

インマヌエル盛岡キリスト教会2021年12月19日(日)クリスマス礼拝メッセージをお伝えいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で48年目のご奉仕をしておられます。

説教題 『言い尽くしがたき神の賜物』 (クリスマス礼拝メッセージ 國光勝美 牧師)
聖書朗読 新約聖書 第二コリント9章15節
ことばに表せないほどの賜物のゆえに、神に感謝します。
<おはなし>
クリスマスおめでとうございます。
2021年のクリスマスをこのような形(ハイブリット)でお迎えすることができました。
まず、ここで「言い尽くしがたき神の賜物」を、ほとんど解説をつけずに、復習のようにお話しいたします。
これが2021年のクリスマスの思いめぐらし、御子の誕生、これは神の賜物であったということ、決して報酬ではない。それを受ける事、それが謙遜である。まさにクリスマスの恵みは「心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人たちのものだからです」(マタイ5:3)
この報酬ではない、恵みなのだということを語らせていただきました。私たちがもし報酬を受けるとするのならば、死以外にはない。しかし、神の賜物は御子イエス様にある永遠のいのちであり、そのことを示してくださるお方は、聖霊である。この聖霊様からイエス様の十字架を見るとき、ここには私が自分ではどうすることもできない罪がある。しかし神様が賜物として御子をお降しくださった、このことを感謝して受けていきたい。
東の博士たちが、この「言い尽くしがたき神の賜物」を知って、彼らの光に従ってやってきました。そして、博士たちは、私たちが礼拝で献げものをするのと同じように、献げものをいたしました。しかしこのとき、発想の大転換に、私は今回大きな光を、恵みをいただいたのです。それは、何と、あろうことか博士たちがひざまずいて御子におささげした、そのように神様が私たちの前にどうぞ受けてください、あなたのために私はこのようなプレゼントを準備しました、どうぞ受けてくださいと神様の側から身を低くして、御子をあの飼い葉おけの中にお遣わしくださった。この中に、ほんとうの礼拝、私たちのあるべき姿があります。これをキリストは神ご自身であるのにも関わらず己を虚しくして人としてこの世においでくださった。ただに人としてだけではなく、死にいたるまで、十字架の死にいたるまでこのように身を低くしてくださったお方をどうぞ受けてくださいと、これほどまでに神様が、身を低くしてくださった。何たる惠、この発想の大転換は、私にとっては大きな大きな神様からの語り掛けでありました。
クリスマスになりますと、クリスマスイブにはキャンドル・サービスがあります。そのとき私は必ず、ヘンデルのメサイアを、集まった皆さんと共に聞きました。そしてキャンドルサービスを行いました。今年は、富士見台教会のユーチューブ、これがすばらしい恵みですので、これを観てからのキャンドル・サービスとなります。
是非ことしの締めくくりの時には、このメサイアをともに歌わせていただきたいと心から願ったことであります。
イエス様がお生まれになるおよそ700年ほど前に、やがて救い主がお生まれになるというクリスマスの預言が、一人の預言者によって語られています。有名なイザヤであります。
イザヤ書9章6節
ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、その名は「不思議な助言者、力ある神、永遠の父、平和の君」と呼ばれる。
訳し方によって「その名は」というところ、私たちが今使っております聖書には「不思議な助言者」とこのように訳されておりますし、そのように訳すことが多いように思いますが、別の訳とすれば、「その名は不思議な助言者」ではなく、「ワンダフル」、「不思議」という名まえ、そして「助言者」、「カウンセラー」、このような訳もございます。文語訳聖書はその立場をとっております。これは言語学の問題、解釈の問題でありましょう。
いずれにせよイザヤが救い主のお誕生の700年も前に、「ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。主権はその肩にあり、」(イザヤ9:6)と記し、700年先に起こるイエス・キリストの誕生を、あたかも今目の前にしているかです。
ここでイザヤの53章をお開きください。ここにはイエス様のご受難、十字架のできごとが、またしても見てきたように記されています。
7 彼は痛めつけられ、苦しんだ。だが、口を開かない。屠り場に引かれていく羊のように、毛を刈る者の前で黙っている雌羊のように、彼は口を開かない。
8 虐げとさばきによって、彼は取り去られた。彼の時代の者で、だれが思ったことか。彼が私の民の背きのゆえに打たれ、生ける者の地から絶たれたのだと。
9 彼の墓は、悪者どもとともに、富む者とともに、その死の時に設けられた。彼は不法を働かず、その口に欺きはなかったが。
10 しかし、彼を砕いて病を負わせることは主のみこころであった。彼が自分のいのちを代償のささげ物とするなら、末長く子孫を見ることができ、主のみこころは彼によって成し遂げられる。
イザヤ書53章に十字架のことが預言されております。そして先ほどのイザヤの9章のところでは、このお方は、「その名はふしぎな助言者、力ある神、永遠の父、平和の君と呼ばれる。」、これを私たちはこのように理解をしております。
イザヤは9章で「ひとりのみどりごが与えられた」700年後のできごとを見、そしてザヤ53章にあるように、イザヤは主の十字架を見ることができた。9章のところでは、このお方が王の王であるといっています。
このようにイザヤは救い主の誕生を預言しております。そして今私たちは現時点この場所にこの時代に生きているわけでありまして、私たちから見るのならば、救い主の誕生と救い主の十字架はすでに過去のものです。そして、これからやがて主は、王の王の、主の主としておいでになることは、私たちには、これは将来のことであると理解できます。
ひとりのみどりごが私たちのために生まれる。ひとりの男の子が私たちに与えられる。
私はこのおことばを何回も心ににれはみながら、この「私たちのために生まれる」「私たちに与えられる」ということば、これは一般化されている表現ではないか。何を言おうとしているのか、それは、私たちに与えられている。そしてこれは、まさに私に与えられている。クリスマスのできごとを、主は私たちを救ってくださるために御子をお遣わしくださったというのは、まさにそれはその通りです。しかし、私はこういうことばはあまり使いたくない。
宗教ということばがあります。私などは公の書類に職業は牧師と書きます。宗教家という肩書がついてしまいます。でも宗教というときに、これは、神と私についての事象を取り扱っていること。でも私がたしはこれに納得しない。一般化していることではなく、私と神様とどういう関係に今あるのか。私の関係はどうなっているのか。私たちに与えられたけっこうなことです。私たちに与えられる。それはすばらしいいことです。だけれども、今回このクリスマスの時にはっきりしておきたいことは、私がどうなのか。私の主権者はいったい誰なんだろうか。32:36私たちではない、私の主権者は今どなたになっているのか。ほんとうにこのお方が私の主権者でいらっしゃるでしょうか。

ここにそのお名前はふしぎな助言者、力ある神、永遠の父、平和の君と呼ばれる。まさにこのお方は三位一体の神ご自身であります。しかし、これを対比して考えるなら、この世の神がいます。三位一体の神は、私たちに永遠の祝福を与えようとしておられる。しかし、この世の神は地上的繁栄を私たちに約束してくれているようです。しかし三位一体のこのお方は、罪ということをほんとうに解決してくれる。
イエス様がお誕生くださいました。
マタイの福音書1章21節マリアは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい。この方がご自分の民をその罪からお救いになるのです。
このお方は、そしてこのクリスマスは、私の罪を解決してくれる私たちの罪を解決してくださるから、イエス様はまさにワンダフルなお方。そしてそれをここに、十字架にあなたの罪のすべての解決がすでになされているのだよと三位一体のご聖霊なる神様は、イエス様の十字架を指さして私たちに語り掛けてくださる力ある神。どんなことをしても人間の地上的なものでは解決することはできない罪のほんとうの全き解決を主イエス様ご自身が十字架の贖いによってそれを全うしてくださった。「永遠の父」とあります。この世の君主はほんのわずかな一時的な地上の支配者でしかない。しかしこのお方は、永遠の君主として私たちに存在を示していてくださる。「平和の君」、罪というものを解決してくださるときに、私たちは、ほんとうに自ら赦されたということを知っていることのゆえに、和解をすることができます。受け入れることができる。このぜんぶ、「イエス・キリストの十字架の贖い」、このお方は、私たちのうちにどうしても自分で解決することのできないそういった罪の問題をぜんぶ解決してくださる。
そしてイザヤの9章のところに戻りましょう。
万軍の主の熱心がこれを成し遂げる。このイエス様の十字架の贖いに示される御子を賜るたほどの愛、それはみ使いたちも羨むほどの愛と対比してみれば一層はっきりとする。
私はしばしばクリスマスのできごとのときに思うのですが、あのみ使いの大きな喜び、賛美、いとたかきところに栄光が神にあるように、地に平和が、というあのみ使いたちのあの賛美。み使いと言うのは、神様による被造物です。人と同じようにみ使いも被造物として神に仕える存在として造られました。しかし、これは多くの神学者、聖書学者たちの見解ですけれども、そして、そのように私たちは思っておりますけれども、そのみ使いのいちばん優れたものが、神のごとくなりたい、神に仕える者ではなく、神のごとくなりたいという、それはある意味聖なる願いですけれども、野望を持った時、つまり本当の意味の傲慢になったとき、人に、神に仕えるのではなく、神になりたいと思ったとき、み使いのいちばん高い位にあったものが地に落とされてしまった。その地に落とされたみ使いの長の手下たちが、いわゆる悪霊というような存在になったりして、今の私たちの目に見えないあの世界の、そして彼らが閊えているのはサタンです。つまりサタンはその落とされたみ使いの頭であるというようにいわれております。
さて、そのことを心に止めておきながら、神様はみ使いではなく、み使いが先ほど申しました通り、神に仕える存在として造られた被造物ですけれども、神様は、「人をわれわれのかたちとして、われわれの似姿に造ろう」と人間をお造りになった。それはご存じのとおりです。そしてその神のごとくに造られた人間が堕落してしまった。そのことをほんとうに惜しみ悲しまれたお方は、この人間を救わんがためにご自身の第二位格である御子なるイエス様を、キリストを、この世に人の救い主として、この世にお遣わしくださるという非常手段をお取りになった。敢えて私は言わせていただきたいのです。み使いはどう思ったでしょうか。
私たちの今までの天使長であったルシファー、これはサタンをあらわすことばとして言うのですが、それが堕落したときに神様は悲しまれた。だけども、御子イエス様を堕落した天使たちの救いのためにはお遣わしにはならなかった。そのことを思うとき、このクリスマスの出来事は、神に仕え喜び仕えている天使たちにとって、どれほどの驚きであり、どれほどの喜びであり、どれほどのものを自分たちがああうらやましいと思うほどの愛に違いない。み使いたちのうらやむほどの愛がこのクリスマスの時にあったんです。
そしてこの方は私たちにその名をイエスとつけなさい。ご自分の民を罪から救い出すためです。このときに、私の主権者は今どなたでしょうか。この主権者なる主イエス様をアーメン、ありがとうございます。私の罪はぜんぶ解決してくださったお方。私はこのお方を王の王、主の主として今心にお受けしています。このことがどうか一般的な私たちのために生まれたのではなく、私のためにこのお方は、馬小屋に生まれみ苦しみしみを受け、よみがえってくださった、このお方の愛を心から知るときに、主よ有難うございます。心からの感謝をもってこのクリスマスの出来事を思います。そして私は、もう一つここに最後に付け加えたいのは、万軍の主の熱心ということばです。これはねたむほどの愛を表しています。ほんとうにほかのものに自分に対する関心以外は愛がいくことが許さない。私だけに100パーセントびゅあなものをもって使える。そのものをご自分の民として贖いだす。万軍の主の熱心は私たちが100パーセントの愛をもってイエス様、あなたが私の王です。主です。わたしはあなたを愛します。このように告白する者を、そうでなければ神様は納得なさらない。きよめという問題が議論になっているのは、それはまだ私の私のものとなっていない。議論ではない。この万軍の主の熱心がわかるとき、主よクリスマス、私の心に主権者として今おいでくださっていることを感謝します。こう受け止めていきたいと思うのです。
それではきよしこの夜を歌ってクリスマス礼拝を締めくくりましょう。
※音声データ、画像は教会からお借りしています。
ずっとズームで礼拝に参加しておりましたが、この日は教会でクリスマス礼拝をまもりました。写真は、私がカメラ携帯を忘れたので、K姉が撮ってくださいました。
⏰盛岡の今朝の気温、ネットには⁻6と出ており、たしかにそうかなと外に置いた寒暖計を見ますと、たしかに⁻6。すこしの曖昧さもなくきりりと、がっちりと冷えてくれたようです。
5時45分更新
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