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きょうのことば『愛の溢れたクリスマス』 第一アドベント

クリスマスリース イラスト素材

インマヌエル盛岡キリスト教会2021年11月28日(日)第一アドベントの礼拝メッセージをお伝えいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で48年目のご奉仕をしておられます。

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説教題 『愛の溢れたクリスマス』 (第一アドベント 國光勝美 牧師)
聖書朗読 新約聖書  ヨハネの手紙第一 4章7~12
7
愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。
8 愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。
9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によってわたしたちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。
10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。
12 いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。

 

<おはなし>

 この朝は『愛の溢れたクリスマス』という説教題で、みことばのご用に立たせていただいております。

 第一アドベント、第二アドベント、第三アドベントというように、クリスマスの前の聖日を私たちはアドベントと呼んでおります。待降節という表現も同じであります。このアドベントというのは「来臨」です。これは尊い方がおいでくださるという意味のことばが用いられます。おいでくださる。それは私たちの救い主イエス様がこの世に臨まれる、おいでくださるということを当然ながら意味します。
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 私たちは、神様がこの世界を、或いは、この歴史の始まり、そして締めくくりまでをすべてご支配してくださる。神様の「経綸」ということばを用いますけれども、神様は私たちにすばらしい計画をお持ちくださいました。そして、救い主が私たちに与えられるというとき、私たちの今の時代から見るのならば、2000年ほど昔、神のひとり子が天からこの世においでくださった。これがアドベント、クリスマスのときにおいでくださった。しかし、これだけではなくして、もう一つ、このお方はやがて、こんどは王の王、主の主としてこの世においでくださる。アドベントしてくださるのです。

 私たちがふつうアドベントというときには、イエス様のご降誕を意識する。それは当然ですけれども、しかしそれが、過去において事実であった神様のご計画、ご経綸の中に、こんどは私たちから見て、将来、王の王、主の主として神様はおいでくださる。そのことを心にとめながら、先ず今の私たちは、クリスマス直前の4週間、クリスマスを待ち望む準備期間として、いよいよこのときをお迎えしたわけであります。 

 聖書のいちばん最後のところですけれども黙示録22章16節、イエス様はご自身を、「わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である」といっておられます。明けの明星、これは暗いところにいちばん明るく輝く金星ですけれども、明けの明星、そのように主イエス様はおいでくださいました。そして再臨のときは、第一コリント第15章24、25節「キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、王国を父である神に渡されます。すべての敵をその足の下に置くまで、キリストは王として治めることになっているからです」

 クリスマスのとき、博士たちは星に導かれ、羊飼いたちは星に導かれました。このお方がクリスマスのとき、人としてお生まれくださいました。そしてこのお方は、もういちど、こんどは輝く太陽が昇るように、第二降臨のときには、つまり再臨のときには、王の王、主の主としておいでくださるということを、どうぞこのとき私たちの心にとめさせていただきたいと思うのであります。

 さて、きょうはそのアドベントのはなしでありますが、よくクリスマスのときに、赤とグリーン、緑がリボンとして結ばれていたり飾られていたりしています。ほんとうは皆さんがおいでくださるとき、教会にお入りくださるときに、アドベントのクリスマスのカラー、そしてリースがいま飾られておりますけれども、赤は神の愛とイエス様の十字架の血による贖いを象徴しています。また、緑の色は永遠のいのち神様の永遠の愛をあらわすものとしてクリスマスカラーとして私たちは用いておりますけれども、これがリースというときには、始めがなく終わりがない、永遠のというそういうことが心にとめられております。どうぞクリスマス・アドベントのとき、それぞれのおうちに、ゆるされたのならば、このリボンをつける。そして、クリスマスのリースを用いていただき、或いは、おへやにこれを飾っていただいたのならば、クリスマスに相応しいのかなとこのようにも思っております。

 私は、「愛の溢れたクリスマス」、これをきょうアドベントの第一聖日のとき導かれたように思います。

 クリスマスのできごととして、聖書で、たとえばマタイの1章を思います。ヨセフにみ使いが現れて、「恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです」。こういってヨセフを励まして、そしてヨセフはその通りにしました。ルカの福音書2章をご覧いただきますと、まさしくクリスマスの、私たちの親しんでいるあのできごとが記されてあります。これらを毎年毎年思いめぐらしますとき、クリスマス、これは、ほんとうに「愛の溢れたクリスマス」です。
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 今日私は讃美歌を選びますときに、「心を熱くしてという」という福音讃美歌の56番を、プログラムを作る特権として選びました。それは私にとりましては、忘れられない讃美歌、クリスマスになると思い起すのです。学生時代の御茶ノ水で1968年11月に、このイエス・キリストの十字架の意味を初めて知らさせていただきました。そして救われて信仰を持って1か月後はもうクリスマスのときであります。御茶ノ水の当時の学生キリスト教会館でもクリスマスのメッセージが取り次がれておりました。そんな中に、この讃美歌が歌われました。O how I love Jesus. Because God loved me first 「こんなに私はイエス様を愛してます。それは神様がまず私を愛してくださったからです」というこの讃美歌が、繰り返しくりかえし流れておりました。
8 愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。
9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によってわたしたちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではな10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

 世の中では、クリスマスがまったくこのこととは離れて祝われている、というよりも利用されているというのがほんとうでしょうけれども、毎年この時期、私もかつてはクリスマスというのは、そういう日なんだろうと思っていました。たとえば盛岡駅で多くの方々にランダムにマイクを向けて、クリスマスってどういう日か知ってますかと訊いてみたとしたなら。ケーキを食べる日とか、サンタクロースの生まれた日だとか、そんな答えが珍しくなく返ってくるだろうと思います。そのときに、イエス様がこの世に救い主としてお生まれくださった日と答えられる方は何人いらっしゃるでしょう。

 神様の愛をほんとうに知ることができた私にとりましては、1968年11月16日のあのときから、神様のご愛をアーメン、有難うございます、こんな者のためにと言うことができるようになりました。勿論信じた当初は聖書を読んだことがありませんでしたし、聖書に関してほとんど無知でしたけれども、それはそれでいいのです。ただ神の愛をそのとき、気づかせてくださって、それから今日までその意味の深さ、大きさ、高さ、長さを知らされてきています。それらのことは成長の問題です。救われたとき、信じたときにはまったく何もわからなかった者ですけれども、年ごとにイエス様のご愛を深く深く知りますとき、そうだ、愛のない者は神を知らない。神は愛なんだから。こんな者のために、ひとり子をこの世にお遣わし下さった、ありがとうございます。この神様の愛の溢れたクリスマス。それを、こんどはすこし角度を変えて、ヨセフに見ていきたく思います。

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 マリアの懐胎、これがヨセフの思い悩むことであるということをたぶんご想像いただけるでしょう。これからともに生きていく伴侶者が、何とすでに身ごもっているということを知ったヨセフはほんとうに苦しんだと思います。マリアを慮って愛している者にとったならば、こんな苦悩はありません。また払拭しようとしてもまたしてもまたしても心の中に広がりゆく疑惑の雲。私たちは2000年の昔のこのようなことで知っていますけれども、どうか、ヨセフのこのときのことを自分のこととしてご想像ください。どれほど苦しんだことか。そして恐れです。マリアを愛していればいるほど、この三つのことばだけでは到底あらわしきれないヨセフの心の中の葛藤、苦しさ、突然やってまいります。これはわたしたちが信仰生活を歩んでおりますときに、さまざまなできごとに直面して、できたらばこのような問題は避けたいと思いながら、避ける事のできない人間関係があったり、そのほかのできごとに直面いたします。健康的な課題ということが突然やってくるかもしれません。さまざまなそういったできごと、苦難。ヨセフにとってはまさにそうでしたけれども、そのときに、ほんとうのありのままの人間が現れてくるのです。そのときに私たちは、ほんとうに神様を呼び求める者とされます。もうこれは理屈を超えて苦難や試練に私たちが直面いたしましたときに、本当の意味で自分が持っている信仰というものをベースに心の底から主よと呼ばわる。詩篇のきょうの30篇を思い起してもいいかもしれません。ほんとうに苦しみの中で主よ!

 どうか試練や苦しみ、悲しみ、そのようなときに、これはもういちど神様を主よ! と呼ぶ者とされているのだ。ヨセフはそのときを、このいちばん悲しい辛い苦しいときに真実に神を呼び求める者となりました。そしてさらに、いうのならば、私たちはほんとうに2000年もあとのすべてのことを、聖書を通して知っているから言えるのですけれども、それは結果のことであって、このときのヨセフ、マリアのことを思えば思うほど、自らの足りなさ、自らの弱さ、これを決定的に扱われるとき。私たちはそうです。人を批判したり、さまざまなそういったできごとに、直面しようとするときに、ほんとうに神様の前に出ようとするときに、あなたはどうなんだ。自分自身の在り方、そのことと真剣に向き合わされるとき。そうです。私たちが思いがけない試練に苦しみに直面するのは、自分自身の本当の弱さ、ほんとうの自分自身にしっかりと向き合うとき。このとき気を付けませんと悪魔がやってきて、そうだ、だからお前はダメなんだ。と私たちに誘惑してくるでしょう。でもそのときに、ご聖霊様は違います。そのような真実な神様の前に出るときに、聖霊様は、そうあなたは弱い。あなたは自分の力でそれをしようとしてもダメですよ。だから、神様にいつでも心を向けて、神様の臨在の中を歩むように。そのようなときに、もういちど自分自身をしっかり見つめ、自分の頑張りでは到底間に合わない、そのことを聖霊様によって、だからこそ、神様、あなたが、あなたでいらっしゃる。我は主にして、あなたを癒すものなればなり。神様の臨在の中を歩む者とされる。このとき、ヨセフが徹底的に神様の前に扱われたからこそ、この後ルカ2章に続くさまざまな苦難、クリスマスのできごとに、ヨセフがヨセフとして、その歩みを神に喜ばれるものとしてされたに違いありません。

 愛する者たち、神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。
マリアを心から受け入れ、尊敬し、そしてともに主の臨在の中を歩むこと。どうか私たちもまた、「互いに」というとき、一番近いのは夫婦関係かもしれません。一番近いのは家族関係でしょう。また一番近くあるのは職場であるのかもしれない。さまざまな方々の中に私たちは囲まれて生きていますけれども、神様のひとり子をたもうほどの愛を知らされた者として、愛する者たち、神がこれほどまでにこんな私を愛してくださっているのですから、私たちもまた互いに、どうかクリスマスのときに神様と私たち、上と私たちという上下の関係ではなく、互いにという横の関係をしっかりと捕らえ、自らを悔い改め、自らの頑張りを捨て、そして神様により頼む、神の臨在の中を歩ませていただく、ヨセフに倣うクリスマスの過ごし方をさせていただこうではありませんか。

 

このあと、厳かに、聖餐式が持たれました。

 

データは教会からお借りしています。
⏰7時6分更新


 

 

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