の世には聖書のいっていることが、分からなくて、或いは自分に不都合だから真理に耳を背ける人たちがいるけれども、あなたはどうか聖書をしっかりと学んで福音を宣べ伝えなさい。
この3章でテモテにパウロは言うわけです。
テモテ第二3:14けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。
今のこの世の中が、どんなことを言ったとしても、テモテ、あなたは聖書から離れちゃいけないよ。そしてまた自分が幼いころから聖書に親しんできたことを知っているだろう。聖書はあなたに知恵を与えて、キリスト・イエスに対する信仰と救いを受けさせることができます。
ここで参考に使徒の働き16章1節をご覧ください。「それからパウロはデルべに、そしてリステラに行った。すると、そこにテモテという弟子がいた。信者であるユダヤ人女性の子で、父親はギリシア人であった。」
そして第2テモテの1章の5節をご覧ください。
「私はあなたのうちにある、偽りのない信仰を思い起しています。その信仰は、最初のあなたの祖母ロイスと母ユニケのうちに宿ったもので、それがあなたのうちにも宿っていると私は確信しています。」
テモテ、思い出してご覧。あなたがもっているその信仰は、最初は祖母ロイスとお母さんのユニケ、そのうちに宿ったもので、あなたは小さいころから幼いころから聖書を知っているね。
第二テモテ3章15節「また、自分が幼いころから聖書に親しんできたことも知っているからです。」
このようにパウロはテモテに対して言っております。このテモテという人物は、先ほどすこし申しました通り、パウロの、まさに遺言のように書かれた第二テモテに、テモテよ、と切々と訴えている者なんです。
「涙の子は滅びない」、というこれはアウグスティヌスの彼自身の記録の中にあるものなのですけれども、このアウグスティヌスという人は、最初の信仰から離れてしまって、異なるマニ教というキリスト教ではない、けれどもそういう異端的なものに心を寄せていってしまった。ほんとうの福音から離れていってしまった。そして彼が遊興三昧な堕落した生活に陥ってしまったとき、彼のお母さんは、涙を流しながら、彼の救いのために祈りをささげておりました。
私はテモテという人がアウグスティヌスのようなそういう道にいったとは考えられませんし、そうではないのですけれども、むしろテモテはどちらかというと臆病な性格。そしてパウロのような勇猛果敢なタイプとはちょっと違う。だけどもパウロはこのテモテに何とか自分のあとあとをきちっと継いでもらいたいということで、テモテのために切に切に祈っておりました。
テモテが幼いころから聖書を知る機会に恵まれた人であったということは、これは非常な恵みだと思います。小さいころ教会でみことばを読み、或いは、讃美歌に親しんでいたその人たちの中には、必ずや神のことばは宿っているのです。神のことばは宿っている。そして、涙の祈りの中に必ず神のことばは、いのちとまたその実を結ばせてくれるものでありましょう。
さて、第二テモテの3章にもういちど帰りましょう。
3章15節をご覧ください。
ちょうどきょうのメッセージの冒頭のところで、イエス様が敵対する者に対して、イエス様が、聖書にこう書いてあるでしょうと対応したように、パウロもそうでした。
聖書は、あなたに知恵を与えた。知恵なんです。知識ではない。ほんとうに人間に大切なものは何かといえば、それは知識ではなく知恵なんです。神を恐れる事こそまことの知恵なんです。そして、聖書はそれを私たちに与えてくれる。必ず神のことばいのちをもって、私たち今がどうであれ、その神のことばは、いのちをもってキリスト・イエスに対する信仰による救いを得させる。神のことば聖書は、私たちにそれを与えてくれる。パウロはそのことを確信しているからこそ遺言書のようにこの第二テモテでいっていることがおわかりいただけるでしょう。
私はこれを思い巡らしながら、第一ペテロの1章23節のおことばが浮かんできました。
ペテロの手紙第一1章23節あなた方が新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく朽ちない種からであり、生きた、いつまでも残る、神のことばによるのです。
神のことばがまかれているのです。神のことばがまかれている。そこに私たちの祈りの涙が、そのまかれた種のところに落ちていくとき、神のことばは、生きて本当の救い、知恵を与えてくださいます。これは、
テモテへの手紙第二3章16節聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。
聖書はすべて神の霊感による。すごいことです。神様の霊感によってこの神のことばが書かれたのです。世の中にはこれこそ天国に、祝福に導いてくれるといったものが幾つも本屋さんに行けばあるかもしれないし、ネットで検索すれば、類似するものがあるかもしれない。しかし、霊感された神のことば、これは絶対的な価値のあるものであります。そしてそれをさらに思い巡らすときに、御霊の剣、すなわち神のことばを取るようにというエペソ6章17節のことばがございました。
エペソ人への手紙6章17節救いのかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい。
神のことば、これは救いの兜や正義の胸当てである。神の武具をもってよろうようにとあるのです。私たちが戦いで使わせていただくのは、神のことば聖書、神のことばの剣をしっかりと取る。戦いは厳しいですから、私たちの弱い握力、疲れやすい信仰、それにぐるぐるぐるぐる包帯を巻いて、決して落ちないように握る。信仰の握力。私は、そうだ、聖書のことばをしっかり握って、包帯を巻くというのはきっと色々な先輩たちの教えだとかすばらしい名著、キリスト教に関わる名著のようなもので励ましを受ける。恵みをいただくことは、ちゃんと神のことばに生きられるように、私たちがしっかり握るようにという包帯じゃないだろうか、そう思いました。
私たちの使うことばは決して刃こぼれしない、どんな戦いをしても折れたりはしない。霊感された神のことばを私たちはしっかりと握って、その神のことばで激しい戦いに勝ちを得ることができる。
ことし皆さん方、ことしの頼りとなるおことば、それぞれ祈り求めていらっしゃることでしょう。その神のことばは、霊感された神のことばですから刃こぼれしない、どんな戦いをしても折れたりはしない。霊感された神のことばを、私たちはしっかり握って信仰を堅く保っていただきたい。
もう一つだけ、これは初代の蔦田二雄先生が仰ったことです。
「いいですか、神さまのことばを、聖書をとにかく毎日読みなさい。手にしなさい。聖書の始めから終わりまで読みなさい。でも皆さん方が世の中で生きてゆくときに、さまざまな条件、状況がある。きょう聖書に触れることができなかった、そんなときもあるでしょう。それでも、聖書をぱっと開いてぱっと見てすぐに閉じる、とにかくこうやるだけでもいいから、こうやるだけでも違うんです」
先日の祈祷会はひろ子先生がメッセージを務めましたが、亡きT兄に触れておりました。T家の信仰の始めになった方で、インマヌエルではない教団で救いに与った方です。そこで「ふーぽんクリスチャンになっちゃいけない」と、こう教えられている。どういうことか。ふだん自宅では聖書をまったく開かず、日曜日になって聖書にたまったほこりをふーと払って、さあ教会に行こう。「これじゃだめだ。ふーぽんクリスチャンにならないように」。この話を思い出します。
どうか必ず聖書を開いていただきたい。毎日一か節でも聖書を読んでいただきたい。このように切に願うことであります。
※音声データ、画像は教会からお借りしています。
⏰6時14分更新
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