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きょうのことば 『聖言(みことば)の光』

インマヌエル盛岡キリスト教会2022年116()のメッセージをお伝えいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で48年目のご奉仕をしておられます。

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説教題 『聖言(みことば)の光』(國光勝美 牧師)
引証聖句 詩篇119105
あなたのみことばは私の足のともしび 私の道の光です。

  『聖言(みことば)の光』と題しまして今日のメッセージを導かれております。
詩篇119105のおことばです。これを今年はずっと取り上げ掘り下げて味わい、恵みをいただきたいと願っております。

 聖書に出てくるオリーブ。オリーブは日本では香川県が特産地、そのほかにも何か所かあるようです。
オリーブ, オリーブの木, フルーツ, 自然, 工場, オリーブの枝, 成長

 聖書に書かれている油というのは、まず間違いなくこの純粋なオリーブの油のことを意味しております。
 オリーブは創世記6~9章にも出てきます。ノアの箱舟のところです。神様は堕落した人間界を水で滅ぼそうとしますが、神様の御前に正しく生きていたノアには、箱舟の作り方を教えて、ノアとその家族たちを助けました。しかし、箱舟に入れなかった者たちは裁きを受けて大洪水で滅んでしまいました。大雨が止められたとき、水が引いたかどうかを確かめるために、捕まえた鳩を放ちました。すると鳩がオリーブの若葉をくわえて帰ってきたので、水が引いたことを知ったというこのようなことがありました。
 聖書の中では、オリーブの木、そして、オリーブ油は非常に意味のあるものでありましょう。

また、聖書の出エジプト記27章20,21節にもオリーブ油が出ております。
20 あなたはイスラエルの子らに命じて、ともしび用の質の良い純粋なオリーブ油を持って来させなさい。ともしびを絶えずともしておくためである。
21会見の天幕の中で、さとしの板の前にある垂れ幕の外側で、 アロンとその子らは、夕方から朝まで主の前にそのともしびを整える。これはイスラエルの子らが代々守るべき永遠の掟である。

 この個所をお開きいただきたいと思います。旧約聖書にあります。旧約聖書のはじめは創世記、その次が出エジプト記。出エジプト記にはイスラエルの民がエジプトの地で奴隷生活を強いられていたことが記されています。そこに至った経緯は持ち時間の関係で省きますが、何れイスラエルの人たちは、エジプトで奴隷民族として苦しみの中に生活しておりました。そこに神様はモーセという指導者を与えてくださいました。

 モーセは、神様が与えると約束してくださるカナンの地、乳と蜜の流れるカナンの地に向かうべく、神様の導きによってエジプトを脱出します。出エジプト記の最初の方はなかなか興味深い。出エジプトでもう一つ重要なのは、奴隷民族であったイスラエルの民に、神様が憲法ともいうべき律法を与えたことです。それがモーセの十戒です。神様と私たちとはこのような関係の中で生きていきなさい。これを守るなら祝福を受けるという、宗教上、生活上の規範、戒めです。
 そして神様はそれを私たちに目で見てわかるような形にしてくださった。天にはまことの聖所がありますが、私たちはそれを誰も見たことがありません。けれども、神様は、それに模して形作って目に見えるものとして、神様の臨在とその恵みを可視的にする幕屋というものを作るように教え示してくださいました。出エジプト記には、その幕屋を作るにあたっての寸法までが事細かに記されています。なので、出エジプト記をわかって読もうとしても、なかなかとっつきにくいというのが正直なところでしょう。しかし、神様はこのようにして、天にあるまことの聖所、そこに神様がご臨在しておられるその模型を示してくださったこれが幕屋です。そして幕屋に仕える人たちや、そのいろいろなできごとが書かれているのがこの出エジプト記27章であります。きょうはそれを、焦点を「ともしび」の一点に絞り短くお話しさせていただきます。

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出エジプト記2720節、
20
あなたはイスラエルの子らに命じて、ともしび用の質の良い純粋なオリーブ油を持って来させなさい。ともしびを絶えずともしておくためである。
 
予め理解しておいた方がいいと思うのですが、画面の中にありますAC、これは契約の箱をあらわしています。契約の箱を簡略にACとしています。そしてGLとあるのは、右の写真にある金で作られた燭台です。それがぜんぶ覆われている。至聖所ACには、モーセの十戒が刻まれた石の板が収められている。勿論そのほかアロンの杖とかいろいろなものが入れられているのですが、これが至聖所です。これが聖所の中の中心、心臓部分です。そしてその至聖所の前に幕があり、そこに香を焚く台がある。それがIです。GLが燭台。これに光をともす。それからパンの机といったらいいでしょうか、TSです。これがぜんぶ何層にもわたる覆いの中にある。なのでこの中は真っ暗なのです。そして神様の臨在をあらわす至聖所の、そのへだての垂れ幕の外側に、ただ唯一ある光がこの純金で作った燭台、ともしび皿、これです。
 モーセは言います。
20
あなたはイスラエルの子らに命じて、ともしび用の質の良い純粋なオリーブ油を持って来させなさい。ともしびを絶えずともしておくためである。
 
私の思い巡らしの中で、この至聖所の中の「ともしび」と「汝のみことばは私の足のともしび私の道の光です」というときの「ともしび」がリンクしました。
 至聖所とのへだての垂れ幕の外側で、アロンとその子ら、つまり祭司たちが夕方から朝まで、主の前にそのともしびを整える。これはイスラエルの子らが世々まもるべき永遠の  掟である。つまり、神様のみことばである十戒が収められている贖いの箱のへだての前で、絶えず光がともされていた。そのともしびが「汝のみことばは私の足のともしび私の道の光です」。
 私は、「汝のみことばは私の足のともしび私の道の光です」というおことばと、この至聖所の光の思いめぐらしの中に、「ともしび」の意味をより深く感じたのであります。至聖所、そして贖罪所、これはまさに神の臨在の場所です。そこに聖なる光が唯一輝いている。それは聖なるともしび。これは世々守るべき永遠の掟。ここに質の良い純粋なオリーブ油、絞られた最高の油、これで光をともすようにと言われているのです。

 そんな中に私は、一人の人物、旧約聖書の特に創世記の中で忘れられない大きな人物はヨセフという存在です。きょうはともしびに焦点を合わせるので、簡単にしか触れることはできませんが、お許しください。
 ヨセフは、アブラハム、イサク、ヤコブの子として祝福の家庭の中に生まれました。しかし、ヨセフの父は、ヨセフをえこひいきしていた。ヨセフが自分からえこひいきされるようにしたというのではないのですが、お父さんは他の兄弟たちよりもヨセフを特別に可愛がり育てました。他の兄弟たちはヨセフを快く思いません。彼を殺してしまおうと企みます。そこにたまたまエジプトの方に行くキャラバン、隊商が通りかかりました。兄弟は、待て待て、ヨセフをここで殺してしまうよりあのキャラバンに売っ方が一儲けできるだろうし、またそうした方が自分たちが直接手を下さずに済む。こうしてヨセフはエジプトに売られてしまいました。
 エジプトでヨセフはエジプト王宮のファラオの侍従長ポティファルに奴隷として仕えるようになりました。ところが主人ポティファルの妻がヨセフを誘惑し、ヨセフがそれを拒んだために妻の逆鱗に触れ、ヨセフは濡れ衣を着せられ牢獄に囚われてしまいます。ヨセフは何一つ悪いことをしたわけではなかった。えこひいきしたのはお父さんですが、それゆえに兄弟たちから殺されるほど憎まれ、遠いエジプトに売られてしまった。そこで仕えていたところ、何とあらぬ疑いをかけられて牢獄に入れられてしまう。こんな理不尽な扱いを受けました。
 そのエジプトで、ファラオが奇態な夢を見るのですが、この夢を解き明かせる人物が求められます。このときヨセフと同じ牢に入れられたことのある献酌官長と調理官長の二人がヨセフを思い起します。自分たちが見た夢をヨセフが解き明かしたことがあった。その解き明かしのとおりになったことをパロに申し出た。結局、ヨセフはその能力をファラオに知られ、ファラオが見た夢も解き明かすことになったのです。
 ヨセフは王様の夢を聞いて、王様、エジプトには7年間は大豊作があります。しかしその大豊作の後、7年間の大飢饉が起こります。ですから大豊作のときにファラオの権限であらゆる食料を集めさせ穀物をきちんと蓄え、これを保つようにして飢饉に備えなさい。このようにヨセフは夢解きをし、ファラオはその通りにしました。王様の信頼を一身に集めたヨセフは、牢獄の1囚人からエジプトの王位にはおよびませんけれども、全権をゆだねられた宰相に抜擢され、それによってエジプトは救われました。
 エジプトのみならず全世界に大飢饉が襲ったときに、ヨセフの故郷であるイスラエルの地から、ヨセフをエジプトに売った兄弟たちが、まさかヨセフがエジプトの宰相になっているとは思わず、世界的な大飢饉の中にエジプトにはまだ食料があるようだとヨセフを訪ねてきました。兄弟たちがヨセフの前に現れたときに、ほんとうはこれもおもしろい出来事がありますが省略して、ヨセフは、ああ、お兄さんたち、よく来てくれました。こういって自分を殺そうとしてエジプトに売ったあのお兄さんたちを迎えます。お兄さん、きっとこれは神様が、このような非常事態になったときに、お兄さんやお父さんたち、私たちのイスラエルの家族を救ってくださるために、私をこのようにエジプトの地に送ってくださったのです。これまでのことはすべて神様のご配慮なんです。お兄さん、どうか自分を責めないでください。ヨセフは嫉妬と悪意をいやというほど経験しました。誘惑と誤解、これもほんとうに文字通り経験しました。そしてその後、豊かな赦しと愛をもって兄弟たちを受け入れたのです。このヨセフの生き方はどうでしょう。ヨセフは言いました。恐れることはありません、兄さんたち、どうして私が神の代わりになることができるでしょう。あなた方は私に悪をはかりましたが、神がそれをよいことのための計らいとしてくださいました。それは今日のように多くの人が生かされるためだったのです。こう言って、恨み殺すどころか、仕返しをするどころか、ほんとうの愛を示します。私はここにヨセフの人柄が出ていると思います。或いは、この在りようは、さまざまな人生経験から搾られた最良のオリーブ油である、私はこう見るのです。
 私は、ヨセフは決して最初から完全な、絵に描いたようなすばらしい人物というわけではなく、お兄さんたちの仕打ち、兄弟たちに対する複雑な思い、牢獄に入れられたときの苦い辛いこれらの経験というものをずっと潜って通過して、ようやく、すばらしい最高の油が搾られてきた、そのように思います。

 アロマオイルというものがあるようです。私は使ったことはありません。植物の香り成分を抽出したエッセンスです。 花や葉、果皮、根などを蒸したり、皮を搾ったりして抽出するようです。アロマと入れてみると、1 芳香。香り。 2 (芸術品などの)気品。妙趣。と出てきます。ヨセフのさまざまな人生経験から抽出された香りもアロマのようなものではないかと思います。

 オリーブの油にも段階があるようです。最良のオリーブの油というのは、まだ熟していない若く青いオリーブの実をギューッと搾ったもの。これは当時の王侯貴族が用いる最良の油でした。そして次のランクは、これは赤みがかってきたオリーブの実を搾った油。そして最も一般的であるのは熟した実からのもので3番目ぐらい。奴隷の立場の人たちが用いるのは、地面に落ちて腐ったようなオリーブの実を搾ったものだということですが。何れその当時の人々の暮らしにオリーブの油は欠かせないものでした。
 このオリーブ油の質の段階に、私は、人にはさまざまな人生経験によって搾り出される油というものがあり、ヨセフからはついにいちばん高貴な油が搾り出されるようになったのだろうと、そのことを一言付け加えさせていただきました。

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そしてここに「聖なる灯火(ともしび)」と、それとは異なる「ともしび」をあげました。
「聖なる灯火(ともしび)」というのは、これは、レビ記9章23、24節に出ております。
23 モーセとアロンは会見の天幕に入り、そこから出て来て民を祝福した。すると主の栄光が民全体に現れ、
24 火が主の前から出て来て、祭壇の上の全焼のいけにえと脂肪を焼き尽くした。民はみな、これを見て喜び叫び、ひれ伏した。
 このようにございます。天から来たところの火が、その聖なる燭台の火に供せられている。

「異なる灯火(ともしび)」については、レビ記10章1、2節にございます。

1 さて、アロンの子ナダブとアビフはそれぞれ自分の火皿を取り、中に火を入れ、上に香を盛って、主が彼らに命じたものではない異なる火を主の前に献げた。
2 すると火が主の前から出て来て、彼らを焼き尽くした。それで彼らは主の前で死んだ。

 同じ神様に仕えている祭司でありながら、アロンの子ナダブとアビフは異なる火を使った。いったいこれはどういうことなのか。聖なるともしび、異なるともしび。
 果たして今、私の足元を照らしているのは、聖なるともしびなのだろうか、それとも異なるともしびなのだろうか。聖なる火というのは、モーセの十戒が収められている贖罪所といわれるところのへだての幕の前、天から降った火によって照らされた聖霊によって点火された火です。しかし、異なるともしびというのは、自分の欲望と肉的な動機によって点火された火ということではないのか。この二つを思い巡らす中に、何か大きな語り掛けを受けたように思います。
 またイエス様が荒野で40日40夜の誘惑を受け空腹になり、その後悪魔の誘惑を受けました。あなたがもし神の子ならばこの石に命じてパンに変わるように命じなさい。悪魔も、聖書には何々と書いてある、こう迫ります。悪魔もみことばを巧みに引用します。それに対してイエス様は、やはり聖書のことばをもって悪魔に対抗しました。

 そして、私たちが神様の前におことばをくださいと願うとき、ほんとうに、ひとり神様の前に祈り求めているときに、そこに天からの火が降って来て、その神様のおことばに火がともって、聖なる火として点火される。片や、こうなったらいい、ああなったらいいというような自分の欲望、或いは肉的な動機で聖書のことばや都合のいいことばをもってきて火をつけることがある。これは不敬虔な、神様に忌み嫌われることです。悪魔がやってきたらそれです。そうやって聖書のおことばを使おうとやってきたのです。

 オリンピックの聖火、これは、ギリシャのオリンピア遺跡で、鏡で太陽の光を集めて火を採り、トーチに引き継ぐ。これがいわゆるオリンピックの聖火です。そしていつ消えてもいいように、もう一つ、そこから移された火、伴走する火がある。
 何らかの事態が生じてその火も予備の火も消えてしまったと仮定しましょう。消えちゃった、まずいぞ。誰も見ていないところでマッチを擦って点火したとしても、誰にも気づかれていないと、これオリジナルの聖火ですと言ってみたところで、これはまことの聖火とは違います。たぶん誰も見破ることはできないでしょう。しかし、謂わんとしていることはオリンピアでほんとうに採火された火と、タバコを吸うときのマッチで着火したそれとは、見た目ではまったく同じですが、それは本質的に違う。それは異なる火です。

 私たちが主の前にみことばを求めるとき、天から降ってくる火を祈り求めましょう。主よ。その火をもって、「我が足のともしび我が道の光」としたいものです。たとえばみことばではなく、世の中の別のあのこと、このこと、それを拠り所として火をつけて、その火で我が足のともしび我が道の光というのは、それは異なる火ということになってしまう。

 信仰の名著といわれるものがあります。F.B.マイアーとかアンドリュー・マーレーが書いた日々の読みものにはすばらしいものがあります。たとえば、アンドリュー・マーレーも神の前に霊想して、聖霊に火をいただいた、そのアンドリュー・マーレーという人がつけた火、そのみことばには恵まれます。ああ、なるほど聖書はこういう意味があるのだと知ることができる。アンドリュー・マーレーが或いは。F.B.マイアーが、ハドソン・テーラーが、或いは蔦田二雄が、とあります。私たちはそれをキャンドルサービスではありませんけれども、それを受け継いでいく。これを私は異なる火とは言いません。まさに聖なる火が見事に移されていくものには違いありません。

 でも私は敢えて言いたいのです。ある人物が聖霊によって着火された聖なる火でとどまるのではなく、自分が聖書を読んで自分に神様が語ってくださったおことば、ああ、主よ、そういうことでしたね、と神様から直接みことばに火が下って教えられるその火こそほんとうの自分にとって聖なる火、「我が足のともしび我が道の光」になるのではないか。誤解のないように言います。聖徒達のすばらしいそういう火を受ける事、恵まれること、それは決して異なる火ではありません。すばらしいものです。ただ、それで満足するのではなくて、自分が直接聖書を読んで、そのおことばを読んで、そこに点火、着火していただいて火をもらうというその経験をぜひしてもらいたい。これこそがみことばの火であると言いたいのです。

 そして最後に世の光なる主、
わたしは世の光です。わたしに従う者は決して闇の中を歩むことがなくいのちの光をもちます。
 つまり真の火、それは主イエス・キリストご自身、つまり、聖書を日々読んでいて、その中に主イエス様ご自身が心の中にみことばを着火させるときに、世の光であるイエス様が私たちのものになります。

 是非みことばの火、聖なる火をともさせていただきましょう。

※音声データ、画像は教会からお借りしています。
⏰7時20分更新

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