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2022年2月

220228 クラシック俱楽部を聴く 伊藤 恵 ベートーベンの後期ソナタを弾く

1983年ミュンヘン国際音楽コンクールピアノ部門で優勝。以来、第一線で活躍を続ける日本を代表するピアニスト。東京藝術大学教授でもあり、後進の指導にもあたる。
【曲目】
レントラー舞曲 D790(シューベルト)
ピアノ・ソナタ 第28番 イ長調 作品101 から 第2楽章(ベートーベン)
ピアノ・ソナタ 第32番 ハ短調 作品111(ベートーベン)
【演奏】伊藤恵
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コメント
Qシューベルトの音楽について

シューベルトの音楽は別れを告げる音楽だと思うんですよね。で、自分はもう行ってしまうんだけれども、みんなは幸せでいてねというような。やはり絶望だけじゃなくて希望をくれる作曲家だと思うんです。ドイツ舞曲は短い詩を読んでるような感じなんですけれども、楽しそうに振舞っていながら、心の中が寂しい人の音楽だと思うんですよね。で、それを大きな声でべつに言わない。本当に何かこうとってもデリケートで繊細で、やっぱり何でしょう、このひそやかに祈る、そのひそやかさというものがシューベルトの音楽は素敵だなと思います。
Qベートーベンに取り組み始めた経緯
話しだすと長いんですけれども、シューマンをやっているときには、シューマンがシューベルトにものすごくあこがれていたということが作品を弾けば弾くほど伝わってくるんです。やっぱりシューマンやってるあいだに、いつかシューベルトを弾きたい、シューマンで教えてくれたシューベルトみたいな。それでいよいよシューベルトを始めました。こんど、シューベルトがすごくベートーベンを尊敬してるということがまた伝わってきて、シューベルトをやってるあいだに、だんだんだんだんこのベートーベンの世界に近づきたいと自分が思ったんですけれども、実際のところ、昔はベートーベンは偉すぎて何だか難しすぎてあまりにも巨大で、とてもこう触れることもできない。勿論コンチェルトや室内樂はやらせていただきましたけれども、こちらがずっと修行してきて、ある日突然ベートーベンが何を謂わんとしていたかということが、彼の音楽の優しさというのが、なんか急にこう身に染みたんですよね。そのとたん何か私の中で、ベートーベンへの愛みたいなものがさく裂した。人間賛歌ともいえるような彼の人間愛、彼のほんとうに辛い人生、音楽家であのようなことが起きるなんて、信じられないようなことだけれども、それをすべて超えて、我々に何百年過ぎても、すばらしい愛をくれる作曲家なんだということに突然気が付いたんですね。
Qピアノ・ソナタ第32番について
完璧な人間じゃなくても、もう駄目な人間ていったらあれですけれども、人間の存在そのものが尊いということを何かこうシンプルな2楽章の歌で包み込まれるようなんですよね。私は神様というのがどこにいるかわからないけれども、ベートーベンの音楽の中には神様がいて、その神様にこう自分が温かく包まれるような何かそういうふうな感動があります。
Qピアノ・ソナタ第32番を弾き終えて
あの曲は皆さまにお聞かせするために何か弾くというよりは、ほんとうは自分のために弾いてしまうようなところがあるんですけれども、あまりにもすばらしい音楽なので、やはりこれから一人でも多くのその音楽家がこのソナタを演奏して、ずっとずっと、ベートーベン生誕300年、500年、1000年と続いていったらいいなと思います。

🎵あたっているかどうか、32番の今回の終わりの部分を聴いていて、新たな境地が見えた、光が差した、探り出し得たというベートーベンの穏やかで満たされた心境が読み取れた気がする。
伊藤恵というおなまえ、名曲アルバムで聴き、ネットでググって、実際どんな方かなと思っていたけれども、本日TV画面で声、コメントを聞くことができた。

🎧名曲アルバム。シューベルト/ゲーテ/若草恵編曲「魔王」
(バリトン)河野克典,(管弦楽)東京フィルハーモニー交響楽団,(指揮)円光寺雅彦
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⛳追加は「こころ旅」のおうまさん
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昨日の「クラシック音楽館」、きょうのステージの明るさは! とよく見てみると、黒服のあいだに明るい色のドレスの女性奏者。2時間のスペシャル版、あの方、この方、あの楽団も……またたくまの2時間でした。
9時38分更新




 

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きょうのことば「聖言に聞き、従う人」

インマヌエル盛岡キリスト教会2022年220()のメッセージをお伝えいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で48年目のご奉仕をしておられます。

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説教題 『聖言 (みことば)に聞き、従う人』(國光勝美 牧師)
引証聖句 第一サムエル 15章17~23節
17 サムエルは言った。「あなたは、自分の目には小さい者であっても、イスラエルの諸部族のかしらではありませんか。
18 主があなたに油を注ぎ、イスラエルの王とされたのです。『行って、罪人アマレク人を聖絶せよ。彼らを絶滅させるまで戦え。』
19 なぜ、あなたは主の御声に聞き従わず、分捕り物に飛びかかり、主の目に悪であることを行ったのですか。」
20 サウルはサムエルに答えた。「私は、主の御声に聞き従い、主が私に授けられた使命の道を進みました。私はアマレク人の王アガグを連れて来て、アマレク人たちは聖絶しました。
21 兵たちは、ギルガルであなたの神、主にいけにえを献げるために、聖絶の物の中の最上の物として、分捕り物の中から羊と牛を取ったのです。」
22 サムエルは言った。「主は、全焼のささげ物やいけにえを、主の御声に聞き従うほどに喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。
23 従わないことは占いの罪、高慢は偶像礼拝の悪。あなたが主のことばを退けたので、主もあなたを王位から退けた。」

 

前回のこの場面思い出していただけますでしょうか。

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 この石の上に、つまり聖書の上に落ちる人は粉々にくだかれ、この石が人の上に落ちれば、それに反対する人たちの上に落ちれば、その人を押しつぶします。
 この画面を皆さん方の印象にとどめていてくださるならば、神様の聖言(みことば)こそ世々に変わらない確かなものである。神様のみことばに聞き、このみことばに従う、このことを特に今年は心しているのだなと確認いただけると思います。

そしてきょうは、このサムエル第一のところを開きましたけれども、おはなしはこれだけにとどまりませんので、どうぞ主のおことばに扱われるということはどういうことなのか、主のおことばにくだかれるということはどういうことなのか、そして主のことばに聞き従う人の幸い、これを結論のように心に止めていただきたいと願っていることです。

 

20220221-132211  きょうは、サムエル第一の15章のところであります。このサムエルのところをずっと学んでいてもなかなか聖書の内容をすぐ理解するのは難しい、そういう部分であります。ですので、その背景ということをある意味抜きにして、きょうは、とにかくサウルという王様がいた、そのことをまず覚えてください。実はこのサウルという王様は、イスラエルの第一代の王様として神に選ばれた器であります。しかし、せっかくそのような神様の恵みの選びをいただいたサウル王でしたけれども、神のことばに聞き従うということに失敗をしてしまい、そして、とうとうこのサウル王様は神様から捨てられてしまいました。第二代の王様として、ダビデという王様が現れる。きょうはこのサウル王様とダビデ王様につて、神様のおことばということを中心に考えて、何がこのような違いをもたらしたのだろうか。このことをお話ししたいために、サウル王様の背景だとか第何代目だとか何年ごろというようなことを、ある意味いっさい省略して、このサウル王様、神に捨てられた王様。そして神に選ばれたダビデという王様、神様のおことばで、どう違うのかというところをきょうの焦点として覚えていただきたいと思います。

 サウル王様は結局捨てられてしまった、失敗をしてしまったその場面なのですけれども、サウル王様は、神様の預言者サムエルに対してこたえたわけです。いいや私はちゃんと神様のお声をを聞きましたよ。そしてちゃんと私は神様が仰った使命の道を歩みましたよ。ちゃんと私は神様が仰ったとおりにやりましたよと。ところが実際はそうではなかった。アマレク、これは聖書に登場するときに、かわいそうな気もするんですけれども、いつでも神様に敵対する悪の勢力として登場する。神様はサウル王様に「アマレクを滅ぼし尽くしなさい」と命じられた。ところがサウル王様は、そのアマレクを滅ぼすときに、いちばんいい物、これは自分たちに取っておいて、そうでない物は、というような私欲に駆られ、滅びつくさなかったのです。自分のいいように、都合のいいように解釈して、表面上はたしかにアマレクを滅ぼした。ところが神様がことごとくそれを聖絶しなさい、無きものにしなさいといったのに、サウルはさっき申しました通り、自分に都合のいい物はこっそりと持っていた。嘘を言ってしまった。私はそれを思いながら、私はここに人間の本性というものがあらわれているなと。これは創世記3章12節、これはもう皆さんよくご存じのところだろうと思います。アダムとエバがサタンの誘惑に乗ってしまいまして、神様が食べてはならないという禁断の木の実を食べてしまったときの言い訳です。
 人は言った。「私のそばにいるようにとあなたが与えてくださったこの女が、あの木から取って私にくれたので、私は食べたのです。」すると女が言った、「蛇が私を惑わしたのです。それで私は食べました」。やってはいけないと分かっていながら失敗をしてしまった。このときに、ごめんなさいとほんとうに心から悔い改めたなら、どんなに幸いだったでしょうか。

 人間の本性は、自分を正当化して何とか言いつくろう、言い訳をするのです。そして責任を擦り付ける。神様を恐れてちゃんと聞き従えばよかったものを、彼の、彼女の、あの人の、この人の声に聴き従ったんですといって、あくまで自分の失敗というものを隠そうとする。或いは、何とか言い逃れようとする。このサウル王様に私は人間の本性、これを見る気がするのです。そして、それは、私たちは聖書の中の人物をそのようにみるんですが、これあは、自分自身の問題、私自身の問題としてみる。ほんとうに人間の本性として、そういうことをやってしまう。それを認めざるを得ません。

さきほど、言及したダビデ、これは皆さん方には、聖書の代表的なよい人物として多くの人に慕われている理想の王様として位置づけられておりますし、何よりもそれを裏付けるようにイエス様は、ダビデの子である、というそういうほめことば、ダビデの直系の子孫だということがどれほど誇らしいものであるか。それほどイスラエルの人たちには理想的な王様。それに対して、悪役として登場してしまったのがサウルという王様。ところが、皆さんどうでしょうか。私は、サウル王様の行った罪と、ダビデが犯した罪、失敗をどっちがていると比べることができませんが、私たちはあまりにダビデを最初から理想的な模範的なというような眼鏡で見てしまうんですが、むしろ、そうでなく、ダビデはほんとうに大きな罪をその生涯の中で犯したことがあるのを思い起しながら、想像していただけるだろうと思います。なのに、なぜサウルは捨てられ、なぜダビデがこれほどまでに素晴らしい人物と評価されるのだろうか。

 それは、サウルは最後まで自己弁護、責任転嫁、神様の前に素直になりきれない、そういう態度をとっているのです。ところが大きな罪や失敗を犯したダビデですけれども、彼は、詩篇に自ら証ししているのを見てもお分かりの通り、率直に神様のことばの前にくだかれるということを経験している。私たちがことし、神様のおことばということを、そして私ということを主題としてずっと講壇お話しさせていただいているんですけれども、このサウルのようなものでなく、私たちはダビデのように神様のおことばにくだかれる、そういうあり方生き方をぜひさせていただきたいなあと。
 この決定的な違い、それを罪の解決ということばで、まとめてみました。ダビデは神様のおことばで自分のほんとうの姿を知らされたときに、詩篇の51篇、そうですけれども。ほんとうにああ、私の母はほんとうに罪のうちに身ごもったともう徹底的に自分自身の罪を神様の前に認めて、ああ主よ、あなたにはとこしえの赦しがあり、きよめがあります。こういって、罪の解決ということを神のおことばを通して砕かれる経験をしている。残念ながら、サウル王様はこのことができていなかった。

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 さあ、いつの間にか名前が変わりましたね。私はこれを思い巡らしながら、マリアとマルタという二人の姉妹を思い巡らすことにしました。これは新約聖書のルカの福音書10章41、42節の場面です。
 これも限られた場面ですから背景を省略いたします。
 いずれにせよ、マリヤとマルタ、ここには出てきませんがラザロというこの3人は主に愛されたすばらしい兄弟姉妹でした。お父さんお母さんは出ていない。たぶん3人はその当時両親を失って、互いに力を合わせながらうるわしい生活をしていたのです。それでイエス様は、マリア、マルタ、ラザロの家に行くことをとても楽しみにしておられたというのがこのルカの10章の背景にはある。
 そのとき、マルタは大好きなイエス様をおもてなししなければと、いろいろな接待に心をくだいていました。ところが片や、マリアは、イエス様よくおいでくださいました。恵みのおことばを待ち望んでいましたとイエス様のあしもとに行って、イエス様のおことばを聞こうとしている。それを目にしたマルタは、私がイエス様をおもてなししようとこんなに動き回っているのに、「先生、マリヤに私を手伝うように言ってください」と、ついつい言ってしまった。ところが主はこたえられました。

「マルタ、マルタ、あなたはいろいろなことを思い煩って、心を乱しています。しかし、必要なことは一つだけです。マリアは、その良いほうを選びました。それが彼女から取り上げられることはありません」とマルタに教えたわけです。
 
これはよく親しまれている場所でもありますから、私たちは、そうそうマルタはそうで、マリヤはイエス様に受け入れられたんだと思いますね。だけれども、これを自分自身の問題として世の中で社会で会社で或いは家で果たしてどうなんだろうか。私はこの二人の決定的な違いがあるとすれば、それは、いい悪いを超えて性格の違いだと思うのです。マルタはもてなす方が好きなのです。マリアはひとり静かにしていることの方が好きなのです。いい悪いの問題ではなく、性格が違う。私は、このようにこの場面を捕らえました。
 このイエス様のおことばで、マルタもマリアも教えられたでしょう。光が与えられたのです。そのとき、マルタは自分の欠点に気が付いた。イエス様をお喜ばせするのはマリアのように静まることなのだな。しかし一方マリアはこのとき、どのようにイエス様のことばを受けたのでしょう。そうよ私の方がふさわしい態度なのよといったのか。それともマリアは、お姉さん手伝わなくてごめんなさいと思ったのか。そのことに気が付いただろうか。私の方がいいのよと言ったのだろうか、それとも。マリアは、そのことに気が付いたと思うのです。
 マルタのこの自分の欠点、主の光が与えられたときに、それに気が付く。そのときに二人とも教えられやすい心、そして、くだかれやすい心、これを持つことがほんとうに大切なことであろう、このように思うのです。聖書を通して光が与えられたとき、自分の欠点に気がついたとき、それにサウル王様のように自己弁護したり、弁解したりというのではなく、素直にくだかれる。そして、本当にそうでしたというように出ることがどんなにみことばの前に喜ばれることであろうかと思います。

これは私の忘れられないエピソードとして、三森春生先生から伺ったことがありました。教団が発足してまもなくのことです。三森春生先生と言えばこの教会にも一度ご夫妻をお招きしたことがあります。年代は河村襄先生、或いは竿代忠一先生方とほぼ同年の先生です。発足当時からインマヌエルの働きに深く関わってくださって、そしてほんとうによき賜物を持っておられる。今現在インマヌエルの本部がお茶の水学生キリスト教会館に置かれておりますことも、この三森先生のもっておられた賜物といいますか、それらのことがあったということ。そのような三森先生がまさしくマルタのように教団のために一生けん命に労しておられたときのことでした。ちょうど年会がありました。そしてさまざまな忙しさの中に、年会を指導しておられました蔦田二雄先生から三森先生が呼び出しを受けた。「三森君、いったいこれはどういうことなんだ」と。蔦田先生の指摘を受けたとき、それは明らかに、蔦田先生の誤解によるものだったのです。三森先生はほんとうによく気を利かしてよかれと思ってなさったそのことが、蔦田二雄先生にはわからなくて、三森先生が出しゃばったことをしたというので、そのことで呼び出しを受けた。蔦田先生から「君は年会のあいだ、今のところで動かなくていいから、(その当時の浦和の神学院の)図書室で、君は年会の期間中、祈っていなさい。悔い改めなさい」という指導を受けたそうです。三森先生は、先生、それは違います、これこれこういう事情があって私は先生のためを思ってこのようにしたんです」と言いたいことがいっぱいあった。
 けれども思ったそうです。僕はきっと今までマルタ的なことをしていたものだから、今回のことも、いうなれば先生からお灸をすえられて、年会期間中に図書室でひとり悔い改めの祈りをするように指導を受けたのだろうと。
 おそらく三森先生はこのことは生涯忘れられなかったでしょう。このことを私は教団発行の月刊誌「翼」の証しで読んでいたのですが、三森先生から直接伺った記憶があります。
 僕はあのとき、ほんとうに扱われた。自分の仲間たちが年会のために一生懸命に奉仕をしているときにそれを外されて、やはり悔しかった。しかもそれが誤解であって真実ではない。けれども僕は、あのときほんとうに砕かれた。言いたいこと言い返したいことがいっぱいあったけれども、図書室から出て、先生ほんとうに申し訳ありませんでしたと申し上げた。これはとり繕いではなく、真心から自分の足りなさ、欠けているところを教えられたのです。
 この三森先生のエピソードは、私には、ほんとうに忘れられない大きなことでありました。自分の欠点を指摘され、そのときに、心から主の前に申し訳ありませんでしたと自分のありようを知らされ続けること、これが、きよめという生涯的な成長であり、きよめというものがここに現れているのだろうなと思ったことであります。ほんとうに主のことばにくだかれるということは次のおことばの通りです。

1サムエル 15:22 「見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。」

 このようなメッセージをさせていただきながら、自分の心の中にある弱さ、足りなさというものを、機会が与えられたならば、弁明するのではなく、その前に悔い改めて、主よ、そして、文語訳ですが、詩篇の19篇14節

詩篇の19篇14節「我が口の言葉、わが心の思念(おもひ)汝の前に悦ばるることを得しめたまえ」。

生涯的にこのようであらせていただきたい。神様が皆様方に、ことしどのようなおことばをかけてくださるでしょうか。そのとき、どうかみことばに素直に聞き従い、そして、耳を傾け、ダビデのごとくあらせていただきたいと願っております。

※音声データ、スクリーンショットは教会からお借りしています。
いちどの説教に使われる画像はここに掲載している枚数の数倍ありますが、ここではごく限られたものだけをアップしています。
⏰5時59分更新

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J-MERO写真のみ

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 写真だけは数枚。一通り聴いてついつい今時間に。すこし疲れ気味。
J-MERO、ゲストはGARNiDELiA、鈴木鈴木。インタビューはMay J.
眠い。猛烈に眠い。眠りこそは平和。

⛳20時25分更新

 

 




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220225クラシック俱楽部を聴く 川本嘉子 心に響くビオラの調べ

1992年ジュネーブ国際音楽コンクールビオラ部門で最高位を受賞。ソリストとして活躍する他、NHK交響楽団の首席客演奏者を務めるなど、幅広い分野で活動を続ける。
 
【曲目】ビオラ・ソナタ へ調 作品11第4(ヒンデミット)
     アルペジョーネ・ソナタ イ短調 D.821(シューベルト)
     F.A.E.ソナタから 第3楽章 スケルツォ(ブラームス)     
【演奏】川本嘉子(ビオラ)、津田裕也(ピアノ)
【収録】2022年1月11日 北とぴあ さくらホールで収録。
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コメント
 私もビオラを弾いてるとあまりこうきーきーしないし、バイオリンのときはもうすごかったんです、練習、練習、練習で。苦労はするんですけど気持ちが楽なまま舞台にのってるというのはあるかもしれないですね。もしかしたら私の思い過ごしかもしれないんですけど、こう優しい気持ちになって会場を出られる方がたくさんいらっしゃるんではないかなあと思いますね、ほかの楽器の演奏会よりもやさしいおおらかな気持ちになるみたいな。
 シューベルトにとっては、アルペジョーネの曲なのでビオラでもチェロでもバイオリンでも弾けるということにはなってると思うんですけれども、ビオラのこの中音域しかない魅力が出たらいいなと思って今回取り上げてみました。やっぱり器用さというか、チェロとか、アルぺジョーネに比べればこれだけの幅で弾けるわけですよね。チェロとかだと(楽器が大きく指板が長い分動きが大きくなるという意味かと)こうやって弾かなければいけないから。その器用さは出てくると思います。ビオラで弾くことによって運指が楽というパッセージがたくさんあるので、より遊べるというか楽しみながら弾けるような気がします。

🎵川本さん仰る通り、「やさしくおおらかな気持ちになる」。身構えるところを解きほぐされるような。何しろ、別チャンネルでウクライナの緊張、ロシアの核のはなしを聞いた直後、今ICレコーダーでまたアルペジョーネ・ソナタを聴きながら書いているけれども、ロシアどこまでやるの?の緊迫感、恐怖が薄まらないまでも、かなり今を過ごせるようにケアされている感覚を持つことはできている。バイオリンでもチェロでも癒されはしたと思うが、ビオラはたしかに音色にやわらかさやさしさがジューシー。このところシューべルト作品がよく耳に心に沁みる。

🎧名曲アルバム。イザーク作曲、ニウナオミ編曲「インスブルックよさようなら」。
(カウンターテナー)青木洋也,(合唱)東京少年少女合唱隊シニア&ユース・コア,(リコーダー)古橋潤一,(リュート)櫻田亨ほか

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ゲーテ、モーツァルトが泊まったホテル。いまもそのままのたたずまいであると。
⛳7時きっかり更新。
急いで更新すると、あとで読んでやはり足りない部分、まずい部分があるなと。おまけにウクライナを付け足して11時39分再更新。
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220224クラシック倶楽部を聴く 奇跡のチェロ・アンサンブル 演奏会

日本を代表する若手チェロ奏者6人で2016年に活動を開始したチェロアンサンブル。ソリストやオーケストラ奏者として研さんを積んだ成果を披露する年末恒例の演奏会。
【曲目】賛歌(ダヴィドフ/W・トーマス・ミフネ編)
    ハンガリー狂詩曲 作品68(ポッパー/小林幸太郎 編)
    序奏とロンド・カプリチオーソ 作品28(サンサーンス/小林幸太郎 編)
    ブエノスアイレスの四季から「春」と「冬」(ピアソラ/小林幸太郎 編)
【演奏】辻本玲伊藤悠貴小林幸太郎伊東裕岡本侑也上野通明(以上、チェロ)
【収録】2021年12月27日東京文化会館小ホール。
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コメント
辻本:「チェロ6人のアンサンブル」、チェリストの伊藤悠貴くんが、みんなに声をかけて、それで、毎年、途中から年末に変わったんですけど、年末の恒例行事となってます。みんな勉強してきたところとか、そういうところぜんぶ違うのでいろんな個性が出るので、それを一つの作品にする難しさはあるかなと思います。でもみんなそれぞれをちゃんとリスペクトして尊敬してる部分がうまくいってる秘訣でもあります。
上野:このメンバーだからこそより楽しくなるというのが個人的にありますし、小林くんがアレンジしてるんですけども、それぞれのパートにそれぞれのソロパートが順番に回ってきたり、それぞれに見せ場があるようなアレンジなので、そういうのがやはりこのメンバーのこの一アンサンブルの個性かなと思います。
辻本:「序奏とロンド・カプリチオーソ」、やっぱりバイオリンで弾くのも難しいとおもうんですけど、たぶんチェロで弾いた方が1000倍ぐらい難しいと思うんですけど、ほんとにもう言葉通り、指板をもう駆け上がって駆け下がってほんとうにもう大忙しなんですけど、音だけじゃなくて視覚的にもすごくアクロバティックなところを楽しんでいただけるかなあと思います。
上野:チェロ6台でやると原曲よりもやっぱり分厚くなるというか、ソロパートはもちろんちょっと太く力強いイメージになるかなと思っていて、あと魅力としては、ソロパートと伴奏をぜんぶチェロという一つの楽器でできちゃうのがすごいことなんじゃないかなって。


🎵2016年の活動開始。単純に当年6歳の楽団。4人のチェロアンサンブルを聴けるというときには、ティンパニーぐらいにはどきどきしたが、6人のチェロアンサンブルとなると、どきどきを超えてだいじょうぶまとまるのかな、まとめてみせるのかな、かなり朗々と重厚に圧してくるかもなどと聴く前には憶測した。5時からの放送を聴き、いままた録音を聴きながら書いている。説得力目指して上昇中という感じが。演奏は線引きとはちがうけれども、破線、実線、点線のうちの確かな実線で足が地に着いたような紆余曲折を聴いているような存在感がある。
「序奏とロンド・カプリチオーソ」、やはりオリンピックのフギュアを思い出し、しているうちに、ギュアばかりじゃない、と次つぎに日本選手団の競技場面を思い出すこととなり、この音色が新たにオリンピックのシーンを彩ってくれた。
この音色で軽みの演奏は難しいのかと思えばさにあらず。



🎧名曲アルバム。マトス・ロドリゲス「ラ・クンパルシータ」、小松亮太編曲
「ラ・クンパルシータ」(バンドネオン)小松亮太(演奏)オルケスタ・ティピカ ~ウルグアイ・モンテビデオ~
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学生のときに友人たちの仮装行列のために作られたとか。

⛳10時4分更新。


 この番組のあとが「こころ旅」。はやくTVを消せばいいものを、クスノキを訪ねるという。ついつい観ていると、たしか樹齢1400年といったような、子どものころにこの樹にのぼって遊んだという方の依頼。それを見るまでは消せない。見たから消そうと思ったところが。次は天草。
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 壁にぶち当たったときに、車をとばし、この天主堂を対岸から見て背筋の伸びるような思いになり、すっきりととしてまた日常にもどることができたという方のお便りだった。
 
 これを見ているとまたぜんたい遅れてしまうと思いつつ分かっていながらついつい観てしまう。
で、10時21分の再更新




 

 

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220223 クラシック倶楽部を聴く 岡本誠司 バイオリン・リサイタル

2021年ミュンヘン国際音楽コンクールで優勝したバイオリンの岡本誠司がベートーベンとシューベルトの名曲を披露。ピアノは、若手ピアニストとして活躍する務川慧悟
【曲目】バイオリン・ソナタ 第10番 ト長調 作品96から 第1、4楽章(ベートーベン)
    幻想曲 ハ長調 D934(シューベルト)
【演奏】岡本誠司(バイオリン)、務川慧悟(ピアノ)。
【収録】2021年12月23日、浜離宮朝日ホール。ー番組紹介からー
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コメント
岡本:僕は両親も音楽と関係ない仕事をしていますし、身近にバイオリンがあったわけではないんですが、3歳の時に近所の公園でよく一緒に遊んでた女の子がいて、その女の子が弾き真似をしてくれて、おお、カッコいいなと思ったのがそのきっかけだったんですけども。その時点では実はまだそのバイオリンの音というのは聴いたことがなくて、その後、その女の子のご両親が、それはきっとバイオリンだからということを僕の両親に教えてくださって、で、初めやっぱり成長もしたなて家に楽器がきたときは、むしろほんとに来ちゃやったよという感じでとても恥ずかしくて隣の部屋に逃げちゃったのを覚えてるんですけども。それから紆余曲折あり、素晴らしい先生に恵まれて、それから25年ほど経った今ですが、まだバイオリンを楽しんで続けてます。
務川:誠司は4年前の共演と今回やっぱり留学して変わったというか、成長もしたなと思うんですけれど、彼の演奏はひとことでいえば、渋いといえるのかもしれない。しっかり聞くことですごくよさが分かる演奏なんですけれど、彼は非常に好奇心もあって、楽譜というものをすごく深く読み込む人で、だけれど、たくさんの知識があるんだけれども、それによって縛られることがない。だから非常に研究肌でもあるけれど自由、そこのバランスがすごくとれた人なんではないかと思ってます。

🎵ベートーベンのバイオリン・ソナタ10番はこのシリーズの最終作。曲自体に強い感情の表出がないので、ベートーベンの作品の中でもやや平板。その点シューベルトの「幻想曲」ではその迸りも感じられその境地に楽しめた。

 

🎧名曲アルバム。バルトーク「弦楽四重奏曲 第1番」。演奏はクァルテット・エクセルシオ。
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バルトークは18歳でブダペストへ移住。王立音楽院で作曲とピアノを学ぶ。「弦楽四重奏曲 第1番」は母校の教授を務めていた27歳の時に書かれた。バルトークは生涯民俗音楽の研究に没頭。生涯に書いた6つの弦楽四重奏曲はその象徴的な作品であるという。
近年、私がバルトークを好むようになった理由はこんなところに。やはり民俗から生まれは継がれたものには自然に入り込んで癒すものがあるように思う。

⛳久方ぶりに7時きっかり更新

 

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220222 クラシック倶楽部を聴く ゲアハルト・オピッツ ピアノ・リサイタル

ゲアハルト・オピッツは巨匠ケンプの薫陶を受け、ドイツ・ピアノの正統派の流れを継承する演奏家として知られる。親日家でもあり度々来日し、数多くの名演を残している。
 
【曲目】ピアノ・ソナタ ハ短調 K.457(モーツァルト)
     組曲「展覧会の絵」(ムソルグスキー)
【収録】2021年12月14日 東京オペラシティ コンサートホール。

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🎵連日聴く「展覧会の絵」。きのうは弦が重厚さに捕らわれ、浚われながら聴いたけれども、きょう、ピアノには、音と音との間隙にすきっとした空気感も感じられ、心地よく聴いた。

🎧名曲アルバム。ギター福田進一
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トローバは数々の古城からインスピレーションを得て作曲。その一つがセゴビア城。900年の歴史を持つという。イスラム教徒が基礎を作り、町を奪い返したキリスト教徒がスペイン髄一の美しさに仕上げたという。トローバは生涯ギター音楽にこだわり続けたとか。

⛳きょうまでか、もはやこれまでかと幾度か思いつつ更新を絶やさずにきたけれども、このところすこし怪しくなりかけている。明日はどうだろう。無理のないところで、1行なりとも。
22時5分更新

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220221 クラシック倶楽部を聴く フォーレ四重奏団〜ピアノ四重奏が奏でる「展覧会の絵」 &  220219 J-MERO

220221 クラシック倶楽部を聴く フォーレ四重奏団〜ピアノ四重奏が奏でる「展覧会の絵」

フランスの作曲家フォーレの名に因んで、カールスルーエ音楽大学出身の4人が1995年に結成した四重奏団。日本にも度々訪れ、多くのファンを魅了し続けている。
【曲目】ピアノ四重奏曲 断章 イ短調(マーラー)
    組曲「展覧会の絵」
    (ムソルグスキー/ディルク・モメルツ、グリゴリー・グルズマン 編)
    夢のあとに(フォーレ/ツェルナー 編) 
【演奏】フォーレ四重奏団【収録】2021年12月6日、所沢市民文化センター ミューズ マーキーホール。
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🎵けさははっと気づけばもう5時半。番組予告を見るのも忘れていた。30分遅れの視聴。頭ぼんやり。しかしこの「展覧会の絵」は! 絵画がほんとうに活き活きと精彩を放ち、堂々その存在感を提示し、「キエフの門」にたどり着くころには、心満ちて晴れやかに帰途に着けるような心境に。前半惜しいことをした。コメントが入ったかどうか、熟練奏者たちの声を聴いてみたかった。滋養たっぷり、エネルギッシュ!

🎧名曲アルバムは群馬県民謡「箱根馬子唄」
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箱根の馬車鉄道は明治の中頃に登場したようだ。最後の紅葉が、すり減り、苔むした敷石にそっと往時をしのぶかのごとくに落ちているさまが鮮やかに残った。


220219 J-MEROを聴く
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それにしても、ドラゴン・クエスト、全世界での累計発行部数は2億5000万部以上というすごさ。これほどとは!

 

⛳21日の今日まとめてメモ書き更新。20時40分更新
けさ初めて朝の8時ごろに最寄りの24時間営業スーパーに。客は店内に5、6人。スーパーのスタッフの方々の方が多いかも。事足りるぐらいの商品は出ている。レジ待ち無し。買い物はできるだけ早朝に。もしやコロナは朝に弱い? そんなことはないでしょうけれども。


 

 

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きょうのことば『聖言 (みことば)に委ねる』

インマヌエル盛岡キリスト教会2022年213()のメッセージをお伝えいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で48年目のご奉仕をしておられます。

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説教題 『聖言 (みことば)に委ねる』(國光勝美 牧師)
引証聖句 テモテへの手紙第二 3章10~17節
10 しかしあなたは、私の教え、生き方、計画、信仰、寛容、愛、忍耐に、
11 またアンティオキア、イコニオン、リステラで私に降りかかった迫害や苦難に、よくついて来てくれました。私はそのような迫害に耐えました。そして、主はそのすべてから私を救い出してくださいました。
12 キリスト・イエスにあって敬虔に生きようと願う者はみな、迫害を受けます。
13 悪い者たちや詐欺師たちは、だましたり、だまされたりして、ますます悪に落ちて行きます。
14 けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分がだれから学んだかを知っており、
15 また、自分が幼いころから聖書に親しんできたことも知っているからです。聖書はあなたに知恵を与えて、キリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができます。
16 聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。
17 神の人がすべての良い働きにふさわしく、十分に整えられた者となるためです。

 きょうは「聖言(みことば)に委ねる」。説教題を準備しながら思い巡らす中に、そうだ、最善な教会であるかどうかという以前に、私たちのすべてをみことばに委ねようという姿勢になっているかどうか。もしきょう、すべてをみことばに委ねるという結論に至ったのならば、きょうの私の主の御用は果たせたといえるのでしょう。

前回の復習ですが、イエス様のおことばです。
「あなた方は、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているものです(ヨハネ5:39)
 私たちが、神のことば聖書をしらべるとき、読むとき、学ぶとき、その結論として、そこに救い主イエス・キリストというお方を見出すことができなければ、ほんとうの意味で聖書を学んでいるとはいえません。けれども聖書を読んでイエス・キリストをしっかりと捕らえることができたならば、もう聖書の核心部分を握ったと言えます。そのみことばをしっかり握って、みことばに委ねていく、こういう生き方をさせていただきたい、そんな思いで今講壇に立っております。


  ここにマタイの214244節を抜き書きいたしました。これはイエス様に論争を仕掛けてきた、どちらかといえば敵対する側の人たちからの攻撃に対して、イエス様が彼らに言われたことばです。
42 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、聖書に次のようにあるのを読んだことがないのですか。
『家を建てる者たちが捨てた石、
それが要の石となった。
これは主のなさったこと。
私たちの目には不思議なことだ』
43
ですから、わたしは言っておきます。神の国はあなたがたから取り去られ、神の国の実を結ぶ民に与えられます。
44
また、この石の上に落ちる人は粉々に砕かれ、この石が人の上に落ちれば、その人を押しつぶします。」

 分厚い聖書の中から、突然このマタイの部分だけを抽出いたしました。お分かりいただけるように、イエス様が彼ら敵対する人たちに対して、あなたたちは聖書に書いてあることを読んでいないのかと問います。
 イエス様が最も論拠を置いているのは聖書です。最も大切なベースが聖書です。聖書にこう書いてあるじゃないかと引用している。それほど聖書に基づいて話されている。イエス様ご自身がご自分の土台を聖書に置いておられました。そして、あなたがた、つまり、ここで言うあなたがたというのは、敵対するパリサイ派、宗教学者、また既成の、自分たちこそが聖書を知る者であるといっているような人たちに対して、「聖書にはこう書いてある。家を建てる者たちが捨てた石。つまり家を建てた者たちというのは、自分たちこそが、と言っているそういう人たちが、こんなものは要らない、何の役にも立たないと言って捨てた石、この石は聖書のことですが、実はその捨てた石が建築の一番の要の石となったというのです。
 自分は家を建て、何でもできるのだ、専門家なのだと言っている人たちにとって、これは 不思議なことだけれども、これは、主がなさっていることである。そして、いいですか、神の国はあなた方から取り去られ この石に対して反対する人たちが粉々に砕かれるし、またこの石がその人たちに落ちたとすれば、その人たちを押しつぶすんですよというのです。
イエス様は詩篇の11822節、23節も引きます。
22
家を建てる者たちが捨てた石それが要の石となった。
23
これは主がなさったこと。私たちの目には不思議なことだ。
 さあ、あなたたちは詩篇にこう書いてあることを知っているんじゃないか。なのに、どうして聖書はわたしについて証ししているというイエス・キリストご自身を信じないんだとイエス様がお怒りになっている。これが主がなさったことなのです。

 聖書の上に落ちる人は粉々に砕かれる。今まで聖書に対して反対している人たちの生き方、これは粉々に砕かれてしまう。そして、聖書がそういう人たちの上に落ちたときには、その人たちを粉々に砕いてしまう。
 「聖書の聖言(みことば)」と繰り返しくりかえし申しますけれども、これだけ年を振って、今日私たちが手にしている聖書というものが、どれだけ大きな意味のあるものであるか。この聖書の中から「この聖書はこのわたしについて証ししている」と仰るイエス・キリストというお方を見出すことができなければ、それは意味のないことです。お分かりいただけるだろうと思います。

 

 そして今日のところに入ります。テモテ第二の3章、きょうのテキストのところです。皆さん方も聖書をお開き下さい。ここからが実はきょうのポイントとなります。

テモテ第二314節けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。あなたは自分がだれから学んだかを知っており、15また自分が幼いころから聖書に親しんできたことも知っているからです。

テモテ、わかるね、あなたは、小さいころからこの聖書を学んでいたんだよ。 
 このテモテの第二の手紙の背景を、今日は、十分な解説をしかねるのですけれども、これはパウロが殉教を前にしている遺言書のようなお手紙であります。愛弟子テモテに、「いいかいテモテ、わたしが最後に言いたいのは、このことなんだよ」と言っている。
 そのすぐ次の
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1節「神の御前で、また、生きている人と死んだ人をさばかれるキリスト・イエスの御前で、その現れとその御国を思いながら、私は厳かに命じます。」そして2節に「みことばを宣べ伝えなさい。」
 
テモテ、いいですか、聖書を宣べ伝えるんですよ。だけどこの末の世には聖書のいっていることが、分からなくて、或いは自分に不都合だから真理に耳を背ける人たちがいるけれども、あなたはどうか聖書をしっかりと学んで福音を宣べ伝えなさい。
 この3章でテモテにパウロは言うわけです。
テモテ第二314けれどもあなたは、学んで確信したところにとどまっていなさい。
 
今のこの世の中が、どんなことを言ったとしても、テモテ、あなたは聖書から離れちゃいけないよ。そしてまた自分が幼いころから聖書に親しんできたことを知っているだろう。聖書はあなたに知恵を与えて、キリスト・イエスに対する信仰と救いを受けさせることができます。
 ここで参考に使徒の働き16章1節をご覧ください。「それからパウロはデルべに、そしてリステラに行った。すると、そこにテモテという弟子がいた。信者であるユダヤ人女性の子で、父親はギリシア人であった。」

 そして第2テモテの1章の5節をご覧ください。
私はあなたのうちにある、偽りのない信仰を思い起しています。その信仰は、最初のあなたの祖母ロイスと母ユニケのうちに宿ったもので、それがあなたのうちにも宿っていると私は確信しています。」
 テモテ、思い出してご覧。あなたがもっているその信仰は、最初は祖母ロイスとお母さんのユニケ、そのうちに宿ったもので、あなたは小さいころから幼いころから聖書を知っているね。
第二テモテ3章15節「また、自分が幼いころから聖書に親しんできたことも知っているからです。
このようにパウロはテモテに対して言っております。このテモテという人物は、先ほどすこし申しました通り、パウロの、まさに遺言のように書かれた第二テモテに、テモテよ、と切々と訴えている者なんです。

「涙の子は滅びない」、というこれはアウグスティヌスの彼自身の記録の中にあるものなのですけれども、このアウグスティヌスという人は、最初の信仰から離れてしまって、異なるマニ教というキリスト教ではない、けれどもそういう異端的なものに心を寄せていってしまった。ほんとうの福音から離れていってしまった。そして彼が遊興三昧な堕落した生活に陥ってしまったとき、彼のお母さんは、涙を流しながら、彼の救いのために祈りをささげておりました。
 私はテモテという人がアウグスティヌスのようなそういう道にいったとは考えられませんし、そうではないのですけれども、むしろテモテはどちらかというと臆病な性格。そしてパウロのような勇猛果敢なタイプとはちょっと違う。だけどもパウロはこのテモテに何とか自分のあとあとをきちっと継いでもらいたいということで、テモテのために切に切に祈っておりました。
 テモテが幼いころから聖書を知る機会に恵まれた人であったということは、これは非常な恵みだと思います。小さいころ教会でみことばを読み、或いは、讃美歌に親しんでいたその人たちの中には、必ずや神のことばは宿っているのです。神のことばは宿っている。そして涙の祈りの中に必ず神のことばは、いのちとまたその実を結ばせてくれるものでありましょう。

さて第二テモテの3章にもういちど帰りましょう。

3章15節をご覧ください。
ちょうどきょうのメッセージの冒頭のところで、イエス様が敵対する者に対して、イエス様が、聖書にこう書いてあるでしょうと対応したように、パウロもそうでした。
聖書は、あなたに知恵を与えた。知恵なんです。知識ではない。ほんとうに人間に大切なものは何かといえば、それは知識ではなく知恵なんです。神を恐れる事こそまことの知恵なんです。そして、聖書はそれを私たちに与えてくれる。必ず神のことばいのちをもって、私たち今がどうであれ、その神のことばは、いのちをもってキリスト・イエスに対する信仰による救いを得させる。神のことば聖書は、私たちにそれを与えてくれる。パウロはそのことを確信しているからこそ遺言書のようにこの第二テモテでいっていることがおわかりいただけるでしょう。

20220213-141123  私はこれを思い巡らしながら、第一ペテロの1章23節のおことばが浮かんできました。
ペテロの手紙第一1章23節あなた方が新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく朽ちない種からであり、生きた、いつまでも残る、神のことばによるのです。
 
神のことばがまかれているのです。神のことばがまかれている。そこに私たちの祈りの涙が、そのまかれた種のところに落ちていくとき、神のことばは、生きて本当の救い、知恵を与えてくださいます。これは、
テモテへの手紙第二316聖書はすべて神の霊感によるもので、教えと戒めと矯正と義の訓練のために有益です。
 聖書はすべて神の霊感による。すごいことです。神様の霊感によってこの神のことばが書かれたのです。世の中にはこれこそ天国に、祝福に導いてくれるといったものが幾つも本屋さんに行けばあるかもしれないし、ネットで検索すれば、類似するものがあるかもしれない。しかし、霊感された神のことば、これは絶対的な価値のあるものであります。そしてそれをさらに思い巡らすときに、御霊の剣、すなわち神のことばを取るようにというエペソ617節のことばがございました。

エペソ人への手紙617節救いのかぶとをかぶり、御霊の剣、すなわち神のことばを取りなさい。
 
神のことば、これは救いの兜や正義の胸当てである。神の武具をもってよろうようにとあるのです。私たちが戦いで使わせていただくのは、神のことば聖書、神のことばの剣をしっかりと取る。戦いは厳しいですから、私たちの弱い握力、疲れやすい信仰、それにぐるぐるぐるぐる包帯を巻いて、決して落ちないように握る。信仰の握力。私は、そうだ、聖書のことばをしっかり握って、包帯を巻くというのはきっと色々な先輩たちの教えだとかすばらしい名著、キリスト教に関わる名著のようなもので励ましを受ける。恵みをいただくことは、ちゃんと神のことばに生きられるように、私たちがしっかり握るようにという包帯じゃないだろうか、そう思いました。
 私たちの使うことばは決して刃こぼれしない、どんな戦いをしても折れたりはしない。霊感された神のことばを私たちはしっかりと握って、その神のことばで激しい戦いに勝ちを得ることができる。
 ことし皆さん方、ことしの頼りとなるおことば、それぞれ祈り求めていらっしゃることでしょう。その神のことばは、霊感された神のことばですから刃こぼれしない、どんな戦いをしても折れたりはしない。霊感された神のことばを、私たちはしっかり握って信仰を堅く保っていただきたい。

 もう一つだけ、これは初代の蔦田二雄先生が仰ったことです。
「いいですか、神さまのことばを、聖書をとにかく毎日読みなさい。手にしなさい。聖書の始めから終わりまで読みなさい。でも皆さん方が世の中で生きてゆくときに、さまざまな条件、状況がある。きょう聖書に触れることができなかった、そんなときもあるでしょう。それでも、聖書をぱっと開いてぱっと見てすぐに閉じる、とにかくこうやるだけでもいいから、こうやるだけでも違うんです」
 先日の祈祷会はひろ子先生がメッセージを務めましたが、亡きT兄に触れておりました。T家の信仰の始めになった方で、インマヌエルではない教団で救いに与った方です。そこで「ふーぽんクリスチャンになっちゃいけない」と、こう教えられている。どういうことか。ふだん自宅では聖書をまったく開かず、日曜日になって聖書にたまったほこりをふーと払って、さあ教会に行こう。「これじゃだめだ。ふーぽんクリスチャンにならないように」。この話を思い出します。
 どうか必ず聖書を開いていただきたい。毎日一か節でも聖書を読んでいただきたい。このように切に願うことであります。

 

※音声データ、画像は教会からお借りしています。
⏰6時14分更新

 

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ひとこと

きょうYさんという方の告別式に参列。奥中山を舞台としたピュアな人と動物との作品を数多く書かれた方だ。クリスチャンでもある。人に対する心遣いが自然にできる方であった。喪主は長女の方。お話しによると、模範的なクリスチャン家庭というのではなく、父と母はよくけんかもしていた。それが翌日にはからっと笑顔で話したりしていた。私も反抗したときもありました。しかし私の名前は神様の光に通じている名前をもらっている。このことばかりではなく、けっこう長い挨拶であった。お酒もたしなまれているのは知っていた。泥酔することはなかったろう。振り返って自分が存じ上げているYさんと家庭でのYさんには矛盾がない。矛盾がないというのは芯にはやはり生ける神のことば聖書のことば、それを信じる神の命をもっておられたな、このことだ。今、私は明日更新する説教の準備を終えて、しばしYさんを思い巡らしているのだが、世の中の多くの方々は、神は地に落ちた、宗教なんてと思っている方々が多数を占めている。これからの世界を救うのは科学だテクノロジーだ、宗教は何も実効性がないと思っておられる方々が大多数かと。しかし、私は、今回も、聖書が教える神の確かさを思わないわけにはいかない。今私が通読で読んでいるのはイザヤ書34章だけれども、預言の書ともいわれるけれども、このリアルさは! 今回のYさんの告別に際しても、私は聖書というもののすごさ、魂の真っただ中に為される目には見えないけれども、神の御業というものを思わないわけにはいかなかった。

⛳この部分は20日に日曜の更新が終わってからの書き足しだが、遅くなっちゃった、これが限界だな、とおもったのが23時半ごろだった。
果たしていつまでできるだろうか、眼精疲労、手指、肩の疲労などなどを危惧しつつの更新でした。

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220218 クラシック倶楽部を聴く 庄司紗矢香&ヴィキンガー・オラフソン デュオ・リサイタルII

世界的バイオリニスト庄司紗矢香とアイスランドの精鋭ピアニスト、オラフソン二人が最も演奏したかったというバルトークのソナタ第1番超絶技巧の大曲に挑んだ熱演!5つのメロディから第1曲、第3曲、第5曲(プロコフィエフ)、バイオリン・ソナタ第1番(バルトーク)2020年12月15日アクトシティ浜松中ホール(静岡県浜松市)
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庄司紗矢香1998年からヨーロッパを拠点に活動している。1999年パガニーニ国際ヴァイオリン・コンクールで史上最年少および日本人として初めて優勝した。 1999年都民文化栄誉賞、2010年芸術選奨新人賞、2016年毎日芸術賞 受賞。
使用楽器は、上野製薬株式会社より貸与された1729年製ストラディヴァリウスレカミエ(Recamierである。
ヴィキンガー・オラフソン:アイスランド出身。初共演は2013年。

 コメント(バルトークのバイオリン・ソナタ 第一番について)
紗矢香:長年、バルトークの1番のソナタを弾きたいという気持ちがとても強くあって、年々その気持ちが強まっていっていたこと、オラフソンとの共演の中で次は何を弾きたいという話をしていたときに、バルトークというのがあがったことが最初のきっかけ。和声的にとても難解ともいえる曲ですけれども数学を解くようにして解いていくと、その根本がとてもシンプルなメロディーであったり、ストラクチャーがやはりそこにあり、民俗的な歌の要素と民族的なリズムの要素というものと、あとは毎回がインスピレーションということ、いちばん大切に思っています。そういう意味でオラフソンとの共演はとても面白いと思っています。
オラフソン:バッハやベートーベンのように様々な長調や短調を使っているわけではありませんが、完全に別な種類のハーモニーがあります。すべてが歌であり、それが紗矢香との共演を一層すばらしいものにしています。紗矢香のようにバイオリンで歌えるひとはいません。偉大な物語を皆さんに届けているのです。この曲はバイオリンと同じぐらいピアノがものすごく難しい曲です。今まで演奏してきた中で最も複雑な曲の中の一つですが、紗矢香と共演できるのは大きな歓びです。ツアーでは8回演奏しますが、同じ曲でも毎回違う演奏になります。この曲は惑星のようで訪れるたびに変化していくのです。

曲目
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つのメロディーから 第135  プロコフィエフ
バイオリン・ソナタ 第一番 バルトーク
 バルトーク自身が「一流のバイオリニストしか弾けない」と語った非常に難しい壮大な作品。

🎵バルトークのバイオリン・ソナタ第一番、研ぎ澄まされた、研磨されたような旋律の奥に、土のにおいもし、狂おしさもあり、デフォルメされた野卑といった感じもあると聴いたのだが、どこかにこの曲の感想が出てはいないかとそちこち探したが、民俗音楽の影響とは出ているが。ストラクチャーがなかなか明瞭に見えては来ず、今また聴き直している。コメントで「宇宙」とも言われていたけれども、闇の空間を縫い何等かに照らされてでもいるような硬質な響きがそんなイメージをも確かにくれる。石筍に滴るようなピアノの響きの部分を、それを霊妙に潜りゆく弦の音の揺らぎを聴きながら、それでもバルトークのかの世界にたどりつけそうな気がしてきている。
庄司さんの足は治癒されたのだろうか。足を踏ん張ってこそ出る響きというものもあるだろう。そこは天的資質で座して弾いても補っておられると感じられるけれども。

🎧名曲アルバム。シューマン「謝肉祭」。ピアノ伊藤恵

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⛳ウクライナ、戦車の移動するさまが空恐ろしい。なぜ戦争があるの? この問いは、もう地上からなくなることはないのだろうか。
並行して続くオリンピック。悪しきこととよきことの共存といえるかどうか。常にどちらもだ。人の二面性とよく似ている。
20時28分更新

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220217 クラシック倶楽部を聴く 西村尚也&アンドレア・バッケッティ デュオリサイタル

マインツ・フィルハーモニー管弦楽団の第一コンサートマスター、西村尚也(にしむら・なおや)と、バッハ等で特に高く評価されているピアニスト、アンドレア・バッケッティとの共演を送る。学生時代にF.ルイージ指揮PMFオーケストラでコンサートマスターを務めた西村は、東京芸大を経て渡独。現在はドイツ各地の主要国立歌劇場などにも客演している。2019年6月16日(日)東海中学高校講堂(国登録有形文化財)で収録。

(バイオリン)西村尚也、(ピアノ)アンドレア・バッケッティ
2019
616東海中学・高等学校 講堂(名古屋市)

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西村尚也
1985年名古屋市生まれ。東京藝術芸大学を出て渡独。マンハイム音楽大学を最優秀の成績で卒業。ソリスト科終了。2001年イフラー・ニーマン国際コンクールジュニア部門第一位。これまでF.ルイージ指揮、PMFオーケストラやドイツ各地のオーケストラでコンサートマスターを務める。現在はマインツフィルハーモニー管弦楽団の第一コンサートマスターを務めるほか、ハンブルクやフランクフルトの国立歌劇場にも客演している。
コメント
コンサートマスターとソリストの両立について
コンサートマスターはオーケストラという「社会」の中で、劇場だったら歌手とか事務所を含めての「社会」の一員。団体行動をとる一方で、ソロが4小節でもあるとソリストとして結果を出さなくてはいけない。その切り替えが難しい。逆にソリストとして演奏する場合は、本番で結果を出さなければソリストの活動の方が一回の本番に掛かるプレッシャーは大きい。(でも)彼のような天才的な音楽家に触発されて自由に反応していけるのがソロにしかない魅力だと思う

アンドレア・バッケッティ
1977年イタリア生まれ。幼少期よりカラヤンやホルショフスキなど巨匠らの薫陶を受け、11歳の時にミラノでデビュー。モーツアァルテウム音楽大学やパリ国立高等音楽院、パガニーニ音楽院などで学ぶ。96年プレミオ・ベネチア・コンクールで優勝。世界各地でリサイタルを行う他、ザルツブルク音楽祭などに出演。2014年よりバッハの鍵盤作品全曲録音を行う。
コメント
彼との共演はとても興味深いものです。並外れた技術だけでなく音楽的なセンスもあるのでとても勉強になります。彼は楽譜や原典を分析するのですがそれは信じ難いことです。なぜなら多くの演奏家は才能があっても作曲家の考えをそこまで憶測してはいません。だから彼のそういう点をとても尊敬しているのです。もちろんテクニック的にも並外れていて絶対に間違えないのは信じられないことです。

 

「フォリア」コレッリ:作曲
バロック時代の凡例どおり、楽譜には旋律と和声のみ記され、音の肉付けは奏者に委ねられている。
「フランス組曲 第5 BWV816からガヴォット、ブーレ、ルール、ジーグ」バッハ:作曲
(ピアノ)アンドレア・バッケッティ  独奏
組曲の形式は17世紀半ばごろドイツで確立され、古い舞曲で構成されている。バッハの時代にはそれらの踊りの多くが消滅し、音楽の形式のみ残ったといわれる。ガヴォット、ブーレ、ルールの舞曲は、当時も踊りの曲としても生きていたといわれる。☆「バイオリン・ソナタ 第5番 ヘ長調 作品24「春」」ベートーベン:作曲
ベートーベン31歳のころの作品。甘美な曲想から「春」と呼ばれるようになった。ウィーンに来て1800年ごろ交響曲第一番と同じ時期に作曲。そのころ耳が聴こえなくなってゆくが、伯爵令嬢と恋愛をしていた時期でもあり、若きベートーベンの感情が芸術として昇華されている名曲である。
「バイオリン・ソナタから第2楽章「ブルース」、第3楽章「常動曲」」ラヴェル:作曲
ピアノとバイオリンの独立性が際立たされ、ラヴェルの新しい作風を示している。第2楽章ではラグタイムのリズムが特徴的。またバイオリンのさまざまな奏法が試みられている。第3楽章ではピアノの低音に支えられ、バイオリンは細かな動きを繰り返す。第1楽章と第2楽章で登場した旋律が、断片的に織り込まれ、一気にフィナーレへ向かう。

🎵「フォリア」、曲の肉付けは奏者に委ねられているという。直截でシャープな響き。聴きやすく分かりやすい。大昔にはシロップが滴り落ちるような響きをけっこう好んで聴いていた。ある時点からこのぐらいの恬淡さといったら言い過ぎかもしれないが、これぐらいに共感するようになった。「春」、幾度となく聴いた「春」、よかった、ほんとうによかった、あなたにこんなに幸福なときがあったこと、私は聴きながらベートーベンにそう話しかけていた。ラヴェルがおもしろかった。不安と平安の中間地点で綱渡りしているような心境に、と書いたのは以前聴いたときに感じた事。ラヴェル、ブルース調なんだけれども、同じフレーズに幾とおりかの味の変化を付けて、とにかく飽きさせず、次の響きはどうか興味を連続させるところ、こんなところにもラヴェルの打ち込むようなあのリズムが感じられる。強引なまでに最後まで聴かせるラヴェル。東海中学・高等学校 講堂1931年竣工、建築に興味が湧いた。

 

🎧名曲アルバム。オッフェンバック「天国と地獄」。この題字の書体もオッフェンバックの諧謔を表しておもしろい。
田中良和&東京フィル。
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いまだにパリには最後はこの「天国と地獄」のカンカンで締めくくられる劇場があるらしい。オミクロン明けにはパリ行きを計画している人もあるだろう。まったく行く予定のない人もここに。何れにもこのカンカンの賑々しさ。作曲家としてだけでなく、劇場支配人として、風刺で笑いを産みだす傑作の数々、オペレッタを中心に100本もの作品をものすごいスピードで作曲したという。この曲、速く、速く、もっと速く、遅い、それじゃ遅い、遅すぎる!と陽気に鼓舞されている心境に。悲しみはどこにでもある。しかし笑いは作らなければ無い。眠い太ももを鉛筆でつつきながら笑いを作ったのは井上ひさし。オッフェンバックも人々のために笑いを作り出してくれたのだ。
この世紀のウィルス戦、オミクロン戦争の真っただ中には、まだまだ風刺、諧謔は浮かびそうにもないけれども、ほんのひととき、鬱屈を晴らしてくれただけでも、この曲、大したもの。、

⛳雪被害の懸念。まだまだ雪布団はバッハ、バッハと空から落ちてきそうな模様。嵩む除雪費、腰痛、怪我が心配。6時47分更新。

 

 

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220216 クラシック倶楽部を聴く 小林美樹のバイオリン ベートーベン〜武満徹

2011年第14回ヴィエニャフスキ国際コンで第2位入賞。ソロ活動や国内外のオーケストラとの共演のほか、各地の音楽祭にも数多く出演し室内楽でも精力的に活動している。【演奏】小林美樹(バイオリン)坂野伊都子(ピアノ)【曲目】バイオリン・ソナタ第5番「春」(ベートーベン)、序奏とロンド・カプリチオーソ(サン・サーンス)、恋のかくれんぼ(武満徹)ほか【収録】2020年12月4日武蔵野市民文化会館大ホール



小林美樹2006年にレオポルト・モーツァルト国際バイオリン・コンクールでギドン・クレーメルから審査員特別賞を受賞。ウィーン音楽大学で研鑽を積み、2011年にポーランドのヴィエニャフスキ国際バイオリンコンクールで第二位。
坂野伊都子2000年に第69回日本音楽コンクールで第二位。宮崎国際音楽祭をはじめさまざまな室内楽プロジェクトに取り組み、後進の指導にも携わる。

小林美樹のコメト

Qベートーベン「バイオリン・ソナタ第5番」について
何回か弾いて来たんですけども、いまだに壁を感じるというか、でもすごく素敵な曲なので、さらに勉強をして自分なりのベートーベンというものを見つけられたらいいなと思うんですけれども。3楽章も短いんですけれども、あんなに凝縮した音楽というのは、やはりベートーベンだから出せるんじゃないかなというふうに思いますね。
Q
ヴィエニャフスキー「スケルツォ・タランテラ」について
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歳の時に初めて楽譜を見て、これをレッスンで弾きましょうと先生におっしゃっていただいて、楽譜を見ただけでもう真っ黒なので、これ弾けるようになるかなというふうに、先ず楽譜を見て圧倒されたという曲でして、それも難しいけれども途中にあらわれるメロディーの美しさだったりとか、技巧にだけ終わらないところがものすごく好きで、8歳の時に弾いて以来何回かコンクールでも弾かせていただいたんですけれども、やはり思い入れの強い作品ですね。

 

曲目

バイオリン・ソナタ第5番「春」(ベートーベン)
ベートーベンが残したバイオリン・ソナタ10曲のうちの一つ。「春」は1801年の作曲。
スケルツォ・タランテラ(ヴィエニャフスキー)
ヴィエニャフスキーは1835年ポーランド生まれ。パガニーニ、サラサーテと並ぶ19世紀の代表的なバイオリニスト。1856年に書かれたこの曲は舞曲タランテラのリズムを取り入れた華やかで技巧的な作品。
序奏とロンド・カプリチオーソ(サン・サーンス)
1863
年作曲。親友だった名バイオリニストサラサーテに捧げる。
情熱的な序奏のあとにスペインの情緒あふれる舞曲調のロンドが展開される。
歌劇「ポニーとベス」から「そんなことどうでもいいさ」(ガーシュウィン)
20
世紀の名バイオリニストハイフェッツは第二の祖国アメリカに愛着を持っていた。第二次世界大戦中には積極的に慰問活動を行い、この曲を弾いて前線で戦う兵士の心を癒した。
さようなら(武満徹 作曲 森山智宏 編曲)
20世紀を代表する作曲家武満徹は現代作品音楽で知られるが合唱などの声楽曲も多く残している。彼の声楽曲は美しいメロディーとともに歌う楽しさや音楽を自由に表現する喜びにあふれている。
恋のかくれんぼ(武満徹 作曲 森山智宏 編曲)
めぐり逢い(武満徹 作曲)

🎵小林さんの春一番。バイオリンが春の息吹、自然の小さな営みにも耳を澄ましているような。たまにピアノが小川の流れを淀ませるも、バイオリンが静かにたたずんで見下ろしているようなところも。第3楽章、「凝縮されている」と。ほんとうに短いけれどもこれで一つの楽章がよしとされたわけは。坂野さんのピアノを弾く姿に目を惹きつけられる。8歳で「タランテラ」を弾く小林さんを想像。タランテラってどんな踊り?に対応ブログを見つけたのでつないでおいた。
坂野さんは国立音大で竹岡鶴代賞を受けているが、竹岡は大正の時代、岩手の盛岡市に、太田村にしばしば滞在した音楽家である。
「序奏とロンド・カプリチオーソ」、この後、この曲を聴くたびに羽生結弦さんの4回転半挑戦のあの姿を思い出すに違いない。

🎧名曲アルバム。チャイコフスキー「四季」から「1月炉辺にて」「11月トロイカ」
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⛳けさはカードの入れ忘れで写真を撮り損ね、気づき入れたもののうまく撮れず、せっかくの馬も形無し。クラシック倶楽部10分遅れの視聴。しかし良い演奏に接し気持ちは晴れやか。途中ちょっとブログの更新もしたり、失敗はあってもゆったり慌てずに寛げたひととき。
19時42分更新。

 

 

 

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220215 クラシック倶楽部を聴く ナビル・シェハタ コントラバス・リサイタル

エジプト人とドイツ人の両親のもとクウェートで生まれたナビル・シェハタはベルリン・フィルで首席奏者として活躍した名手。実兄カリムとの共演で低音の魅力を聴く。 エジプト人とドイツ人の両親のもとクウェートで生まれたナビル・シェハタはベルリン・フィルで首席奏者として活躍した名手。実兄カリムとの共演で低音の魅力を聴く。【出演】ナビル・シェハタ(コントラバス)、カリム・シェハタ(ピアノ)【曲目】無伴奏チェロ組曲第1番・コントラバス版(バッハ作曲)、歌劇「夢遊病の女」による幻想曲(ボッテシーニ作曲)ほか【収録】2018年11月22日 ハクジュホール
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ナビル・シェハタ(コントラバス)
エジプト人とドイツ人の両親のもとに生まれ、9歳でコントラバスを始める。2003年、ミュンヘン国際コンクールのコントラバス部門で優勝。2004年から2008年までベルリン・フィル首席奏者。指揮者としてもデビュー。
カリム・シェハタ(ピアノ)
クウェート生まれ。5歳でドイツへ移住。音楽教育者の家庭に育つ。(ここまでは)ハノーヴァー音楽演劇大学やブレーメン芸術大学大学院で研鑽を積んだのち、世界各地のコンサートに出演。近年は弟のナビルのよきパートナーとして度々ステージを共にしている。

 

おふたりのコメントの抜粋
コントラバスのレパートリーはとても限られています。プログラムを充実させるためにチェロに書かれた曲などを加えています。
長年演奏をためらっていましたが、バッハから学ぶことはたくさんあります。
ジュニア・コンクールに挑戦するときはいつも(ふたり)一緒でした。兄弟だと何でも自由に言い合えます。子どもの頃から一緒だから意思の疎通が楽です。

曲目
☆無伴奏チェロ組曲第一番(コントラバス版、イ長調) (バッハ)
歌劇「夢遊病の女」による幻想曲 (ボッテシーニ)
 コントラバスのパガニーニと称された19世紀の名奏者ボッテシーニの代表作。ベッ  リーニの歌劇の名旋律をコントラバス特有の音色と超絶技巧で楽しめる作品。
コル・ニドライ (ブルッフ)
 ユダヤ教の典礼歌「コル・ニドライ」の旋律を用いて書かれた幻想曲。バイオリン協奏曲と並ぶブルッフの傑作。
間奏曲とタランテラ (グリエール)
 グリエールは友人の名コントラバス奏者クーセーヴィッキーのために4つの小品を書いた。叙情性あふれる間奏曲と高度なテクニックが要求されるタランテラは中でも人気の作品。
アンコール リベルタンゴ (ピアソラ) 

🎵「チェロ組曲」、日の落ちかかる広い空間に朗々と、延びる影を踏み進みゆく足元を照らし添いゆくような響き。
「夢遊病の女」による幻想曲、ジョークを転がすところ、能天気にうたうような部分、それらにまともに関わりあう旋律も聴こえて。
「コル・ニドライ」、何ものかを詳らかにしたい無意識の意図といったものが。
「リベルタンゴ」コントラバスが弾けば、踊りも地に足がついて心は踊るという感じが。
コントラバスの音域は臓腑におさまりがいい。指板を大きく行き来する5指、運弓、小型の弦楽器よりもかなり体力が消耗されるのではと思うのだがどうだろう。それにしても弦楽器の形が今の形状に落ち着いたのはいつ時代であったか。

🎧名曲アルバム。ショパン「序奏と華麗なポロネーズ 作品3
チェロ遠藤真理、ピアノ菊池洋子
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ショパンが、ポーランドの古都ポズナンを治める公爵のために書いた名曲。若きショパンが公爵令嬢たちと心ときめく時間を過ごした館の美しい映像とともに、お楽しみいただくー番組紹介よりー

 

⛳昨日15日分を本日16日にクラシック倶楽部小林美樹さんのバイオリンを聴きながら5時40分更新

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220214 クラシック俱楽部を聴く 青木尚佳&ウェン・シン・ヤン デュオ・リサイタル

若手の新星・青木尚佳、そしてバイエルン放送交響楽団で首席奏者を務め、現在は世界各地で活躍するウェン・シン・ヤン。個性際立つふたりによる二重奏の世界をお送りする。【出演】青木尚佳(バイオリン)、ウェン・シン・ヤン(チェロ)【曲目】八つの小品 作品39から(グリエール作曲)、バイオリンとチェロのための二重奏曲 作品7(コダーイ作曲) ほか【収録】2018年12月4日 武蔵野市民文化会館小ホールー番組紹介よりー

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青木尚佳(ヴァイオリン)
ロイヤルアルバートホール、ウィグモアホール、カドガンホールなどで演奏、チャールズ皇太子よりタゴール・ゴールドメダルを授与された才媛。
ウェン・シン・ヤン(チェロ)
ジュネーヴ国際に優勝し、C.デイヴィス、サヴァリッシュ、マゼールなど世界の巨匠たちと共演してきた名手。

プログラム
☆4
つの二重奏曲(8つの小品Op.39より) グリエール
無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第4番 ホ短調 Op.27-4(ヴァイオリン・ソロ)  イザイ
ヴァイオリンとチェロのための二重奏曲 Op.7 コダーイ

青木尚佳のコメント:ウェン・シン・ヤンの魅力は、ものすごく深い音を出される方で、支えてくれるというのがいちばん大きいですね。すごいコンスタブルだと言って下さるんですけれども、私の方がすごく頼りにしている部分もありますけれども、対等に音楽を奏でてくださっているというところが一番の魅力かなあと思います。
ウェン・シン・ヤンのコメント:尚佳は技術があり自然な音楽性を持つ。自由さが備わっている。

 

🎵バイオリンとチェロの二重奏曲は沢山あるだろうと思っていたところ、これが意外に少ないのだという。その中からの選曲がグリエールの「二重奏曲 作品39」。第45曲がちょうどバイオリン描く細い川とチェロが描く幅広の川が地の上を交差し、くっきりと跡を記しながら歌い流れ下るような映像が想像せられる。7のスケルツォの躍動感に遠景に見えていた川が近景と迫り、あがる飛沫に砕け遊ぶ。
イザイの「無伴奏ソナタ第4番」。おもしろいのは1924に全6曲が完成するのだが、それぞれが偉大なバイオリニストに捧げられているところ。因みにこの4番はフリッツ・クライスラーに献呈されている。イザイも光と影の作曲家。この第4番の第3楽章では、これもあるか、そこにもある、おお、むこうにも、スポットライトが隠れた存在を照射し、存在をくっきりと浮かび上がらせていくのだ。さて、献呈された名だたるバイオリニストとは、と見ると、第1番はヨーゼフ・シゲティに。第2番はジャック・ティボーに。第3番はジョルジェ・エネスクに。第4番はもちろんフリッツ・クライスラーに。第5番はマチュー・クリック・ボームに。第6番はマヌエル・キロガに。すべて7~12分前後の曲。イザイが曲を献呈したがゆえにその後までも名をのこすことになったバイオリニストが何人かはいるだろうという側面があるかないかを知るには、その演奏を聴いてみるほかはないのだが。ここで思うのはイザイのために献呈された作品はあるのだろうか。デュメイ、カプソン、パパヴラミといった大物たち。エリザベート音楽院やエリザベート国際コンクールから排出された人々による作品があるようだ。こうして辿るときりもないのでこの辺で。
コダーイ「二重奏曲 作品7」。コダーイは民俗音楽の研究者。どこを取っても聴くたびに新鮮。影響の大きい曲はたとえ繊細な旋律にさえも、その内にもどこか骨太な感じが聴こえるのだ。このお二人の「二重奏曲 作品7」は絶品。民俗音楽的な響きを醸しながら異次元の音を探りだし、にれ食んでいるかに始まり民俗色を土台に、そこを一つ超えた響きをテクニックを駆使しながら展開させていく。言語が音楽をダメにしたと誰かが言っていたが、このところのすばらしさを言語化しかねて焦りを覚えている自分がある。そんなときは「素晴らしかった」というこの一言に集約する。
これも何回か聴いている。きょうは無伴奏を聴きながら、この演奏は鏡に映る自分をそのまま確認させられるような状況ではないかと思い、はたと、鏡どころかMRI、或いは心を計量、計測できる機器にのせられ、測られるほどの状況に立たされるということではないかと思われた。

🎧名曲アルバム。シューベルト作曲、ゲーテ詩「魔王」
若草惠編曲、バリトン河野克典、円光寺&東京フィル
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「魔王」もワイマールでの恋の相手シャルロット・フォン・シュタインとの恋のさ中に作られたものらしい。ゲーテの死の直前の「もっと光を!」はただ単純にほんとうにその暗さに孤独感や怖れを感じたからいったことばではなかったか。哲学的、或いは芸術的な意味が込められていたとは私は考えにくい。

⛳前回書いたものに書き足して21時1分更新。ウェン・シン・ヤンのコメントの記載が不十分であることが気になりつつ。

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きょうのことば「聖書の主人公」

インマヌエル盛岡キリスト教会2022年26()のメッセージをお伝えいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で48年目のご奉仕をしておられます。

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説教題 『聖書の主人公』(國光勝美 牧師)
引証聖句 ヨハネの福音書539
あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているものです。

 きょうは 『聖書の主人公』というテーマでメッセージをと願っております。

 このあなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているものです。というときに、私は今日、使徒の働きの8章を皆さんと一緒に聖書講読をさせていただいたことを思い起しています。

 先ず前回のところを簡単に振り返ってみましょう。
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 ああ、そうだったなというように思い起していただければと思います。

 

 さて、きょうの聖書講読は使徒の働き8章でしたが、みなさんも聖書をお開きください。826節からでしたが、まず81節をご覧いただきますと、「サウロは、ステパノを殺すことに賛成していた」とございます。このサウロというのは、後にはパウロと名前が変えられた人物です。サウロとパウロは同一人物です。まだサウロと呼ばれていたパウロは、当時はキリスト教の迫害者として登場しております。そしてクリスチャンたちを、イエス・キリストを宣べ伝え広めるとんでもない者たちだという誤った正義感に駆られ、その中の一人であるステパノを石打ちの刑に処します。8章のすぐ前の759節から見てみましょう。
7:59こうして彼らがステパノに石を投げつけていると、ステパノは主を呼んで言った。「主イエスよ、私の霊をお受けください。」 7:60そして、ひざまずいて大声で叫んだ。「主よ、この罪を彼らに負わせないでください。」こう言って、彼は眠りについた。
 ステパノはエルサレムで殉教しました。そして、このステパノの仲間たちのことが8章の2、3節です。
8:2
敬虔な人たちはステパノを葬り、彼のためにたいへん悲しんだ。 8:3サウロは家から家に押し入って、教会を荒らし、家々にはいって、男も女も引きずり出して、牢に入れた。
11.新約の時代の聖地


 ステパノを迫害した人たちの手が自分たちにも及んできます。それでピリポを含めてですけれども、4節に
8:4
散らされた人たちは、みことばの福音を伝えながら巡り歩いた。
 この彼らが持っている福音が、どんなにすごいものなのかと思います。
 散らされた人たちであるピリポや使徒たちは、エルサレムからサマリアの方面に福音を伝え、そこで大きなリバイバル的な働きを為して、またエルサレムに戻るというエピソードが続いております。25節を見ていただきます。
8:25
こうして、使徒たちは証しをし、主のことばを語った後、エルサレムへに戻って行った。彼らはサマリア人の多くの村で福音を宣べ伝えた。


8:26さて、主の使いがピリポに言った。「立って南へ行き、エルサレムからガザに下る道に出なさい。」そこは荒野である。
 エルサレムからガザへ下る道に行きなさいとピリポに導きがありました。すばらしいことです。
8:27そこで、ピリポは立って出かけた。すると見よ。そこに、エチオピヤ人の女王カンダケの高官で、女王の全財産を管理していた宦官のエチオピヤ人がいた。彼は礼拝のためエルサレムに上り、 8:28帰る途中であった。彼は馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた。
 このようにございます。このエチオピヤ人の女王カンダケ、これは、日本ではちょうど天皇というような、それが一人の人物をさすというのではなく、そういう地位にある人を指しているのですが、エチオピヤ人のカンダケ、女王に信頼をされて全財産を管理しているエチオピヤ人がいました。最近よくテレビのドキュメンタリー番組などでエチオピヤが紹介されていますが、エチオピアにはクリスチャンが非常に多いということです。どうぞこんどこの聖書の記事を意識してご覧になってみてください。エチオピヤは古くからクリスチャンが多かった。それはやはり、この一人のカンダケの高官の回心の大きな影響があったのではないかと思います。
 このエチオピヤ人の高官がなぜエルサレムに行ったのか。れは聖書には書いてありませんが、しかし、想像するに、エルサレムにいるクリスチャンたち、あの彼らが信仰しているものには真理があるのではないかという渇きをもって、彼は巡礼の旅に出ていったわけです。真理を求めるすばらしい人物。そして、エルサレムで礼拝をささげた後に何としても記念となるべきものが欲しいということで、彼は非常に高価であったであろう聖書の写本、それを手にして喜びながら馬車に乗って、エチオピアへの道、ガザへの道を走っていた。これが背景にあります。
 そこに主から遣わされたピリポがまさに走り寄っていく。この人は馬車の中で、聖書を読んでいた。このエチオピヤ人の高官、この人物が、どのような人であるのか、自分が高貴な方の、いちばん高い地位を得ている者、片や駆け寄ってきた得体のしれない人物はおそらく貧しい服装の人物であったに違いありません。自分に教えてくれる人が何か立派な肩書のあるそういう人のお話しならば聞くけれども、何の肩書もないただ人の話しに耳を傾けることは、よほど整えられた人といったらいいのか、真実をほんとうに求めている人です。新幹線の揺れない中で本を読むというのじゃないのです。これを想像してください。彼の真実さ。

 さて聖書を見ていただきますと、使徒の働き828節から
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帰る途中であった。彼は馬車に乗って、預言者イザヤの書を読んでいた。
 8:29御霊がピリポに「近寄って、あの馬車といっしょに行きなさい」と言われた。 8:30そこでピリポが走って行くと、預言者イザヤの書を読んでいるのが聞こえたので、「あなたは、読んでいることが分かりますか」と言った。 8:31すると、その人は、「導いてくれる人がいなければ、どうして分かるでしょうか」と答えた。そして、馬車に乗って一緒に座るよう、ピリポに頼んだ。
 タイムリーです。うるわしい、これこそ神様の節理の時なのでしょう。
 8:32彼が読んでいた聖書の個所には、こうあった。
「屠り場に引かれて行く羊のように、
毛を刈る者の前で黙っている小羊のように、
彼は口を開かない。
8:33
彼は卑しめられ、さばきは行われなかった。
彼の時代のことを、だれが語れるだろう。
彼のいのちは地上から取り去られたのである。」
8:34宦官はピリポに向かって言った。「お尋ねしますが、預言者はだれについてこう言っているのですか。自分についてですか。それとも、だれかほかの人についてですか。」
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 いい質問だなあと思います。

 8:35ピリポは口を開き、この聖書の箇所から始めて、イエスの福音を彼に伝えた。
 このようにあります。
「イエスの福音を彼に伝えた」。先ほど読みましたサマリヤの方に散らされた人たちは、福音を伝えた。そしてサマリヤの人たちが回心して救われていった。彼はほんとうに聖書を通してイエス様というお方をよく知っていた。そして、聖書がイエス・キリストの救いを宣べ伝える事であることをしっかりと捕らえていたのです。まさにナイス・アンサー。ピリポは言ったに違いありません。どうですか。あなたはこのままで天国に行くことができると思いますか。いいえ、分からないから私はこうやってあなた方の信仰しているエルサレムに巡礼に来たんです。そうですか。そして、あなたが、聖書を手にした写本を手にしたということはとっても素晴らしいことですと言って、このちょうど読んでいる53章のところから、このお方こそ私たちの罪をその身に背負って身代わりとして十字架に架かって、そして、私たちの前に三日後によみがえられたお方なんです。このイエス様こそほんとうのメシア、救い主なんです。確信をもってピリポは答えました。

 あなたが読んでいる聖書には救い主イエス様のことが書いてあるんですよ。聖書ってイエス様についてなんですか?そうです。イエス様を信じる人は天国に行けるんです。ほんとですか。もっと詳しく教えてください。

「この聖書の箇所から始めて」とあります。ピリポはすごいですね。私たちの罪を赦すために十字架に架かり三日目によみがえられたイエス様のことを語った。そして、この何も知らなかったカンダケの高官はピリポの話しによって、「わかりました。イエス様を救い主として信じます」と彼は言いました。そしてどうでしょうか。見てください。この使徒の働き835

8:35ピリポは口を開き、この聖書の箇所から始めて、イエスの福音を彼に伝えた。
8:36道を進んで行くうちに、水のある場所に来たので、宦官は言った。「見てください。水があります。私がバプテスマを受けるのに、何か妨げがあるでしょうか。」
 聖書では36節の欄外に次のようにあります。
異本に37節として「そこでピリポは言った。「もしあなたが心底から信じるならば、よいのです。」すると彼は答えて言った。「私はイエス・キリストが神の御子であると信じます。」を加えるものもある。
 この宦官は、たった一度のこのチャンスでしたけれども、イエス・キリストのことを、十字架を知って、自分の罪の贖いということを知って、分かりました。信じます。「私がバプテスマを受けるのに、何か妨げがあるでしょうか」と申し出ます。
水たまりなんでしょう。彼はそこで水の中に下りて行く。
8:38そして馬車を止めるよう命じた。ピリポと宦官は二人とも水の中に降りて行き、ピリポが宦官にバプテスマを授けた。
 聖書のいっているイエス様というお方がほんとうに分かるとき、私たちはもうその場で洗礼を受けることができる。何年経ったからとか、或いは何十年経ったからといっても聖書を読んでイエス・キリストのことが分からない人がいるのです。けれどもたった一度だけでも聖書を読んでイエス様ということが分かったならそれで十分です。ナイス・リクエスト、ナイス・アクションとわたしはここで申し上げたいと思うのです。そしてナイス・エンディング。果たしてこういう使い方がいいかどうかわかりませんが、ナイス・エンディング。
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二人が水から上がって来たとき、主の霊がピリポを連れ去られた。宦官はもはやピリポを見ることはなかったが、喜びながら帰って行った。
 ここで二人は、ほんとうに不思議に神様によって出会い、聖書を通してイエス様を知り、そしてお救いに与ったときに、ぱっと別れていった。
 私はこんな想像をしてみました。もしピリポに邪心があったのならば、高官クラスの人物に、自分はこんなすばらしい福音の恵みを伝えたのだ。私は彼の教師なのだ。このままエジプトの女王カンダケの高官の第一秘書というように遇されても当然。富を得ることもやぶさかではない。ピリポの生涯が変わっていくチャンスだったかもしれない。しかし、ピリポにはそのような思惑は微塵もない。それどころか、ピリポはこのエチオピヤの高官が福音をわかりお救い与ったときに、もうそこからぱっと離れて、次にはアゾトに現れたとあります。使命が終わったらば、そこでさっと引き上げる。この在りようは見事ですね。そして高官です。彼らはもはや自分を導いてくれたピリポ先生を見ることはなかったけれども、彼はほんとうに喜びながら帰っていった。彼の心は喜びに満ちていた。ナイス・エンディングですね。

 このことを私はほんとうに大きな恵みとして教えられました。
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あなたがたは、聖書の中に永遠のいのちがあると思って、聖書を調べています。その聖書は、わたしについて証ししているものです。
 イエス様こそ、聖書の主人公です。聖書を読んでイエス様を捕らえそこなうということが決してないように。私は何かこれに、相応しい締めくくりの絵のようなものはないだろうかと思ってちょっと探してみました。
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 これは、まさしくことばですね。ひらがなのようなものとか、或いは?マークなどさまざまな記号の集合で伝えたいものを浮かび上がらせる。聖書もそうです。創世記から黙示録まで読みながら、そこにイエス・キリストというお方を、ピリポのように捕らえて歩ませていただきたいとこのように思っています。

 

※画像、音声データは教会から、地図はネットからです。
⏰6時47分更新

 

 

 

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220211 クラシック倶楽部を聴く 村治佳織 村治奏一 ギター・デュオ・リサイタル II 〜岡山県津山市公開収録〜

村治佳織・奏一姉弟のギターによる珠玉のギターの調べ。バッハとブリテンの代表曲、そして映画音楽の巨匠モリコーネに思いをはせて。岡山県津山市での公開収録の後編。 個性が響く独奏と息のあったデュオ演奏。大曲への思い、お互いについて語ったインタビューもご紹介。
【曲目】
映画「ニュー・シネマ・パラダイス」から「愛のテーマ」(モリコーネ作曲/鈴木大介編曲)
シャコンヌ(バッハ作曲)
ダウランドに基づくギターのためのノクターナル作品70(ブリテン作曲)
アンコール ジョンゴ ベリナティ
【収録】2020年12月11日 津山文化センター 大ホール(岡山県津山市)
―番組紹介よりー
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コメント
Q
ギター二重奏の魅力は
佳織:弦が6本から12本になりますから、より多くの音がいっぺんに出せてシケールが大きくなりますね。とにかく響きが豊かになるというところは魅力かなと思います。どうでしょう。
奏一:まさにその弦が6本あって、ギター1台でメロディーと伴奏をほんとうは完結できるんですよね。だから奏者が二人になると、どちらがメロディー、伴奏に回るんじゃなくて、その役割が途中で入れ替ったり、メロディーを一緒に歌ったりというような、役割を入れ替えてこう相乗効果が起きやすいデユオになっているのかなあと思ってますね。
佳織:常に相手の音を聴いて、バランスも音色も、それにこうするっていうのが会話をしているのと同じような感じですね。
Q
それぞれの個性を楽しむ
佳織:クラシックギターの良さ、ソロとデュオ、2台と1台の響きの豊かさ、そして、1台で表現できること。その違いを楽しんでいただければなというところが一つですね。
奏一:違いという意味では、佳織さんの持っているギターは杉の表面板で、僕は松。音の取り方の違いとかもあるので、一緒に楽しみながら音作りをしている。
佳織:杉は元気よくパーンと前に飛んで行く感じで、松はどうでしょうね。
奏一:こう色彩で言ったらすごく彩が豊かに出ているような違いがあります。
奏一:「シャコンヌ」、学生の頃から弾いているので、ただその自分の年齢に合わせてこういう表現をしたいと思うときに、ちゃんとその楽譜が返してくれるというか、これからもたぶん一生続けて弾いていく作品ではないかなと思っています。バッハの時代というのは、当時リュートしかなかった。クラシックギターが無かったんですけれども、やっぱりそれでも、クラシックギターに奏法的にも響き的にもすごく通じるものがあるので、毎回特別な思いで演奏しています。
佳織:ヘイリアンのクラシックというと分業制じゃないんですよね。作曲家の方が一人で丹精こめて書いてくださるものを私たち一演奏家が感じて、また一人のお客様の心に届くというすごく、ここはいい意味で密な循環ができるのが、やはりクラシック音楽の良さの一つ。大作曲家がなかなかギターのためにオリジナルを残しているということは少ないです。それですが、ブリテンは一曲だけギターのために遺してくださって、それが私が演奏する「ノクターナル」で、シャコンヌと対峙するかのような曲の分数もほぼ同じですし、バロックの大作品と、片やブリテンの大きな作品を一つのコンサートの中でお聞きいただけるのも魅力かなあと思います。この曲は20代から、いつか弾いたらいいよと言われてたんですけれども、なかなか取り上げる機会がなくて、40代に入ってから新しく加えたんですけれども、おばあちゃんになっても弾いていたいなと思います。この曲はダウランドの「来たれ深き眠りよ」という死を連想させるような誰にとっても人生のテーマであるような詩がテーマになってる曲ですので、人生とは何かなとかいう答えのないテーマを考えたいときにもうぴったりの曲かなあと思います。でも最後はこう希望があるような感じなんですよね。ですから人生の中で困難になったときにも励ましてくれるような曲だと思いますし、まあ今は、世界中が混乱の中にいますけれども、その中にあって最後は一筋の光をみんなで見出していきたいという、そんな今の時代にも合うかなあと思ってます。

🎵「シャコンヌ」に感じた品格。「ノクターナル」、洒脱、巧み。

🎧名曲アルバム。「大きな古時計」ヘンリー・クレイワーク作詞・作曲(18321884)、ニウ ナオミ編曲。
演奏は円光寺&東京フィル&東京混声合唱団
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世紀後半に作られた振り子時計。
アメリカ北東部コネティカット州でスコットランド系の家族のもとで生まれた。ワークの父は奴隷解放運動家で、長い間投獄されていた。そのため家は貧しく、ワークは13歳で家族と離れ印刷工として働いた。印刷工場の倉庫で見つけたオルガンに夢中になりひとりで音楽を学んだ。

世界の民謡・童謡から
ワークの父親は、熱心なアボリショニスト(奴隷制度反対論者)だった。彼の家は、奴隷逃亡を援助する秘密組織「アンダーグラウンド・レールロード(地下鉄道/Undergroung Railroad)」の秘密拠点としても使われたという。
 父親の影響を受けてか、ワークもアボリショニストとして奴隷制度反対に向けた活動を行っていたようだ。
 奴隷制度を最大の焦点としたアメリカ南北戦争では、制度反対の北部州側につき、北軍の快進撃を歌った『ジョージア行進曲(Marching Through Georgia)』を作曲している。
『ジョージア行進曲』は、日本の大正時代に替え歌『パイのパイのパイ(東京節)』として流行した。

⛳ここのところ、オリンピック男子フィギアのはなしになっているけれども、今朝の朝日新聞の第一面の羽生の取り上げ方に大いに得心。見た途端に「そうだ、こうだ!」と喝采。「報われない努力だったかもしれないけど」「4回転半一番近づけた」。「5回転ハニュー」となる日があるのだろうか。どこかにこの名がのこってほしい。転んでも、転んでも、……
11時更新

 

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220210 クラシック俱楽部を聴く ドーリック弦楽四重奏団 

1998年イギリスで結成。2008年大阪国際室内楽コンクールで1位、イタリアのパオロ・ボルチアーニ国際弦楽四重奏コンクールで2位を受賞。高潔な詩情と明晰な音楽つくりで魅了する【演奏】ドーリック弦楽四重奏団
【曲目】弦楽四重奏曲 第13番 変ロ長調 作品130(大フーガ作品133つき)ベートーベン作曲
【収録】2019年10月31日 紀尾井ホールで収録ー番組紹介よりー

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第1ヴァイオリン:アレックス・レディントン
第2ヴァイオリン:イン・シュー
ヴィオラ:エレーネ・クレマン
チェロ:ジョン・マイヤースコウ

ヴィオラ奏者の使用楽器は、ブリテンペアーズ財団から貸与されている 1843年製ジュッサーニ

Wikipediaから曲の解説を借りると、

1楽章 Adagio, ma non troppo - Allegro
変ロ長調、序奏つきソナタ形式
瞑想的で荘重な序奏における第1ヴァイオリンの旋律は、この楽章全体の中核をなし、提示部や展開部のつなぎ目でたびたび姿を見せる。

2楽章 Presto
変ロ短調
三部形式
スケルツォ
風の短い楽章。きわめて速く、せわしない音型の密集である。

3楽章 Andante con moto, ma non troppo. Poco scherzoso
変ニ長調
、三部形式
美しい情緒をたたえた緩徐楽章であるが、"ポコ・スケルツォーソ"(ややおどけて)とある通り、民族舞踊曲風のくだけた印象を持つ旋律が特徴で、二度目の緩徐楽章であり崇高なカヴァティーナである第5楽章とは対照的である。

4楽章 Alla danza tedesca. Allegro assai
ト長調
、三部形式
「ドイツ舞曲風」と題されているが、これはレントラーのことである。第2楽章と同じく、次の楽章への橋渡し的な短い楽章となっている。

5楽章 Cavatina. Adagio molto espressivo
変ホ長調
、三部形式
「カヴァティーナ」とは叙情的なアリアを指し、その名の通り非常に美しい旋律を持つ。

6楽章 Allegro
変ロ長調、ロンド形式
前述の通り、後から差し替えられた楽章。改作前のものとは打って変わって、沸き立つようなリズムと楽しげな主題の楽章であるが、対位法的な部分も少なからず使われている。

 

🎵ドーリック、番組解説では「高貴なロマン」「レーザーのような明晰さ」と讃えられているようだ。はっとしたのは、まず4人の衣装の統一感。それぞれの衣装をついカラー・サンプルに照らし合わせてしまった。第一バイオリンのレディントンは青系のベストスーツなのだがウルトラバイオレット。それがソックスが第二バイオリンのシューのドレスと同じ色。シューは赤紫系のドレスでアメジスト。ビオラのクレマンはグリーン系のパンツスーツでピーコックブルー。チェロのマイヤースコウは青系のスーツにも見えるがこれがパープル。ライトによっても多少は異なって見えることもあるが、衣装のカラーのトータルバランスがまるで品格ある聖画のようでもある。
 マイヤースコウが、「楽団名はドーリア式の柱に因む。無駄な飾りなくまっすぐにのびている」と。この曲は1825年ベートーベン55歳の作品。大フーガは出版社に書き直しさせられたというが、近頃は初稿どおりに演奏されているという。この弦楽四重奏は素早い演じ分けが必要と語ったのはレディントンだったような。シューが「ベートーベンは演奏するのに体力をつかわせる」と。マイヤースコウが「ベートーベンは晩年フーガに夢中になっていた」「極端な面を受け入れ楽しむべき」。4人のコメントはまさにこの作品を言い表し理解を助けてくれた。レディントンが足で拍を刻んでいたが、この曲の確かな標準を刻んでいなければややもすると立ち位置を見失ってしまいかねないという気さえする。特にフーガが書き直しを迫られた理由がわかる。まるで瓦礫がそちこちから崩れ落ちるような感じがするのだ。よくこれを互いが各々の在りかを失わずに弾いている。驚きだ。聴いているうちにそれがそれこそ既成を切り崩す響きであると新鮮に聴こえだす。「どうだい」という苦み走ったベートーベンの顔が浮かんだ。

 

🎧名曲アルバム。マトス・ロドリゲス作曲「ラ・クンパルシータ」。バンド・ネオン小松亮太
1917
年第一次世界大戦のさ中の初演。「ラ・クンパルシータ」は「小さな行列」という意味。
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⛳フィギュアスケート男子シングルフリーを見ながら。羽生結弦、限界への果敢な挑戦に感動、落涙。いまから宇野の演技。鍵山へと続く。
14時3分更新

 

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220209 クラシック倶楽部を聴く ブルーオーロラ サクソフォン・カルテット

パリ国立高等音楽院に学びJ.M.ロンデックス国際サクソフォーン・コンクールで優勝した平野公崇により結成。独奏者としても活躍する名手たちによるアンサンブル。 パリ国立高等音楽院に学びJ.M.ロンデックス国際サクソフォーン・コンクールで優勝した 平野公崇により結成。それぞれが独奏者としても活躍する名手たちによるアンサンブル。
【演奏】平野公崇、田中拓也、加藤里志、本堂誠
【曲目】
平均律クラヴィーア曲集 第2巻 第1番 BWV870 より プレリュード  J.S.バッハ/平野公崇 編
サクソフォン四重奏曲第1番 Op.53  ジャン=バティスト・サンジュレー
日本組曲 作品33  G.ホルスト/久保田麻里、平野公崇 編:
和樂(わらく)  平野公崇:作曲
青森県民謡 津軽じょんがら節  田中拓也、平野公崇 編
沖縄民謡 てぃんさぐぬ花  平野公崇 編:
アンコール  BASQプレリュード(J.S.バッハ:平均律クラヴィーア曲集第1巻 第2BWV847
 
【収録】2020年11月1日武蔵野市民文化会館 大ホール
番組紹介よりー

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🎵前に聴いたときは、サンジュレ―の曲がおもしろいと思ったのを思い出す。きょうは日本組曲から聴く。「日本組曲」、同じ名前の曲がネットに7曲も出ていた。もっとあるらしい。貴志康一も同名の曲を書いているようだが聞いたことがないのが残念。ホルストの「日本組曲」は原曲はオーケストラ曲らしい。1前奏曲 - 漁師の歌2儀式の踊り3操り人形の踊り3間奏曲 - 漁師の歌 4桜の木の下での踊り5終曲 - 狼たちの踊りの5曲から成っている。「和樂」は「越天楽」の旋律からとられているようだが、笙、篳篥、笛などのオーケストレーションで聴いているようで、遠くで耳にしたなら雅楽楽器演奏だと思うのでは。次のジャズ仕様の「津軽じょんがら節」は三味線かと思わせる、バチさばきまで聞こえるような響きと共に、サクソフォンでこんなところまでと深甚。アンコール「BASQプレリュード」、鎖がどうしても解けない、その硬質なもの、もがく、あがく、叫ぶ。現代的、都会的なセンスががっちり噛んでいるような面白さ。大都会の底ヘッドライトとテールランプが行き交う谷間に響いているような。もはやバッハとはボーダーで繋がっている感じも。

🎧名曲アルバム。「箱根馬子唄」編曲・日高哲英
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箱根標高800。800メートルの峠道というと、岩手でいうと高原あたりだろうか。頂点の物見山は870あるようだけれども。箱根8里か、石が敷かれている。当時としては大変な工事だったろう。馬子たちが唄いながら足の裏で感じ取っていたであろう石の感触は。


⛳ついでに次の番組で火野正平さんが馬に乗っていたが、いいなとついカシャ。馬の慈愛ある目が何とも。
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私は猫より犬より馬が好きだ。飼うことはできないけれども。
いま山際が朱色に染まっている。数秒で眩い光がほとばしり出るだろう。
6時56分更新

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220208 クラシック倶楽部を聴く  ドビュッシー没後100年記念演奏会 II

20世紀を代表する、フランスの作曲家ドビュッシー。その没後100年を記念して日本の名手たちを集めて行われた、珠玉の室内楽作品の演奏会をお届けする。 
出演:吉野直子(ハープ)、小林美恵川久保賜紀(バイオリン)、川本嘉子(ビオラ)、遠藤真理(チェロ)、三浦友理枝(ピアノ)、上野由恵(フルート)
2018
1124日、フィリアホール(横浜市青葉区民文化センター)
番組紹介よりー

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曲目 
オールドビュッシー「アラベスク 第一番」(1891)
「弦楽四重奏曲ト短調」(1893)
「パンの笛」(1912
「バイオリン・ソナタ」(1917)

🎵「アラベスク 第1番」は吉野直子のハープ。水の戯れを心地よく。
「弦楽四重奏曲ト短調」は小林美恵、川久保賜紀のバイオリン、川本嘉子のビオラ、遠藤真理のチェロ。第1楽章戸惑い、不安、憂愁。もしかすれば奏者としては互いの音を聴くにも聴きにくい、ただ素晴らしきプロであるからにはこんなたわ言は思いもしない、或いは思っても引っ込めてしまい、楽曲に向き合うものかもしれない。素人感覚では聴きにくい弾きにくいのではと。奏者に難儀をさせるドビュッシーといいながら笑われるのを待っている次第でもある。第2楽章、意表をつく出だしが霊妙さにつながって。第3楽章神妙な鳴りだし。暗い森の底に静まる湖を連想。ビオラとチェロが思慮深く安定感をくれる。ほんとうに深いところでは4人の奏者が同感、共感し寄り添い和する。第4楽章、静かな面がざわつき波立つところにざわり。
「パンの笛」、上野由恵のフルート。
「バイオリン・ソナタ」、川久保賜紀のバイオリンと三浦友理枝のピアノ。この作曲の翌年にドビュッシーは亡くなっているので、病の憂鬱もあるかと思うが、しかしこれは短絡化かと。最後の最後まで自分の曲想を追及し続けたに違いないと。しかし、この旋律が生涯つづいたなら、これはちょっとやるせないなと。第3楽章は霊妙でピュア。

🎧名曲アルバム。ヴィヴァルディ「四季」から「冬」。バイオリン千住真理子。東京フィル&高関健。
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⛳いまから羽生結弦の演技、というわけで、13時17分更新。

 

 

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220208 クラシック倶楽部を聴く 紀尾井ホール室内管弦楽団メンバーによる木管五重奏演奏会

フルート、オーボエ、クラリネット、ファゴット、ホルン、ピアノ。紀尾井ホール室内管弦楽団の名手6人が紀尾井ホールに集って行った演奏会からオペラ、フランス音楽の名曲を。ー番組紹介よりー
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コメント
難波:今日は木管五重奏のオリジナル曲からオペラのアレンジまでバラエティーに富んだあらゆる音楽の世界をお送りします。
池田:私たちはそれぞれふだんは違うオーケストラで活動していまして、また紀尾井室内管弦楽団のメンバーでもあります。
日橋:木管五重奏という編成はたくさんの発音の種類を持った楽器の集まりでして、いろいろな色彩豊かな音色が楽しめると思いますので、皆さん楽しんでいただければと思います。
岩佐:日橋さんが言ったのと同じなんですけれども、木管五重奏というのは楽器の種類がすべて違いますので息のスピードや音量を合わせるのがとても難しいです。ですが、そういうところはお客様にわからないように演奏しています。
勝山:木管アンサンブルではあまり知られていないような曲でも魅力的なところがたくさんあります。今回はそういったものを味わっていただければと思います。
鈴木:きょうは後半のみの参加となります。木管五重奏とピアノのアンサンブルにもたくさんすばらしい曲がありますので、どうぞ最後までお楽しみください。

【出演】難波薫(フルート)、池田昭子(オーボエ)、勝山大舗(クラリネット)、岩佐雅美(ファゴット)、日橋辰朗(ホルン)、鈴木慎崇(ピアノ)
【曲目】喜歌劇「こうもり」序曲(ヨハン・シュトラウス作曲)
    カルメン組曲(ビゼー作曲/ダヴィッド・ワルター編曲)
    喜遊曲 作品6(ルーセル作曲)
    組曲「マ・メール・ロワ」(ラヴェル作曲/ダヴィッド・ワルター編曲)
    アンコール「恋人たちの黄昏」から第3楽章(フランセ作曲)
【収録】2019年1月29日 紀尾井ホール

🎵それぞれに一言づつのコメントで、遠かったメンバーがぐんと身近に。「こうもり」序曲で明るく活き活きと弾む響き、その響きに鳴るホルンとファゴットの落ち着いた響きを心楽しく聴いた。それとラヴェルの「マ・メール・ロワ」これは「マザー・グース」を題材として作曲されている。オーボエ奏者であるダヴィット・ワルターの編曲で、ピアノを入れたことで立体的な響きになっているという解説が。
 木管五重奏、響きの暖かさにリラックス。きょうの心境から思ったことだろうとも思うのだが、それぞれの楽器が、どれがどんな物語で、だれがどのような演奏で、この楽器の構造は、なんて知らなくたっていいんだよ。ただ耳を澄ますだけで。もうとにかく力を抜いてゆっくりしてちょうだい。と、こんなふうに聴こえてきた今朝。

🎧名曲アルバム。モレーノ・トローバ作曲「スペインの城」。ギター福田進一。
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⛳今さっきTVでジャンプ混合団体2回目、金メダルの小林陵侑選手のジャンプを目にしたところ。何か岩手に次々に信じられないというか、大変な快挙が続出している。
きのう7日の分を本日8日11時30分更新


 

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きょうのことば「みことばの味わい」

インマヌエル盛岡キリスト教会2022年130()のメッセージをお伝えいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で48年目のご奉仕をしておられます。

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説教題 『聖言(みことば)の味わい』(國光勝美 牧師)
引証聖句 詩篇119103
あなたのみことばは私の上あごになんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。

 きょうの礼拝の後に第48回教会総会を控えておりますこの朝、詩篇119103節のおことばに導かれております。
きょうのメッセージの前に、マタイの福音書88節「ただ、おことばを下さい」を簡単に振り返っていきたいと思います。

 「あなたのみことばは」。まずこれに注目したことであります。印刷された聖書のことばではありますが、それが「あなたの」という神様と私の人格的な交わりの中で、「あなたのみことば」は私たちにとりまして、第一ヨハネ4章9節
神はそのひとり子を世に遣わし、その方によって私たちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。
 
このように、聖書のおことばが、まさに信仰生活を歩む私たちの「足のともしび道の光である」。これが、今年、2日目の、つまり、元旦礼拝に続く第一回目の聖日礼拝のメッセージでございました。
 またその思いめぐらしの中に、神様のおことばをいただきたく今年も導かれておりますけれども、いったいそれがどうして「あなたのおことば」と理解できるのか、或いは、これであると捕らえたおことばが、それはあなたの勝手な思い込みではないのかなど、いつでも、みことばに対する疑惑を投げかけてくるサタンがいる。その中で私たちは神様のみことばを100パーセント信じて行くものであらせていただきたい、このように思いました。
 そしてその次の聖日では、この神様の光、あなたのみことばの光、それは聖なる臨在に輝き出る光である。幕屋の神様の臨在の箱の前に聖なる光がともされているその光。そしてそれは搾られた最高のオリーブの油なのだということも語らせていただきました。

そして前回、詩篇119130節「みことばの戸が開くと光が差し浅はかな者に悟りを与えます」。これを文語訳ですと「「聖言(みことば)うちひらくれば光をはなちて愚かなるものをさとからしむ」。
 さて、「みことばの戸が開く」、これはどういう意味なのか、それは物理的な扉というよりも私たちの心の隔てとなっている扉をいっているのですが、その扉をイエス様がたたいていてくださる。そして「みことばの戸が開くと」とあります。誰がみことばの戸を開くのか。外側から強引に開けられることはありません。私の方で内側からどうぞお入りくださいと扉を開くこと、それを「みことばの戸が開く」といいます。このことをヨハネの黙示録から語らせていただきました。聖霊の呼びかけがあるとき、主イエス様とのみことばの交わりができ、主のみことばの饗宴に与り楽しむときとなる。すばらしい主の導きです。

 そして今日は、ほんとうに短い時間ですけれども、「あなたのみことばは私の上あごに何と甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです」
 いつものようにこのおことばを記し心に思いめぐらしておりますときに、さて、不思議な気がしました。「わたしの上あご」、「何と甘いことでしょう」、これらはどういうことなのか。
 ふつう味は舌で感じる。それがなぜ「上あご」というのだろうか。好奇心がわきました。「上あご」の原語を見ますと、やはり舌で上の方を触ると堅い口蓋というんでしょうか、それが言葉の意味でした。舌ではなく「上あごに甘い」。おもしろいなと思いました。「口」という訳もあります。「私の口に何と甘いことでしょう」と。「歯ぐき」とも訳される言葉だそうです。「歯ぐき」、歯周病にでもならないかぎり使うことはなさそうですが。
 それはそれとして、むしろ、「私の口に何と甘いことでしょう」。伝えたいことはこのことであり、「上あご」にはそんなにこだわるところではない。何れ「何と甘いことでしょう」、これがいちばんのポイントであることは間違いありません。

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 私は山歩きが好きです。登山というとオーバーですが、とても山歩きが好きなんです。ご存じのとおり、鞍掛山を私の家の裏山のようなつもりで歩いている。その登山道でのことです。登山口から20分ほどだらだらした上り坂を行くと分岐点があります。そこからまっすぐに行ってもいいのですけれども、右側の方に行きますと、そこはもう急登、急な登りになります。私はその急登の方を登って頂上まで行く。それがいつものルートです。ある日のこと、その分岐点にたどり着くまでのたかだか20分にもならないうちに、体が動かなくなった。どっと疲労を感じました。おかしいなあ、今までこんなことはなかったのに。自分でもびっくりしました。急登が登れないのです。
 はたと気づきました。だいたい私は月曜日の朝に鞍掛山に登ります。どうも日曜日の夜の食事に原因があったようです。日曜日の最後の食事は、何かの関係で軽めに摂ったのでした。その翌日のことですから、ちょうど12時間経った月曜日の朝。胃の中には何も入っていない。たまたまのことなのですが。これはシャリバテだと思いました。登山用語です。ごはんを食べていないと力がなくなってしまう。このシャリバテは笑いごとでない、それで遭難することがある。そう気づきました。そのとき以来、私は、山に登るときには、必ず朝に一口でも、甘いものを胃の中に入れていきます。マラソンのときに、沿道にドリンクなどが準備されているのがわかる気がしました。

皆さん方、私たちが信仰生活を歩むときにシャリバテの状態にならないように。私たちのシャリはみことばです。聖書のみことばをちゃんと読み続けているのならば、その日その日のそれを食べているのならば、シャリバテにはならない。力が与えられる。
 疲れたときにチョコレート一かけらでもいい。私の場合にはそれが教訓になっています。私は自家製の甘ざけを作るものですから、その甘ざけを飲んでいくようにしています。
 シャリバテになることがある。これは私の体験談です。決して作り話ではない。間違ったことは言ってはいません。私たちが信仰生活を送っているときに、非常に疲れた、歩くことができない、戸惑ってしまう。自分でも自分が信じられない、どうしてなんだろうというときに甘いものを摂る。そのときの自分にぴったりなおことば。そうそう、このおことばだと読み、思い出して、このおことばに励まされるという経験があります。思いがけぬ危機を乗り越える食べ物として、是非おことばを食べていただきたい。

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 この「甘い」というときに、子どもの味覚があります。しかし、やがて大人の味覚というものが分かるときがある。先ほどの「上あごに」ということばの意味がピンときた気がします。そうか、「上あごに甘い」、これって大人の味覚じゃないのかな。舌で甘いというのは子どもの味覚。けれども、「苦しみにあったことは私にとって幸せでした。それにより私はあなたのおきてを学びました」という詩編11971節のおことばがあります。苦い、苦しい、辛い、大きな障害に直面したときに、神様のおことばが与えられる、そのときに、なるほど、そうか神様は、このおことばをもって私に力を与えてくださるというときに、舌の感覚が子どもの味覚ではなく、大人だけにしかわからない、信仰生活の意味が、つらい経験をした者だけがわかる単なる甘さではなく、こくがあるというのか、そこを通った者でなければ味わえないような深さ。苦さの中にうまみがある。そうだ、これで神様の掟を学んだのだ。そのおことばによって励まされ慰められ勇気が与えられるという経験を私たちは持つことができます。
 どうぞこの2,022年、「ただおことばをください」。どうか、上あごで神様のおことばを味わうことができるような大人として歩ませていただこうではありませんか。

―この後、ハイブリットではありますが、厳かに聖餐式が執り行われ、休憩を挟んで、教会総会が開かれました。―

※データは教会からお借りしています。
⏰5時38分更新


 

 

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220204 クラシック倶楽部を聴く ユリアンナ・アヴデーエワ ピアノ・リサイタル

「ショパンの音楽は無尽蔵」と語るアヴデーエワ。ショパン国際ピアノ・コンクール優勝から9年。日本で初めてショパンの最高傑作ピアノ・ソナタ第3番を熱演した公演から。

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ユリアンナ・アヴデーエワのコメント
ショパンの音楽はとても豊かです。そこに込められている感情やアイデアは無尽蔵です。毎日発見があっても不思議ではありません。よく演奏する作品でも新しく演奏する作品でも新たな発見は大きな喜びをもたらしてくれます。
コモ湖国際アカデミーで学ぶ機会を得たことは幸運でした。北イタリアの山に囲まれたとても美しい場所です。入学できるのは年に5、6人という少人数で世界中のいろいろな先生に学ぶことができました。様々なレパートリーや考え方を持った先生方に学ぶことで私はとても解放されたのです。一つの決まった方向に突き進むのではなくいろんな音楽の感じ方を学ぶことができました。昔は地域によって音楽教育が異なり、ロシア流、イタリア流、フランス流と様々な音楽教育がありましたが、以降、地域性は希薄になりグローバルになったと感じます。それは面白いことだと私は思います。
Q何年前からパンツスーツに切り替えたか覚えていますか)
よく覚えています。きれいなドレスで臨んだ本番中、突然気まずくなったんです。その時、私はラヴェルの「夜のガスパール」を弾いていました。11年か12年前です。2曲目の「絞首台」を弾いていた時、あれ、何か違うな、と違和感がありました。もちろん演奏中に自分の腕や肩を見たりドレスを意識することはありませんが違和感を覚えたのです。豪華なドレスで「絞首台」を弾くのは違うのではと疑念が生まれたんです。それがきっかけでした。衣装が演奏の妨げになってはいけない。他の方法を見つけなければと決心しました。私も聴衆の皆さんにも見た目に気を取られることなく音楽のみに集中してほしいと思ったのです。美しい豪華なドレスを着る機会はほかにもあるのですから。
「ピアノ・ソナタ第3番 ロ短調」は最近ステージプログラムに取り入れた作品で、ショパンの作品の中で鍵となる作品の一つです。そなた形式の代表作としても、音楽的にも、ショパンの作品の中で頂点を極めた曲だと思います。だからじっくり時間をかけて弾き込んできました。日本の聴衆の皆様とこの作品を分かち合いたいと思い、思い切って今回演奏することにしました。
(
音楽を志す若い世代へのメッセージ)
どんな困難な局面にあっても自分の楽器と音楽を心から愛することです。音楽という自分が好きなことを通して、聴衆という大勢の人々と交流できるのは素晴らしいことです。音楽のいちばんすばらしいことは団結できること。音楽という言葉を通じてひとつになれるということ。それを一番念頭に置くべきだと思います。うまく弾けなくとも伝えたいことがあれば聞き手はわかってくれる。それが一番意義深いことだと思っています。

 

 曲目
マズルカ へ短調 作品第7第3  ショパン
3つのマズルカ 作品59   ショパン
ピアノ・ソナタ第3番 ロ短調 作品58  ショパン
楽興の時 第3番  シューベルト  

🎵ユリアンナ・アヴデーエワ。ラヴェルの「絞首台」を演奏しているときに、豪華ドレスを着ていることに疑問を感じ、以来、音楽を生かすためにパンツスーツに。2019219日東京オペラシティでの収録分。この日本公演のためにアヴデーエワが弾き込んで弾き込んで持ち込んだのがショパンの「ピアノ・ソナタ第3番ロ短調作品58」。ソナタ形式の代表作で、作品の中で頂点を極めた作品。ヴィルトオーソ的な技巧があるとも。第一楽章で木の葉がはらりと舞い落ち降りつもり、それが森の中でというよりは、ショパンの中で多様な変転、変容を遂げていく。第3楽章では、思い入れのこもる音が孤独に逍遥し、内奥へと深く沈潜していく。ピアノを弾きつつも癒しには入れない魂が感じられる。第4楽章、孤独を強いて音の華やぎで埋めるかに奏法を繰り出し、最期の強烈な響きで、この全楽章を肯定し飾った、そんな感じを持った。曲の美しさから、壮絶なまでの孤独を感じてしまった。この感想が全うであるかはわからないが、聴いて感じたまま。
 けさはまさしく彼女の血となり肉とまでなったショパンを聴いた気がした。 

🎧名曲アルバム。イザーク作曲/ニウ・ナオミ編曲 「インスブルックよ さようなら」
(カウンターテナー)青木洋也,(合唱)東京少年少女合唱隊シニア&ユース・コア,(リコーダー)古橋潤一,(リュート)櫻田亨、神戸愉樹美ヴィオラ・ダ・ガンバ合奏団
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「インスブルックよさようなら
わたしは私の道を行かねばならぬ
異国へと続く道を
別れを想うと心は沈むけれど」

オーストリア西部インスブルック。この地に都を築いたのはマクシミリアン1世(14501519)。ハプスブルク家500年の栄華。マクシミリアン1世は外交やイ戦争のため都を離れることが多かった。愛するこの街を離れる寂しさをこの歌に託したという。音楽好きで気さくな皇帝は民衆にも人気があった。
と、こういうことだけれども、これが2代目、3代目となればどういう人柄になっていくものか。ただ音楽を愛する心の種は1代目でまかれ、その後も受け継がれていったものらしい。

 

⛳6時52分更新

 

 

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220203 クラシック倶楽部を聴く 角野隼斗 Beethoven Chopin Sumino

1995年生まれ。2018年ピティナピアノコンペティション特級グランプリ、19年リヨン国際コンで第3位を受賞。自作や即興演奏なども配信し、従来の枠を超えた演奏家として注目を集める 東京大学大学院修了。2017年ショパン国際コンクールinASIA大学・一般部門アジア大会金賞受賞。18年ピティナピアノコンペティション特級グランプリ、19年リヨン国際コンで第3位を受賞。自作や即興演奏なども配信し従来の枠を超えた演奏家として注目を集める【曲目】スケルツォ第1番、夜想曲 作品48第1(以上、ショパン)大猫のワルツ(角野隼斗)ほか【収録】2021年3月9日 武蔵野市民文化会館 大ホール

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コメント

ベートーベンの和声の積み方というのは、けっこう、特にこの「ワルトシュタイン」なんかはピアノの音域が広がって、ピアノがすごく進化していったころに作られた曲の一つでもあって、高域、低域というのをガツンと使うみたいなのが多くて、でもそれはそれでベートーベンとしての男性的な力強い魅力というのがあって、そういうのを改めて聴いてみると、あ、すごいカッコイイなとそれはそれで思うんです。ロック的というか、ギターを低弦ですごく鳴らしているみたいな、うんと近いようなカッコ良さを感じるんですけど、なので、そういう曲としてショパンとの対比という意味でも面白いかなと今回弾かせていただきました。
 音楽を届けたい、楽しんでもらいたいというのは、何らかわりはなくて、たぶん、僕もユーチューブとかの活動とコンサートでクラシックを弾くという活動が、もともとぜんぜん別のところにあって、どういうふうに自分の中で両立していけばいいのかなというのをいろいろ考えた時期があったんですけど、でも別にそれは200年前のフランツ・リストとかがやってたことと同じだなと思ったんですよね。昔のその当時のクラシックも演奏するし、自分で作曲アレンジ、即興とかもやるというということに改めて考えてみて気づいたときに、あ、この二つは自分の中でぜんぜん分けて考えなくていいんだと思うようになって、お互いにいい影響を与え合ってるんじゃないかなと思ってます。
 ショパンはすごくその音を出したときの響きがすごく輝いて洗練されているなというのを感じるんです。いろいろなところが緻密に輝いているんだけれども、でも、たぶん、すごくインスピレーションというのはだいじにしてて、ショパンだって即興演奏とかはしてましたから、そういうバランスっていうんですか、インスピレーションをだいじにするけれども、そこからそれをちゃんと曲として完成度の高いものに構築していくというところがすごく見習うべきところがあるなというか、自分にとってすごく大きい存在ですね。
 「子犬のワルツ」と「大猫のワルツ」については、そうですね、それ(子犬のワルツ)の逆を行こうというか、子犬の逆は大猫かなあみたいな、その大猫であるのには理由がありまして、ショパンもジョルジュ・サンドが飼っていた子犬にインスピレーションを得ててというはなしがありますけれども、僕の実家で猫を飼ってるんですけど、大きい猫なんですね。大きんだけど太ってるんだけど、すごいジャンプしたり走り回ったり軽々と駆けまわってるんだけど、こう重量感はあるような、そんなようなところから、これも家でそういうのを見ながら即興してて、たところから生まれた曲なんですけども。ロマン派時代のなんか良いセンスはすごいありますよね。で、それにちょっとだけジャズっぽいハーモニーとかリズムを自分なりにちょっとだけ加えてみてるという感じです。
 でも僕はやっぱりクラシックは大好きなんだけど、クラシックを演奏するだけではなくて、今の21世紀、多様なジャンルがあるわけですけど、そういうものと或いはそのどんどん取り入れる中で、こう混じわらせてこう次への世代へと音楽を繋いでいきたいという気持ちは強くて、何かそういうところはずっとやり続けると思います。 

曲目

ピアノ・ソナタ第21番「ワルトシュタイン」 ベートーベン
スケルツオ第1 ショパン
ノクターン 作品48 第1 ショパン
子犬のワルツ ショパン
大猫のワルツ 角野隼斗

 

🎵え、これが「ワルトシュタイン」? そう思った。一か所の打鍵の瞬間に意識はもう次の音に移り、次つぎに音を追い続けてゆく感じが。感情が一つのフレーズに留まり玩味するということが無いかに始めは聞こえていた。ピアノに遊ぶというか、ピアノは彼の遊びの一つなのではと。これを音楽の読みはすでに完了させ一種の超越ととらえたらよいものかどうか迷った。デジタルな音色の探り出しといった感じも。拘泥、沈滞は、戸惑い、ためらいはあり得なく、駆けに駆けるといったリズムが心地よい。第2楽章の終わりのところで、この感じで次があり得るのだろうかと思ったところで第3楽章。夕景に映えるさざ波を抜き手抜き手で泳ぎわたりゆく感じが。「スケルツォ」、ワルトシュタインとは一味違う。感情を入れる余地を十分に学び知って後に、その余地を意識的に排しているように感じられた。コメントからそのヒントが。「逆に」。こう弾くであろうことは常道であるが敢えてその逆にといういわば挑戦なのだろうか。「ノクターン 作品48」手の内に落としてゆったり引き出している、最後はにれはみながら穏やかに。 「大猫のワルツ」ロマン派の作曲家の作品のような感じが。
 今後の活動については聞いてみたい事項、それを質問し録ってくださっていたが。どんな展開が為されていくものか興味津々。このような感覚の音楽家はどんな作品展開、或いは演奏展開を踏みゆくものだろう。
 

 🎧名曲アルバムはオッフェンバックの「天国と地獄」
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19世紀半ば、第二帝政下のパリにオッフェンバックはすい星のごとく現れたという。風刺によって笑いを産み出す数々の傑作を作る。オッフェンバックは作曲家としてだけではなく、ブッフ・パリジャン劇場の支配人として次つぎと自作を発表した。1858年「天国と地獄」はここで初演され、パリっこたちの大喝采を受けた。彼は新作を求める聴衆のために超人的なスピードで作曲を続け、オペレッタを中心に生涯100本を超える作品を残した。
日本では明治の軍楽隊盛んなりし頃から盛んに演奏されてきた曲の一つ。

⛳前回のクラシック倶楽部で、「ノクターン」を書き落していたらしい。きょう気づいた。何れこんなことに気づかされることがある。前回に書き足しで6時38分更新。外は今⁻5。

 

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220203 クラシック倶楽部を聴く 小林愛実のショパン〜24の前奏曲とポロネーズ〜

7歳でオーケストラと共演、9歳で国際デビュー。以降、カーネギーホールに4度出演するなど国際的に活躍している。桐朋女子高等学校音楽科を経て2013年からカーティス音楽院に留学。2015年ショパン国際コンに出場、本選に進む。
【演奏】小林愛実(ピアノ)
【曲目】前奏曲作品28
    ポロネーズ 変イ長調 作品53「英雄」
【収録】2021年2月8日 府中の森芸術劇場 ウィーンホール
―番組紹介からー

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小林愛実のコメント
Q24の前奏曲について
すごく調性というのって、カラーが強いんだなあって。たとえばハ長調といったら無限な可能性があったり真っ白でどこへでも行ける。それからはじまるんですけど、この曲は。わたしはアスドラが好きだから、アス・ドラ(As Dur=変イ長調)というのは愛に満ち溢れているような、ただただ愛してますと言ってるような感じ。エフ・ドラ(F Dur=ヘ長調)といったら、母性だったり、包まれるような温かさを感じたりとか、まあすべての調に愛があると思って、そういう私なりの見解です。私は17番が好きです。アスドラです。弾いてて幸せな気持ちになります。
Q
どんな演奏家を目指していますか
私はただ楽しく弾ければいいです。うわべで楽しい曲というのはたくさんあると思いますけど、ほんとうに音楽を楽しんで弾くというのは、相当の努力が必要だし、やっぱりそれがないと弾けないと思うから、楽しんで音楽というのは大変だなあと。たぶん私は18歳くらいでピアノをやめたかったから、ピアノ弾くのが楽しくなくなっちゃって、やめたくてしょうがなかったから。ほんとうに弾かなかった時期があって、それで、もう一回やってみようってなったタイプ、人間なので、だからそこ楽しく演奏するというのが自分の中で大きい。
Q
ショパンの音楽と自分
けっこう曲に思いを入れて描いて、それでもどこかにこう何か自分にしかわからない栄養部分がたくさんある人物。けっこう自分だけの感情を自分だけで解決したり、自分だけ知ってる感情というのが、それをけっこうピアノで音楽で表現したりするのが好きなので、100%はたぶん伝わらないけれども、受け取ってもらってというような、そういうのはすこし似てるのかな。言葉でいわなくていいから、そこは私は好きですね、音楽を表現する。言えないような感情をこの中に入れて弾くのが好きです。

🎵コメントにあるように、「言葉でいわなくていいから」というところに惹きつけられる。何れ言葉は両刃の劔のようなもの。包丁が調理にも役立てば凶器にもなるという2面性があるように言葉にもそれがある。それが人を苦しめたり自分がそれで苦しんだりすることもある。しかし音楽はそういう危険性がほとんどない。音楽はいい。

🎧名曲アルバムはチャイコフスキー「四季」から「1月炉辺にて」、「11月トロイカ」
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⛳昨日2日(水)の分をきょう3日の4時52分更新。さてもうそろそろ今日のクラシック倶楽部が始まる。

 

 

 

 

 

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220201クラシック倶楽部を聴く 反田恭平 オール・ショパン・プログラム

情熱的な演奏で注目を集める若手ピアニスト・反田恭平日本各地で演奏会をおこない常に多くの聞き手を魅了しているーショパンの故郷ポーランドで学んできた反田恭平がその成果を披露天才ショパンが遺した傑作を集めてお送りするスペシャルコンサート
曲目「アンダンテ・スピアナートと華麗な大ポロネーズ 作品22
    「マズルカ ハ短調 作品56第3」
    「ピアノ・ソナタ第3番 ロ短調 作品58
2019130CHABOHIBAHALL(東京都立川市) ―番組紹介よりー
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1994年生まれ。2012年、高校生のとき日本音楽コンクール1位(男性では史上最年少)2014 - モスクワ音楽院に首席(日本人初の最高得点)で入学。2015年「チッタ・ディ・カントゥ国際ピアノ協奏曲コンクール」古典派部門で優勝。2016年東京でデビューリサイタル。2019年ポーランド国立.ショパン音楽大学(旧ワルシャワ音楽院)研究科。現在、同大学研究科(3期目)にてピオトル・パレチニに師事。

コメント
7
8歳ごろからショパンを弾きはじめて、いろいろな作品と出会いましたけれども、果たしてどういうショパンを弾くのが正解といいますか、どういうふうに弾くのがただしいのかちゃんと学びたくてポーランドに行ったわけですけれども、徐々に自分のものにはなってきているかなと思っていますし、そういった成果というのをとりあえず今年のツァーで公の場でお届けしたかった。
 
 ポーランドに留学していると、日本でいるときとはまた違う勉強をするわけですね。というのもピアノだけ弾いていればいいというのではきっとなくて、学校のショパン大学の隣にショパン博物館というのがあるんですけれども、そこで自筆譜を見てたり、あとは彼が使用しなかったアイデアだったり、そういったことも残っているので、毎回発見があって、マズルカは特におもしろくて、当時ショパン自身のマズルカを実際に聞いた方々ののこってる言葉だと、作品にもよります。部分部分にもよるんですけども、彼が弾くマズルカというのは特に拍子にこだわりをもっていたんですけれども、なるべくそういう意味ではルバート、ルバートという言葉が一番最適ですけども、ルバート、揺らして揺らして何となくなじませていく。大きな大木があって、木の葉があって、枝があるわけですけども、そう風が吹いても大木は動かない。木だけが木の葉たちだけが動いている。それがルバートだという言葉があるような、そういう意味でして、特にこの作品561番、3番は特に長いですし、3番の方なんかもう幻想的でいろんな主題が出てきますから、ファンタジーにより近い形になってますし、とても弾き甲斐のある難しい作品ですね。
 さきほどのマズルカと作品番号も近いですし、そういった同時期に書かれたすごく晩年に近づいてきてるわけですけども、よりバッハの対位法だったり、そういったことを忠実に再現しているところもありまして、まとめるのは難しいけれども、弾くのはとても弾き甲斐があったり回想シーンなんかもすばらしいですし、二楽章なんかもほんとうに数分ですけどもいろいろなパッセージが組み込まれていて、最初の一楽章の主題の、動機ですかね、モチーフがいろいろなところで散りばめられてますし、終楽章なんかも三回目に主題が来るところなんかはもう、ああ、来た来た来たという感じでざわざわざわとしますし、もう彼自身の一つの生涯が含まれているような作品かなと僕は思ってます。


 反田恭平のコメントでは「どう弾くのが正しいのか、正解を知りたくてポーランドに留学。徐々に自分のものになってきたが、とりあえず、ことし(2019)のツァーでそれをお届けしたい」と。ポーランドでショパンの博物館にも足を運び自筆譜などを見ていると、ショパンが使用しないでしまった作曲上のアイデアがさまざまのこっているとのこている反田。ピアノだけを弾いているのではなく、作曲家の研究にも余念がない。
 「マズルカ」について、ショパンは拍子にもこだわりを持っており、特にルバートに関しては、大木を揺らしてゆらしてなじませていく。幹は動かず、その葉だけがさわさわと、か、ざわざわとか、揺れ動くのがルバートであるという。 「マズルカ」はファンタジーに近い聴きがいのある難しい作品。「ピアノ・ソナタ第3番」、34歳での作曲。古典的な手法による大規模な作品で、巧みな楽曲が組み合わされている。バッハの対位法を忠実に再現しているとことも。第一楽章の動機がちりばめられており、色々なパッセージが組み込まれている。終楽章での3回目の主題には、あー、来た来たと、ざわーとするのだという。ショパンの生涯が含まれている作品であると。

🎵「ピアノ・ソナタ第3番」、ショパンを聴くとき、いつも水の3態、水の流れが浮かぶのだが、この4楽章では尽くされた楽曲が、これもか、これでもかと立ち現れ迫ってき、それがマッスとなって、人生の集約をドラマティックに提示された思いがした。また第二楽章の終わりの二つの音が心の底に落ちて、今も鳴っている感じ。あれは諦念でもなく沈潜でもない。第3楽章には人生の不条理も聴こえた気がしたのだけれども。
 今回は公開録音ではない。CHABOHIBAHALLでの録画。カメラが、ピアノの持つ今一つの機能、周りにあるさまざまなものを美しく映し出すという可能性を追ってくれた。特に、持ち上げられた天板の角度の延長線の高さから捉えたピアノの内部構造、高橋アキがいう「ピアノは弦である」さまが、琴線さざめくごとくにとらえられていた。観客席にあるときには、視覚の範囲は一定しており、決して味わうことのない断面を、この映像では豊かに提供してくれた。ファツィオリと、それを縦横に弾きこなす演奏家と、カメラワークが作り出す詩の世界。
 この映像は、反田さんがショパンコンクールに出る前のもの。コンクールでの成果を思い出しながら聴き、何か一層心に働いてくるものを覚え、コンクールへの熱い想い、執念、上向きの姿勢、馬を駆るとしたら手綱をむげには緩めない目指すところへの学びに打たれた。

🎧名曲アルバム。こちらもまたショパン「序奏と華麗なポロネーズ 作品3」
チェロ遠藤真理、ピアノ菊池洋子
写真はショパンを招いてくれたアントニ・ラジヴィラ侯爵とその館。ショパンの人生にとって最も楽しく幸せであったいくつかの一つ。
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⛳きのう1日の分を今日2日21時41分更新。
オミクロン勇躍のもと、連日しっかりと冷え込んでいる。

 

 

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220131 クラシック倶楽部を聴く ソプラノ小林厚子 の世界

東京藝術大学大学院修了。その後イタリア留学。2000年ドニゼッティの歌劇「愛の妙薬」でオペラデビュー。2015年プッチーニの歌劇「蝶々夫人」でイタリアデビュー。 近年は、ワーグナーやヤナーチェクのオペラにも出演。幅広いレパートリーで活躍。ピアノの江澤隆行は、東京藝術大学別科を修了後フランスに留学。オペラや歌曲の伴奏法を学ぶ。【演奏】小林厚子(ソプラノ)、江澤隆行(ピアノ)。【収録】2021年11月29日武蔵野市民文化会館大ホール。

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コメント(一部)
アリアはその場所、コンサートでしたらその歌詞をとりあげて歌いますので、それまでのどうしてこのアリアに至ったかという物語を自分の中で反芻してからじゃないとやはりそのアリアを歌いきれないんですが、歌曲はほんとうにコンサートのためにつくられているので、共演者と一緒にその世界を作り上げるというのですね。大学に入ったときに、最初のレッスンだったと思うんですが、先生が「きみねぇ、歌は長い長い人生をかけてやるものだよ」と仰って、私はほんとうに途方にくれました。やっとこの自分という楽器がすこし見えてきたかなあというところで、まだまだ進化していきたいとはおもっているんですが、その運転の仕方をやっとすこし身につけてこられたかなあと。でもまだまだこの先がありそうです。

【曲目】かわいい口もと(トスティ)
君ゆえ死ぬ思い(ロドリーゴ)
歌劇「ゴイェスカス」から「マハと夜鳴きうぐいす」(グラナードス)
歌劇「ルサルカ」から「月に寄せる歌」(ドボルザーク)
歌劇「ドン・カルロ」から「世のむなしさを知るあなた」(ヴェルディ)
                              多田茂史・訳

🎵後半30分ほどしか聴くことができなかった。自然体で楽しむことのできる。ヴェルディは圧巻。それこそアリアの前後が眼前に広がってくる。

🎧名曲アルバム。フォーレ「レクイェム~神の小羊」
梅田&東京フィル、東京少年少女合唱隊、シニア・アンド・ユース・コア
40
歳でマドレーヌ教会のオルガン奏者
異世界の間隙からもれくる光のような穏やかな魂やすまる旋律。

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⛳眼精疲労のため、その日に聴いていても、音楽は耳を傾けさえすれば流れ込んでくれる有難さ、目を閉じていても可。書くのは目をやすませてからの今日。31日(月)分をもう月を超したきょう2月2日19時35分に更新。

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