きょうのことば『イエス・キリストは昨日も今日も』
インマヌエル盛岡キリスト教会2021年10月17日(日)の礼拝メッセージをお伝えいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で48年目のご奉仕をしておられます。
説教題 『イエス・キリストは昨日も今日も』 (國光勝美 牧師)
―教団創立記念礼拝―
聖書箇所 新約聖書 へブル人への手紙 13:7~8
7 神のことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、覚えていなさい。彼らの生き方から生まれたものをよく見て、その信仰に倣いなさい。
8 イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。
<お話し>
8 イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。
教団創立記念の礼拝をまもりますとき、私は、ジョン・ウェスレーという私たちの教団の始まりとなったメスジスト教会、そしてジョン・ウェスレーという人物。それからインマヌエル綜合伝道団というこの教団を創設する立場になりました蔦田二雄という人物に、年に一度ではありますけれども、しっかりと私たちの心を向ける朝である、このように思っております。
このジョン・ウェスレーという人物は、1703年にイギリスで誕生しております。おもしろいことに、同じ1703年には、私たちの国では赤穂浪士の吉良邸討ち入り。これがやはり1703年であります。このように思い合わせますと、だいたい私たちの信仰のルーツが何時代でどの辺にあるのかが分かっていただけるだろうと思います。
ジョン・ウェスレーはイギリス国教会の牧師でありましたけれども、彼はその与えられたビジョンに従ってメソジスト教会をスタートすることになりました。このメソジスト教会が日本に伝わり、日本では青山学院の正面の右側にジョン・ウェスレーの銅像が立っております。
蔦田二雄
私たちの教団の成り立ちに心を向けます。創始者は蔦田二雄先生です。蔦田二雄先生は1906年シンガポールで歯科医だった蔦田顕理のもとに誕生しました。お父さんの通うメソジスト教会に所属し活動をしておりましたけれども、福音の最も生命的な「新生経験―生まれ変わり」をしておりませんでした。
彼は青年時代にシンガポールから日本に戻り、岡山県で信仰生活と学業に励んだ後に、外交官になりたいと願い、ロンドン大学に留学するために、イギリス行きの船に乗ります。この船で、オーエン・ガントレット青年と出会います。これも神様の節理です。ガントレット青年に「君は生まれ変わりの経験を持ってるのか?」と訊かれた。つまり「君は天国に入ることのできるいのちを持っているのか」と訊かれたのです。蔦田は「そんな傲慢なことは答えることはできない。それは神様がなさるべきことで、私が今それを持っているどうかを言うことほど傲慢なことはない。神様のみこころに適った生き方をしていくからこそ天国に行くことができるんじゃないか」と答えたところ、ガントレット青年は言いました。「聖書には、信じる者は永遠のいのちを持つ、と書いてあるだろう。このガントレット青年との出会いが、彼を決定的な一つの経験に与らせることとなりました。
蔦田がイギリスに留学したとき、当時イギリスでは世界宣教を目指す6人のケンブリッジ大学の学生、彼らはケンブリッジ・セブンと呼ばれていましたが、彼らによってケンブリッジを中心とした信仰のリバイバル的な働きが進められておりました。蔦田二雄はそのグループに出席をするようになりました。これがやがて日本におけるバックストン先生との深い関わりの土壌にもなりました。この蔦田先生がイギリスで学んでおりましたときに、ちょうど日本から、英国婦人宣教師ドロシー・エレン・ホーア先生に随行して、大阪から朝比奈カノン先生がやってきます。朝比奈カノン先生がこの蔦田青年に眼をとめました。蔦田に君はこれからどうするんだ? と訊きました。蔦田は、国際連盟を舞台として活躍したいと答えたところ、朝比奈カノン先生が、「君はキリストのために働くべきだ」と勧めました。ちょうど蔦田がもうすぐロンドン大学を卒業できるその時だったと聞いております。
蔦田はシンガポールのお父さんに電報を打つのです。あと数か月すれば、ロンドン大学を卒業して外交官に進もうと思うけれども、今一つ、キリストの道に従うべきか、どっちにしたらいいだろうかと電報を打ったところ、お父さんから返ってきた返事はたった二言「Obey God」(神に従え)。これを受けて、蔦田二雄は、ちょうど日本で大きな働きをしておりましたホーリネス教会の中田重治監督のもとに身を投じました。
歴史的に見ますと、その当時の日本のホーリネスの働きは、関東圏、東の方にはホーリネスの中田監督の働きが大きく進められておりましたし、それから西の方、関西、或いは中国の方では、バックストン先生の働きが進められておりました。バックストン先生の流れを汲む働きでは川辺啓吉先生がおられました。 蔦田二雄は中田重治監督のもとで、日本橋ホーリネス教会に遣わされ、またガントレット青年もこれに加わりました。
ところが東条内閣のとき、宗教弾圧がありまして、いわゆるホーリネス系は教会封鎖を命じられ、指導者たちが投獄されます。天皇陛下も罪びとであるのか、罪びととしてキリストの前に跪かねばならないのか、天皇陛下を何というかが問われたわけです。二者択一を迫られ、聖書の立場を守り通し、これがホーリネスの宗教弾圧のきっかけになりました。蔦田二雄は2年間獄中にありました。
日本橋ホーリネス教会も閉鎖、信徒が散り散りに。教会がなくなってしまった。こんな状況下、蔦田先生の薫陶を受けた渡辺倉蔵というクリスチャン青年がおりましたが、蔦田先生が巣鴨に投獄されるまえの拘置所にいたとき、渡辺倉蔵さんは、何とか拘置所の蔦田先生に届くようにと、その近くを「信ずる者は誰も皆救われん」と太鼓を叩きながら路傍伝道をして回ったということです。渡辺倉蔵さんはやはりホーリネス教団の路傍伝道でお救いに与っています。染色の職人だったそうです。
渡辺さんのほかに勝俣先生ともうお一人、この3人は賭け事をしたり、とにかく、どうしようもない日常を送っていたのが、見事にキリストによって救われ証人となった方々で、三人山犬バンドというのを結成し伝道活動をしていたと聞いたことがあります。
その後、蔦田先生は独房の中で、いったいこのことは何を意味しているのかこれまでの在り方生き方というものを深く顧みるときとなりました。
振り返って、中田監督と生き方の違いが生じてしまい、教会が二つに分かれてしまった。大きな働きが進められるときに、そういう残念なこともございました。そのときに自分たちのとった行動、自分たちの発した言葉、これがどれほどキリストのみ名を傷つけたであろうかという大きな反省に直面しました。もう一つ、これまで日本のキリスト教会は経済的にも精神的にも外国の宣教師たちにだっこされおんぶされていたような働きではなかったか。ほんとうに、福音というものが命を持っているのならば、宣教師たちに依存する体質ではなく信仰を持って自分たちの足で立つというその基本姿勢を日本の教会は今こそ持たねばならない。そして勿論その教会はメソジスト的監督制を目指してやっていくべきだ。これが、この獄中で蔦田先生に与えられたビジョンでありました。そして、もし神様がこの者にその使命を与えてくださるならば、「神我らとともに在す」、インマヌエルという旗印のもとに教会の活動を開始していこう。もしもこの者が許されて、もういちど機会が与えられたならばという思いを持っておりましたとき、日本は敗戦という形で戦争が終わりました。
ですから私の年代、ちょうどインマヌエルが1946年に始まったのでありますけれども、その翌年1947年に私自身が生まれていますので、小さいころの記憶というのはたぶん今でも、4,5歳ぐらいのラジオから流れてきているさまざまなことは今でも憶えております。ただこの私の覚えていますというのを、ああそうだと理解してくださる世代もおそらく少なくなってきているだろうなというようにかんじるのですけれども、私の憶えているのは、時々ラジオから「ララ物資」ということばが聞こえました。これはアメリカのメソジストの婦人会の人たちが送ってくれた支援物資のことです。そのときに、この蔦田二雄先生は、ララ物資が日本キリスト教団を窓口にして配られているが、これはアメリカのメソジストの婦人会が送ってくれたのだから、配布すべき窓口はホーリネスであるべきだ。日本キリスト教団は、戦争中靖国神社参拝に了解を出した、そういういきさつがある。
勿論、日本キリスト教団はその後悔い改めの声明をしています。ただ、弾圧の渦中にあるとき、日本キリスト教団は、弾圧を受けたホーリネス系の人たちを、あの人たちは自分たちのキリスト教の本流ではない極端な人たちであると排斥した経緯がある。それから戦後、解放された蔦田二雄先生は、日本キリスト教団に復帰する気持ちは毛頭ない。もうそんなところには入らない。自分たちの信仰によって立たねばならない。こうして創設されたのがインマヌエル綜合伝道団です。
戦後、日本キリスト教団は、アメリカ軍がいろいろな物資を払い下げたり、あるいは接収していたものを返すというとき、日本キリスト教会が窓口になった。優遇措置があったためにどんどん会堂ができていった。しかし蔦田二雄はそういうところに止まることをよしとせずに、敢えてそこから出て行ったというところに、改めてすごいな、信仰ってこういうことなんだなあと思い知らされた気がいたします。これが1946年のことです。
与えられたビジョンに従って、蔦田二雄を中心とし、そして岡山県の片田舎で、この蔦田二雄と2人の同労者、広島で原爆の被害に遭ったが奇跡的に助かった医師の長谷川正子と、伝道師の元子の双子の姉妹、この3人が共に祈って、インマヌエルが始まったのであります。
このそもそもの始まりとなった場所は船橋でありました1946年6月に第一回目の年会が開かれました。
これは去年皆様方にご紹介しましたけれども、もう一度簡単にホーリネスの流れを整理しておきましょう。
笹尾鉄三郎(1868~1914、慶応4~大正3)
バークレー・バックストン(1860~1946)
中田重治(1870~1939、明治3~昭和14)
蔦田二雄(1906~1971、明治39~昭和46)
車田秋治先生、当初中田監督とともにホーリネスの働きをなさいましたが、この中田監督の生き方は神学的に或いは実践的に異なるということで別れました。蔦田二雄先生は、この車田先生の側が聖書的な正しい選択であるということで車田秋治先生のもとに行動を共にされた方であります。
そして、本田弘慈先生(大正元年~平成14年)、羽鳥明先生(大正9~平成29)といったすばらしい神の器がこのとき、大きな働きをなさいました。現在の戦後の福音と言われるルーツがこれらの先生たちの働きであり、詳しく分類するといっぱいあるんですけれども、きょうは簡単にさせていただきましょう。
バーネット宣教師を中心とした福音伝道教団、或いは関西聖書学校(塩屋神学校)の優れた信仰の器方が現在の私たちの元となった方々です。先ほど申しました通り、人は変わります。ここにご紹介した先生方は皆召されなさっています。けれども、事を始められた変わらないイエス・キリストは昨日も今日もとこしえまでも変わり給うことなし。このことを覚えたいと思います。
戦後の福音派ということで、私たちと近しい関係にある団体がございます。日本ホーリネス教団、日本イエス・キリスト教団、日本同盟キリスト教団です。勿論これだけではありません。いろいろな意味で私たちと親しい関係にある団体、福音派の教会がこのようなものでありますし、それぞれが教会活動といえます。
それとともに、別の視点から見た大衆伝道のための福音的な役割を担っている団体があります。日本福音クルセード、、太平洋放送協会、いのちのことば社、キリスト者学生会、御茶の水クリスチャンセンター、これらの団体は、教会ではないけれども教会の働きを含み支援しております。
そして私たちの信仰の嗣業として、三つのスローガン、聖書は神のことばである。福音の中心、それは、イエス・キリストの十字架の贖い、そして、臨在。神がともにいてくださる。これが私たちの共通した嗣業です。聖化と宣教、このことに心をとめさせていただきます。
7 神のことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、覚えていなさい。彼らの生き方から生まれたものをよく見て、その信仰に倣いなさい。
8 イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。
この教団創立記念は、このことを再確認させていただく朝であるように思うのです。
※画像、音声データは教会からお借りしています。蔦田氏の写真はWikipediaからです。
⏰6時43分更新
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