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きょうのことば『信仰の創始者・完成者』 

インマヌエル盛岡キリスト教会2021年1010()の礼拝メッセージをお伝えいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で48年目のご奉仕をしておられます。
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説教題 『信仰の創始者・完成者』  (國光勝美 牧師)
聖書箇所 新約聖書 へブル人への手紙 1212

1こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競争を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。
2信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。
 

<お話し>
 きょうは『信仰の創始者・完成者』、この説教題でメッセージをお取次ぎさせていただきます。

 「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。」
これを文語訳では「信仰の導師(みちびきて)また之を全うする者なるイエスを仰ぎ見るべし。」

 私はきょうの説教を準備しながら、題を「史上最大のバンジージャンプ」と付けてみようかと思いました。イエス様の信仰の始まりと完成。私たちの信仰を始めてくださったお方はイエス様であり、私たちの信仰を完成してくださるお方はイエス様です。何よりもイエス様ご自身が信仰の創始者である、またそのイエス様は完成者であるならば、そのイエス様の信仰から目を離さないでいなさい。「仰ぎ見るべし」、このイエス様の信仰の中に飛び込んでいく。そうです。私たちはイエス様がなさった史上最大のバンジージャンプ、それを自分のものとして、イエス様の信仰の中に飛び込んでいけばいいのだというように、これは説教者の特権なんですけれども、準備している中に心がほんとうに熱く燃えてきました。

 詩篇408節、わが神よ 私は あなたのみこころを行うことを喜びとします。 あなたのみ教えは 私の心のうちにあります。

 ことしの夏から秋にかけまして、はじめは竿代信和先生の東北聖会のメッセージを学ばせていただき、そしてそれに続きまして、日本イエス・キリスト教団の工藤弘雄先生のメッセージから多くの恵みをいただきました。
 そのときに、工藤先生が詩篇408節を中心としてお語りになられたことを思い出します。実は、このおことばは、私にとってとても大切な意味をもっています。皆様方ぜひ詩篇408節をお開きください。何度か盛岡の講壇でもお開きしたことを思い起されることと思います。それほどこの詩篇40篇の8節の前後が心に止まっております。
7 そのとき 私は申し上げました。「今、私はここに来ております。 巻物の書に私のことが書いてあります。
8
わが神よ 私は あなたのみこころを行うことを喜びとします。あなたのみおしえは 私の心のうちにあります。」

 このところは、新約聖書のへブル人への手紙10章5~7節にも記されております。
5 ですからキリストは、この世界に来てこう言われました。「あなたは、いけにえやささげ物をお求めにならないで、わたしに、からだを備えてくださいました。
6
全焼のささげ物や罪のきよめのささげ物をあなたは、お喜びにはなりませんでした。
7 そのとき、わたしは申しました。『今、わたしはここに来ております。巻物の書にわたしのことが書いてあります。 神よ、あなたのみこころを行うために。』」

 詩篇408は、へブル人への手紙の105節~7節に引用されているまさにそのところでありまして、へブルの記者は何といっているかといいますと、
5 ですからキリストは、この世界に来てこう言われました。
 とあります。ですからへブルの記者は詩篇408
8 わが神よ 私は あなたのみこころを行うことを喜びとします。あなたのみおしえは私の心のうちにあります。」

 これはまさにイエス様のみこころ、おもい、それが記されているのでありまして、これをへブルの記者は10章のところに「」で、
「あなたは、いけにえやささげ物をお求めにならないで、わたしに、からだを備えてくださいました。6 全焼のささげ物や罪のきよめのささげ物をあなたは、お喜びにはなりませんでした。7 そのとき、わたしは申しました。『今、わたしはここに来ております。巻物の書にわたしのことが書いてあります。 神よ、あなたのみこころを行うために。』」
 
なぜ私が「史上最大のバンジージャンプ」という奇抜な説教題をつけたいと思ったか、その理由がお分かりいただけますでしょうか。

 イエス様は天の栄光の輝く御座におられる。ほむべき第二位格なる神ご自身でいらっしゃいます。そのお方が、父なる神様が私たちを救ってくださるために、「誰かわたしのために行くものはいないだろうか」という思いを持たれたとき、この要請に応じられたのがイエス様でした。イエス様が十字架上で血を流し罪の贖いを成し遂げる以前は、人が神に罪を赦され神に受け入れられるためには、いろいろないけにえをもって神に赦しを請わねばなりませんでした。神に近づくためにはいけにえの血を流さなければなりませんでした。しかし、それらのものは全うすることができません。

 ここでイエス様は、「あなたはわたしにからだを備えてくださいました。主よ、父なる神様、あなたのみこころを成すために、わたしは栄光の座をかなぐり捨てて」と十字架の使命を果たすために罪びとを救ってくださるために、罪の泥沼の中に飛び込んでくださった。人となって救い主となってくださるために。イエス様はほんとうに天の栄光の座から、私たちの世界に飛び込んできてくださったお方です。そのことをパウロはピリピの25節~8節に記しています。
 5キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、つまり、みこころを行うために、ほんとうにこの地に遜って下ってくださる、この思いをあなた方の間でも抱きなさい。と私たちに語り掛けてくださる。このイエス様のおこころを言い換えるならば、信仰の創始者であり完成者であるというこのイエス様の信仰をあなた方の間でも抱きなさいということなのです。キリスト・イエスのうちにあるこの思いをあなた方の間でも抱きなさい。6キリストは、神の御姿であられるのに、神としての在り方を捨てられないとは考えず、7ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としてその姿をもって現れ、8自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従がわれました。

 これを史上最大のバンジージャンプというのは言いすぎでしょうか。このイエス様のうちにあるこのおもいこそ、信仰の創始者、信仰の完成者であるイエス様のおもいなのです。イエス様はこのおもい、信仰の創始者であり、また私たちの信仰の完成者である。信仰の創始者、信仰の完成者であるこのイエス様の中に私たちも飛び込みたいものです。

 ピリピはさらに続けます。
9それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。10それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、11すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。
 
この父なる神様のみこころを成し遂げるために十字架に架かるためにイエス様はこのバンジージャンプをほんとうに飛び込んでくださった。それゆえにキリストは復活され、栄光の座に今お着きになっておられる。これが私たちが見習うべきイエス・キリストの信仰なのだということであります。

 思いめぐらしの中にふっと思ったのは、ああ、悪魔もやってきたな、悪魔もバンジージャンプをそそのかしたんじゃないかな。イエス様がいよいよ公の伝道生涯に入っていこうとされたときに、荒野に40日40夜、主イエス様はその備えをなさったとき、悪魔はやってきて、この石をパンに変えてごらん。人々が待っているのはそういう救い主なんだよ。悪魔はそそのかしにやってきます。みんな奇蹟を待ち望んでるじゃないか。どうだい、今あなた方が立っている神殿の屋根から飛び降りてみてごらん。あなたが石に打ちつけられるときにみ使いがぱっと現れてあなたを救ってくれる。みなが拍手喝采するだろう。やってごらん。悪魔はこうやってバンジージャンプをそそのかすんですね。イエス様がこの地上に来られたほんとうの目的は罪の贖いをするためです。十字架にお架かりになるために、ほんとうに天から私たちの地に飛び降りてきてくださった。それゆえに父なる神はキリストを高くあげてくださる。この信仰は、悪魔がそそのかすような奇蹟を期待して、それで拍手を喝采を受けるようなそういうものではない。このイエス様のような信仰をこそ持つべきです。あなた方は、「信仰の導師、また之を全うする者」、これをあなたのものにしなければならないのです。きょうの私のメッセージはこれにつきます。

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信仰の創始者であり完成者である」お方のこのバンジージャンプ。このイエス様から「目を離さないでいなさい」。大切なところですので、手元の資料で、これは原語で何といってるのかを調べてみました。原語の意味は「ほかのものから目を逸らし、視線を固定する」。あたりまえだと思うのですが、「すべて他の者から目を逸らして一点を固定して見る」。これが「イエスから目を離さずにいなさい」という原語の意味なのだと。当たり前にちょっと肩透かしを食った感じでもありますが、しかし、「ほかのものから目を逸らし、このイエス様自身を固定する」をしばし思いめぐらしました。

 マタイ14章だったでしょうか。イエス様はお弟子さんたちに強いてガリラヤ湖の向こう岸に渡るようにと命じられて、ご自分はおひとり山にのこられた。お弟子さんたちにとってはホームグラウンドです。たやすいことです。ところがいざ乗り出してみると大嵐が吹いてきた。イエス様はすべてを支配なさるお方だから、この嵐も吹かせないようにできる。平穏なうちに行かせようとすれば、いくらでもおできになるのです。しかし、敢えて嵐の中を行かせる。きっとこれも意味があるのだろうと思います。お弟子さんたちが嵐に漕ぎあぐねて、疲労困憊してしまったときに、明け方の4時ごろでしょうか、いちばん暗いころに、湖の上を異形のものが歩いてくる。お化けだー、幽霊だとほんとうに思ったのでしょう。これもイエス様からの課題です。お弟子さんたちばかりではない、私たちもこのような課題に遭いますでしょう。これだけ人生歩んでおりますと、そういうところを通るのです。通らせまいとすればイエス様はいくらでもそのようにおできになるんだけれども、しかし何か意味があるのでしょう。「後に悟るべし」ですけれども。いずれにせよ、嵐の中をお弟子さんたちが船に乗り沈みそうになる。するとまたそれに輪をかけるように、湖の上を得体のしれない何かが近づいてきた。ところがそれがイエス様だとわかったのです。そうです。イエス様はいろいろな近づき方をなさいます。私たち、どうかその時にお化けだーと言わないようにしましょう。ほんとうにイエス様いろいろな形をもって私たちに近づいてくださるお方なのだと思います。

 どうしてこの場面を思い出したかというと、その時ペテロが、「わーすごい、わーすごい、こんなところをイエス様が歩いていらっしゃる。私も歩きたい」と言うわけです。するとイエス様が仰った、「よし、来い」。そこでペテロはイエス様を見上げて、嵐の湖の上を1歩2歩と歩いたまではよかったものの、嵐の方を見てしまう。「あれ、こんなことできるはずないよな」、ついそう思っちゃう。「そうだよ、こんなことできないはずだ」と思った瞬間にぶくぶくっと沈んでいく。イエス様は手を伸ばしてすぐに救い上げてくださった。その場面を思い起したのです。他のすべてから目を逸らし視線を固定する。あたりまえのような言語の意味だったんですけれども、私たち、ペテロが失敗したように、課題、問題、様々のことの方に眼を逸らしてしまう。このように雑念、疑念が兆したときにこそ視線をイエス様に固定することです。これをしっかりしたときに、この「信仰の導師(みちびきて)また之を全うする者なるイエスを仰ぎ見る」ということになるのです。

 私たちはつい嵐を見てしまう。自分の弱さを認めざるを得ません。ペテロを決してわらうことができない。この前の聖日礼拝でも、変貌山の後、お弟子さんたちのところに幼いころからほんとうにかわいそうな病、悪霊につかれた子どものお父さんがやってきた。お弟子さんたちに治してもらおうとしてもダメでした。そのときに、「信じます。不信仰な私をお助けください」とお父さんは心の底から叫びました。

 難破しかけたペテロの姿は、あの霊につかれた息子を持ったお父さんの姿です。これ信じたいんですよ、信じたいんですけれども、これまでずっと長い間、お弟子さんたちのところに行っても宗教学者たちのところに行ってもだめだった。でも信じたいんです。「どうか不信仰な私をお助けください」。実に正直な告白です。このお父さんは飛び込んだのです。イエス様のもとに。

 私はそれを分析してみました。嵐を見てしまって、イエス様だけを見つめることができない。いまおはなしをさせていただきながら、ジョン・ウェスレーを思い出しました。布教のために、イギリスから当時の新世界であるアメリカへと出発します。
 彼は信仰の器として船に乗っている。しかしその船が大嵐に遭って沈みそうになった。ところがその時、モラービアン派といわれる人たちのグループが、沈みそうな船のなかでも恐れげもなく平安のうちにイエス様をほめたたえる賛美を歌っていた。その姿に、ウェスレーは正直に私はこの人たちが持っているものを持っていない。彼らは無学なただ人であるけれども、彼らは揺るがない信仰を持っている。僕は信仰がわからない。こんな思いを持ちながらアメリカに着きます。そこで伝道活動をするのですが失敗してして、彼は失意のうちにイギリスに帰ってきます。その時彼はほんとうに正直ですから、モラービアン派のリーダーの人に、「僕は信仰がわからなくなった」といったところ、モラービアンの彼はいうのです。「ウェスレーさん、信仰について説教しなさい」。「信仰がわからない私がですか?」「そうです。信仰について説教しなさい。そして信仰がわかったら、その信仰を説教しなさい」。

 このウェスレーの自伝にあるエピソードを思いながら、嵐を見てしまう自分の弱さ。弱さというのは罪ではありません。被造物である私たちの、土の器である私たちの弱さであって、土の器の弱さは罪ではない。何が罪かというと、神様なんか信じたくない。積極的に神様に対する反旗を翻す。その心の思いこそ罪であって、信じたいけれども信じることができない、飛び込むことができないことを、それを罪と考えてしまうのは勘違いです。
 嵐をつい見てしまう。自分が今直面しているあの問題、この問題に目がいってしまって、ペテロの嵐ではありませんけれども、イエス様にしっかりと目を止めていることができないときに、実は、こんなときこそ聖霊なる神様は私たちに語りかけてくださる。これが聖霊なる神様のすばらしいお働きです。私たちに、大丈夫だよ、あなたの弱さ、わかるよ。わかるから、そのままイエス様の信仰にしがみついてごらん。イエス様にしがみつけばいいんだよ。イエスさまにしがみつく、それこそフィックス。固定する。イエス様にしっかりくっつく。私にはできないけどイエス様はそうなさった。バンジージャンプをなさった。そのイエス様に私たちがしっかりとくっつけばいい。これが適切な表現かどうかわかりませんけれども、私は敢えてそう申し上げたい。

 強力接着剤というのがあります。瞬間接着剤もあります。接着剤についての知識はあまりないものですから、強力接着剤といってもぜんぜんくっつかないこともありました。何かきっと違うんでしょう。これが接着剤かと思うぐらい接着しない。かと思うと自分の指にくっついてしまう。あれくっついちゃった、どうすればいいの、となる。どうしてこれを思い出したかと言いますと、罪というのはまさしくこれなんです。私たち、神様なんか信じたくない、そういう生まれながらのサタン的な心をもっていると、イエス様にぜんぜんくっつかない。くっつこうと思っても、何か異質なものがあって邪魔をする。くっつかない。だけれども、聖霊なる神様、私たちのイエス様の十字架によって、私は罪赦されました。有難うございます。弱さもいっぱいあります。足りなさもいっぱいあります。でもこんな私ですけれどもイエス様についていきたいと思いますというときに、聖霊なる神様はわたしたちを、そう、それでいいんだ、それでいいじゃないか、そのありのままのあなたをイエス様にくっつける、それが信仰なんだから。あなた方は「信仰の導師(みちびきて)また之を全うする者なるイエスを仰ぎ見る」、フィックス、これを固定させて。ぴしっとくつっけばいい。それをさせてくださるのが聖霊様なのです。
 どうですか。私たちにはできないけれども、イエス様はそれをしてくださる。そのイエス様の信仰の中に、私たちがしっかりと、ぱっとくっつくとき、これがへブル12章の2節、信仰の創始者であり完成者であるイエス」様にしっかりと目を注いだときです。

 罪を解決していただいて心からイエス様に従っていこうとするときに、主は喜んで私を、その不信仰な私を助けてくださる。そのときでさえ悪魔は、これはどうだい、できるかい、ほら不信仰じゃないか。あんなことできるか、あのナチスの迫害の時、クリスチャンたちが、或いはユダヤ人たちが迫害されたとき、すばらしい殉教の器がいたが、あのようにあなたはできるのか? サタンがやってくるでしょう。そして言うでしょう。所詮あなたの信仰なんてそんなもんなんだよ。
 しかし言いましょう。主よ私は信じたいです。でも怖いんです。恐ろしいんです。でもイエス様は天から飛び降りてきてくださった、そのイエス様にしがみついていきますから、主よ、どうぞ助けてください。

 史上最大のバンジージャンプをしてくださった主イエス様、そのお方からどうか目を離さないで、このお方にさえしっかりつながっていけば、私たちはピリピ2章の「それゆえ神は彼を高く上げて栄光の座に引き上げてくださる」というおことば、へブルの12章のおことば、どうか主よ、あなたのみこころをおこなうために私はいまここにいます。詩篇40篇8節「わが神よ 私は あなたのみこころを行うことを喜びとします。あなたのみ教えは 私の心のうちにあります。」に心に止めさせていただき、主と共に主にしがみついて歩ませていただきましょう。

 

※音声データ、画像は教会からお借りしています。
⏰5時55分更新

 

 

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