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きょうのことば 『主はわたしの羊飼い』ー年末感謝礼拝ー

教会のメッセージは1週間遅れで掲載しておりますので、きょうは年末感謝礼拝説教です。

インマヌエル盛岡キリスト教会2021年1227()のメッセージをお伝えいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で48年目のご奉仕をしておられます。

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説教題 『主はわたしの羊飼い』 (國光勝美 牧師)
聖書朗読 旧約聖書  詩篇23
ダビデの賛歌
1 主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。
2 主は私を緑の牧場に伏させ いこいのみぎわに伴われます。
3 主は私のたましいを生き返らせ 御名のゆえに 私を義の道に導かれます。
4 たとえ 死の陰の谷を歩むとしても 私はわざわいを恐れません。
あなたが ともにおられますから。
あなたのむちとあなたの杖 それが私の慰めです。
5 私の敵をよそに あなたは私の前に食卓を整え 
頭に香油を注いでくださいます。私の杯は あふれています。
6 まことに 私のいのちの日の限り いつくしみと恵みとが 私を追って来るでしょう。
私はいつまでも 主の家に住まいます。
 

<おはなし>

 「主はわたしの羊飼い」。先ほど1年間を振り返るお祈りをさせていただきました。皆さんも、一つひとつ、アーメンと心に止めながらお祈りに和してくださったことと存じます。そして、年末感謝の今日にふさわしいみことばとして、私自身も、今年1月の元旦礼拝から教会総会まで、共に恵みをいただきました聖書の個所を振り返ってみたいと思っております。

「主は私の羊飼い」

うるわしいことばです。しかし、これは取りようによっては非常に不可解な表現でもあります。なぜなら羊飼いという仕事は、当時の社会にあって最も低い立場の人たちでした。そして私たちが羊にたとえられている。羊は動物の中で最も弱い、ある意味最も弱い。弱く愚かな、そういう動物としてたとえられています。牙もありません。ですので、「主が、私の羊飼い」というときに、何か不可解な気はするのですけれども、なるほどほんとうにそうだ。そして、深く思うことは、主イエス様は、神ご自身であられるのに、いちばん低くお生まれくださり、死に至るまで、十字架の死に至るまで従われたお方。いちばん低くなられたお方が、私たちの主なのだということ。これを心に止めさせていただきました。

  そしてダビデが「羊飼い」というのも、まことのダビデの子孫、主イエス様のことです。
 ここで私は詩篇の182節を引き合いに出します。
主はわが巌、わが砦、わが救い主、身を避ける我が岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。
 これ以上言えるだろうかと思うほど神様はこういう素晴らしい力ある避けどころです。この神様が、羊飼いだというところに大きな意義があります。どんなに大きな岩であっても、そこに交わりがなかったならば寂しいものでしょう。確かな巌、砦、救い主、盾、角、やぐらであることに勝って、羊飼いであってくださる。ほんとうにこのお方が今人格的な交わりをもって私の主であってくださるのです。

イザヤの40章11節にあります。
主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、懐に抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。
 主は大いなる巌であります。力ある角でありますけれども、主は私たちを養い、守り、導いてくださるお方だということを、御前に覚えたことであります。そして23篇の「たとえ死の陰の谷を歩むとしても」、これは人生の最もつらいときであります。それは死という避けられないものに対して、「たとい死の影の谷を歩むとしても」、「私はわざわいを恐れません」。これは強がりや思い込みではない。主イエス様の平安が約束されております。
ヨハネ1427 わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がしてはなりません。ひるんではなりません。
或いは、
ローマ831神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。
  これは強がりではない。ひとりで直面しなければならない死の間際にも、神様は仰せです。わたしはあなたと共にいる。私の平安をあなたに与える。神が私たちの味方です。何という恵みでしょうか。

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「あなたがともにおられますから。」
「主は」という呼びかけから、「あなたがともにおられますから」。 主は私の羊飼い、そうなのですけれども、主は三人称を超えて、私とあなたの関係と二人称となってくださる。「あなたがともにおられます」。

 それをどういうときに私たちは自覚するでしょうか。それは、聖霊と共に歩むとき、ああ、あなたは共におられる。「あなた」、という場合にはほんとうにくどいようですけれども、二人称、わたしとあなたがいて、けっっして彼ではないのです。そして一緒に意思が通じている。そしてこれを可能にしてくださるのは、聖霊なる神様。聖霊なる神様は私たちとともに歩んでくださるお方です。それは、いつでも私たちが砕かれやすい心をもつ、教えられやすい心を持つ。

 この二つの「砕かれやすい心」、「教えられやすい心」、これを私は神学生時代に初代の院長である蔦田二雄先生から、「クリスチャンとして、この砕かれやすい心と教えられやすい心、これはほんとうに大切な要素だ。神学校に入って、気の合う先輩や同僚ばかりではないし、指導者であっても、あんな先輩がこんな人が、というような思いを人間は、私たちは持ちやすい。自分が砕かれる、或いは教えられやすい心の状態であるために、主よどうぞ導いてくださいと祈り求めるべきである」と教えられました。 

 いまここで、語りたいのは、私たちこれから来年のみことばに備えます。その時に、これまでの自分の歩みを振り返って砕かれやすい心となるように、主の前に、みことばの前に、ほんとうに砕いていただきましょう。それから、神様の導きにある「教えられやすい心」、これは聖霊による歩みによる。「砕かれやすい心」、「教えられやすい心」というのはほんとうに大切です。このことはもう神学生時代から今に至りますまで心すべきと銘記されております。

 この二つの要素が失われたとき、人間は傲慢となり人を裁いてしまう。裁きたい糾弾したい思いがふっと心に湧いてくる。そういう誘惑がやってくるときに、ブラザー・ローレンスのはなしではありませんが、「主よ、あなたの助けがなければ、ほんとに私はこんなへまな者です」と祈る。このように砕かれ砕かれてゆくときに、きっと、あなたこそが私の羊飼いだ。あなたがともにおられると実感することになります。

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締めくくりに入りたいと思いますけれども、

「 まことに 私のいのちの日の限り いつくしみと恵みとが 私を追って来るでしょう。
私はいつまでも 主の家に住まいます」。

 主が与えられたいのちのある限り、その使命のある限り、「私のいのちの日の限りいつくしみと恵みとが私を追って来るでしょう。」

 いつくしみと恵みの神様。「いつくしみ」ということばは、神様の満足をあらわします。これは「非常に良い」。神様が天地宇宙を造られたときに、創世記131神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった」と。「非常に良い」と仰ったその言葉が使われているのです。神様が「非常に良い」と仰るそのいつくしみ、それは、創世記の14、、1012182125にも出ております。私はヘブル語ができないのですけれども、しかしこれを調べるときに、神様がこれを良しと満足されるそのいつくしみが追って来るというのです。「いつくしみ」がです。そして「恵み」、これは=憐みということですけれども、これはへセドということばが使われていて、主がイスラエルの民に対して忠実で、約束を誠実に守られる神様の愛情、これを示すことばが恵み、へセドということばです。

 この慈しみと恵みの神様が、私たちを追ってくる。これは付きまとうということば。付きまとうというと裾がからんでしまうというような、付きまとう、そういう意味合いもあるのですけれども、どうでしょう、これは悪いことではなくして、まだまだまだまとっているというように、いつまでもいつまでも追ってくる。ああ主はわたしの羊飼い、何という幸いなことでありましょうか。主の羊であるということの幸いさを、もういちど私たち、この1年を締めくくるに際し、詩篇23篇の主を振り返り、そして砕かれ、教えられやすい心をもって感謝し、主の御前に出ようではありませんか。

 

この後、厳かに聖餐式が執り行われました。

※音声データ、イラストは教会からお借りしています。
⏰6時38分更新

 

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