きょうのことば『神の御霊に導かれる人』
インマヌエル盛岡キリスト教会2021年10月24日(日)の礼拝メッセージをお伝えいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で48年目のご奉仕をしておられます。
説教題 『神の御霊に導かれる人』 (國光勝美 牧師)
聖書箇所 新約聖書 ローマ人への手紙8:14~17
8:14神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。 8:15あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父。」と呼びます。 8:16御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。 8:17子どもであるなら、相続人でもあります。私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。
<お話し>
今朝は『神の御霊に導かれる人』という説教題でメッセージを取り次いでまいります。
私たちは聖霊を信じております。そのとき大切な使徒信条を毎週告白しております。この使徒信条を改めて意識していただきたいのです。
使徒信条
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女
(おとめ)マリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、
死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、
全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来りて、生ける者と死にたる者とを審
(さば)きたまわん。
我は聖霊を信ず。
聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこ
しえ)の生命(いのち)を信ず。アーメン。
最初に私たちは、父、子、御霊という三位一体の神様を告白しているのですけれども、最初に
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
これが真っ先に出てまいります。第一位の神でいらっしゃるわけです。
そしてその次に第二位格をお持ちの御子なるお方に対しては
我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女(おとめ)マリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来りて、生ける者と死にたる者とを審(さば)きたまわん。
と第二位格なるお方について、これだけ長きに亘って告白をしております。そして、第三位格であられる聖霊様に対しては、
われは聖霊を信ず。
たったこれだけです。長いから短いからと単純にはいえないのでしょうけれども、しかし、聖霊という神様に対する意識というものは、よほどこちら側が自覚しませんと、ついつい埋没されてしまうことがあり得ます。第三位格なる聖霊。聖霊というと皆さん方、もちろん今私たちはクリスチャンになっていますので取り違えることはないでしょう。しかし、クリスチャン以外の方々は、一般に精霊という言葉を連想されるかもしれません。いわゆるスピリチャルな妖精的なものといったらいいのでしょうか。でもこれは明らかに私たちがいっている聖霊なる神様とは違うものであります。
それからもう一つ、聖霊というときに、何かここに霊的な雰囲気を感じる。厳かなそういう雰囲気を感じる。それを醸しますものが聖霊なのかというと、これも聖書ははっきりと違うといっています。
聖書のいっている聖霊というお方とは。
実は私たちには良心が備わっております。チャートを自ら作成し説教の準備をしながら、聖霊というお方に関わる自分の位置づけ、自分の良心のことを聖霊といっているのだろうかとふと思ったこともあります。しかし聖書がわかってくるときに、いや、聖霊様は私の心の中にある神様なるお方であり、このお方に対する自らの反応でそれを知らされる。これが霊的な神様、聖霊なる神様であり、第三位格なるお方である。
聖霊なる神様と私たちとを結びつけるアンテナのような機能、これを共振という理解の仕方をすることは間違いではない。自分自身の歩みを考えますと、たしかに良心というのはある。皆さんそうでしょう。ところが、みんな自分と同じように福音に接しながら配信する人もいれば、それに無反応な人もいる。みんながみんなこれに反応するわけではないけれども、共振があるとき、それは聖霊なる神様に私たちがしっかりと向きあう、そういう働きをしてくれる。
特にお救いに与ってからは、この聖霊が非常に意味を持つようになりまして、救いに与ってから神様の語りかけというものが一層よくわかってくる。いわば聴力がよくなるといったらいいでしょうか。救いに与っていると一層神様の語りかけ、それに対する反応、つまりアンテナの感度が非常にあがってくる。これが聖霊と私たちとの関係なのだろうなと、在りようを図に示したことであります。
それでは、聖霊と良心とはどう違うのか。
これははっきりと言えます。聖霊というお方はイエス・キリストの十字架、そしてよみがえり、私達の罪の贖い、神の御子がなぜこの世にいらっしゃったのかというイエス・キリストのご人格の御業に対して、このお方は私たちに光を与えてくださる。これが聖霊での最大の働きです。良心はそれとは違います。誰にでも良心はありますけれども、聖霊なる神様は、神の御子イエス・キリストの十字架と復活、そして私たちの罪の贖いというこの神の御業に対して本当に深く広く私たちに語りかけを与えてくださるのであります。
ヨハネの福音書16章8節
その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。
こうありますとおり、祈っている私たちに悟りを与えます。自分がこのままでは神様の前に到底立つことはできない者であることを、理論や理屈を超えて、ああ、ほんとうにそうだ、自分はキリストの十字架の贖いがなかったのならば、到底神の前に立つことはできない者であるということを本当の意味で私たちに示してくださるのは聖霊なる神様であります。そしてそのお方は、私たちが罪びとだということを裁く意味合いにおいて示されるのでは決してありません。それはもう悪魔のやり口です。お前なんかこの程度のものだと、私たちのそんな部分をさらけ出し責めてくるのは悪魔のやり方です。しかし聖霊なる神様はいつでも私たちのほんとうの姿を明らかにしてくださって、そして私たちを十字架に導いてくださる。
ヨハネの福音書3章16節
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。
いつでも聖霊なる神様は私たちをそのところにしっかりと導いてくださる。聖霊に導かれる人というのはまさにこのことなのです。
きょうローマ人への手紙をテキストとして選ばせていただいたのは、ここにあるのです。聖霊に導かれる人、それはみなイエス・キリストの十字架と復活、罪の赦し、永遠のいのちを受けている。私たちは、主よ、感謝です。神の子どもに生まれ変わっています。
そしてロマ8:15にありますように、
8:15あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父。」と呼びます。
この御霊は、あなた方を再び恐怖に陥れる、つまりサタンがやってきて、奴隷の霊をあたえてしまうような、悪魔から出たそういうものではなくして、むしろ、そうでなく、子としてくださる聖霊、それをお与えくださって、「アバ、父。」と心の底から神様をお呼びする。ほんとうに親しみをこめて「おとうさん」とお呼びできる。
これはイスラエルに行ってきた方々からもよく聞くのですが、このアバ父と聖書にかいてあるのは、ほんとうにおさなごが親愛の情をこめて甘えて当たり前のようにアバ、アバという、これがアバ父という呼びかけであると。かしこまって天のお父様といって神様の前に出るのと違って、私たちは嬉しいなと思うんですね。
私たちはみんなやがて天に行く。そのときにかしこまって言うよりも、イエス様が、お父さん、お父ちゃんというように、アバ父と思いっきり親愛の情を持って神様の前に出ていこうではありませんか。
ロマ8:16にある「私たちの霊と共に」というのは、これ良心と解釈していいでしょう。
私たちの良心。私たちが今神の子であるということを恐れなく今私が天に召されても私は神様の子どもですとほんとうに心から喜んで告白することができる。「私たちの霊と共に」というのは、良心です。ですから私は、つくづく、福音とかキリスト教、私たちの持っている信仰というのは、いわゆる良心的な宗教というものではない。金儲けだとかご利益だとか、世の中にはいっぱいそういう宗教といわれるものがある。私たちは、この良心、光の中をきよいもの、きよい神様の前にほんとうに罪赦されてそして神様をアバ父とお呼びすることができるようなその生き方、こういう生き方ができる人生って最高だなと思いませんか。何が最高な人生かって、心にイエス・キリストの十字架の贖いと罪の許し、しかも永遠のいのちが与えられ、しかもそれが思い込みではなくほんとうにイエス・キリストの復活があり、そして、それが、そうだよ、あなたの友なんだよと聖霊様の語りかけをいただく。けさ起きたときも、主が光の中に自分を受け入れてくださる。有難うございます。
ロマ8:17はもう、それに輪をかけてといったらいいか、もう十分すぎるくらいなんですけれども、「相続人」であると。キリストと共に相続人である。あまりに途方もなく想像すらできません。
初代総理の最後の講壇、それが最期のメッセージになるとは誰も予測してはおりませんでした。心筋梗塞で急に天に召されたのです。その説教の中で、「天国のことはね、あまり語るもんじゃない。語れば語るほどあなたの考えているような天国と違う。もっともっともっと天国というのはあなたがどんなに言葉を尽くしたって語りつくせるようなもんじゃないんだよ。天国というのは、まあ!、まあ!、とこういうところなんだ。言えば言うほど天国が小さくなってしまうんだ」と仰っていたことが忘れられません。
「キリストと共に共同相続人」、怒りの子どもであった私が、聖霊の憐みのゆえにキリストの十字架と復活の福音に出会って、心の中に、「心やすかれ、汝の罪ゆるされたり」とみことばが与えられ、永遠の命が与えられ、罪の許しが与えられている。こんなすばらしいことがあるでしょうか。
聖霊様はその先頭に立って歩いていきます。キリスト様は、よき羊飼いは先頭に立って導かれます。彼の羊たちは彼の声を知っているから付き従っていく。私たちはその神の導きに、聖霊に従う。
その時々に、私たちが為した判断、これは正しかっただろうか、どうだろうか。これはわたしたち人間の私たちの良心の制約と言ったらいいんでしょうか。人間たる限度でしょう。良かれと思いながら、聖霊のこれが導きだと信じて進んでいきます。主よどうでしょうか。そのときに、祈りながら、これはエゴではないな。これはほんとうに神様のご栄光をあらわすものだ。自分が何かから逃れたいと思ってこれを選んだんじゃないな。いろいろなことを自分が良心の安定の中で聖書のおことばを拾いながら導きを得ながら、そして決断をします。その選んでいった道に平安が得られたのならば、それはほんとうに幸いなことです。しかし、私たちは、これが神のみこころだと思いながら進みついていくとき、果たしてほんとうに正しかったんだろうかと、より深い探りを入れられることがあります。そういうことがあります。たとえば、あの神の聖徒たちパウロとバルナバが、仲たがいをして別れてしまったということが聖書の使徒の働きのところにあります。二人とも神様の導きだと思って、パウロはパウロの道を行き、バルナバはバルナバの道を行きました。人間にはそういう限界があります。でもその後のことを聖書はちゃんといっています。パウロは分かれて行ったマルコをほんとうに真実に受け入れていますし、マルコもパウロに心から従っていっています。わたしは現実的にいちばん大切なことは、もし私たちが、これは神のみこころだろうなと思って選んでいったその結果、いや違った。そのときに、いちばん実際的に問題になるのは、「だって」ということばです。「だって、こうなんだもん」。
創世記のアダムとエバ。サタンにそそのかされたときに、自分の過ちを認めてしまう前に、だって、サタンが。だってエバが。「だって」、これはいちばん聖霊を悲しませる心のありようです。イエス様は決して、「だって」と仰らなかった。自分がもし誤った選択をしてしまい、その結果、自分を、周囲をも悲しませ傷つけてしまったときには、いつでも神様の前に砕かれて、主よ私はこんなものです。失敗しました。でも主よ、これに気づかせてくださってありがとうございます。こういって主を仰ぐ、この良心。「だって」に止まっているのではなく、そうではなく、常に悔い改めと主を仰ぐというところに、導かれていくのが、私はきよめという問題を解決している人のその違いだと思うのです。
きよめを経験しておりますと、「だって」と言いたくなる時に、ああそうだ。わたしの判断ミスだった。ごめんなさい。こういっていつでも主をもういちど仰ぐことができる。信仰生活の成長は、聖霊の声をいつでも聞く。そして間違ったと思ったのならば、その神様からの語り掛けをしっかりととらえて、そして悔い改めながら神様の前に出ていく。きよめられた良心、このことを私は生涯たどるものでありたいと心から願っております。
※音声データ、画像は教会からお借りしています。
⏰6時05分更新
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