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きょうのことば「聖言(みことば)の戸が開く」

インマヌエル盛岡キリスト教会2022年1月23()のメッセージをお伝えいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で48年目のご奉仕をしておられます。

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説教題 『聖言(みことば)の戸が開く』(國光勝美 牧師)
引証聖句 詩篇119篇130
みことばの戸が開くと光が差し浅はかな者に悟りを与えます。

 毎週水曜日の夜8時、「牧師の書斎」から、ズームで30分ほど、聖書からのお話しをしておりますが、それが十分に尽くせなかったこともあり、今日の礼拝のメッセージで再度取り上げさせていただきます。 

詩篇119130節に
みことばの戸が開くと光が差し浅はかな者に悟りを与えます」とございます。これは新改訳聖書2017の訳です。文語訳ですと、
聖言(みことば)うちひらくれば光をはなちて愚かなるものをさとからしむ」。
 私はいつも文語訳の方で思い出され、文語訳で思い巡らしをしておりました。

 そうか、聖書のおことばが聖霊によって光を放つときに、「愚かなものをさとからしむ」。しかし新改訳にある「浅はかな者」と「愚かなるもの」とはどう違うのか、これを考えるときが与えられました。

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黙示録3章20節に思い当たりました。
見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」

 これは示唆に富んでおります。詩篇119130のおことばを味わうための良い思い巡らしの材料になるものです。

この黙示録3:20は、よく聖画にも描かれています。たぶんどこかでご覧になったことがあるでしょう。戸の外に立ってたたいておられるイエス様。とんとんと2回たたくのか、とんとんとんと3回たたくのか。この理解には文化による違いがあるようです。外国の方々は3回といい、2回たたくのは日本だと聞いたことがあります。

「わたしの声を聞いて」とあります。これでイエス様がお声を発しておられることがわかります。イエス様がたたいておられるのは、みことばという扉、いまの思い巡らしからすると、イエス様はみことばの戸をたたいておられる。絵画では戸が象徴的に描かれておりますけれども、これはみことばの扉です。イエス様が、私たちに、このおことばをあなたに与えたいんだ、このおことばをあなたが握ってもらいたいんだと語りかけておられる。
 ある注解者は、普通ドアには内側にも外側にも取っ手があるはずだ。でもこの絵には外側から扉を開くための取っ手がない。取っ手は内側にある。これをさらにいうのなら、イエス様は扉をむりやり外側から開けるようなことはなさらない。扉を開けるのは内側にいる私たちなのだといっています。

 せっかくイエス様が語りかけたいおことばに対して、そのおことばはちょっと受けたくありません、などと言ってみたり、扉を自分の都合のいいときは開けるけれども、自分の都合の悪いとき、都合の悪いおことばは、いえいえそれはけっこうです、といって開けないということもあり得るでしょう。おことばを語りかけ与えようとしておられるお方に対して扉を開ける開けないは内側にいる私たちなのです。

 ここで、ヨハネ黙示録のおことばをさらに思い巡らしますと、
見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている」。
「見よ」、これはやはり「アテンションプリーズ」で、「いいですか」と私たちの注意を喚起している。「大切なことを言いますよ」、こう仰ってる。

「わたしは戸の外に立ってたたいている」、新改訳の専門の翻訳者たちはこれを進行形に訳していますので、そのまま受け取り味わわせていただくと、そうか、一回とんとたたいて去ってしまうのではなく、これは開けてもらえないと去ってしまうのではなく、イエス様は、ある意味しつこくたたき続けている。何回も何回もたたき続けていてくださる。そして、ただとんとんという音だけじゃない、「わたしの声を聞いて」とある。そうだ、私が初めてイエス様のお声を聞く、こういう表現をすると別な誤解、それはテノールですか、バスですか、そんな質問も出そうですが、そんなことではなく、謂わんとするところ、初めて聖書のおことばで語りかけを受けたときの、初めて聞いたそのイエス様のお声、「わが羊は我が声を聞く」。羊である私が聞いたイエス様のお声があります。ほんとうにこのお方に私の心の中に入って来てもらいたい。扉を頑なに閉じているのではなく、ありがとうございます。こんな者を訪れてくださり、こんな者に戸をたたき続けてくださる。こんな者にお声をかけてくださる。ありがとうございます。こういって戸を開けるなら、「わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」。これは、みことばを介してのイエス様との親しい交わりをいっています。世の何ものにも代えがたい豊かな交わりです。聖霊様は今も私たちに語りかけを与えてくださいます。

20220124-105155  そしてこの「浅はかな者」ということばに非常に心が留まったのです。「浅はかな者」、このヘブル語の原語が、英語の聖書に限るのですけれども、どのように訳されているかというと、「愚かな者」という意味で訳されているのはたった一つ。そして「素朴な者」、或いは複数形で「素朴な者たち」、これが12回、或いは3回、或いは、「シンプルな者」「単純な者」或いは「無垢な」「穢れのない」と訳されている。どうもここでいう「浅はか」というのは、私たちが否定的な意味で用いている「浅はかだなあ」という意味あいとはすこし違います。原語からは、むしろ「素朴な」「シンプルな」「無垢な人たち」であります。原語に通じてはいない私が、ちょっと遡って調べて、「浅はかな者」或いは「愚かな者」という訳に異議を挟むのはどうかとは思うのですが、少なくとも私が調べた限り、この言葉は否定的な意味の「浅はか」ではないようです。むしろ、原語では「素直な」という響きがあるように理解しました。
 そして、「愚かな者をさとからしむ」。この「愚か」というのは、これも十分な原語の云々ではないのですけれども、遡って調べてみますと、「ナバル」。思い起すでしょう、ダビデの生涯における危急にダビデを匿わなかったナバルという者がいたことを。そのときダビデは、機転の利く奥さんに助けられたのですけれども。ナバル本人は結局は滅ぼされてしまう。それはそれとして、奥さんがこの頑迷な夫のために一生懸命とりなしをする。「どうぞご主人様、この夫をお許しください、彼は名前のごとく愚かなんです」とここで「ナバル」という言葉を言っているのです。それでこのナバルという言葉が心にのこっております。

「愚か者」という意味ですが、聖書には「愚か者は心の中で神はいないと言っている」とあるように、神様がおられるのに認めようとしない頑迷さを「愚か」という。それが聖書のいっている愚かさなのです。

 このことを思いますとき、皆様方と迎えました昨年のクリスマス、あれからはや一か月経ちますけれども、あのときにしばしばお開きしたルカ伝の羊飼いの場面を思い出します。
 クリスマスにもお話ししましたけれども、羊飼いたちというのは、その当時の社会では、いちばん無視され軽蔑されているような立場の人たちでした。けれどもそのような人たちにこそ、み使いたちはいちばん最初に救い主の訪れを告げました。羊飼いたちは野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていたのです。すると主の使いが現れて、救い主の誕生を知らせました。自分たちこそすべてを知っていると自負する律法学者やパリサイ人のような人たちにではなく、社会からつまはじきにされているような人たちに神様は知らせてくださいました。やがて救い主がお生まれになると信じ、神様にいけにえを献げるための羊を自分たちは飼っている羊飼いとして私たちは今いるのだ。その羊飼いとお父さんとその子どもに。勿論、ここまで聖書には書いてはいません。ここのところは想像ですけれども、私には非常に納得できます。こういう人たちに聖書のおことばは扉が開かれるのだなと思いました。「きょうあなたがたのために救い主がお生まれになりました」というのは、この人たちのような素直で純朴な人たち、そこに、光が与えられたということなのです。

 もう一つ、第一コリント1章で、パウロはコリントの人たちに言っていますが、これは私たちに対して語っておられると言ってもいいでしょう。
26兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。27しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かなものを選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱いものを選ばれました。28有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。29肉なる者が誰も神の御前で誇ることがないようにするためです。30しかし、あなた方は神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。

 ほんとうに主イエス様こそ我らの救い主であるというこのことをアーメンと心から肯くものとさせていただく、これがまさにみことばの戸が開いて浅はかな者、つまりほんとうに遜った世の中で捨てられているような、そのような者たちにこそ神様はみことばの福音のほんとうの光を差し込ませて、「きょうあなたがたのために救い主がお生まれになった。このお方こそ救い主です」。このすばらしい福音の真理を教えてくださるのは、聖霊なる神様が私たちにみことばの扉を開いて、或いは、さっきのことばでいうのなら私たちが内側から主よどうぞお入りくださいと扉を開けるときに、主はみことばを通して祝宴を開いてくださる。

 一昨年のおことばが、詩篇23篇でした。その5節に
私の敵をよそにあなたは私の前に食卓を整え頭に香油を注いでくださいます。私の杯はあふれています。
戦いの真只中にあって、悠然と主との豊かな交わりを為しうる。
私の前に食卓を整え頭に香油を注いでくださいます
私の敵の前で頭に香油を注いで主との交わりをしてくださる。私たちはこの世の中にあって、戦いから免れているものでは決してありません。しかしその只中にあって、みことばの戸が開くと光を放ってくださる。私たちはこのようにすばらしい福音の恵みをもっている。その私たちを祝宴に招いてくださる。のみならず、その中で楽しむことができる。敵の只中にあってもです。

ローマ8:37しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です
 まさにこのような生涯が、みことばの戸が開く、主と一緒に祝宴の恵みに与る。これがみことばの戸が開くと光を放たれ、愚かなるものをさとからしむ。ほんとうの意味の知恵を私たちに与えてくださるのは、みことばの戸が開かれるときです。

※音声データ、画像は教会からお借りしています。
⏰6時28分更新

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