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2021年12月

211231 クラシック倶楽部を聴く 上野耕平 サクソフォン・リサイタル

出演】上野耕平,高橋優介「ファンタジー」ベダール:作曲,(ソプラノ・サクソフォン)上野耕平,(ピアノ)高橋優介ほか。20191124日兵庫県豊岡市民会館文化ホール。ー番組紹介よりー
 豊岡市はコウノトリの保護で有名。コウノトリが傷を癒したという伝説のある城崎温泉は奈良時代からの名湯がある。

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上野耕平1992年茨城県出身。ベルギーの第6回アドルフ・サックス国際コンクール第2位。
高橋優介1994年千葉県出身。第10回東京音楽コンクール第1位。上野耕平とは2010年から共演。
上野耕平のコメント
トマジの曲については、秋は僕、いちばん好きなんですけど、冬に向かう何とも言えない美しさというか、何とも言えない寂しさ、この秋の匂いが大好きで、僕が好きな音楽はわりとそういう音楽が多い。いい音楽だなと思うのは、夕焼けっぽかったり、秋っぽかったり、散っていく美しさと言うのかな、枯れていく美しさというのがトマジの曲からも感じれると思うので、人間のこう明と暗を描いているような、それを音楽でうまく表現しているというか、なんかこう、背中から漂う哀愁みたいなものを感じる曲ですかね。

フランクのバイオリン・ソナタについては、理想はあたかもサクソフォンのために書かれたかのように聴こえてほしい。ピアノパートがとても充実してて、今回共演する高橋君はバイオリンとはもう数多く共演しているんですが、サクソフォンとははじめてということで、バイオリンだとどうしても音量の問題でどうしてもピアノはおさえなくてはならないところがあるんですが、サクソフォンの場合はそういう心配は一切要らないので、ピアノものびのび弾いてくれると思うので、きっとバイオリンとピアノで聴けるフランクとはまた違ったフランクのバイオリン・ソナタを聴いていただけるんじゃないかと思います。

 

曲目 

ベダール:ファンタジー
D.ベダールは1950年、カナダに生まれた作曲家で、オルガンの作品が有名。
ファンタジーは1984年に作曲された作品で、サクソフォンの、特にソプラノ・テナーサクソフォンのレパートリーの中で有名で重要なものとなっています。
トマジ:バラード
アンリ・トマジ(1901-1972)はフランスのマルセイユに生まれた作曲家で、1927年には、当時の作曲家にとって最高の栄誉とされた「ローマ大賞」を得ています。この曲は1939年に作られ、作曲者の親友で当時世界最高のサクソフォーン奏者として活躍していたマルセル・ミュールに捧げられました。
 タイトルにある「バラード」とは、もともとは詩の一形式を表わす言葉でしたが、18世紀以後は、物語の内容を持った器楽曲のタイトルにつけられるようになりました。このトマジ作曲の「バラード」も楽譜にはS.マラールの詩が添えられています。マラールの詩の内容はとても叙情的なもので、曰く「ためらいがちに鳴り響くサクソフォーン」がひとりの道化師を苦悩と絶望から立ち直らせるものとして登場します。
フランク:バイオリン・ソナタ
ふつうはバイオリンとピアノで奏されることが多いこの曲を、上野がアルト・サクソフォンで演奏。

 

🎵私は自分でもサクソフォンをよく理解できていないと自覚しているけれども、コメントを聞いて、聴くにあたっての〝視点〟が定まり理解しやすくなった。トマジの「バラード」、拘泥することなく頓着することなく、角にぶち当たることもなく流れゆくのだが、しだいに秋、たたずんで水底の枯葉を見、秋の華やぎ紅葉を見まわし、自分は自分だという立ち位置を見出して閉じたような。フランク「バイオリン・ソナタ」、サクソフォンの方はバイオリンよりも切々感が高らかに訴えかける効果があるように感じられる。

🎧名曲アルバム。チャイコフスキー「くるみ割り人形」

 

⛳きょうの上野さんの写真は取り損ね、前に載せたものを貼り付ける。
ことしの最後の写真は次の番組の田中陽希さんの写真、聖岳を目指す場面。
気象条件を見極め、難所をも、注意深く淡々と行程をこなしていく。カメラ目線あるも、一心にただ自らに挑戦し続けている。

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10時58分更新

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211230 クラシック倶楽部を聴く 小林沙羅&山本耕平 デュオ・リサイタル〜福島県棚倉町公開収録

(ソプラノ)小林沙羅&(テノール)山本耕平 デユオ・リサイタル
(ピアノ)河原忠之
2020125日福島県棚倉町文化センター倉美館 公開収録~

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曲目
「この道」。北原白秋:作詞、山田耕筰:作曲
(ソプラノ)小林沙羅、(ピアノ)河原忠之
「くちなし」。高野喜久雄:作詞、高田三郎:作曲
(テノール)山本耕平、(ピアノ)河原忠之
「或る夜のこころ」。高村光太郎:作詞、中村裕美:作曲
(ソプラノ)小林沙羅、(ピアノ)河原忠之
「四行詩」。中原中也:作詞、泉谷閑示:作曲
(テノール)山本耕平、(ピアノ)河原忠之
「小さな空」。武満徹:作詞、武満徹:作曲
(ソプラノ)小林沙羅、(テノール)山本耕平、(ピアノ)河原忠之
「喜歌劇「ほほえみの国」から「きみはわが心のすべて」」。レハール:作曲
(テノール)山本耕平、(ピアノ)河原忠之
「喜歌劇「チャールダーシュ姫」から「ハイヤ!山こそわが故郷」」。カールマーン:作曲
(ソプラノ)小林沙羅、(ピアノ)河原忠之
「歌劇「椿姫」山本耕平から「燃える心を」」。ヴェルディ:作曲
(テノール)山本耕平、(ピアノ)河原忠之
「歌劇「椿姫」から「さようなら 過ぎ去った日よ」」。ヴェルディ:作曲
(ソプラノ)小林沙羅、(ピアノ)山本耕平
「歌劇「椿姫」から「パリを離れて」」。ヴェルディ:作曲
(ソプラノ)小林沙羅、(テノール)山本耕平、(ピアノ)河原忠之
「歌劇「椿姫」から乾杯の歌「友よ さあ飲みあかそう」」。ヴェルディ:作曲
(ソプラノ)小林沙羅、(テノール)山本耕平、(ピアノ)河原忠之
Con Te Partiro Time to say goodbye)」。クアラントット:作詞、サルトール:作曲
(ソプラノ)小林沙羅、(テノール)山本耕平、(ピアノ)河原忠之

🎵聴き終えて、この時間でほんとうにこれだけたくさんの曲を聴いたのかなと曲目をたどってみると、聴いている、聴いている、たしかに聴いている。それだけ聴く側が充実感を得ることのできた演奏だった。小林沙羅が有名な曲、あまり有名ではない曲との取り合わせプログラムといった紹介があったが、確かに。山本耕平が「四行詩」について、なかなか演奏されない曲であり、放送されるのは初めてでは、と。日本の歌はすくない言葉でも行間を膨らませてくれる力があるとのことだったが、いつしかそれを忘れており、そういった味わい方を忘れていた。河原忠之が、日本語の美しさが伝わればと語っていた。
興味津々の「四行詩」、

おまえはもう静かな部屋に帰るがよい。
煥発(かんぱつ)する都会の夜々の燈火(ともしび)を後(あと)に、
おまえはもう、郊外の道を辿(たど)るがよい。
そして心の呟(つぶや)きを、ゆっくりと聴くがよい。

曲がやや平板という感じもするのだが、中也の詩が廃れない限りは生き続けるのだろう。野口雨情が、詩が生き続けるには、良い旋律で、人に受け入れられるメロディーで歌われ、歌い継がれることだと。曲によって生き残る詩もあれば、詩によって生き残る曲も。
福島入りのお三方、やはり震災のことにも触れ、頑張れという心でピアノを弾きたいと河原忠之さん。
オペラのデュエットは楽しかった。小林沙羅、ダンスもなかなか。手の指先の動きも。とにかく華がある。熟年に達するまでに、多くのファンタスティックな、コミカルな、時にはおどろおどろしげな、グロテスクな役柄をたくさん歌ってほしい。山本耕平のテノールとソプラノとの響き合い、とにかく後半は圧巻だった。
 盛岡ではオペラ講座というのが年一回、5回講義で開かれているけれども、この講座で「椿姫」が取り上げられたことがあり、それからはぐんと身近に楽しむことができるようになった。その講座で歌ってくれた岩手大学の学生たち、いまは教員として活躍しておられる方々、その中には作曲コンクールで2位だった方もいらっしゃるのだけれども。この方はピアノ伴奏。とにかく市民のためにこの講座に協力くださっている方々、またいつも私が楽しみにしている在原泉さんらが来て歌ってくださるのだ。講師は佐々木正利氏。おかげでこうして楽しむことができる。TVも有り難いが、地元のこういった方々にも感謝!

 

🎧名曲アルバム。ワーグナー「ニュルンベルクのマイスター・ジンが― 前奏曲」
広上淳一&N
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年創業のカフェ・ラヴェーナはワーグナーがよく立ち寄ったカフェ。2階の一番隅が彼の定席。静かに紅茶やコニャックを楽しんだとか。
当時上演のめどが立たず中断していた「ニュルンベルクのマイスター・ジンが―」の完成を彼に目指そうと駆り立てたのはサンタ・マリア・グローリオ―ザ・デイ・フラーリ聖堂にあるティツィアーノの絵画「聖母被昇天」であったという。

⛳ことしのクラシック倶楽部はこの華々しいオペラアリアで終わるかと思いきや、明日もあるようだ。何か1年間この音楽の世界に生かされ豊かにしてもらったという感じが。これも一つの非現実世界、生で聴いて観ているわけではないので。バーチャルな分が非現実感覚となってのこってもいる。ただこれがあるとないとでは、精神世界が大きく違っていただろうという気がする。
17時5分更新

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211229 クラシック倶楽部を聴く アンサンブル天下統一

アンサンブル天下統一 関東初公演!栃木県壬生町公開収録日本を代表するバイオリン奏者長原幸太、ビオラ奏者鈴木康浩、チェロ奏者中木健二の実力派弦楽トリオによる、至高のベートーベン&モーツァルトの世界なぜ天下統一?インタビューで語るベートーベン 弦楽三重奏曲 ハ短調から第1楽章、モーツァルト ディヴェルティメントK.563から ほか2019年10月25日城址公園ホールで収録番組紹介よりー

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アンサンブル天下統一は、愛知県岡崎市シビックセンターのレジデントアンサンブルとして2014年に結成される。チェロの中木健二が徳川家康の出生地である愛知県岡崎市出身であるところかららしい。中木はキングレコードよりCD「美しき夕暮れ」および「J.S.バッハ:無伴奏チェロ組曲全曲」(「レコード芸術」誌・特選盤)をリリース。紀尾井ホール室内管弦楽団メンバー。第11回名古屋音楽ペンクラブ賞受賞。使用楽器はNPO法人イエロー・エンジェルより貸与されている1700年製ヨーゼフ・グァルネリ。ついでに日本音楽財団所有の名器はこちら
 読売日本交響楽団コンサートマスターの長原幸太のバイオリン鈴木康浩のビオラ。鈴木康浩は2001年よりドイツのカラヤン・アカデミーで研鑽を積んだ後ベルリン・フィルの契約団員となり、04年秋帰国。現在読売日本交響楽団ソロ・ヴィオラ奏者。読響との関りが深い三重奏団。久方ぶりに読響の頁も訪問。

3人のコメント
「天下統一」というネーミングには二つの理由がある。一つは岡崎市が家康のゆかりの地であることから、地元に根付いた活動をという意味で天下統一。もう一つは、演奏会って、どうしても一回ホールに出向いてそのとき出会った人たちと演奏して、そのときに来てくださるお客さんに聴いていただいて、一回きりというのが多いんですけれども、室内楽っていうほんとうにフレキシブルな音楽の形態を利用することで、音楽をもっと身近に感じてもらって、作曲家、作品そのものに興味を持っていただくことで、音楽に興味を持ってもらうという活動そのものが、じわじわ浸透していく。それを岡崎発信でいろんなところに広めていって、行くゆくは天下を取りたいというのが、アンサンブル天下統一の名前の由来です。
ほんとに少年のころから性格は知ってて、演奏もうまいなと知ってる。うまい人たちが6年前に結集したから、ほんとうに友達の方が先という感じ。何でも言うし、何でも受け入れるし、だからそれが楽だしおもしろい。
音楽に対してはすごくまじめで、だからみんなそれぞれの曲に対して思い入れか、あとは造詣の深さがあるけれども、やっぱり音楽というのは生き物だから、その時、その都度、同じ曲をやってもちょっとづつ違うんです。そのときにどれだけフレキシブルの中で音楽を一緒に作り上げられるかというときに、この3人は抜群に相性がいいです。だからみんなそのことがフレキシブルにできるし、イメージの共感をするのも速いし、でも各々のイメージは常にしっかり持っているから、そういう融合がおもしろいんじゃないかなと思う。
天下統一するというさっきのその自分たちがやってる活動をいろんな方に共有してもらうということが勿論目標ではあるんですけど、焦らずというか一つづつやっていることに共感してもらったり、自分たちが、今日みたいな来たことのない場所に来て、演奏会で多くの人々と出会って、つながりができて、またその信頼関係から次に演奏する機会があってというように一つづつ積み重ねていきたいので、
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人でやることによって、3人でやる音楽の深みが好きだし、どんどん増えていけば。それでさらに生まれるものを探していけば、一人ひとりとか、それぞれは活動しているんですけど、やはり3人いると全然違う。
何でも3という数字はいいこと、歴史のはなしでいけばね。3本の矢、毛利元就か。やっぱりそれでみんなで作って行って、100歳ぐらいで全国統一。

曲目
弦楽三重奏曲作品9 第3から 第一楽章 ベートーベン作曲
ディヴェルティメント K563  モーツァルト作曲

🎵ヴェルティメントK.563、これが第6楽章まである。モーツァルトの楽興がノリにノッテいたのかな、まだまだいけると第6楽章までなのか、最初から1~6楽章を見通しての構築であるのか、いずれ、これが「ジュピター」を作曲してすぐにまた作曲されており、埋蔵量はかり知れぬ音楽油田というよりは音楽の泉というべきか。 

wikipedia:モーツァルトはディヴェルティメントと題した曲を20曲以上作曲しているが、弦楽三重奏の形態をとるものはこの変ホ長調K.563のみである。このK.5636つの楽章からなり「ディヴェルティメント」と題されてはいるが、ディヴェルティメントに特有の娯楽性を目的としたもののみならず、もっと高い音楽性を指向しているのが特徴である。室内楽曲としての書法としては弦楽四重奏からヴァイオリンを1本欠くため難しくなるが、各楽器を均等に扱いつつ精緻な作曲技法を施し、構成的にもしっかりしたものにすることにより、モーツァルト晩年らしい作品になっている。演奏技術的にも高いものを要求し、各楽器は時には協奏曲のような妙味も見せ、モーツァルトの他の弦楽四重奏曲などより難度は高い。

 

🎧名曲アルバム。徳島県民謡、松崎雄一編曲「祖谷の粉引き歌」
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落ちのびるときにも琵琶を捨てなかったのだろう。滝つぼで奏で楽しんだという。平家の落人、全国各地の山里深くに入り込み籠って生き延びてきたことに落涙。標高1,000メートルの山々の急斜面に畑を作り、女性たちは昼間は厳しい農作業、夜は粉を挽く仕事が課せられていたようだ。
久方ぶりに琵琶が聴きたくなる。

⛳この雪の中、遠くに救急車の音がしている。20時22分更新
写真は自宅前の雪景色。20時26分
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211228 クラシック倶楽部を聴く 金子三勇士 ピアノ・リサイタル

自然豊かな中標津町で行われた金子三勇士のピアノ・リサイタルからショパンの名曲「革命」「雨だれ」やリストの「ラ・カンパネラ」「ピアノ・ソナタ」を熱演6歳からハンガリーで学んだ金子三勇士のバルトークやリストについてのインタビュー2019年6月16日北海道・中標津町総合文化会館での公開収録番組紹介よりー

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金子三勇士
1989年日本人の父とハンガリー人の母とのもとに生まれる。6歳からハンガリーと日本で音楽を学び現在は国内外で活動。6歳のとき単身ハンガリーに渡る。数々のコンクールで優勝。国内外のオーケストラと共演するほか、ソロ、室内楽でも活躍している。
コメント 中標津はハンガリーのような風景。6歳から自分自身もハンガリーの祖父母の家、山の奥の何にもないところで暮らしてたんですけど、その景色にものすごく似てますね。遠くの方に牛さんがいたり、自然の中だったからこそ、ピアノと向き合う時間も自由に取れましたし、たぶん、音楽的なイメージをするとき、作品を弾くときに景色をイメージするときというのは、ある意味で自分の原点ですよね、この自然豊かな環境は。
リストはバルトークの次に音楽世界を感じさせてくれた作曲家で、バルトーク音楽小学校の次には、リストが立ち上げたリスト音楽院で5年間学ばせていただいたんですが、如何に彼が偉大な作曲家、偉大な人物だったかというのを意識させられたことがとてもよかったかなと思いますし、一人でも多くの方々に本来の、本当のリストのすがたを知って欲しいなという思いで、今回も多めにリストの作品を選んでみました。
今回、後半のプログラムには、リストのロ短調ソナタという31分ぐらいの長い作品を選んでおり、最高傑作と言ってもオーバーじゃないかなと思ってるんですけど、彼の人生観、或いは音楽家としての生き方、人間としての生き方、すべてが詰まっているような作品でして、18歳の時に弾いたこのロ短調そなた、或いは20代の時に弾いたロ短調ソナタ、で、この先、30代、40代、50代、何歳まで生きるかですけど、70代、80代で弾いたロ短調ソナタがどういう風に変化していくのかというのを、ずっと人生をかけてお付き合いしていく大事な曲かなと思っていまして、10年ごとのこのロ短調ソナタを皆さんに是非楽しんでほしいなと思います。

曲目

☆「「ミクロコスモス」から「オスティナート」」バルトーク:作曲
「練習曲 ハ短調 作品1012 「革命」」ショパン:作曲
「前奏曲変ニ長調作品2815「雨だれ」」ショパン:作曲
「「パガニーニによる大練習曲」から「ラ・カンパネラ」」リスト:作曲
「ピアノ・ソナタ ロ短調」リスト:作曲

🎵2019年6月16日の収録ながら、この緑の豊かさ、ゆったりとした家畜、飼い犬とともにある暮らしにしばし癒される。中標津町は酪農の町。飼育頭数は人口よりも多い。人口は23,000。郷土館には開拓時代からの品々が展示されている。本格的な開拓が始まったのは明治末期。1937年標津線開通。1989年標津線廃止。50年以上も暮らしと共にあった駅がなくなる思いはどんなものだったろうか。苛酷な開拓と共にあった駅舎が消えた日。しかしその跡地に中標津町総合文化会館しるべっとホールが建てられたのだ。

この中標津まで来てくれた金子三勇士は国際派の若手ピアニスト6歳で祖父母のハンガリーの田舎の家からバルトーク音楽小学校に、11歳でリスト音楽院に通学。中標津の風景を歩む金子に、ハンガリーの祖父母の田舎の風景が重なる。演奏するときの彼の原風景だ。
 けさはバルトークの「オスティナート」に風通しの良さ、新しさを。熱を帯びた「革命」、左手に淡々と落ちる雨粒が際立つ「雨だれ」、そしてリストの「ラ・カンパネラ」は鐘の下で暮らす人々の面影も拾い上げて豊かに鳴り響く。つづくリストの「ピアノ・ソナタロ短調」は、謎かけ、謎かけが連綿と。ピアニストは生涯このなぞ解きを迫られ、答えを詰問されるのではないかとさえ思われる。金子が「バルトークのほんとうのリストのすがたを知って欲しい」と語っているが、その大方がこの曲に詰まっているのではないかと。多面体であるリストの様々な側面を聴かせてくれた。リストが最も充実している時期に書かれている。曲についてリンク先で賛否両論を読んでみると面白い。金子はこの曲はリストの最高傑作であり、人生観、音楽観、人生のすべてが詰まっているといった意味のことを述べていたが。金子がこの曲に取組んだのが18歳、これを自らの年代ごとにどう紐解いていけるか、10年後の演奏も楽しみに聞いて欲しいと語っている。10年後というと、2029年。はたしてどんな世の中に、世界となっているかを想像すると空恐ろしくもあるが、どうか芸術家たちが、誰もがどんな方々も、音楽をゆったりと楽しめるような世の中であってほしい。
 それにしても、このリストのロ短調、ピアノの可能性の極限までも音を、旋律を探り当てよう、掘り出そうとのし烈な闘いとも聞こえた。作曲家の才能と執念、爆発。

🎧名曲アルバム。パーセル「歌劇ディドーとエネアス
(ソプラノ)森麻季,(演奏)バッハ・コレギウム・ジャパン,(指揮、オルガン)鈴木雅明 映像~イギリス・ロンドン~
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⛳きょうガラスふきをしながら、このガラスふきもガラス戸1枚に付き2面あるわけで、きょうはリビングの8面だけを磨いて、あとはあすかあさってに、という悠長な年末掃除なのだが。ちょうどTVでは伊東四朗と小椋佳が流れており、面白く聴いた。芸人、俳優としての伊東四朗、「どんな小さな仕事でも一生懸命にやる」という一言、小椋佳の美空ひばりの「愛燦燦」の歌詞、凡そ人に使われそうにないことばの使い方をしたのだとか。このお二方から浮かんだ言葉は全力投球。渾身。非凡。
ガラスをふきながら、こんなときでも想像力を膨らませることができたなら。びっしりと汚れのついたガラスをふいているうちに、やっとむこうにいつも景色が見えてきて、そしてもっとピカピカにしてみると、見たこともない異次元の世界への扉が開いた。その扉を開けてみると、さらにその向こうには三つの扉がある。さて次はどうしようか。さまざまな人生の選択の扉とでもしてみようか。それとも海への扉、空への扉、山への扉としたらよいか、それともマクロへの扉か、ミクロへの扉か、等身大への扉か。ここまではきたものの、凡人私は、もうここでお手上げ、どんと晴れ!
21時34分更新

 

 

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211227 クラシック倶楽部を聴く 吉井瑞穂 オーボエ・リサイタル〜秋田県大仙市 公開収録〜

 秋田県大仙市でおこなわれた世界的オーボエ奏者 吉井瑞穂のリサイタルから。巨匠アバドの薫陶を受け、2000年からマーラー室内管弦楽団の首席オーボエ奏者を務める実力派が、知る人ぞ知る名曲から朝ドラのテーマ音楽まで、オーボエの魅力たっぷりのプログラムを披露する。ピアノは岡純子【曲目】オーボエとピアノのための組曲(パヴェル・ハース作曲)、風笛(大島ミチル作曲)ほか【収録】2019年6月14日 大曲市民会館番組紹介よりー

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吉井 瑞穂 2000年にマーラー・チェンバー・オーケストラの首席オーボエ奏者に就任。07年のザルツブルク音楽祭では、フィッシャーの《オーボエ協奏曲》でソロデビュー。各新聞で絶賛された。いままでに、シュトゥットガルト放送交響楽団、バイエルン放送交響楽団、ケルン放送交響楽団、フランクフルト放送交響楽団などでソロ・オーボエ奏者として出演。
吉井 瑞穂のコメント
 
大曲で花火伝統文化継承資料館を見て花火も音楽も瞬間芸術。2,3秒で消えてなくなるものに何時間も何週間も何か月も手間をかけて、栄誉、その3秒のために努力を惜しまないところが我々の音楽も結局いまは録音するという技術がありますけれども、本来はもうその場で終わってしまう瞬間芸術なので、(花火師の方のはなしも)おなじ業種の方のインタビューを聴いてるような驚きがありました。
 すこし濃くまたすこし重いテーマなんですけれども、このパヴェル・ハースさんが45歳まで生きられて亡くなったのはアウシュヴィッツの収容所で、ユダヤ人だったために、ガス室送りになってしまった方なんですけれども、そういうものすごく精神的にいろいろなものが見えてくる曲、そういう曲を最後に選ばさせていただいたのは、やはり、平和と音楽がもたらすことができる何が芸術で世の中のお役に立てるのかなということを自分に問いかけつつ、また皆さんと一緒に考えられたらいいなと思って最後にこの曲パヴェル・ハース作曲「オーボエとピアノのための組曲」を選んでみました。


岡 純子 10歳からピアノを始める。
大阪音楽大学卒業。在学中にオペラハウス管弦楽団と共演。
ジュネーブ音楽院伴奏科においてディプロム取得。第41回ティボールヴァルガ、ヴァイオリン国際コンクール公式伴奏者。西安国際オーボエフェスティバル公式伴奏者。
10回および11回 国際オーボエコンクール・軽井沢公式伴奏者。第3637回草津国際夏期音楽アカデミーでヴァイオリンクラス、ファゴットクラスのアシスタントピアニストを務める。
(OBOE
より転載)

☆「オーボエ四重奏曲 ヘ長調 K.370」モーツァルト:作曲、ピーター・ホジソン:編曲
「シチリア舞曲 作品78」フォーレ:作曲、アンリ・ビュッセル:編曲
「歌劇「イーゴリ公」から「ダッタン人の踊り」」ボロディン:作曲、グラハム・バスタブル:編曲
「風笛」大島 ミチル:作曲、荻野 松宣:編曲「映画「ミッション」から「ガブリエルのオーボエ」」モリコーネ:作曲
「オーボエとピアノのための組曲 作品17」パヴェル・ハース:作曲
パヴェル・ハースはナチス軍の占領下にチェコ北部のテレジン強制収容所に入れられた後アウシュヴィッツへ移送され、1944年ガス室でその生涯を閉じた。「オーボエとピアノのための組曲」は、第二次大戦が始まる1939年に作曲された。
アンコール「千の風になって」新井満:作曲、荻野松宣:編曲

🎵「シチリア舞曲 作品78、シチリアの空気感、青空を背景に動物たちが憩っている景色を勝手に想像しながら。「ダッタン人の踊り」、ダッタン人って? ググると短く分かりやすく解説してくれているブログがこちら「風笛」、瞼に移ろうノスタルジア。
「オーボエとピアノのための組曲 作品17、単純に通り抜けられない気がして
パヴェル・ハース:チェコのユダヤ人の靴職人ジクムントと、オデッサ出身のオリガ・エプシュテインの子として、チェコ語を母語として生まれ育つ。 14歳からブルノで正規の音楽教育を受ける。1919年から1921ブルノ音楽院ヤン・クンツヴィレーム・ペテルジェルカに学び、その後2年間レオシュ・ヤナーチェクの私塾で研鑽を積んだ。それ後20年の間に50曲以上が作曲されたが、作曲者自身によって作品番号を与えられたのは僅か18曲であった。家業の靴製造を手伝うかたわら、あらゆる種類の作曲にたずさわり、《交響曲》や合唱曲、歌曲、室内楽、映画音楽(「犬の生活」のための音楽)、舞台音楽、歌劇《サルラタン Sarlátan 》を創り続けた。1941年にテレージエンシュタット強制収容所に送致され、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所で処刑された。《交響曲》は長らく未完成のまま放置されたが、1994にズデニェク・ゾウハルにより、ハースの作曲様式を踏まえてオーケストレーションを施された。ハースの作品は、ボヘミアモラヴィア民俗音楽に根差しており、時折りユダヤ人の民謡にも似た趣きがある。テレージエンシュタット時代の作品は僅かに8作が遺されたにすぎない。(wikipediaより転載)
1939年前後の背景はこちら。ハースも日々の恐怖と戦っていたに違いない。出口、精神的な空気孔が作曲であったものか。背景を思うからか切ない思いに。
「千の風になって」、歌と違い、やわらかいけれどもどこか硬質な音が天からふって。絶品。

 

🎧名曲アルバム。名曲アルバム「第9交響曲」ベートーベン作曲
合唱】東京混声合唱団,【管弦楽】東京フィルハーモニー交響楽団,【指揮】梅田俊明
年末になると、ならなくとも、第九。私も第九は好きで、デパートなどで聴こえてくると、つい足を止め、品定めのふりをしながら聴き入ってしまう。ところがここのところ、第九を聴くたびにカンブルランを思い出している。
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🎵「第九」の演奏はもう年末行事。に限らずもう地方都市のいたるところで、そして世界中で。シラーの詩のすばらしさ。ところが世の中の状況はこの理想から離れる一方。近頃は「第九」を聴くたびにカンブルランを思い出していた。10年前だったろうか、「レコード芸術」に載ったカンブルランのはなしがある。このときの「レコード芸術」は引っ越しのとき、捨てたくはなかったが、置き場所に窮してごっそりと処分。思えばもったいことをした。このブログに一部書きとっておいたようだ。

ここからはレコード芸術からのはなしですが

 グロール・レーベルから、カンブルランのベートーヴェンの交響曲シリーズが出ているが、この中の第九は驚きの第九なのだ。第九と一緒にシェーンベルクの「ワルシャワの生き残り」を入れたのだという。第九のすぐその後に「ワルシャワの生き残り」が始まり、その後に、第九の最後の40小節が続く。この解き明かしはつぎのとおりだ。

「ユートピアの世界を表現している第九では、最後の歓喜の部分で人類愛が高らかに謳われます。何故、その直後にシェーンベルクを演奏するかといえば、現実の世界では、まことに残念ながら、人類愛が存在しないことが多いからです。再び第九の最後の40小節を演奏するのは、人類愛が存在することを信じていきたいという願いからなのです」

大変な時代だけれども、心を暗くせずに、このように信じてゆきたい

⛳けさも盛岡は氷点下6度。外は白く凍てついていても、何というこのオーボエの懐かしく温かい響き! 岡順子さんのドレスの白さのような雪に吉井瑞穂さんのドレスの赤のような花を咲かせてみたいもの。

 

 

 

 

 

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211225 J-MERO ざっと

20211225()

J-MERO
ゲストNGT48、クリス・ハート

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NGT48は「新潟市を拠点とする日本の女性アイドルグループ。秋元康のプロデュースにより2015年に活動を開始した。AKB48グループを構成するグループのひとつである。運営会社および所属事務所は株式会社Flora。所属レーベルはEMI Records」ということだけれども、地域に密着活動は他にもあるが、何と田植えまで手伝っているのか、田植えをかすった程度なのかはわからないけれども、何れ若者人気グループが農林畜産にどんな形にせよ関わってくれることには大賛成。好感度アップ!

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クリス・ハート、この名を聞いただけでも心がほんわか温かくなる。彼の歌、誠実さ、あたたさ。

 

⛳2021年12月25日(土)のJMEROを1227()の今日21時10分更新

 

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211224 クラシック倶楽部を聴く  迫昭嘉の第9

5回目を迎えた「迫昭嘉の第9」。今回は日米を中心に世界で活躍する江口玲と組んで演奏。リスト編曲による2台ピアノ版「第9」は、その難しさから長らく絶版となっていた。迫はこの編曲版に再び光をあて、原曲とは違う価値を見出し継続して取り上げている。【曲目】交響曲第9番「合唱つき」(2台ピアノ版リスト編曲)から【演奏】迫昭嘉(第1ピアノ)江口玲(第2ピアノ)【収録】2019年12月21日ハクジュホール ー番組紹介よりー

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迫昭嘉は東京藝術大学及び東京藝術大学大学院、ミュンヘン音楽大学マイスタークラス修了。東京藝術大学大学院にてクロイツァー賞を受賞、ジュネーヴ国際音楽コンクール最高位、東京国際音楽コンクール室内楽部門優勝(1980)、ハエン国際ピアノコンクール優勝およびスペイン音楽賞(1983)、ABC国際音楽賞受賞(1998)。「ドイツ・ピアニズムの本流を継承する名手」と評価され、全てのディスクが『レコード芸術』誌で特選盤・推薦盤に輝く。近年は指揮者としてもベートーヴェンの交響曲を手掛けている。今回共演した江口玲は東京芸術大学の作曲科を卒業したあとアメリカのジュリアード音楽院修士課程を卒業。東京、ニューヨークを拠点に活躍。

迫昭嘉のコメント
我々ピアニストにとっては、このシンフォニー第九交響曲というのは、鑑賞はできても実体験がなかなかなくてですね、それこそ4半世紀前になりますけども、初めてやったときは、とにかくその実体験ができるという喜びがものすごく強かったです。で、最近また実はオーケストラで第九を指揮させていただくという機会も増えてきたところで、もう一回この曲を見直してみました。それで、やはり単純にオーケストラの曲をピアノを置き換えたというだけではなくて、ピアノならではの魅力もはっきり感じられるようになってきたんですね。より細部の構成というか動きが、オーケストラの中で埋もれてしまうような音がピアノだとはっきり出てくるということで、十分に違う第九の魅力をピアノ2台で出せると思います。

🎵この2台のピアノ版「第9」は、1851年にリストによって編曲され、ドイツで出版されたが、演奏が極めて困難だったからか一般に広まることはなかったようだ。たが、第23楽章までは、心境的にオケ版の第9に押され気味だった。ピアノを聴きながらオケが一緒に鳴り響いている感じが。それが第4楽章ではたと。これはピアノ・ソナタとして聴けばいいのだ。2台のピアノ・ソナタとして。そう意識した途端にピアノだけの音がすっきりと立ち上がり、色々な風景が見えてきたから不思議だ。日が傾き静かな深まりゆく蔭に沈みゆく風景。しだいにそれがまた月光に浮かびあがってくる。またたきはじめる星のいくつか。それがしだいに数を増してさざめきながら夜空にまたたく。互いに自己主張の競いあい。それがやがて静かに相和し互いを輝かせ銀河と、もちろん当時は銀河という認識はなかったとしても、一つの相和する星の一つのまとまりと歓び輝きはじめる。こんなイメージに遊んだ。シラーの詩はシラーの詩としてこんな空想もできる澄みきった叙情ある響き、また流麗と感じさせるところも。

🎧名曲アルバム。ドボルザーク「悲しみの聖母」
(ソプラノ)安井陽子,(アルト)加納悦子,(テノール)小原啓楼,(バス)小森輝彦,(合唱)東京混声合唱団
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悲しみを包み込みそれを宇宙の果てに散乱せ、悲しみにある魂の救済、浄化し、赤子にささやきかけ歌う響きのうちに絶体なる神の前に行きつく。

1224()のクラシック倶楽部「迫昭嘉の第9」を1227()の今日、21時2分更新。

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きょうのことば『言い尽くしがたき神の賜物』

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インマヌエル盛岡キリスト教会2021年1219()クリスマス礼拝メッセージをお伝えいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で48年目のご奉仕をしておられます。

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説教題 『言い尽くしがたき神の賜物』 (クリスマス礼拝メッセージ 國光勝美 牧師)
聖書朗読 新約聖書  第二コリント915
ことばに表せないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。

<おはなし>

 クリスマスおめでとうございます。
2021年のクリスマスをこのような形(ハイブリット)でお迎えすることができました。

 まず、ここで「言い尽くしがたき神の賜物」を、ほとんど解説をつけずに、復習のようにお話しいたします。

 これが2021年のクリスマスの思いめぐらし、御子の誕生、これは神の賜物であったということ、決して報酬ではない。それを受ける事、それが謙遜である。まさにクリスマスの恵みは「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです」(マタイ5:3)

 この報酬ではない、恵みなのだということを語らせていただきました。私たちがもし報酬を受けるとするのならば、死以外にはない。しかし、神の賜物は御子イエス様にある永遠のいのちであり、そのことを示してくださるお方は、聖霊である。この聖霊様からイエス様の十字架を見るとき、ここには私が自分ではどうすることもできない罪がある。しかし神様が賜物として御子をお降しくださった、このことを感謝して受けていきたい。

 東の博士たちが、この「言い尽くしがたき神の賜物」を知って、彼らの光に従ってやってきました。そして、博士たちは、私たちが礼拝で献げものをするのと同じように、献げものをいたしました。しかしこのとき、発想の大転換に、私は今回大きな光を、恵みをいただいたのです。それは、何と、あろうことか博士たちがひざまずいて御子におささげした、そのように神様が私たちの前にどうぞ受けてください、あなたのために私はこのようなプレゼントを準備しました、どうぞ受けてくださいと神様の側から身を低くして、御子をあの飼い葉おけの中にお遣わしくださった。この中に、ほんとうの礼拝、私たちのあるべき姿があります。これをキリストは神ご自身であるのにも関わらず己を虚しくして人としてこの世においでくださった。ただに人としてだけではなく、死にいたるまで、十字架の死にいたるまでこのように身を低くしてくださったお方をどうぞ受けてくださいと、これほどまでに神様が、身を低くしてくださった。何たる惠、この発想の大転換は、私にとっては大きな大きな神様からの語り掛けでありました。

 

 クリスマスになりますと、クリスマスイブにはキャンドル・サービスがあります。そのとき私は必ず、ヘンデルのメサイアを、集まった皆さんと共に聞きました。そしてキャンドルサービスを行いました。今年は、富士見台教会のユーチューブ、これがすばらしい恵みですので、これを観てからのキャンドル・サービスとなります。
 是非ことしの締めくくりの時には、このメサイアをともに歌わせていただきたいと心から願ったことであります。

20211219-214926 イエス様がお生まれになるおよそ700年ほど前に、やがて救い主がお生まれになるというクリスマスの預言が、一人の預言者によって語られています。有名なイザヤであります。

イザヤ書9章6節
ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。

 訳し方によって「その名は」というところ、私たちが今使っております聖書には「不思議な助言者」とこのように訳されておりますし、そのように訳すことが多いように思いますが、別の訳とすれば、「その名は不思議な助言者」ではなく、「ワンダフル」、「不思議」という名まえ、そして「助言者」、「カウンセラー」、このような訳もございます。文語訳聖書はその立場をとっております。これは言語学の問題、解釈の問題でありましょう。 

 いずれにせよイザヤが救い主のお誕生の700年も前に、「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、」(イザヤ9:6)と記し、700年先に起こるイエス・キリストの誕生を、あたかも今目の前にしているかです。

 ここでイザヤの53章をお開きください。ここにはイエス様のご受難、十字架のできごとが、またしても見てきたように記されています。 

7 彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれていく羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
8 虐げとさばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことか。彼が私の民の背きのゆえに打たれ、生ける者の地から絶たれたのだと。
9 彼の墓は、悪者どもとともに、富む者とともに、その死の時に設けられた。彼は不法を働かず、その口に欺きはなかったが。
10 しかし、彼を砕いて病を負わせることは主のみこころであった。彼が自分のいのちを代償のささげ物とするなら、末長く子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。


 イザヤ書53章に十字架のことが預言されております。そして先ほどのイザヤの9章のところでは、このお方は、「その名はふしぎな助言者、力ある神、永遠の父、平和の君と呼ばれる。」、これを私たちはこのように理解をしております。

 イザヤは9章で「ひとりのみどりごが与えられた」700年後のできごとを見、そしてザヤ53章にあるように、イザヤは主の十字架を見ることができた。9章のところでは、このお方が王の王であるといっています。
 このようにイザヤは救い主の誕生を預言しております。そして今私たちは現時点この場所にこの時代に生きているわけでありまして、私たちから見るのならば、救い主の誕生と救い主の十字架はすでに過去のものです。そして、これからやがて主は、王の王の、主の主としておいでになることは、私たちには、これは将来のことであると理解できます。 

ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。
 私はこのおことばを何回も心ににれはみながら、この「私たちのために生まれる」「私たちに与えられる」ということば、これは一般化されている表現ではないか。何を言おうとしているのか、それは、私たちに与えられている。そしてこれは、まさに私に与えられている。クリスマスのできごとを、主は私たちを救ってくださるために御子をお遣わしくださったというのは、まさにそれはその通りです。しかし、私はこういうことばはあまり使いたくない。 

 宗教ということばがあります。私などは公の書類に職業は牧師と書きます。宗教家という肩書がついてしまいます。でも宗教というときに、これは、神と私についての事象を取り扱っていること。でも私がたしはこれに納得しない。一般化していることではなく、私と神様とどういう関係に今あるのか。私の関係はどうなっているのか。私たちに与えられたけっこうなことです。私たちに与えられる。それはすばらしいいことです。だけれども、今回このクリスマスの時にはっきりしておきたいことは、私がどうなのか。私の主権者はいったい誰なんだろうか。32:36私たちではない、私の主権者は今どなたになっているのか。ほんとうにこのお方が私の主権者でいらっしゃるでしょうか。

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 ここにそのお名前はふしぎな助言者、力ある神、永遠の父、平和の君と呼ばれる。まさにこのお方は三位一体の神ご自身であります。しかし、これを対比して考えるなら、この世の神がいます。三位一体の神は、私たちに永遠の祝福を与えようとしておられる。しかし、この世の神は地上的繁栄を私たちに約束してくれているようです。しかし三位一体のこのお方は、罪ということをほんとうに解決してくれる。

 イエス様がお誕生くださいました。

マタイの福音書1章21節マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。

 このお方は、そしてこのクリスマスは、私の罪を解決してくれる私たちの罪を解決してくださるから、イエス様はまさにワンダフルなお方。そしてそれをここに、十字架にあなたの罪のすべての解決がすでになされているのだよと三位一体のご聖霊なる神様は、イエス様の十字架を指さして私たちに語り掛けてくださる力ある神。どんなことをしても人間の地上的なものでは解決することはできない罪のほんとうの全き解決を主イエス様ご自身が十字架の贖いによってそれを全うしてくださった。「永遠の父」とあります。この世の君主はほんのわずかな一時的な地上の支配者でしかない。しかしこのお方は、永遠の君主として私たちに存在を示していてくださる。「平和の君」、罪というものを解決してくださるときに、私たちは、ほんとうに自ら赦されたということを知っていることのゆえに、和解をすることができます。受け入れることができる。このぜんぶ、「イエス・キリストの十字架の贖い」、このお方は、私たちのうちにどうしても自分で解決することのできないそういった罪の問題をぜんぶ解決してくださる。

 そしてイザヤの9章のところに戻りましょう。

万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。このイエス様の十字架の贖いに示される御子を賜るたほどの愛、それはみ使いたちも羨むほどの愛と対比してみれば一層はっきりとする。

 私はしばしばクリスマスのできごとのときに思うのですが、あのみ使いの大きな喜び、賛美、いとたかきところに栄光が神にあるように、地に平和が、というあのみ使いたちのあの賛美。み使いと言うのは、神様による被造物です。人と同じようにみ使いも被造物として神に仕える存在として造られました。しかし、これは多くの神学者、聖書学者たちの見解ですけれども、そして、そのように私たちは思っておりますけれども、そのみ使いのいちばん優れたものが、神のごとくなりたい、神に仕える者ではなく、神のごとくなりたいという、それはある意味聖なる願いですけれども、野望を持った時、つまり本当の意味の傲慢になったとき、人に、神に仕えるのではなく、神になりたいと思ったとき、み使いのいちばん高い位にあったものが地に落とされてしまった。その地に落とされたみ使いの長の手下たちが、いわゆる悪霊というような存在になったりして、今の私たちの目に見えないあの世界の、そして彼らが閊えているのはサタンです。つまりサタンはその落とされたみ使いの頭であるというようにいわれております。

 さて、そのことを心に止めておきながら、神様はみ使いではなく、み使いが先ほど申しました通り、神に仕える存在として造られた被造物ですけれども、神様は、「人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう」と人間をお造りになった。それはご存じのとおりです。そしてその神のごとくに造られた人間が堕落してしまった。そのことをほんとうに惜しみ悲しまれたお方は、この人間を救わんがためにご自身の第二位格である御子なるイエス様を、キリストを、この世に人の救い主として、この世にお遣わしくださるという非常手段をお取りになった。敢えて私は言わせていただきたいのです。み使いはどう思ったでしょうか。

 私たちの今までの天使長であったルシファー、これはサタンをあらわすことばとして言うのですが、それが堕落したときに神様は悲しまれた。だけども、御子イエス様を堕落した天使たちの救いのためにはお遣わしにはならなかった。そのことを思うとき、このクリスマスの出来事は、神に仕え喜び仕えている天使たちにとって、どれほどの驚きであり、どれほどの喜びであり、どれほどのものを自分たちがああうらやましいと思うほどの愛に違いない。み使いたちのうらやむほどの愛がこのクリスマスの時にあったんです。

 そしてこの方は私たちにその名をイエスとつけなさい。ご自分の民を罪から救い出すためです。このときに、私の主権者は今どなたでしょうか。この主権者なる主イエス様をアーメン、ありがとうございます。私の罪はぜんぶ解決してくださったお方。私はこのお方を王の王、主の主として今心にお受けしています。このことがどうか一般的な私たちのために生まれたのではなく、私のためにこのお方は、馬小屋に生まれみ苦しみしみを受け、よみがえってくださった、このお方の愛を心から知るときに、主よ有難うございます。心からの感謝をもってこのクリスマスの出来事を思います。そして私は、もう一つここに最後に付け加えたいのは、万軍の主の熱心ということばです。これはねたむほどの愛を表しています。ほんとうにほかのものに自分に対する関心以外は愛がいくことが許さない。私だけに100パーセントびゅあなものをもって使える。そのものをご自分の民として贖いだす。万軍の主の熱心は私たちが100パーセントの愛をもってイエス様、あなたが私の王です。主です。わたしはあなたを愛します。このように告白する者を、そうでなければ神様は納得なさらない。きよめという問題が議論になっているのは、それはまだ私の私のものとなっていない。議論ではない。この万軍の主の熱心がわかるとき、主よクリスマス、私の心に主権者として今おいでくださっていることを感謝します。こう受け止めていきたいと思うのです。

 それではきよしこの夜を歌ってクリスマス礼拝を締めくくりましょう。

 

※音声データ、画像は教会からお借りしています。
ずっとズームで礼拝に参加しておりましたが、この日は教会でクリスマス礼拝をまもりました。写真は、私がカメラ携帯を忘れたので、K姉が撮ってくださいました。
⏰盛岡の今朝の気温、ネットには⁻6と出ており、たしかにそうかなと外に置いた寒暖計を見ますと、たしかに⁻6。すこしの曖昧さもなくきりりと、がっちりと冷えてくれたようです。
5時45分更新


 

 

 

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211223 クラシック倶楽部を聴く 小糸恵 オルガン演奏会

ヨーロッパでバッハの第一人者として高く評価されているオルガン奏者、小糸恵の7年ぶりの帰国公演。2020年2月22日いずみホール(大阪市)での収録。ー番組紹介よりー

1950年生まれ。東京藝術大学卒後、1974年に渡欧。1992年ローザンヌ高等音楽院教授に就任。1997年からローザンヌ・バッハ・フェスティバル芸術監督

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若かりし日の小糸恵氏

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小糸恵のコメント
ヨーロッパに渡ったのは25歳ぐらいの頃でした。それでいてたぶん最初にすこしコンセルバトワールで勉強してから日本に帰ろうと思ったんですが、いろいろオルガンを調べているうちに、やっぱり残って、もっと探さなきゃだめだと思いまして、で、歴史的なオルガンをやる場合は、イイタリアとかフランスとかスペインとかオランダとか、特に北ドイツ、南ドイツもそうですけども、バッハの音楽の完全には必要だし、そのためにあちこち旅行して、その場の方に教えて頂いて、オルガン製作者の人と一緒に旅行したり研究したり致しました。でもオルガン音楽をやる場合は、オルガンだけやっていたらだめだと思って、バッハのたとえばそのときどういう他の音楽を作っていたかというようなことですね。特にオーケストラとか合唱とかいろんなもの、そういう作品も勉強しなきゃいけないし、それで今はバッハの他の楽器の勉強もし始めて、私は他のピアノとかチェロとか昔から弾いてたんですけれども、今はちょうどオボエ・ダモーレとヴィオラダ・ガンバの勉強をしておりまして、彼がどのような作り方をしたか、それを今学んでるところで、たぶんそれがオルガンのいろんな奏法に影響できるようになればと思っております。 

演奏曲目 オールバッハ 
前奏曲とフーガハ長調BWV545
ライプツィヒで45歳のとき最終稿を書いたが25歳で書かれた作品
「心よりわれは求めん」BWV727  1
ハンス・レオ・ハスラーの「わが心は千々に」から。マタイ受難曲にも現れる旋律
前奏曲とフーガ ト短調 BWV535
アルンシュタットでのオルガニスト時代に20歳で書かれた。ブクステフーデがよく用いた同音反復の形式が用いられている。
おお人よ、お前の罪に泣け」BWV622
バッハより200年前の1525年頃のコラールをもとに書かれている
前奏曲ハ短調 BWV546/1
トマス教会時代、45歳で作曲
ヴァイオリン・ソナタ第3BWV1016より 第1楽章 (小糸恵編曲)
30歳代半ば1720ごろの作曲
バビロンの流れのほとりに」BWV653
罪のゆえの追放とその快復
トッカータとフーガ ニ短調 BWV538(「ドリア調」)
ワイマール時代2732歳で作曲。カッセル・マルティン教会時代か。
バッハ自身がこの曲に愛着をもっていたようだ
☆アンコール カンタータ第106番「神の時」

小糸の演奏会紹介より、

聴きどころ

バッハ・アルヒーフ・ライプツィヒといずみホールが共同企画で開催した「バッハ・オルガン作品連続演奏会」(20072012年)と「バッハ・オルガン作品全曲演奏会」(20122019年)では、合計22名のオルガニストたちが出演。彼らはバッハ演奏のスペシャリストばかりで、毎回個性が光るステージで高い評価を獲得しました。
お客様に22名のオルガニストの中から「再登場を希望するオルガニスト」についてのアンケートを実施。アンケートで最も多くの方が再演を希望したのが、今回の出演者の小糸恵でした。
小糸恵は、20133月にバッハ・オルガン作品全曲演奏会Vol.2「鼓舞される心」公演で初めていずみホールに登場し、卓越した音色作りとダイナミックな表現力で感動的なバッハの音楽を届けました。その時から交友が続いていた故礒山雅芸術監督の突然の死を悼み、命日である222日にいずみホールのオルガンを奏でます。彼女の強い希望で、バッハ研究に尽くした故人へ贈るオールバッハ・プログラムを披露します。

 

世界有数のコンサート・オルガニストであり、特にバッハ演奏のスペシャリストである。
東京藝術大学を経て渡欧し、現代曲初演を含むオルガン音楽の全てのレパートリーとする演奏家として活動。1985年以降、古典作品をレパートリーの柱とし、歴史的資料の研究に基づいた、楽器の選択および演奏法を、独自に展開している。
バッハ作品の優れた演奏者のひとりとして、ヨーロッパ、ロシア、日本、アメリカでコンサートを開催。また、ソリストとしてのみならず、バロックオーケストラやグレゴリオ聖歌隊との共演にも積極的に取り組んでいる。とりわけ、ムジカ・アンティクァ・ケルンとはバッハのカンタータおよびオルガン・シンフォニアやヘンデルのオルガン協奏曲を、アンサンブル・ジル・バンショアとはフランスの古典、前古典やイタリア・ルネッサンス、バロックの作品演奏で共演した。
また、レコーディングも数多く、歴史的価値の高いオルガンを弾き古典をレパートリーの柱とする数々のバロック時代のオルガン作品を発表し、数多く栄誉ある賞を授与されている。2019823日には、Sony/DHMより新CD BACK TO BACH」をリリース。
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年にローザンヌ高等音楽院のオルガン科教授に就任。加えて、英国王立音楽院、オーストリアバロックアカデミー等の客員教授を務めている。また、著名な国際オルガンコンクールの審査員としても頻繁に招かれている。
「ローザンヌ・バッハ・フェスティバル」は、1997年の開始当初より芸術監督を務めており、2012年からは、ローザンヌ・シティ・オペラのバロック・オペラ共同プロデューサー。
 

🎵小糸の来日のとき、武漢でのコロナ禍がグラフ頂点。その後に世界中で。無事に帰られたかと。バッハと生きている方。バッハを理解するためにヨーロッパ各地を訪ね取材、研究。バッハ関連の楽器にはことごとく学び触れているようなのだが、今ではオーボエ・ダモーレやヴィオラダ・ガンバといった古楽器も学んでいるという。これがオルガン演奏に影響、反映されればというのだから奥が深い。
 BWV535、これはバッハがブクステフーデから影響を受けて作曲との解説。コープマンがブクステフーデの研究者だが、その演奏を聴いて私は「もう光あふれる宙、神の恩寵の只中に、あらゆるものが喜びに活き活きと戯れあそび飛び交う感じなのだ。コープマンの神の光、恩寵への向日性だ。」とこのブログに感想を記している。ブクステフーデの影響に成るこの曲がまた小糸恵演奏でさらに緻密な異彩を帯びていると。小糸の編曲によるBWV1016の第一楽章、細密な緻密にはめ込まれ柔らかな光を帯び、量感も感じさせるステンドグラスの響き。
 今朝は前奏曲ハ短調にきて背筋が伸びた。何が始まるかという緊張感。一生バッハを弾き続けた小糸氏の指を見つめるうちに涙が。これからも倦まずたゆまずに研究し、弾き続けられるであろう10指が輝いて見えた

🎧名曲アルバム。シベリウス「トゥオネラの白鳥」。飯森泰次郎&東京フィル。
1000年の口頭伝承をリョンロット博士が編纂、1835年「カレワラ」を出版。シベリウスがトゥオネラの白鳥にひきつけられ作曲。
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⛳6時51分更新。 

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211222 クラシック倶楽部を聴く タリス・スコラーズ演奏会

ルネサンスの作曲家、トマス・タリスの名を冠したコーラス・アンサンブル、タリス・スコラーズ。透明で濁りのないその歌声は比類のない美しさで聞くものの心をとらえてきた【出演】タリス・スコラーズ(合唱)ピーター・フィリップス(指揮)【曲目】「マリアよ あなたはすべてに美しい」(ゲレーロ作曲)「レクイエム(死者のための聖務)」(ビクトリア)【収録】2019年6月4日 東京オペラシティ コンサートホールー番組紹介よりー

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タリス・スコラーズはルネッサンス音楽研究の第一人者であり、現在も指揮を務めるピーター・フィリップスが1973年に創設したイギリスの合唱団。ルネサンス期に書かれた無伴奏の合唱曲を主なレパートリーとしている。凡そ半世紀にわたってルネサンス期の音楽を世界に広める。(番組の解説から)

ピーター・フィリップスのコメント
タリス・スコラーズの響きの特色
ルネサンス音楽を演奏するためにこの合唱団をつくりました。当時はこの時代の作品を演奏する団体はまれでした。合唱団のメンバーに求められるのは、透明かつ強い声です。そして常に新しい技術を習得することを心がけてきました。ルネサンス音楽は、その後のバロック音楽とはまったく異なったスタイルが要求されます。リズムもチューニングも違いますし。ルネサンス音楽は独唱ではなく小規模の合唱ですから、これだけ大きなホールで歌うのはとても難しいのですが、日本は大きなホールが多く、声の響かせ方を学ぶことができました。
ビクトリアの「レクイエム」について
ビクトリアの才能を説明するのは難しい。彼は奇跡の作曲家です。とにかく響きが強烈で、ごくふつうの和音をより印象深く響かせる能力に優れていました。パレストリーナやタリス、バードのような作曲家はもっと音楽が複雑で、声部も入り組んでいます。一方で、ビクトリアは和声の選択が巧みで、聴く人に感動をもたらします。彼は聖職者で敬虔なキリスト教徒でした。レクイエムは彼の親愛なる主人皇太后マリアのために書かれました。ビクトリアの感情と宗教観のすべてが彼女への思いとして表現されたのだと思います。これは彼の音楽の極致であり、ルネサンス音楽の極致でもあると私は思います。

「マリアよ あなたはすべてに美しい」ゲレーロ:作曲
ゲローレは、16世紀後半に活躍したスペインの作曲家。多くの教会音楽を残している。この作品は1570年に出版されたモテット集に含まれている。
「レクイエム(死者のための聖務)」ビクトリア:作曲
ビクトリアは1548年にスペインで生まれ、教会のオルガン奏者や楽長を務めた。この作品は彼が司祭として仕えたマリア皇太后の死を悼んで書かれ1605年に出版された。

🎵「マリアよ あなたはすべてに美しい」、マリアへの賛美、これは透明で清らか、包むような優しさで歌われる。あなたはただ一回で私の心を奪った あなたの首飾りの一珠で私の心を奪ったー、ここにある首飾りは真珠かと思うが、「首飾りの一珠」に宗教的な意味があったかどうか。マリアへの信仰的な心酔が歌われる。
「レクイエム(死者のための聖務)」の冒頭わが心は生活に疲れたり われは敢えてわが言葉を投げん わが心の苦しみを示さん われ神に語らん われを非難したもうことなからんーこの後には、これはなぜなのか、との問い、煩悶が続く。そして入祭唱主よ永遠の安息を彼らに与えー司祭の祈りなのか。キリエーキリストよ憐れみをかけたまえー、昇階唱、サンクス、ベネディクトゥスー聖なる聖なる聖なる 天の軍勢なる天の主はー、アニュスディー神の仔羊 この世の罪を取り去りたもう方よー、拝領唱永遠に御身の聖人らとともに 御身慈悲深きゆえに 安らかに眠らせたまえー、葬送モテットー主よこの恐るべき日に 我を永遠の死より解き放ちたまえー主よあわれみをかけたまえー甚だしく簡略に記したけれども。この翻訳はルネサンス音楽史専攻の今谷和徳と出ていた。

 

🎧名曲アルバム。「ダンシング・イン・ザ・ストリート」
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⛳21時43分更新

 

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211221 クラシック倶楽部を聴く ベルリンRIAS室内合唱団 演奏会 

ドイツを代表する室内合唱団、ベルリンRIAS室内合唱団。ジャスティン・ドイルの指揮でバッハやブルックナーといった宗教合唱曲の精髄をお送りする。【曲目】「神よ なぜわたしを見捨てられたのか」(メンデルスゾーン作曲)「キリストはわれらのために」「エサイの枝は芽を出し」(ブルックナー作曲)「イエスはわが喜び」(バッハ作曲) ほか【収録】2018年11月2日 東京オペラシティ コンサートホール

 

ベルリンRIAS室内合唱団は1948年設立。ドイツを代表する合唱団として世界各地で活躍。時代を超えた幅広いレパートリをー持ち透明感のある活き活きとして歌声は高く評価されている。

指揮のジャスティン・ドイルは、イギリスのランカスター生まれ。ウェストミンスタ大聖堂聖歌隊に所属した後に、ケンブリッチのキングス・カレッジで学ぶ。これまで多くの合唱団を指揮し、2017年にベルリンRIAS室内合唱団の芸術監督及び首席指揮者に就任。

ジャスティン・ドイルのコメント
この合唱団のすばらしいところは、35人の歌手が一つの生き物のようにうごくことができることです。……心が温かく声という驚異的な楽器を持っている人たちが集まっています。オペラやオラトリオでソリストを経験した人たちがこの合唱団で活躍する道を選んだのです。寛大で勤勉な彼らと仕事ができるのはすばらしいと思います。
ふだんはアカペラで小品を歌っていますが、合唱カンタータのような大作の委嘱も始めています。しかしハイドン、ヘンデル、モーツァルトといった古いレパートリーも大切にしています。RIASはドイツの合唱の伝統を受け継ぐ「大使」ですが、違う文化の歌を歌う能力を持っています。だから他国の民謡などにも取り組んでいます。そのような活動は今後も続けたいと思います。

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曲目

「歌え 主のみ前に新しい歌を BWV225」バッハ:作曲
「3つの詩編 作品78第3 詩編22 神よ なぜわたしを見捨てられたのか」メンデルスゾーン:作曲
「キリストは われらのために」ブルックナー:作曲
「エサイの枝は芽を出し」ブルックナー:作曲
「イエスは わが喜び BWV227」バッハ:作曲

🎵メンデルスゾーン「神よどうして私を見捨てられたのか」、井形ちづるさんの訳に、打ち捨てられた、底辺にある人たちの嘆き、悲しみ、慟哭が切々と迫り胸を打った。バッハの「イエスはわが喜び」、これも井形さんの訳。「悪魔を嗅ぎわけ 敵を苦しめたまえ」「罪と地獄が襲いかかっても イエスが私を守ってくださる」「大地も奈落の淵も……たとえどんなに轟音をたてようとも」、神への全き信頼の訳、これはいうまでもなく聖書にあるのだが、この揺るがない全的神への信頼には、足らざるわたしなどはほんとうにひっくり返ってしまうほど。照らされるのだ。今谷和徳さんの訳ももうすこし聴きたかった。

ベルリンRIAS室内合唱団はドイツを代表する合唱団、その水準が保たれる要因の一つには、やはりオペラやオラトリオでソリストを務めるほどの人材がこの合唱団に流れてきていることにあるようだ。しっかりと歌える存在が合唱団の中に一人いるだけでもその影響力の大きさが察せられるが、おそらくそのような方々が何人も。ジャスティン・ドイルの就任は2017年、つい最近。彼がこの合唱団をいうに「35人が一つの生き物のように動く」「繊細なしなやかさを持つ」「カメレオンのような」これは変幻自在、であったか、「寛大で勤勉な彼ら」、何れ表現のいかなる要求にもこたえ得る力を持つのだ。
 このような合唱団が盛岡にもある。私が宗教曲を聴くようになったのは、この地方都市にあって異色ともいえる国際的な活躍の経験もある盛岡バッハ・カンタータ・フェラインの影響が大きい。率いるは佐々木正利氏。実はこの方、何と私と、というと何が出てくるかと思われる向きもあろうけれども、私と中学校が同じ。同学年というただそれだけのことではある。最近知ったばかりだ。私がぼーっと3年間、教師のはなしには一向に耳を傾けず無為に過ごしたその3年間に、こちらの方は着々と未来を築いていたらしい。東京藝術大学卒。1980年第6回ライプツィヒバッハ声楽コンクール部門第5位。当時の第5位は日本人としては大変な快挙。それが数々の世界的な活躍をする中で、このベルリンRIAS室内合唱団とも共演していたのだ。
 10年前にはこういった宗教曲はまるで自分の内には届かなかった。自分の中にその土壌の質的なものが欠けていたともいえる。さらにいえば一応クリスチャンでもあるし、わかったふりの聴いたふり。しかし同団に圧倒され教えられ興味をもって耳を傾けることで、いまは、聞いていて心が休まるというところにたどり着いている。これはどんな優れた合唱団を問わず、宗教曲は、まだまだ多くの人々の頭上高くに、君臨と言えば言いすぎだけれども、下界をはるかに下して鳴り響いているという実感を否めない。キリストこそ本質的には庶民の宗教、それがなぜかいつまでもどこまでも遠いと人に思わせるところが。かといって崇高さを貶めることはこれはできることではない。これはほんとうに難しい課題であると思われる。クリスチャンや宗教音楽関係者だけが歌い聴いて満足しているにはもったいないと思うが故の思い巡らしなのだけれども。ただこれには伝道を使命とする教会と宗教音楽を研究し歌い検証する使命を持つ合唱団とを混同している自らの誤りもあるだろう。

🎧名曲アルバム
バイオリン千住真理子、高関健&東京フィル

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211220 クラシッククラブを聴く ザ・ベース・ギャング

イタリア出身の4人のコントラバス奏者による驚異のアンサンブル。クラシックからジャズ、映画音楽、ロックまで名曲の数々を、巧みなアレンジとパフォーマンスでお届け!【曲目】フニクリ・フニクラ(デンツァ作曲)、モリコーネ・メドレー(モリコーネ作曲)、バードランド(ザヴィヌル作曲)、赤とんぼ(山田耕筰作曲)、恋(星野源作曲)ほか 2018年10月11日 京都コンサートホール アンサンブルホールムラタで収録―番組紹介よりー
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メンバーのコメント
アントニオ・シャンカレポーレ:来日するたびに日本人の心をとらえている曲を模索する。スキヤキ(上を向いて歩こう) 、赤とんぼなど。日本曲のいくつかはイタリアでも大成功をおさめている。

アンドレア・ピーギ :オケで演奏するようになって35年、今も若い情熱を持ち続けています。もともとはジャズ・ポップスを演奏しており、ずっと続けてきました。オーケストラ・コンサートの開演前や終演後にジャズやポップスを演奏するのです。

アルベルト・ボチーニ:第九はベートーベンが書いたとおりに演奏するのは、私たちにとって意味がないのです。コントラバスで4人は例がないだろう。第9はベートーベンに敬意を表しつつ革新的なリズムを前面にした。本質的な部分はすべて尊重した。 

アメリーゴ・ベルナルディ:私たちのレパートリーは広くジャンルは多岐にわたる。編曲をしているアンドレアはクラシックにも精通している。

曲目

「20世フォックス・トレード・マーク・ファンファーレ」ニューマン:作曲
「黒猫・白猫」カライリチほか
「月影のナポリ」デ・フィリッピ
「フニクリ・フニクラ」デンツァ
「オー・ソレ・ミオ」ディ・カプア
「バートランド」サヴィヌル
「モリコーネ・メドレー」
 ウェスタン、続夕日のガンマン、ミッション、ニュー・シネマ・パラダイス
「ボラーレ」モドゥーニョ 
「ロックンロール No.9 」ベートーヴェン、進上広行・編曲
「赤とんぼ」山田耕筰
「恋」星野 源
5×4メドレー」
 テイク・ファイブ、チャイコフスキー「悲愴」から第二楽章、ジーザス・スーパースターから「今宵安らかに」
「ラテン・ベース・メドレー」
 (見落とし)、ブラジルの水彩画、南京豆売り、コーヒー・ルンバ、ティコ・ティコ、テキーラ、マシュケ・ナダ、ビリン・バウ 

🎵ベース・カルテットというものなのかどうかはわからない。ただ4人のベースはめずらしい。以前か同時期かにもう一つのグループがあったらしいが続かなかったようだ。このグループがいまだ活躍し続けている理由は、各々の個性が存分に生かされている、殊にもアメリーゴ・ベルナルディの存在、演奏中の突然の雄たけびに驚きもしたが、ステージにとにかく観客をぐいと引き込み距離を縮める。眠る者も起こされる。歌う。それも、演奏もそうだけれども、日本の歌をうたうにしても日本語でということもあるが、曲がよく咀嚼されている。ほかの3人も言葉は少なくともベーシストらしい大ぶりの楽器を抱え込んで低音を奏でる「らしさ」にも好感がもてる。選曲、編曲のよさもあるだろう。何れサービス精神あふれる演奏企画の練りがある。
この大型楽器でのラテン・ベーメドレは明るく、聴いているうちに、ああ、向こうの方々はテキーラをやりながらこんなに陽気に愉快にやっているかと思ったところに、何と「テキーラ」が鳴りだし、大きな声で「テキーラ!」と謳歌の声が。コントラバスはオケの傍らにいての底力と思っていたが、覆して、バスでの演奏は高音域でもむしろ小さな弦楽器よりも豊かな幅、空間を感じさせけっこう広く空間を震わす。

🎧名曲アルバム。ドイツ民謡、ニウ・ナオミ編曲「もみの木」5876 5891
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もみの木 もみの木
おまえはいつも変わらない
夏ばかりか 雪降る冬も緑色
天に向かってまっすぐ伸び
冬も葉を落とさない もみの木


⛳このもみの木、清新さ、まっすぐな思いに、心を上向きにしてくれる。樹木はすばらしい。けさクラシック倶楽部の前のに北海道十勝の木々のたたずまいが映し出されていたけれども、気持ちが休まる。ただもしこの音楽を入れずに景色そのものだけを眺めたとしたら、どのような感慨を持つであろうかと。
あとすこしで日が長くなってくるだろう。
20時34分更新

 

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211220 クラシック倶楽部こもごも 90回音コン、トランペット部門 などなど

211217のクラシック倶楽部は90回日本音楽コンクール 本選会 トランペット部門。今年のトランペット部門の応募者は169人。
【収録】2021年10月27日東京オペラシティコンサートホール
【曲目】トランペット協奏曲 変ホ長調(ハイドン)とトランペット、弦楽オーケストラとピアノのためのコンチェルティーノ(ジョリヴェ)の選択

☆入選   冨岡愛彩美(とみおかあさみ)
トランペット協奏曲 変ホ長調 第三楽章(ハイドン)
☆第3位 星野朱音(ほしのあかね)
トランペット協奏曲 変ホ長調 第一、二楽章(ハイドン)
☆第2位 金子美保(かねこみほ)
トランペット協奏曲 変ホ長調(ハイドン)
弦楽オーケストラとピアノのためのコンチェルティーノ(ジョリヴェ)
☆第1位・岩谷賞 藤井虹太郎(ふじいこたろう)
トランペット協奏曲 変ホ長調(ハイドン)
弦楽オーケストラとピアノのためのコンチェルティーノ(ジョリヴェ)

🎧名曲アルバム。チャイコフスキー「くるみ割り人形」


⛳トランぺットまでは写真を入れて載せようとおもっていたところが、番組が終わってきづいたことにはカードの入れ忘れ。ガックリ。あれこれやりながら聴いていたために、ノーカードサインを見落としていたのだ。誰に頼まれているわけではない、誰が何を言うわけでもないけれども、ただ自分の宝石箱に貯めるように書き集めて、搔き集めているというだけなのだが。すくい上げようとした輝く石が指の間からこぼれ落ちてしまった気分だった。
ただこの朝は次の番組「桃源紀行 ドイツ シュプレーヴァルト」の昔ながら人々の暮らし、営みが印象深く、心地よい感じがして、カードを入れ直して1枚だけ撮っておいた。

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☆  ☆  ☆

2021年12月18日のJ-MEROは

ゲスト ニューロティカ、横山裕章(音楽プロデューサー)
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「安っぽく見られようが道化師でいたんだぜ誰にでもできないことをしているのさ」と「かざらないままに」で歌うニューロティカ。ボーカルのATSUSHIはピエロのすがたの57歳。顔も人相が埋もれるくらいに真っ白に塗ったピエロの面。37年間ライブハウスで活動。来年は日本武道館のライブを予定とか。異色のグループ。珍しくMay J.も一緒にノリノリの場面も。

横山裕章(音楽プロデューサー)のコメントの抜粋
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今後J-popに期待することは、新しい世代というのは、ジャンルの垣根がないという世代が今育っている。いわゆる2000年にミクスチャーの文化があったと思うんですけど、これからたぶんさらにハイブリットなミクスチャーの世代たちが作る音楽が世の中を席巻していくんじゃないかと思っている。技術的にはVRとかARとか単純にその音楽としての聴かせ方だったりというのがどんどん変わっていって音楽ってやっぱり素晴らしいよねという感動がもっと増えていけばいいなと思ってます。

⛳2日分というつもりで12月20日、7時16分 更新

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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きょうのことば『言い尽くしがたき神の賜物』 (第三アドベント)

クリスマスリース イラスト素材

きょうは第4アドベント。世界中でクリスマス礼拝が行われる日です。
クリスマス、おめでとうございます!

                   

                               ☆  ☆  ☆

このページでは1週間遅れで日曜メッセージをおつたえしておりますので、きょうは第三アドベントのメッセージです。

インマヌエル盛岡キリスト教会2021年1212()第二アドベントの礼拝メッセージをお伝えいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で48年目のご奉仕をしておられます。

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説教題 『言い尽くしがたき神の賜物』 (第三アドベント 國光勝美 牧師)

聖書朗読 新約聖書  第二コリント915
ことばに表せないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。 

<おはなし>

 前回のところを簡単に振り返ってみましょう。
「ことばに表せないほどの賜物のゆえに、神に感謝します」。このおことばが2021年に与えられております。文語訳で云いますと、「言い尽くしがたき神の賜物につきて感謝す」。

 似て非なるものとして、賜物、そして報酬ということばがあります。どちらも、いただくという意味においては似ています。しかし、賜物と報酬は異なる。賜物は、一方的な神様の憐み、そして神様の施しであります。しかし、報酬というのは、自分が行ったことに対する相応の対価であり、或いは要求することができる類のものであります。「言い尽くしがたき神の賜物につきて感謝す」、これは受ける者においては大きな謙遜、そして施しを受けるということがあります。

 以前にもお話ししたことがありましたが、私が献身し牧師になろうというときに、地方の教会に一週間ほど、牧師がどういう生活をするのかを知っておくようにということで、琵琶湖の近くにある彦根教会に行きました。とても素晴らしい雪谷出身の先生方がいらっしゃいました。小さな小さな教会でありました。忘れられないことの一つが、電話が掛かってきまして、「先生、引っ越しをするので今まで使っていた家電が不要になりました。もし、よろしければ教会の方で使っていただけるでしょうか」という問い合わせでした。先生は感謝してそれを受けるために、当時のことですからリヤカーを引いて行って、冷蔵庫でしたか、大型家電を頂戴しました。一緒にリヤカーを引きながら、先生が仰ったことが忘れられません。「きみ、牧師の生活はこうやって捧げものを受けるということで始めているんだよ」。

 私は、大学を卒業してから、短い期間でしたけれども会社に勤めて、給料というものを貰って生活しておりました。ですから施しを受けて暮らすことがどんなものなのかわかりませんでした。それを学ぶ訓練であったように思います。報酬に慣れている者にとって、施しを受けるのは、ある意味違った扱いを受けることでもあると思われました。

 神学校を卒えて盛岡の開拓に遣わされました。大館町6-16のあのアパートが最初の教会でした。そこの2階で特別集会をさせていただいた。第一回目の集会で、私は初めて開拓した教会で礼拝献金というものを捧げたのです。ああ、これからは献金というもので生活をしていくのだ。その意味がわかりました。それを、私は、あの彦根での教え、訓練と共に忘れることができません。ひろ子先生と一緒に初めての献金をし、そして祝福を祈ったことはいまだに忘れられない思い出であります。

 神様が私たちに無代価ですばらしいプレゼントしてくださるというときに、私たちにすこしでも傲慢な思いがあったとするなら、或いは、貰って当然だというような思いがあったとするのならば、それはあるべき姿とは違います。私たちは貰って当然なものを受けるのではない。ただただ神様のご愛をいただくのです。「言い尽くしがたき神の賜物」を心からありがとうございますと受けることがクリスマスの意味なのです。 

 心の貧しいものは幸いです。

 自分が何か持っているから、何か立派なことをしているから天国に入れるという権利主張ではなく、ほんとうに私は貧しい者です。憐み、恵んでいただく以外に何もありませんというその心になる、それが「心の貧しいもの」です。この「心の貧しいものの幸い」を味わいたいものです。

 そして前回は、「罪の払う報酬は死です」というローマ6章23節のおことばをもとにしてお話をさせていただきました。私たちは神様の前に十戒を欠けなく行って、自分の何かで天国に入るようなものは何も持ち合わせていない。神様のスケールから見たのならば足りない、まったく間尺に合わない、欠けの多いものです。そしてサタンは、そこにつけこんでくる。「だからこのものの報酬は死以外にはない。罪の報酬は死です」と。ところが聖書はいいます。「しかし、神の賜物は、私たちの主イエス・キリストにある永遠の命です」。

 神の律法(おきて)をことごとくまもられたお方、神の律法を100パーセント満足されたお方の報酬、対価は永遠の命です。主イエス様こそ、神の律法をことごとく満足させなさったただひとりのお方です。この疵のないお方が、私たち足らざるものの身代わりとして、神の裁きを受けてくださった。私たちは自分の正しさによってではなく、イエス・キリストの贖い、十字架を私のためです、有難うございますと信じ受け入れるときに、聖霊様が私たちの心の中に、あのイエス様の十字架というものを示してくださって、ほら、ここに神様の賜物がある。受けなさい。それは私たちがほんとうの謙遜、信仰で受けるべきもの、信仰、恵みで施していただくのです。これが傲慢な人間にとっていちばんしたくない、人間の罪の極致は傲慢であるといえるのですけれども、その人間がいちばんしてもらいたくない、それはただただ憐れんでもらうというそれが罪ある人間にとっては、傲慢な人間にとっては、いちばん辛いことなんです。しかしそこに神様は、ほら、あなたのその代わりに、主がすべてのことをなさった、あなたはそれを受けるだけでいいんだ。あなたは、自分の義によって立つことなど到底できないと仰る。さあ受けなさいと言われる。聖霊様が私たちの心の中に、イエス・キリストの十字架の賜物を与えてくださるのであります。クリスマスは、まさに「言い尽くしがたき神の賜物」であります。このことを私は、前回から折あるごとに思いめぐらしておりました。

20211212-160144  その神様の賜物について、きょうは東方の博士たちが、イエス様に黄金、乳香、没薬を献げたことに思いを巡らせておりますときに、私なりに、はたと大きな逆転の発想に到りました。このようなとらえ方はこれまでしませんでした。この恵みをお分かちできたならばと、今日はこの博士たちのところを開かせていただきました。
 これはマタイの福音書2章のところにあります。東方からきた博士たち。東方とは、たぶんバビロン或いはペルシャです。博士たちというのは、世俗的にいえば、王様のような立場、或いは、知者、知恵のある者として博士たちと呼ばれ、占星術に長けていたといわれております。

 イスラエルの歴史では、ダビデ、ソロモンが栄華を極めた後、イスラエルの国はペルシャに滅ぼされてしまいました。そして彼らは国を失いペルシャに囚われの身となってしまいます。ペルシャに囚われの身となった人たちには、もうダビデ・ソロモンの時代のあの神殿がありませんでしたので、彼らは神殿ではなく聖書をよりどころとして、バビロンの人たち或いはペルシャの人たちとは異なったまことの信仰を持ち続けました。簡単に申しますが、そこの王たちは、囚われとなったユダヤの人たちが、自分たちの持っていない真実なものを持っていることに気づきます。そして、彼らの持っている知識を占星術と合わせてみるときに、彼らが読んでいた旧約聖書の民数記24章17節「私には彼が見える。しかし今のことではない。私は彼を見つめる。しかし近くのことではない。ヤコブからひとつの星が進み出る」、このおことばでありますが、彼らは、やがてあのユダヤの人たちのところにすばらしい救い主が生まれることを、彼らは彼らなりの乏しい光の中で、真理を求めておりましたときに、この大きな星に導かれることになりました。そして彼らは、このお方にお会いして自分たちの持っている最良のものを献げようではないかと話し合い、彼らは対応したのであります。

 詳しいことは省略いたしますけれども、博士たちは星に導かれ、エルサレムのヘロデ王の宮殿に行き、王様おめでとうございます、王子様がお生まれに、と言ったところが、ヘロデは自分以外の王が生まれたとなれば生かしておくわけにはいかないと、博士たちには行って拝んできなさい、おがんできたならば私のところに戻って、どこにその幼子がいるのか知らせなさいと言いながら、その幼子を殺そうと思っていたわけですが、ともかく、博士たちはその星に導かれて黄金、乳香、没薬を幼子にお献げいたしました。

 これらは、ほんとうにすばらしい価値のある宝物でありました。黄金というのは、王様の位、王権を象徴するものといわれます。それから乳香、これは、高い神殿において香を焚いて天にその香りを伝えるという意味で、天と地をつなぐもの、祭司としてこの立場を象徴している。そして没薬、これは腐敗を止める。これは、死を表わす。死んだときに腐敗を防止するための没薬というものであります。これを私たち思いますと、この幼子がこの地上にお生まれになった意味を、この博士たちは、自分たちの捧げものを通して言い当てているといえるでしょう。この方の使命を、私たちの今の光から見るのならば、まことの王として、そして、神と私たちとをつなぐ大祭司として、そしてイエス・キリストの十字架の贖いを成就するもの、このように理解することができます。

 これを私は発想の大転換と、今日お伝えしたく願っているのです。

 この博士たちは、どうか心からの愛をお受けくださいとこの幼子に贈り物をいたしました。そして勿論この中の意味するものとして、このクリスマスのとき、私たちは自分たちの持っている最大、最上のものを献身の思いをもって主にお献げいたしましょうというメッセージは、それは素晴らしいものだと思うのです。しかし、私はこのように発想を転換してみたのです。このクリスマスのできごとは、神様の側から、神様が私たちのような人間に、私たちに、どうかこの心からの愛を受けてください。神様の方から私たちにどうか受けてくださいといってご自身を差し出してくださった本当の礼拝というものの模範をあらわしてくださった、このように思うのです。

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 そして、その三つのものは、まず第一に罪の赦し、そして罪のきよめ。いうのならば、神様は私たち人間に罪というもの、これをほんとうに解決してくださる、その賜物を与えてくださった。どうかこれを受けてください。

 私は戦争を経験したことはありませんが、私の父は満州の方で戦争を経験しております。私の叔父も同じく満州で経験しております。私は叔父のことばを忘れることができません。何回もお話しするように、私は満州から引き揚げてきた両親の間で、日本で生まれました。そして、学校に進ませていただき、そして、一応それなりの就職をすることができた。両親とすればほっとしたときに、こんどは私が会社を辞めて、神学校に行きたいと言ったとき、私の両親もそうでしたけれども、同じように満州の方で苦労してきました叔父たちは、私が神様に献身したいといったときに、田舎の言葉ですが、「てめえはな」。それを聞く私はまだ若造です。20歳超えた程度。「てめえはな、牧師になるって言ってるけど、人間がどんなものか知ってるか。俺はなア、満州で人間というものがどんなに穢いか、ほんとに知ってるんだ」。ここで語ることも控えねばならないような、人間のほんとうに穢いところ、それを叔父はわたしに「てめえはな、それを何にも知らねえずら」、そういって激怒しました。そして、もう一つ、私の父は、その頃でしょうけれども、夜、時々うーっとうなされるときがある。それが何なのか言わない。けれども、おそらくこれをお聞きくださっている方々は、私も父からそのことを聞いたわけではありませんけれども、叔父のはなし、戦争を経験している者たちの、人間というもの持っている本当のどろどろした醜いもの、そのものを神様がほんとうに救おうとされたとき、イエス様は、叔父が或いは満州で父がというか、人間の持っている罪のどろどろしたいちばん汚らわしいものを、イエス様はぜんぶ、罪のないきよいお方がその身に背負ってくださった。あまりの醜さにあまりの穢れに十字架の上のお方を父なる神様はもう直視することができなく、やみになってしまったということがありましたでしょう。あの時にイエス様の十字架は人間の罪というものをぜんぶことごとくそこに受けてくださった。そのときのイエス様は神から捨てられたのです。

「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マルコの福音書1534節)
 イエス様はこのように声を発せずにはおられなかったほどの罪を引き受け、そしてイエス様がそれを成し遂げてくださったときに、
「成し遂げられた」(ヨハネの福音書1930節)
 罪に関わるすべての解決はわたしがぜんぶ引き受けてこの十字架の上で成し遂げましたという意味です。

 ですから3人の博士たちは自分たちの持っている最上のものを差し上げましたけれども、こんど、立場を、発想を変えて神様は私たちに、私たちがいちばん必要としている罪に対する全き赦し、そして罪というものに関わるきよめ。これもイエス様がぜんぶここで受けてくださった。すべてが終わった。神様はほんとうに身を低くして飼い葉おけの中に、貧しさをぜんぶその身に背負いながら、さあ、受けてください。神様が私たちに、さあ、受けてください。誤解を恐れずにいうのならば、神様の方が私たちにひざをついて、私はあなたを愛している。だから、どうかこのお方を、この十字架の贖いを私が備えた最善のものを受けてください。その促しに応えたときに、私たちの心の中には、信仰と希望と愛が満ち溢れたものとなります。

「言い尽くしがたき神の賜物」、これを私たちの心の中に、聖霊様は、きょうのこのメッセージが、ただ宗教的なお話しというのを超えて、ただそうではなくして、聖霊様は私たちに、イエス・キリストの十字架の救い、そして罪の赦し、罪のきよめ、永遠の神のいのち、そしてここに愛がある。これをぜんぶ私たち心の中に、私たちアーメン、有難うございます。神様が遜って私の前にご自身を注ぎだしてくださいました。有難うございます。神様が身を低くしてくださったこれを、私たちは心から感謝し、受け、そしてそれゆえに希望を持ち、神の愛に満たされた生き方をさせていただきたいと心から願っているところであります。

 

 ※音声データ、画像は教会からお借りしています。
⏰5時48分更新


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211216クラシッククラブを聴く 第90回日本音楽コンクール 本選会 声楽部門

第90回日本音楽コンクール本選会声楽部門。応募者は133
【収録】2021年10月26日東京オペラシティコンサートホール

☆入選・岩谷賞  ソプラノ足立歌音(あだちかのん)
   1996年生まれ。東京都出身。東京芸術大学大学院修了。
   歌劇「ランメルモールのルチア」から「あたりは沈黙にとざされ」(ドニゼッティ)
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☆入選  テノール前川健生(まえかわけんしょう)
1986年生まれ。愛知県出身。国立音楽大学卒業。東京学芸大学大学院修了。  
   歌劇「ウィリアム・テル」から「先祖伝来の住みか」(ロッシーニ)
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☆入選   バス奥秋大樹(おくあきだいき)
   1993年生まれ。山梨県出身。武蔵野音楽大学大学院修了。
   「歌劇「ボリス・ゴドノフ」からボリスの死「さようならわが子よ」「聞けとむらいの鐘がなる」(ムソルグスキー)
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☆第3位 メゾソプラノ石田滉(いしだきらら)
   1993年生まれ。千葉県出身。東京芸術大学大学院修了。
   歌劇「湖上の美人」から「胸の思いは満ちあふれ」(ロッシーニ)
   Dsc05728-2
☆第2位 ソプラノ和田悠花(わだゆうか)
   1992年生まれ。大阪府出身。京都市立芸術大学大学院修了
   歌劇「夢遊病の女」から「おお花よ おまえに会えるとは思わなかった」(ベッリーニ)
   Dsc05731-2
☆第1位 ソプラノ船越亜弥(ふなこしあや)
   1987年生まれ。広島県出身。愛知県立芸術大学大学院修了。
   
歌劇「ローエングリン」からエルザの夢「寂しい日々に神に祈った」(ワーグナー)
   歌劇「タンホイザー」から「おごそかなこの広間よ」(ワーグナー)
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🎵ピアノも迫力、説得力があるけれども、声楽はまた人の発する声が人そのものという感じもする。美声をもった方はコントラバスやチェロのように航空機で移動するにしても、もう一人分のチケットを要求されることもない。〝使用楽器〝はただ自分の声という名器あるのみ。この声に四声部があり、さらにその声に特質がある。神を賛美するにパイプオルガンもすばらしいけれども、この人の声もまたふしぎとしか言いようがない。

🎧名曲アルバム。ベートーベン「第九交響曲」
東京混声合唱団,梅田俊明 &東京フィルハーモニー交響楽団
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⛳この曇り空に7時7分ごろ、稜線に太陽が持ちあがり、眩い光をほとばしらせた。ひとたびは雲に隠れ、そして今また残留の雲を乗り越えて冬の光を撒き散らしている。
9時27分更新

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211215 クラシック倶楽部を聴く 第90回日本音楽コンクール 本選会 クラリネット部門

第90回日本音楽コンクール本選会クラリネット部門。応募者は159人。指定された曲を中心に各自がプログラムを構成。
【収録】2021年10月25日東京オペラシティコンサートホール


☆入選照沼夢輝(てるぬまゆめき) 1994年茨城県生まれ。東京芸術大学卒業
クラリネット・ソナタ変ホ長調作品120第2から第三楽章(ブラームス)
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☆入選・岩谷賞浦畑尚吾 1995年生まれ。千葉県出身。愛知県立芸術大学卒業。マンハッタン音楽院修士課程修了
クラリネットのための第1狂詩曲 (ドビュッシー)
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☆第三位三界達義(みかいたつよし) 1996年生まれ。東京都出身。東京芸術大学大学院 
マカラ(西村朗)
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☆第二位宇根康一郎 1991年生まれ。沖縄県出身。沖縄県立芸術大学卒業。フランクフルト音楽大学大学院修了。
クラリネット・ソナタ へ短調 作品120第1 第四楽章(ブラームス)、バグ(マントヴァーニ)
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☆第一位亀居優斗 1995年生まれ。愛知県出身。東京芸術大学卒業。
クラリネット・ソナタ 変ホ長調 作品120第2(ブラームス)
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🎧名曲アルバム。サン・サーンス「交響曲第三番 オルガン付き」
オルガン新山恵理、大友直人&東京フィル
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サン・サーンスがオルガン奏者を務めていたパリにあるマドレーヌ寺院。19世紀この寺院のオルガン奏者を務めることは当代最高の音楽家であることを意味した。しかし自宅の窓から長男が転落死、その6週間後二男が病気で他界。サン・サーンスは異国の旅に出る。晩年たどりついたのが父親の故郷であるフランス北部の港町ディエップ。この街に財産の大半を寄贈。この曲は1886年に作曲。「人生のすべてをこの曲に注ぎ込んだ」とサン・サーンス。

⛳一応メモって19時25分更新

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211214 クラシッククラブを聴く 第90回日本音楽コンクール 本選会 ピアノ部門

第90回日本音楽コンクール本選会ピアノ部門。応募者は190人。

☆入選藤平実来(みく)1999年生まれ。千葉県出身。東京音楽大学4年。
ピアノ協奏曲ト長調 第1楽章(ラヴェル)
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☆第三位高倉圭吾 1994年札幌生まれ。東京芸大大学院
ピアノ協奏曲第2番ハ短調 第一楽章(ラフマニノフ)
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☆第二位佐川和冴(かずさ)1998年生まれ。埼玉県出身。東京音楽大学大学院1年 
ピアノ協奏曲第21番ハ長調 第二、三楽章(モーツァルト)
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☆第一位・岩谷賞谷昂登(あきと)2003年生まれ。福岡県出身。桐朋女子高等学校音楽科3年
 
ピアノ協奏曲第1番変ロ短調 (チャイコフスキー)
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【演奏】管弦楽:東京シティ・フィルハーモニック管弦楽団。指揮:高関健
【収録】2021年10月24日、東京オペラシティコンサートホール

🎵課題曲の協奏曲の中から1曲弾くことになっているわけだけれども、この協奏曲、オーケストラを率いてというか、オーケストラに支えられてというか、オーケストラとともにというか、このような形式はいつ頃から採られるようになったものだろう。ネットには「17世紀から18世紀中ごろにかけ、ビバルディ・バッハ・ヘンデルなどが活躍していたころで、器楽曲が発達し声楽曲も大編成になった」と出ている。 詳しいところはこちら
未来志向の演奏が心を明るくしてくれた。

 

🎧名曲アルバム。徳島県民謡、松崎雄一編曲「祖谷(いや)の粉ひき唄」

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屋島の戦いに敗れた平家の落人たちが隠れ住んだ祖谷地方。奥祖谷には自生するシラクチカズラを使って架けられたつり橋である二重かずら橋がある。集落同士を結ぶ集落の要であったという。落人たちは音が滝にかき消されて遠くへ届かないように滝のそばで琵琶をたのしんでいた。標高1000メートル級の山々で人々は畑を作り暮らしている。これほどの奥深くに逃げ込まなければ安心して、というよりも、それでも尚追手が来ないか見張りながら、逃げ込んだばかりの時には恐怖心をぬぐい切れずに、微かな音にも神経を尖らせながら暮らしていたのだと思うと涙が出る。

⛳17時2分更新

 

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211213 第90回日本音楽コンクール 本選会 バイオリン部門

第90回日本音楽コンクール本選会バイオリン部門。バイオリン部門の応募者は110人。
【演奏】管弦楽:東京交響楽団、指揮:大井剛史
【収録】2021年10月23日、東京オペラシティコンサートホール
以下も、NHKクラシック倶楽部を参考に編集。


入選青山暖(のん)  バイオリン協奏曲ニ長調 作品77 第二楽章(ブラームス)
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3竹内鴻史郎(こうしろう)  バイオリン協奏曲ニ短調 作品47 第三楽章(シベリウス)

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2落合真子(まこ)  バイオリン協奏曲 第2番(バルトーク) 第一楽章

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1位・岩谷賞・増沢賞中野りな バイオリン協奏曲 第2番 第二、三楽章(バルトーク)

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🎵審査員の方々は、今回の可能性にあふれる若き演奏家たちが先々どのような道を歩んで行かれるものかが、ある程度見とおしておられるのかもしれない。1日もはやく広く活躍できる場が開かれるようにと願わずにはいられない。
 この白熱が連綿と連なって行くことを願わせられる。

 

🎧名曲アルバム。「ダンシング・イン・ザ・ストリート」
作詞・作曲マーヴィン・ゲイ、ウィリアム・スティーブンソン、IVY JO
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自動車産業で栄えたデトロイトを代表するモータウン・レコード。数あるヒット曲でも最も親しまれている一曲であるとか。
「世界中に呼びかけよう 真新しいビートの準備はいい?」
 1960年代を代表するブラック・ミュージックであり、マーサ&ザ・バンデラスが歌い、後にデイヴィッド・ボウイとミック・ジャガーも歌った「ダンシング・イン・ザ・ストリート」。
白人層に馴染みが薄かったブラック・ミュージックを洗練された形で演出。「街へ出て踊ろう」という歌詞はこの曲の発表当時、公民権運動で街に繰り出す人々のすがたを連想させたという。

名曲アルバム、たった5分なのだけれども、いつもこの濃さに引き込まれていた。制作のようすなどはこちら

⛳きのうはアメリカのケンタッキー、イリノイ、ミズーリ、アーカンソー、テネシーの各州にスーパーセル。亡くなられた方々が100人を超えている。この日本岩手県盛岡でも、上空に不気味が黒い、一昔には見たことのない黒雲が薄青い空にくっきりと輪郭を際立たせて横たわり浮かんでいることがある。心底怖いと思う。巨大竜巻、人の側から見れば自然の冷血な一面とも。現地にあられる方々の一人でも多くの無事を祈りつつ。

クラシック倶楽部は、きのう12月13日分をきょう12月14日に7時1分更新

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きょうのことば 『言い尽くしがたき神の賜物』 第二アドベント

クリスマスリース イラスト素材

インマヌエル盛岡キリスト教会2021年1205()第二アドベントの礼拝メッセージをお伝えいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で48年目のご奉仕をしておられます。

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説教題 『言い尽くしがたき神の賜物』 (第二アドベント 國光勝美 牧師)
聖書朗読 新約聖書  第二コリント915
ことばに表せないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。

<おはなし>

 この朝は『言い尽くしがたき神の賜物』という説教題で、みことばのご用に立たせていただいております。 
 クリスマスのときに、多くの思いめぐらしをさせていただいておりますが、そんなとき、ほんとうに「言い尽くしがたい神の賜物」、これに尽きる。このクリスマスに、このおことばに焦点をしっかりと定めて、これに心を向けさせていただければ、もうきょうの説教のいちいばん大切なところはご理解いただけると思っております。

 簡単に前回の復習をさせていただきましょう。

 まずアドベント。これは待降節。そして救い主イエス様がこの世に臨まれること。歴史を支配しておられる神様のご経綸、それは、今から2000年ほど前に、救い主が人としてこの世にお生まれくださったということ。そしてもっと大きな視点で見るのならば、やがてもういちどこのお方が、かつてはベツレヘムに馬小屋にお生まれくださったお方が、人々の驚きのうちに、王の王、主の主としてこの世においでくださる。このアドベントを私たちは理解しながら、そのうえに立って、今から2000年前のこの御子イエス・キリストのご降臨をまず心に止めましょう。このように前回紹介いたしました。
 またクリスマスの時にしばしば赤と緑のリボンが結ばれたりしている、いわゆるクリスマスカラーがあふれます。これは、クリスチャンにとっては、キリストの流された十字架の血潮、また永遠のいのち、神の愛を表わして、リースなどが飾られますけれども、一層この時期、私たちの目に入って来るこの意味を思いめぐらさせていただきたいと思います。
 きのう夕方、暗くなる頃に、ひろ子先生が教会の前を豆電球などを使って一生懸命に飾っておりました。ピカピカときれいに点滅します。いよいよクリスマス、この年のクリスマスを迎えているのだなあと改めて実感したことであります。

 

 さて、本題に入りまして、
ことばに表せないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。
 これが私たちが標準的に用いております新改訳2017年版の訳です。
 これが文語訳聖書ですと
言ひ盡しがたき神の賜物につきて感謝す。
 「言ひ盡しがたき神の賜物」、これはルカ2章で、み使いたちが羊飼いに現れ、「きょうあなた方のために救い主がお生まれになりました」と告げますが、私たちもまた、このみ使いたちの大合唱の中に入っているわけです。

ルカの福音書2815
8 さて、その地方で、羊飼いたちが野宿をしながら、羊の群れの夜番をしていた。
9
すると、主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が周りを照らしたので、彼らは非常に恐れた。
10
御使いは彼らに言った。「恐れることはありません。見なさい。私は、この民全体に与えられる、大きな喜びを告げ知らせます。
11
今日ダビデの町で、あなたがたのために救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。
12
あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ているみどりごを見つけます。それが、あなたがたのためのしるしです。」
13
すると突然、その御使いと一緒におびただしい数の天の軍勢が現れて、神を賛美した。
14
「いと高き所で、栄光が神にあるように。地の上で、平和がみこころにかなう人々にあるように。」
15
御使いたちが彼らから離れて天に帰ったとき、羊飼いたちは話し合った。「さあ、ベツレヘムまで行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見届けて来よう。」
 

 これはクリスマスのときに必ず開かれる聖書の場面です。「羊飼い」というとき、私たちはメルヘンチックな捕らえ方をします。そのように慣らされているのかもしれません。私はこの「羊飼い」に、二つの場面をいつも思います。
 一つは、羊飼いのお父さんとその子供の場面です。勿論聖書にそのようなことは書いてはいないのですが。
「お父さん、どうして私たちはこのようにして寒い夜、羊を飼っているの?」
 お父さんは子供に答えるわけです。
「人間はこのままでは神様の前に出ることはできないから、自分の罪の身代わりとして、いつも子羊が屠られて、私たちの代わりに、身代わりとなって神様に捧げられているんだ。私たちは神様に捧げる羊をこのように用意しているんだ。けれども、息子よ、聞きなさい。やがて、ほんとうにこのような動物ではない神の子羊が、私たちに与えられるんだよ。その時まで、この羊を私たちは飼っているんだ」
 こうお話をする羊飼いのお父さんの場面です。
 もう一つは、当時の羊飼いという仕事は、これは羊飼いに限らず、生き物を飼っていると世話から逃れられない。そのために、多くの人々が神様を礼拝し、宗教行事に参加しているときに、それができない。ですから羊飼いの仕事は、当時の人々からは卑しめられたと聞いたことがあります。これもそうだろうなあと思います。飲んだくれや荒くれといった世の中の暗い部分に生きている者たちだったのかもしれない。私はそのどちらも深く心に留まっているのです。神様は、真っ先にその羊飼いたちに、「あなたがたに素晴らしい訪れがあるのです」と驚くべき神の賜物、ビックニュースを伝えたのです。決して富裕な上流社会のエリート人たちにではありませんでした。最も小さい、最も賤しいとされている者にこそ、み使いたちは「言い尽くしがたい賜物」を教えてくださいました。

 この天のコーラスがメサイヤ。私がクリスチャンになったばかりのときに、東京の丸の内教会というところで、青年たちが毎年メサイヤを歌っていました。ハレルヤコーラスです。青年会の担当は竿代照夫先生でした。ちょうど私は救いに立って、ほんとうに学校を卒業する間際にクリスチャンになって、すぐに社会人になったものですから、そのときのクリスマスは初めて教会で迎えるクリスマスになったわけなんですけれども。たまたま私は音楽が好きで、音楽関係の会社に就職していました。
 こんど丸の内の青年会でメサイアを歌う。竿代先生から、君音楽ができるんだろ。このコーラスに入ってくれ。男性パート、バスの部分を歌ってくれと言われている。さあ、歌ったこともないし聞いたこともないし。しかもバスのパートだという。しかしなあ、と思うけれども、先生がそう声をかけて下さるんだからと、じゃ一つレコードを買って、それでメサイアの部分をやってみよう。ところが当時はメサイアはそんなに売れるものじゃなかった。カタログで見てこれいいなと思い買おうとしたところ、在庫がないのです。全国で5枚注文があればプレスすると採算が合う。じゃ君ほしいっていうんならば、しょうがない5枚プレスしよう。そこで横浜の工場に電話してもらって、プレスしてもらって。廃盤寸前でした。それでようやく念願のメサイヤのハレルヤのこの部分、なかなか技術が必要なんですけれども、その部分を何回も何回も繰り返して、そして初めて丸の内の青年会の人たちと歌いました。懐かしく思い出されます。
「言い尽くしがたき神の賜物」。み使いたちが歌ったこの賛美。私はどの部分をどのように歌ったらいいんだろう、とにかく思いっきり日々み使いたちと共に歌いたい。特に初めて救われて教会で迎えたクリスマスから、もう半世紀以上経っております。そして、そのたびごとに、ああ、ほんとうにそうだ。このみ使いたちの賛美を共に歌いたい。このように今思っております。

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 言い尽くしがたき神の賜物について感謝するというときに、私は似て非なるものがあると申しました。それは賜物、そしてもう一つは報酬です。どちらも、受け取るということにおいては共通しております。似ております。しかし賜物と報酬とは明らかな違いがあります。賜物というものは、こちらが何かをしたからということではなくして、一方的に与えてくださる側の憐みと恵みによって私たちは受け取るものです。しかし報酬というときには、私たちの成した働きに相当する対価、或いは、それを要求することのできる権利。これが報酬です。
 聖書はいいます。ことばに言い尽くせない、言い尽くしがたき神の賜物につきて感謝し、

 これは、私たちはこれを受け取り、そして、報酬は先ほど申しました通り、当然受けるべき権利、或いは、当然主張するべきもの。しかし、イエス・キリストという大いなる喜びの訪れは、神様の賜物であります。私たちが権利主張できるものでは決してありません。ただ神様の愛のゆえにいただけるものなのです。ですから聖書はいいます。

心のまずしいものは幸いです。天の御国はその人たちのものだからです。

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「心の貧しい者」というのは、私は受けるべき何のものもない。憐れんでいただく以外何もないということをほんとうに知っている者。自分は当然これを受ける者だというようなそれを持っていない。羊飼いたちがそうです。或いは、話をすこし広げるのならば、律法学者たち、パリサイ人たち、こんなに神様のために一生懸命やっているんだから、こんなに神様の律法を守っているんだから私は誰よりも恵み報酬を受けて当然だという思いをもっているかもしれない。けれども羊飼いたちは、受ける以外何もない。私はマタイの心の貧しい者は幸いですということばの意味を、皆さん方と一緒に、言い尽くしがたき神の賜物をほんとうに遜ってありがとうございますと受ける。このような者でありたいと思います。

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 さて、報酬ということで見るならば、罪の払う報酬。サタンはやってきます。さあ、モーセの十戒があるね。これを行いなさい。そうすればあなたがたは生きる。あるいは、永遠の命、神のいのちを持つことができると言うでしょう。サタンは、さあ、十戒を、神の律法をことごとく欠けなく行いなさい。そうしたのならば、報酬として永遠のいのち、それを受けることができるでしょうとサタンは言ってきます。そして神の律法を差し出します。どうだね、あなたはそれをできるかね。私たちは神の律法を欠けなく行うことなど到底できないということをよくよく知っています。自分自身の足りなさ、それを知っている者です。サタンは言います。そうだろう、だからね、罪の報酬は死なんだよ。これがあなたがたの当然受けるべき代価、対価であり、受くべきものなんだ。

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ローマ6章23節罪の報酬は死です。しかし神の賜物は私たちの主キリスト・イエスにある永遠のいのちです。

 罪の払う報酬、その相応の対価は死。永遠の滅び。神の祝福から永遠に離れてしまう。そういうものです。サタンは間違ったことは言っていません。しかし、これに対して、聖霊様は、神の御子は、その通りです、サタンは間違ったことは言っていない。そう、あなたがたは、神の律法、戒めをことごとくおこなったのならば永遠のいのちが受けられます。だけれども、あなた方にはそれができない。そのときに、御子イエスは、罪ある者の身代わりとしてまことに罪一つない汚れのないお方として、この世においでくださった。罪のない子羊として、罪の払う報酬を十字架の上でほんとうに受けてくださった。これがイエス・キリストの十字架の救いなのです。イエス様は私たちの罪の報酬としての死を、私たちの受くべき裁きをぜんぶその身に身代わりとして背負ってくださったのです。羊飼いのお父さんが、息子に、しかしまことの神の子羊が私たちの身代わりとして神に捧げられる時が来ると言ったのはこのことです。

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 このクリスマスのできごとを、言い尽くしがたき神の賜物として知ることほど素晴らしいことはありません。これはわたしたちの受けるべき賜物です。そして、この賜物と言うのは、有難うございますといって信仰で受け取るのです。恵んでもらいたくないと言って拒絶することもできます。しかし、聖霊によって自分のほんとうのすがたが示され、そしてイエス・キリストの十字架の意味というものがほんとうに示されたとき、主よ、有難うございます。私は憐れんでいただき、恵んでいただく以外何にもありません。有難うございます。手を伸ばしてこの神の賜物を受け取ることなのです。それはほんとうの謙遜を私たちに教えてくれるものです。ある説教者は罪の本質は何か。傲慢だと言いました。それはサタンが、私は神のごとくなりたいといってみ使いが堕とされてしまったという聖書の解釈に基づくものですけれども。神様は、私たちをお救いくださるときに、いちばん神様らしい方法を用いなさった。それは何か。それは、ほんとうに遜って、ほんとうに謙遜でなければキリストの十字架の贖いを受けることはできないのです。すこしでも自分に、わたしはこういうことをやりました。こういう受けるべき価値がありますなどというようなものを持っている傲慢な者には、神様は救いをもたらすことはできません。しかし、ほんとうにそうです。羊飼いのように、受ける以外私は何にもできませんと、憐れんでいただく以外何もできませんという最も貶められた心の状態、それを救うを神様は良しとなさった。謙遜ということはそういうことなのです。何か私たち謙遜というと、何か道徳的な、腰が低いとか何とかいうようなイメージを持ってしまうんですけれども、聖書のいっている、福音のいっている謙遜というのは、あなたに憐れんでいただく以外わたしは何も持つことはできません。しかし、あなたの言うように私は何でもすることができるのですということができる。これは傲慢ではない。キリストのゆえに何でもできるのですと告白することこそほんとうの謙遜なのです。

第二コリント11章わが恵み汝に足れり。わが力はよわきうちに全うせらるればなり。
 ほんとうに自分が弱い者、足りない者ということがわかったときに、キリストの力がわれをおおうためにわたしは自分のよわいことを誇るというような、素晴らしいみ言葉がつづいております。どうぞ言い尽くしがたき神の賜物、これを私たちのものとさせていただくクリスマスであらせていただきたいと願うことであります。どうか心からの謙遜をもってこの言い尽くしがたき神の賜物をいただく者でありましょう。 

ヨハネの福音書1章9~13節
1:9 すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。

1:10 この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。
1:11 この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。
1:12 しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。
1:13 この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意思によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。
1:14ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。父のみもとから来られたひとり子としての栄光である。この方は恵みとまことに満ちておられた。
1:15ヨハネはこの方について証しして、こう叫んだ。「『私の後に来られる方は、私にまさる方です。私より先におられたからです。』と私が言ったのは、この方のことです。」
1:16私たちはみな、この方の満ち満ちた豊かさの中から、恵みの上にさらに恵みを受けた。
1:17律法はモーセによって与えられ、恵みとまことはイエス・キリストによって実現したからである。
1:18いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。

※音声データ、画像は教会からお借りしています。
⏰6時13分更新

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J-MERO をざっと

J-MERO
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GARNiDELiA、鈴木鈴木に爽やかMay J.がインタビュー。
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GARNiDELiA大正ロマンの着物とレースをふんだんにあしらった洋服のミックスというこってり感ある大胆衣装。多くのアニメ作品を手掛ける。曲作りに関しては、作詞はMARiA。詩の世界は台本、原作をもとにキャラクターの心境、そして作詞者自身の思いをリンクさせて作詞する。作曲はtoku。GARNiDELiAが歌うときに、アニメとリンクするところを見つけながらカッコよくと思って作っている。女性はダンスをミックス。日本の文化を意識して楽曲を作るようにもって行った。目でも楽しんでもらえるように。新曲はコロナ禍を脱出するぞと言う思いをこめたロックテイスト曲。

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鈴木鈴木 兄弟のハモリがきれい。兄がおじの影響で音楽やってるのを見て弟が合流。
曲作りは、兄が先に曲を書き弟に提出し二人で作り上げていく。韻を踏むようにしている。そのほうがいい加減に聴こえるなあと。SNSに刺さりやすいように、若者にわかりやすいように意識している。新曲は別れていたふたりがクリスマス前にまた元通りにというストーリー。

⛳コロナを完全に脱することは将来的にも厳しそうだけれども、如何にしてかこれを克服しようとのエネルギーがミュージシャンのうちにも、その楽曲にもマグマのようにたぎっているという感じが。これがいつかはわからないけれども、一気に海外ライブ、ドームライブ、全国ツァーにはじけるときがくるのだろう。
6時55分更新

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211210クラシッククラブを聴く クリスティアン・ベザイデンホウト フォルテピアノ・リサイタル  

フォルテピアノの名手、クリスティアン・ベザイデンホウトのリサイタルから。平均律ではなく、古典調律でチューニングされた楽器によるモーツァルトのソナタをお送りする。番組紹介よりー

クリスティアン・ベザイデンホウト
1979年、南アフリカ生まれ。イーストマン音楽院を最優秀の成績で卒業し、チェンバロ、フォルテピアノ、通奏低音を学びつつ、欧米各地でバロック・オペラ公演の通奏低音奏者として経験を積む。21歳でブルージュ国際古楽コンクール(2001)の第1位と聴衆賞を獲得、今日では世界の主要アンサンブルから頻繁に招かれており、ブリュッヘン、ホグウッド、ケラス、ムローヴァなど著名アーティストとの共演や音楽祭への出演も多数。09年からハルモニアムンディと長期的な録音プロジェクトを継続中。

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コメント
 (フォルテピアノは)上品できめ細やかでハープシコードのようにとても精密な一方、歌うように叙情的で美しく、モーツァルトの音楽にとても寄り添っています。モーツァルトはもともとハープシコードの名手でした。彼の原点はハープシコードにあります。そして1770年前後にこのフォルテピアノに出会いました。そしてこの楽器から彼にとって最も重要な作品が生まれるのです。それがピアノ協奏曲やピアノ・ソナタです。私はフォルテピアノに出会った瞬間、この楽器がモーツアルトの音楽を理解する鍵だと確信しました。今でも信じてやみません。
 モーツァルトの作品は深く考えずに聴くと、当たり障りのない音楽に聞こえるかもしれません。高級ホテルのエレベーターで聞くようなね。18世紀の音楽は表面上は驚くほど優雅ですが、その奥底には強烈にうごめくエネルギーに満ちた小宇宙が存在していると感じます。全身でそれを感じて演奏しなくてはいけないのです。わたしはこの楽器を通してやっとモーツァルトに出会えたと感じました。彼の音楽と人間性はとても賢く文学的で洗練されたユーモアにあふれています。今日のようなピアノ・ソナタだけのプログラムは一見退屈そうに見えるでしょう。しかしモーツァルトの曲はそれぞれがまったく違う劇場のような世界なのです。わたしはモーツァルトの音楽に歌舞伎の世界を感じています。歌舞伎は一つの「見得」に信じられないほどの力強さを感じられます。観客はそんな「見得」にこめられた役者の熟練の技に魅了されるのです。モーツァルトの音楽も一つの小さな動作に劇的な力がこめられています。それを意識して弾くと彼の音楽は非常に力強く心が震えるのです。 

曲目
「ピアノ・ソナタ ヘ長調 K.332
「ピアノ・ソナタ 変ロ長調 K.281 から 第2楽章、第3楽章」
「ピアノ・ソナタ ハ短調 K.457

 

🎵 モダンピアノ、チェンバロ、フォルテピアノに関してボツボツと聴き逃し、王子ホールの頁を開いてみると、「チェンバロがアーティキュレーションやアゴーギクやニュアンスをいかに大切にしているかを知ったことは、大きな衝撃でした――スタインウェイに代表されるモダンピアノには音色やダイナミクスという面で大きな可能性がありますが、表現力豊かなチェンバロ演奏に不可決なアーティキュレーションへの飽くなきこだわりのようなものは見られません。その反対に、継続してスタインウェイを弾いてきたことでリリカルで心を揺さぶる演奏を志すにあたっての基礎ができましたし、こういったことすべてがフォルテピアノの演奏でも役立っているのです。フォルテピアノというと、チェンバロの後継者という歴史的な位置づけのことばかりが頭にある人が多く、音色の変化、トーンやテクスチュアの多彩さといった無限の可能性がまだまだ認知されていないような気がします。」とあった。
 番組では、「ベザイデンホウト、フォルテピアノはチェンバロとモダンの間にあって、上品さ、きめこまやかさ、歌うような抒情性がある」と語っていたが、私がこれに気づかされたのは、ここのところのクラッシク倶楽部のフォルテピアノ演奏のお蔭。それまでは、フォルテピアノを聴きもせずに未開の楽器としか区分していなかった。
 ベザイデンホウトが、モーツァルトの音の説明に歌舞伎の見得を引いたことで、一音一音をまたモーツァルトの才能に驚きをもって新鮮に聴くことができた。あまり賛辞を呈すると、逆に価値を貶めるのではないかと恐れもするのだが、このような音楽家たちの感性にはやはり見得を切られたときように注意、意識を喚起される。

🎧 名曲アルバムはパーセル作曲「歌劇ディドーとエネアス」
英国国教会の聖堂ウェストミンスター寺院は歴代の偉人たちの墓があるが、パーセルの墓もここに。パーセルは生涯を王室と音楽にささげた17世紀最高の作曲家。幼くして王室の聖歌隊に入り、18歳で宮廷作曲家に就任。彼が作曲した唯一の歌劇が「歌劇ディドーとエネアス」は、古代ローマの叙事詩を題材としている。女王ディドーと亡国の王子エネアスとの悲恋物語。旅立つエネアスに別れを告げられディドーは死を選ぶ。これを絵画の世界で表現したのがフランチェスコ・ソリメナ。その絵画の一部。
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⛳けさはモーツァルトを聴きながら、これでできる料理はと考え、ああ、これはてんぷらが合いそうだ! と。とはいえ朝から大々的に具材を並べ、油鍋をかっと熱くし、という心意気にはならず、思い描いただけになってしまったが。
 モーツァルトの流暢さで、海鮮にサッサカ、サッサカ、ふる酒、ふる塩、ふるコショー。ピーマン、ナスはスラリと切って、まな板のカボチャ、ギーコン、パクっと。ボールにピシパシねられててんぷら粉。具材をポトポト地肌真っ白。油鍋ピチパチ油爆ぜ爆ぜ待っている。みんなみんな飛び込んでおいで。あがるあがるよワイワイと。きつね色した天ぷらがあがる。
今夜はてんぷらにしようか、待て待て昨日のこしたカレーがあるある。ならば、あさって、しあさって。てんぷらの出番はまだまだ向こう。
8時40分更新

 

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211209クラシッククラブを聴く ノトス・カルテット演奏会

2007年にベルリンで結成された世界でも珍しい常設のピアノ四重奏団、ノトス・カルテット。マーラーとバルトークのピアノ四重奏曲が演奏された。マーラーは16歳、バルトークは17歳で作曲された若き日の作品。バルトークは楽譜が失われていた知られざる作品で、ノトス・カルテットが再発見し、今回の日本初演が実現した。2019年7月2日、京都コンサートホール アンサンブルホールムラタでの収録。

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メンバー
シンドリ・レーデラ:ヴァイオリン 
アンドレア・ブルガー:ヴィオラ 
フィリップ・グラハム:チェロ 
アントニア・ケスター:ピアノ アントニア・ケスター

ノトス・カルテットはロンドン・パークハウスアワード、チャールズ・ヘンネン・コンクール(オランダ)で優勝、フィレンツェのヴィットリオ・グイ国際室内楽コンクールで優勝など、数々の国際音楽コンクールにて優秀賞を受賞。2014年の大阪国際室内楽コンクールでは、ピアノ三重奏及びピアノ四重奏部門で第2位。ロンドンのウィグモア・ホール、アムステルダムのコンセルトヘボウ、ベルリンのコンツェルトハウスなど、主要な音楽祭での演奏・ラジオ出演など様々な活動を行っています。彼らの音楽性の高さについては「ファンタスティックなアンサンブルだ」(ズービン・メータ)、「素晴らしい、これこそ真の音楽性の高さだ」(リン・ハレル)、「メンバー同士のみならず、聴衆へのコミュニケーションの力が素晴らしい」(シュロモ・ミンツ)など、名だたる巨匠演奏家たちが絶賛の言葉を惜しみません。(彼らのディスク頁からの転載)
 中でも世界初録音となるバルトークのピアノ四重奏曲ハ短調は注目です。バルトーク17歳の1898年に書かれたこの作品は出版されておらず自筆譜も紛失されたと言われていましたが、ノトス・カルテットのメンバーらは何年もかけて探索しついにその楽譜を発見したのでした。今回が世界初録音となります。(ディスク輸入元情報) 

「ピアノ四重奏曲イ短調」、歌心あふれる抒情性に富み、瑞々しい、それに加えてドラマ性も。とても16歳とは思われない老成した部分も。レーデラーであったか、我々はオーケストラのようにも23人で弾くようにも演奏できると語っていたが、もうこの曲からにして、ピアノが入っているという理由からばかりではなく、オケ並みの量感、質感を感じさせる。第一楽章からが終章のような豊かさがあり、この楽章だけでも事足りるかの満足感。曲が進むごとに、調和という目標はすでに眼下、気づけば各パートが完全に前面に躍り出て各々の個性を存分に発揮している。これがノトスならではの響き、滋養の豊かさであるかと。

バルトークの「ピアノ四重奏曲ハ短調」、これがまたすばらしかった。ノトスの誇りとする曲。レデラーがいう。この作品の存在はバルト-クの作品一覧で知る。楽譜もどこかにあるに違い譜を探した。そしてブタペストの国立公文書館で見つけたものの持ち出しもコピーを取ることができず演奏することができなかった。どうしてもこの曲を演奏したくて楽譜を探し続けやっと発見し手にしたときは信じられない思いだったという。初めて演奏して作品に命を吹き込んだ瞬間は何とも言えない気分だったという。またグラハムは、私たちはこの曲への理解を深めて来た。成熟期以降のバルトークのモダンな作風と異なり、ロマンチックで若々しく情熱的ですと語る。日本では初演。バルトーク17歳、ブラームスの影響が濃く、密度の高い演奏との解説。終始聴く者の意識を逸らせないすばらしい演奏だった。

アンコールはブルガーの日本語での紹介で、クライスラー「愛の悲しみ」エルガー「愛のあいさつ」2曲が。

 

 🎵面白い内容だった。
バルトークの「ピアノ四重奏曲 ハ短調」、これはバルトークがまだギムナジウムで学んでいる17歳の学生だったとき1898年に作曲したものだった。しかし楽譜は行方不明、長い間演奏されることはなかった。それを彼らノトス・カルテットが必ずやどこかにあるはずと諦めずに探し続けたところ、ついにブダペストの公文書館で発見、世界初演に漕ぎつけたのだ。素晴らしい! メンバーが「ロマンチックで若々しく情熱的、17歳の彼がその後どのように成長していったかがわかる」と語っていたが、彼らの演奏もバルトークの想いの具現化とともに我々がこの楽譜を発見したのだという誇りと気概に満ちており、聴いていてとても気分がよかった。
 アンコールではビオラのアンドレア・ブルガー、こういう自然な感じ(ステージではディスクジャケットの雰囲気とは別もの)の雰囲気が私には好ましく思われるのだが、日本語で「私たちはアンコール曲をもっています」と。こんなとき嬉しさを覚えるのだが、自分が日本人だと意識したことはないが、こういうところで、はいわたし日本人ですと思えるところが可笑しくもある。それもあり、これもあり、このカルテットに対する好感度は上がる一方。

🎧名曲アルバム。シェーンベルク「清められた夜」。ウェールズ弦楽四重奏団、ビオラ佐々木亮、チェロ上森祥平。

Dsc05391-2  シェーンベルクはウィーンに生まれ育つ。「清められた夜」はドイツの詩人デーメルの同名の詩をもとに書かれた。詩の内容は別の男性の子を宿した女性を受け入れるという内容。そのことばがグッとくる。「君と僕との間の温もりが子どもを輝かせるだろう」。もうほとんどマリアとヨセフのレベル。しかし聖霊による身ごもりではないところが互いの苦悩なのだ。デーメルの詩を読んでみないと詳しくはわからない。しかしこれほどの浄化された言葉をいうことができるところが感動。
シェーンベルクは1899年夏、作曲家のツェムリンスキー一家とバイエルバッハに滞在。ここでツェムリンスキーの妹との交際を深めるなかで、この曲を作曲したという。


⛳きょうは明るい日差し。9時50分更新

 

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211208 クラシッククラブを聴く キアロスクーロ四重奏団 演奏会

名手アリーナ・イブラギモヴァが率いるカルテット、キアロスクーロ四重奏団。チェロ以外の三人が立って演奏する独特なスタイルによる、しなやかなアンサンブルをおおくりする。【曲目】弦楽四重奏曲ト長調作品18第2(ベートーベン作曲)、弦楽四重奏曲第1番変ホ長調作品12(メンデルスゾーン作曲)【収録】2019年4月23日 王子ホール(東京都中央区)
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キアロスクーロ弦楽四重奏団は、ロンドンで学んだ弦楽器奏者により2005年に結成。メンバーは
アリーナ・イブラギモヴァ:ヴァイオリン
パブロ・ヘルナン・ベネディ:ヴァイオリン
エミリエ・ヘルンルント:ヴィオラ
クラーレ・ティリオン:チェロ

ガット弦を使い、立奏で行われるアンサンブルは、しなやかでダイナミック。彼らの演奏はヨーロッパの聴衆に高く評価されている。エディンバラ国際音楽祭をはじめ、ヨーロッパの音楽祭に数多く出演。また録音も意欲的に行っている。

 

コメント
クラーレ・ティリオン
:カルテットの「キアロスクーロ」とは、絵画の技法において光と影を意味します。この名にしたのはロジャー・ノリントンのおかげです。私たちがロンドンで学んでいたころ彼に会いました。指導を受けていた時に「もっと違いをはっきりと! キアロスクーロのように!」と言われたのです。音楽は緊張と緩和の対比なので、その名は最適です。全員が気に入っています。
アリーナ・イブラギモヴァ:色彩の違い、強弱、緊張と和みなど。多くの意味を持つことがすばらしいと思います。
パブロ・ヘルナン・ベネディ:キアロスクーロの演奏形態立奏については、立奏は自由になれます。私たちに新たな交流の方法をもたらしました。いつでも動けます。座って練習していても立つだけで音がより心地よく響きます。
エミリエ・ヘルンルント:ガット弦を使い、少し低い音程で演奏します。おすすめはしませんがその音色に魅了されました。純粋で美しい音、無機質な音、野性的な音も出せるので、皆その音が気に入っています。
アリーナ・イブラギモヴァ:この奏法はキアロスクーロ(光と影)の方針を発展させます。私たちは光と影の境界を広げようとしているのです。

曲目
弦楽四重奏曲 ト長調 作品18 第2 ベートーベン
 ベートーベンの作品186曲の弦楽四重奏曲で構成されている。1799年に完成。優雅な香りが漂う。主題が挨拶を交わしているように感じられるところから、「挨拶四重協奏曲」と呼ばれることもある。
弦楽四重奏曲第一番 変ホ長調 作品12 メンデルスゾーン
 メンデルスゾーンは1829年にこの曲を20歳で作曲。ベートーベンの影響を強く受けているが、メンデルスゾーンらしい端正なハーモニーも表れている。

 

🎵光と影を弦で描出するためにさまざまな工夫が為されているようだ。
2005
年の結成。「並外れたユニークな音色だけでなくアンサンブルに知性ある姿を兼ね備え」とユーラシックには出ている。この知性が曲を凌駕したというほどではないが、この知性支配とまでは言い難いかもしれないが、何か、曲そのものを超えていたという感じが。ただし、これがベートーベンの曲もたぶんに実験的であると感じられたままに聴いているわけで、そこに整合性を聴き分けられなかったのは、それこそ筆者の側の感性の乏しさであることも。メンデルスゾーンの終楽章の巧みさ見事さをこの曲でも見せつけられたというか、いよいよ認識を強くしたというか。終楽章が受けた多くの影響の集大成、大団円と感じられた。

🎧名曲アルバム。ドボルザーク「悲しみの聖母」
ソプラノ安井陽子、アルト加納悦子、テノール小原啓楼、バス小森輝彦
梅田俊明&東京フィル
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誕生したばかりの長女が亡くなり、さらに2人の子どもの死に打ちのめされるも、1877年にはチェコ初のオラトリオを作曲。これが後に彼の傑作のひとつと言われる「悲しみの聖母」。彼は妻を慰めようとこの曲を完成させたという。
よく散歩途中、聖イグナチオ教会に立ち寄り美しい聖母に祈りを捧げていたようだ。 


⛳街でまだクリスマスソングは聴いていないけれども、街の要所要所には今年も「もりおか森のリース」が飾られている。
リースの設置
もうひとこと書きたくもあるけれども、6時47分更新


 

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211207 クラシッククラブを聴く 東京・春・音楽祭2019 ヴェリタス弦楽四重奏団 演奏会

アメリカ、イギリス、日本と世界各地のオーケストラを拠点にもつ4人が集ったヴェリタス弦楽四重奏団。新世代の演奏家による四重奏をお送りする。【出演】ヴェリタス弦楽四重奏団(バイオリン:岩崎潤、島田真千子 ビオラ:小倉幸子 チェロ:工藤すみれ)【曲目】弦楽四重奏曲第2番「カンパニー」(グラス作曲)弦楽四重奏曲ヘ長調(ラヴェル作曲)ほか【収録】2019年3月27日 上野学園 石橋メモリアルホール

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コメント
Q
このアンサンブルについて
小倉:昔いろいろなカルテットをやっていたんですけれども、すばらしいソリストとしても活躍してらっしゃるような方々とやるというのは、すごく刺激になりましたよね。最初の音を聴いてびっくりしました。
工藤:楽しかった。私がはしゃいでいる写真ばっかりで、ほんとうに楽しかったんだなあと。
岩崎:カルテットでは誰もがアイデアを出し合い、またそれに喜んで応じます。私たちはソリストでもありますが、その4人の音が一つのまとまりになります。それが室内楽の醍醐味です。
Qラヴェルの弦楽四重奏曲について
島田:今回メインにしたラヴェルというのは、私たちは一番最初にメインに選んだ作品なんですね。4年経って、この前ナッシュビルでリハーサルしたんですけども、ぜんぜん4年前と違う音が鳴ったから、それは私たちのそれぞれの4年間の成長。
工藤:一回終わったらそれで終わりじゃないから。
島田:なんかすごくまた違うものができてたから、そうやって時間をかけてレパートリーを作っていくというのがいいのかなと思ってました。

 

曲目
☆弦楽四重奏曲 第7番 嬰ヘ短調 作品108作曲
妻ニーナに捧げた作品。ショスタコーヴィッチ自身この曲を愛してやまなかったという。
弦楽四重奏曲 第2番 「カンパニー」 フィリップ・グラス作曲
グラス自身が参加していた演劇集団「マブー・マインズ」の舞台「カンパニー」のために幕間曲を書いた。後に演奏会用の曲として独立させた。
弦楽四重奏曲 ヘ長調 ラヴェル作曲

 

🎵ショスタコーヴィッチ、けさは抵抗感なく。曲への抵抗感がいつしか消えた曲の中身が、けっこう問いかけや抵抗も感じられ、いまの自分を知らされたかのような。不可解とも聴こえる響きがこの曲の魅力と素直に耳を傾けるいま。
 ラヴェルの第一楽章、これを解説なしに聴いたらドビュッシーだと思ってしまいそう。wikipediaからの転載が多くてちょっと、なのだが、「ドビュッシーはラヴェルのこの作品に熱狂的な賛辞を送って、ラヴェルに終楽章を改訂せぬように説得し、次のように進言した。「音楽の神々の名とわが名にかけて、あなたの四重奏曲を一音符たりともいじってはいけません。」。しかしながらラヴェルは、出版にあたって作品全体を改訂して、より構築感が高まるようにした。弦楽四重奏曲はこの時代には難しいとされたジャンルであり、作曲家が成熟期を迎えるまでにこれを手懸けることは、まず滅多にないほどである。だが、当時まだ27歳のラヴェルはその作曲に挑んで、この楽種の傑作を示したのであった。」
2
楽章からは趣が変わり、4楽章でけっこう熱っぽく激しく、ラヴェルの感じが。
 それにしても、グラスの「カンパニー」、きょう、改めてミステリアスな曲と感じたけれども、それが胸中を幽魂たずねるごとくにくぐり抜けずにいたのだが、次のこれまた玄妙なラヴェルにかき消された。

 

🎧名曲アルバム。シベリウス「トゥオネラの白鳥」。飯守泰次郎&東京フィル
「死の川」と呼ばれるトゥオネラ川。黄泉の国との境を流れ、白鳥が浮かぶ。フィンランドの伝説に書かれた伝説の川である。千年以上もの時を経て口頭伝承されてきた英雄叙事詩「カレワラ」。リョンロット博士によって編纂され、1835年に出版された。
 ロシア圧政下にあったフィンランドでは、祖国独立への機運が高まる。「カレワラ」の伝説に強く惹きつけられ、「トゥオネラの白鳥」をシベリウスは作曲。作曲者の心を突き動かしたのは祖国フィンランドへの愛国心だった。フィンランドの画家ガレン・カレラが描いたトゥオネラ川の情景。英雄レンミンカイネンは、白鳥狩りのさ中殺されてしまう。しかし息子の死を嘆く母親の愛情によってよみがえる。

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⛳けさも番組途中の地震速報。動き揺れる大地。揺れ揺さぶられる人。そして不動の神。6時54分更新

 

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211206 クラシッククラブを聴く ベルチャ四重奏団

ダイナミックで自由な音楽解釈が高く評価されているベルチャ四重奏団。メンデルスゾーンの第6番ほか、作曲家の最後の弦楽四重奏曲を集めたコンサートからお送りする。【出演】ベルチャ四重奏団(バイオリン:コリーナ・ベルチャ、アクセル・シャハー、ビオラ:クシシュトフ・ホジェルスキー、チェロ:アントワーヌ・レデルラン)【曲目】弦楽四重奏曲第6番(メンデルスゾーン作曲)ほか【収録】2019年2月1日 紀尾井ホール

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ベルチャ四重奏団
1994
年英国王立音楽大学の4人によって結成される。1999年大阪国際室内楽コンクール、ボルドー国際弦楽四重奏コンクールで優勝。以来確実にキャリアを重ね、確かなテクニックと情熱的な演奏で現代最高峰の弦楽四重奏の一つと評されている。


コリーナ・ベルチャ:バイオリン ルーマニア出身
クシシュトフ・ホジェルスキー:ビオラ ポーランド出身
アクセル・シャハー:バイオリン後から加わったフランス出身
アントワーヌ・レデルラン :チェロ フランス出身

コメント
アントワーヌ・レデルラン
:コリーナとクシシュトフと四重奏をはじめた当初、「音楽文化」の違いを痛感しました。練習で注目するポイントがまったく違った。フランスでは技術的なことや音程が議論されますが、彼らにはすべての音に意味を感じさせることの方が重要だった。弦楽四重奏とは結婚生活のようなものです。お互いの隔たりを縮める努力によってすばらしい生活を送ることができるでしょう。
アクセル・シャハー:私は後から加わったので、音作りのやり方を観察する必要がありました。どのような曲にも新しい命を吹き込もうとしていました。「ここは適当に」という手抜きが一切ない。小さな部分にも何か面白いことを見つけそこで感じたことを聴衆と分かち合うのです。異なる解釈もありますが、私たちは自分たちの視点を紹介するだけです。
コリーナ・ベルチャ:常に「すり合わせ」が必要ですね。テクニックも違うし、ビブラートのかけ方も違う。アンサンブルとして目指しているのは、一つの楽器としての「響き」です。そのうえで各自の個性は大切に。会話と同じです。弦楽四重奏は4つの楽器の会話なのです。
今回は偉大な作曲家の最後の作品を集めたプログラムをつくりました。年月を経て作風が変化していく作曲家が、その人生の最後にたどり着いた形です。彼らの晩年の作品を並べたら面白いのではないかと考えました。
クシシュトフ・ホジェルスキー:そもそも弦楽四重奏というのは、西洋音楽が生んだ最高の芸術ですからね。毎晩名曲ばかり演奏させてもらってます。音楽家としてこれ以上幸せな生活はありません。

 

曲目
弦楽四重奏曲 変ロ長調 K.589 から モーツァルト
 モーツァルトの弦楽四重奏 の最後を飾る「プロシヤ王セット」の第二曲に当たる。チェロをたしなみ音楽を愛したプロイセン王フリードリヒ・ウィルヘルム二世の依頼で書かれた。王がこの曲を演奏することに配慮し、チェロが随所で活躍するのが特徴。
弦楽四重奏曲 第6番 ヘ短調 作品80  メンデルスゾーン
 1847年に作曲されたメンデルスゾーンの最後の弦楽四重奏曲。この曲に取り掛かる直前にともに音楽の道を歩んだ最愛の姉ファニーを失くしている。悲しみの中でこの曲を書き上げた2か月後彼自身も姉の後を追いように亡くなった。 

🎵はじめの数小節を聴いただけで、最後のブラボーが聴こえたような。互いが互いの音と音楽を熟知しており、それが互いの細胞の成分ともなっているのではと思うほど。愁嘆も悲しみも美しさと浄化。特にメンデルスゾーンの方でダイナミックにして情熱的と納得。斬新な切り口。これは最後まで迫り徹頭徹尾聴かせるのか、そしてそれは当たっていた。緊迫感が注意力を逸らせない。寂しげな影が移ろう。これがあの「ホ短調」を作曲した彼なのか。第2楽章での煩悶。第3楽章で魂の居場所を求め探り出したか。第4楽章、情動の緩急の巧みさ。1楽章がここで尚深まり行く感じが。おさまりのつかぬ索漠に敢えて折り合い整合性をつけるかに弦が融和し一つのマッスとなって落着。実にすばらしい演奏だった。

 

🎧名曲アルバム。ワーグナー「ニュルンベルクのマイスタージンが―
広上淳一N
この指揮を務めている広上淳一さんが京都市交響楽団で常任指揮者と芸術顧問を20223月末に退任することになっているらしい。聴衆から以上に楽団員からの評価が高いとネットには出ていた。広上さん自身「京響との出会いは指揮者人生の中で輝く宝」と仰っていたのだ。広上さんは「数々のコンサートが中止に追い込まれ、経済的に苦しんでいる楽団をサポートするために、活動を始める」と仰っている。この名曲アルバムにもけっこうお名前が出ており、携わった曲を聴いてきただけに今年度限りの退任は寂しい限りだ。

一応、ワーグナーが頓挫していたニュルンベルグのマイスタージンガーの創作の完成を決意させた偉大な作品ティツィアーノ「聖母被昇天」の一部切り取り写真を。
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⛳ベルチャ四重奏団、前に聴いた通りの思いをもって今回も聴いた。それが、聴きながら朝いただくものを作っていたのだが、曲を聴くうちに、醤油、みりん、だしの素といった定番の煮物の味付けを、がらりと変えてみたくなった。材料は何のこともない大根、ゴボウ、ニンジン、しめじの4種類。そうだ、きょうはコンソメスープでやってみよう。チェロの弦に、何か物足りないとなり、バター少々、コショーを。バイオリン弦の響きで、ニンニクひとかけを擂りおろし、完全にハモったところで、そういえばワインがあった。あけたのは半年前かもっと以前か、ま、かまいはしないと適当量を鍋に。豊かな音に、これではちょっと具材が足りないかな。ジャガイモと玉ねぎを急ぎ割って放り込む。音量の豊かさに、こうなるとスープが足りないと100パーセント無塩トマトジュースを注ぎ込む。滋養のベルチャ、そうこうなれば鶏肉を足しておこう。くつくつくつくつ。そして私はこの煮物をベルチャ・ボイルドと名づけてみた。きょうは3食、ベルチャ・ボイルドになるかも。

久方ぶりかの7時台、7時14分更新

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きょうのことば『愛の溢れたクリスマス』 第一アドベント

クリスマスリース イラスト素材

インマヌエル盛岡キリスト教会2021年11月28日(日)第一アドベントの礼拝メッセージをお伝えいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で48年目のご奉仕をしておられます。

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説教題 『愛の溢れたクリスマス』 (第一アドベント 國光勝美 牧師)
聖書朗読 新約聖書  ヨハネの手紙第一 4章7~12
7
愛する者たち。私たちは互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。愛のある者はみな神から生まれ、神を知っています。
8 愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。
9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によってわたしたちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。
10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。
11 愛する者たち。神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた、互いに愛し合うべきです。
12 いまだかつて神を見た者はいません。私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにとどまり、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。

 

<おはなし>

 この朝は『愛の溢れたクリスマス』という説教題で、みことばのご用に立たせていただいております。

 第一アドベント、第二アドベント、第三アドベントというように、クリスマスの前の聖日を私たちはアドベントと呼んでおります。待降節という表現も同じであります。このアドベントというのは「来臨」です。これは尊い方がおいでくださるという意味のことばが用いられます。おいでくださる。それは私たちの救い主イエス様がこの世に臨まれる、おいでくださるということを当然ながら意味します。
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 私たちは、神様がこの世界を、或いは、この歴史の始まり、そして締めくくりまでをすべてご支配してくださる。神様の「経綸」ということばを用いますけれども、神様は私たちにすばらしい計画をお持ちくださいました。そして、救い主が私たちに与えられるというとき、私たちの今の時代から見るのならば、2000年ほど昔、神のひとり子が天からこの世においでくださった。これがアドベント、クリスマスのときにおいでくださった。しかし、これだけではなくして、もう一つ、このお方はやがて、こんどは王の王、主の主としてこの世においでくださる。アドベントしてくださるのです。

 私たちがふつうアドベントというときには、イエス様のご降誕を意識する。それは当然ですけれども、しかしそれが、過去において事実であった神様のご計画、ご経綸の中に、こんどは私たちから見て、将来、王の王、主の主として神様はおいでくださる。そのことを心にとめながら、先ず今の私たちは、クリスマス直前の4週間、クリスマスを待ち望む準備期間として、いよいよこのときをお迎えしたわけであります。 

 聖書のいちばん最後のところですけれども黙示録22章16節、イエス様はご自身を、「わたしはダビデの根、また子孫、輝く明けの明星である」といっておられます。明けの明星、これは暗いところにいちばん明るく輝く金星ですけれども、明けの明星、そのように主イエス様はおいでくださいました。そして再臨のときは、第一コリント第15章24、25節「キリストはあらゆる支配と、あらゆる権威、権力を滅ぼし、王国を父である神に渡されます。すべての敵をその足の下に置くまで、キリストは王として治めることになっているからです」

 クリスマスのとき、博士たちは星に導かれ、羊飼いたちは星に導かれました。このお方がクリスマスのとき、人としてお生まれくださいました。そしてこのお方は、もういちど、こんどは輝く太陽が昇るように、第二降臨のときには、つまり再臨のときには、王の王、主の主としておいでくださるということを、どうぞこのとき私たちの心にとめさせていただきたいと思うのであります。

 さて、きょうはそのアドベントのはなしでありますが、よくクリスマスのときに、赤とグリーン、緑がリボンとして結ばれていたり飾られていたりしています。ほんとうは皆さんがおいでくださるとき、教会にお入りくださるときに、アドベントのクリスマスのカラー、そしてリースがいま飾られておりますけれども、赤は神の愛とイエス様の十字架の血による贖いを象徴しています。また、緑の色は永遠のいのち神様の永遠の愛をあらわすものとしてクリスマスカラーとして私たちは用いておりますけれども、これがリースというときには、始めがなく終わりがない、永遠のというそういうことが心にとめられております。どうぞクリスマス・アドベントのとき、それぞれのおうちに、ゆるされたのならば、このリボンをつける。そして、クリスマスのリースを用いていただき、或いは、おへやにこれを飾っていただいたのならば、クリスマスに相応しいのかなとこのようにも思っております。

 私は、「愛の溢れたクリスマス」、これをきょうアドベントの第一聖日のとき導かれたように思います。

 クリスマスのできごととして、聖書で、たとえばマタイの1章を思います。ヨセフにみ使いが現れて、「恐れずにマリアをあなたの妻として迎えなさい。その胎に宿っている子は聖霊によるのです」。こういってヨセフを励まして、そしてヨセフはその通りにしました。ルカの福音書2章をご覧いただきますと、まさしくクリスマスの、私たちの親しんでいるあのできごとが記されてあります。これらを毎年毎年思いめぐらしますとき、クリスマス、これは、ほんとうに「愛の溢れたクリスマス」です。
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 今日私は讃美歌を選びますときに、「心を熱くしてという」という福音讃美歌の56番を、プログラムを作る特権として選びました。それは私にとりましては、忘れられない讃美歌、クリスマスになると思い起すのです。学生時代の御茶ノ水で1968年11月に、このイエス・キリストの十字架の意味を初めて知らさせていただきました。そして救われて信仰を持って1か月後はもうクリスマスのときであります。御茶ノ水の当時の学生キリスト教会館でもクリスマスのメッセージが取り次がれておりました。そんな中に、この讃美歌が歌われました。O how I love Jesus. Because God loved me first 「こんなに私はイエス様を愛してます。それは神様がまず私を愛してくださったからです」というこの讃美歌が、繰り返しくりかえし流れておりました。
8 愛のない者は神を知りません。神は愛だからです。
9 神はそのひとり子を世に遣わし、その方によってわたしたちにいのちを得させてくださいました。それによって神の愛が私たちに示されたのです。私たちが神を愛したのではな10 私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、宥めのささげ物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです。

 世の中では、クリスマスがまったくこのこととは離れて祝われている、というよりも利用されているというのがほんとうでしょうけれども、毎年この時期、私もかつてはクリスマスというのは、そういう日なんだろうと思っていました。たとえば盛岡駅で多くの方々にランダムにマイクを向けて、クリスマスってどういう日か知ってますかと訊いてみたとしたなら。ケーキを食べる日とか、サンタクロースの生まれた日だとか、そんな答えが珍しくなく返ってくるだろうと思います。そのときに、イエス様がこの世に救い主としてお生まれくださった日と答えられる方は何人いらっしゃるでしょう。

 神様の愛をほんとうに知ることができた私にとりましては、1968年11月16日のあのときから、神様のご愛をアーメン、有難うございます、こんな者のためにと言うことができるようになりました。勿論信じた当初は聖書を読んだことがありませんでしたし、聖書に関してほとんど無知でしたけれども、それはそれでいいのです。ただ神の愛をそのとき、気づかせてくださって、それから今日までその意味の深さ、大きさ、高さ、長さを知らされてきています。それらのことは成長の問題です。救われたとき、信じたときにはまったく何もわからなかった者ですけれども、年ごとにイエス様のご愛を深く深く知りますとき、そうだ、愛のない者は神を知らない。神は愛なんだから。こんな者のために、ひとり子をこの世にお遣わし下さった、ありがとうございます。この神様の愛の溢れたクリスマス。それを、こんどはすこし角度を変えて、ヨセフに見ていきたく思います。

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 マリアの懐胎、これがヨセフの思い悩むことであるということをたぶんご想像いただけるでしょう。これからともに生きていく伴侶者が、何とすでに身ごもっているということを知ったヨセフはほんとうに苦しんだと思います。マリアを慮って愛している者にとったならば、こんな苦悩はありません。また払拭しようとしてもまたしてもまたしても心の中に広がりゆく疑惑の雲。私たちは2000年の昔のこのようなことで知っていますけれども、どうか、ヨセフのこのときのことを自分のこととしてご想像ください。どれほど苦しんだことか。そして恐れです。マリアを愛していればいるほど、この三つのことばだけでは到底あらわしきれないヨセフの心の中の葛藤、苦しさ、突然やってまいります。これはわたしたちが信仰生活を歩んでおりますときに、さまざまなできごとに直面して、できたらばこのような問題は避けたいと思いながら、避ける事のできない人間関係があったり、そのほかのできごとに直面いたします。健康的な課題ということが突然やってくるかもしれません。さまざまなそういったできごと、苦難。ヨセフにとってはまさにそうでしたけれども、そのときに、ほんとうのありのままの人間が現れてくるのです。そのときに私たちは、ほんとうに神様を呼び求める者とされます。もうこれは理屈を超えて苦難や試練に私たちが直面いたしましたときに、本当の意味で自分が持っている信仰というものをベースに心の底から主よと呼ばわる。詩篇のきょうの30篇を思い起してもいいかもしれません。ほんとうに苦しみの中で主よ!

 どうか試練や苦しみ、悲しみ、そのようなときに、これはもういちど神様を主よ! と呼ぶ者とされているのだ。ヨセフはそのときを、このいちばん悲しい辛い苦しいときに真実に神を呼び求める者となりました。そしてさらに、いうのならば、私たちはほんとうに2000年もあとのすべてのことを、聖書を通して知っているから言えるのですけれども、それは結果のことであって、このときのヨセフ、マリアのことを思えば思うほど、自らの足りなさ、自らの弱さ、これを決定的に扱われるとき。私たちはそうです。人を批判したり、さまざまなそういったできごとに、直面しようとするときに、ほんとうに神様の前に出ようとするときに、あなたはどうなんだ。自分自身の在り方、そのことと真剣に向き合わされるとき。そうです。私たちが思いがけない試練に苦しみに直面するのは、自分自身の本当の弱さ、ほんとうの自分自身にしっかりと向き合うとき。このとき気を付けませんと悪魔がやってきて、そうだ、だからお前はダメなんだ。と私たちに誘惑してくるでしょう。でもそのときに、ご聖霊様は違います。そのような真実な神様の前に出るときに、聖霊様は、そうあなたは弱い。あなたは自分の力でそれをしようとしてもダメですよ。だから、神様にいつでも心を向けて、神様の臨在の中を歩むように。そのようなときに、もういちど自分自身をしっかり見つめ、自分の頑張りでは到底間に合わない、そのことを聖霊様によって、だからこそ、神様、あなたが、あなたでいらっしゃる。我は主にして、あなたを癒すものなればなり。神様の臨在の中を歩む者とされる。このとき、ヨセフが徹底的に神様の前に扱われたからこそ、この後ルカ2章に続くさまざまな苦難、クリスマスのできごとに、ヨセフがヨセフとして、その歩みを神に喜ばれるものとしてされたに違いありません。

 愛する者たち、神がこれほどまでに私たちを愛してくださったのなら、私たちもまた互いに愛し合うべきです。
マリアを心から受け入れ、尊敬し、そしてともに主の臨在の中を歩むこと。どうか私たちもまた、「互いに」というとき、一番近いのは夫婦関係かもしれません。一番近いのは家族関係でしょう。また一番近くあるのは職場であるのかもしれない。さまざまな方々の中に私たちは囲まれて生きていますけれども、神様のひとり子をたもうほどの愛を知らされた者として、愛する者たち、神がこれほどまでにこんな私を愛してくださっているのですから、私たちもまた互いに、どうかクリスマスのときに神様と私たち、上と私たちという上下の関係ではなく、互いにという横の関係をしっかりと捕らえ、自らを悔い改め、自らの頑張りを捨て、そして神様により頼む、神の臨在の中を歩ませていただく、ヨセフに倣うクリスマスの過ごし方をさせていただこうではありませんか。

 

このあと、厳かに、聖餐式が持たれました。

 

データは教会からお借りしています。
⏰7時6分更新


 

 

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雑感

J-MEROを見逃し、次は、とTV画面をのぞき込む。美しい紅葉。京都のどこぞの寺だろうかと見ていると、何と中尊寺の弁財天堂を囲む紅葉だった。この番組で思いもかけず、自分の意識には届いていなかった岩手の価値の見直しをさせられることになった。
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中尊寺と言うと金色堂。観たことはあるけれども、信仰、慰霊といった宗教面、文化財としての価値、当時の人々の建築物への驚き、畏敬の思い、また為政者の権力誇示など偲ばれもするが、個人的には金づくめにちょっと引いてしまう。けれども、今回、達谷窟毘沙門神楽を発掘し守ってきた家族の方々を拝見し、向こうでもロマやマズルカがさまざまな芸術分野に影響を及ぼしていることが思い出され、こういった神楽をのこそうと尽力されたその尊さが改めて思われた。
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照井幸男さん
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⛳22時2分更新

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211203クラシッククラブを聴く Piano duo Sakamoto 〜姉妹が奏でるデュオの名曲〜

 姉の坂本彩は4歳から、妹のリサは3歳からピアノを始める。幼い頃から姉妹でデュオを組んで演奏活動を続けてきた。2021年のミュンヘン国際音楽コンクールピアノ・デュオ部門で3位入賞および聴衆賞受賞。【演奏】坂本彩、坂本リサ
【曲目】エロールの歌劇「マリー」の主題による変奏曲(シューベルト)
    5つの絵画的小品(マックス・レーガー)
    モーツァルトの主題による変奏曲とフーガ(マックス・レーガー)
【収録】2021年10月12日 目黒パーシモンホール。

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 坂本彩、坂本リサは幼いころからピアノ・デュオで演奏してきた。姉妹は福岡県出身。姉の彩は桐朋学園音楽大学音楽学部を卒業後、東京芸術大学大学院を修了。第11回ルーマニア国際コンクールピアノ部門で最高位獲得。地元の九州交響楽団と共演するなどソリストとしても活躍。妹のリサは東京芸術大学卒業後、大学院に進学。第7回エレーナ・リヒテル国際コンクール第一位。芸大フィルハーモニーと共演のほか、ラフォル・ジュルネと共演するなど、多岐にわたって活躍中。二人はともにドイツ、ロストック演劇大学のピアノ・デュオ科で学ぶ。2021年にはミュンヘン国際音楽コンクールピアノ・デュオ部門で第3位、同時に聴衆賞も受賞。

お二人のコメント:
私が4歳で、姉が6歳のときから初めて二人で連弾をして、それからずっと続けてきました。二人で一つの音楽をぴったりと、でも自由に演奏できた時がとても幸せで、やっぱりこの数年で今まで気が付かなかったようなピアノデュオの奥深さというか、その魅力にとっぷりハマっているので、そういう魅力をたくさんの人に伝えられるような演奏ができたらいいなと思います。
 「エロールの歌劇「マリー」の主題による変奏曲」は、すごくユーモアたっぷりで、ほんとうにかわいらしいメロディーが演奏曲の主題になっているんですけれども、登場人物が次つぎと、いろいろな表情で歌っているように、そんなイメージで二人で演奏しています。
 ミュンヘン国際コンクールについては、課題曲が多くて、私たち的にも見たことも聞いたこともない   あって、準備期間ほんとうに大変でした。やはり大きなコンクールなのでいつか挑戦できたらいいなと思っていて、ピアノ部門は6年ぶりの開催だったので、ついにという気持ちで参加しました。(受賞は)本当に光栄ですし、やはりその準備期間もですけど、ミュンヘンに行ってからやはり独特なコンクールの緊張感とか、ふだんとかけ離れた生活の中で、私たちなりにいろんなことを感じて吸収しての本番。本番まで、その期間のあいだですごく成長できたかなと思います。今回聴衆賞いただけて、それが私たちの演奏が聴いてくださった方の心にすこしでも届いたのかなと思うと一番嬉しかったです。やはり受賞してピアノデュオに向き合う時間が長くなって、二人でほんとに些細なことまでイメージや気持ちを共有しながら日々過ごしてたんですけれど、私たちの先生が、とにかく内側からオープンになれるようなレッスンをいつもしてくださって、そこで何かが、私たちの音楽がはじけたのかなと思います。音楽に対する考え方も曲に対する考え方もすこし変わって、ピアノデュオを演奏することも前より好きになりましたし、たぶん愛情が増えたのかなと思います。
「つの絵画的小品」、この作品の題名に絵画的とあるように、私たち自身で5つの絵を想像しながら弾いているんですけど、一曲一曲の演奏時間はすごく短いんですけど、その中で、気分の浮き沈み、気分の浮き沈みに私たちが演奏していて置いて行かれそうになるようなそんな感じで、もうころころと表情が変わって、そういうドラマティックな魅力がたっぷりかなと思います。

🎵モーツァルトは分かりやすいだけに、編曲者のイメージの色彩を重ねて、幾分トーンが落ちていたりすると、ちょっとこれはモーツァルトでなくなったなというところも。そこにはさまざまな編曲者の意匠があるのだろうけれども。
 華やかな連弾。視覚も魅せられた連弾。

🎧
名曲アルバム。
チャイコフスキー「花のワルツ」~くるみ割り人形~、高関健&N
チャイコフスキー出身のペテルブルク音楽院
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くるみ割り人形が初演されたマリインスキー劇場
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⛳20時56分更新

 

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211202 、ニコライ・ルガンスキー ピアノ・リサイタル

「ロシア・ピアニズム」の正統派として高く評価されているピアニスト、ニコライ・ルガンスキーのリサイタルから。2018年2月、東京・紀尾井ホールで収録。番組紹介からー

番組HPから

ニコライ・ルガンスキー
1972
年モスクワ生まれ。モスクワ音楽院でタチアナ・ニコラーエワ、ヘルゲイ・ドレンスキーに師事。1994年チャイコフスキー国際コンクール第2(最高位)。優雅で繊細、時に力強く輝かし演奏は、ロシア・ピアニズムの正統派として高く評価されている。20134月栄誉あるロシア人民芸術家の称号を授与された。ルガンスキーは、ロシア音楽、特にラフマニノフの演奏に定評がある。

ルガンスキーのコメント
ピアノに向き合う時の気持ちについては
多彩なアーティストでありたいとおもっています。それぞれの作品に入り込み、その作曲家になりきって演奏することを目指しています。内面的にも作曲家に同調して苦悩を感じたり、子どものような感性をもったりと変化していかねばならない。演奏する曲によって、異なる課題を自分に課しているのです。
シューマンの「こどもの情景」については
私は10歳の時に弾いたこの曲に45歳になった今戻ってきました。私はこの曲が子どものための作品なのか大人のための作品なのかいつも不思議に思います。シューマンはまるで子どものような生き生きした感受性を持っていました。大人にとって何気ないことでも、子どもは大きな反応を示すものです。大人と子どもが組み合わされたようなこの作品にシューマンは日常のふとしたことへの感情をこめました。その感情は子どもにも大人にも感じ取ることができるのです。
ショパンの「舟歌」については
この曲は私が最も好きなショパンの作品の一つです。「舟歌」はショパン晩年の作品で、彼の哲学的な面が映し出されています。世界はすばらしく感動をもたらすものだというショパンのメッセージが伝わってきます。
「バラード第4番」につては
ショパンの作品の中で最も美しく、そして悲劇の色が濃い作品です。ショパンが書いた4曲のバラードの中で最も悲劇的で夢、幸福、愛は最も悲しい結末を迎えます。この曲も私が最も好きなショパンの作品です。

曲目 
 ☆「こどもの情景 作品15」シューマン:作曲
「こどもの情景」は、13の小品で構成された若きシューマンのピアノ作品。比較的やさしいテクニックで演奏できるように書かれているが、子ども用の教材作品ではなく、「クライスレリアーナ」や「幻想曲」とともにシューマンの創作活動を代表する傑作の一つ。
1知らない国々、2珍しいお話、3鬼ごっこ、4おねだり、5満足、6大事件、7トロイメライ、8炉ばたで、9木馬の騎士、10むきになって、11おどかし、12こどもは眠る、13詩人のお話
「舟歌 作品60ショパン:作曲
「舟歌」は幻想ポロネーズ、マズルカ作品59、夜想曲作品62などと同じく、ショパン晩年の1曲。ベネチアのゴンドラの唄に端を発するジャンルの作品で、流麗なメロディーが歌われるが、晩年のショパンの作品に共通する憂愁が全体を覆っている。
「バラード第4番 へ短調 作品52ショパン:作曲
ショパンは、「バラード」と名付けた作品を4曲遺した。(一節書き落とし)きわめて自由な形で進行し、ドラマティクなクライマックスと一瞬の静寂、そして悲劇的なコーダで曲が閉じられる。ショパンの最高傑作と評価されることも多く、名作として名高い1曲。
「リラの花」ラフマニノフ:作曲
「練習曲 ヘ長調 作品108ショパン:作曲

🎵「こどもの情景」は7トロイメライ、9木馬の騎士に耳障りの良さを感じてきたけれども、今回は12こどもは眠る、13詩人のお話といった静けさに沈潜していくような感覚に安らぎを覚えた。「バラード第4番」はやはり圧倒的。ルガンスキーの会心の笑顔、ほくそ笑みをとらえようとすると容易ではないのだが、アンコールの2曲を聴いていて、すべては演奏に込められているのだなと。
 きょうは

🎧ドイツ民謡、ニウ ナオミ編曲「もみの木」
円光寺雅彦&東京フィル、東京少年少女合唱団 Jr.シニア&ユース・コア
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質素に穏やかに過ごすのがドイツのクリスマス。クリスマス・ツリーを飾るのはドイツ生まれ。ドイツでは、生命力と堅実さの象徴。
「もみの木 もみの木 おまえはいつも変わらない」。雪を積むもみの木。樹木はすばらしいけれども、樹木の詩や歌もまたすばらしい。

 

⛳そして今朝の盛岡の雪景色、雪をまぶされた樹木もきれいでした。
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20時7分更新






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211201クラシッククラブを聴く イリーナ・チュコフスカヤ ピアノ・リサイタル

ロシアのピアニスト、イリーナ・チュコフスカヤは1980年ショパンコンクールに入賞しながらも旧ソビエト政府によって、その後10年近く外国での活動が禁止された。現在は国際的に、演奏活動と日本やロシアで教べんも執る。【曲目】ワルツ作品38(スクリャービン作曲)、ピアノ・ソナタ第3番(ショパン)、「くるみ割り人形」から(チャイコフスキー作曲)【収録】2021年2月21日愛知県立芸術大学室内楽ホールー番組からー

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イリーナ・チュコフスカヤ
2019年から愛知県立芸術大学客員教授。モスクワ音楽院で学び、1980年ショパン国際ピアノコンクール第6位。その後、旧ソ連政府より活動を制限され、1989年に渡米するまでは、ソビエト国内でのみ演奏活動を続ける。現在は世界各国で国際的な活動を続ける一方、モスクワ音楽院やグネーシー音楽大学でも教鞭を執る。1980年代のソ連の混迷はこちら

イリーナ・チュコフスカヤのコメント
ロシアの音楽には古い歴史はなくヨーロッパ音楽によって育まれました。ロシアの作曲家はヨーロッパ音楽を吸収し、育てられてきたのです。チャイコフスキーはメンデルスゾーンやマイアベーア、ベートーベンの影響を受け、スクリャービンはワーグナーの影響を受けました。チャイコフスキーが活躍した19世紀は、ロシア文化の黄金時代でした。有名ではない作曲家も大勢いて特別な土壌が生まれました。だからこそこのような音楽が生まれたのです。チャイコフスキーは皇帝から年に3000の銀貨を与えられました。皇帝自身が芸術を大変好み、協力していた時代だったのです。
Q1980
年ショパンコンクール入賞の影響は
当時ソビエト連邦共産党に入っていた人々は、外国への行き来が自由でしたが、私はコンクールの後、すぐモスクワに呼び戻されてしまいました。そのため音楽仲間にも会えず、プロモーターとも接触できませんでした。10年近くも外国に行くことができなかったのです。ずっと悔しい思いでいっぱいでした。
Q
ショパンのピアノ・ソナタ第3番について
この曲はコンクールで演奏しその後も何度も弾きましたが、さらにその後はしばらくの間は弾きませんでした。そして今やこの作品を再発見したのです。全く新しい作品のようにに思われたことに驚きました。明確には言えないのですが、ほんとうに興奮しました。この作品にスリルを感じるようになり、毎回の練習が楽しみとなりました。

 

 

曲目
マズルカ Op.3―9
 (スクリャービン)
 ピアニストとして高く評価されていたスクリャービン(18721915)。初期のピアノ曲にはリストやショパンの影響がうかがわれる。
2
つの詩曲 作品32  (スクリャービン)
 1903年に書かれたこの詩曲は、優美で幻想的な響きが印象的。
ワルツ 作品38 (スクリャービン)
 スクリャービン自身が大変好んでいたといわれる曲。ワルツだが自由に発展する幻想曲風な変奏曲となっている。
ピアノ・ソナタ第3番 ロ短調 作品58 (ショパン)
 即興性を重んじたショパンが生涯に残したピアノ・ソナタは全3曲と決して多くはないが、第3番は洗練された美しさとダイナミックな響きを持つ最高傑作である。
アンコール バレエ音楽「くるみ割り人形」から「パ・ド・ドゥ」(チャイコフスキー、ドゥボフ編曲)
 王子と金平糖の精による「パ・ド・ドゥ」は華やかな音楽で舞台をクライマックスへと盛り上げる。

 🎵演奏家の人生を知ったとき、それが殊に困難さを潜ってきている場合などは、この場合は体制下での行動制限だけれども、胸が痛み、そのドラマのゆえに、何度でも繰り返し聴くことに抵抗がない。しかし、演奏家としてはやはり数々のステージを踏むことがあってまた高みへと磨かれ飛躍もできるのかと。そのチャンスを奪われることの無念さが想われた。

 

🎧名曲アルバム。ヴィヴァルディ「四季」から「冬」。
バイオリン千住真理子。高関&東京フィル。
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千住のストラディヴァリは日本音楽財団から貸与された1714年製のドルフィン。これがヤッシャ・ハイフェッツが所有していたことのある楽器。300年を経た名器のこの音なのだ。張り詰めた氷が冷たく明るく光を放つ弦の響きは何ともいわれず聖く鋭く澄んで美しい。

⛳きょうも番組途中、地震があった。山形の置賜地方。震度は3。時を置かずに、どこかが動き揺れている。ベネチアのゴンドラなら揺れても心地よかろうが……
19時58分更新

 

 

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