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きょうのことば『言い尽くしがたき神の賜物』 (第三アドベント)

クリスマスリース イラスト素材

きょうは第4アドベント。世界中でクリスマス礼拝が行われる日です。
クリスマス、おめでとうございます!

                   

                               ☆  ☆  ☆

このページでは1週間遅れで日曜メッセージをおつたえしておりますので、きょうは第三アドベントのメッセージです。

インマヌエル盛岡キリスト教会2021年1212()第二アドベントの礼拝メッセージをお伝えいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で48年目のご奉仕をしておられます。

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説教題 『言い尽くしがたき神の賜物』 (第三アドベント 國光勝美 牧師)

聖書朗読 新約聖書  第二コリント915
ことばに表せないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。 

<おはなし>

 前回のところを簡単に振り返ってみましょう。
「ことばに表せないほどの賜物のゆえに、神に感謝します」。このおことばが2021年に与えられております。文語訳で云いますと、「言い尽くしがたき神の賜物につきて感謝す」。

 似て非なるものとして、賜物、そして報酬ということばがあります。どちらも、いただくという意味においては似ています。しかし、賜物と報酬は異なる。賜物は、一方的な神様の憐み、そして神様の施しであります。しかし、報酬というのは、自分が行ったことに対する相応の対価であり、或いは要求することができる類のものであります。「言い尽くしがたき神の賜物につきて感謝す」、これは受ける者においては大きな謙遜、そして施しを受けるということがあります。

 以前にもお話ししたことがありましたが、私が献身し牧師になろうというときに、地方の教会に一週間ほど、牧師がどういう生活をするのかを知っておくようにということで、琵琶湖の近くにある彦根教会に行きました。とても素晴らしい雪谷出身の先生方がいらっしゃいました。小さな小さな教会でありました。忘れられないことの一つが、電話が掛かってきまして、「先生、引っ越しをするので今まで使っていた家電が不要になりました。もし、よろしければ教会の方で使っていただけるでしょうか」という問い合わせでした。先生は感謝してそれを受けるために、当時のことですからリヤカーを引いて行って、冷蔵庫でしたか、大型家電を頂戴しました。一緒にリヤカーを引きながら、先生が仰ったことが忘れられません。「きみ、牧師の生活はこうやって捧げものを受けるということで始めているんだよ」。

 私は、大学を卒業してから、短い期間でしたけれども会社に勤めて、給料というものを貰って生活しておりました。ですから施しを受けて暮らすことがどんなものなのかわかりませんでした。それを学ぶ訓練であったように思います。報酬に慣れている者にとって、施しを受けるのは、ある意味違った扱いを受けることでもあると思われました。

 神学校を卒えて盛岡の開拓に遣わされました。大館町6-16のあのアパートが最初の教会でした。そこの2階で特別集会をさせていただいた。第一回目の集会で、私は初めて開拓した教会で礼拝献金というものを捧げたのです。ああ、これからは献金というもので生活をしていくのだ。その意味がわかりました。それを、私は、あの彦根での教え、訓練と共に忘れることができません。ひろ子先生と一緒に初めての献金をし、そして祝福を祈ったことはいまだに忘れられない思い出であります。

 神様が私たちに無代価ですばらしいプレゼントしてくださるというときに、私たちにすこしでも傲慢な思いがあったとするなら、或いは、貰って当然だというような思いがあったとするのならば、それはあるべき姿とは違います。私たちは貰って当然なものを受けるのではない。ただただ神様のご愛をいただくのです。「言い尽くしがたき神の賜物」を心からありがとうございますと受けることがクリスマスの意味なのです。 

 心の貧しいものは幸いです。

 自分が何か持っているから、何か立派なことをしているから天国に入れるという権利主張ではなく、ほんとうに私は貧しい者です。憐み、恵んでいただく以外に何もありませんというその心になる、それが「心の貧しいもの」です。この「心の貧しいものの幸い」を味わいたいものです。

 そして前回は、「罪の払う報酬は死です」というローマ6章23節のおことばをもとにしてお話をさせていただきました。私たちは神様の前に十戒を欠けなく行って、自分の何かで天国に入るようなものは何も持ち合わせていない。神様のスケールから見たのならば足りない、まったく間尺に合わない、欠けの多いものです。そしてサタンは、そこにつけこんでくる。「だからこのものの報酬は死以外にはない。罪の報酬は死です」と。ところが聖書はいいます。「しかし、神の賜物は、私たちの主イエス・キリストにある永遠の命です」。

 神の律法(おきて)をことごとくまもられたお方、神の律法を100パーセント満足されたお方の報酬、対価は永遠の命です。主イエス様こそ、神の律法をことごとく満足させなさったただひとりのお方です。この疵のないお方が、私たち足らざるものの身代わりとして、神の裁きを受けてくださった。私たちは自分の正しさによってではなく、イエス・キリストの贖い、十字架を私のためです、有難うございますと信じ受け入れるときに、聖霊様が私たちの心の中に、あのイエス様の十字架というものを示してくださって、ほら、ここに神様の賜物がある。受けなさい。それは私たちがほんとうの謙遜、信仰で受けるべきもの、信仰、恵みで施していただくのです。これが傲慢な人間にとっていちばんしたくない、人間の罪の極致は傲慢であるといえるのですけれども、その人間がいちばんしてもらいたくない、それはただただ憐れんでもらうというそれが罪ある人間にとっては、傲慢な人間にとっては、いちばん辛いことなんです。しかしそこに神様は、ほら、あなたのその代わりに、主がすべてのことをなさった、あなたはそれを受けるだけでいいんだ。あなたは、自分の義によって立つことなど到底できないと仰る。さあ受けなさいと言われる。聖霊様が私たちの心の中に、イエス・キリストの十字架の賜物を与えてくださるのであります。クリスマスは、まさに「言い尽くしがたき神の賜物」であります。このことを私は、前回から折あるごとに思いめぐらしておりました。

20211212-160144  その神様の賜物について、きょうは東方の博士たちが、イエス様に黄金、乳香、没薬を献げたことに思いを巡らせておりますときに、私なりに、はたと大きな逆転の発想に到りました。このようなとらえ方はこれまでしませんでした。この恵みをお分かちできたならばと、今日はこの博士たちのところを開かせていただきました。
 これはマタイの福音書2章のところにあります。東方からきた博士たち。東方とは、たぶんバビロン或いはペルシャです。博士たちというのは、世俗的にいえば、王様のような立場、或いは、知者、知恵のある者として博士たちと呼ばれ、占星術に長けていたといわれております。

 イスラエルの歴史では、ダビデ、ソロモンが栄華を極めた後、イスラエルの国はペルシャに滅ぼされてしまいました。そして彼らは国を失いペルシャに囚われの身となってしまいます。ペルシャに囚われの身となった人たちには、もうダビデ・ソロモンの時代のあの神殿がありませんでしたので、彼らは神殿ではなく聖書をよりどころとして、バビロンの人たち或いはペルシャの人たちとは異なったまことの信仰を持ち続けました。簡単に申しますが、そこの王たちは、囚われとなったユダヤの人たちが、自分たちの持っていない真実なものを持っていることに気づきます。そして、彼らの持っている知識を占星術と合わせてみるときに、彼らが読んでいた旧約聖書の民数記24章17節「私には彼が見える。しかし今のことではない。私は彼を見つめる。しかし近くのことではない。ヤコブからひとつの星が進み出る」、このおことばでありますが、彼らは、やがてあのユダヤの人たちのところにすばらしい救い主が生まれることを、彼らは彼らなりの乏しい光の中で、真理を求めておりましたときに、この大きな星に導かれることになりました。そして彼らは、このお方にお会いして自分たちの持っている最良のものを献げようではないかと話し合い、彼らは対応したのであります。

 詳しいことは省略いたしますけれども、博士たちは星に導かれ、エルサレムのヘロデ王の宮殿に行き、王様おめでとうございます、王子様がお生まれに、と言ったところが、ヘロデは自分以外の王が生まれたとなれば生かしておくわけにはいかないと、博士たちには行って拝んできなさい、おがんできたならば私のところに戻って、どこにその幼子がいるのか知らせなさいと言いながら、その幼子を殺そうと思っていたわけですが、ともかく、博士たちはその星に導かれて黄金、乳香、没薬を幼子にお献げいたしました。

 これらは、ほんとうにすばらしい価値のある宝物でありました。黄金というのは、王様の位、王権を象徴するものといわれます。それから乳香、これは、高い神殿において香を焚いて天にその香りを伝えるという意味で、天と地をつなぐもの、祭司としてこの立場を象徴している。そして没薬、これは腐敗を止める。これは、死を表わす。死んだときに腐敗を防止するための没薬というものであります。これを私たち思いますと、この幼子がこの地上にお生まれになった意味を、この博士たちは、自分たちの捧げものを通して言い当てているといえるでしょう。この方の使命を、私たちの今の光から見るのならば、まことの王として、そして、神と私たちとをつなぐ大祭司として、そしてイエス・キリストの十字架の贖いを成就するもの、このように理解することができます。

 これを私は発想の大転換と、今日お伝えしたく願っているのです。

 この博士たちは、どうか心からの愛をお受けくださいとこの幼子に贈り物をいたしました。そして勿論この中の意味するものとして、このクリスマスのとき、私たちは自分たちの持っている最大、最上のものを献身の思いをもって主にお献げいたしましょうというメッセージは、それは素晴らしいものだと思うのです。しかし、私はこのように発想を転換してみたのです。このクリスマスのできごとは、神様の側から、神様が私たちのような人間に、私たちに、どうかこの心からの愛を受けてください。神様の方から私たちにどうか受けてくださいといってご自身を差し出してくださった本当の礼拝というものの模範をあらわしてくださった、このように思うのです。

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 そして、その三つのものは、まず第一に罪の赦し、そして罪のきよめ。いうのならば、神様は私たち人間に罪というもの、これをほんとうに解決してくださる、その賜物を与えてくださった。どうかこれを受けてください。

 私は戦争を経験したことはありませんが、私の父は満州の方で戦争を経験しております。私の叔父も同じく満州で経験しております。私は叔父のことばを忘れることができません。何回もお話しするように、私は満州から引き揚げてきた両親の間で、日本で生まれました。そして、学校に進ませていただき、そして、一応それなりの就職をすることができた。両親とすればほっとしたときに、こんどは私が会社を辞めて、神学校に行きたいと言ったとき、私の両親もそうでしたけれども、同じように満州の方で苦労してきました叔父たちは、私が神様に献身したいといったときに、田舎の言葉ですが、「てめえはな」。それを聞く私はまだ若造です。20歳超えた程度。「てめえはな、牧師になるって言ってるけど、人間がどんなものか知ってるか。俺はなア、満州で人間というものがどんなに穢いか、ほんとに知ってるんだ」。ここで語ることも控えねばならないような、人間のほんとうに穢いところ、それを叔父はわたしに「てめえはな、それを何にも知らねえずら」、そういって激怒しました。そして、もう一つ、私の父は、その頃でしょうけれども、夜、時々うーっとうなされるときがある。それが何なのか言わない。けれども、おそらくこれをお聞きくださっている方々は、私も父からそのことを聞いたわけではありませんけれども、叔父のはなし、戦争を経験している者たちの、人間というもの持っている本当のどろどろした醜いもの、そのものを神様がほんとうに救おうとされたとき、イエス様は、叔父が或いは満州で父がというか、人間の持っている罪のどろどろしたいちばん汚らわしいものを、イエス様はぜんぶ、罪のないきよいお方がその身に背負ってくださった。あまりの醜さにあまりの穢れに十字架の上のお方を父なる神様はもう直視することができなく、やみになってしまったということがありましたでしょう。あの時にイエス様の十字架は人間の罪というものをぜんぶことごとくそこに受けてくださった。そのときのイエス様は神から捨てられたのです。

「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マルコの福音書1534節)
 イエス様はこのように声を発せずにはおられなかったほどの罪を引き受け、そしてイエス様がそれを成し遂げてくださったときに、
「成し遂げられた」(ヨハネの福音書1930節)
 罪に関わるすべての解決はわたしがぜんぶ引き受けてこの十字架の上で成し遂げましたという意味です。

 ですから3人の博士たちは自分たちの持っている最上のものを差し上げましたけれども、こんど、立場を、発想を変えて神様は私たちに、私たちがいちばん必要としている罪に対する全き赦し、そして罪というものに関わるきよめ。これもイエス様がぜんぶここで受けてくださった。すべてが終わった。神様はほんとうに身を低くして飼い葉おけの中に、貧しさをぜんぶその身に背負いながら、さあ、受けてください。神様が私たちに、さあ、受けてください。誤解を恐れずにいうのならば、神様の方が私たちにひざをついて、私はあなたを愛している。だから、どうかこのお方を、この十字架の贖いを私が備えた最善のものを受けてください。その促しに応えたときに、私たちの心の中には、信仰と希望と愛が満ち溢れたものとなります。

「言い尽くしがたき神の賜物」、これを私たちの心の中に、聖霊様は、きょうのこのメッセージが、ただ宗教的なお話しというのを超えて、ただそうではなくして、聖霊様は私たちに、イエス・キリストの十字架の救い、そして罪の赦し、罪のきよめ、永遠の神のいのち、そしてここに愛がある。これをぜんぶ私たち心の中に、私たちアーメン、有難うございます。神様が遜って私の前にご自身を注ぎだしてくださいました。有難うございます。神様が身を低くしてくださったこれを、私たちは心から感謝し、受け、そしてそれゆえに希望を持ち、神の愛に満たされた生き方をさせていただきたいと心から願っているところであります。

 

 ※音声データ、画像は教会からお借りしています。
⏰5時48分更新


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