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2022年1月

きょうのことば「聖言(みことば)の戸が開く」

インマヌエル盛岡キリスト教会2022年1月23()のメッセージをお伝えいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で48年目のご奉仕をしておられます。

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説教題 『聖言(みことば)の戸が開く』(國光勝美 牧師)
引証聖句 詩篇119篇130
みことばの戸が開くと光が差し浅はかな者に悟りを与えます。

 毎週水曜日の夜8時、「牧師の書斎」から、ズームで30分ほど、聖書からのお話しをしておりますが、それが十分に尽くせなかったこともあり、今日の礼拝のメッセージで再度取り上げさせていただきます。 

詩篇119130節に
みことばの戸が開くと光が差し浅はかな者に悟りを与えます」とございます。これは新改訳聖書2017の訳です。文語訳ですと、
聖言(みことば)うちひらくれば光をはなちて愚かなるものをさとからしむ」。
 私はいつも文語訳の方で思い出され、文語訳で思い巡らしをしておりました。

 そうか、聖書のおことばが聖霊によって光を放つときに、「愚かなものをさとからしむ」。しかし新改訳にある「浅はかな者」と「愚かなるもの」とはどう違うのか、これを考えるときが与えられました。

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黙示録3章20節に思い当たりました。
見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている。だれでも、わたしの声を聞いて戸を開けるなら、わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする。」

 これは示唆に富んでおります。詩篇119130のおことばを味わうための良い思い巡らしの材料になるものです。

この黙示録3:20は、よく聖画にも描かれています。たぶんどこかでご覧になったことがあるでしょう。戸の外に立ってたたいておられるイエス様。とんとんと2回たたくのか、とんとんとんと3回たたくのか。この理解には文化による違いがあるようです。外国の方々は3回といい、2回たたくのは日本だと聞いたことがあります。

「わたしの声を聞いて」とあります。これでイエス様がお声を発しておられることがわかります。イエス様がたたいておられるのは、みことばという扉、いまの思い巡らしからすると、イエス様はみことばの戸をたたいておられる。絵画では戸が象徴的に描かれておりますけれども、これはみことばの扉です。イエス様が、私たちに、このおことばをあなたに与えたいんだ、このおことばをあなたが握ってもらいたいんだと語りかけておられる。
 ある注解者は、普通ドアには内側にも外側にも取っ手があるはずだ。でもこの絵には外側から扉を開くための取っ手がない。取っ手は内側にある。これをさらにいうのなら、イエス様は扉をむりやり外側から開けるようなことはなさらない。扉を開けるのは内側にいる私たちなのだといっています。

 せっかくイエス様が語りかけたいおことばに対して、そのおことばはちょっと受けたくありません、などと言ってみたり、扉を自分の都合のいいときは開けるけれども、自分の都合の悪いとき、都合の悪いおことばは、いえいえそれはけっこうです、といって開けないということもあり得るでしょう。おことばを語りかけ与えようとしておられるお方に対して扉を開ける開けないは内側にいる私たちなのです。

 ここで、ヨハネ黙示録のおことばをさらに思い巡らしますと、
見よ、わたしは戸の外に立ってたたいている」。
「見よ」、これはやはり「アテンションプリーズ」で、「いいですか」と私たちの注意を喚起している。「大切なことを言いますよ」、こう仰ってる。

「わたしは戸の外に立ってたたいている」、新改訳の専門の翻訳者たちはこれを進行形に訳していますので、そのまま受け取り味わわせていただくと、そうか、一回とんとたたいて去ってしまうのではなく、これは開けてもらえないと去ってしまうのではなく、イエス様は、ある意味しつこくたたき続けている。何回も何回もたたき続けていてくださる。そして、ただとんとんという音だけじゃない、「わたしの声を聞いて」とある。そうだ、私が初めてイエス様のお声を聞く、こういう表現をすると別な誤解、それはテノールですか、バスですか、そんな質問も出そうですが、そんなことではなく、謂わんとするところ、初めて聖書のおことばで語りかけを受けたときの、初めて聞いたそのイエス様のお声、「わが羊は我が声を聞く」。羊である私が聞いたイエス様のお声があります。ほんとうにこのお方に私の心の中に入って来てもらいたい。扉を頑なに閉じているのではなく、ありがとうございます。こんな者を訪れてくださり、こんな者に戸をたたき続けてくださる。こんな者にお声をかけてくださる。ありがとうございます。こういって戸を開けるなら、「わたしはその人のところに入って彼とともに食事をし、彼もわたしとともに食事をする」。これは、みことばを介してのイエス様との親しい交わりをいっています。世の何ものにも代えがたい豊かな交わりです。聖霊様は今も私たちに語りかけを与えてくださいます。

20220124-105155  そしてこの「浅はかな者」ということばに非常に心が留まったのです。「浅はかな者」、このヘブル語の原語が、英語の聖書に限るのですけれども、どのように訳されているかというと、「愚かな者」という意味で訳されているのはたった一つ。そして「素朴な者」、或いは複数形で「素朴な者たち」、これが12回、或いは3回、或いは、「シンプルな者」「単純な者」或いは「無垢な」「穢れのない」と訳されている。どうもここでいう「浅はか」というのは、私たちが否定的な意味で用いている「浅はかだなあ」という意味あいとはすこし違います。原語からは、むしろ「素朴な」「シンプルな」「無垢な人たち」であります。原語に通じてはいない私が、ちょっと遡って調べて、「浅はかな者」或いは「愚かな者」という訳に異議を挟むのはどうかとは思うのですが、少なくとも私が調べた限り、この言葉は否定的な意味の「浅はか」ではないようです。むしろ、原語では「素直な」という響きがあるように理解しました。
 そして、「愚かな者をさとからしむ」。この「愚か」というのは、これも十分な原語の云々ではないのですけれども、遡って調べてみますと、「ナバル」。思い起すでしょう、ダビデの生涯における危急にダビデを匿わなかったナバルという者がいたことを。そのときダビデは、機転の利く奥さんに助けられたのですけれども。ナバル本人は結局は滅ぼされてしまう。それはそれとして、奥さんがこの頑迷な夫のために一生懸命とりなしをする。「どうぞご主人様、この夫をお許しください、彼は名前のごとく愚かなんです」とここで「ナバル」という言葉を言っているのです。それでこのナバルという言葉が心にのこっております。

「愚か者」という意味ですが、聖書には「愚か者は心の中で神はいないと言っている」とあるように、神様がおられるのに認めようとしない頑迷さを「愚か」という。それが聖書のいっている愚かさなのです。

 このことを思いますとき、皆様方と迎えました昨年のクリスマス、あれからはや一か月経ちますけれども、あのときにしばしばお開きしたルカ伝の羊飼いの場面を思い出します。
 クリスマスにもお話ししましたけれども、羊飼いたちというのは、その当時の社会では、いちばん無視され軽蔑されているような立場の人たちでした。けれどもそのような人たちにこそ、み使いたちはいちばん最初に救い主の訪れを告げました。羊飼いたちは野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていたのです。すると主の使いが現れて、救い主の誕生を知らせました。自分たちこそすべてを知っていると自負する律法学者やパリサイ人のような人たちにではなく、社会からつまはじきにされているような人たちに神様は知らせてくださいました。やがて救い主がお生まれになると信じ、神様にいけにえを献げるための羊を自分たちは飼っている羊飼いとして私たちは今いるのだ。その羊飼いとお父さんとその子どもに。勿論、ここまで聖書には書いてはいません。ここのところは想像ですけれども、私には非常に納得できます。こういう人たちに聖書のおことばは扉が開かれるのだなと思いました。「きょうあなたがたのために救い主がお生まれになりました」というのは、この人たちのような素直で純朴な人たち、そこに、光が与えられたということなのです。

 もう一つ、第一コリント1章で、パウロはコリントの人たちに言っていますが、これは私たちに対して語っておられると言ってもいいでしょう。
26兄弟たち、自分たちの召しのことを考えてみなさい。人間的に見れば知者は多くはなく、力ある者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。27しかし神は、知恵ある者を恥じ入らせるために、この世の愚かなものを選び、強い者を恥じ入らせるために、この世の弱いものを選ばれました。28有るものを無いものとするために、この世の取るに足りない者や見下されている者、すなわち無に等しい者を神は選ばれたのです。29肉なる者が誰も神の御前で誇ることがないようにするためです。30しかし、あなた方は神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは、私たちにとって神からの知恵、すなわち、義と聖と贖いになられました。「誇る者は主を誇れ」と書いてあるとおりになるためです。

 ほんとうに主イエス様こそ我らの救い主であるというこのことをアーメンと心から肯くものとさせていただく、これがまさにみことばの戸が開いて浅はかな者、つまりほんとうに遜った世の中で捨てられているような、そのような者たちにこそ神様はみことばの福音のほんとうの光を差し込ませて、「きょうあなたがたのために救い主がお生まれになった。このお方こそ救い主です」。このすばらしい福音の真理を教えてくださるのは、聖霊なる神様が私たちにみことばの扉を開いて、或いは、さっきのことばでいうのなら私たちが内側から主よどうぞお入りくださいと扉を開けるときに、主はみことばを通して祝宴を開いてくださる。

 一昨年のおことばが、詩篇23篇でした。その5節に
私の敵をよそにあなたは私の前に食卓を整え頭に香油を注いでくださいます。私の杯はあふれています。
戦いの真只中にあって、悠然と主との豊かな交わりを為しうる。
私の前に食卓を整え頭に香油を注いでくださいます
私の敵の前で頭に香油を注いで主との交わりをしてくださる。私たちはこの世の中にあって、戦いから免れているものでは決してありません。しかしその只中にあって、みことばの戸が開くと光を放ってくださる。私たちはこのようにすばらしい福音の恵みをもっている。その私たちを祝宴に招いてくださる。のみならず、その中で楽しむことができる。敵の只中にあってもです。

ローマ8:37しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です
 まさにこのような生涯が、みことばの戸が開く、主と一緒に祝宴の恵みに与る。これがみことばの戸が開くと光を放たれ、愚かなるものをさとからしむ。ほんとうの意味の知恵を私たちに与えてくださるのは、みことばの戸が開かれるときです。

※音声データ、画像は教会からお借りしています。
⏰6時28分更新

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220128 クラシック倶楽部を聴く 上野星矢 フルート・リサイタル

19歳でランパル国際フルート・コンクール優勝、国際的な活躍を展開する上野星矢。20世紀に書かれたフルートの名曲を軸に、ポップスやオペラまで多彩な曲目を披露する。
 
【出演】上野星矢(フルート)、岡田奏(ピアノ)

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【曲目】パンの笛(ドビュッシー作曲)
    カルメン・ファンタジー(ビゼー作曲/上野星矢・内門卓也編曲)
    春よ、来い(松任谷由実作曲・上野星矢・内門卓也編曲)
    後悔と決断(ショッカー作曲)
    フルート・ソナタ ニ長調 作品94(プロコフィエフ作曲)
【収録】2020年12月2日 NHK大阪ホール
🎵映像が赤系から青系に変化、楽器に映り込んだ色彩の流れが、視覚的にもあきさせず惹きつけられた。上野さんのフルート、編曲も含めてとてもよかった。コメントはないけれども、演奏の中でそれが語りつくされていたと思う。照明を駆使した映像を一枚なりともアップしたいと思っても、うまくとることができず、残念。

🎧名曲アルバム。作詞・武島羽衣、作曲・田中穂積「美しき天然」

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🎵サーカスのジンタとして、チンドン屋の定番曲として知られているこの曲。作曲したのは田中穂積だが、彼は県立佐世保北高校の全身である1902(明治35)年創立の私立佐世保女学校で音楽を教える。教師不足でもあった。彼は佐世保海兵団軍楽隊の三代目軍楽長だった。唱歌は女学校の必修だったが、歌の教材の必要から、武島羽衣の詩に作曲して女学生に歌わせた。
 作詞についてあまり語られることはないが、読売新聞文化部「唱歌・童謡ものがたり」には次のように出ている。
「各連の終わりに登場する「神」である。「神の御手」(一番)、「神のたくみ」(二番)、「神の力」(三番)、「神のみわざ」(四番)が美しい自然を織りなすのを「尊しや」とたたえている。この「神」は日本の精霊的な神より、西洋の造物的的な神を連想させる。

「本人に聞いたわけでなく、私の想像にすぎないが」として、羽衣の二男、武島達夫(出版当時82)は、「非常に熱心だった母(とな子)の影響ではないでしょうか。父は全然お寺や教会に行かなかった人だが、この詞は、訴える口調のような内容ですから」

ジンタでもサーカスの定番の曲でもそれはそれで巷に愛されたわけでいいと思うのですが、元をたどれば、実は神が創造された自然を讃えるほんとうに美しい曲です。 

空にさえずる鳥の声
峯(みね)より落つる滝(たき)の音、
大波小波とうとうと
響(ひび)き絶(た)えせぬ海の音、
聞けや人々面白き
此(こ)の天然の音楽を。
調べ自在に弾(ひ)き給(たも)う
神の御手(おんて)の尊(とうと)しや。

春は桜のあや衣(ごろも)、
秋は紅葉(もみじ)の唐錦(からにしき)、
夏は涼しき月の絹、
冬は真白き雪の布(ぬの)。
見よや人々美しき
此の天然の織物を。
手際(てぎわ)見事に織り給う
神のたくみの尊しや。

うす墨(ずみ)ひける四方(よも)の山、
くれない匂(にお)う横がすみ、
海辺はるかにうち続く
青松白砂(せいしょうはくしゃ)の美しさ。
見よや人々たぐいなき
此の天然のうつしえを。
筆も及ばずかきたもう
神の力の尊しや。

朝(あした)に起る雲の殿(との)、
夕べにかかる虹の橋。
晴れたる空を見渡せば
青天井(あおてんじょう)に似たるかな。
仰(あお)げ人々珍しき
此の天然の建築を。
かく広大(こうだい)にたてたもう
神の御業(みわざ)の尊しや。

⛳昨日28日(金)の分を本日29日、16時46分更新。


 

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220127 クラシック倶楽部を聴く 若きピアニストの肖像 小林海都

1995年神奈川県生まれ。上野学園高等学校音楽科を卒業後、ベルギーのエリーザベト王妃音楽院に留学。ジョアン・マリア・ピレシュに師事。現在はスイスのバーゼル音楽院で学ぶ。
2013年東京音楽コンクールで第2位。2021年のリーズ国際ピアノコンクール第2位は歴代日本人最高位。一躍注目の若手ピアニストとなる。ー番組y総会よりー

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【曲目】デュポールのメヌエットによる変奏曲(モーツァルト)
    4つの即興曲D.935から第1番(シューベルト)
    前奏曲集第1巻から(ドビュッシー)
    「草が茂る小道を通って」から(ヤナーチェク)
【収録】2021年11月30日武蔵野文化会館小ホール。

コメント
よく言っていただいてるのは、一言でいうとオーガニックな音楽だというふうにおっしゃっていただいていて、その〇〇(聞き落し)な音楽というのを作るのがほんとうに難しいことで、曲のいろいろな理解力が求められるんですけれども、難しいな上手く弾けないなと思ってるときはやはり何かかしらが間違っているというか、アプローチの仕方が間違っていることが多くて、その音楽がどういうふうに弾いてほしいというふうなメッセージがあるか、そういう部分が何かこうある意味直観のなかで模索したりはしています。

🎵このコメントを聞いて、この演奏がより自然に、これは人体にという意味でもあるけれども、とくとくと養分が注入されてくる感じが。ヤナーチェクのよさをまた知らされながら朝の散歩、音楽散歩をさせてくれた。

🎧名曲アルバム。エルガーの変奏曲「なぞ」。大友直人&東京フィル。
エルガーはイギリスのウースター生まれ。個性的な人物で、暗号づくりにも熱中していた。この曲にもエルガーが考案した暗号が潜んでいる。14の変奏曲それぞれに副題を与え、そこに友人の愛称を織り込んだ。第9変奏曲「ニムロッド」で描いたのは出版社に勤める親友イェーガー。イェーガーはドイツ語で「狩人」を意味する単語。旧約聖書に登場する狩人の名をとって「ニムロッド」と愛称をつけた。

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⛳27日(木)に聴いた分を29日のきょう13時25分にメモる。

 

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220126 クラシック倶楽部を聴く 川久保賜紀&上原彩子 デュオ・リサイタル

【演奏】川久保賜紀(バイオリン)2002年チャイコフスキー国際音楽コンクールバイオリン部門最高位受賞。上原彩子(ピアノ)2002年チャイ交付スキー国際音楽コンクールピアノ部門で第1位。以来、両者とも世界の第一線で活躍を続けている日本を代表するアーティスト。
【曲目】バイオリンソナタ第9番「クロイツェル」(ベートーベン)
    オブリヴィオン (ピアソラ・作曲/山本京子・編曲)

【収録】2021年11月24日・ハクジュホール(東京)

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🎵コメントで、たしか上原さんの方だったと思うけれども、即興が生まれてくるころ合いというものがあるらしい。名コンビ。

🎧名曲アルバム。チャイコフスキー「偉大な芸術家の思い出」
バイオリン小林美恵、チェロ長谷川陽子、ピアノ清水和音偉大な芸術家とはロシアの音楽家ニコライ・ルビンシティン(写真)のこと。チャイコフスキーをモスクワ音楽院の教職に呼んでくれた人物。チャイコフスキーとは確執もあったらしいが、彼は感謝と尊敬の念を持ち続けていた。

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⛳きのうはレコーダー、削除番号を誤って消してしまうなど、コメントは不掲載。オンデマンドで流しているかもしれないが。
あれこれやりながら聴くようになってからは、こんな失敗が。きちんと取り損ねると、誰に頼まれてやっているわけでも、奏者と知己があるわけでもない、何等かのご縁アリと言えば、奏者にお気の毒というわけで、知り合いでもないのだが、なぜか奏者の方に申し訳ないなという思いになる。
昨日の分を今日27日20時35分更新

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220125 クラシック倶楽部を聴く ピョートル・アンデルジェフスキ ピアノ・リサイタル

1969年ワルシャワ生まれ。ウィーン・コンツェルトハウス、ベルリン・フィルハーモニー、カーネギーホールなどから繰り返しリサイタルに招かれる現代を代表する傑出した音楽家のひとり。【演奏】ピョートル・アンデルジェフスキ(ピアノ)  【曲目】平均律クラヴィーア集第2巻から【収録】2021年11月13日・紀尾井ホール(東京)―番組紹介よりー

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コメント
平均律クラヴィーア曲集第2巻から選んだ12曲について
楽譜では調性の順番になっていますが、聴衆のための演奏を想定した順番とは思えません。数年前、うまくいくか心配でしたが自由な気持ちで自分が納得できる演奏順を考えました。一つのドラマを作ろうとしました。この作品は人々を自由にできると私は確信しています。
「バッハの音楽は人々を自由にする」これが今回のプログラムのテーマです。
「平均律クラヴィーア曲集」は終わりのない冒険のように永久に探究する機会を与えてくれます。これほど多様な感情や風情を表現した音楽はほかにありません。とてつもなく巧妙に構築されていて構造が驚くほど美しい。さらに魔力を持った感情が隠されています。完璧な構造物ですが人間性を持っているのです。まさに終わることのない探求の旅なのです。

曲目
平均律 第2巻 第11番 へ長調
平均律 第2巻 第22番 変ロ短調
平均律 第2巻 第7番 変ホ長調
平均律 第2巻 第16番 ト短調
平均律 第2巻 第23 ロ長調
平均律 第2巻 第24番 ロ短調
平均律 第2巻 第9番 ホ長調
平均律 第2巻 第18番 嬰ト短調


🎵バッハは名説教者だと思うことがある。こんこんと諭し、しかもそこに愛情がある。それはどうだろうね、そこを考えてみるといい、それが批判がましくなく押し付けがましくない。そこでうんうんと肯かせ、曲が終わったときには、心を自由にして放ってくれる。ピョートル・アンデルジェフスキのコメントを聞いたあとでは、これがバッハの内面の音楽活動であるかもしれないと思わせられるところがある。心にはさまざまな感情を秘めているのだが、それを聖霊によってろ過して、音楽という形に湧出させている、そんな感じがした。

 

🎧名曲アルバム。ドビュッシー/加藤昌則・編曲「アラベスク」
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歳でパリ音楽院に入学したものの校風に合わず、追放され、ピアニストの道が断たれ、作曲家の道に。パリ万博のオリエント文化に影響を受け「アラベスク」を作曲。


⛳近頃は、一日で最も冷え込む時間帯に、勿論暖房はそれなりに使っているのだけれども、このキュッと、ギュッと冷え込む時間帯に音楽に耳を傾けることの愉快さ、快感を覚えている。
6時47分更新

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220124クラシック倶楽部を聴く 山宮るり子 ハープ・リサイタル

4歳からアイリッシュ・ハープ、8歳からグランドハープを始める。ハンブルク国立音楽演劇大学を首席で卒業。2011年リリー・ラスキーヌ国際ハープコンクールにて日本人初の優勝。以来、国内外で活躍を続けている。【演奏】山宮るり子(ハープ)【曲目】幻想曲(シュポーア)映像 第4集(トゥルニエ)ほか【収録】2021年11月12日 武蔵野市民文化会館 小ホール―番組紹介よりー
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コメント
 演奏については、作品によって、その作品に合った音を出したいなというのもありますし。ちゃんと自分の音を作っていきたいなと思います。あとは、ハープのために書かれたオリジナル曲を弾く場合、たいていお客様にとっては、その曲を初めて聴くことが多いんですね。でも初めて聴いた方でも、その曲の魅力が伝わるようにということは心掛けています。あとはアレンジものだったりしたら、オリジナルを超すような気持ちで弾くようにしています。
 「映像 第4集」、この曲はハープのために書かれた曲なんですけれども、そういった曲は自身もハーピストだったという作曲家が多いんですね。トゥルニエ自身もハープを弾く方で、そういった作曲家の中ではとても個人的にトゥルニエが大好きです。で、この曲はタイトルの通り、映像や情景が目の前に広がるようなすごく豊かな曲で、私自身弾いていても世界に入り込んでしまうような曲で、とても好きです。

 

曲目
幻想曲 ハ短調 作品35(シュポーア)
「わが祖国」から交響詩「モルダウ」(スメタナ作曲・トルネチェク編曲)
「ベルガマスク組曲」から「月の光」(ドビュッシー)
映像 第4集 作品39  (トゥルニエ)

🎵淡彩の絵筆が動き、透明感を損なわずに弱く強く細く太く、緻密に繊細に描写されていくような。

🎧名曲アルバム。群馬県民謡「草津節」編曲・上柴はじめ
唄・會澤あゆみ、円光寺&東京フィル

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⛳番組予告を見落としていたこともあり、最初の10分を聞き落してしまった。
きょうは主人と高松の池に白鳥の写真を撮りに行ってきたけれども、雪で道幅が狭められており、対向車とすれ違うのもハラハラ。それでも何とかクルマを停めることができた。湖面は広く氷に覆われ、凍結を免れた岸辺近くに白鳥が群れて、その側を鴨たちがせわしそうに行き交っている。烏が2羽、黒いので一層そう感じられるのかもしれないが、狡知に長けたように樹上からほかの鳥たちや人間の動きを見定めている。もし烏が白かったなら、もし白鳥が黒かったなら、事実黒鳥も1羽見たことがあるけれども。
20時37分更新

 

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きょうのことば 『聖言(みことば)の光』

インマヌエル盛岡キリスト教会2022年116()のメッセージをお伝えいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で48年目のご奉仕をしておられます。

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説教題 『聖言(みことば)の光』(國光勝美 牧師)
引証聖句 詩篇119105
あなたのみことばは私の足のともしび 私の道の光です。

  『聖言(みことば)の光』と題しまして今日のメッセージを導かれております。
詩篇119105のおことばです。これを今年はずっと取り上げ掘り下げて味わい、恵みをいただきたいと願っております。

 聖書に出てくるオリーブ。オリーブは日本では香川県が特産地、そのほかにも何か所かあるようです。
オリーブ, オリーブの木, フルーツ, 自然, 工場, オリーブの枝, 成長

 聖書に書かれている油というのは、まず間違いなくこの純粋なオリーブの油のことを意味しております。
 オリーブは創世記6~9章にも出てきます。ノアの箱舟のところです。神様は堕落した人間界を水で滅ぼそうとしますが、神様の御前に正しく生きていたノアには、箱舟の作り方を教えて、ノアとその家族たちを助けました。しかし、箱舟に入れなかった者たちは裁きを受けて大洪水で滅んでしまいました。大雨が止められたとき、水が引いたかどうかを確かめるために、捕まえた鳩を放ちました。すると鳩がオリーブの若葉をくわえて帰ってきたので、水が引いたことを知ったというこのようなことがありました。
 聖書の中では、オリーブの木、そして、オリーブ油は非常に意味のあるものでありましょう。

また、聖書の出エジプト記27章20,21節にもオリーブ油が出ております。
20 あなたはイスラエルの子らに命じて、ともしび用の質の良い純粋なオリーブ油を持って来させなさい。ともしびを絶えずともしておくためである。
21会見の天幕の中で、さとしの板の前にある垂れ幕の外側で、 アロンとその子らは、夕方から朝まで主の前にそのともしびを整える。これはイスラエルの子らが代々守るべき永遠の掟である。

 この個所をお開きいただきたいと思います。旧約聖書にあります。旧約聖書のはじめは創世記、その次が出エジプト記。出エジプト記にはイスラエルの民がエジプトの地で奴隷生活を強いられていたことが記されています。そこに至った経緯は持ち時間の関係で省きますが、何れイスラエルの人たちは、エジプトで奴隷民族として苦しみの中に生活しておりました。そこに神様はモーセという指導者を与えてくださいました。

 モーセは、神様が与えると約束してくださるカナンの地、乳と蜜の流れるカナンの地に向かうべく、神様の導きによってエジプトを脱出します。出エジプト記の最初の方はなかなか興味深い。出エジプトでもう一つ重要なのは、奴隷民族であったイスラエルの民に、神様が憲法ともいうべき律法を与えたことです。それがモーセの十戒です。神様と私たちとはこのような関係の中で生きていきなさい。これを守るなら祝福を受けるという、宗教上、生活上の規範、戒めです。
 そして神様はそれを私たちに目で見てわかるような形にしてくださった。天にはまことの聖所がありますが、私たちはそれを誰も見たことがありません。けれども、神様は、それに模して形作って目に見えるものとして、神様の臨在とその恵みを可視的にする幕屋というものを作るように教え示してくださいました。出エジプト記には、その幕屋を作るにあたっての寸法までが事細かに記されています。なので、出エジプト記をわかって読もうとしても、なかなかとっつきにくいというのが正直なところでしょう。しかし、神様はこのようにして、天にあるまことの聖所、そこに神様がご臨在しておられるその模型を示してくださったこれが幕屋です。そして幕屋に仕える人たちや、そのいろいろなできごとが書かれているのがこの出エジプト記27章であります。きょうはそれを、焦点を「ともしび」の一点に絞り短くお話しさせていただきます。

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出エジプト記2720節、
20
あなたはイスラエルの子らに命じて、ともしび用の質の良い純粋なオリーブ油を持って来させなさい。ともしびを絶えずともしておくためである。
 
予め理解しておいた方がいいと思うのですが、画面の中にありますAC、これは契約の箱をあらわしています。契約の箱を簡略にACとしています。そしてGLとあるのは、右の写真にある金で作られた燭台です。それがぜんぶ覆われている。至聖所ACには、モーセの十戒が刻まれた石の板が収められている。勿論そのほかアロンの杖とかいろいろなものが入れられているのですが、これが至聖所です。これが聖所の中の中心、心臓部分です。そしてその至聖所の前に幕があり、そこに香を焚く台がある。それがIです。GLが燭台。これに光をともす。それからパンの机といったらいいでしょうか、TSです。これがぜんぶ何層にもわたる覆いの中にある。なのでこの中は真っ暗なのです。そして神様の臨在をあらわす至聖所の、そのへだての垂れ幕の外側に、ただ唯一ある光がこの純金で作った燭台、ともしび皿、これです。
 モーセは言います。
20
あなたはイスラエルの子らに命じて、ともしび用の質の良い純粋なオリーブ油を持って来させなさい。ともしびを絶えずともしておくためである。
 
私の思い巡らしの中で、この至聖所の中の「ともしび」と「汝のみことばは私の足のともしび私の道の光です」というときの「ともしび」がリンクしました。
 至聖所とのへだての垂れ幕の外側で、アロンとその子ら、つまり祭司たちが夕方から朝まで、主の前にそのともしびを整える。これはイスラエルの子らが世々まもるべき永遠の  掟である。つまり、神様のみことばである十戒が収められている贖いの箱のへだての前で、絶えず光がともされていた。そのともしびが「汝のみことばは私の足のともしび私の道の光です」。
 私は、「汝のみことばは私の足のともしび私の道の光です」というおことばと、この至聖所の光の思いめぐらしの中に、「ともしび」の意味をより深く感じたのであります。至聖所、そして贖罪所、これはまさに神の臨在の場所です。そこに聖なる光が唯一輝いている。それは聖なるともしび。これは世々守るべき永遠の掟。ここに質の良い純粋なオリーブ油、絞られた最高の油、これで光をともすようにと言われているのです。

 そんな中に私は、一人の人物、旧約聖書の特に創世記の中で忘れられない大きな人物はヨセフという存在です。きょうはともしびに焦点を合わせるので、簡単にしか触れることはできませんが、お許しください。
 ヨセフは、アブラハム、イサク、ヤコブの子として祝福の家庭の中に生まれました。しかし、ヨセフの父は、ヨセフをえこひいきしていた。ヨセフが自分からえこひいきされるようにしたというのではないのですが、お父さんは他の兄弟たちよりもヨセフを特別に可愛がり育てました。他の兄弟たちはヨセフを快く思いません。彼を殺してしまおうと企みます。そこにたまたまエジプトの方に行くキャラバン、隊商が通りかかりました。兄弟は、待て待て、ヨセフをここで殺してしまうよりあのキャラバンに売っ方が一儲けできるだろうし、またそうした方が自分たちが直接手を下さずに済む。こうしてヨセフはエジプトに売られてしまいました。
 エジプトでヨセフはエジプト王宮のファラオの侍従長ポティファルに奴隷として仕えるようになりました。ところが主人ポティファルの妻がヨセフを誘惑し、ヨセフがそれを拒んだために妻の逆鱗に触れ、ヨセフは濡れ衣を着せられ牢獄に囚われてしまいます。ヨセフは何一つ悪いことをしたわけではなかった。えこひいきしたのはお父さんですが、それゆえに兄弟たちから殺されるほど憎まれ、遠いエジプトに売られてしまった。そこで仕えていたところ、何とあらぬ疑いをかけられて牢獄に入れられてしまう。こんな理不尽な扱いを受けました。
 そのエジプトで、ファラオが奇態な夢を見るのですが、この夢を解き明かせる人物が求められます。このときヨセフと同じ牢に入れられたことのある献酌官長と調理官長の二人がヨセフを思い起します。自分たちが見た夢をヨセフが解き明かしたことがあった。その解き明かしのとおりになったことをパロに申し出た。結局、ヨセフはその能力をファラオに知られ、ファラオが見た夢も解き明かすことになったのです。
 ヨセフは王様の夢を聞いて、王様、エジプトには7年間は大豊作があります。しかしその大豊作の後、7年間の大飢饉が起こります。ですから大豊作のときにファラオの権限であらゆる食料を集めさせ穀物をきちんと蓄え、これを保つようにして飢饉に備えなさい。このようにヨセフは夢解きをし、ファラオはその通りにしました。王様の信頼を一身に集めたヨセフは、牢獄の1囚人からエジプトの王位にはおよびませんけれども、全権をゆだねられた宰相に抜擢され、それによってエジプトは救われました。
 エジプトのみならず全世界に大飢饉が襲ったときに、ヨセフの故郷であるイスラエルの地から、ヨセフをエジプトに売った兄弟たちが、まさかヨセフがエジプトの宰相になっているとは思わず、世界的な大飢饉の中にエジプトにはまだ食料があるようだとヨセフを訪ねてきました。兄弟たちがヨセフの前に現れたときに、ほんとうはこれもおもしろい出来事がありますが省略して、ヨセフは、ああ、お兄さんたち、よく来てくれました。こういって自分を殺そうとしてエジプトに売ったあのお兄さんたちを迎えます。お兄さん、きっとこれは神様が、このような非常事態になったときに、お兄さんやお父さんたち、私たちのイスラエルの家族を救ってくださるために、私をこのようにエジプトの地に送ってくださったのです。これまでのことはすべて神様のご配慮なんです。お兄さん、どうか自分を責めないでください。ヨセフは嫉妬と悪意をいやというほど経験しました。誘惑と誤解、これもほんとうに文字通り経験しました。そしてその後、豊かな赦しと愛をもって兄弟たちを受け入れたのです。このヨセフの生き方はどうでしょう。ヨセフは言いました。恐れることはありません、兄さんたち、どうして私が神の代わりになることができるでしょう。あなた方は私に悪をはかりましたが、神がそれをよいことのための計らいとしてくださいました。それは今日のように多くの人が生かされるためだったのです。こう言って、恨み殺すどころか、仕返しをするどころか、ほんとうの愛を示します。私はここにヨセフの人柄が出ていると思います。或いは、この在りようは、さまざまな人生経験から搾られた最良のオリーブ油である、私はこう見るのです。
 私は、ヨセフは決して最初から完全な、絵に描いたようなすばらしい人物というわけではなく、お兄さんたちの仕打ち、兄弟たちに対する複雑な思い、牢獄に入れられたときの苦い辛いこれらの経験というものをずっと潜って通過して、ようやく、すばらしい最高の油が搾られてきた、そのように思います。

 アロマオイルというものがあるようです。私は使ったことはありません。植物の香り成分を抽出したエッセンスです。 花や葉、果皮、根などを蒸したり、皮を搾ったりして抽出するようです。アロマと入れてみると、1 芳香。香り。 2 (芸術品などの)気品。妙趣。と出てきます。ヨセフのさまざまな人生経験から抽出された香りもアロマのようなものではないかと思います。

 オリーブの油にも段階があるようです。最良のオリーブの油というのは、まだ熟していない若く青いオリーブの実をギューッと搾ったもの。これは当時の王侯貴族が用いる最良の油でした。そして次のランクは、これは赤みがかってきたオリーブの実を搾った油。そして最も一般的であるのは熟した実からのもので3番目ぐらい。奴隷の立場の人たちが用いるのは、地面に落ちて腐ったようなオリーブの実を搾ったものだということですが。何れその当時の人々の暮らしにオリーブの油は欠かせないものでした。
 このオリーブ油の質の段階に、私は、人にはさまざまな人生経験によって搾り出される油というものがあり、ヨセフからはついにいちばん高貴な油が搾り出されるようになったのだろうと、そのことを一言付け加えさせていただきました。

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そしてここに「聖なる灯火(ともしび)」と、それとは異なる「ともしび」をあげました。
「聖なる灯火(ともしび)」というのは、これは、レビ記9章23、24節に出ております。
23 モーセとアロンは会見の天幕に入り、そこから出て来て民を祝福した。すると主の栄光が民全体に現れ、
24 火が主の前から出て来て、祭壇の上の全焼のいけにえと脂肪を焼き尽くした。民はみな、これを見て喜び叫び、ひれ伏した。
 このようにございます。天から来たところの火が、その聖なる燭台の火に供せられている。

「異なる灯火(ともしび)」については、レビ記10章1、2節にございます。

1 さて、アロンの子ナダブとアビフはそれぞれ自分の火皿を取り、中に火を入れ、上に香を盛って、主が彼らに命じたものではない異なる火を主の前に献げた。
2 すると火が主の前から出て来て、彼らを焼き尽くした。それで彼らは主の前で死んだ。

 同じ神様に仕えている祭司でありながら、アロンの子ナダブとアビフは異なる火を使った。いったいこれはどういうことなのか。聖なるともしび、異なるともしび。
 果たして今、私の足元を照らしているのは、聖なるともしびなのだろうか、それとも異なるともしびなのだろうか。聖なる火というのは、モーセの十戒が収められている贖罪所といわれるところのへだての幕の前、天から降った火によって照らされた聖霊によって点火された火です。しかし、異なるともしびというのは、自分の欲望と肉的な動機によって点火された火ということではないのか。この二つを思い巡らす中に、何か大きな語り掛けを受けたように思います。
 またイエス様が荒野で40日40夜の誘惑を受け空腹になり、その後悪魔の誘惑を受けました。あなたがもし神の子ならばこの石に命じてパンに変わるように命じなさい。悪魔も、聖書には何々と書いてある、こう迫ります。悪魔もみことばを巧みに引用します。それに対してイエス様は、やはり聖書のことばをもって悪魔に対抗しました。

 そして、私たちが神様の前におことばをくださいと願うとき、ほんとうに、ひとり神様の前に祈り求めているときに、そこに天からの火が降って来て、その神様のおことばに火がともって、聖なる火として点火される。片や、こうなったらいい、ああなったらいいというような自分の欲望、或いは肉的な動機で聖書のことばや都合のいいことばをもってきて火をつけることがある。これは不敬虔な、神様に忌み嫌われることです。悪魔がやってきたらそれです。そうやって聖書のおことばを使おうとやってきたのです。

 オリンピックの聖火、これは、ギリシャのオリンピア遺跡で、鏡で太陽の光を集めて火を採り、トーチに引き継ぐ。これがいわゆるオリンピックの聖火です。そしていつ消えてもいいように、もう一つ、そこから移された火、伴走する火がある。
 何らかの事態が生じてその火も予備の火も消えてしまったと仮定しましょう。消えちゃった、まずいぞ。誰も見ていないところでマッチを擦って点火したとしても、誰にも気づかれていないと、これオリジナルの聖火ですと言ってみたところで、これはまことの聖火とは違います。たぶん誰も見破ることはできないでしょう。しかし、謂わんとしていることはオリンピアでほんとうに採火された火と、タバコを吸うときのマッチで着火したそれとは、見た目ではまったく同じですが、それは本質的に違う。それは異なる火です。

 私たちが主の前にみことばを求めるとき、天から降ってくる火を祈り求めましょう。主よ。その火をもって、「我が足のともしび我が道の光」としたいものです。たとえばみことばではなく、世の中の別のあのこと、このこと、それを拠り所として火をつけて、その火で我が足のともしび我が道の光というのは、それは異なる火ということになってしまう。

 信仰の名著といわれるものがあります。F.B.マイアーとかアンドリュー・マーレーが書いた日々の読みものにはすばらしいものがあります。たとえば、アンドリュー・マーレーも神の前に霊想して、聖霊に火をいただいた、そのアンドリュー・マーレーという人がつけた火、そのみことばには恵まれます。ああ、なるほど聖書はこういう意味があるのだと知ることができる。アンドリュー・マーレーが或いは。F.B.マイアーが、ハドソン・テーラーが、或いは蔦田二雄が、とあります。私たちはそれをキャンドルサービスではありませんけれども、それを受け継いでいく。これを私は異なる火とは言いません。まさに聖なる火が見事に移されていくものには違いありません。

 でも私は敢えて言いたいのです。ある人物が聖霊によって着火された聖なる火でとどまるのではなく、自分が聖書を読んで自分に神様が語ってくださったおことば、ああ、主よ、そういうことでしたね、と神様から直接みことばに火が下って教えられるその火こそほんとうの自分にとって聖なる火、「我が足のともしび我が道の光」になるのではないか。誤解のないように言います。聖徒達のすばらしいそういう火を受ける事、恵まれること、それは決して異なる火ではありません。すばらしいものです。ただ、それで満足するのではなくて、自分が直接聖書を読んで、そのおことばを読んで、そこに点火、着火していただいて火をもらうというその経験をぜひしてもらいたい。これこそがみことばの火であると言いたいのです。

 そして最後に世の光なる主、
わたしは世の光です。わたしに従う者は決して闇の中を歩むことがなくいのちの光をもちます。
 つまり真の火、それは主イエス・キリストご自身、つまり、聖書を日々読んでいて、その中に主イエス様ご自身が心の中にみことばを着火させるときに、世の光であるイエス様が私たちのものになります。

 是非みことばの火、聖なる火をともさせていただきましょう。

※音声データ、画像は教会からお借りしています。
⏰7時20分更新

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220121クラシック倶楽部を聴く 

オルガンの巨匠トン・コープマン。歴史的資料にも精通する古楽演奏家が語るバッハの魅力とは。小フーガト短調から大曲までオルガンのさまざまな響きをお楽しみいただく。―番組紹介よりー

トン・コープマン
オランダのズヴォレ生まれ。アムステルダムでクラシック音楽の教育を受け、音学学のほか、オルガンとチェンバロを学び、両楽器については優秀賞を授与された。古楽器に魅了され、文献学的な奏法に興味を持った彼は、バッハを中心にバロック音楽を専門に研究するようになり、やがて『真正な演奏』の第一人者と呼ばれるようになった。

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 1979年、彼が25歳のときにアムステルダム・バロック管弦楽団を設立。その後1992年には、アムステルダム・バロック合唱団を併設した。アムステルダム・バロック管弦楽団・合唱団は、すぐにもっとも優れた古楽アンサンブルのひとつとして世界的名声を獲得する。コープマンの意欲的な活動の中でもバッハのカンタータ全集の録音は、壮大なプロジェクトとしてドイツ・シャルプラッテン・ベルリンのエコー・クラシック賞や、BBC音楽賞、エクトル・ベルリオーズ賞などを受賞。また、グラミー賞やグラモフォン賞にノミネートされた。コープマンは、バッハ作品に加え、バッハの先達であるディートリヒ・ブクステフーデの研究も長年続けており、バッハ・プロジェクトを完結させた2005年には、ブクステフーデのオペラ『オムニア』の録音に取りかかった。このシリーズは30枚のCDで構成され、最終巻は2014年にリリースされている。国際ディートリヒ・ブクステフーデ協会の会長を務めており、2006年にはライプツィヒ市のバッハ賞、2012年にはリューベック市のブクステフーデ賞、さらに2014年には英国王立音楽院よりバッハ賞を受賞している。
 現在は、ライデン大学の教授、英国王立音楽院の名誉会員、オランダのバロック音楽祭"Itineraire Baroque"の芸術監督を務めている。 (AMATIにあるプロフィールの抜粋)

  

コープマンのコメント(抜粋)
ブクステフーデの自由な音楽性が好きです。彼は「劇場はいらない」と言い、教会を劇場ととらえ、演奏を行ったのです。ブクステフーデの多様な面を見せるために、まず変化に富んだ「前奏曲」を選びました。次の「わが愛する神に」は、珍しい変奏曲で、それぞれの曲が舞曲で始まります。アルマンドではじまり、サラバンド、クラント、ジーグ。当時としては新しい試みです。3曲目は華やかで楽しい「フーガ ハ長調」です。
バッハが優れた音楽家と考える一番の理由は、感情と理性のバランスがとれていることです。彼はすべて譜面に表すことができ、同時に和音一つでも聴き手を感動させることもできました。その音楽があまりに感情に強く訴えるために涙することもあるでしょう。ミケランジェロやダ・ヴィンチと並ぶ最高の芸術家です。

曲目
「フーガ ト短調 BWV578」バッハ:作曲
「前奏曲 二長調 BuxWV139」ブクステフーデ:作曲
「わが愛する神に BuxWV179」ブクステフーデ:作曲
「フーガ ハ長調 BuxWV174」ブクステフーデ:作曲
「前奏曲 変ホ長調 BWV552」バッハ:作曲
「「オルガン小曲集」からおお人よ 汝の罪の大いなるを嘆け”BWV622
バッハ:作曲
「「クラヴィーア練習曲集第3部」から永遠の父なる神よ”BWV669」バッハ:作曲「「クラヴィーア練習曲集第3部」から世の人すべての慰めなるキリスト” V670」バッハ:作曲
「「クラヴィーア練習曲集第3部」から聖霊なる神よ”BWV671」バッハ:作曲
「フーガ 変ホ長調 BWV552」バッハ:作曲
「アンコール 「オルガン小曲集」から主イエス・キリスト われ汝を呼ぶ” WV639
バッハ:作曲
「アンコール ソナタ ト長調」スカルラッティ:作曲
「アンコール 「ヴォランタリー」から」スタンリー:作曲

🎵ブクステフーデはコープマンが特に紹介したかった作曲家であるようだ。若々しさ、みずみずしさ、おおらかさが溢れ、楽しくて楽しくて仕方がないが君はどうだ、そうか君もか、うんうん、そう、そうなんだよ、と笑いながら作曲、演奏しているかに聴こえるのだ。スカルラッティの軽やかさ明るさとは違った、磊落な喜びもあふれだしてくるという感じが。ブクステフーデ、むしろ現代的とも感じられる。
 

🎧名曲アルバムはコレッリ「フォリア」。バイオリン寺神戸亮、チェンバロ曽根麻矢子。
フォリアは17世紀にイベリア半島で流行した舞曲。
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⛳12時39分更新

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220120クラシッククラブを聴く バンジャマン・アラール チェンバロ&オルガン・リサイタル

 主要な古楽アンサンブルのメンバーとしても活躍する名手、バンジャマン・アラール。オルガンとチェンバロをともに演奏したオール・バッハ・プログラムによる演奏会からお送りする。【出演】バンジャマン・アラール(オルガン/チェンバロ)【曲目】イタリア協奏曲BWV971(バッハ作曲)、前奏曲、トリオとフーガBWV545b(バッハ作曲) ほか【収録】2018年12月8日 武蔵野市民文化会館 小ホールー番組紹介からー

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バンジャマン・アラールのコメント
バッハは膨大な数の音楽を作曲した音楽家です。私の日常に欠かせない作曲家です。バッハの音楽は常に私に寄り添い、私を支え音楽への探求心を駆り立ててくれます。絶えず研究し、学び続けていても、知り尽くすことのできない作曲家です。長く弾き続けている作品でも初めて弾くような感覚にとらわれることがあります。それは聴衆にとっても同じで、バッハは聴衆も演奏者も絶えず魅了し続ける作曲家なのです。
バッハはまるで「スポンジ」のように先人たちの音楽のすべてを、そしてさまざまな国の音楽スタイルを吸収した作曲家です。イタリアは勿論、フランスの舞曲などもバッハに強い影響を与えています。これらすべてを習得してさまざまな影響を受けながらも、常に自分の音楽を書き続けることができた。バッハは当時すでにあった作曲法や音楽様式を駆使して時代を超越する音楽を生み出しました。当時の音楽界に新風をもたらしたのです。バッハを演奏するには、演奏者は勤勉でなければなりません。寝ても覚めてもバッハと一緒にいる日常生活です!
チェンバロとオルガンの違いについて、

チェンバロとオルガンの違いについて、チェンバロには多くの長所がありますが欠点もあります。長所と短所がオルガンと正反対なのです。チェンバロの長所は音の立ち上がりがはっきりしていることで、欠点は音がすぐに消えてしまうことです。チェンバロの音は生まれると同時に小さくなり消えていきます。オルガンはまったく逆です。音をいくらでも伸ばしてすぐに切ることができます。こうした両方の楽器の特性をしっかり踏まえて活かす弾き方をしなければいけません。チェンバロは音を持続させて歌手やバイオリンのように楽器を歌わせなければなりませんし、オルガンは楽器が勝手に歌ってくれるのですが、響きに命を吹き込まなければなりません。ただ音を伸ばして切るだけでは音楽にならないので、そこに命を与える方法を探っています。二つの異なる奏法をひとつの演奏会で聴くのはとても興味深いと思います。

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曲目はオールバッハ
ソナタ ニ短調 BWV964 から 第1楽章・第2楽章」、チェンバロ。

イタリア協奏曲 ヘ長調 BWV971」、チェンバロ。
この曲はイタリア風の協奏曲を1台のチェンバロで奏でようというバッハの意欲作。協奏曲のトウッティと独奏をチェンバロの二段の鍵盤で再現している。
トリオ・ソナタ ホ短調 BWV528」、オルガン。

トリオ・ソナタは、17世紀イタリアに生まれた音楽形式。2つの旋律楽器と、1つの通奏低音の3声部の楽曲。バッハは1台のオルガンの右手・左手・足鍵盤によって3声部が融合するトリオ・ソナタを作り上げた。曲の原型はバッハがワイマールの宮廷に勤めていた1716年頃に出来上がった。今回はヴィオラ・ダ・ガンバ・ソナタ第3番の第3楽章を取り入れた版が演奏された。
前奏曲、トリオとフーガ 変ロ長調 BWV545b」、オルガン


🎵武蔵野市民文化会館のパイプオルガンの映像、これはTVから撮ったのですが、やはり盛岡市民文化会館のように、大ホールではなく小ホールに設置されているようだ。その理由は? と思うのだが、……
 アラールがいう「バッハを演奏するときは、演奏者は勤勉でなければならない」。バッハを聴くときに、聴衆は勤勉でなければならないと勝手に思ってしまったのだが。
 若い時に、毎日聴いたゼルキンのチェンバロが自分の中では基本となってしまっているが、バンジャマン・アラールの音には、鋭くもある部分にも優しさが感じられた。パイプオルガン、今回は、特に、繊細で緻密な音に慈愛が丸みを帯びて感じられた。それにしても、パイプオルガンという建造物の壮大さ、音の豊穣さ、宇宙的な音色には魅されて止まない。

🎧名曲アルバム。フォーレ「レクイエム 神の小羊」

Dsc06864-2 フォーレは仏南部フォア生まれ。5男1女の末っ子。生まれて乳母のもとに預けられたようだ。父が旧師範学校の校長をしており、一家は学校附属の寄宿舎に住んでいた。フォーレは1849年、4歳でフォアの両親のもとに帰っている。無口で空想好きな少年は、学校の庭でよく一人遊びをしていた。学校付属の礼拝堂ではじめて聖歌隊がうたう音楽を聴いた。足踏みオルガンで練習し9歳でパリの音楽学校進学。両親との暮らしはわずか5年間だった。聖マドレーヌ教会のオルガン奏者となり、40歳の時に父の死の知らせを受ける。レクイエムはこのころに書き始められ、2年半後、母の死の直後、曲はこの教会で初演されたという。

 

⛳連続してバッハを聴いた。目を見開いて、目を閉じてバッハを聴きながら思った。バッハは天にも響く地にも響く、広いところにも狭いところにも響く。光がさんさんと注ぐ明るいところにも、狭く籠った暗闇にも響く。希望に満ちた魂にも、絶望した魂にも響く。そしてコロナが潜み、跋扈暗躍これはコロナの側からいえば我が世の春を謳歌しているかもしれないのだが、人の側は緊張と謹慎とぎりぎりまでの対応闘いを強いられているのだが、そのさ中にも、最中にも、すべての状況、実態、実情を貫きとおしてバッハは響いている。まさしく宇宙的な響き、未来永劫の響きであると今朝は感じられた。
8時25分更新

 

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220119 クラシック倶楽部を聴く アンドレアス・シュタイアー チェンバロ・リサイタル

【出演】アンドレアス・シュタイアー「ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ」ジョン・ブル:作曲,(チェンバロ)アンドレアス・シュタイアーほか 「半音階的幻想曲SwWV258」スウェーリンク:作曲,(チェンバロ)アンドレアス・シュタイアー,「平均律クラヴィーア曲集第2巻から第20番イ短調BWV889」バッハ:作曲,(チェンバロ)アンドレアス・シュタイアー,「クラヴサン曲集第2巻第8組曲からラファエル」クープラン:作曲,(チェンバロ)アンドレアス・シュタイアーほか

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アンドレアス・シュタイアー
 1955年ドイツのゲッティンゲン生まれ。ハノーヴァーとアムステルダムでピアノとチェンバロを学び、1983年よりムジカ・アンティクァ・ケルンのチェンバロ奏者として活動し、以降フォルテピアノとチェンバロのスペシャリストとして国際的に活躍している。80年代初頭のデビュー当時は、チェンバロとフォルテピアノを弾くにもかかわらず、「バックハウスやケンプ以来の、ドイツ音楽を代弁するピアニスト」と賞され、彼の大いなる才能が注目された。その後も真摯に自らの芸術を極め、今や「巨匠」への道を着実に歩む数少ない実力者として広く認められるところとなった。

 

コメント
平均律クラヴィーア曲集は多種多様な要素を入れた器のようです。今回のリサイタルのコンセプトはこの曲集の多様性を背景としています。バッハは先人の多彩な作曲技法を受け継ぎひとつの成果を導き出したのです。

クープランの組曲からフランス風のリズムを持つアルマンドとガヴォットを選びました。バッハの嬰ホ長調の前奏曲にはクープランと同じ付点のリズムが出てきます。フランス風の序曲のようです。そしてフーガにはガヴォットの典型的なリズムがあらわれます。

半音階の音型には苦しみ悲しみ、死といったメランコリックな重苦しさがあります。バッハのロ短調のフーガは、完全にあてはまるわけではないもののそのような音型が使われていて驚くべきことがなされています。オクターブに含まれる12の音すべてが主題の中で使われているのです。平均律クラヴィーア曲集のフーガの中にそのような曲は他にひとつもありません。そういう意味でロ短調のフーガは平均律第一巻を総括する極め付きの作品なのです。

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曲目

「ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ」ジョン・ブル・作曲。
ジョン・ブルはバッハよりも120年前に生まれたイギリスの作曲家。彼の驚くべき技法はドイツに伝えられて発展し、バッハの源流の一つとなった。
「半音階的幻想曲 SwWV258、スウェーリンク・作曲。
スウェーリンクは即興演奏の妙技で知られ、「アムステルダムのオルフェウス」と称された。優れた教育者としてドイツからの留学生を数多く育て120年の時を超えてバッハへと受け継がれた。この作品では半音階で下降する音型をテーマに見事なポリフォニーが展開されていく。
「平均律クラヴィーア曲集 第2巻から第20番 イ短調 BWV889、バッハ・作曲。
「クラヴサン曲集 第2巻 第8組曲から「ラファエル」」、クープラン・作曲。
「クラヴサン曲集 第2巻 第8組曲から「ガヴォット」」、クープラン・作曲。
フランソワ・クープランはクラヴサン(仏語ではチェンバロ)の名手だった。4巻からなるクラヴサン曲集は約220の小品からなる大作。華やかなフランス音楽は同時代のバッハにも大きな影響を与えた。
「平均律クラヴィーア曲集 第2巻から第13番 嬰ヘ長調 BWV882、バッハ・作曲。
「トッカータ 第2番 ニ短調 FbWV102、フローベルガー・作曲。
フローベルガーは、ヨーロッパ各地を旅してバロック様式の組曲を確立させた。その礎はバッハに受け継がれ、数多くの名曲として花開くことになる。
「組曲 第20 FbWV611aから「瞑想~来るべき我が死を思って~」」、フローベルガー・作曲。
フローベルガーには印象的なタイトルを持つ情感豊かな作品も多い。晩年に書かれたこの作品には「思いのままにゆっくりと」と書き添えられている。
「平均律クラヴィーア曲集 第1巻から第24番 ロ短調 BWV869、バッハ・作曲。


🎵今回はバッハ以前で、バッハに影響を与えた作曲家たちの作品紹介とバッハへの影響だった。ジョン・ブル(1562631628)、対位法の大家。「単純な旋律を変形するのに用いられた技法は、音価の拡大・縮小、逆行形、拍子記号の混用などである」(Wikipedia)。技法はドイツに伝えられたという。スウェーリンク(15621621)、即興演奏の妙技。見事なポリフォニーの展開。クープラン(16681733)から、バッハは、アルマンドとガボットを学んだという。フローベルガー(16161667)、バロック様式の組曲を確立。

🎧名曲アルバム
シューベルト
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バリトン青戸知、ピアノ藤井一興
シューベルトのピアノの周りにはいつもたくさんの人々がいたが、彼は、作曲家としての名声を生前に得ることはできなかったという。代表作「冬の旅」も生前に世に出ることはなかった。彼の人生は貧困と失意の日々。これは番組の解説の通りに書いているのだが。1828年、彼の兄の家で息を引きとる。彼の墓石は彼が敬愛するベートーベンの隣にある。

🎵厳しかったシューベルトの生涯。しかし彼には音楽があった。音楽とともにある時に別次元にいることはできたのだ。厳しい人生に加えてさらに厳しい人生は多くあるわけで、音楽とともにあることができたのだから。

⛳昨日の分を20日の今日、8時1分更新

 

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220118 クラシッククラブを聴き損ねるも クリスティアン・ベザイデンホウト フォルテピアノ・リサイタル

はたと眼が醒めたのが6時きっかり。やれやれ。
というわけで、クラシック倶楽部は自分の以前のブログからそのまま転載。名曲アルバムはなし。

☆  ☆

フォルテピアノの名手、クリスティアン・ベザイデンホウトのリサイタルから。平均律ではなく、古典調律でチューニングされた楽器によるモーツァルトのソナタをお送りする。

クリスティアン・ベザイデンホウト
1979年、南アフリカ生まれ。イーストマン音楽院を最優秀の成績で卒業し、チェンバロ、フォルテピアノ、通奏低音を学びつつ、欧米各地でバロック・オペラ公演の通奏低音奏者として経験を積む。21歳でブルージュ国際古楽コンクール(2001)の第1位と聴衆賞を獲得、今日では世界の主要アンサンブルから頻繁に招かれており、ブリュッヘン、ホグウッド、ケラス、ムローヴァなど著名アーティストとの共演や音楽祭への出演も多数。09年からハルモニアムンディと長期的な録音プロジェクトを継続中。

コメント
 (フォルテピアノは)上品できめ細やかでハープシコードのようにとても精密な一方、歌うように叙情的で美しく、モーツァルトの音楽にとても寄り添っています。モーツァルトはもともとハープシコードの名手でした。彼の原点はハープシコードにあります。そして1770年前後にこのフォルテピアノに出会いました。そしてこの楽器から彼にとって最も重要な作品が生まれるのです。それがピアノ協奏曲やピアノ・ソナタです。私はフォルテピアノに出会った瞬間、この楽器がモーツアルトの音楽を理解する鍵だと確信しました。今でも信じてやみません。
 モーツァルトの作品は深く考えずに聴くと、当たり障りのない音楽に聞こえるかもしれません、高級ホテルのエレベーターで聞くようなね。18世紀の音楽は表面上は驚くほど優雅ですが、その奥底には強烈にうごめくエネルギーに満ちた小宇宙が存在していると感じます。全身でそれを感じて演奏しなくてはいけないのです。わたしはこの楽器を通してやっとモーツァルトに出会えたと感じました。彼の音楽と人間性はとても賢く文学的で洗練されたユーモアにあふれています。今日のようなピアノ・ソナタだけのプログラムは一見退屈そうに見えるでしょう。しかしモーツァルトの曲はそれぞれがまったく違う劇場のような世界なのです。わたしはモーツァルトの音楽に歌舞伎の世界を感じています。歌舞伎は一つの「見得」に信じられないほどの力強さを感じられます。観客はそんな「見得」にこめられた役者の熟練の技に魅了されるのです。モーツァルトの音楽も一つの小さな動作に劇的な力がこめられています。それを意識して弾くと彼の音楽は非常に力強く心が震えるのです。 

曲目
「ピアノ・ソナタ ヘ長調 K.332
「ピアノ・ソナタ 変ロ長調 K.281 から 第2楽章、第3楽章」
「ピアノ・ソナタ ハ短調 K.457

 

🎵 モダンピアノ、チェンバロ、フォルテピアノに関してボツボツと聴き逃し、王子ホールの頁を開いてみると、「チェンバロがアーティキュレーションやアゴーギクやニュアンスをいかに大切にしているかを知ったことは、大きな衝撃でした――スタインウェイに代表されるモダンピアノには音色やダイナミクスという面で大きな可能性がありますが、表現力豊かなチェンバロ演奏に不可決なアーティキュレーションへの飽くなきこだわりのようなものは見られません。その反対に、継続してスタインウェイを弾いてきたことでリリカルで心を揺さぶる演奏を志すにあたっての基礎ができましたし、こういったことすべてがフォルテピアノの演奏でも役立っているのです。フォルテピアノというと、チェンバロの後継者という歴史的な位置づけのことばかりが頭にある人が多く、音色の変化、トーンやテクスチュアの多彩さといった無限の可能性がまだまだ認知されていないような気がします。」とあった。
 番組では、「ベザイデンホウト、フォルテピアノはチェンバロとモダンの間にあって、上品さ、きめこまやかさ、歌うような抒情性がある」と語っていたが、私がこれに気づかされたのは、ここのところのクラッシク倶楽部のフォルテピアノ演奏のお蔭。それまでは、フォルテピアノを聴きもせずに未開の楽器としか区分していなかった。
 ベザイデンホウトが、モーツァルトの音の説明に歌舞伎の見得を引いたことで、一音一音をまたモーツァルトの才能に驚きをもって新鮮に聴くことができた。あまり賛辞を呈すると、逆に価値を貶めるのではないかと恐れもするのだが、このような音楽家たちの感性にはやはり見得を切られたときのように注意、意識を喚起される。

☆  ☆  ☆

付け足しで、きょうのクラシック倶楽部のすぐ後の番組は、
「ブリティッシュ ベイクオフ」。ケーキ作りの競技だった。右は森の地面をイメージした草案。木の葉やキノコでデコレーションされており、私はこれが賞に入ってほしかったけれども、選外。葉っぱが乾きすぎているとの評。左はボタンとばらで飾られたチョコレートケーキ。ボタンもばらも珍しくはないけれども楽しい気分にしてくれる。このケーキ作りにはモーツァルトが似合うと思った。
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⛳18日分をきょう19日22時32分更新

 

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クラシック倶楽部などなど 黒川侑 バイオリン・リサイタル/アンサンブル・ディアーロギ 演奏会 

220117クラシッククラブを聴く アンサンブル・ディアーロギ演奏会

アンサンブル・ディアーロギは「フォルテピアノ」「オーボエ」「クラリネット」「ナチュラル・ホルン」「ファゴット」の五重奏団。古典派の音楽を作曲当時の楽器の音色で。
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【曲目】ピアノ三重奏曲ニ長調 Hob.XV-16(ハイドン)
     ピアノと管楽器のための五重奏曲変ホ長調作品16(ベートーベン作曲)
【収録】2019年1月23日 浜離宮朝日ホール(東京都中央区)

メンバー
(フォルテピアノ)クリスティーナ・エスクラペス
(オーボエ)ジョセプ・ドメネク
(クラリネット)ロレンツォ・コッポラ
(ナチュラル・ホルン)ピエール・アントワーヌ・トレンブレイ
(ファゴット)ハビエル・ザフラ。

クラリネット奏者のコッポラのコメント
ディアーロギは「対話」。もっと聴衆とコミュニケーションをとりたいという意思からこの楽団名にしました。ここは日本なので、きょうはすこしだけですが、日本語でお話ししてみたいと思っています。演奏曲の美しい作品の楽しみ方を聴衆の皆さんと共有したいからです。美しい和音と旋律だけではなく、モーツァルトやハイドンが多用した演劇的な要素、時にはオペラ・ブッファのような面白おかしい仕掛けを解き明かしてお見せします。
 ☆
その解き明かしというのを、コッポラが、音楽の演劇的な要素を取り出し、パントマイムで解説してくれた。

🎵古楽器奏者というとどこか時代がかったアンチーク世界にあるかと思いきや、このページを見るとみなオペラ、オペレッタの陽気な世界で存外愉快に人生を音楽を楽しんでいるという雰囲気が。それはそれとして、あの時代の古典的な空気感。私はハードロック、パンクロックも嫌いではないが、このような古楽器が創り出してくれる音の世界は澄んだ落ち着きをもたらしてくれる。
 おもしろいのはナチュラル・ホルン。穴もキーもない。音程はよくない、ということは正確な演奏はけっこう難しいということに。しかし作曲家はこのような特性も承知の上でやはりこの楽器を組み入れているのだろう。ナチュラル・ホルンについての音域などのあれこれはこちら
 ハイドンの「ピアノ三重奏曲ニ長調 Hob.XV-16」。ハイドンには端正、律義といってしまっては語弊があるかもしれないがそんな感じ、それと気品を感じるのだが、それらがすこし奥まったところで穏やかに流れるといった感じ。ハイドン58歳での作曲。ベートーベンの「ピアノと弦楽器のための五重奏曲 作品16」。これぞベートーベンという情感の流れがどこに出て来るのかと待てど。解説では、これはモーツァルトの楽曲と同じ楽器編成の曲をモデルとしたベートーベン26歳の作曲であるとか。
 古楽器演奏は作曲者が生きた音楽の時代の空気感をやんわりと伝えてくれる。そして音程が狂いやすいことも含めてより人間的で優しい響きを醸してくれている。

 🎧名曲アルバム。ボロディン「ノクターン」
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医化学研究と作曲の二足の草鞋。草鞋と言っては失礼かと思いつつ。彼自身自分を「日曜作曲家」と自称。一生ロシアのサンクトペテルブルク住まい。曲には妻への優しい想いがバイオリン弦に乗って切々と鳴る。

☆  ☆  ☆

2022年1月15日(土)のJ-MEROは目覚めたときにはもう終わっていた。やれやれ。
Dsc06683-2_20220117171801 Dsc06684-2 映っていたのは「小さな旅」。青森県の黒石だ。広大なリンゴ畑があるのだが、このリンゴの枝の剪定時期は真冬。北国の真冬なのだ。そしてこの方々が履いているのが「ボッコ」靴。ボッコ靴の製作に携わる方も紹介されていた。何と、足さえ冷えなければ、足がポカポカであれば、どんなに冷えてきても家には帰れるということだった。ナレーターが山田敦子さんかなと。あのあたたかい声。ちょっと音楽とは関係ないようだけれども、あのあたたかい声がやはりあたたかい音楽を聴いているように感じられたのだ。

☆  ☆  ☆

2022年1月14()クラシック倶楽部を聴く 黒川侑 バイオリン・リサイタル
第75回日本音楽コンクール第1位受賞をはじめ多数のコンクールで上位入賞。スイス・ロマンド、スペイン国立など国内外の楽団と共演を重ねるほかソロでも活躍を続ける。
【演奏】黒川侑(バイオリン)久末航(ピアノ)

Dsc06648-2 Dsc06647-2 黒川侑1990年京都府出身。5歳からバイオリンを始める。以降のプロフィールはこちら
久末航1994年滋賀県出身。以降のプロフィールはこちら
【収録】2021年3月26日 ハクジュホール

【曲目】1.「イタリア組曲」から(ストラヴィンスキー作曲ドゥシュキン編曲)
2.「神話」から(シマノフスキ)
3.バイオリン・ソナタ第1番(ブラームス)

 🎵黒川が特別に思い入れがあるブラームスの選曲について、彼が「ぶらあぼ」に語ったところでは、「ブラームスは大好きな作曲家。ヴァイオリン・ソナタは3曲とも好きですが、特に第1番の『雨の歌』は3曲の中で最も規模が大きい作品で、とてもやりがいがある曲なので選びました。例えばシューマンの作品ならば親密さが感じられると思いますが、ブラームスには一種のつらさを感じます。作品の中に書き込まれたブラームスの深い感情に共感する部分があり、それがひたひたと伝わってくるからこそつらさを感じるのだと思います。それが演奏を通して表現できれば嬉しいです」。
 個人的にはシマノフスキの「神話」を面白く聴いた。ピアノがくれる波の音。そしてその間隙を縫うか漂うかのように玄妙に神秘的に響くバイオリン、解説では色彩といっていたが、その移ろいに心魅かれた。
 これからまだまだ先に可能性のあるこのような若い演奏家の方々が、一日も早く多くの聴衆からの刺激でも才能が伸ばせるときが来るといい。それにしてもコロナの強靭さ、したたかさ、怖さは!

🎧
名曲アルバム。コレッリ「フォリア」。
バイオリン寺神戸亮・チェンバロ曽根麻矢子
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コレッリはサン・ルイジ・ディ・フランチェージ教会のバイオリニスト。コレッリの最大の支援者はオットボー二枢機卿で、この枢機卿の館であるカンチェッレリア宮殿に暮らすことを許されていた。ここで毎週月曜日に行われる演奏会の作曲や演奏を任されていた。カンチェッレリア宮殿には、ルネサンスの巨匠ヴァザーリが100日で絵を描いたという広間がある。いったいどうすれば100日でこれだけの絵が描けるのか不思議。助手が何人かついていたのだろうか。それともまったく一人で? 
コレッリは、数々の奏法を詰め込んで変奏曲として作品を完成させた。弦楽器の可能性を開拓。コレッリの曲はバロック音楽の礎となったという。

⛳15日、トンガ沖の海底火山噴火。津波警報、津波注意報が出されたが16日の午後には解除。最大で1メートル20センチの津波があった。打ち続く「これまでにない……」が何層にも重複していく。それでもどんなさ中にも「アメイジング・グレイス」もあれば「主よみもとに近づかん」もある。もうじき春が来て花も咲くだろう。人の言葉は連ねても何かどこか軽い。

17時46分三日分まとめて更新。

 

 

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きょうのことば 「聖言(みことば)を基礎に」

インマヌエル盛岡キリスト教会2022年19()のメッセージをお伝えいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で48年目のご奉仕をしておられます。

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説教題 『聖言(みことば)を基礎に』(國光勝美 牧師)
引証聖句 詩篇119105
あなたのみことばは私の足のともしび 私の道の光です。

 この朝は『聖言(みことば)を基礎に』と導かれております。もちろんベースとなるのは、詩篇119105であります。
「あなたのみことばは私の足のともしび 私の道の光です。」
 ここに「あなたのみことば」とありますとき、これが神様のみことばと客観的にいうのではなく、「あなたの」と呼ばれているところに、神様と私との関係、これが確立している。つまり良き羊飼いであり私がその羊であるという、羊飼いと羊との関係のように。ですので、どうか今年、神様のおことばを祈り求めていただきたい。「主よ、おはなしください。しもべは聞いております」、或いは第一サムエルにあるように「見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる」

 どうかよきおことばのもとに進みましょう。そして、このおことばを信じるということは、信仰、或いは全く別の言い方で、信頼ということば、これはもう同じ意味であると実際感じております。神様に対する信頼、それは、御子イエス様をさえお降し下さったお方に対する信頼。だからこそ、そのお方のお語りになる、「あなたのみことば」を100パーセント信じるのです。

 さて、そのときに今回「あなたのみことば」という、今年与えられたおことばをお一人お一人自分自身をも含めて、みことばを捕らえようとするときに、それ、ほんとうに神様が語ったの? 思い込みじゃないの? 或いは、自分にとって都合のいい言葉だけを選んだんじゃないの? というささやきが入る。必要だからこそ神様のおことばを思いめぐらしているときに、悪魔は「ほんとうに神様はそう言われたの?」と近づいてくる。これはなかなか手ごわい。そういう心の中への語り掛けなのかなとおもったときに、気づいてください。そうだ、悪魔は聖書のそのはじめから、「神はほんとうにあなたに言われたのか」と横やりを入れてくる。「神はほんとうにあなたに言われたのか」、これはもう悪魔の常套句です。このことをまずしっかりと覚えておいたらいいと思うのです。

 私は敢えて誤解を承知でいうのなら、都合のいいおことば、自分にとって今必要なおことばであるとしても、いいじゃないですか。聖書の中からいっぱいそれをもってくるといい。読むごとに、ああ、これはいいおことばだな。読むごとに、これ助けになるなと思うなら、それでいいじゃないですか。きっと必要だから神様がお声を掛けてくださっている。

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 ここで申し上げておきたいことは、みことばへの信頼を絶えずくつがえそうとする存在があることです。

 聖書には、蛇は狡猾だとありますけれども、いろいろな聖書には蛇がいちばん知恵があると記されている。それが原語でどうなっているか調べてみますと、狡猾ということばがそこに含まれているのです。原語を解釈するときに、狡猾という響きがある。狡猾であるというのは、決して間違ったことを言っているわけではない。悪意から、わざとその人を陥れるようとするために正しいことを適用するときに、誤ったことをする。だって神様が語られたことは本当なんだし、それはそうなんだけれども、ただそれをどのように適用するかということにおいて狡猾なんだろうなとこのように思いました。

 神様は創世記のはじめにおいて、2章1617節で、お造りになった人に命じられます。「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」

 ここで確かに神様がそのようにお語りになられた。思いのまま食べるというのは、これは私たちは思いのままに楽しむ。神様との交わりを楽しむ。思いのまま好きなものを思う存分、ということなんです。しかし、そこに確かに神様は仰る。「善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」

 このたしかに神様が仰ったおことばを、狡猾な者の解釈でみたらどうでしょう。私はある意味本気になってこのどうして善悪を知る木を神様は人に食べてはならないと仰った のだろうか。やはりそのことが気にかかる。知りたい。どういう意味がここにあったのだろうか。ほかのものは食べてもいいけれども、どうして善悪を知る木の実を食べてはならないと仰ったのか。聖書にあるわけですから。善悪を知る木。そういう価値観というものを、勿論聖書のはじめからあるわけです。それを否定しているわけでは当然ない。しかし私は信仰を持った当初からこの部分が釈然としない。本来的な人間の価値観はどうであるのか。生まれたばかりの赤ちゃんはともかく、本来の人間というのは、悪というものの意味を知っていただろうか。知る必要があったのだろうか。本来神によって造られた人間が、神様がおっしゃった、どの木からでも何でも好きなだけ食べてもいいよ、という神様のおことばに心から喜んで従っていくことこそ、それこそ彼の価値観、私たちの価値観であって、そこに悪というものを敢えて知る必要はなかった。ところが、ほんとうにずるがしこい狡猾なサタンは、知る必要のない「神に従わないという方法もあるんだよ。そういうことがあって善悪というものがあるんだよ」ということを意識させてしまう。私は、そこがいちばんの狡猾さのポイントではないのか、これは恵みのゆえにこのところを深く思いめぐらす中に、知る必要のない、勿論知る必要がない、もうここで、善悪ってあるんです。善があればそこに悪というものがある。それは前提でしょう。前提だけれども、それを人間が知る必要があるかということなのです、申し上げたいことは。そんなこと知る必要がないじゃないですか。ここは大切なところです。善悪ってあるんです。だからこそ、善悪を知る木の実を神様はお造りになったわけですから、その価値観がないわけではない。善悪というものがある。それが前提でしょう。前提だけれども、それを、人間が知る必要があるかということなのです。そういうことは知る必要がないじゃないですか。神様を心から愛する、これが人間のある当然のすがたです。ところが、狡猾なサタンは、あなたはそういうような価値観を持っているけれどもね、従わないということだってあるんじゃないの。従わないという価値観だってあるよね、あるよね、あるんだよ。神様は、神のごとくあなたがなってしまう、それをいやだから、あなたにそれを禁じているんだよ。

 そうです。神に従うことを良しとし、それと同時に、神に従わないこと、そういう価値観もあるということを気づかせる、意識させる、それは神様の善意を疑うことです。ほんとうに神様はそう仰ったのか。そして、もっと言うならば、人間がそこには、踏み込んじゃいけないところ、神様が踏み込んじゃいけないというところを、あるんだ。それはそれでいいんだ。こういう言い方をするとまた誤解を生じるかもしれませんが、言いたいことはお分かりいただけるでしょうか。あ、ダメダメ、そこ、そこは入らないで、そこはあなたが知る必要がないところだから。知らなくていいところだから、そこダメ、と神様は仰った。狡猾なサタンは、いいじゃない。あなたが知ったっていいじゃない。つまり、善悪という根本的な神様の領域にあなたが入って、あなたがそれを自由意思でやったっていいじゃない。これが私はサタンの一番狡猾な人間に対する働きかけだと思います。そしてそのことを前提にして考えてみると、サタンについて記されているイザヤ書141215節が思い起されます。

12明けの明星、 暁の子よ。
どうしておまえは天から落ちたのか。
国々を打ち破った者よ。どうしておまえは地に切り倒されたのか。
13 おまえは心の中で言った。
『私は天に上ろう。
神の星々のはるか上に私の王座を上げ、
北の果てにある会合の山で座に着こう。
14密雲の頂に上り、
いと高き方のようになろう。』
15だが、おまえはよみに落とされ、
穴の底に落とされる。 

 これは多くの聖書学者が、「明けの明星、暁の子」、これはサタンを意味しているというように言及しております。つまり、神に仕える天使の中で、いちばん神様に近くあった存在、天使長、天使にもいろいろな階層、職種によってあるようですけれども、戦いを専門にするような、情報を専門にするような、ガブリエルとかミカエルとかいうようにいろいろあるようです。それはそれとして、この一番上の天使長、神に一番近くある被造物、神に仕えているその者が神の如くなりたい、神の座に私は着きたいといったとき、落とされたのです。サタンが一番ねたんだのは人間です。神に似せて神のごとく造っていちばんすばらしい被造物人間をサタンは神の不可侵領域を侵させて、自分と同じようにしたいというそれが傲慢なサタンの策略なのです。神のごとくなることを神が恐れてあなたに、あれを食べちゃいけないといった。だいじょうぶ。食べてごらん。

 私はこれを思いながら、知らなくていいことを神様は人間に幸せのために制限をされて、それを何の束縛、制限と感ぜずに、私はあなたのみこころを行うことを喜びとしますという、そういう生き方をすることこそ人間の最もあるべきすがたであった。それが、いつでも悪魔は、神はほんとうにあなたにそういったのか。

 悪魔にとって最大の危機は何かというと、イエス様の十字架に向かうところの救いです。イエス様の救いのみわざ。いよいよ神様の非常手段としての十字架。天使が堕落したときには神様が用いなかった非常手段を人間が堕落してしまったときに、神様はほんとうに一人ごを犠牲にするほどまでの非常手段をもって人間を救うためにみわざを為してくださって、イエス様が誕生され、そしていよいよ十字架に向かうその歩みをはじめなさったときに、悪魔は必死になってイエス様のわざを止めようとした事件。その必死さや猛烈だったと思う。それがマタイの4章にある。それとともに、ゲッセマネの祈りにも見られるように、イエス様の伝道生涯のいたるところに悪魔は、その御子イエスの贖いをなきものにしようとして力を企ててやってくる。今日はその一つが一番わかりやすいそのイエス様が、悪魔のこころみをうけるために、荒野にに導かれていく。イエス様も断食をされて、その後空腹を覚えられた。そこにつけ込む悪魔。詳しいことは省略いたしますし、引証箇所をあげますので、ご参考になさってください。
 申命記の8章3節。イエス様は、「人はパンだけでいきるのではなく、神の口から出る一つひつのことばで生きる」。サタンが「さあ奇蹟をやってみてご覧、み使いがあなたの足が石にうちあたらないようにするから」。7節に「主をこころみてはならない」。それは、申命記6章16節。或いは、出エジプト記17章7節で、水がないと人々がつぶやいたときに、そしてほんとうに神様が我らとともにいるのかと試みたときに水が出てきた。それは神をこころみてはならない。

 そしてその次、サタンはとうとう本性を現した。「俺を一度でいいから拝んでご覧。全世界の栄華をあなたに与えようじゃないか。何で十字架の贖いなんてことをするんだ」。そしてイエス様は、「主だけを礼拝するように」。

 旧約聖書には神様が「ねたむ神である」とある。「我はねたむ神なり」ということばが、折々に出てくることを皆さん方もきっとどこかは別としても、お気づきでしょう。神様がねたむ。ふつう妬みというのはあまりよい感情ではない時に用いる。しかし、「ねたむ」。これほどまでに神様が愛を注いでいる、神が愛を示している私たちが、心のどこかにその神様以外のものを慕っているような、そういうものがあったとしたら、神様ほんとうにねたんで、何でそんなものを持ってるの。どうして私だけを100パーセントのピュアな愛で愛そうとはしない。「我らの神はねたむ神なればなり」。どうか神様を本当に愛して、アーメン、神様のみことばに100パーセントの信頼を置いて進んでいくものでありたいとこのように思います。 

 きょうのこの話をしめくくるにあたって、神様の導きが記された葉書をご紹介します。消印が田園調布。昭和45年7月2日。12時から18時までの間に投函されている。葉書が7円の時代です。投函された場所は大田区南雪谷の伝道所。私宛です。今の時代、インターネットで昭和45年7月2日何曜日?とアイホンに語り掛けるとぱっと出てくる。昭和45年は1970年。そして7月2日は木曜日。当時は私の所属しておりました丸の内教会の週半ばの祈祷会が行われている日なのです。差出人は國光幾代子先生です。ですから間違いなくこれから類推できるのは、このときに雪谷伝道所のポストに機代子先生が私宛に葉書を投函した。投函をしてその足で雪谷から丸の内教会まで行って、丸の内教会の祈祷会に出席し、その足で神学院の方に帰っていったと幾代子先生の足取りを類推することができる。これが45年の7月2日。
 私はこのときに人生の大きな転機を自分なりに迎えておりました。勤めておりました会社、そこでずっと一生を費やすべきか、それとも、このような者でも献身をするなら神様の御用に立つだろうかを真剣に考えておりました。ちょうど会社のお昼休みのときに、お祈りの時、それは皆の前でではなく、暗い倉庫の片隅でのことです。その倉庫は、レコードの扱い量は日本一。どこの会社よりも一番大きなレコードの営業所の倉庫です。
 当時、飛ぶように売れているのがJRP1015「長崎はきょうも雨だった」。SV102でしたか「港町ブルース」。レコード番号、曲名など忘れられません。
 その出荷する倉庫の昼休み。ですから倉庫は真っ暗です。その暗い中で本当に祈ったんです。長崎はきょうも雨だった、港町ブルース、もちろんそればかりではありませんが、しかしこういう関係のものでいいんだろうか。救われてまだ何にもわかっちゃいない。でもどうも真剣に神様に従おうとするときに、これではいけないな。どうしようか。もしかすれば自分は今一時的な感情の高ぶりで牧師になるというような思いになってしまったんだろうか。どうしたものかと思っていたときです。ちょうど丸の内の祈祷会がある日でした。祈祷会に出席した後、幾代子先生に、きょう会社で自分の将来のことを祈ったこと、こんな者に神様のご用ができるのかの疑問をお話ししましたところ、幾代子先生が、「ちょっと待ってください。私あなたに大切なおことばを書いた葉書を出しました。多くの方々に出した印刷物ですが、そのわきにほんの1,2行書き足しました。その1,2行にとっても大切なことを祈って書いたんですけれども、今私は忘れてしまいました。葉書が届くと思うので、是非そのはがきを見てみてください」ということだったんです。たしかに翌日かに葉書が私の寮に届きました。創世記12章1、2節のみことばと、「神様が一歩一歩導いておられるかに思われます。」と1行だけ書いてありました。

創世記1212
主はアブラムに言われた。あなたは、あなたの土地、あなたの親族、あなたの父の家を離れて、わたしの示す地へ行きなさい。」
その時は文語訳聖書です。
12:1 爰にヱホバ、アブラムに言たまひけるは汝の國を出で汝の親族に別れ汝の父の家を離れて我が汝に示さん其地に至れ
12:2 我汝を大なる國民と成し汝を祝み汝の名を大ならしめん汝は祉福の基となるべし

 私はこれを見たときに、ああ、「汝のみことばは私の足のともしび、わが道の光」、ほんとうに神様は創世記12章1,2節を通して、まだこんな未熟な右も左も分からないような者でも、本当に神様に心から祈り求めるときに、神は語り掛けて下さるし、先ほどの第一サムエル「聞き従うことはいけにえにまさるなり」を思い、そうだ、「聞くことは雄羊の脂肪に勝る」、受け入れよう。どうしようかとぎりぎり悩んで先生に相談をして、このおことばが与えられた。このときに、もし私が、私は小さな者です。こんな分からない者が尊いご用をすることはできませんといって、ある意味謙遜なように響きながら臆病や不信仰で引っ込んでしまったのなら、それは神様のおことばに従わないことになる。これで牧師としての献身が決まりました。

 私は1968年の11月に救われました。ですから1970年7月。まる1年丸の内教会で信仰の養いをいただいて、雪谷伝道所で信仰の交わり、養いをいただきながら、それなりに自分のベストできよめの道を歩もうとしていったとき、神様が語ってくださった。これは私にとってやはり忘れることができないことですので、これまで何度も話して恵みを自分なりに感謝しておりますけれども、きっと皆さんがたも、大きなことだけでなく、皆さん方日常生活のこの時あの時、それを神様のみことばを求めて従っていくということを真剣にやっていくならば、神様は必ず、羊は我が声を聞く。と語り続けてくださる。私の乏しい者の経験ですけれども、これを証しさせていただきたいと思います。

あなたのみことばは私の足のともしび、私の道の光です。

 どうかへりくだって、ほんとうに神様を愛して神様の願いの通りに生きていきたい、その思いをもってこの年進ませていただこうではありませんか。それは私たちが祝福の基となるからです。

 

※音声データ、画像は教会からお借りしています。
⏰8時42分更新


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220113 クラシック倶楽部を聴く 小林美樹のバイオリン ベートーベン〜武満徹

2011年第14回ヴィエニャフスキ国際コンで第2位入賞。ソロ活動や国内外のオーケストラとの共演のほか、各地の音楽祭にも数多く出演し室内楽でも精力的に活動している【演奏】小林美樹(バイオリン)坂野伊都子(ピアノ)【曲目】バイオリン・ソナタ第5番「春」(ベートーベン)、序奏とロンド・カプリチオーソ(サン・サーンス)、恋のかくれんぼ(武満徹)ほか【収録】2020年12月4日武蔵野市民文化会館大ホール

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小林美樹2006年にレオポルト・モーツァルト国際バイオリン・コンクールでギドン・クレーメルから審査員特別賞を受賞。ウィーン音楽大学で研鑽を積み、2011年にポーランドのヴィエニャフスキ国際バイオリンコンクールで第二位。
坂野伊都子2000年に第69回日本音楽コンクールで第二位。宮崎国際音楽祭をはじめさまざまな室内楽プロジェクトに取り組み、後進の指導にも携わる。

小林美樹のコメト

Qベートーベン「バイオリン・ソナタ第5番」について
何回か弾いて来たんですけども、いまだに壁を感じるというか、でもすごく素敵な曲なので、さらに勉強をして自分なりのベートーベンというものを見つけられたらいいなと思うんですけれども。3楽章も短いんですけれども、あんなに凝縮した音楽というのは、やはりベートーベンだから出せるんじゃないかなというふうに思いますね。
Q
ヴィエニャフスキー「スケルツォ・タランテラ」について
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歳の時に初めて楽譜を見て、これをレッスンで弾きましょうと先生におっしゃっていただいて、楽譜を見ただけでもう真っ黒なので、これ弾けるようになるかなというふうに、先ず楽譜を見て圧倒されたという曲でして、それも難しいけれども途中にあらわれるメロディーの美しさだったりとか、技巧にだけ終わらないところがものすごく好きで、8歳の時に弾いて以来何回かコンクールでも弾かせていただいたんですけれども、やはり思い入れの強い作品ですね。

 

曲目

バイオリン・ソナタ第5番「春」(ベートーベン)
ベートーベンが残したバイオリン・ソナタ10曲のうちの一つ。「春」は1801年の作曲。
スケルツォ・タランテラ(ヴィエニャフスキー)
ヴィエニャフスキーは1835年ポーランド生まれ。パガニーニ、サラサーテと並ぶ19世紀の代表的なバイオリニスト。1856年に書かれたこの曲は舞曲タランテラのリズムを取り入れた華やかで技巧的な作品。
序奏とロンド・カプリチオーソ(サン・サーンス)
1863年作曲。親友だった名バイオリニストサラサーテに捧げる。
情熱的な序奏のあとにスペインの情緒あふれる舞曲調のロンドが展開される。
歌劇「ポニーとベス」から「そんなことどうでもいいさ」(ガーシュウィン)
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世紀の名バイオリニストハイフェッツは第二の祖国アメリカに愛着を持っていた。第二次世界大戦中には積極的に慰問活動を行い、この曲を弾いて前線で戦う兵士の心を癒した。
さようなら(武満徹 作曲 森山智宏 編曲)
20世紀を代表する作曲家武満徹は現代作品音楽で知られるが合唱などの声楽曲も多く残している。彼の声楽曲は美しいメロディーとともに歌う楽しさや音楽を自由に表現する喜びにあふれている。
恋のかくれんぼ(武満徹 作曲 森山智宏 編曲)
めぐり逢い(武満徹 作曲)

🎵今回は、確かに、はじめの1小節がリスナーの聴く態度を決めると思った。えも言われず心地よい。コンクールの時、ギドン・クレーメルから特別賞を授けられているけれども、そんなことにも思いがいく。
「スケルツォ・タランテラ」、息を継がせぬばかりの心地よい切れの良さ。坂野さんのピアノを弾く姿に目を惹きつけられる。小林さんは8歳で「タランテラ」を弾いたとか。
武満は好きだが、大曲に続く登場で、どうしたわけか小さな一曲一曲が肩透かしを食らった感じが。「めぐり逢い」にきて、そうそうこれが武満と3曲目にやっと納得している自分がおかしかった。
 ガーシュインの歌劇「ポニーとベス」から「そんなことどうでもいいさ」はハイフェッツの編曲。アメリカには親愛の情を抱いていたハイフェッツ。慈善演奏なども積極的に行っていたらしいけれども、日本が関東大震災、だから1923年のことだが、このときにも彼は惨状を知って、バイオリンを抱え、壊滅したと聞く東京に向けて船に乗り込んだのだ。
 

🎧名曲アルバム。ヨハン・シュトラウス「皇帝円舞曲」。円光寺&東京フィル
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「のちのワルツ王はダンスホールの指揮者として始まった」との解説。それがどんなダンスホールであったかは分からないが、それがやがて彼の曲はハプスブルク家の宮廷で鳴り響くようになるのだから! シュトラウスの時代、舞踏会は庶民の娯楽としても広まっていた。シュトラウスは世間の出来事や流行を題材にして次次に作曲していたという。
 1889年フランツ・ヨーゼフ1世が同盟国ドイツ帝国のヴェルヘルム2世を表敬訪問。同年に書かれたこの曲は二人の友好をたたえ「皇帝円舞曲」と名づけられた。


⛳久方ぶりに6時56分更新

 

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220112 クラシック倶楽部を聴く 宮里直樹 情熱のベルカント

幼いころからバイオリンを学び、高校3年生で声楽に転向。東京藝術大学および同大学院で学ぶ。その後ウィーン、ミラノへ留学。オペラ出演を中心に、演奏会でもN響をはじめ主要オケとの共演多数【出演】宮里直樹(テノール)河原忠之(ピアノ)【収録】2020年8月19日 武蔵野音楽大学 ブラームスホール
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宮里直樹のコメント
僕は高校の3年の夏までバイオリンで受験しようとやってたんですけど、3つ離れた妹がいて、妹がミュージカルの方に行きたいとなって中学3年のときに歌の先生についたんです。その先生の歌のレッスンのときに、僕がたまたまピアノの伴奏でついていって妹のピアノ伴奏をしたんですけど、そのとき先生から「お兄ちゃんは歌やらないの」というはなしになって、「やらない」とこたえたんですけど、「ちょっと歌ってみて」。そのとき、なんで先生がそういったのか僕にはわからないんですけど、でも一曲歌った。知ってる曲もあったので。そしたら是非歌に来いと。プロの方がそう言ってくださるなら何かあるのかもしれないと、恐々と何も知らないまま歌をじゃちょっとやってみますという感じで受験をしたんです。知らない曲ばかりで作曲家もぼくが弦楽器でやってた作曲家と全然違っててドニゼッティなんて出てこなかった。僕の辞書にはなかったから。すごく不安だったし、これからぜんぶ新しいことやるんだなとおもってたんですけど。歌える曲が増えて来たなと思って。それからちょっと勉強するようになって、「あ、歌好きかも」と。

ナポリ民謡へのおもいは:どうしてもテノール歌手が歌うナポレッターナとナポリ民謡とそのほんとうにナポリの人たちが歌うナポリ民謡とちょっと違うんですよね。僕らお客さんに聴かせなきゃならんからどうしても声大きく出さなきゃいけないというとこがあるけれども、でも彼らはほんとうはやっぱりギター片手で、吟遊詩人じゃないですけども、(ここでオーソレミオの一か節をネイティブ風に歌って)こういう感じで歌うんですよ。でも僕たちはこうして声を張って歌わなきゃいけない、そこのところのギャップを埋めたいなと思うんですけど、なかなか難しいとこがあって、ただそのやっぱり彼らの持前のエネルギーだとか明るさだったりとか、やっぱり人を好きになるという気持ちはやっぱり日本人とはパワーが違うので、そういうところに太陽だったりとか海とかだったりとかそれを形容できるだけの力を彼らはその愛というものに対して持っているんだなというのはすごく肌で感じて、それが音楽に表れてて、それがああいう明るい音楽だったりとかまた悲しいおんがくだったりとかできるんだなと。テノール歌手である僕がこの曲をどういうふうに処理するのか、ひとりの芸術家としてこの曲をつくったときにどういうふうに歌うのかというところを聴いていただけたら嬉しい。

僕はコンクールをガルダ湖というところで受けたんですけど、そこの景色はほんとうに素晴らしくて、たとえば「愛の妙薬」一応あれはスペインのとあるバスク地方とかどこにでもあるような町という設定でやってますけど、ほんとうに窓をぱっと開けた瞬間にこういうことかという、窓から見える景色だったりとか、外を見る景色だったり、または海だったり湖だったり。ああこういうことか、太陽がこういうふうに光っているんだという、そこはもう全然空気感も違うし、感じる太陽の熱も全然違ったし、勿論湿度も違うし、色んな意味で違いましたね。イタリア語の発音だったり、空気感だったりとか食べ物もそうだし、彼らの生き方というか性格だったり、やはり日本人とはかけ離れてて簡単に電車もストライキするし、いろんな意味で悪い面もたくさんあったし、でもいい面では仲良くなったりするとすごく仲良くなって本当に兄弟のように家族のように接してくれたというのもあるし、そういうところから言葉だったり音楽だったりとか生まれてきたんだろうなというのはすごく肌で感じました。

曲目

「オー・ソレ・ミオ」カプロ:作詞、ディ・カプア:作曲
「マリウ 愛の言葉を」ネーリ:作詞、ビクシオ:作曲
「とても君を愛してる」フルノ:作詞、デ・クルティス:作曲
「つれない心」コルディフェッロ:作詞、カルディッロ:作曲
「歌劇「愛の妙薬」から「人知れぬ涙」」ドニゼッティ:作曲
「歌劇「連隊の娘」から「ああ友よ、なんと楽しい日」」ドニゼッティ:作曲
「歌劇「マノン・レスコー」から間奏曲」プッチーニ:作曲
(ピアノ)河原忠之 
「歌劇「リゴレット」から「あれかこれか」」ヴェルディ:作曲
「歌劇「リゴレット」から女心の歌「風の中の羽のように」」ヴェルディ:作曲「歌劇「ファウスト」から「この清らかなすまい」」グノー:作曲
「歌劇「エフゲーニ・オネーギン」から「青春の日は遠く過ぎ去り」」チャイコフスキー:作曲

🎵きょうのコメント、オーソレミオの一か節をその土地の人たちの自然な感じでネイティブに歌ってくれただけで、むこうの空気感が流れ込んできた。いかにオペラ歌手たちがそれこそ張って歌っているものかがくっきりとした。このギャップを埋めたいという。最初に聴いたときから何か一味違ったものが感じられたけれども、それを感じ取っていたのかもしれない。自分の感覚に「かもしれない」はないだろうとも思うのだが、どうしてそう聴こえるかがわからないときには、かもしれないというほかはない。ただ聴き進むうちに、この歌にまさしくコメントにあるような日本の風土、習慣、空気感とは違ったダイレクトに根底を揺さぶるエネルギーがある。

🎧名曲アルバム。ドビュッシー「あらべすく」曲アルバム。ドビュッシー「アラベスク」
編曲:編曲:加藤昌則、ピアノ:萩原麻未,飯森範親&東京フィル
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ドビュッシーは1862年サン・ジェルマン・アン・レー生まれ。1889年のパリ万博でオリエント文化に出会い、傾倒。

⛳除雪するすがたがそちこちに。雪、雪、雪。時折コロナにいら立つかのように地吹雪が狂おしく咆哮。尚ひるまぬウィルスの止まぬ変容。
16時更新

 

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220111 クラシッククラブを聴く 松田華音 ピアノ・リサイタル

2014年ロシア政府特別奨学生としてモスクワ音楽院に入学。同年、世界的レーベルからCDデビュー
【曲目】ピアノ・ソナタ 変ロ長調 K.333(モーツァルト作曲)
   、楽興の時 作品16(ラフマニノフ作曲)
【収録】2021年6月8日 NHK大阪ホール(無観客)
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松田華音のコメント
 私が6歳の時にロシアに渡って、12年間学んできたグネーシン音楽学校の先生が、どちらかというとモーツァルトよりもベートーベンが得意な方で、そのあとのモスクワ音楽院の教授もクラシックのソナタというよりはロマン派が得意で、ロマン派のものをたくさん弾いてたんですけど、今回モスクワ音楽院の大学院に入学して、ヴィルサラーゼ教授のクラスに入らせていただいて、ヴィルサラーゼ先生もとてもモーツァルトが得意なのでモーツァルトがやりたいなと思っています。
 モーツァルトから始めるのはすごくこわいです。すべてが表面に出てしまうので、すごくコントロールが必要だと思います。個人的には3楽章のコンチェルトのような、最初ソリストが出て、その後オーケストラが出て、そういうまるでやり取りが聞こえてくる曲なので、そういうところがすごく気に入っていて、そういうところを聴いていただけたら嬉しいなと思います。
 ラフマニノフはロシアの風景が見えるものでもありますし、ロシアに住んでらっしゃる方々のハートが感じられる温かいハートが感じられるような作曲家だなと思って、弾いていたり聴いていたりすると、すごく心に沁みるというか、ああこの景色、あの時に見たなとか、その瞬間、だれだれと話してこう感じたなとか。ロシアの方は最初は冷たい感じかなとおもうかもしれないんですけど、話してみるとすごく暖かくて優しい方たちなので、そういった優しさ、包んでくれるような温かみと優しさがラフマニノフの音楽にも出てるんじゃないかなと思います。
 「楽興の時」はまさにロシアの風景が感じられる曲だと思います。ロシアの小説に出てくるような景色だったり、ロシアの小説の中の主人公たちが感じている気持ちだったり、ほんとに弾いていて、ああ、ロシアだなという、ノスタルジックな感じがします。わたしの演奏を聴いてくださった方が、ああ、ロシアだなと聴いてくださったらすごく嬉しい。

🎵NHK大阪ホールでの無観客収録だったようだ。その無観客席も一つの奏者の背景として生かしたかの一場面も。モーツァルトでは青系ライト、ラフマニノフでは赤系ライト。特に前半の映像描出がすばらしい。青系が幻想的な雰囲気を醸す効果にもよるけれども、演奏者と共にピアノという楽器の美しさを余すところなく演出してくれた。楽器はそのままの形状ですでに形が完成していると思わせられるところ、さらにライトとカメラの丹念な協調、共同作業がピアノの美しさの格を増し加えたという感じが。ピアノを円状にとりかこむあかりが配置を変えての場面。また黒鍵の陰が白鍵に並び映りこんでいる。周りの事物がピアノの断面、湾曲によってどのように映し出されるかの可能性が追及されていたようにも思う。ピアノのあらゆる角度、断面が漆黒から様変わりする新たな姿が描出されている。
 「楽興の時」、第4曲、第6曲、はけ口のない情念、といっても引きずるような粘っこさはないのだが、音に託されたロシア的な憂鬱といいがちになるけれども、或いは、没落貴族に生まれ9歳で生家破産。奨学金でペテルブルク音楽院に入学するが、学科試験で落第などの痛手がすでに神経系に影響を及ぼしていたか、神経系からくる憂愁を託っていたものか、無意識の咆哮が出口を求めているかのような。
 松田華音さんの曲のここぞという部分の作曲家への相槌に相槌を打ちながら聴く。
 

🎧名曲アルバム。チャイコフスキー「偉大な芸術家の思い出」
【バイオリン】小林美恵,【チェロ】長谷川陽子,【ピアノ】清水和音
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ここでいう偉大な芸術家とはモスクワ音楽院の創設者でチャイコフスキーを教師として招いたニコライ・ルビンシテイン

⛳雪がふり続いている。夕刻にはかなりな積雪量になりそう。14時08分更新

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クラシック倶楽部などなど

2022年1月7日(月)クラシッククラブを聴く
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ザルツブルク音楽祭2020。アンドラーシュ・シフ ピアノ・ソロ・コンサート
曲目:1905年10月1日(ヤナーチェク作曲)
   ピアノ・ソナタ ハ長調 D.840(シューベルト作曲)
   4つの即興曲 D.899から第3番 変ト長調(シューベルト作曲)
   楽興の時 D.780から第3番 ヘ短調(シューベルト作曲)
   「草が茂る小道を通って」から おやすみ(ヤナーチェク作曲) 
  〈2020年8月25日 ザルツブルク モーツァルト劇場〉

モーツァルトの生誕地オーストリアのザルツブルクで毎年夏に開催されるザルツブルク音楽祭。一か月以上に及ぶ期間に演劇、オペラ、バレエ、種々のコンサートを含む数多くのプログラムが提供され規模、内容ともに世界有数の音楽祭として知られる。1920(大正9)年に第一回が開催されたのち、偉大な音楽家たちの導きで伝統を積み重ねてきた音楽祭が2020年創立100年を迎える。新型コロナウィルスの感染拡大を受けて一時開催が危ぶまれたが規模を縮小しさまざまな感染防止対策をとったうえで81日から30日間、110公演が行われる。
音楽祭の後半、ステージに登場したのは、世界的ピアニストのアンドラーシュ・シフ。アンドラーシュ・シフは1953年ハンガリーのブダペスト生まれ。バッハからブラームスまでのドイツ音楽のレパートリーを中心とし卓越した技術と音楽性を兼ね備える。

🎵ザルツブルク音楽祭は1920年から100年の歴史をもつ。100年前の日本というと大正時代。音楽では軍楽隊や帝室雅楽部が西洋音楽の習得も課せられて頑張っていた。ヨーロッパに比肩しうるアンサンブルもない時代。この圧倒的な落差。アンドラーシュ・シフの演奏、研ぎ澄まされ澄んだ音にも、流麗なところにも、清新さなどのすべてに明晰さが感じられた。最後の2曲に、何か達観した穏やかな境地を感じた。

🎧名曲アルバム。「草津節」
恋以外の万病に効くという草津の湯。湯の効果を弱めないために温度を下げるのに水で薄めずに湯かきでさますのだとか。
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2022年1月8日()J-MERO
ゲスト海蔵亮太、祭nine.
🎵
後半だけの視聴となった。
ポップ系のパフォーマンスには目を瞠っているけれども、祭nine.が言うに、バク転、宙返りを組み込む。つなげ技が好きだという。神輿を前面に出し、祭り感を出すなど日本らしさ、和の雰囲気を大切にトラディショナルナな楽曲を目指す。最新版ではキーが高い、歌そのものを聴かせる楽曲にも舵を切っているらしい。

2022年12月10日(土) クラシック倶楽部を聴く
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亀井聖矢 ピアノ・リサイタル

2001年愛知県出身。高校3年に進級する2019年春に飛び入学試験を経て桐朋学園大学に入学。同年、日本音楽コンクール第1位入賞。注目のピアニストとして活躍中。 2001年愛知県出身。高校3年に進級する2019年春に飛び入学試験を経て桐朋学園大学に入学。同年、日本音楽コンクール第1位入賞。
【曲目】ピアノ・ソナタ 第21番 作品53「ワルトシュタイン」(ベートーベン作曲)
    超絶技巧練習曲 から第1番「前奏曲」第5番「鬼火」第4番「マゼッパ」(リスト作曲)
【収録】2020年9月29日めぐろパーシモンホール 小ホール
🎵最後のリスト、俊敏さが胸を梳く。

🎧名曲アルバム。ボロディン「ノクターン」。演奏はカルテット・エクセルシオ
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🎵ボロディンは一生をペテルブルグで暮らしたようだ。大学に勤めながら医化学の研究をする傍ら作曲していたという。この「ノクターン」は妻に捧げている。ボロディンは1833年生まれ。1887年に心臓発作で急死。その4か月後に妻のエカテリーナが亡くなっている。

⛳そうこうしているうちに更新が滞った分をまとめてアップ。
外は解けなかった雪がガリガリ。3台も通れば凍てつく道協奏曲にもなるだろう。こんな日は星もさえて瞬いているはず……と今バルコニーに出て見上げると確かにたしかに天空にはめ込まれた宝石がさやかに明かりを放ち、そして半月が煌々と輝いている。⁻3°の下でぶるっと震えたのはわたし独り。屋根雪を積む街は悠然と泰然と天空を仰いでいる。
20時48分更新

 

 

 

 

 

 

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きょうのことば 『あなたのみことばは―2』

インマヌエル盛岡キリスト教会2022年12()のメッセージをお伝えいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で48年目のご奉仕をしておられます。

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説教題 『あなたのみことばは―2(國光勝美 牧師)
引証聖句 詩篇119105
あなたのみことばは私の足のともしび 私の道の光です。

 

<メッセージ>

 きのうが元旦礼拝、今日が2022年の第一回目の聖日礼拝でございます。

 さて、先ず簡単に元旦礼拝の復習をいたしましょう。
あなたのみことばは 私の足のともしび 私の道の光です。

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この「みことばは」ということばで心に思い浮かぶのは、
詩篇119:130みことばの戸が開くと光が差し浅はかな者に悟りを与えます。
詩篇119:103あなたのみことばは私の上あごになんと甘いことでしょう。蜜よりも私の口に甘いのです。

  みことばをこのように慕わしいものとして、今年もみことばとともに歩みたい。新約聖書に思いをいたしますと、「ただおことばをください」という百人隊長のことばがあります。そうだ、「ただおことばをください」。

 私自身、教会総会が控えており、1月までの聖日講壇を、このおことばとともにと、詩編119篇105節を願っているのですが、ここからいくつか神様からの恵みの光が与えられているように思うのです。
 聖書の創世記3章1節で、サタンが人間を堕落に導こうとするとき、「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか。」とサタンは神様のおことばを疑わせようとします。これは半面的に悪魔は神のことばを恐れているのです。

 またイエス様が30歳で公生涯に立たれようとしたときにも、イエス様は荒野で四十日四十夜断食をし、空腹を覚えたところに悪魔の試みをうけました。悪魔はイエス様に、ほんとうに神様があなたにそういったのかと何度も試そうとします。イエス様はその一つ一つに、聖書には何々と書いてある。聖書には~と書いてある。聖書には~と書いてある。このようにイエス様は悪魔に対して聖書のことばを用いて応対し勝利しています。私たちにこうしなさいと見本を示してくださっています。

 ことし、私たちにみことばが備えられるということが、どんなに意義のあることなのか。悪魔は何とかして、人がみことばを真剣に受け取れないようにしてしまう。けれどもほんとうに神様のみことばを慕い求め、「神様、ただおことばをください」というときに、「わが羊はわが声を聞く」といってイエス様は、必ず皆さん方に必要なおことばをあたえてくださいます。どうかそれをしっかりと握りしめて、ことしの歩みを進めてまいりましょう。

 

 さて、この「あなたのみことば」というときに、私たちは聖書は神の聖言(ことば)と教えられています。そういう生き方をしていると言われればそれまでなんですけれども、その与えられる神のことばを、ここに詩篇の作者は、「あなたのみことばは」と書いてある。神の客観的なことばということを超えて、このおことばを述べた姿勢は、「あなたの」と、聖書のことばに呼びかけて、ここに神様と私との関係性をこのように考えてみたわけです。

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 それは結局神様と私。その信仰、信頼関係というのが、そのリングでつながれている、このように理解したならどうでしょうか。下の黄色い背景に第一ヨハネの4章9,10節のおことば。このおことばがまず始めなのです。私たちが神様を愛したというよりも、まず神が私たちを愛して勿論この9節の前から是非お読みいただきたいのですけれども、「神はそのひとりごを」、最初に神様がまず愛を私たちに示してくださった。ここに愛がある。神様がそのようにしてくださったときに私たちはその神様の恵みをしっかりと受け止めて、その神様のご愛に信頼する。信仰ということばと非常に似ている。或いはまったく同意語だと思ってよろしいのですけれども、この私たちが神様をどれだけ徹底的に信頼するか、信頼できるか、それは第一ヨハネの4:9、Ⅰ0がまことに私たちのものとして理解されたときに、私たちは神様に対して、全幅的な信頼を置く。ですから信仰ということばは、日本人である私、そして皆さん方、信仰というとお札が貼ってあるようなところとか、何か狂信的なそういうようなものとどこかダブらせて思い浮かべる。そのような文化的な背景の中で育ったせいかもしれません。

 でも私たちが言っている信仰というのは、むしろ信頼です。第一ヨハネの4:9.10にある信頼するというところとまったく同義です。だから語り掛けてくださった神様のおことばにほんとうに信頼する、信頼するときにどこまで信頼できるかなのです。

 バンジージャンプというのがありますが、私、やってみたいなと思う。絶対その綱が切れないという保証がないといけません。それがあればやってみたいなと思う。どうしてか。クリスチャンとしての信仰生活がそれをやってみたいと思わせる。神様のことばは絶対に切れることはない。ですからその神様のことばを信じて、どーんと飛び込んでいきたい。飛び込まないでいると、まだ信じてないのかと神様に言われるような気がする。勿論信じてますよ、じゃ宜しくと喜んで飛び込んでいきたい、そのように思います。与えられたおことばを、そのようなおことばとして、是非信頼をしてもらいたい。そのようにありたいと思います。 

 そして、「私の足の灯」。これは、小さなろうそくの火のようなものであったとしても、それがどんなに暗闇を歩む者には励ましとなり慰めとなり、力となることか。どうぞ神様のみことばをフォローし、しっかりと掲げていきたいと思います。

 そして、「私の道の光」。道というのは、到達すべきゴールを持つ私たちのプロセスなわけです。それを、道と言うわけです。イエス様は、あなたの究極的なゴールは天国でしょ、永遠の命でしょう。わたしが天国に行く道なんだからと仰る。このお方をしっかりと捕らえましょう。ヨハネ8章12節「わたしは世の光です。わたしに従う者は、決して闇の中を歩むことがなく、いのちの光を持ちます」
 これはイエス様のおことばです。このまことの道であるお方に従って歩ませていただきたいとこのように思うのです。 

 私自身、あすどのようになるのか、皆さんも同じです。ただ、一つ言えることは、死というものに対して、皆がすごく恐怖を持っている。世の中の人を見て改めて思いました。コロナ禍にあってそれが顕著に表れている。死への怖れを見る機会が多い。福音を知らない人たちはほんとうに死を恐れていることが多い。しかし同時に、死の怖れから全く顔放されているクリスチャンのすがたをも目の当たりにしています。これなんだ! と思います。実例がありますと、死の恐れからも解放するという聖書のおことばが提示されたとき、すっと自然に心に納得としておさまります。そうか、イエス様がクリスマスに人の子としておいでくださったのは、人を死の恐れから解放するためでもあるのだ。死からの解放ということは、恐れからの解放なのだ。折に触れてイエス・キリストの十字架と復活は死を解決してくれるとお話しすることがありますが、改めて、クリスマスのイエス様のご降誕は死の恐れからも解放してくださるためなのだ。ハレルヤ。

 みんな死ぬ。死は避けられない。しかし私たちのゴールは天国。今はそのプロセスにあるわけです。それを象徴するできごとが旧約聖書に出ています。イスラエルの人々がカナンに旅をしたとき、神様は、雲の柱、火の柱によって人々を導いてくださった。私たちはこの地上では旅人です。この地に宿れる者なのです。寄留者なのです。私たちのゴールはキリストのもとにある。これまですでに多くのクリスチャンたちがこの道をたどり、凱旋したそのゴール、勝利したゴールであります。そこにはもはや死の恐れはありません。

 

イエス様が「わたしは世の光です」。そして、「わたしが道であり真理でありいのちなのです」と仰る。
ひろ子先生と暮らす中で、二人とも死に対する恐れがない、自分たちはおめでたいんだろうとも思うのですが、事実、恐れがないなと思います。

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 そして今日私は第一ペテロ1:23節のおことばに心を向けたく思いました。
あなた方が新しく生まれたのは、朽ちる種からではなく朽ちない種からであり、生きた、いつまでも残る、神のことばによるのです。
 
あなた方が新しく生まれたのは、神のことばによる。かみのことばによって新しく生まれ、神のいのちを持っている。これがいわゆる救い。イエス様を信じて救われましたという救いです。宝くじが当たりましたなどというのではなく、ほんとうに福音は何かというと、罪によって滅んでしまうその死から全く解放されて新しいいのち、キリストのいのちに生まれ変わる。そのいのちが与えられる。或いはそのいのちが与えられている。そのいのちの種は神のみことばであります。 

 種である神のことばによる新生の恵みということ。そして、いつまでものこる神のことばというときに、たとえば同じ聖書のことばで、「パリサイ人」も出てくる。彼らはイエス様が地上におられた時代に、いちばん宗教に熱心であり、またいちばんイエス様に反対した人たちです。ユダヤ教徒はパリサイ人でした。イエス様もパリサイ人たちも同じ聖書のおことばを拠りどころにしていたのです。ただパリサイ人たちは、そのみことばの種をきちんと保存できなかった。同じ種を持っていながら、イエス様から「偽善なる学者パリサイ人よ」と言われている。聖書をほんとうには理解していなかった。律法に適う行いによる救い、行いによる救いを信じていた。

そのパリサイ人にイエス様は言われます。「あなたは心を尽くし、いのちを尽くし、知性を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい。」(マタイ22:37)そして、「あなたの隣人を自分自身のように愛しなさい。」(マタイ2239)

 同じ聖書の種ですけれども、パリサイ人たちはそれを死んだ種にしてしまった。
 先ほど子供讃美歌を歌いましたけれども、道の上に落ちてしまった種をカラスがやってきてついばんでしまった。藪の中に、或いは石の地に落ちて芽吹かない。どれもせっかく落ちた種ですけれども、芽吹かない種、或いは芽吹いても枯れてしまったりとさまざまです。
 しかし私たちは朽ちない種の保存を知っています。みことばの種は、聖霊によって私たちの心にしっかりと蓄えられたときに、いのちある神様のことばが芽吹き、ぐんぐん育ち、それこそ管理次第で20倍30倍、或いは50倍100倍の実を結ばせる命として私たちの心の中に育つのです。それは聖霊様の御図らいによる、それを思います。
 古いハスの種、あの大賀ハスのことですが、2000年前の地層から発見された種だそうです。それが今きれいな花を咲かせている。まして、私たちには神の生ける種が与えられているのです。私たちの心が良い地の状態であるなら、ご聖霊様は必ずや豊かな実を実らせてくださる、それを信じましょう。 

そして私はブレンドされた種ということを申し上げたいと思います。
 私もどちらかといえばコーヒーが好きです。アルコールは飲みません。それはおきてだからというのではなく、やっぱり弱い私たちですから、そういったものに慣れますと、信仰までも失ってしまう危険性がないではないからです。コーヒーは好きです。子供の時分はこんな苦いのどこがおいしいのと思っていました。大人になるとその苦みがいい。さらに苦みの中にコクがあると何ともいえない味わい深さを感ずる。


 そのコクについてですが。たとえば、インマヌエルという教団の名前の謂われはといえば「神我らとともに在す」という意味です。それがどのような経緯でもたらされたのか。
 それは蔦田二雄牧師が、戦争中に不敬罪、治安維持法違反で留置所に入れられたときでした。先生は「もしあのときに私たちを殺そうとするなら、三度出てくる食事の中にコレラ菌でも何でも入れておくことができたのだ。すぐにでも殺されてふしぎない独房に、今伝えるべき福音とは何なんだろうか。そしてこれまでのあり方、生き方、信仰について悔い改め、もし神様がこの牢から出してくださることがあったなら、「神我らとともに在す」(インマヌエル)という旗を掲げて、新しい群れを作り、働きを始めようとのビジョンを持った。そして戦後、この「インマヌエル綜合伝道団」がスタートされた。このように蔦田先生本人から聞くことができました。
 どうしてこのことを言うのか。殉教寸前にまでなり、独房の中にも神我らとともに在す。鉄格子の小さな窓から月の光が。神ともに在せば、ここはもはや独房じゃない。神がともに在す天国なのだと証しされている。この蔦田先生がインマヌエルといったときに、苦みと旨味、コクがある。私は誰でもが知る戦後の貧しさを潜り、ちょうど高度経済成長期に信仰に導かれておりますが、まだまだ人生の深みも知らない私が「インマヌエル」というのと、蔦田先生がいうのとでは自ずと違っている。クリスチャン信仰はそういうところを通って旨味が出てくるのです。

 神様が私たち一人一人を通らせてくださるところを、真実にイエス様の前に歩みつづけるときに、ああそうだ、神様の赦しとはこういうことか、神様のきよめとはこういうことか、神は我らとともに在すとはこういうことかと、旨味がわかってくる。それでいいのです。ですから私たちの最もすばらしい〝コーヒーブレンダー〟は神ご自身です。私たち一人ひとり神様はいろんなところをお通しになる。なんでこの問題があの人でなく私なの。そういうところがいっぱいある。そこを通って、神がともに在すということが分かる。

 もし心に異物が入っていたら、たとえば小石のようなものが混じっていたなら、それはつぶされない。クリスチャンの心の中に蝮(まむし)のような毒があるときに、神様からほんとうにそれでいいのかと問われる。神様に扱われなければならない。ほんとうに未熟な者ですけれども、神様のみこころに適うものを私は選んでおります、という教えられやすい砕かれやすい心をもつときに、神様は言ってくださるでしょう。いいぞ、神我らとともに在すという旨味がでてきたね。そう私は思います。ほんとうに、よき〝コーヒーブレンダー〟である神様に私たちのすべてをお委ねしていくとき、きっと神様は〝旨味〟を抽出してくださいます。 

 最後にロマ書5章2~5節をご紹介します。
2このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っているこの恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。
3 それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、苦難が忍耐を生み出し、
4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。
5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
 

 このおことばを書いたパウロもそれこそ大きな苦しみ困難、迫害に遭った器ですけれども、そのパウロが苦難さえも喜んでいる。それは忍耐を、品性を、そして練られた品性、この希望は失望に終わることがない。このパウロが言っているギュッと絞り出された油。

 今私も迫る教会総会までに自分自身整理したいのは、この詩篇119:105あなたのみことばは私の足のともしび 私の道の光です。
 
このともしびのオイルがどんなオイルなのか。オイルによって香りが違ってくるはずです。絞り出されるオイル。一人ひとりのために神様がギュッと試練を絞って絞って、課題を絞ってぎゅっと出てきたオイルを、私たちが信仰の火をともすとき、その油でなければわからないような、ほかにまねできないような麗しい香りを放った灯になるだろうな、そのようなことなどなどを思いめぐらしている最中です。皆さんにもどうぞよいおことばを捕らえていただきたいと思います。

 それでは、新年はじめの聖日にはずっと欠かさずに歌ってまいりました讃美歌「約束の地に」を歌いましょう。

 ※音声データとイラストは教会からお借りしています。
⏰5時50分更新


 

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クラシック倶楽部を聴く ジャン・チャクムル ピアノ・リサイタル

ジャン・チャクムルは1997年トルコのアンカラ生まれ。5歳頃から地方の音楽学校でピアノを習い始める。高校卒業後、パリのストラ・カントルムでマルセラ・クルデリに師事。2014年に首席で卒業。その後、トルコ、イギリス、オランダ、日本などで演奏。20018年の第10回浜松国際ピアノコンクールで優勝。

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ジャン・チャクムルのコメント
ピアノとの出会い

両親の影響で幼い頃からクラシック音楽に親しみました。演奏会には欠かさずに行きました。ときには週に何度も。そうするうちに5歳か6歳の頃ギターを弾きたくなりました。地元の音楽学校へ通いましたが、ギターには手が小さかったのでピアノを始めました。ギターは忘れました。12歳頃から講習会に参加したりコンクールに出場するうちに、これがやりたいことだと思いました。
浜松国際ピアノコンクールについて
コンクールで優勝するのは大変なことです。参加者たちは大きな負荷のかかる3週間を過ごしました。一方で皆の間には仲間意識がめばえ、これは運命だったんだと思います。
演奏で大切にしていること
演奏家はコンサート中は特に情緒や感覚をそれほど重視しません。フレーズの開始やアクセントの位置、和音の解決などを現実的に考えます。音楽を正しく理解し伝えれば自然と意味が生まれます。演奏家が音楽に意味を吹き込むのではありません。正しい文法で弾けば音楽は自ずと立ち上がります。練習や準備を重ねてそこを理解できるようにするのです。音楽の意味を理解することと、ひらめきで弾くのとは違います。

曲目

「幻想曲 嬰ヘ短調 作品28「スコットランド・ソナタ」」、メンデルスゾーン:作曲
メンデルスゾーンは1828年頃からこの曲を書き始めたといわれている。1830年に以前から交流のあった文豪ゲーテを訪問し披露された。
「ピアノ・ソナタ 変ホ長調 D568シューベルト:作曲

20歳の頃の作品。
「組曲「野外で」」バルトーク:作曲

バルトークは祖国ハンガリーの民俗音楽を用いた作品を多く生み出した。屋外での情景や光景が描かれており、自然を愛したバルトークの一面を強く示した作品である。

🎵「スコットランド・ソナタ」、第3楽章では音の饗宴に招かれているという心地よさ。「ピアノ・ソナタ 変ホ長調」の第二楽章の冒頭のあたたかさ。絶えず脳裏にはベートーベンの楽曲があったか、そんな逡巡も時折感じられて。
「組曲「野外で」」は5つの曲から成っており、1「太鼓と笛」、冒険するときの期待と興奮、一種野卑な感じも宥められ含まれているのだが、そこに捕まれたという感じなのだ。不安、慄きを底に未知の世界に分け入っていくような気分。2「舟歌」揺蕩いにも重たさ硬さが。3「ミュゼット」、4「夜の音楽」、静寂の奥から無意識の広く深い世界から湧出し、聞こえてくるような一音一音の妙。押し黙った地の底から動植物の気配を探知してゆくような。意識と無意識の狭間に浮かび映じては消えるかの音。そして現実世界に覚醒され躍り出てくる響きが印象的。今回はこの静まり返る森からひたひたと聴こえるかの音に注意深く受け取る。5「狩り」、激しい勇み足。血の匂い、血をかぎ分けるような響きも。これぞ民俗的、ダイレクトに土俗的な動きが伝わってくる。優雅で流麗なメロディーラインには遠い感覚があざとく聴く者の心を惹きつける。
 以前はバルトークは苦手だった。それがなぜいま素直に受け入れられるか。この曲が「そうだよ、現実はこうなんだ」と、顔を背けない現実直視が聴こえる。それが現代的とも感じられるところかと。
 こういった土俗的な感覚にばっと覚醒される自らに、縄文の血を嗅ぎ分けた今朝。

チャクムル使用のピアノは「SHIGERU KAWAI」

🎧名曲アルバム。グリーグ「ノルウェー舞曲第二番・第四番」

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グリークがインスピレーションを受けたハルダンゲル地方はそこはかとなく澄み切った自然景観ばかりでなく、ハルダンゲルバイオリン、白い糸での刺繍、舞踊の衣装をみても、文化が濃く、しかし爽やかに息をしている感じが。

⛳これもいつまでできるかなと。眼精疲労蓄積。しかし音楽のあれこれを書くこと自体は楽しかった。いつ終えてもこれで良し。
22時更新

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クラシックあれこれ

31日の紅白歌合戦の郷ひろみの華々しい開幕も見たけれども、「21クラシック名演・名舞台」の豪華さは!
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この方イザベル・ファウスト、ベルリン・フィルのデジタルコンサートホールで聴いて以来、個性的なドレスとともに記憶に褪せない。来日していたとは! シマノフスキ―のバイオリン協奏曲 第一番第1楽章

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九響&田中祐子。カッコいいのよね。リストのピアノ協奏曲第一番。

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東日本大震災からの被災地応援。小山さんがこの日この番組に入ってて嬉しかった!

バーンスタインの指揮がちょっと映っていたけれども、この身についた一年間のチリやほこりまで指揮棒で振り落としてくれたような。若い演奏者の方々、海外からの巨匠、そして恒例の第九と、45分の幕切れまで、一年間のハイライト版を楽しめたことに感謝!

☆  ☆  ☆

そして4日のクラシック倶楽部は、小林美恵バイオリンリサイタル。今回はアンコールがマーラーの「アダージェット」とクライスラーの「愛の悲しみ」。どういうわけかクライスラーが独特のあの音色がこころに沁みた。
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4日の名曲アルバムはフォーレのレクイエム 神の子羊
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これはフォーレが子どものときに好きだった樹木。

☆  ☆  ☆

5日のクラシック倶楽部は波多野睦美メゾ・ソプラノ・リサイタル
ちょっと写真がよくなくて申し訳ないと思いつつ。滋味あふれる歌の数々。

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5日の名曲アルバムはヨハン・シュトラウスの「美しく青きドナウ」
聴きなれてしまっているけれども、作曲の動機、歌詞はほんとうにすばらしい。
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⛳ざっと駆け足更新。今夜も冷えに冷えている。外はキンキン、カチンコチン。予報は氷点下8と出ていたような。珍しく夜更かし。23時42分更新。

 

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きょうのことば 『主はわたしの羊飼い』ー年末感謝礼拝ー

教会のメッセージは1週間遅れで掲載しておりますので、きょうは年末感謝礼拝説教です。

インマヌエル盛岡キリスト教会2021年1227()のメッセージをお伝えいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で48年目のご奉仕をしておられます。

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説教題 『主はわたしの羊飼い』 (國光勝美 牧師)
聖書朗読 旧約聖書  詩篇23
ダビデの賛歌
1 主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。
2 主は私を緑の牧場に伏させ いこいのみぎわに伴われます。
3 主は私のたましいを生き返らせ 御名のゆえに 私を義の道に導かれます。
4 たとえ 死の陰の谷を歩むとしても 私はわざわいを恐れません。
あなたが ともにおられますから。
あなたのむちとあなたの杖 それが私の慰めです。
5 私の敵をよそに あなたは私の前に食卓を整え 
頭に香油を注いでくださいます。私の杯は あふれています。
6 まことに 私のいのちの日の限り いつくしみと恵みとが 私を追って来るでしょう。
私はいつまでも 主の家に住まいます。
 

<おはなし>

 「主はわたしの羊飼い」。先ほど1年間を振り返るお祈りをさせていただきました。皆さんも、一つひとつ、アーメンと心に止めながらお祈りに和してくださったことと存じます。そして、年末感謝の今日にふさわしいみことばとして、私自身も、今年1月の元旦礼拝から教会総会まで、共に恵みをいただきました聖書の個所を振り返ってみたいと思っております。

「主は私の羊飼い」

うるわしいことばです。しかし、これは取りようによっては非常に不可解な表現でもあります。なぜなら羊飼いという仕事は、当時の社会にあって最も低い立場の人たちでした。そして私たちが羊にたとえられている。羊は動物の中で最も弱い、ある意味最も弱い。弱く愚かな、そういう動物としてたとえられています。牙もありません。ですので、「主が、私の羊飼い」というときに、何か不可解な気はするのですけれども、なるほどほんとうにそうだ。そして、深く思うことは、主イエス様は、神ご自身であられるのに、いちばん低くお生まれくださり、死に至るまで、十字架の死に至るまで従われたお方。いちばん低くなられたお方が、私たちの主なのだということ。これを心に止めさせていただきました。

  そしてダビデが「羊飼い」というのも、まことのダビデの子孫、主イエス様のことです。
 ここで私は詩篇の182節を引き合いに出します。
主はわが巌、わが砦、わが救い主、身を避ける我が岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。
 これ以上言えるだろうかと思うほど神様はこういう素晴らしい力ある避けどころです。この神様が、羊飼いだというところに大きな意義があります。どんなに大きな岩であっても、そこに交わりがなかったならば寂しいものでしょう。確かな巌、砦、救い主、盾、角、やぐらであることに勝って、羊飼いであってくださる。ほんとうにこのお方が今人格的な交わりをもって私の主であってくださるのです。

イザヤの40章11節にあります。
主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、懐に抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。
 主は大いなる巌であります。力ある角でありますけれども、主は私たちを養い、守り、導いてくださるお方だということを、御前に覚えたことであります。そして23篇の「たとえ死の陰の谷を歩むとしても」、これは人生の最もつらいときであります。それは死という避けられないものに対して、「たとい死の影の谷を歩むとしても」、「私はわざわいを恐れません」。これは強がりや思い込みではない。主イエス様の平安が約束されております。
ヨハネ1427 わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がしてはなりません。ひるんではなりません。
或いは、
ローマ831神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。
  これは強がりではない。ひとりで直面しなければならない死の間際にも、神様は仰せです。わたしはあなたと共にいる。私の平安をあなたに与える。神が私たちの味方です。何という恵みでしょうか。

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「あなたがともにおられますから。」
「主は」という呼びかけから、「あなたがともにおられますから」。 主は私の羊飼い、そうなのですけれども、主は三人称を超えて、私とあなたの関係と二人称となってくださる。「あなたがともにおられます」。

 それをどういうときに私たちは自覚するでしょうか。それは、聖霊と共に歩むとき、ああ、あなたは共におられる。「あなた」、という場合にはほんとうにくどいようですけれども、二人称、わたしとあなたがいて、けっっして彼ではないのです。そして一緒に意思が通じている。そしてこれを可能にしてくださるのは、聖霊なる神様。聖霊なる神様は私たちとともに歩んでくださるお方です。それは、いつでも私たちが砕かれやすい心をもつ、教えられやすい心を持つ。

 この二つの「砕かれやすい心」、「教えられやすい心」、これを私は神学生時代に初代の院長である蔦田二雄先生から、「クリスチャンとして、この砕かれやすい心と教えられやすい心、これはほんとうに大切な要素だ。神学校に入って、気の合う先輩や同僚ばかりではないし、指導者であっても、あんな先輩がこんな人が、というような思いを人間は、私たちは持ちやすい。自分が砕かれる、或いは教えられやすい心の状態であるために、主よどうぞ導いてくださいと祈り求めるべきである」と教えられました。 

 いまここで、語りたいのは、私たちこれから来年のみことばに備えます。その時に、これまでの自分の歩みを振り返って砕かれやすい心となるように、主の前に、みことばの前に、ほんとうに砕いていただきましょう。それから、神様の導きにある「教えられやすい心」、これは聖霊による歩みによる。「砕かれやすい心」、「教えられやすい心」というのはほんとうに大切です。このことはもう神学生時代から今に至りますまで心すべきと銘記されております。

 この二つの要素が失われたとき、人間は傲慢となり人を裁いてしまう。裁きたい糾弾したい思いがふっと心に湧いてくる。そういう誘惑がやってくるときに、ブラザー・ローレンスのはなしではありませんが、「主よ、あなたの助けがなければ、ほんとに私はこんなへまな者です」と祈る。このように砕かれ砕かれてゆくときに、きっと、あなたこそが私の羊飼いだ。あなたがともにおられると実感することになります。

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締めくくりに入りたいと思いますけれども、

「 まことに 私のいのちの日の限り いつくしみと恵みとが 私を追って来るでしょう。
私はいつまでも 主の家に住まいます」。

 主が与えられたいのちのある限り、その使命のある限り、「私のいのちの日の限りいつくしみと恵みとが私を追って来るでしょう。」

 いつくしみと恵みの神様。「いつくしみ」ということばは、神様の満足をあらわします。これは「非常に良い」。神様が天地宇宙を造られたときに、創世記131神はご自分が造ったすべてのものを見られた。見よ、それは非常に良かった」と。「非常に良い」と仰ったその言葉が使われているのです。神様が「非常に良い」と仰るそのいつくしみ、それは、創世記の14、、1012182125にも出ております。私はヘブル語ができないのですけれども、しかしこれを調べるときに、神様がこれを良しと満足されるそのいつくしみが追って来るというのです。「いつくしみ」がです。そして「恵み」、これは=憐みということですけれども、これはへセドということばが使われていて、主がイスラエルの民に対して忠実で、約束を誠実に守られる神様の愛情、これを示すことばが恵み、へセドということばです。

 この慈しみと恵みの神様が、私たちを追ってくる。これは付きまとうということば。付きまとうというと裾がからんでしまうというような、付きまとう、そういう意味合いもあるのですけれども、どうでしょう、これは悪いことではなくして、まだまだまだまとっているというように、いつまでもいつまでも追ってくる。ああ主はわたしの羊飼い、何という幸いなことでありましょうか。主の羊であるということの幸いさを、もういちど私たち、この1年を締めくくるに際し、詩篇23篇の主を振り返り、そして砕かれ、教えられやすい心をもって感謝し、主の御前に出ようではありませんか。

 

この後、厳かに聖餐式が執り行われました。

※音声データ、イラストは教会からお借りしています。
⏰6時38分更新

 

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明けましておめでとうございます!

2022年元旦

今年もどうぞ宜しく
お願いいたします!

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