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きょうのことば 『あなたのみことばは―2』

インマヌエル盛岡キリスト教会2022年12()のメッセージをお伝えいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で48年目のご奉仕をしておられます。

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説教題 『あなたのみことばは―2(國光勝美 牧師)
引証聖句 詩篇119105
あなたのみことばは私の足のともしび 私の道の光です。

 

<メッセージ>

 きのうが元旦礼拝、今日が2022年の第一回目の聖日礼拝でございます。

 さて、先ず簡単に元旦礼拝の復習をいたしましょう。
あなたのみことばは 私の足のともしび 私の道の光です。

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この「みことばは」ということばで心に思い浮かぶのは、
詩篇119:130みことばの戸が開くと光が差し浅はかな者に悟りを与えます。
詩篇119:103あなたのみことばは私の上あごになんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。

  みことばをこのように慕わしいものとして、今年もみことばとともに歩みたい。新約聖書に思いをいたしますと、「ただおことばをください」という百人隊長のことばがあります。そうだ、「ただおことばをください」。

 私自身、教会総会が控えており、1月までの聖日講壇を、このおことばとともにと、詩編119篇105節を願っているのですが、ここからいくつか神様からの恵みの光が与えられているように思うのです。
 聖書の創世記3章1節で、サタンが人間を堕落に導こうとするとき、「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか。」とサタンは神様のおことばを疑わせようとします。これは半面的に悪魔は神のことばを恐れているのです。

 またイエス様が30歳で公生涯に立たれようとしたときにも、イエス様は荒野で四十日四十夜断食をし、空腹を覚えたところに悪魔の試みをうけました。悪魔はイエス様に、ほんとうに神様があなたにそういったのかと何度も試そうとします。イエス様はその一つ一つに、聖書には何々と書いてある。聖書には~と書いてある。聖書には~と書いてある。このようにイエス様は悪魔に対して聖書のことばを用いて応対し勝利しています。私たちにこうしなさいと見本を示してくださっています。

 ことし、私たちにみことばが備えられるということが、どんなに意義のあることなのか。悪魔は何とかして、人がみことばを真剣に受け取れないようにしてしまう。けれどもほんとうに神様のみことばを慕い求め、「神様、ただおことばをください」というときに、「わが羊はわが声を聞く」といってイエス様は、必ず皆さん方に必要なおことばをあたえてくださいます。どうかそれをしっかりと握りしめて、ことしの歩みを進めてまいりましょう。

 

 さて、この「あなたのみことば」というときに、私たちは聖書は神の聖言(ことば)と教えられています。そういう生き方をしていると言われればそれまでなんですけれども、その与えられる神のことばを、ここに詩篇の作者は、「あなたのみことばは」と書いてある。神の客観的なことばということを超えて、このおことばを述べた姿勢は、「あなたの」と、聖書のことばに呼びかけて、ここに神様と私との関係性をこのように考えてみたわけです。

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 それは結局神様と私。その信仰、信頼関係というのが、そのリングでつながれている、このように理解したならどうでしょうか。下の黄色い背景に第一ヨハネの4章9,10節のおことば。このおことばがまず始めなのです。私たちが神様を愛したというよりも、まず神が私たちを愛して勿論この9節の前から是非お読みいただきたいのですけれども、「神はそのひとりごを」、最初に神様がまず愛を私たちに示してくださった。ここに愛がある。神様がそのようにしてくださったときに私たちはその神様の恵みをしっかりと受け止めて、その神様のご愛に信頼する。信仰ということばと非常に似ている。或いはまったく同意語だと思ってよろしいのですけれども、この私たちが神様をどれだけ徹底的に信頼するか、信頼できるか、それは第一ヨハネの4:9、Ⅰ0がまことに私たちのものとして理解されたときに、私たちは神様に対して、全幅的な信頼を置く。ですから信仰ということばは、日本人である私、そして皆さん方、信仰というとお札が貼ってあるようなところとか、何か狂信的なそういうようなものとどこかダブらせて思い浮かべる。そのような文化的な背景の中で育ったせいかもしれません。

 でも私たちが言っている信仰というのは、むしろ信頼です。第一ヨハネの4:9.10にある信頼するというところとまったく同義です。だから語り掛けてくださった神様のおことばにほんとうに信頼する、信頼するときにどこまで信頼できるかなのです。

 バンジージャンプというのがありますが、私、やってみたいなと思う。絶対その綱が切れないという保証がないといけません。それがあればやってみたいなと思う。どうしてか。クリスチャンとしての信仰生活がそれをやってみたいと思わせる。神様のことばは絶対に切れることはない。ですからその神様のことばを信じて、どーんと飛び込んでいきたい。飛び込まないでいると、まだ信じてないのかと神様に言われるような気がする。勿論信じてますよ、じゃ宜しくと喜んで飛び込んでいきたい、そのように思います。与えられたおことばを、そのようなおことばとして、是非信頼をしてもらいたい。そのようにありたいと思います。 

 そして、「私の足の灯」。これは、小さなろうそくの火のようなものであったとしても、それがどんなに暗闇を歩む者には励ましとなり慰めとなり、力となることか。どうぞ神様のみことばをフォローし、しっかりと掲げていきたいと思います。

 そして、「私の道の光」。道というのは、到達すべきゴールを持つ私たちのプロセスなわけです。それを、道と言うわけです。イエス様は、あなたの究極的なゴールは天国でしょ、永遠の命でしょう。わたしが天国に行く道なんだからと仰る。このお方をしっかりと捕らえましょう。ヨハネ8章12節「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます」
 これはイエス様のおことばです。このまことの道であるお方に従って歩ませていただきたいとこのように思うのです。 

 私自身、あすどのようになるのか、皆さんも同じです。ただ、一つ言えることは、死というものに対して、皆がすごく恐怖を持っている。世の中の人を見て改めて思いました。コロナ禍にあってそれが顕著に表れている。死への怖れを見る機会が多い。福音を知らない人たちはほんとうに死を恐れていることが多い。しかし同時に、死の怖れから全く顔放されているクリスチャンのすがたをも目の当たりにしています。これなんだ! と思います。実例がありますと、死の恐れからも解放するという聖書のおことばが提示されたとき、すっと自然に心に納得としておさまります。そうか、イエス様がクリスマスに人の子としておいでくださったのは、人を死の恐れから解放するためでもあるのだ。死からの解放ということは、恐れからの解放なのだ。折に触れてイエス・キリストの十字架と復活は死を解決してくれるとお話しすることがありますが、改めて、クリスマスのイエス様のご降誕は死の恐れからも解放してくださるためなのだ。ハレルヤ。

 みんな死ぬ。死は避けられない。しかし私たちのゴールは天国。今はそのプロセスにあるわけです。それを象徴するできごとが旧約聖書に出ています。イスラエルの人々がカナンに旅をしたとき、神様は、雲の柱、火の柱によって人々を導いてくださった。私たちはこの地上では旅人です。この地に宿れる者なのです。寄留者なのです。私たちのゴールはキリストのもとにある。これまですでに多くのクリスチャンたちがこの道をたどり、凱旋したそのゴール、勝利したゴールであります。そこにはもはや死の恐れはありません。

 

イエス様が「わたしは世の光です」。そして、「わたしが道であり真理でありいのちなのです」と仰る。
ひろ子先生と暮らす中で、二人とも死に対する恐れがない、自分たちはおめでたいんだろうとも思うのですが、事実、恐れがないなと思います。

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 そして今日私は第一ペテロ1:23節のおことばに心を向けたく思いました。
あなた方が新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく朽ちない種からであり、生きた、いつまでも残る、神のことばによるのです。
 
あなた方が新しく生まれたのは、神のことばによる。かみのことばによって新しく生まれ、神のいのちを持っている。これがいわゆる救い。イエス様を信じて救われましたという救いです。宝くじが当たりましたなどというのではなく、ほんとうに福音は何かというと、罪によって滅んでしまうその死から全く解放されて新しいいのち、キリストのいのちに生まれ変わる。そのいのちが与えられる。或いはそのいのちが与えられている。そのいのちの種は神のみことばであります。 

 種である神のことばによる新生の恵みということ。そして、いつまでものこる神のことばというときに、たとえば同じ聖書のことばで、「パリサイ人」も出てくる。彼らはイエス様が地上におられた時代に、いちばん宗教に熱心であり、またいちばんイエス様に反対した人たちです。ユダヤ教徒はパリサイ人でした。イエス様もパリサイ人たちも同じ聖書のおことばを拠りどころにしていたのです。ただパリサイ人たちは、そのみことばの種をきちんと保存できなかった。同じ種を持っていながら、イエス様から「偽善なる学者パリサイ人よ」と言われている。聖書をほんとうには理解していなかった。律法に適う行いによる救い、行いによる救いを信じていた。

そのパリサイ人にイエス様は言われます。「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(マタイ22:37)そして、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」(マタイ2239)

 同じ聖書の種ですけれども、パリサイ人たちはそれを死んだ種にしてしまった。
 先ほど子供讃美歌を歌いましたけれども、道の上に落ちてしまった種をカラスがやってきてついばんでしまった。藪の中に、或いは石の地に落ちて芽吹かない。どれもせっかく落ちた種ですけれども、芽吹かない種、或いは芽吹いても枯れてしまったりとさまざまです。
 しかし私たちは朽ちない種の保存を知っています。みことばの種は、聖霊によって私たちの心にしっかりと蓄えられたときに、いのちある神様のことばが芽吹き、ぐんぐん育ち、それこそ管理次第で20倍30倍、或いは50倍100倍の実を結ばせる命として私たちの心の中に育つのです。それは聖霊様の御図らいによる、それを思います。
 古いハスの種、あの大賀ハスのことですが、2000年前の地層から発見された種だそうです。それが今きれいな花を咲かせている。まして、私たちには神の生ける種が与えられているのです。私たちの心が良い地の状態であるなら、ご聖霊様は必ずや豊かな実を実らせてくださる、それを信じましょう。 

そして私はブレンドされた種ということを申し上げたいと思います。
 私もどちらかといえばコーヒーが好きです。アルコールは飲みません。それはおきてだからというのではなく、やっぱり弱い私たちですから、そういったものに慣れますと、信仰までも失ってしまう危険性がないではないからです。コーヒーは好きです。子供の時分はこんな苦いのどこがおいしいのと思っていました。大人になるとその苦みがいい。さらに苦みの中にコクがあると何ともいえない味わい深さを感ずる。


 そのコクについてですが。たとえば、インマヌエルという教団の名前の謂われはといえば「神我らとともに在す」という意味です。それがどのような経緯でもたらされたのか。
 それは蔦田二雄牧師が、戦争中に不敬罪、治安維持法違反で留置所に入れられたときでした。先生は「もしあのときに私たちを殺そうとするなら、三度出てくる食事の中にコレラ菌でも何でも入れておくことができたのだ。すぐにでも殺されてふしぎない独房に、今伝えるべき福音とは何なんだろうか。そしてこれまでのあり方、生き方、信仰について悔い改め、もし神様がこの牢から出してくださることがあったなら、「神我らとともに在す」(インマヌエル)という旗を掲げて、新しい群れを作り、働きを始めようとのビジョンを持った。そして戦後、この「インマヌエル綜合伝道団」がスタートされた。このように蔦田先生本人から聞くことができました。
 どうしてこのことを言うのか。殉教寸前にまでなり、独房の中にも神我らとともに在す。鉄格子の小さな窓から月の光が。神ともに在せば、ここはもはや独房じゃない。神がともに在す天国なのだと証しされている。この蔦田先生がインマヌエルといったときに、苦みと旨味、コクがある。私は誰でもが知る戦後の貧しさを潜り、ちょうど高度経済成長期に信仰に導かれておりますが、まだまだ人生の深みも知らない私が「インマヌエル」というのと、蔦田先生がいうのとでは自ずと違っている。クリスチャン信仰はそういうところを通って旨味が出てくるのです。

 神様が私たち一人一人を通らせてくださるところを、真実にイエス様の前に歩みつづけるときに、ああそうだ、神様の赦しとはこういうことか、神様のきよめとはこういうことか、神は我らとともに在すとはこういうことかと、旨味がわかってくる。それでいいのです。ですから私たちの最もすばらしい〝コーヒーブレンダー〟は神ご自身です。私たち一人ひとり神様はいろんなところをお通しになる。なんでこの問題があの人でなく私なの。そういうところがいっぱいある。そこを通って、神がともに在すということが分かる。

 もし心に異物が入っていたら、たとえば小石のようなものが混じっていたなら、それはつぶされない。クリスチャンの心の中に蝮(まむし)のような毒があるときに、神様からほんとうにそれでいいのかと問われる。神様に扱われなければならない。ほんとうに未熟な者ですけれども、神様のみこころに適うものを私は選んでおります、という教えられやすい砕かれやすい心をもつときに、神様は言ってくださるでしょう。いいぞ、神我らとともに在すという旨味がでてきたね。そう私は思います。ほんとうに、よき〝コーヒーブレンダー〟である神様に私たちのすべてをお委ねしていくとき、きっと神様は〝旨味〟を抽出してくださいます。 

 最後にロマ書5章2~5節をご紹介します。
2このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。
3 それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、
4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。
5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
 

 このおことばを書いたパウロもそれこそ大きな苦しみ困難、迫害に遭った器ですけれども、そのパウロが苦難さえも喜んでいる。それは忍耐を、品性を、そして練られた品性、この希望は失望に終わることがない。このパウロが言っているギュッと絞り出された油。

 今私も迫る教会総会までに自分自身整理したいのは、この詩篇119:105あなたのみことばは私の足のともしび 私の道の光です。
 
このともしびのオイルがどんなオイルなのか。オイルによって香りが違ってくるはずです。絞り出されるオイル。一人ひとりのために神様がギュッと試練を絞って絞って、課題を絞ってぎゅっと出てきたオイルを、私たちが信仰の火をともすとき、その油でなければわからないような、ほかにまねできないような麗しい香りを放った灯になるだろうな、そのようなことなどなどを思いめぐらしている最中です。皆さんにもどうぞよいおことばを捕らえていただきたいと思います。

 それでは、新年はじめの聖日にはずっと欠かさずに歌ってまいりました讃美歌「約束の地に」を歌いましょう。

 ※音声データとイラストは教会からお借りしています。
⏰5時50分更新


 

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