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2021年10月

きょうのことば『神の御霊に導かれる人』

インマヌエル盛岡キリスト教会2021年1024()の礼拝メッセージをお伝えいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で48年目のご奉仕をしておられます。
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説教題 『神の御霊に導かれる人』  (國光勝美 牧師)
聖書箇所 新約聖書 ローマ人への手紙8:1417
8:14神の御霊に導かれる人はみな、神の子どもです。 8:15あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父。」と呼びます。 8:16御霊ご自身が、私たちの霊とともに、私たちが神の子どもであることを証ししてくださいます。 8:17子どもであるなら、相続人でもあります。私たちはキリストと、栄光をともに受けるために苦難をともにしているのですから、神の相続人であり、キリストとともに共同相続人なのです。

 

<お話し>
 今朝は『神の御霊に導かれる人』という説教題でメッセージを取り次いでまいります。
私たちは聖霊を信じております。そのとき大切な使徒信条を毎週告白しております。この使徒信条を改めて意識していただきたいのです。

使徒信条

我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女
(おとめ)マリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、
死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、
全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来りて、生ける者と死にたる者とを審
(さば)きたまわん。
我は聖霊を信ず。
聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体(からだ)のよみがえり、永遠(とこ
しえ)の生命(いのち)を信ず。アーメン。 

 最初に私たちは、父、子、御霊という三位一体の神様を告白しているのですけれども、最初に
我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。
 これが真っ先に出てまいります。第一位の神でいらっしゃるわけです。
そしてその次に第二位格をお持ちの御子なるお方に対しては
我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女(おとめ)マリアより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府(よみ)にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天に昇り、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来りて、生ける者と死にたる者とを審(さば)きたまわん。
 と第二位格なるお方について、これだけ長きに亘って告白をしております。そして、第三位格であられる聖霊様に対しては、
われは聖霊を信ず。
 たったこれだけです。長いから短いからと単純にはいえないのでしょうけれども、しかし、聖霊という神様に対する意識というものは、よほどこちら側が自覚しませんと、ついつい埋没されてしまうことがあり得ます。第三位格なる聖霊。聖霊というと皆さん方、もちろん今私たちはクリスチャンになっていますので取り違えることはないでしょう。しかし、クリスチャン以外の方々は、一般に精霊という言葉を連想されるかもしれません。いわゆるスピリチャルな妖精的なものといったらいいのでしょうか。でもこれは明らかに私たちがいっている聖霊なる神様とは違うものであります。
 それからもう一つ、聖霊というときに、何かここに霊的な雰囲気を感じる。厳かなそういう雰囲気を感じる。それを醸しますものが聖霊なのかというと、これも聖書ははっきりと違うといっています。

 聖書のいっている聖霊というお方とは。

 実は私たちには良心が備わっております。チャートを自ら作成し説教の準備をしながら、聖霊というお方に関わる自分の位置づけ、自分の良心のことを聖霊といっているのだろうかとふと思ったこともあります。しかし聖書がわかってくるときに、いや、聖霊様は私の心の中にある神様なるお方であり、このお方に対する自らの反応でそれを知らされる。これが霊的な神様、聖霊なる神様であり、第三位格なるお方である。

 聖霊なる神様と私たちとを結びつけるアンテナのような機能、これを共振という理解の仕方をすることは間違いではない。自分自身の歩みを考えますと、たしかに良心というのはある。皆さんそうでしょう。ところが、みんな自分と同じように福音に接しながら配信する人もいれば、それに無反応な人もいる。みんながみんなこれに反応するわけではないけれども、共振があるとき、それは聖霊なる神様に私たちがしっかりと向きあう、そういう働きをしてくれる。

 特にお救いに与ってからは、この聖霊が非常に意味を持つようになりまして、救いに与ってから神様の語りかけというものが一層よくわかってくる。いわば聴力がよくなるといったらいいでしょうか。救いに与っていると一層神様の語りかけ、それに対する反応、つまりアンテナの感度が非常にあがってくる。これが聖霊と私たちとの関係なのだろうなと、在りようを図に示したことであります。
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 それでは、聖霊と良心とはどう違うのか。
 これははっきりと言えます。聖霊というお方はイエス・キリストの十字架、そしてよみがえり、私達の罪の贖い、神の御子がなぜこの世にいらっしゃったのかというイエス・キリストのご人格の御業に対して、このお方は私たちに光を与えてくださる。これが聖霊での最大の働きです。良心はそれとは違います。誰にでも良心はありますけれども、聖霊なる神様は、神の御子イエス・キリストの十字架と復活、そして私たちの罪の贖いというこの神の御業に対して本当に深く広く私たちに語りかけを与えてくださるのであります。

ヨハネの福音書16章8節
その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。

 こうありますとおり、祈っている私たちに悟りを与えます。自分がこのままでは神様の前に到底立つことはできない者であることを、理論や理屈を超えて、ああ、ほんとうにそうだ、自分はキリストの十字架の贖いがなかったのならば、到底神の前に立つことはできない者であるということを本当の意味で私たちに示してくださるのは聖霊なる神様であります。そしてそのお方は、私たちが罪びとだということを裁く意味合いにおいて示されるのでは決してありません。それはもう悪魔のやり口です。お前なんかこの程度のものだと、私たちのそんな部分をさらけ出し責めてくるのは悪魔のやり方です。しかし聖霊なる神様はいつでも私たちのほんとうの姿を明らかにしてくださって、そして私たちを十字架に導いてくださる。

ヨハネの福音書3章16節
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。

 いつでも聖霊なる神様は私たちをそのところにしっかりと導いてくださる。聖霊に導かれる人というのはまさにこのことなのです。

 きょうローマ人への手紙をテキストとして選ばせていただいたのは、ここにあるのです。聖霊に導かれる人、それはみなイエス・キリストの十字架と復活、罪の赦し、永遠のいのちを受けている。私たちは、主よ、感謝です。神の子どもに生まれ変わっています。

そしてロマ815にありますように、
8:15あなたがたは、人を再び恐怖に陥れる、奴隷の霊を受けたのではなく、子とする御霊を受けたのです。この御霊によって、私たちは「アバ、父。」と呼びます。
 この御霊は、あなた方を再び恐怖に陥れる、つまりサタンがやってきて、奴隷の霊をあたえてしまうような、悪魔から出たそういうものではなくして、むしろ、そうでなく、子としてくださる聖霊、それをお与えくださって、「アバ、父。」と心の底から神様をお呼びする。ほんとうに親しみをこめて「おとうさん」とお呼びできる。
 これはイスラエルに行ってきた方々からもよく聞くのですが、このアバ父と聖書にかいてあるのは、ほんとうにおさなごが親愛の情をこめて甘えて当たり前のようにアバ、アバという、これがアバ父という呼びかけであると。かしこまって天のお父様といって神様の前に出るのと違って、私たちは嬉しいなと思うんですね。

 私たちはみんなやがて天に行く。そのときにかしこまって言うよりも、イエス様が、お父さん、お父ちゃんというように、アバ父と思いっきり親愛の情を持って神様の前に出ていこうではありませんか。

ロマ816にある「私たちの霊と共に」というのは、これ良心と解釈していいでしょう。
 私たちの良心。私たちが今神の子であるということを恐れなく今私が天に召されても私は神様の子どもですとほんとうに心から喜んで告白することができる。「私たちの霊と共に」というのは、良心です。ですから私は、つくづく、福音とかキリスト教、私たちの持っている信仰というのは、いわゆる良心的な宗教というものではない。金儲けだとかご利益だとか、世の中にはいっぱいそういう宗教といわれるものがある。私たちは、この良心、光の中をきよいもの、きよい神様の前にほんとうに罪赦されてそして神様をアバ父とお呼びすることができるようなその生き方、こういう生き方ができる人生って最高だなと思いませんか。何が最高な人生かって、心にイエス・キリストの十字架の贖いと罪の許し、しかも永遠のいのちが与えられ、しかもそれが思い込みではなくほんとうにイエス・キリストの復活があり、そして、それが、そうだよ、あなたの友なんだよと聖霊様の語りかけをいただく。けさ起きたときも、主が光の中に自分を受け入れてくださる。有難うございます。

ロマ817はもう、それに輪をかけてといったらいいか、もう十分すぎるくらいなんですけれども、「相続人」であると。キリストと共に相続人である。あまりに途方もなく想像すらできません。

 初代総理の最後の講壇、それが最期のメッセージになるとは誰も予測してはおりませんでした。心筋梗塞で急に天に召されたのです。その説教の中で、「天国のことはね、あまり語るもんじゃない。語れば語るほどあなたの考えているような天国と違う。もっともっともっと天国というのはあなたがどんなに言葉を尽くしたって語りつくせるようなもんじゃないんだよ。天国というのは、まあ!、まあ!、とこういうところなんだ。言えば言うほど天国が小さくなってしまうんだ」と仰っていたことが忘れられません。

「キリストと共に共同相続人」、怒りの子どもであった私が、聖霊の憐みのゆえにキリストの十字架と復活の福音に出会って、心の中に、「心やすかれ、汝の罪ゆるされたり」とみことばが与えられ、永遠の命が与えられ、罪の許しが与えられている。こんなすばらしいことがあるでしょうか。

 聖霊様はその先頭に立って歩いていきます。キリスト様は、よき羊飼いは先頭に立って導かれます。彼の羊たちは彼の声を知っているから付き従っていく。私たちはその神の導きに、聖霊に従う。

 その時々に、私たちが為した判断、これは正しかっただろうか、どうだろうか。これはわたしたち人間の私たちの良心の制約と言ったらいいんでしょうか。人間たる限度でしょう。良かれと思いながら、聖霊のこれが導きだと信じて進んでいきます。主よどうでしょうか。そのときに、祈りながら、これはエゴではないな。これはほんとうに神様のご栄光をあらわすものだ。自分が何かから逃れたいと思ってこれを選んだんじゃないな。いろいろなことを自分が良心の安定の中で聖書のおことばを拾いながら導きを得ながら、そして決断をします。その選んでいった道に平安が得られたのならば、それはほんとうに幸いなことです。しかし、私たちは、これが神のみこころだと思いながら進みついていくとき、果たしてほんとうに正しかったんだろうかと、より深い探りを入れられることがあります。そういうことがあります。たとえば、あの神の聖徒たちパウロとバルナバが、仲たがいをして別れてしまったということが聖書の使徒の働きのところにあります。二人とも神様の導きだと思って、パウロはパウロの道を行き、バルナバはバルナバの道を行きました。人間にはそういう限界があります。でもその後のことを聖書はちゃんといっています。パウロは分かれて行ったマルコをほんとうに真実に受け入れていますし、マルコもパウロに心から従っていっています。わたしは現実的にいちばん大切なことは、もし私たちが、これは神のみこころだろうなと思って選んでいったその結果、いや違った。そのときに、いちばん実際的に問題になるのは、「だって」ということばです。「だって、こうなんだもん」。

 創世記のアダムとエバ。サタンにそそのかされたときに、自分の過ちを認めてしまう前に、だって、サタンが。だってエバが。「だって」、これはいちばん聖霊を悲しませる心のありようです。イエス様は決して、「だって」と仰らなかった。自分がもし誤った選択をしてしまい、その結果、自分を、周囲をも悲しませ傷つけてしまったときには、いつでも神様の前に砕かれて、主よ私はこんなものです。失敗しました。でも主よ、これに気づかせてくださってありがとうございます。こういって主を仰ぐ、この良心。「だって」に止まっているのではなく、そうではなく、常に悔い改めと主を仰ぐというところに、導かれていくのが、私はきよめという問題を解決している人のその違いだと思うのです。

 きよめを経験しておりますと、「だって」と言いたくなる時に、ああそうだ。わたしの判断ミスだった。ごめんなさい。こういっていつでも主をもういちど仰ぐことができる。信仰生活の成長は、聖霊の声をいつでも聞く。そして間違ったと思ったのならば、その神様からの語り掛けをしっかりととらえて、そして悔い改めながら神様の前に出ていく。きよめられた良心、このことを私は生涯たどるものでありたいと心から願っております。

※音声データ、画像は教会からお借りしています。
⏰6時05分更新

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J-MEROからちょっと

J-MERO
ゲストはJO1
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BIGYUKI
のアメリカでの音楽体験について
 高校の時の自分に明確な自分の未来の姿が見えなくて、いったいじゃ自分は人生で何をしたいのかなあと思ったときに、自分が昔から続けているものはないのかなと考えるときに、唯一ピアノがありまして、音楽を勉強しにアメリカに行くというよりも、自分の音楽を使って、アメリカに環境を変えて、そこで自分がやりたい人生がみつかるのかどうか、そういった感じですね。
 現地の音楽を肌で感じて、ボストンにはウォーリーズ・カフェというすごい由緒正しいジャズ・クラブがあって、行ってみたいな。あまり前情報なしに行って、そこで見た音楽に今言葉で説明できないんですけど、ぶっ飛ばされたんですよ。なんかすごく有機的になんかその場で音楽が作られている感じがした。そういう音楽の作り方、演奏を見たことがなかったので、それを見ていったいこの音楽は何なんだろう。ウォーリーズでごった煮の音楽から、音楽のもとになったグループだとか聞き出して、その中で出会ったのがゴスペル音楽だった。ビギンズを学んでいた曲のハーモニーであったりとか、日本で弾いていたハーモニーとはまた別なハーモニーで、その音楽を体で浴びたいなと。もう肉体的なものを自分の体で吸収したいなと。そこでそのいる人間たち、そこがもう人生。ただただリアルというか、…
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⛳21時19分更新

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211029 クラシッククラブを聴く ヴェルビエ音楽祭2021 藤田真央 モーツァルト・リサイタルⅡ

スイス・アルプスの山間の街で開催されたヴェルビエ音楽祭2021。特に注目を集めた藤田真央のモーツァルトのピアノ・ソナタ全曲演奏会から抜粋をお送りする。ピアノ藤田真央
曲目:ピアノ・ソナタ ハ長調 K.545、ピアノ・ソナタ ニ長調 K.284、ピアノ・ソナタ イ短調 K.310(以上、モーツァルト) アンコール曲目:ノクターン 変ロ長調 作品16第4(パデレフスキ)
収録:2021年7月23日 スイス ヴェルビエ教会―番組紹介よりー

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藤田真央のコメント
 それこそアンドラーシュ・シフが私のコンサートに行くって前の日に言われて、ほんとうに来るのかなと私は半信半疑でいてですね、それで舞台の前に立ってお辞儀をしたら、シフのもじゃもじゃヘアーがすぐ見えて、わー居るわと思って。公演が終わった後にシフが私のところに来て「とてもよかったよ」と仰ってくださって、私は舞い上がってしまって、ほんとうですか? と尋いたんですけれども、「勿論ぜんぶじゃないけどね」。なんかちょっと上げて下げてというあまり日本人には好ましくない手法で云われたのはもう今でも忘れられない思い出ですね。

 

🎵真央さんを聴きにきてくれたアンドラーシュ・シフ
アンドラーシュ・シフの中ぶんなの過去記事はこちら
けさの藤田真央のピアノ、4声部ならぬ幾通りもの声が歌い交わしている、ちょっとオペラのような感じを楽しんだ。

 

🎧名曲アルバムはヴィヴァルディ「四季」から「秋」。バイオリン荒井英治、飯森範親&東京フィル
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ヴィヴァルディが洗礼を受けたサン・ジョバン二・イン・ブラゴラ教会

⛳朝5時に聴いて、感動がちょっと醒めたころ、20時9分更新。またレコーダーで聴き返そう。

 

 

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211028 クラシッククラブを聴く ヴェルビエ音楽祭 2021藤田真央 モーツァルト・リサイタル 1

 スイス・アルプスの山間の街で開催されたヴェルビエ音楽祭2021。特に注目を集めた藤田真央のモーツァルトのピアノ・ソナタ全曲演奏会から抜粋をお送りする。
曲目:ピアノ・ソナタ イ長調「トルコ行進曲付き」K.331、ピアノ・ソナタ ヘ長調 K.280、ピアノ・ソナタ ヘ長調 K.533(以上、モーツァルト) 
収録:2021年7月23日 スイス ヴェルビエ教会 

 

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藤田真央のコメント
こんにちは! 藤田真央です。2021年のスイスで行われたヴェルビエ音楽祭、私はモーツァルトのピアノ・ソナタ全18曲をすべて演奏してきました。きょうはその中から第3回の模様をお届けいたします。モーツァルトの場合は特に一音一音に細かいアーティキュレーションが書かれているので、それをどう対処するかというのと、あとは強弱をものすごく書かれてないんですよ。ベートーベンのように細かく細かく書いているわけではなくて、当時のフォルテピアノ用に書かれたんですけれども、今のこのピアノでどのように響きを出せるかなというふうに考えた結果、すこし強弱を付け足してここでちょっとポイントを置いて、間をおいて見たりとかは考えて飽きさせないようにしないといけないので。それではどうぞご覧ください。

🎵極端に言えばベートーベンの楽譜は真っ黒。汚れてる。推敲に推敲を重ねているらしい。ところがモーツァルトの楽譜は真っ白。拘泥することなくよどみなく出てくるということか。モーツァルトの天才性。フォルテピアノ用に書かれた強弱を藤田真央が現代ピアノの性質を考慮し藤田真央の解釈で強弱を加味。個人的には、ここがおもしろい聴きどころとなった。ちょっと引きずってこちらの情感をゆらすかと思う瀬戸際で恬淡と快活に転がすところも何とも心地よい。おもしろい。音が駆けるところなどは、モーツアルトが、どうだ、 いいだろう、いいだろう、と言いながら笑い転げているような気すらしてくる。 

🎧名曲アルバムはカタルーニャ民謡「鳥の歌」。チェロ金木博幸。円光寺雅彦&東京フィル
「鳥の歌」がよくわからなかったときもあった。しかし当時よりは分からせてもらった今は、この曲が聴こえてくると、静粛な、厳粛な想いに打たれることがある。

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カザルスによって見出されたこの歌。魔の山にある修道院ではフランコ政権時代にもカタルーニャ語でミサをまもり続けたとか。
カザルスの家は貧しかったが、カザルスの父はカザルスのために楽器を手ずから作り与えている。

⛳22時13分更新

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211027 クラシッククラブを聴く 小林愛実のショパン~24の前奏曲とポロネーズ~

3歳からピアノを始める。7歳でオーケストラと共演、9歳で国際デビュー。以降、カーネギーホールに4度出演するなど国際的に活躍している。桐朋女子高等学校音楽科を経て2013年からフィラデルフィアのカーティス音楽院に留学。2015年ショパン国際コンに出場、本選に進む【演奏】小林愛実(ピアノ)【曲目】前奏曲作品28、ポロネーズ 変イ長調 作品53「英雄」(以上、ショパン作曲)【収録】2021年2月8日 府中の森芸術劇場 ウィーンホールー番組紹介よりー
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小林愛実のコメント
Q24の前奏曲について
すごく調性というのって、カラーが強いんだなあって。たとえばハ長調といったら無限な可能性があったり真っ白でどこへでも行ける。それからはじまるんですけど、この曲は。わたしはアスドラが好きだから、アス・ドラ(As Dur=変イ長調)というのは愛に満ち溢れているような、ただただ愛してますと言ってるような感じ。エフ・ドラ(F Dur=ヘ長調)といったら、母性だったり、包まれるような温かさを感じたりとか、まあすべての調に愛があると思って、そういう私なりの見解です。私は17番が好きです。アスドラです。弾いてて幸せな気持ちになります。
Q
どんな演奏家を目指していますか
私はただ楽しく弾ければいいです。うわべで楽しい曲というのはたくさんあると思いますけど、ほんとうに音楽を楽しんで弾くというのは、相当の努力が必要だし、やっぱりそれがないと弾けないと思うから、楽しんで音楽というのは大変だなあと。たぶん私は18歳くらいでピアノをやめたかったから、ピアノ弾くのが楽しくなくなっちゃって、やめたくてしょうがなかったから。ほんとうに弾かなかった時期があって、それで、もう一回やってみようってなったタイプ、人間なので、だからそこ楽しく演奏するというのが自分の中で大きい。
Q
ショパンの音楽と自分
けっこう曲に思いを入れて描いて、それでもどこかにこう何か自分にしかわからない栄養部分がたくさんある人物。けっこう自分だけの感情を自分だけで解決したり、自分だけ知ってる感情というのが、それをけっこうピアノで音楽で表現したりするのが好きなので、100%はたぶん伝わらないけれども、受け取ってもらってというような、そういうのはすこし似てるのかな。言葉でいわなくていいから、そこは私は好きですね、音楽を表現する。言えないような感情をこの中に入れて弾くのが好きです。

🎵Jポップに登場する方々に雰囲気がちょっと似てらして。しかし演奏はまぎれもなくクラシック。小柄な女性の方の演奏とは思われずアクティヴ。音の湧出に引き込まれる。しかし、アス・ドラって何? エフ・ドラって何? と戸惑っていると、番組の方で画面に表記してくれるお陰で何とかWikipediaの方でも調べられるこの有難さ。

・変ホ長調を完全5度低く(完全4度高く)すると、主音が変イ(A♭、As)になります。 これを、変イ長調、A flat Major、As-durと言います。 この調では、主音、第2音、第4音、第5音に♭が付きます。
・ハ長調を完全5度低く(完全4度高く)すると、主音がヘ(F)になります。 これを、ヘ長調、F Major、F-durと言います。 この調では、第4音に♭が付きます。 つまりB(H)に♭が付きます。

 記憶力低迷なれど、この番組を見続けることで多くのものを、頭脳にというよりも、精神面の方に積むことができたように思う。NHKと闘っている方もあるらしいけれども、時代の移ろいとともにある先々のことはわからないけれども、学校の教師の教えにはとんと耳を傾ける習慣がなかった自分には、この番組はよき生涯教育教師であり続けている。

🎧名曲アルバム。バラキレフ「ピアノ・ソナタ」。ピアノ川上昌裕
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⛳はや夕暮れ。炊飯器の音は炊飯中。PCの音は執筆中。16時10分更新

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211026 クラシック倶楽部を聞き逃す 反田恭平 オールショパンプログラム

8月4日の朝のこと。このとき私はもう朝5時起きで音楽を聴くのはやめようかと思い始めていた。番組予告も確かめてはいなかった。ところがいつも起きるはずの私が起きそうにもないのを不審に思ったのか、「5時だけど」と主人の声。そしてその日は主人が起きだしてTVスイッチオン。聞こえてきたショパンの素晴らしさは! いったい誰が弾いているのか、がばと起きだしてみると、これが反田恭平だった。それでまた朝5時視聴が今に続いている。眠気を吹き飛ばしはっとさせ起きださせたあの反田さんが、このたびの21年のショパンコンクールに第2位の快挙。なるほど、いかにも。いかにも。なるほど。

26日のクラシック倶楽部は、宿泊先、これが10年ぶりかの外泊だったのだが、その宿にBSがついていない。こんなところも素敵な素朴な心休まる宿ではあったが。それで聞き逃しとなった。
 ただ、ショパンコンクールの様子は別番組やらユーチューブやらですでに聴いてはいたけれども。

10月27日(水)15時39分更新

 

 

 

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211025 クラシック倶楽部を聴く ベスクラ公開 務川慧悟 ピアノ・リサイタル 

クラシック倶楽部10月25日(月)の分を遅れて本日10月27日(水)に。9時には他出ということで気ぜわしくはあったけれども聴くことができた。

☆  ☆  ☆ 

ベスクラ公開 務川慧悟 ピアノ・リサイタル
2019年のロン・ティボー・クレスパン国際コンクールで第2位に輝いた期待の若手ピアニスト。パリ国立高等音楽院で研鑽を積んだ、感性豊かな演奏をご紹介します。 【出演】務川慧悟(ピアノ)
【曲目】前奏曲集 第2巻から抜粋(ドビュッシー作曲)
         第6曲 変わり者のラヴィーヌ将軍
         第5曲 ビスの成る荒地
         第9曲 ポクウィック卿をたたえて
         第11曲 交代する三度
         第12曲 花火
    ピアノ・ソナタ第2番(ショパン作曲)
    組曲「マ・メール・ロワ」から「妖精の園」(ラヴェル作曲/務川慧悟編曲)
【収録】2021年2月13日 相生市文化会館 扶桑電通なぎさホールで収録
                               ―番組紹介よりー

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務川慧悟のコメント
Qコンクールでの入賞、フランスでの活躍は
ロン・ティボーはフランスでも特に権威のあるコンクールですし、フランスでの活躍の場が圧倒的に増えたことで、これは僕にとってとても嬉しいことなのですけれど、フランス人の聴衆を前に色々なリサイタルプログラムを披露する場が増えた。で、向こうの聴衆の方とコミュニケーションがとれる。また向こうのホールとかサロンのような場所で演奏する機会もとても増えたということで、向こうの形式でのコンサート経験を積むことによって自分の中でも演奏家として見えてくるものがあったりということが非常に大きかった。入賞してからここ1年ちょっとの間に、非常に大きな変化でした。


(最初にお送りするのは務川さんがフランスに留学して専門的に学んできたドビュッシーの作品、前奏曲集第二巻から5曲を選びました。)
Q前奏曲集第二巻の魅力は
ドビュッシーの前奏曲集一巻と二巻で全24曲ありますけど、一巻はほんとうにカラフルな色彩で描かれた光のある曲だと思ってるんですけれども、今回弾く二巻というのは、ちょっと水墨画のような、すこし光とか色彩を敢えて落とした中で描かれる世界というのが僕にとっては大変魅力的で昔から大好きな作品なんですけど、第6巻変わり者のラヴィーヌ将軍というのは、ラグタイムの形式を持った曲で非常にドビュッシーらしいユーモアのある作品で、前奏曲この第二集が非常に暗い色彩を持っている中にも幾つかこういったユーモアを交えた曲というのがあって、そこにどれも好きなきょくなんですけど、幾つか組み合わせを考えて、いちばん最後に、やっぱり曲中の中でも傑作といっていいであろう花火をもってきたという感じの構成になってます。

(なぎさホールのすぐそばの海岸を歩きながら)
海好きですね。生まれたところも半島ですし、南仏とかで音楽の講習を受けたりして、海沿いで夏を過ごしたことも何度かあるんですけど、もともと海が好きですね。
Q
ショパンのピアノ・ソナタ第2番、想像を超えた魅力とは
(古典的な形式にとらわれない斬新な構成を持つ作品です)
パリに留学して1年目に先生の下で学んだ曲なんですけど、僕はわりと常々3番のソナタがとにかく大好きで、これもショパンの中で一つの到達点となる作品だとおもっているんですけど、そんなパリ留学のきっかけで2番を改めて勉強してみて、2番というのは、何というか、常人の理解の範疇を超えてしまったような天才的な作品だということに何年か前ぐらいに気付いたんですね。その3番というのがちゃんとした構成、どのような意図をもって作曲したかがある程度想像がつくのに対して、2番と言うのは、僕にはもうまったくどのような過程で作曲したのか想像がつかないくらい天才な作品で、この作品にここ最近また魅せられてまして、ここ何度か人前でも弾いたり今回もこのリサイタルで取り上げることにしました。

🎵エネルギッシュ。荘重なところではあちらの世界まで耳が届いているのだろうか。淡々とした優しさも。

🎧名曲アルバム。グリーグ「ピアノ協奏曲」。ピアノ横山幸雄、矢崎彦太郎&東京フィル
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⛳予定、計画ありき、よりも、何とか持ちそうな天気予報ありき、で急遽外出。
更新は27日15時11分

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きょうのことば『イエス・キリストは昨日も今日も』

インマヌエル盛岡キリスト教会2021年1017日()の礼拝メッセージをお伝えいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で48年目のご奉仕をしておられます。

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説教題 『イエス・キリストは昨日も今日も』  (國光勝美 牧師)
―教団創立記念礼拝―

聖書箇所 新約聖書 へブル人への手紙 13:7~8

7 神のことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、覚えていなさい。彼らの生き方から生まれたものをよく見て、その信仰に倣いなさい。
8 イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。

 

<お話し>
8 イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。

教団創立記念の礼拝をまもりますとき、私は、ジョン・ウェスレーという私たちの教団の始まりとなったメスジスト教会、そしてジョン・ウェスレーという人物。それからインマヌエル綜合伝道団というこの教団を創設する立場になりました蔦田二雄という人物に、年に一度ではありますけれども、しっかりと私たちの心を向ける朝である、このように思っております。

  このジョン・ウェスレーという人物は、1703年にイギリスで誕生しております。おもしろいことに、同じ1703年には、私たちの国では赤穂浪士の吉良邸討ち入り。これがやはり1703年であります。このように思い合わせますと、だいたい私たちの信仰のルーツが何時代でどの辺にあるのかが分かっていただけるだろうと思います。
 ジョン・ウェスレーはイギリス国教会の牧師でありましたけれども、彼はその与えられたビジョンに従ってメソジスト教会をスタートすることになりました。このメソジスト教会が日本に伝わり、日本では青山学院の正面の右側にジョン・ウェスレーの銅像が立っております。

蔦田二雄

私たちの教団の成り立ちに心を向けます。創始者は蔦田二雄先生です。蔦田二雄先生は1906年シンガポールで歯科医だった蔦田顕理のもとに誕生しました。お父さんの通うメソジスト教会に所属し活動をしておりましたけれども、福音の最も生命的な「新生経験―生まれ変わり」をしておりませんでした。
 彼は青年時代にシンガポールから日本に戻り、岡山県で信仰生活と学業に励んだ後に、外交官になりたいと願い、ロンドン大学に留学するために、イギリス行きの船に乗ります。この船で、オーエン・ガントレット青年と出会います。これも神様の節理です。ガントレット青年に「君は生まれ変わりの経験を持ってるのか?」と訊かれた。つまり「君は天国に入ることのできるいのちを持っているのか」と訊かれたのです。蔦田は「そんな傲慢なことは答えることはできない。それは神様がなさるべきことで、私が今それを持っているどうかを言うことほど傲慢なことはない。神様のみこころに適った生き方をしていくからこそ天国に行くことができるんじゃないか」と答えたところ、ガントレット青年は言いました。「聖書には、信じる者は永遠のいのちを持つ、と書いてあるだろう。このガントレット青年との出会いが、彼を決定的な一つの経験に与らせることとなりました。

 蔦田がイギリスに留学したとき、当時イギリスでは世界宣教を目指す6人のケンブリッジ大学の学生、彼らはケンブリッジ・セブンと呼ばれていましたが、彼らによってケンブリッジを中心とした信仰のリバイバル的な働きが進められておりました。蔦田二雄はそのグループに出席をするようになりました。これがやがて日本におけるバックストン先生との深い関わりの土壌にもなりました。この蔦田先生がイギリスで学んでおりましたときに、ちょうど日本から、英国婦人宣教師ドロシー・エレン・ホーア先生に随行して、大阪から朝比奈カノン先生がやってきます。朝比奈カノン先生がこの蔦田青年に眼をとめました。蔦田に君はこれからどうするんだ? と訊きました。蔦田は、国際連盟を舞台として活躍したいと答えたところ、朝比奈カノン先生が、「君はキリストのために働くべきだ」と勧めました。ちょうど蔦田がもうすぐロンドン大学を卒業できるその時だったと聞いております。

蔦田はシンガポールのお父さんに電報を打つのです。あと数か月すれば、ロンドン大学を卒業して外交官に進もうと思うけれども、今一つ、キリストの道に従うべきか、どっちにしたらいいだろうかと電報を打ったところ、お父さんから返ってきた返事はたった二言「Obey God」(神に従え)。これを受けて、蔦田二雄は、ちょうど日本で大きな働きをしておりましたホーリネス教会の中田重治監督のもとに身を投じました。

  歴史的に見ますと、その当時の日本のホーリネスの働きは、関東圏、東の方にはホーリネスの中田監督の働きが大きく進められておりましたし、それから西の方、関西、或いは中国の方では、バックストン先生の働きが進められておりました。バックストン先生の流れを汲む働きでは川辺啓吉先生がおられました。 蔦田二雄は中田重治監督のもとで、日本橋ホーリネス教会に遣わされ、またガントレット青年もこれに加わりました。

 ところが東条内閣のとき、宗教弾圧がありまして、いわゆるホーリネス系は教会封鎖を命じられ、指導者たちが投獄されます。天皇陛下も罪びとであるのか、罪びととしてキリストの前に跪かねばならないのか、天皇陛下を何というかが問われたわけです。二者択一を迫られ、聖書の立場を守り通し、これがホーリネスの宗教弾圧のきっかけになりました。蔦田二雄は2年間獄中にありました。
 日本橋ホーリネス教会も閉鎖、信徒が散り散りに。教会がなくなってしまった。こんな状況下、蔦田先生の薫陶を受けた渡辺倉蔵というクリスチャン青年がおりましたが、蔦田先生が巣鴨に投獄されるまえの拘置所にいたとき、渡辺倉蔵さんは、何とか拘置所の蔦田先生に届くようにと、その近くを「信ずる者は誰も皆救われん」と太鼓を叩きながら路傍伝道をして回ったということです。渡辺倉蔵さんはやはりホーリネス教団の路傍伝道でお救いに与っています。染色の職人だったそうです。
 渡辺さんのほかに勝俣先生ともうお一人、この3人は賭け事をしたり、とにかく、どうしようもない日常を送っていたのが、見事にキリストによって救われ証人となった方々で、三人山犬バンドというのを結成し伝道活動をしていたと聞いたことがあります。

 その後、蔦田先生は独房の中で、いったいこのことは何を意味しているのかこれまでの在り方生き方というものを深く顧みるときとなりました。
 振り返って、中田監督と生き方の違いが生じてしまい、教会が二つに分かれてしまった。大きな働きが進められるときに、そういう残念なこともございました。そのときに自分たちのとった行動、自分たちの発した言葉、これがどれほどキリストのみ名を傷つけたであろうかという大きな反省に直面しました。もう一つ、これまで日本のキリスト教会は経済的にも精神的にも外国の宣教師たちにだっこされおんぶされていたような働きではなかったか。ほんとうに、福音というものが命を持っているのならば、宣教師たちに依存する体質ではなく信仰を持って自分たちの足で立つというその基本姿勢を日本の教会は今こそ持たねばならない。そして勿論その教会はメソジスト的監督制を目指してやっていくべきだ。これが、この獄中で蔦田先生に与えられたビジョンでありました。そして、もし神様がこの者にその使命を与えてくださるならば、「神我らとともに在す」、インマヌエルという旗印のもとに教会の活動を開始していこう。もしもこの者が許されて、もういちど機会が与えられたならばという思いを持っておりましたとき、日本は敗戦という形で戦争が終わりました。

ですから私の年代、ちょうどインマヌエルが1946年に始まったのでありますけれども、その翌年1947年に私自身が生まれていますので、小さいころの記憶というのはたぶん今でも、4,5歳ぐらいのラジオから流れてきているさまざまなことは今でも憶えております。ただこの私の覚えていますというのを、ああそうだと理解してくださる世代もおそらく少なくなってきているだろうなというようにかんじるのですけれども、私の憶えているのは、時々ラジオから「ララ物資」ということばが聞こえました。これはアメリカのメソジストの婦人会の人たちが送ってくれた支援物資のことです。そのときに、この蔦田二雄先生は、ララ物資が日本キリスト教団を窓口にして配られているが、これはアメリカのメソジストの婦人会が送ってくれたのだから、配布すべき窓口はホーリネスであるべきだ。日本キリスト教団は、戦争中靖国神社参拝に了解を出した、そういういきさつがある。

 勿論、日本キリスト教団はその後悔い改めの声明をしています。ただ、弾圧の渦中にあるとき、日本キリスト教団は、弾圧を受けたホーリネス系の人たちを、あの人たちは自分たちのキリスト教の本流ではない極端な人たちであると排斥した経緯がある。それから戦後、解放された蔦田二雄先生は、日本キリスト教団に復帰する気持ちは毛頭ない。もうそんなところには入らない。自分たちの信仰によって立たねばならない。こうして創設されたのがインマヌエル綜合伝道団です。

戦後、日本キリスト教団は、アメリカ軍がいろいろな物資を払い下げたり、あるいは接収していたものを返すというとき、日本キリスト教会が窓口になった。優遇措置があったためにどんどん会堂ができていった。しかし蔦田二雄はそういうところに止まることをよしとせずに、敢えてそこから出て行ったというところに、改めてすごいな、信仰ってこういうことなんだなあと思い知らされた気がいたします。これが1946年のことです。

与えられたビジョンに従って、蔦田二雄を中心とし、そして岡山県の片田舎で、この蔦田二雄と2人の同労者、広島で原爆の被害に遭ったが奇跡的に助かった医師の長谷川正子と、伝道師の元子の双子の姉妹この3人が共に祈って、インマヌエルが始まったのであります。
このそもそもの始まりとなった場所は船橋でありました1946年6月に第一回目の年会が開かれました。 

 これは去年皆様方にご紹介しましたけれども、もう一度簡単にホーリネスの流れを整理しておきましょう。

笹尾鉄三郎(1868~1914、慶応4~大正3)
バークレー・バックストン(1860~1946)
中田重治(1870~1939、明治3~昭和14)
蔦田二雄(1906~1971、明治39~昭和46) 

 車田秋治先生、当初中田監督とともにホーリネスの働きをなさいましたが、この中田監督の生き方は神学的に或いは実践的に異なるということで別れました。蔦田二雄先生は、この車田先生の側が聖書的な正しい選択であるということで車田秋治先生のもとに行動を共にされた方であります。
 そして、本田弘慈先生(大正元年~平成14年)、羽鳥明先生(大正9~平成29)といったすばらしい神の器がこのとき、大きな働きをなさいました。現在の戦後の福音と言われるルーツがこれらの先生たちの働きであり、詳しく分類するといっぱいあるんですけれども、きょうは簡単にさせていただきましょう。

 バーネット宣教師を中心とした福音伝道教団、或いは関西聖書学校(塩屋神学校)の優れた信仰の器方が現在の私たちの元となった方々です。先ほど申しました通り、人は変わります。ここにご紹介した先生方は皆召されなさっています。けれども、事を始められた変わらないイエス・キリストは昨日も今日もとこしえまでも変わり給うことなし。このことを覚えたいと思います。


 
戦後の福音派ということで、私たちと近しい関係にある団体がございます。日本ホーリネス教団、日本イエス・キリスト教団、日本同盟キリスト教団です。勿論これだけではありません。いろいろな意味で私たちと親しい関係にある団体、福音派の教会がこのようなものでありますし、それぞれが教会活動といえます。
 それとともに、別の視点から見た大衆伝道のための福音的な役割を担っている団体があります。日本福音クルセード、、太平洋放送協会、いのちのことば社、キリスト者学生会、御茶の水クリスチャンセンター、これらの団体は、教会ではないけれども教会の働きを含み支援しております。
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 そして私たちの信仰の嗣業として、三つのスローガン、聖書は神のことばである。福音の中心、それは、イエス・キリストの十字架の贖い、そして、臨在。神がともにいてくださる。これが私たちの共通した嗣業です。聖化と宣教、このことに心をとめさせていただきます。

7 神のことばをあなたがたに話した指導者たちのことを、覚えていなさい。彼らの生き方から生まれたものをよく見て、その信仰に倣いなさい。

8 イエス・キリストは、昨日も今日も、とこしえに変わることがありません。 

 この教団創立記念は、このことを再確認させていただく朝であるように思うのです。

画像、音声データは教会からお借りしています。蔦田氏の写真はWikipediaからです。

⏰6時43分更新

 

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ざっと

J-MEROは再放送。
氷川きよし&高城れに
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☆  ☆  ☆

 唐突だけれども、ベートーベンの恋愛について、いつか書いておきたいと思っていた。ネットのどこかに出ているかもしれないが。ロマン・ロラン著、片山敏彦訳「ベートーヴェンの生涯」から。

 ヴェーゲラーはいっている、彼が知るかぎりにおいてベートーヴェンは絶えまなく恋愛の熱情につかまれていた、と。これらの恋愛は常にきわめて純潔なものであったようである。情熱と逸楽との間に何の関係もなかった。この両者を今日人々が混同して考えることは、大多数の人々が情熱というものについては実に無智なのだということおよび真の情熱はいかにも稀有の現象だということの証明にほかならない。ベートーヴェンはその魂の中に清教徒的な或るものを持っていた。卑猥な思想や談話は彼を身ぶるいさせた。恋愛の聖性については強硬な考えを持っていた。モーツァルトが『ドン・ジョヴァンニ』を書いてその天才を濫用したことをベートーヴェンは赦さなかったといわれている。彼の親友だったシントラ―は確言している。「彼は一種の処女的な羞みをもって生涯を過ごし、弱点に負けて自己を責めるような羽目に陥ることはなかった」と。しかもこんな人間が恋愛の情熱の欺かれやすい犠牲となるのにはあつらえ向きにできていた。彼はまさにそういう犠牲であった。絶えまなく熱烈に恋心にとらわれ、絶えまなく恋の幸福を夢みながら、たちまちその幸福の夢のはかなさを悟らされ、苦い悲しみを味わさせられていた。彼の天性の激しさがやがて憂鬱を帯びた諦めの静かさに行きつく年齢に達するときまでは、恋ごころとそれへの誇らしい反抗との交互作用の中にこそ、ベートーヴェンの霊感の最も強大な源泉が見いだされるのである。

 

⛳23時28分更新


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211022 クラシッククラブを聴く 広瀬悦子 ベートーベン ショパンを紡ぐ

ヴィオッティ国際コン、ミュンヘン国際コンに入賞後99年アルゲリッチ国際コンで優勝。各地の音楽祭への出演のほか、バイエルン放響、モスクワ・フィル、N響などと共演。【曲目】ピアノ・ソナタ第17番「テンペスト」(ベートーベン)バラード第1番作品23、バラード第4番作品52(ショパン)ほか【演奏】広瀬悦子(ピアノ)【収録】2020年12月8日 武蔵野市民文化会館大ホールで収録(無観客収録)ー番組紹介よりー
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広瀬悦子のコメント
 フランスで受けた影響については 私、15歳のときにフランスに行ったんですけれども、ショパンだったりドヴュシーだったりラヴェルだったり、そのフランスで生活した作曲家の音楽がすごく好きだったということもあって、その作曲家がどんなところで暮らしたんだろうという事を知りたくてフランスを選んだんですけれども、そのときに痛感したのが、日本の音楽教育は全般的にそうなんですけれども、先生がこう弾いたら生徒もこう弾きなさいというのが多いんですけれども、フランスはいかに個性を表現するかの教育が多い。例えば初見の授業の中でも、そんなに弾けない子でも自分の思ったこと、表現したいことをほんとうに上手く表している。そういうのを目の当たりにして、そういった個性の確立と言うのがすごくフランスで受けたいちばんの影響です。
 1番に関して、当時、ショパンはあまり幸せな人生でなくて、やはり祖国愛が強い人で、ポーランドに帰れなかったというのがすごくショパンの心に影を落としていて、その時ロシアに占領されるという事態にすごく心を痛めて、自分がそこになにもできないというもどかしさだったり怒りだったり、そういうものをこのバラードにぶつけたというか、最後のコーダなんかほんとうに神様ってほんとうにいるんですかというそういう心の叫びだったり、そういうものをすごく感じます。
 4番はほんとうにこうショパンの4曲の最後に書かれた作品で、ショパンが人生いろいろな経験をしてきて自分の特に影の部分というものをすごく感じる曲で、ほんとうはほほ笑んでいるんだけれども、心では悲しんでいるみたいな、そういう心の動きをすごくピアノの音に反映させているなというところが魅力だと思います。 

曲目
ピアノ・ソナタ第17番 ニ短調作品312「テンペスト」ベートーヴェン
バラード第1番ト短調作品23ショパン
バラード第4番ヘ短調作品52 ショパン
「愛のワルツ」作品57 第5 モシコフスキ

 

🎵モシコフスキについてwikipediaから抜粋
プロイセン王国のブレスラウ(現ポーランドのヴロツワフ)に生まれる。一家は1852年ザヴィエルチェに程近いピリカ[注 2] からブレスラウに移り住んだ、裕福なユダヤ系ポーランド人である。当時多くのユダヤ人が出自を明らかにしたがらなかったのに対し、モシュコフスキは熱心なユダヤ教徒であった。
彼は何度もアメリカのピアノ製造会社に招かれてピアノの宣伝を頼まれたが、いくら報酬を積まれても依頼を断り続けた 」
 多くの弟子を教えたが、最後は健康上の理由もあり、弟子を取らなくなった。新しい感覚を志向する傾向はあまり好まなかったようだ。
今回の「愛のワルツ」、もし誰かに、これはショパンの曲ですと言われたなら、私などはなるほどこんな曲も、と肯いてしまいそうだ。

🎧名曲アルバム。ブラームス「3つの間奏曲」
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⛳10時03分更新

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211021 クラシッククラブを聴く 211021 若林顕の世界 ~ラフマニノフ ショパン~

20歳でブゾーニ国際コン第2位、22歳でエリーザベト王妃国際コン第2位に入賞。ベルリン交響楽団、サンクトペテルブルク交響楽団など多くのオーケストラと共演するほかカルミナ弦楽四重奏団やウィーン八重奏団との室内楽、ソロなど一線で活躍している。【演奏】若林顕(ピアノ)
【曲目】楽興の時から第1曲、第4曲(ラフマニノフ)、24の前奏曲作品28(ショパン)【収録】2020年11月30日 武蔵野市民文化会館

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コメント
ピアノは自分の鏡というか、こちらの思いとか願いとかこめる度合いというものが強ければ強いほどいくらでも答えてかえって来てくれる。いくらでももう無限大に可能性があると思うんですけれども、すべては自分しだいというか、ピアノはどんとあって自分のそのままを映し出し努力した分だけ注ぎこんだ分だけ何らかの形でかえってきてくれる。ただピアノが答えてくれるような熱意の伝え方をしなければいけないというところで、双方とがやっぱりどうしても考えざるを得ない。いちばん大事なのはピアニストにとってはだいたいはホールのピアノにはじめて会って、時間でお友達になって、いかに仲良くといいますか、意思の疎通がちゃんと図れるといいますか、そこが楽しいところでも苦労するところでもあるという。僕としては、ピアノが嫌なことはしないというか、一緒に歌えるようにという気持ちを持ちながら弾いています。当然、意思があるように思いますよね。生き物じゃないかなと。

 

🎵「楽興の時」は第6曲まである。これはラフマニノフ23歳での作曲。スランプに入る直前の時期でラフマニノフの前半期の集大成であるとの番組解説。.wikipediaによればラフマニノフのピアノ独奏曲への復帰作にして、ピアノ曲作曲の転換期と位置付けられているようだ。第1曲はやさしく流麗、ラフマニノフならではの揺蕩うような旋律。第4曲では感情の湧出。この辺りがショパンやリストの影響なのかと思いつつ。ショパンの「24の前奏曲集」、これはバッハの「24の前奏曲」から着想を得ており、ショパン作品の中でも完成度が高いとされるとの番組の解説。第10番はエンドレスでいつまでも聴いていたいような心洗われるピュアな感じ。それがあまりに短すぎて。第23番にも10番に似た響きはでてくるけれども、こちらには遊びといえるかさりげない変容の感じも。第16番、焦燥を伴う感情の湧出。第15番「雨だれ」、超有名ときいていたが、最初はたしかに雨だれ、しだいに涙も出ないほどの耐え難い寂莫感と孤独が。これがショパンの孤独。ショパンの孤独が切々と胸に迫った。第20番の厳かで奥深くまた厳かに。第24番、感情の湧出、しかし第16番とのそれとは違っている。決意が秘められている感じも。最後の低音、設置のピアノの左から2番目の三つの低音にこの24曲を詩として肯定、位置付けるかの効果を覚えた。ショパンの感性の危うさ確かさ豊かさ凄さを聴いた。

🎧名曲アルバムはシューマン「ピアノ協奏曲」。ピアノ清水和音、外山雄三&N
妻クララのために作曲。
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8人の子育ては大変、けれども、家庭教師や乳母や養育係が雇われていたのではないかと思うけれども、どうであったか。ただシューマン亡きあとは大変な困難もあったかと。

⛳眠り病にとりつかれたのか、ただただ眠い昨日今日。ただ、朝の音楽時間には、たまにすこし遅れるとしても目が覚める。眠いのも悪くはない。頭が空っぽになったときと同じように余計なことを何も考えずに済む。20時33分更新

 

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211020 クラシッククラブを聴く ザルツブルク音楽祭2020 イゴール・レヴィットのベートーベン

生誕250年を記念して行われた、ベートーベンのピアノ・ソナタ全曲演奏会の最終公演
【曲目】ピアノ・ソナタ第31番変イ長調作品110(ベートーベン)、
     ピアノ・ソナタ第32番ハ短調作品111(ベートーベン)
【収録】2020年8月21日 ザルツブルク祝祭大劇場大ホールー番組紹介よりー

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🎵心の奥の奥の心のひだ。寸分の弾き損じで一瞬にしてことごとくが霧散しそうな繊細な揺れをここまでも緻密に!


🎧名曲アルバムはショパン「ピアノ協奏曲第1番」
ピアノ小山実稚恵、梅田俊明&東京フィル
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年ショパンはワルシャワでの告別演奏会を開くが、その時に演奏されたのがこの「ピアノ協奏曲第1番」であり、その後ショパンが二度と祖国の地を踏むことがなかったという。
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ショパンの心臓だけがポーランドに帰る。

⛳10月20日分、きのうは眠さに勝てず、今日10月21日、20時18分更新




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211019クラシッククラブを聴く ピアニスト小山実稚恵の世界Ⅱ~ファンタジーそして情熱~

1959年仙台市生まれ。岩手県盛岡市で育つ。日本を代表するピアニスト小山実稚恵。日本を代表するピアニスト、小山実稚恵の演奏を紹介する、2回目。モーツァルトとバッハが残した独創的な「幻想曲」、そしてショパンの名曲をたっぷりとお聴き頂く。 【曲目】幻想曲ハ短調 K.475(モーツァルト作曲)、半音階的幻想曲とフーガBWV903(バッハ作曲)、ラルゲット<ピアノ協奏曲第2番 作品21から第2楽章>(ショパン作曲)、ワルツ嬰ハ短調作品64第2(ショパン作曲)、ポロネーズ 変イ長調作品53「英雄」(ショパン作曲)、「左手のための2つの小品」からノクターン作品9第2(スクリャービン作曲) 2021年6月23日 めぐろパーシモンホールにて収録【収録】2021年6月23日 めぐろパーシモンホール 大ホール

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【曲目】
幻想曲ハ短調 K.475(モーツァルト作曲)
半音階的幻想曲とフーガBWV903(バッハ作曲)
ラルゲット<ピアノ協奏曲第2番 作品21から第2楽章>(ショパン作曲)
ワルツ嬰ハ短調作品64第2(ショパン作曲)
ポロネーズ 変イ長調作品53「英雄」(ショパン作曲)
「左手のための2つの小品」からノクターン作品9第2(スクリャービン作曲)

🎵 一応曲目の全部をあげておいたけれども、きょうは不覚にも前半を聴き落してしまった。たぶんインタビューもあっただろう。オンデマンドがあるはある。「ラルゲット」から。小山さんならではの響きにきゅん。「英雄」、3・11のときによく弾いてくださったこの曲。聴いているうちに、自分があのときに集まった方々と並んで聴いている心境に。胸が詰まった。曲の値、演奏の値が幾層倍にもその大きさ、包容力を増して響いてくる。このような「英雄」はまたとはない。「左手のための2つの小品」、真っ先に舘野泉さんが想われたが、このような曲が何も障害を克服しつつある、克服した音楽家のためにだけあるのではないことを小山さんは聴かせてくれた。東北の作曲家木島由美子さんもたしか館野さんに弾いていただきたいと作曲しておられたなと思い至った。
とても片方だけで演奏しているとは思えないスクリャービン。どのような動機でスクリャービンはこの曲を作曲したのだろうか。

🎧名曲アルバム。琴古流尺八 本曲「鹿の遠音」。尺八:川瀬順輔、中村明一。
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秋に鹿が相手を求めて鳴く声は秋の音として和歌や箏曲に歌われてきたという。この曲は最も有名な尺八曲の一つ。泣き交わす鹿の声を二人の奏者の掛け合いで表現。東大寺正倉院には唐からもたらされた「刻調の尺八(こくちょうのしゃくはち)」が保存されているらしい。当時の尺八は雅楽で使われていた。やがて尺八は日本独自の変化を遂げる。材料のマダケは掘り出してから数年かけて乾燥させる。根元に近い分厚く堅い部分だけを使う。指穴は5つ。金具などを使わない簡素な作りとなっている。音色は竹林を吹き抜ける風の音にもたとえられるという。―番組を参考にー

⛳きょうは晴れ間がひろがり、歩け歩けを1時間。錆が若干落ちて、何とか体内歯車が回りはじめたかのところで更新。16時37分。

 

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211018 クラシック倶楽部を聴く ピアニスト小山実稚恵の世界Ⅰ~心に響くシューベルトとベートーベン~

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けさ5時24分盛岡の東の空。重い雲を持ちあげ響く楽の音。

☆  ☆  ☆

クラシック倶楽部は、

1959年仙台市生まれ。岩手県盛岡市で育つ。東京藝術大学出身。日本を代表するピアニスト小山実稚恵。コロナ禍中ひとり向き合ったベートーベンのピアノ・ソナタ第31番。そして心のひだに染み入るというシューベルトの名曲を弾く。 東北出身の小山が音楽を見つめ直すきっかけが東日本大震災だった。そしてコロナ禍。改めて感じた音楽の力とは、演奏するということとは。インタビューも紹介【収録】2021年6月23日 めぐろパーシモンホール 大ホール

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小山実稚恵インタビュー
シューベルトは心の歌。シューべルトの思っていることがそのままシューベルトの旋律そのものですし、作曲家の中でもほんとにしずかに心を打つといいますか、心のひだのなかのひだにしずかに入って来る感じとか、一回目と二回目がほんのすこしだけ音が変えてあったり、ちょっとだけその場のようすで違うという瞬間がシューベルトにはたくさん出てきて、それがたまらなく好きですし、胸がきゅーっと詰まるような思いでシューベルトは最近弾きながら、弾いて、もう、こんなことは言えない、と思って弾いてます。
3・11の2か月後、私、ちょっとそのとき、子どもたちがピアノを弾いたりするのをどう思うんだろう、これはちょっとと思ったら、二つの学校の校長先生が同じことを仰ったんです。いちばん持ってきた中で華やかなドレスを着てほしい、と。子供たちは、とにかくわっときれいなこととか楽しいことをとにかくしてあげて欲しいと。それがいちばんいろんなことを忘れさせて心から楽しいひとときになるから、と言われてえーっと思って、私、すごく胸は痛めてたんですけど、分かってなかったなあと思って、やっぱり音楽ってよいものだなあとか楽しいなあとかいいなあと思うものでなくちゃいけないんだ。そのときものすごく思って、そこでなんかこう自分の音楽の感じ方というのも、2011年にすごく考えて、そしてまた、ここでコロナが起こって。
このコロナの中で向き合ったのがベートーベンのピアノ・ソナタ第31番だった。第3楽章の嘆きの歌、その嘆きの歌がやっぱりこの事柄に嘆くとか、誰かのあの思いが悲しいから嘆くというのではなく、何かやっぱりもっと深い何事ともいえないものに二度嘆く。2回目の方はもう途切れ途切れになって嘆いて、だけどそこからフーガという緻密なものを組み立てて行って、最後にはもうべートーベンらしい力が宿って来て全身がこう心の下から勇気が湧き上がってくる。これはやっぱりもうベートーベンだからだし、人間だから感じられる感情だと思いますし、悲しいことに去年から今年、コロナのこういうことがおこりましたけど、ベートーベンだってやはり耳が聞こえなくなるという苦悩があって、苦悩の中の自分の在り方といういものを見つけて新しい自分の音楽が逆に言うと聞こえてきたとか見えてきたということがあると思うので、やっぱりこの作品というのは単に傑作ですばらしい作品だということだけじゃなくて、なんか人類へのメッセージ、言葉にするとちょっと気恥ずかしいですけれど、音楽を弾くというのと、やはり、人間であるから生きるということを思って弾くというような作品なのではないかなと思います。

曲目
4つの即興曲 D.935 第2番、第3番 シューベルト
4つの即興曲 D.899 第2番、第3番 シューベルト作曲
ピアノ・ソナタ第31番 変イ長調 作品110 ベートーベン作曲

 

🎵 昨夜の「クラシック音楽館」、小山さんが出るというので視聴。眠いところをぐっと堪えるうちに番組の最後部分に。冒頭のショパンコンクールの審査員の方であったか、「演奏に精神性をどこまで表せるかにかかっている」と仰っていたが、小山さんの演奏にはそれがあり、テクニックもさることながらそういう点に惹かれる。東日本大震災の時もよく来てくださっていたなと印象に鮮やかだ。
 小山さんのシューベルトを聴いていると、森を明るくする光が満ちる湖面に、白鍵はさざ波と、黒鍵は樹木の陰影の揺らぎと思われてくる。音楽の泉が、清冽な泉がこんこんと、こくこくと湧き出てくるのを感じる。
 小山さんの表情を拝見しながら、そうだ、こうだった。この笑顔、このほほえみと思い返しながら、今回はベートーベンを弾き終えたときの表情に何かきりりとした威厳を感じた。弾き終えて尚曲の深まり、その深淵を見ている、そんな瞬間だった気がする。

 

🎧名曲アルバム。ベートーベン「月光」
「夜の遥か彼方から魂の悲し気な声が聞こえる」ベートーベンの弟子カール・ツェルニー
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作曲当時すでに聴力を失っていた彼を救ったのは、教え子でもあった恋人の存在だった。ベートーベンが「私の人生はいま一度わずかに喜ばしいものとなり、生まれて初めて結婚すればしあわせになれると感じているのです」と思ったのもつかの間、その恋は実らなかった。
番組解説が「彼の音楽は癒されることのない魂に寄り添い続ける」と。

⛳9時51分更新

 

 

 

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きょうのことば『信仰の創始者・完成者』 

インマヌエル盛岡キリスト教会2021年1010()の礼拝メッセージをお伝えいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で48年目のご奉仕をしておられます。
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説教題 『信仰の創始者・完成者』  (國光勝美 牧師)
聖書箇所 新約聖書 へブル人への手紙 1212

1こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競争を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。
2信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。
 

<お話し>
 きょうは『信仰の創始者・完成者』、この説教題でメッセージをお取次ぎさせていただきます。

 「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。」
これを文語訳では「信仰の導師(みちびきて)また之を全うする者なるイエスを仰ぎ見るべし。」

 私はきょうの説教を準備しながら、題を「史上最大のバンジージャンプ」と付けてみようかと思いました。イエス様の信仰の始まりと完成。私たちの信仰を始めてくださったお方はイエス様であり、私たちの信仰を完成してくださるお方はイエス様です。何よりもイエス様ご自身が信仰の創始者である、またそのイエス様は完成者であるならば、そのイエス様の信仰から目を離さないでいなさい。「仰ぎ見るべし」、このイエス様の信仰の中に飛び込んでいく。そうです。私たちはイエス様がなさった史上最大のバンジージャンプ、それを自分のものとして、イエス様の信仰の中に飛び込んでいけばいいのだというように、これは説教者の特権なんですけれども、準備している中に心がほんとうに熱く燃えてきました。

 詩篇408節、わが神よ 私は あなたのみこころを行うことを喜びとします。 あなたのみ教えは 私の心のうちにあります。

 ことしの夏から秋にかけまして、はじめは竿代信和先生の東北聖会のメッセージを学ばせていただき、そしてそれに続きまして、日本イエス・キリスト教団の工藤弘雄先生のメッセージから多くの恵みをいただきました。
 そのときに、工藤先生が詩篇408節を中心としてお語りになられたことを思い出します。実は、このおことばは、私にとってとても大切な意味をもっています。皆様方ぜひ詩篇408節をお開きください。何度か盛岡の講壇でもお開きしたことを思い起されることと思います。それほどこの詩篇40篇の8節の前後が心に止まっております。
7 そのとき 私は申し上げました。「今、私はここに来ております。 巻物の書に私のことが書いてあります。
8
わが神よ 私は あなたのみこころを行うことを喜びとします。あなたのみおしえは 私の心のうちにあります。」

 このところは、新約聖書のへブル人への手紙10章5~7節にも記されております。
5 ですからキリストは、この世界に来てこう言われました。「あなたは、いけにえやささげ物をお求めにならないで、わたしに、からだを備えてくださいました。
6
全焼のささげ物や罪のきよめのささげ物をあなたは、お喜びにはなりませんでした。
7 そのとき、わたしは申しました。『今、わたしはここに来ております。巻物の書にわたしのことが書いてあります。 神よ、あなたのみこころを行うために。』」

 詩篇408は、へブル人への手紙の105節~7節に引用されているまさにそのところでありまして、へブルの記者は何といっているかといいますと、
5 ですからキリストは、この世界に来てこう言われました。
 とあります。ですからへブルの記者は詩篇408
8 わが神よ 私は あなたのみこころを行うことを喜びとします。あなたのみおしえは私の心のうちにあります。」

 これはまさにイエス様のみこころ、おもい、それが記されているのでありまして、これをへブルの記者は10章のところに「」で、
「あなたは、いけにえやささげ物をお求めにならないで、わたしに、からだを備えてくださいました。6 全焼のささげ物や罪のきよめのささげ物をあなたは、お喜びにはなりませんでした。7 そのとき、わたしは申しました。『今、わたしはここに来ております。巻物の書にわたしのことが書いてあります。 神よ、あなたのみこころを行うために。』」
 
なぜ私が「史上最大のバンジージャンプ」という奇抜な説教題をつけたいと思ったか、その理由がお分かりいただけますでしょうか。

 イエス様は天の栄光の輝く御座におられる。ほむべき第二位格なる神ご自身でいらっしゃいます。そのお方が、父なる神様が私たちを救ってくださるために、「誰かわたしのために行くものはいないだろうか」という思いを持たれたとき、この要請に応じられたのがイエス様でした。イエス様が十字架上で血を流し罪の贖いを成し遂げる以前は、人が神に罪を赦され神に受け入れられるためには、いろいろないけにえをもって神に赦しを請わねばなりませんでした。神に近づくためにはいけにえの血を流さなければなりませんでした。しかし、それらのものは全うすることができません。

 ここでイエス様は、「あなたはわたしにからだを備えてくださいました。主よ、父なる神様、あなたのみこころを成すために、わたしは栄光の座をかなぐり捨てて」と十字架の使命を果たすために罪びとを救ってくださるために、罪の泥沼の中に飛び込んでくださった。人となって救い主となってくださるために。イエス様はほんとうに天の栄光の座から、私たちの世界に飛び込んできてくださったお方です。そのことをパウロはピリピの25節~8節に記しています。
 5キリスト・イエスのうちにあるこの思いを、つまり、みこころを行うために、ほんとうにこの地に遜って下ってくださる、この思いをあなた方の間でも抱きなさい。と私たちに語り掛けてくださる。このイエス様のおこころを言い換えるならば、信仰の創始者であり完成者であるというこのイエス様の信仰をあなた方の間でも抱きなさいということなのです。キリスト・イエスのうちにあるこの思いをあなた方の間でも抱きなさい。6キリストは、神の御姿であられるのに、神としての在り方を捨てられないとは考えず、7ご自分を空しくして、しもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としてその姿をもって現れ、8自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従がわれました。

 これを史上最大のバンジージャンプというのは言いすぎでしょうか。このイエス様のうちにあるこのおもいこそ、信仰の創始者、信仰の完成者であるイエス様のおもいなのです。イエス様はこのおもい、信仰の創始者であり、また私たちの信仰の完成者である。信仰の創始者、信仰の完成者であるこのイエス様の中に私たちも飛び込みたいものです。

 ピリピはさらに続けます。
9それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。10それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、11すべての舌が「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。
 
この父なる神様のみこころを成し遂げるために十字架に架かるためにイエス様はこのバンジージャンプをほんとうに飛び込んでくださった。それゆえにキリストは復活され、栄光の座に今お着きになっておられる。これが私たちが見習うべきイエス・キリストの信仰なのだということであります。

 思いめぐらしの中にふっと思ったのは、ああ、悪魔もやってきたな、悪魔もバンジージャンプをそそのかしたんじゃないかな。イエス様がいよいよ公の伝道生涯に入っていこうとされたときに、荒野に40日40夜、主イエス様はその備えをなさったとき、悪魔はやってきて、この石をパンに変えてごらん。人々が待っているのはそういう救い主なんだよ。悪魔はそそのかしにやってきます。みんな奇蹟を待ち望んでるじゃないか。どうだい、今あなた方が立っている神殿の屋根から飛び降りてみてごらん。あなたが石に打ちつけられるときにみ使いがぱっと現れてあなたを救ってくれる。みなが拍手喝采するだろう。やってごらん。悪魔はこうやってバンジージャンプをそそのかすんですね。イエス様がこの地上に来られたほんとうの目的は罪の贖いをするためです。十字架にお架かりになるために、ほんとうに天から私たちの地に飛び降りてきてくださった。それゆえに父なる神はキリストを高くあげてくださる。この信仰は、悪魔がそそのかすような奇蹟を期待して、それで拍手を喝采を受けるようなそういうものではない。このイエス様のような信仰をこそ持つべきです。あなた方は、「信仰の導師、また之を全うする者」、これをあなたのものにしなければならないのです。きょうの私のメッセージはこれにつきます。

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信仰の創始者であり完成者である」お方のこのバンジージャンプ。このイエス様から「目を離さないでいなさい」。大切なところですので、手元の資料で、これは原語で何といってるのかを調べてみました。原語の意味は「ほかのものから目を逸らし、視線を固定する」。あたりまえだと思うのですが、「すべて他の者から目を逸らして一点を固定して見る」。これが「イエスから目を離さずにいなさい」という原語の意味なのだと。当たり前にちょっと肩透かしを食った感じでもありますが、しかし、「ほかのものから目を逸らし、このイエス様自身を固定する」をしばし思いめぐらしました。

 マタイ14章だったでしょうか。イエス様はお弟子さんたちに強いてガリラヤ湖の向こう岸に渡るようにと命じられて、ご自分はおひとり山にのこられた。お弟子さんたちにとってはホームグラウンドです。たやすいことです。ところがいざ乗り出してみると大嵐が吹いてきた。イエス様はすべてを支配なさるお方だから、この嵐も吹かせないようにできる。平穏なうちに行かせようとすれば、いくらでもおできになるのです。しかし、敢えて嵐の中を行かせる。きっとこれも意味があるのだろうと思います。お弟子さんたちが嵐に漕ぎあぐねて、疲労困憊してしまったときに、明け方の4時ごろでしょうか、いちばん暗いころに、湖の上を異形のものが歩いてくる。お化けだー、幽霊だとほんとうに思ったのでしょう。これもイエス様からの課題です。お弟子さんたちばかりではない、私たちもこのような課題に遭いますでしょう。これだけ人生歩んでおりますと、そういうところを通るのです。通らせまいとすればイエス様はいくらでもそのようにおできになるんだけれども、しかし何か意味があるのでしょう。「後に悟るべし」ですけれども。いずれにせよ、嵐の中をお弟子さんたちが船に乗り沈みそうになる。するとまたそれに輪をかけるように、湖の上を得体のしれない何かが近づいてきた。ところがそれがイエス様だとわかったのです。そうです。イエス様はいろいろな近づき方をなさいます。私たち、どうかその時にお化けだーと言わないようにしましょう。ほんとうにイエス様いろいろな形をもって私たちに近づいてくださるお方なのだと思います。

 どうしてこの場面を思い出したかというと、その時ペテロが、「わーすごい、わーすごい、こんなところをイエス様が歩いていらっしゃる。私も歩きたい」と言うわけです。するとイエス様が仰った、「よし、来い」。そこでペテロはイエス様を見上げて、嵐の湖の上を1歩2歩と歩いたまではよかったものの、嵐の方を見てしまう。「あれ、こんなことできるはずないよな」、ついそう思っちゃう。「そうだよ、こんなことできないはずだ」と思った瞬間にぶくぶくっと沈んでいく。イエス様は手を伸ばしてすぐに救い上げてくださった。その場面を思い起したのです。他のすべてから目を逸らし視線を固定する。あたりまえのような言語の意味だったんですけれども、私たち、ペテロが失敗したように、課題、問題、様々のことの方に眼を逸らしてしまう。このように雑念、疑念が兆したときにこそ視線をイエス様に固定することです。これをしっかりしたときに、この「信仰の導師(みちびきて)また之を全うする者なるイエスを仰ぎ見る」ということになるのです。

 私たちはつい嵐を見てしまう。自分の弱さを認めざるを得ません。ペテロを決してわらうことができない。この前の聖日礼拝でも、変貌山の後、お弟子さんたちのところに幼いころからほんとうにかわいそうな病、悪霊につかれた子どものお父さんがやってきた。お弟子さんたちに治してもらおうとしてもダメでした。そのときに、「信じます。不信仰な私をお助けください」とお父さんは心の底から叫びました。

 難破しかけたペテロの姿は、あの霊につかれた息子を持ったお父さんの姿です。これ信じたいんですよ、信じたいんですけれども、これまでずっと長い間、お弟子さんたちのところに行っても宗教学者たちのところに行ってもだめだった。でも信じたいんです。「どうか不信仰な私をお助けください」。実に正直な告白です。このお父さんは飛び込んだのです。イエス様のもとに。

 私はそれを分析してみました。嵐を見てしまって、イエス様だけを見つめることができない。いまおはなしをさせていただきながら、ジョン・ウェスレーを思い出しました。布教のために、イギリスから当時の新世界であるアメリカへと出発します。
 彼は信仰の器として船に乗っている。しかしその船が大嵐に遭って沈みそうになった。ところがその時、モラービアン派といわれる人たちのグループが、沈みそうな船のなかでも恐れげもなく平安のうちにイエス様をほめたたえる賛美を歌っていた。その姿に、ウェスレーは正直に私はこの人たちが持っているものを持っていない。彼らは無学なただ人であるけれども、彼らは揺るがない信仰を持っている。僕は信仰がわからない。こんな思いを持ちながらアメリカに着きます。そこで伝道活動をするのですが失敗してして、彼は失意のうちにイギリスに帰ってきます。その時彼はほんとうに正直ですから、モラービアン派のリーダーの人に、「僕は信仰がわからなくなった」といったところ、モラービアンの彼はいうのです。「ウェスレーさん、信仰について説教しなさい」。「信仰がわからない私がですか?」「そうです。信仰について説教しなさい。そして信仰がわかったら、その信仰を説教しなさい」。

 このウェスレーの自伝にあるエピソードを思いながら、嵐を見てしまう自分の弱さ。弱さというのは罪ではありません。被造物である私たちの、土の器である私たちの弱さであって、土の器の弱さは罪ではない。何が罪かというと、神様なんか信じたくない。積極的に神様に対する反旗を翻す。その心の思いこそ罪であって、信じたいけれども信じることができない、飛び込むことができないことを、それを罪と考えてしまうのは勘違いです。
 嵐をつい見てしまう。自分が今直面しているあの問題、この問題に目がいってしまって、ペテロの嵐ではありませんけれども、イエス様にしっかりと目を止めていることができないときに、実は、こんなときこそ聖霊なる神様は私たちに語りかけてくださる。これが聖霊なる神様のすばらしいお働きです。私たちに、大丈夫だよ、あなたの弱さ、わかるよ。わかるから、そのままイエス様の信仰にしがみついてごらん。イエス様にしがみつけばいいんだよ。イエスさまにしがみつく、それこそフィックス。固定する。イエス様にしっかりくっつく。私にはできないけどイエス様はそうなさった。バンジージャンプをなさった。そのイエス様に私たちがしっかりとくっつけばいい。これが適切な表現かどうかわかりませんけれども、私は敢えてそう申し上げたい。

 強力接着剤というのがあります。瞬間接着剤もあります。接着剤についての知識はあまりないものですから、強力接着剤といってもぜんぜんくっつかないこともありました。何かきっと違うんでしょう。これが接着剤かと思うぐらい接着しない。かと思うと自分の指にくっついてしまう。あれくっついちゃった、どうすればいいの、となる。どうしてこれを思い出したかと言いますと、罪というのはまさしくこれなんです。私たち、神様なんか信じたくない、そういう生まれながらのサタン的な心をもっていると、イエス様にぜんぜんくっつかない。くっつこうと思っても、何か異質なものがあって邪魔をする。くっつかない。だけれども、聖霊なる神様、私たちのイエス様の十字架によって、私は罪赦されました。有難うございます。弱さもいっぱいあります。足りなさもいっぱいあります。でもこんな私ですけれどもイエス様についていきたいと思いますというときに、聖霊なる神様はわたしたちを、そう、それでいいんだ、それでいいじゃないか、そのありのままのあなたをイエス様にくっつける、それが信仰なんだから。あなた方は「信仰の導師(みちびきて)また之を全うする者なるイエスを仰ぎ見る」、フィックス、これを固定させて。ぴしっとくつっけばいい。それをさせてくださるのが聖霊様なのです。
 どうですか。私たちにはできないけれども、イエス様はそれをしてくださる。そのイエス様の信仰の中に、私たちがしっかりと、ぱっとくっつくとき、これがへブル12章の2節、信仰の創始者であり完成者であるイエス」様にしっかりと目を注いだときです。

 罪を解決していただいて心からイエス様に従っていこうとするときに、主は喜んで私を、その不信仰な私を助けてくださる。そのときでさえ悪魔は、これはどうだい、できるかい、ほら不信仰じゃないか。あんなことできるか、あのナチスの迫害の時、クリスチャンたちが、或いはユダヤ人たちが迫害されたとき、すばらしい殉教の器がいたが、あのようにあなたはできるのか? サタンがやってくるでしょう。そして言うでしょう。所詮あなたの信仰なんてそんなもんなんだよ。
 しかし言いましょう。主よ私は信じたいです。でも怖いんです。恐ろしいんです。でもイエス様は天から飛び降りてきてくださった、そのイエス様にしがみついていきますから、主よ、どうぞ助けてください。

 史上最大のバンジージャンプをしてくださった主イエス様、そのお方からどうか目を離さないで、このお方にさえしっかりつながっていけば、私たちはピリピ2章の「それゆえ神は彼を高く上げて栄光の座に引き上げてくださる」というおことば、へブルの12章のおことば、どうか主よ、あなたのみこころをおこなうために私はいまここにいます。詩篇40篇8節「わが神よ 私は あなたのみこころを行うことを喜びとします。あなたのみ教えは 私の心のうちにあります。」に心に止めさせていただき、主と共に主にしがみついて歩ませていただきましょう。

 

※音声データ、画像は教会からお借りしています。
⏰5時55分更新

 

 

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J-MERO ゲストSKE48
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⛳23時32分 更新

 

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211015 クラシッククラブを聴く 角野隼斗 

1995年生まれ。3歳からピアノを始める。東京大学大学院在学中に2018年にピティナピアノコンペティション特級グランプリ受賞。2017年ショパン国際コンクールinASIA大学・一般部門アジア大会金賞受賞。20189月から半年間フランス音響音楽研究所(IRCAM)で音楽情報処理の研究に従事。19年リヨン国際コンで第3位を受賞。20203月東京大学大学院情報理工学系研究科を終了し現在はさまざまな舞台に立つばかりでなく、自作・編曲した動画を配信。ポップス・ジャズ・アニメ・ゲームなどジャンルにとらわれないオリジナリティあふれる音楽で人気を集めている。【曲目】ワルトシュタイン(ベートーベン)スケルツォ第1番、夜想曲 作品48第1(以上、ショパン)大猫のワルツ(角野隼斗)【収録】2021年3月9日 武蔵野市民文化会館 大ホール
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ベートーベンの和声の積み方というのは、けっこう、特にこの「ワルトシュタイン」なんかはピアノの音域が広がって、ピアノがすごく進化していったころに作られた曲の一つでもあって、高域、低域というのをガツンと使うみたいなのが多くて、でもそれはそれでベートーベンとしての男性的な力強い魅力というのがあって、そういうのを改めて聴いてみると、あ、すごいカッコイイなと思うんです。ロック的というか、ギターを低弦ですごく鳴らしているみたいな、うんと近いようなカッコ良さを感じるんですけど、なので、そういう曲としてショパンとの対比という意味でも面白いかなと今回弾かせていただきました。
 音楽を届けたい、楽しんでもらいたいというのは、何らかわりはなくて、たぶん、僕もユーチューブとかの活動とコンサートでクラシックを弾くという活動が、もともとぜんぜん別のところにあって、どういうふうに自分の中で両立していけばいいのかなというのをいろいろ考えた時期があったんですけど、でも別にそれは200年前のフランツ・リストとかがやってたことと同じだなと思ったんですよね。昔のその当時のクラシックも演奏するし、自分で作曲アレンジ、即興とかもやるというということに改めて考えて気づいたときに、あ、この二つは自分の中でぜんぜん分けて考えなくていいんだと思うようになって、お互いにいい影響を与え合ってるんじゃないかなと思ってます。
 ショパンはその音を出したときの響きがすごく輝いて洗練されているなというのを感じるんです。いろいろなところが緻密に輝いているんだけれども、でも、たぶん、すごくインスピレーションというのはだいじにしてて、ショパンだって即興演奏とかはしてましたから、そういうバランスっていうんですか、インスピレーションをだいじにするけれども、そこからそれをちゃんと曲として完成度の高いものに構築していくというところがすごく見習うべきところがあるなというか、自分にとってすごく大きな存在ですね。
 「子犬のワルツ」と「大猫のワルツ」については、そうですね、それ(子犬のワルツ)の逆を行こうというか、子犬の逆は大猫かなあみたいな、その大猫であるのには理由がありまして、ショパンもジョルジュ・サンドが飼っていた子犬にインスピレーションを得ててというはなしがありますけれども、僕の実家で猫を飼ってるんですけど、大きい猫なんですね。大きんだけど太ってるんだけど、すごいジャンプしたり走り回ったり軽々と駆けまわってるんだけど、こう重量感はあるような、そんなようなところから、これも家でそういうのを見ながら即興してて、たところから生まれた曲なんですけども。ロマン派時代のなんか良いセンスはすごいありますよね。で、それにちょっとだけジャズっぽいハーモニーとかリズムを自分なりにちょっとだけ加えてみてるという感じです。
 でも僕はやっぱりクラシックは大好きなんだけど、クラシックを演奏するだけではなくて、今の21世紀、多様なジャンルがあるわけですけど、そういうものと或いはそのどんどん取り入れる中で、こう混じらわせてこう次への世代へと音楽を繋いでいきたいという気持ちは強くて、何かそういうところはずっとやり続けると思います。 

曲目
ピアノ・ソナタ第21番「ワルトシュタイン」 ベートーベン
スケルツオ第1 ショパン
子犬のワルツ ショパン
大猫のワルツ 角野隼斗

 

🎵先走るように淀みない小気味いい、これが「ワルトシュタイン」? 初めて聴く「ワルトシュタイン」なのだ。一つの打鍵の瞬間に意識はもう次の音に移り、次つぎに音を追い続けてゆく感じが。感情が一つのフレーズに留まり玩味するということが無いかに始めは聞こえていた。ピアノに遊ぶというか、ピアノは彼の遊びの一つなのではと。これを音楽の読みはすでに完了させ一種の超越ととらえたらよいものかどうか迷った。デジタルな音色の探り出しといった感じも。第一楽章が終わるころにはなぜか笑いが込み上げてきた。おもしろい。論評をググってみてはいないが、或いは賛否両論を醸しそうだと。第2楽章の終わりのところで、この感じで次があり得るのだろうかと思ったところで第3楽章。夕景に映えるさざ波を抜き手抜き手で泳ぎわたりゆく泳ぎ切る感じが。「スケルツォ」、ワルトシュタインとは一味違う。感情を入れる余地を十分に学び知って後に、その余地を意識的に排しているように感じられた。コメントからそのヒントが。「逆に」。こう弾くであろうことは常道であるが敢えてその逆にといういわば挑戦なのだろうか。「大猫のワルツ」、ロマンの作品のような感じも。
 今後の活動については聞いてみたい事項、それを質問し録ってくださっていたが。どんな展開が為されていくものか楽しみというよりも興味津々。このような感覚の音楽家はどんな作品展開、或いは演奏展開を踏みゆくものだろう。
 一通り聴き終えて、この演奏、何だかんだという輩をどっこい飽きさせない、飽きさせずに聴かせてしまうというおもしろさがある。

🎧名曲アルバム。ジョージ・ディビット・ワイス&ジョージ・ダグラス作詞作曲「このすばらしき世界」
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これは最初1901年ニューオリンズ生まれのルイ・アームストロングが歌った。彼は少年院で音楽に出会っている。「66歳のアームストロングの慈愛に満ちた歌声が穏やかで暖かな世界を描き出した」。
「赤ん坊は泣き/どんどん育っていくよ/多くを学ぶだろう/僕が学んだ以上のものを/僕は思う/なんて世界は/なんてすばらしいんだと/そう僕は思う/世界はすばらしいと」
名曲アルバムで歌っているのは福島康之だが、アームストロングが心をこめて歌うすがたを思い浮かべると涙が。彼にとって世界が「なんてすばらしい」ものとなったことに感涙。

⛳ きのうは久方ぶりに友だち3人と他出。朝からばたばた。きのう聴いた音楽はこの朝の更新となった。

 

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211014 クラシッククラブを聴く 亀井聖矢 ピアノ演奏

2001年愛知県出身。高校3年に進級する2019年春に飛び入学試験を経て桐朋学園大学に入学。同年、日本音楽コンクール第1位入賞。注目のピアニストとして活躍中【出演】亀井聖矢(ピアノ)【曲目】ピアノ・ソナタ 第21番 作品53「ワルトシュタイン」(ベートーベン作曲)超絶技巧練習曲 から第5番「鬼火」第4番「マゼッパ」(リスト作曲)ほか【収録】2020年9月29日めぐろパーシモンホール 小ホールー番組紹介よりー

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亀井聖矢のコメント
最初についた先生が自分が弾きたい好きなやりたい曲を、それが難しい大人になってからやった方がいい曲でも自由に弾かせてくれたことが自分の中では大きかった。自分がやりたい曲を触ってるのが楽しくて、お客さんが喜んでくれた、それでここまで楽しく続けられたと思っています。難しい曲が多いので、テクニックに夢中になりがちな部分があるが、なんでこの作曲家がこういうふうな曲を書いたのか、もっとミクロな視点でいえば、なんでここにこの音を書いて、なんでここには休符があって、なんでここにはこんなフレーズがあってというところ、作曲家がどういう思いで書いたのかを考えて、自分はまだ未成年と言う事もあって人生経験が豊富ではないんですけど、その作曲家がどういうふうに過ごしている時期だったりとかということに思いを馳せて、そういうことを考えて演奏に向き合うようにしています。
 昔から一日8時間練習するとかいったようなタイプではないんですが、量をよりも質、短い時間でいかに効率よく自分のものにできるように練習していくかを考えるようにしてやっていたんですが、本番が多くなってくると質も大事だしその中でたくさん時間も練習しなければいけないということで、本番近い時にはもう一日中さわっているときもありますし、コロナのあいだとか、のんびりできる時は、1時間2時間という日もありました。頭を使ったりすることが好きで、パズルやなぞ解き、そういうものをピアノをやっている意外の時間で楽しんだりしてて。あとは一人暮らしをしているので、あいている時間に料理をしてみたりとか、そういう時間の過ごし方をしています。
 周りがすごく腕の高い先輩方ばかりで、同じ学年の子も一こ上の学年だったりとか、先輩にも日本音楽コンクールで1位取ってるとかが門下に何人もいたり学校でも周りでもそういう子がいっぱいいたりその環境自体がすごく刺激になるし、自分が負けてられない頑張らなきゃという、特に自分がとび入学させてもらってちゃんとそれに見合う頑張りをしていかなくちゃならないというところで気持ちを高めてコンクールに臨んだりとか、周りの生徒の刺激だったり、ピアノ以外にも作曲を副専攻してたりとか、いろんな授業があるんですが、そういうところからも自分の演奏に生きるような学習がいろんな学習が、いろんな方向から音楽に向き合う事でできるので、すごく自分にとってはいい選択だったと思います」

 

曲目
ピアノ・ソナタ 第21番 作品53「ワルトシュタイン」(ベートーベン作曲)
パガニーニの主題による変奏曲第一巻(ブラームス)
超絶技巧練習曲 第1番 「前奏曲」(リスト作曲)
超絶技巧練習曲 第5番「鬼火」(リスト作曲)
超絶技巧練習曲 第4番「マゼッパ」(リスト作曲)

 

🎵「ワルトシュタイン」の冒頭を聴いただけで、「鮮烈、華麗」と紹介されることに肯けた。これはベートーベンがスランプを脱し、作曲意欲が上向きになっていたときに作曲されている。亀井の演奏、恐れげなく淀みなく急こう配を駆け下り駆け上る。テンポが比較的穏やか目なところでさえ速度を感じてしまう。それは性急であるというのとは別物。シャープで暗さ重さを感じさせない。亀井の感性というフィルターに濾された「ワルトシュタイン」といった感じが。
ブラームスの変奏曲、リストの練習曲でのほうに、より芸術性が感じられた。

🎧名曲アルバムはラヴェル「クープランの墓」。大友直人&N響。
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パリの凱旋門の下には第一次大戦で命を落とした名もない兵士たちの墓がある。毎晩決まった時刻に慰霊の式典が行われる。その慰霊の火は90年以上にも亘り燃え続けている。作曲家ラヴェルがこの曲の構想を抱いた1914年に第一次大戦が勃発。愛国心の強かったラヴェルは作曲の手を止め志願してパリから戦地に向かった。ほどなくラヴェルは重い病を患い戦線を離脱。さらに最愛の母の死が告げられた。身も心も打ちのめされたラヴェルは思い出の詰まったパリから離れることを決意。パリから北西1000キロ離れた山村リヨンス・ラ・フォレへ。800人ほどが暮らすこの村ではいつも穏やかな時が流れている。ラヴェルはひと夏滞在し、再び音楽と向き合う力を養った。戦争前の構想を実現すべく、ここで「クープランの墓」を作曲した。ラヴェルが敬愛する19世紀の作曲家クープランの名を冠したこの作品はクープランが生きた時代の音楽をピアノ組曲としてよみがえらせた。そして組曲を構成する6曲をそれぞれ戦地で失った友人たちに捧げた。ー番組からー

⛳曙光、放射状にまっしぐらな光が眩く窓を射抜き眼を射る。絶好の洗濯日和。洗いに洗いぴしぱしと日向にさらす。遠くに柿の実むふむふと。もう山では里では栗の実もみなころかろ落ちてしまったろう。ナナカマドの実はちゃらちゃら笑い、アケビは気難しげにまだまだぎりりと口むすぶ。 21時10分更新

 

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211013 クラシッククラブを聴く 川口成人 フォルテピアノ・リサイタル

現代のピアノのほか歴史的な鍵盤楽器で演奏活動を行う。第1回ショパン国際ピリオド楽器コン第2位、2016年ブルージュ国際古楽コン・フォルテピアノ部門最高位、2018年第一回ショパン国際ピリオド楽器コンクール第二位。第1回ローマ・フォルテピアノ国際コン優勝など受賞多数。第3ローマ・フォルテピアノ国際コンクールでは審査員を務める。世界各地の古楽音楽祭にも多数出演。【曲目】「田園風」「無頓着」「傲慢」(ソル作曲)創作主題による32の変奏曲(ベートーベン作曲)ほか【収録】2020年9月17日 府中の森芸術劇場 ウィーンホール番組紹介よりー

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1989年に岩手県盛岡市で出生し、横浜で育つ。東京藝術大学音楽学部楽理科を卒業。大学在学中に古楽器にフォルテピアノに出会い、先輩の勧めでフォルテピアノを中心とした古楽器による演奏活動を開始した[1]。その後、同大学院修士課程古楽科に進学し、大学院アカンサス賞を得て首席修了。アムステルダム音楽院古楽科修士課程を特別栄誉賞を得て首席修了。現在オランダアムステルダム在住。歴史的な鍵盤楽器を用いる。

川口成彦のコメント
フォルテピアノとの出会いは、ちょうど20歳になるころ、東京芸術大学の楽理科に在学していて、副科実技でフォルテピアノをやることになったんですが、ハイドンのソナタを弾いたときに、今まで現代のピアノで自分が知っていた、イメージしていたハイドンとまるで違うものが見えてきて、はじめて古典派の音楽にかっこいいなと心から魅了され、それからどんどん嵌っていきました。昔のピアノというのは川の水のようないろんなものが混ざっているような音色に素朴さというか自然さを感じて、より人の声に近いなという感覚がある。それで昔のピアノって面白いなと思っています。

 きょうのこの楽器はジョン・ブロードウッドといって当時のイギリスを代表する製作家の楽器で、それを太田垣 さんという日本人の修復家の方が2020年に修復されたオリジナル楽器なんです。1800年ごろのものをそのまま現代でも音が出るように新しく修復された楽器です。今回使ったピアノに限っていうと、すごく軽いです。鍵盤数が5オクターブ半。今のピアノに比べるとすごく少ないです。それから中の弦が平行に張られている。パラレルスプリング、平行弦というんですが。平行に張られているのが特徴です。きょうの楽器はこれ(つまみのようなものですがよくは見落としました)がついていて、つまりこれをスライドすると、2本弦にしたり、1本弦にしたり。弦が3本張られているのが1本弦までできる。ペダル、右のがダンパーで音を響かせるやつですけれども、当時の楽器は1本弦、2本弦、3本弦と変えられたんですけれども、現代のピアノは2本弦までというのも大きな違いです。スペインの楽器の歴史というのは非常にイギリスのピアノの製作の影響を受けていて、スペインからイギリスに楽器製作を学びに行った人もいたり、マドリードの王宮にはブロードウッドのピアノがあった。で、それがいまボストン美術館にある楽器なんですけれども、イギリスの楽器って豪快さもあるんですね、派手さがあるというか。スペインのピアノ曲というのも、ギターからインスピレーションを受けたような表現も多いので、あとはスペインの民族的な歌だとか舞曲だとか、ピアノ音楽でそういうのを取り入れるにあたってもジョン・ブロードウッドの楽器、イギリス系の楽器というのは、スペインの作曲家たちにインスピレーションを与えたんじゃないかなと思います。

フィルテピアノとベートーベンについて、ベートーベンというのは、モーツァルトやハイドンに比べると、より一層楽器の限界を突破しようとした人なんだなというのを、やはり当時の楽器を弾いてみるとすごく感じます。最大限の自分のマキシマムなエネルギーをピアノと言う楽器に向けていた作曲家だなと思います。「月光」ソナタの第3楽章を当時の楽器で弾くともう崖っぷち状態にいるような緊迫感がすごくありますね。もう楽器も壊れるんじゃないかというぐらいのエネルギーがあって、ドナルド・ブラウティハム(オランダを代表する演奏家)さんという人の「月光」の録音が大好きなんですけれども、聴衆としてそれを聞くともう椅子にしがみつきながら聴きたくなるような崖っぷち状態。これは現代のピアノではなかなか表現できない世界。現代のピアノはもうどんな音を出しても余裕で大らかに受け止めてくれるので。ベートーベンがいかにその楽器の限界突破に挑もうとしていたか、未来志向だったのかなと思います。きょうの楽器というのは、「熱情」ソナタとか、あの時期の楽器ですけれども、これで「熱情」の3楽章とかも弾きますと、やっぱり限界値に到達、連れて行ってくれるといいますか、その白熱するエネルギーというか、その時にベートーベンって凄まじいエネルギーを持っていた人間なんだなと思います。

曲目
「アリア ニ短調」アングレス:作曲
ラファエル・アングレス(17301816) 176221日にバレンシアのカテドラルのオルガニストとして就任し、86歳で死ぬまでその職を務めたということです。オルガニストの職と共に、グレゴリオ聖歌の指導をしたり、他の楽器の楽団員の審査員をしたりもしました。(全てニューグローヴ音楽事典からの情報です。アングレスに関する面白いネタ話はなかなか見つかりませんでした川口成彦の頁からー
「スペインのファンダンゴによる変奏曲」ロペス:作曲
フェリックス・マクシモ・ロペス(17421821)
「ソナタ ニ長調」アルベニス(17551831):作曲
1790
作曲。サパティアードの影響。スペイン舞曲の影響。
「ファンダンゴ風メヌエットによる変奏曲 ニ短調」ロペス:作曲
カスタネットとギターで踊るファン・ダンゴの影響。
「田園風」ソル:作曲
フェルナンド・ソル(17781839)
「無頓着」ソル:作曲
「傲慢」ソル:作曲
「アンダンテ・ファボリ」ベートーベン:作曲
もともとワルトシュタイン・ソナタの中間楽章として書かれたが、冗長になるのを恐れて独立した楽曲にした。1803年から1804年にかけて作曲され、1805年に出版された。章の構想であったのをソナタには組み込まれずに独立した作品として1805年に出版された。
「創作主題による32の変奏曲 ハ短調」ベートーベン:作曲
1806年
に作曲したピアノ独奏のための作品。作曲者36歳の中期に属する作品で、古典的な作曲法と巧みな変奏技法とが見事に一体となった変奏曲である。ベートーヴェンはハ短調には特に名作が多く、交響曲第5番ピアノ協奏曲第3番ヴァイオリンソナタ第7番など、大作が揃っている。

🎵だいたい同年代の作曲家たち。ベートーベンは1770だけれども。アルベニスまではギターの響きのような音色もあり陽気で明るく舞曲のような躍動感。「ファンダンゴ風……」は足を床に打ち鳴らすような響きが心地よい。ソルは練習曲を聴いているような。それがベートーベンで一転。「創作主題による……」、解説、コメントが一層の真実味を。ベートーベンのベートーベンたる所以に満足度もまたマキシマム。
因みにソロ・アルバム「ゴヤの生きたスペインより」の使用楽器はジョン・ブロードウッド&サン 1792年製(エドウィン・ベウンク氏修復)…トラック1-3811-14
クリストファー・ゲイナー スクエアピアノ 1780年頃製 (オラフ・ファン・ヒース氏修復)
解説の後で聴く「創作主題による32の変奏曲 ハ短調」、ロマン・ロランの書くベートーベンの風貌がほうふつと。「顔面筋肉は緊張して盛り上がり、血管は膨れた。荒々しい目は倍も恐ろしい様子になり、口はブルブル震えていた。自分で呼び出した魔神たちの力に圧倒されている魔術師のような有様だった」とあるけれども、「魔神」や「魔術師」という語彙が適切であるかどうかは私にはわからないが、いずれものすごかったのだ。「崖っぷち」が納得せられる。

🎧名曲アルバム。ヴィヴァルディ「四季  秋」。バイオリン新井英治、飯森&東京フィル。
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⛳暁が出ようとするところを押し戻そうとする黒雲を砕き散らそうとベートーベンの32の変奏が鳴る、それを短歌の五七五七七にしようとしたが、なかなか。時間切れ。19時50分の更新。

 

 

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211012 クラシッククラブを聴く 小菅優 ピアノ・リサイタル

9歳でデビュー。2005年にはカーネギー・ホールで、2006年にはザルツブルク音楽祭でリサイタル・デビューを行う。ベルリン交響楽団、シュッツガルト交響楽団など多くのオーケストラト共演。高度なテクニックと美しい音色、深い楽曲解釈と優れた音楽性で注目され、世界の殿堂で活躍を続ける小菅の「今」を聞く。今回は「風」をテーマにしたリサイタル。番組紹介よりー

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小菅優のコメント
「風」というのは目に見えないもの。空気、それから語源などをさぐっていくと命とか魂とかいうふうにどんどん連想される幻想であって、すごく想像力が掻き立てられるところですね。「風」は今までやってきた  のなかで一番内面的で一番ミステリアスで不可思議な世界だと思います。それでいて、奮い起こしてくれる強さもあって、すごく私は一番感性を揺すぶられるようなエレメントだと思います。
ベートーベンはずっと取り組んできた作曲家で、今回は「テンペスト」なんですが、すごく対話が激しい対話が1楽章にすごくあったり、なので「嵐」といっても心の嵐、ほんとうにベートーベンがハイリゲンシュタットの遺書を書いて、その後に、やっぱり芸術を絶対に残していかなければいけないという使命感も感じるほんとうに画期的な作品だと思います。

曲目
☆「クラヴサン曲集 第1巻 第3組曲から「かっこう」ダカン:作曲
「カラヴィンカ」西村朗:作曲
西村朗は2006年にザルツブルク音楽祭で行われた小菅優のリサイタルのためにこの作品を書いた。カラヴィンカは極楽に住む人間の顔を持つ鳥。美しい声で人の魂を救済するといわれている。
ピアノ・ソナタ 第17 ニ短調 作品312」ベートーベン:作曲
ベートーベンは1802年にこのソナタを作曲した。当時の彼は難聴が悪化し自殺を考えるほど思い詰めていた。彼がこの作品の真意について秘書に、「シェークスピアの嵐を読めばわかる」と語った逸話から、嵐を意味する「テンペスト」という名で知られている。
「前奏曲集 第1巻から「沈める寺」」ドビュッシー:作曲
ドビュッシーは1909年から13年にかけて自身のピアノ曲の集大成とされる2つの前奏曲を書いた。「沈める寺」はブルターニュ地方の伝説をもとに作曲された。伝説都市イスの海底に沈んだ寺院が水上に姿を現し、聖歌や鐘の音を響かせてはまた沈む様子を表現している。
「前奏曲集 第2巻から「霧」」ドビュッシー:作曲

🎵「かっこう」、一瞬クラヴサンが鳴ってると。しかしたしかに鳴っているのはピアノなのだ。「カラヴィンカ」、実に印象的。透徹した、鉱物的な響きに目が醒める想い。小菅の10指に潜む鳥は飄然と翻って美しく、辺りをざわめかせる。周りの気配を察知し見抜き、玄妙に姿を垣間見せる。以前、小菅が打ち出す音をインド、東南アジアの打楽器に探したことが思い出される。自分の宗教とは異なるが、魂を訪ねあるく、何か巡礼的な感じもする魅力的な旋律、靄がかるところも明瞭に聴かせる小菅のハイテクニック。一応カラヴィンカという想像上の鳥というよりもその意味が気になり、つないでみた。「ピアノ・ソナタ 第17番」即ち「テンペスト」。これはもうハイリゲンシュタットのあと、しかし芸術はのこしていかなければならないとの思いと小菅。激しい対話、心の嵐、これはシェークスピアの「嵐」でもあると。鮮烈な演奏途上に第3楽章の魂を震わせる優しさには落涙。すばらしいベートーベン演奏にはベートーベンが現われると私は思っているが、この演奏にもあの面影が。現実はこうだが、しかしこうあらねばならないとつたわってくる。「沈める寺」、ブルターニュの伝説から。「霧」、小菅の真骨頂、繊細な色彩感が響く。
昨日のプログラム、クンウー・パイク75歳の演奏にもずいぶんと励まされたけれども、きょうの小菅の一曲一曲も明晰、鮮烈。一曲一曲のそれぞれをディスクにというよりも宝石箱にでもしまいおきたいぐらいのもの。

 

🎧名曲アルバムはカタルーニャ民謡「鳥の歌」。カザルス/栗山和樹編曲。チェロ金木博幸、円光寺&東京フィル
Dsc02561-2 Dsc02568-2 「魔の山と恐れられる奇岩の間にこの土地を守護する修道院がある。民族の言葉を禁じたフランコ政権時代もカタルーニャ語でミサを守り続けた。古くから伝わる民謡「鳥の歌」は誇り高いカタルーニャ人の象徴であり、名チェリスト、パブロ・カザルス(18761973)が見出した魂の曲である。フランコの圧政にあえぐ祖国の現状を世界に訴えるために、カザルスは万感の思いを込め、この曲を生涯弾き続けた。カザルスは貧しい幼少期をエル・ベンドレルに過ごした。貧しさの中にあってもカザルスの両親は民族の誇りと音楽への愛を大切にせよと教えた。父親はパブロ少年のために手作りの楽器を与えた。―番組から抜粋ー
🎵カザルスのエピソードは多々あるけれども、「カザルスの対話」にあったエピソードで、才能はあるけれどもマナーも悪ければ行儀作法もなっていないことで音楽仲間からも嫌われていた音楽家がいたのだが、カザルスは彼に何とか日の目をと手を尽くしたというはなしを思い出した。詳しく書きたいと本を探したが、どこにしまい込んだやら。

⛳12時53分更新

 

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211011クラシッククラブを聴く クンウー・パイク  ピアノ・リサイタル

5時34分東の空。暗雲流れ光をかき消さんとすとも。
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☆  ☆  ☆

ソウル生まれ。10歳で韓国国立オーケストラとの共演でデビュー。15歳の時に米国に渡りジュリアード音楽院で学ぶ。1969年ブゾーニ国際ピアノコンクールで金賞。1982年からパリを拠点に移し、世界的なピアニストとして活躍中。今回のプログラムは全てショパンのノクターンで組まれた。75歳の今も第一線で活躍。【演奏】クンウー・パイク(ピアノ)【曲目】ノクターン変ホ長調作品9-2ほか【収録】2021年7月13日王子ホール(東京)―番組紹介よりー 

クンウー・パイクのコメント
<全曲ショパンの「ノクターン」というプログラムについて>
実はかなり長い間ショパンのノクターンを演奏していませんでした。演奏するのが難しいといつも思っていたからです。「ポロネーズ」「マズルカ」「バラード」「スケルツォ」には華麗さを伝え人々を幸せにし感動させるという目的があります。しかしノクターンは自分との対話です。ショパンも自分と対話していたのでしょう。ノクターンはその様を巧みに表現しています。ノクターンはショパンと最も親密な関係が築ける作品です。今回はノクターン全21曲の中から選曲し演奏します。

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曲目 オールショパン
ノクターン 変ロ短調 作品9第1
ノクターン 嬰ハ短調 (遺作)
ノクターン 変ホ長調 作品9第2
ノクターン ハ短調 作品48第1
ノクターン 変ホ長調 作品55第2
ノクターン ロ長調 作品62第1
ノクターン 嬰へ短調 作品48第2
ノクターン 作品15第1
ノクターン 作品48第
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🎧名曲アルバム。バラキレフ(18371910)「ピアノソナタ」。ピアノ川上昌裕
バラキレフはモスクワの東600キロ、人口110万の大都市ニジニ・ノブゴロドで育つ。ボルガ川とオカ川の合流地点にあり、水運の要衝であり、ロシア各地から人が集まった。曲は伝統や風土に根差した作風で、民族音楽のリーダー的存在となった。バラキレフはしばしばボルガ川の岸辺に行き、船を引く労働者たちの歌声に聞き入ったという。多様な文化の集まるこの町がバラキレフの音楽を育んだ。18歳で首都サンクトペテルブルクに上京。しかしヨーロッパ音楽会に追いつくことを目指していたロシア音楽界で民族性にこだわり続けたバラキレフは次第に孤立し40代のころには音楽界から遠ざかり作曲を完全にやめた時期もあった。しかし友人や弟子たちに癒され数多くの美しいピアノ曲を作った。このピアノ・ソナタは少年時代の草稿がもとになっているという。半世紀以上を経て完成されたこの曲は、ロシア音楽史上屈指の傑作となった。

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⛳9時5分 更新

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きょうのことば『からし種ほどの信仰』

インマヌエル盛岡キリスト教会2021年1003()の礼拝メッセージをお伝えいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で48年目のご奉仕をしておられます。
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説教題 『からし種ほどの信仰』  (國光勝美 牧師)
聖書箇所 新約聖書 マルコの福音書9:1429

9:14さて、彼らがほかの弟子たちのところに戻ると、大ぜいの群衆その弟子たちを囲んで律法学者たちが彼らと論じ合っているのが見えた。 9:15群衆はみな、すぐにイエスを見つけると非常に驚き、駆け寄って来てあいさつをした。
9:16イエスは彼らに、「あなたがたは弟子たちと何を論じ合っているのですか。」とお尋ねになった。
9:17すると群衆の一人が答えた。「先生。口をきけなくする霊につかれた私の息子を、あなたのところに連れてきました。
9:18その霊が息子に取りつくと、ところかまわず倒します。息子は泡を吹き、歯ぎしりして、からだをこわばらせます。それであなたのお弟子たちに、霊を追い出してくだいとお願いしたのですが、できませんでした。」
9:19イエスは彼らに言われた。「ああ、不信仰な時代だ。いつまで、わたしはあなたがたと一緒にいなければならないのか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。その子をわたしのところに連れて来なさい。
9:20そこで、人々はその子をイエスのもとに連れて来た。イエスを見ると、霊がすぐ彼にひきつけを起こさせたので、彼は地面に倒れ、泡を吹きながら転げ回った。
9:21イエスは父親にお尋ねになった。「この子にこのようなことが起こるようになってから、どのくらいたちますか。」父親は答えた。「幼い時からです。
9:22霊は息子を殺そうとして、
何度も火の中や水の中に投げ込みました。しかし、おできになるなら、私たちをあわれんでお助けください。」9:23イエスは言われた。「できるなら、と言うのですか。信じる者には、どんなことでもできるのです。」
9:24するとすぐに、その子の父親は叫んで言った。「信じます。不信仰な私をお助けください。」
9:25イエスは、群衆が駆け寄ってくるのを見ると、汚れた霊を叱って言われた。「口をきけなくし、耳を聞こえなくする霊。わたしはおまえに命じる。この子から出て行け。二度とこの子に入るな。」
9:26すると霊は叫び声をあげ、その子を激しくひきつけさせて出て行った。するとその子が死んだようになったので、多くの人たちは「この子は死んでしまった。」と言った。
9:27しかし、イエスが手を取って起こされると、その子は立ち上がった。
9:28イエスが家に入られると、弟子たちがそっと尋ねた。「私たちが霊を追い出せなかったのは、なぜですか。」
9:29すると、イエスは言われた。「この種のものは、祈りによらなければ、何によっても追い出すことができません。」

<お話し>

 説教の最後のところでお話をさせていただきますが、きょうお読みしましたマルコの福音書にあるこの場面は、マタイの福音書、ルカの福音書のそれぞれに同じ場面が出ています。マタイの福音書17:20に、「からし種ほどの信仰」ということばが出てきますので、説教題は敢えてそこから取らせていただいた次第でございます。

簡単に前回のところを振り返ってみましょう。

私たちが信仰というときに、似て非なるものがあると申しました。同じように見えて、しかし本質が違うもの。「信念」と「信仰」がそれです。「精神一到何事か成らざらん」という有名な慣用句があります。しかし、聖書には、「信ずる者には、凡ての事なし得らるるなり」という表現がございます。信念というと、これは自分の頑張りであり、信仰というのは、これは神様への信頼である、このことを前回の礼拝で語らせていただき、語らせていただいた私自身もこのことばをよく咀嚼させていただいているつもりなのですけれども、自分の信仰というものを振り返るときに、いつの間にか信仰というものが信念になってしまっているというような微妙な問題がある。この辺りをきょうの礼拝でしっかりと私自身のためにもお伝えしたいと願って準備をいたしました。

22 イエスは弟子たちに答えられた。「神を信じなさい。23 まことに、あなたがたに言います。この山に向かい、『立ち上がって、海に入れ』と言い、心の中で疑わずに、自分の言ったとおりになると信じる者には、そのとおりになります。
24
ですからあなたがたに言います。あなた方が祈り求めるものは何でも、すでに得たと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」

 このマルコ11章のおことばは、先ほどお読みしたマルコ9章のできごととまさに同じ場面であります。

 私たちは、このお父さんが持っていたような大きな課題を持っております。きょうのテキストでいうなら、このお父さんの一人息子、ほかの3つの福音書を読み比べますと、これが一人息子であったということがわかるのですけれども。その息子が悪霊にとりつかれた。そして、「悪霊にとりつかれた」ということばでありますが、ほかの福音書を見ますと、いわゆるてんかんということばで表しているものもあります。いずれにせよ、大きな課題であります。
 いつごろからこの大きな課題と取り組んでいたかというと、幼い時からであった。ずいぶん長期に亘っています。ルカ9:38を見ると「私の一人息子」とあります。マタイのところを見ると、「なんども火の中に倒れ、また何度も水の中に倒れました」。マルコの方を見ると、「泡を吹きながら転げまわった」、これはもうところかまわずです。
 私はこれをさらっと字面だけを読み通すことはとてもできません。このお父さんと子供が抱えている長きにわたる、しかも非常に大きなこの課題、どれほど辛く苦しかったでしょうか。自分のこととしてこれを受けることであります。 

 この苦しみからすれば到底比較にならないかもしれませんが、私はどもりであります。「人前でもふつうに話しているじゃないか」と言われると、それは本当に神様の憐み以外の何ものでもありません。しかしこれは、小さいころはとても辛いものでありました。まだ無邪気なころは、それほどでもなく済んでおりますけれども、成長するにつれて、この課題がほんとうに重くなってきておりました。今でも鮮やかに思い出す場面があります。私は寝る前に泣きながら母親に「どうしてどもりなんだ」と言ったとき、母親が涙を流して「ごめんね」と。謝られたのです。
 私がまだヨチヨチ歩きのころ、母親が、田んぼに水を引く水路に落ちてしまったそうです。近所の人たちが、流れてくる母親を水路から引きあげてくれ、やっと助かったことがあったそうです。母が言うには、私はそのときからどもりになった。そういうわけで、私が自分の辛さを話したとき、母が涙を流して「ごめんね」と言ったのでした。今でも忘れられません。


 皆さん、この父親の気持ちになってみてください。どれほど辛かったことでしょうか。そして、これはただこの父親と息子だけのことではない。皆さん方もそれぞれ中身は違いますがどうすることもできない重い問題を抱えていらっしゃる。それをどうしたらいいだろうか、こういう課題をもっております。

 三つの福音書に私は比較してみました。息子をお弟子さんたちのところに連れていったけれども治らなかった。ちょうどそれは、イエス様が何週間か前に変貌山のできごと、ペテロ、ヤコブ、ヨハネの見ている前でイエス様が姿変わりをされた。そのときにほかの弟子たちはふもとに残っていたのです。この弟子たちのところに、お父さんと息子がやってきて治してくださいと頼みました。ところが頼んでも治せない。ダメだった。
 そこにイエス様が3人のお弟子さんたちと山から下りて来られたのです。騒いでいた人々が、「ああイエス様だ」と見つけます。この父親と息子にイエス様がようやく直面されました。そのときにイエス様が発せられたことばは、これはマルコ、マタイ、ルカの3福音書に記されてございますが、「ああ、不信仰な時代だ」と。マタイ、ルカの福音書には「曲がった時代だ」と敢えて付け加えております。

 これは余談ですが、日本語で「ああ」とありますこれが原語の方ではどう書かれてあるか気になります。調べますと、英語では「Oh」とありますが、どうも、感嘆のことばであったことは間違いない。イエス様はこのときに、原語にあるように、「ああ」と思わず嘆息されている。9:19イエスは彼らに言われた。「ああ、不信仰な時代だ。いつまで、わたしはあなたがたと一緒にいなければならないのか。いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか。」
 ここで改めて気づきました。イエス様が「ああ」と嘆息されるほどに不信仰であることはイエス様をがっかりさせる。あのイエス様をイライラさせてしまう。これほどあなた方と一緒にいるのになぜ私に気が付かないのかとイエス様から言われてしまうような、そんな思いがするのです。

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 そうです。先ずはイエス様のもとに行って問題を解決すること、そのことをこれから学ぼうとしております。私も、今、非常に大切なところを扱うのだと心して準備をさせていただきました。
 私たちが大きな課題に直面したときに、先ずどこに持っていきますか。どこに持っていくでしょう。最初にどこに持っていきますか。「信仰をもってわたしのところに」と仰ってくださるイエス様のところにか、それとも、ほかの聖書箇所を見ると、律法学者たちだとか、あるいは群衆、そのようなところに持ち出して、「ねえねえ、今こんな大変な状態なんだけれども、この息子をいったいどうしたらいいのでしょうね」などといって訊くのか。
 イエス様は教えています。「その子をわたしのところに連れて来なさい。」

 イエス様が山に登られたとき、山麓にのこされた学者たちやお弟子さんたちは、イエス様について、イエス様が行われた奇蹟のことについて論じ合っていました。しかし、どれほどイエス様について知っているかということと、イエス様を信じて真っ先にイエス様に飛び込んでいくこととは似て非なるものです。イエス様が「わたしのところに連れて来なさい」と仰るとき、これは私たちの信仰へのチャレンジであるように私には思われます。

 ところが真っ先にイエス様に飛び込もうとすると必ずや悪霊の妨害があります。ここでも歯を食いしばって、息子をイエス様のところに連れて行こうとした途端に、息子が発作を起こして転げまわる。ほかの福音書を見ると、悪霊と書いてありますけれども、そうなんです。私たちがイエス様のところに行こうとすると悪霊が邪魔をする。大きな課題を、イエス様のところに持っていこうとすると、それが好ましい望ましい行為であればあるほどに、悪霊はそれを何とか妨げようとします。この課題の解決を邪魔しようとする。このときの子どもの発作も、おそらく今までの発作の中でいちばんひどいものになっただろうとこのように思います。

 そんなときに、イエス様は、さあいいから連れてきなさい。イエス様への期待、イエス様に信仰する機会を与えてくださいます。

 ここに、「おできになるなら、私たちを憐れんでお助けください」とあります。これは一見、謙遜な表現です。ある意味常識的な表現です。しかしこれに対してイエス様は、「おできになるならというのか」と仰る。「信じる者にはどんなことでもできるのです」と仰る。お父さんは言いました「信じます不信仰な私をお助けください」。これがイエス様の中に飛び込むことであると敢えて私は申し上げたい。 

 私たちは大きな課題に直面します。もうどうしようもないと切羽詰まると不信仰になってしまう。だいじょうぶだろうか。いくら何でもできないよなあ、万事休す。でもそんなときこそ、その私にイエス様は「信じる者にはどんなことでもできるのです」と仰る。だったらば私の信仰はこんなに小さい。だけども、イエス様、あなたは父なる神様に対して、100パーセントの信頼を置いて「あなたはわたしの子、わたしはこれを喜ぶ」と父なる神様をお喜ばせなさったお方です。イエス様は父なる神様に対してほんとうに信頼を持っておられる。そのイエス様の信仰の中に、主よこんな乏しい小さい欠けだらけの者ですけれども、あなたの信仰の中に私を飛び込ませてください。そう信じてイエス様の信仰の中に飛び込むことです。

 或いは深刻な病に直面しておられる方もいらっしゃるでしょう。できる限り医療の恩恵を受けることは不信仰でも何でもありません。ただ、それをだから救われるのか。そうではない。イエス様の中に飛び込むことです。

「信じます」というのは、飛び込むという意味だと私は理解するのです。黄色の背景の中に書いてある「信じます」ということば、「不信仰な私」というのはほんとうに課題の中に右往左往しながらある時は涙しながら迷いながら、そんなところですけれども、しかしイエス様、あなたは父なる神様を120パーセント信じ切っておられるお方でしょう。あなたの信仰の中に、どうぞ私を溶かしてください。飛び込みますから。信じます。このことができるかできないか、イエス様はこのことができない私たちを、ああ不信仰な時代だ。どうして信じて私の中に飛び込まないんだ。イエス様を一番いらイライラさせるのは、クリスチャン、イエス様によって生まれ変わって信じているはずの私たちがイエス様のところに飛び込んでいくことができないことです。そのときに、不信仰な時代だ、ああ。と思わずイエス様は嘆息される。

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 さあ連れて来なさい。ここでマタイの福音書から「からし種ほどの信仰」を引かせていただきますが。これは前回の「牧師の書斎から」(水曜日夜7時からのズームによる祈祷会)でもお話しさせていただきましたが。からし種というものは種の中でも小さな小さなものです。だけれども忘れてならないことは、このからし種にはいのちがある。生まれ変わりのイエス様、天国に、イエス様に通じるそのいのちをもっている。だからそのいのちを持って、小さくたっていい、お父さんの言い方をするならば、不信仰な私、ある意味それでもいい。だってどんなに頑張ったってあなたの信仰はそれだけのものだ。だけどもね、飛び込んでご覧。飛び込むのがあなたの信仰なんだ。それがからし種ほどの信仰、それを持っていたのならばあなたにできないことはない。このように神様は語ってくださるように思うのです。からし種ほどの生きた信仰、小さくあっていい、それを持ってあのイエス様の「我に連れ来たれ」というそのお方の中に、きょうとびこんでいこうじゃありませんか。そのとき、主は「おう、よく飛び込んだ。信仰なくして神に喜ばれること能わず」と迎えてくださいます。

 これらのことを心に止めながら、きょうはこれから聖餐式に臨もうとしております。讃美歌「しみもとがも」を歌い、進めてまいりましょう。

※イラスト、音声データは教会からお借りしています。

⏰6時14分更新


 

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J-MEROをざっと

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ゲスト 海蔵亮太 & 祭nine

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こんなに人々に寄り添える声質と心を持った歌い手が。「愛のかたち」、障害の方の思いがジワリ。
コメントの一部 (世界大会出場で審査の方々聴衆に)言葉の壁があるのかなあと思っていたところ、実際に歌ってみると言葉の壁なんて音楽には関係ないなとすごく感じましたし、いろんな人と言葉が通じなくても何か心でつながるというか、すごく楽しい大会だったなあと今でも憶えています。
J-POPは僕にとっては青春そのものだし、自分のオリジナリティというものが、このJ-POP を通してわっと出せるんじゃないかなという可能性を秘めていることをすごく感じます。とにかく日本語という言語を音楽を通して聴くと、僕はこうすごく澄んだような水のようなすごいきれいなイメージがあるので、それが結果として日本語って美しいんだなあと感じる。そういう意味では日本人であるならば、J-popをしっかりと歌いつないでいくことは僕の使命だとおもっています。
最近サイコパスの歌という曲を初めて作詞作曲したんです。この曲を作ってみて思ったのは、すごく自分の言葉、自分の頭、心から出た音で音楽を作るって大変だけど素敵だな、楽しいなというふうに思ったのと、その時その時に僕が感じる気持ちとか感情をその都度音楽にしたら、なんか自分の齢を重ねてその曲を歌ったときに、あの時はこういう気持ちでいたんだなあとか思い出せたら。そういう意味では自分の思いのその時その時感じたものを形にするのって素敵だなあと思っているので、これからの目標としては自分で作詞作曲をしながら、その曲を多くの人に伝えていけたらいいなと思ってます。

海蔵の歌、声は、まさしく彼のコメントの通りの美しさ。

⛳きょう17時ごろの夕焼け。

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きょうの一日、きょうもなぜか生かされたこの事実に深く感謝しつつ。22時16分 更新

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211007 クラシッククラブを聴く アンドラーシュ・シフⅡ、 211008 河村尚子

21年10月07日は、ザルツブルク音楽祭アンドラーシュ・シフ ピアノリサイタル

2020年の「ザルツブルク音楽祭」から、世界的ピアニストのアンドラーシュ・シフがシューベルトとヤナーチェクの作品に取り組んだソロ・コンサートの続編をお送りする。 出演:アンドラーシュ・シフ(ピアノ) 〈2020年8月25日 ザルツブルク モーツァルト劇場〉

モーツァルトの生誕地オーストリアのザルツブルクで毎年夏に開催されるザルツブルク音楽祭。一か月以上に及ぶ期間に演劇、オペラ、バレエ、種々のコンサートを含む数多くのプログラムが提供され規模、内容ともに世界有数の音楽祭として知られる。1920(大正9)年に第一回が開催されたのち、偉大な音楽家たちの導きで伝統を積み重ねてきた音楽祭が2020年創立100年を迎える。新型コロナウィルスの感染拡大を受けて一時開催が危ぶまれたが規模を縮小しさまざまな感染防止対策をとったうえで81日から30日間、110公演が行われた。
音楽祭の後半、ステージに登場したのは、世界的ピアニストのアンドラーシュ・シフ。アンドラーシュ・シフは1953年ハンガリーのブダペスト生まれ。バッハからブラームスまでのドイツ音楽のレパートリーを中心とし卓越した技術と音楽性を兼ね備える。

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曲目
☆1905年10月1日(ヤナーチェク作曲)
ピアノ・ソナタ ハ長調 D.840(シューベルト作曲)
4つの即興曲 D.899から第3番 変ト長調(シューベルト作曲)
楽興の時 D.780から第3番 ヘ短調(シューベルト作曲)
「草が茂る小道を通って」から おやすみ(ヤナーチェク作曲)

🎵ザルツブルク音楽祭は1920年から100年の歴史をもつ。100年前の日本というと、音楽では軍楽隊や帝室雅楽部が西洋音楽の習得も課せられて頑張っていた。日本にはまだヨーロッパに比肩しうるアンサンブルもない時代からの音楽祭だ。
「1905年10月1日」、珍しく日付が題名に。1905年に作曲されたはずが、出版が随分と遅れた理由は何だろう。この曲のエピソードがあった。怒りが作曲の引き金となっている。第一楽章が「予感」、第二楽章が「死」。第三楽章はエピソードにある通り。ユーチューブにも音源があるけれども、それこそモノク動画を見ているような感じも。怒りに煽られるというところは抑制的であり、「死」の方では断固とした事実の提示とも受け止めた。
「草が茂る小道を通って」
、この全体をちょっと、
全曲を通じて、拍子速度の頻繁な変更が目立ち、ポリリズムも多用されている。拍子の表示や小節線の扱いなど、記譜法も興味深い。ヤナーチェクの生前に発表された曲集なので、作曲者によってすべての小品に詩的な題名が添えられている。終曲の題名にあるフクロウは、モラヴィアではの象徴であるという。

🎧名曲アルバム。ブラームス「三つの間奏曲 第一番」
晩年のブラームスが心の内をピアノで叙情的に語った傑作。彼の創作を支えたのは敬愛する女性クララだった。出会ったデュッセルドルフの在りし日々を追想する。ー番組紹介よりー

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☆  ☆  ☆

21年10月08日は、河村尚子 ピアノ・リサイタル

河村尚子は兵庫県出身。幼いころ家族でドイツへ渡り、以来ドイツを拠点としている。2006年ミュンヘン国際音楽コンクール第二位。翌年にはクララ・ハスキル・コンクールで優勝。以来、ヨーロッパやロシア、日本を中心にリサイタルを開き、ウィーン交響楽団、NHK交響楽団などさまざまなオーケストラと共演。2018年から4回にわたるベートーベンピアノソナタプロジェクトを開き、選んだ14曲のピアノ・ソナタを初期の作品から演奏してきた。今回のコンサートはこのプロジェクトの最後の演奏会、後期のピアノ・ソナタに挑んでいる。番組紹介よりー

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河村尚子のコメント
Qベートーベンとは
とにかく熱い作曲家だなというのがありますね。一言いうだけではなくて、ふた言にも三言にも何でも繰り返して言う。言ってみたらしつこい、というのもあるんですけれども、でもそれがまた躍動感が満たされて、情熱的になったりリズミカルになったり、時にはやっぱり愛情がたくさん満たされたり、ほんとうに熱い作曲家ですね。
Q
後期のピアノ・ソナタについて
もちろん初期のソナタの中にも画期的なアイデアがあるんですけれども、それ以上に飛びぬけた時代を超えたアイデアが後期のソナタには見られるかなと思います。形式に縛られすぎず形式の中からまた新しい世界へと踏み出す彼のすがた。このふるい形式からどうやって次の世代に渡したらいいのか、そういうふうな彼の止まらない探求力、誰も止められなかったんだと思いますね、やはり。彼自身それだけの想像力があったので、やはりそういう新しいものについて探求するというのが最後の最後まで見られるかと思います。彼自身が、こういう音楽の在り方もあるんじゃないのと言っているような感じがありますよね。きちっと形式を守る部分とはじける部分とどっちもあって、でも人生の中でもそうやってきちっとする部分とはじける部分があるというのが、そのギャップがまた楽しいところなんじゃないかなと思いますし、だからほんとうに人生そのものを描いた、音楽にした人間なんじゃないかなと思います。

全曲ベートーベン作品
ピアノ・ソナタ 第31番 変イ長調 作品110
ピアノ・ソナタ 第32番 ハ短調 作品111
アンコール ピアノ・ソナタ 第30番 第一楽章

🎵はじめて第32番を聴いたときには、まるでこの時代の間隙に1900年代がタイムスリップしてきたような驚きを感じたことを思いだす。以前はジャズはあまり好きではなかった。それが奇妙なことにクラシック倶楽部を聴くうちにジャズの良さおもしろさに気付かされたのだ。

🎧名曲アルバム。サティ「グノシエンヌ」。ピアノ広瀬悦子

パリ万博で聴いた民俗音楽に刺激を受けて作曲。

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⛳ほんとうは冒頭に書くべき事項かとおもうけれども、昨夜、関東に震度5強。ニュースを聞いた瞬間、また被害を受ける方々が出るかと思うと気持ちが沈んだ。おびただしい破壊の繰り返し。ちょうど関東にいる息子は帰省中であったが姉弟姪甥たちも居りぎくりとする。震える気分を落ち着かせてくれるのは、これはやはり聖霊という存在なのではないかと思っている。意識のどこかがぱかりと覚醒し、だいじょうぶと言われているように思われるのだ。それがただ単に言葉だけというのではなく、霊界と物質界が溶融したかの質量があると感じられるのだ。それが自分を落ち着かせる。これからもそうかはこれからの時をまってみないとわからないが、これまではそうだったし今回もそうだった。

21時41分更新

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211006 クラシッククラブを聴く ザルツブルク音楽祭2020 アンドラーシュ・シフⅠ

ザルツブルク音楽祭2020 アンドラーシュ・シフⅠ

2020年の「ザルツブルク音楽祭」から、世界的ピアニストのアンドラーシュ・シフがシューベルトとヤナーチェクの作品に取り組んだソロ・コンサートをお送りする。 卓越した技術と豊かな音楽性を兼ね備えたピアニストとして聴衆を魅了し続ける世界的ピアニスト アンドラーシュ・シフがシューベルトとヤナーチェクの作品に取り組んだ2020年の「ザルツブルク音楽祭」のコンサートからお送りする。出演:アンドラーシュ・シフ(ピアノ) 曲目:4つの即興曲 D.935(シューベルト作曲)、霧の中(ヤナーチェク作曲) 

2020年8月25日 ザルツブルク モーツァルト劇場〉                        ー番組紹介よりー

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🎧名曲アルバム。ブラームス「三つの間奏曲 第一番」

晩年のブラームスが心の内をピアノで叙情的に語った傑作。彼の創作を支えたのは敬愛する女性クララだった。出会ったデュッセルドルフの在りし日々を追う。ー番組紹介よりー
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シューマンがライン川に身投げ、この時は見ていた漁師に助けられたらしい。そのあとはブラームスが親身にクララを支える。
シューマンの死因、病についてはこちら

⛳きょう2時46分、青森震度5強、ここ盛岡は震度5弱。まだ和歌山の台風14号被害が真新しいところに……。10時45分更新

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211005 クラシック倶楽部を聴く 北村朋幹 ピアノ・リサイタル

東京藝大を経てベルリン芸大、フランクフルト音楽・舞台芸大で学ぶ。2005年東京音楽コンクールで第1位の他、ベートーベン国際ピアノコンクール第2位など入賞多数。 【演奏】北村朋幹(きたむらともき)(ピアノ)…1991年愛知県生まれ。3歳から。東京藝大を経てベルリン芸大、フランクフルト音楽・舞台芸大で学ぶ。2005年東京音楽コンクールで第1位の他、浜松国際コン第3位、シドニー国際コン、リーズ国際コンでそれぞれ第5位、ベートーベン国際コン第2位など入賞多数。
【曲目】ピアノ・ソナタ 作品1(ベルク)
    ピアノ・ソナタ 第3番 ヘ短調 作品5から(ブラームス)

【収録】2021年3月22日武蔵野市民文化会館 小ホール
                        ー番組紹介よりー

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コメント
<ベルクのソナタについて>
ロマン派そしてロマン派の終わり、そして現代に向かってというあたりがとても自分にとっては大事な時代なので、意識したわけじゃないですけど自然とこうなんだという感じですね。共通してるのは、とにかく歌の作曲家だということで、歌を歌うということは、とても根源的な音楽的欲求だと思うんです。で、何かをこう言葉じゃなく表現するときに、歌っていうのは自然に出てくるもの。で、それが音楽の基本のところにあるので、とても美しいと思います。アルバン・ベルクベルクのソナタに関して、僕は実は14歳ぐらいのときから弾いていて、それから実は15年以上弾いてる曲なんですけれども、楽譜を見ると信じられないぐらい細かく、一音一音に対してどういう表現をしてほしいかが書いてあって、ぜんぶのの声が歌のフレーズのようになっていく。いろんな人がいろんな歌を歌っているというふうに解釈できるんですけど、いろんな情報の中から何かを選び出して自分で弾かなければいけないというのは、15年弾いていてもいまだに新しい発見がいくつもあるし、ちょっと人生と似てるなと思うんですね。いろんなものがあって、例えば自分で選ばなければいけない。
<ブラームスのピアノ・ソナタ第3番について>
僕がいつも願っているのは作曲家自身がどういう音を聴いていたかということをとても興味があって、聴いていたかというのは実際の楽器に関してもそうなんですけど、その音を僕は聴きたいわけですね。だから楽譜を読み込むし、彼らが書いた日記だとか手紙だとかというのもとことん読むし、あとはその時代の空気というのも勿論想像するしかないんですけれども、そういうものはものすごく重要で、疑似体験ですらないんだけど、でもそれを知っているのとしっていないとでは自分のイマジネーションの幅は大きく変わると思いますし、印刷された音符がどういうことばを語っているのかとかどういう意味なのか、当時どういう意味だったのか、今の時代ではなくて、ということはずっとずっと考えていますね。
 ブラームス、今回演奏させていただくのは、ほんとうに初期の作品で、それこそ恩人であって師匠であるシューマンに出会った頃の作品で、ほんとうにちょうどであった頃の作品で、最終楽章とかはシューマンのアドバイスで書き直したりとかしていて、ほんとうに彼が一歩踏み出すか踏み出さないかのころの作品で、夢も希望もたくさんあって、でも、5楽章で出てくるテーマというのは、Frei aber einsam(自由だけれども孤独)って、それはシューマンと彼の仲間たちと一緒に言っていたモットーなんだけど、それが、だから出会った後、第5楽章書き直した。5楽章でそれが出てくる、それが一つ。この彼の人生のその後を預言しているようなそんな感じもしますね。いちばん特別なのは2楽章で、あの2楽章はもう言葉では言い表すことができないくらい美しい音楽だと思います。

🎵作曲家というのは、永遠に演奏家に突き詰めさせる存在かな。

 

🎧名曲アルバム。シューマン「ピアノ協奏曲」(ピアノ)清水和音,(管弦楽)NHK交響楽団,(指揮)外山雄三 映像~ドイツ・ライプチヒ~

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⛳9時39分更新

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211004 クラシック倶楽部を聴く 松田華音 ピアノ・ソナタ

6歳でロシアに渡りグネーシン音楽学校、モスクワ音楽院で研鑽を積んだ松田華音。大学院を修了する2021年6月、一時帰国した際に収録したみずみずしい演奏を紹介します 【出演】松田華音(ピアノ)1996年香川県出身。6歳でモスクワに渡る。2003年グネーシン音楽学校に首席で入学。2013年同校で外国人として初となる最優秀生徒賞を受賞。2014年ロシア政府特別奨学生としてモスクワ音楽院に入学。。同年、世界的レーベルからCDデビュー。ロシアと日本を拠点に活躍。
【曲目】ピアノ・ソナタ 変ロ長調 K.333(モーツァルト作曲)、
    楽興の時 作品16(ラフマニノフ作曲)
【収録】2021年6月8日 NHK大阪ホール(無観客)―番組紹介よりー

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コメント
 私が6歳の時にロシアに渡って、12年間学んできたグネーシン音楽学校の先生が、どちらかというとモーツァルトよりもベートーベンが得意な方で、そのあとのモスクワ音楽院の教授もクラシックのソナタというよりはロマン派が得意で、ロマン派のものをたくさん弾いてたんですけど、今回モスクワ音楽院の大学院に入学して、ヴィルサラーゼ教授のクラスに入らせていただいて、ヴィルサラーゼ先生もとてもモーツァルトが得意なのでモーツァルトがやりたいなと思っています。
 モーツァルトから始めるのはすごくこわいです。すべてが表面に出てしまうので、すごくコントロールが必要だと思います。個人的には3楽章のコンチェルトのような、最初ソリストが出て、その後オーケストラが出て、そういうまるでやり取りが聞こえてくる曲なので、そういうところがすごく気に入っていて、そういうところを聴いていただけたら嬉しいなと思います。
 ラフマニノフはロシアの風景が見えるものでもありますし、ロシアに住んでらっしゃる方々のハートが感じられる温かいハートが感じられるような作曲家だなと思って、弾いていたり聴いていたりすると、すごく心に沁みるというか、ああこの景色、あの時に見たなとか、その瞬間、だれだれと話してこう感じたなとか。ロシアの方は最初は冷たい感じかなとおもうかもしれないんですけど、話してみるとすごく暖かくて優しい方たちなので、そういった優しさ、包んでくれるような温かみと優しさがラフマニノフの音楽にも出てるんじゃないかなと思います。
 「楽興の時」はまさにロシアの風景が感じられる曲だと思います。ロシアの小説に出てくるような景色だったり、ロシアの小説の中の主人公たちが感じている気持ちだったり、ほんとに弾いていて、ああ、ロシアだなという、ノスタルジックな感じがします。わたしの演奏を聴いてくださった方が、ああ、ロシアだなと聴いてくださったらすごく嬉しい。

🎵大阪ホールでの無観客収録だったようだ。映像が美しく捕らえられるように灯りをピアノを囲むように円状に、或いは配置を変えてもいた。また黒鍵の陰が白鍵に並び映りこんでいるのは初めて見た。周りの事物を映し出すピアノの可能性が引き出されるようような工夫がいたるところに。フレッシュな感覚で聴くロシアの風景。10年後、50年後もかくあってほしいと願って止まない。

 

🎧
名曲アルバムはベートーベンの「月光」

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しかし恋が叶うことはなかったという。けれども、悲観を超えて「第九」が生まれる。
金子三夕勇士さんのピアノ、この月光の曲、胸が押しつぶされそうになる部分。しかしそのままには終わらない。終わらせないベートーベン。

⛳きょうは忙しかったが、再びレコーダーを耳に更新。21時56分

 

 

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きょうのことば「神に喜ばれる信仰」

インマヌエル盛岡キリスト教会2021年0926()の礼拝メッセージをお伝えいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で48年目のご奉仕をしておられます。
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説教題 『神に喜ばれる信仰』(國光勝美 牧師)
聖書箇所 新約聖書 へブル111~7

1 さて、信仰は望んでいることを保障し、目に見えないものを確信させるものです。
2 昔の人たちは、この信仰によって称賛されました。
3 信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、その結果、見えるものが、目に見えるものからできたのではないことを悟ります。
4 信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神に献げ、そのいけにえによって、彼が正しい人であることが証しされました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だと証ししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって今もなお語っています。
5 信仰によって、エノクは死を見ることがないように移されました。神が彼を移されたので、いなくなりました。彼が神に喜ばれていたことは、移される前から証しされていたのです。
6 信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神をご自分を求める者には報いてくださる方であることとを、信じなければならないのです。
7 信仰によって、ノアはまだ見ていない事がらについて神から警告を受けたときに、恐れかしこんで家族の救いのために箱舟を造り、その信仰によって世を罪ありとし、信仰による義を受け継ぐ者となりました。
 

<お話し>

 このへブル書は、信仰列伝の章というように理解されていますが、きょうは、この中から特に11章1節、6節に見られるような私たちの信仰にもういちど心に止めさせていただきたく導かれております。
 『神に喜ばれる信仰』と題しました。

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 さて、世の中には似て非なるものがあります。似ているけれども、しかし違う。それを信仰ということに焦点を合わせますと、信念という言葉があります。そして、信仰。これを対比してみると、その違いがわかるように思うのです。

まず信念を言うときによく使われるのが
精神一到何事か成らざらん」
これはわかるような気がします。一生懸命やれば絶対に何とかなる。

片や、これと似たような響きでは
「信ずる者には、凡ての事なし得らるるなり」(文語訳)「信じる者には、どんなことでもできるのです。」(新改訳2017)マルコ9:23
精神一到……」と対比してみました。似ていますが違います。何が違うのでしょう。信念という場合に、自分の頑張りで行う、それが根底にある。それに対して信仰というのは神様への信頼による。これが私たちの信仰の土台を成している。「信ずる者には、凡ての事なし得らるるなり」、これは神様に対する信頼による成就です。信念と似ている、だけども違うというここをまず理解していただいて、この「信ずる者には、凡ての事なし得らるるなり」、このおことばの背景になっているおことばをご紹介いたしましょう。

マルコ11:22イエス答へて言ひ給ふ『神を信ぜよ。11:23まことに汝らに告ぐ、人もし此の山に「移りて海に入れ」と言ふとも、其の言ふところ必ず成るべしと信じて、心に疑はずば、その如く成るべし。11:24この故に汝らに告ぐ、凡て祈りて願ふ事は、すでに得たりと信ぜよ、さらば得べし。
 これはマルコの福音書に記してあるイエス様のことばです。勿論、ほかの共感福音書にも類似したことばはあるのですが、マルコの11章から引用したものであります。
 このおことばを、新改訳2017でも、もういちど確認いたしましょう。

22 イエスは弟子たちに答えられた。「神を信じなさい。23 まことに、あなたがたに言います。この山に向かい、『立ち上がって、海に入れ』と言い、心の中で疑わずに、自分の言ったとおりになると信じる者には、そのとおりになります。
24 ですからあなたがたに言います。あなた方が祈り求めるものは何でも、すでに得たと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」

「イエスは答えられた」。これはイエス様のおことばなのです。「神を信じなさい。まことに」、この「まことに」ということばは、原語でアーメンであり、「その通り」「然り」という非常に強いことばだと理解しておりますが、このように、ほんとうにあなたに言いますよ、「ほんとうに」、イエス様が「ほんとうに」言うのだということばですから重みが違います。神を信じなさい。

「神を信じなさい。23 まことに、あなたがたに言います。この山に向かい、『立ち上がって、海に入れ』と言い、心の中で疑わずに、自分の言ったとおりになると信じる者には、そのとおりになります。
 非常に強いことばです。

 たまたまNHKTV番組「NHKスペシャル列島誕生ジオ・ジャパンⅡ」を観ておりましたところ、私のふるさと松本市から見える北アルプスの連峰、子どもの時から見ておりました爺ヶ岳や槍ヶ岳が出ており懐かしく思いましたが、何でも日本列島の完成のドラマは300万年前に起こった地殻の大隆起と大分裂に始まっているということです。

この山に向かい、『立ち上がって、海に入れ』というこのおことばも、TVで知って敢えて合わせるわけではないのですけれども、実感の伴うすごいおことばです。
この山に向かい、『立ち上がって、海に入れ』と言い、心の中で疑わずに、自分の言ったとおりになると信じる者には、そのとおりになります。
 神を信じなさい。神は全能のお方です。神を信頼する者は、そうだ、神様はそういうことはおできになるお方なのだ。ならばそのとおりになる。ですから、
24 ですからあなたがたに言います。あなた方が祈り求めるものは何でも、すでに得たと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります。」
これはずいぶん思い切った、でもこれがイエス様のおことばです。これを素直にアーメンと受けることができる信仰、信頼を持ちうるかどうか、これは私たち受ける側の問題だなあというように感じたのです。神様のおことばは、すごい! イエス様がおっしゃったのだ。

神のことばといったときに私は、創世記の1章のところ、
3神は仰せられた。「光、あれ。」
6神は仰せられた。「大空よ、水の真っただ中にあれ。水と水の間を分けるものとなれ。」
9神は仰せられた。「天の下の水は一つの所に集まれ、乾いた所が現れよ。」
11神は仰せられた。「地は植物を、種のできる草や、種の入った実を結ぶ果樹を、種類ごとに地の上に芽生えさせよ。」
14神は仰せられた。「光るものが天の大空にあれ。昼と夜を分けよ。定められた時々のため、日と年のためのしるしとなれ。……」
20神は仰せられた。水には生き物が群がれ。鳥は地の上、天の大空を飛べ。」
 
パソコンで「神は仰せられた」をチェックしてみますと、さあっと出てきました。神様のおことば。神様がこの天地宇宙をお造りになられた。300万年前の地殻変動の事実。このようにも神様はすべてのものをお造りになられる。それで大いに納得したのですけれども。

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 神様のおことばは何という力をお持ちなのだろうか。それに対して、ほんとう? ほんとうにそんなことあるの?
「この山に向かい、『立ち上がって、海に入れ』」というともうその通りになる。それってほんとう? ほんとうにそうなの? これはみことばへの懐疑です。
実はこれは聖書のはじめから、神のことばが語られたそのときから、もう私たちの問題としてありました。
先ほど、私はお祈りの中で、エペソのおことばにありますが、悪魔の火矢に立ち向かうために信仰の盾をもって、神の武具をもって鎧わねばならないと祈りました。

 サタンは非常に狡猾です。創世記の3章のところを見ますと、これも勿論聖書のことば神様のことばなのですが。
3:1蛇(サタン)は女に言った。「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか。」
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章の16節では
216神である主は人に命じられた。「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。」
おもしろいところです。
サタンは「園の木のどれからも食べてはならないと、神は本当に言われたのですか。」とこう言うのですが、似たようなことば。
216神である主は人に命じられた。「あなたは園のどの木からでも思いのまま食べてよい。17しかし、善悪の知識の木からは、食べてはならない。その木から食べるとき、あなたは必ず死ぬ。」
サタンにそそのかされたエバは蛇に言います。
32「私たちは園の木の実を食べてよいのです。しかし、園の中央にある木の実については、『あなたがたは、それを食べてはならない。それに触れてもいけない。あなた方が死ぬといけないからだ』と神は仰せられました。」
 ここでエバは「触れてもいけない」といっていますが、神様は「触れてもいけない」とは言っていないのです。微妙に神様のことばを自分の解釈で拡張したり、或いは、減じてみたりしています。それにつけこんでサタンは、蛇は女に言いました。
3:4あなた方は決して死にません。」
 神様は必ず死ぬと言っている。それをサタンは決して死にませんと。そして、
3:5それを食べるそのとき、目が開かれて、あなたがたが神のようになって善悪を知る者と、神は知っているのです。」

 私たちは神様に神に似せて造られた。堕落する以前、ほんとうに神に似せて造られた私たちですけれども、サタンが私たちにいつでもその初めの時から私たちに投げかけてくるのは、神さまの善意に対する疑いです。神様はね、あなた方の目が開かれて神のごとくになるのを嫌がってる。だから、食べちゃいけないって言ってるんだよ。神様は善以外何もなさらないお方なのに、神様の善意を疑ってしまう。善にして善をなし給う神? いやいや、それどころか、あなたがもっとこれを食べたなら、神のごとくになれるんだ。こうして神の善意に対する懐疑を抱かせる。
 これらのことを見ながら、あのイエス様のおことば、「心の中で疑わずに、自分の言ったとおりになると信じる者には、そのとおりになります。」に、悪魔は、私たちのこれまでの常識的な価値観を巧みに利用して、いやいや、そんなことはないさ。神の善意に対する懐疑を私たちに持ってきます。

 これを思いめぐらしておりますときに、私は、これをサタンの信仰論、敢えて、こういうことばでまとめてみました。
ヨブ記1章にありますが、ヨブは神様の善意をつゆほども疑ったことがない信仰の器です。このヨブに対して、悪魔は、ある意味神様を挑発してかかります。下世話な言い方ではありますが、ねえねえ、神様あんた、ヨブがほんとうに神様を信じているすばらしい男だと言ってるよね。違う、違う、違う。あんた、神様、あんた甘いね。こうサタンは神様に言いはじめる。ヨブが神様を信じ恐れているのはね、自分に都合がいいことをしてくれるから神様を信じているんだ。信仰ってそんなもんなのさ。富があって自分の生活に何の不自由もなくて祝福ばっかりついてくる。そうやって神様がヨブを守っていてくださるから、「まず神の国とその義とを求めよ、すべてこれらの者は汝らに加えらるべし」と言っていられる。神様が守っていてくださるから、ヨブは神様、神様っていっているんだ。その証拠にあなたの祝福を奪ってごらん。ヨブは神様を呪って信仰なんか何糞! とひっくり返るよ。やってみてごらん。サタンの信仰論はこうなんです。
 人が信仰を持っていられる。クリスチャンが神様を信じてる。それは自分にとって都合のいいことをやってくださるからだからで、人はそんなもんなんだ。
1章9節にサタンは主に答えた。「ヨブは理由もなく神を恐れているでしょうか。」、これが、サタンの信仰論です。

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クリスチャンの信仰論は何でしょうか。

 私は、父なる神様を信頼してこの地上生涯を歩まれたイエス様のもっておられたあり方、信仰、それは、詩篇の40篇にありますが、天の父なる神様が、罪の中に沈んで滅んでいく私たちを何とかお救いに導きたいと思っておられたその父なる神様のみこころをだれよりも深くご存じの第2位格、三位一体のうちの子なるキリストは、お父様わかりました。あなたの願いの通りに私は生きることが喜びです。どうぞ私に肉体を与えて、この罪の人間の身代わりとなる神のいけにえとして子羊としてこの世に来ることをお許しください。イエス様は父なる神様のお喜びになるそのことをすることを何よりも喜びとしていた。決して自分の利得や打算のためではなかったのです。

 そう、このようなあり方でありたい。心からそのように思うのです。イエス様が父なる神様に持っておられた信仰をどうか私のものとさせてください。まず神の国とその正しきとを求めたいと思います。

 私は、身近な方の大きな病というものを通し、通らせられながら、神様のおことばというものに対して、ほんとうに教えられることが多くあります。癒しのおことばとしては、

我はエホバにして汝らを癒すものなればなり。

「我はエホバにして」、神様はご自分のお名にかけて、「汝らをいやすもの」と出エジプト記の中に語っておられる。「我が名はふしぎなり」。イザヤのあのクリスマスの時に、よく引かれるイエスさまのお名前ですが、「ワンダフル」。「カウンセラー」。「The Mighty God」。

 あの中にワンダフル、不思議だ、そうだ、この神様の語り掛け、こういう神様のことばを与えられるとき、それに対して、これはほんとうに神が語られたのか。ほんとうにそうなのかという火矢が来ます。私たちはニュートラルな状態に生きているのではなく、まさしく戦場の中を生きている。それは皆さん方同じだと思うのです。私はたまたま一つの例として、自分の経験をお分かちしただけであって、さまざまなそういうところにあって、神様のおことばが入って来るのです。語られてくるのです。不思議なことにというか、そういうある意味危機的な大きな問題に直面すればするほどに、神様はおことばをもって語りかけてきてくださる。

 敢えて参考までにお話ししますが、私が自分に都合のいい聖書のことばばかりを引いたとします。これが大歓迎なわけです。こういう言い方をすると、奇妙なジョークのようなんですが。聖書を適当に開いて、神様みことばをください。すると、ルカ伝のよきサマリヤ人のところが出てきた。そうか、神様、そのようによきサマリヤ人のような愛の心をもってやればいいんだな。また別なところを開いてみると、イスカリオテのユダが首を吊って死んだところ。汝も行きてそのごとくににせよ。神様のおことばをそんな軽さでとらえたのならば、それこそ笑い話のようになってしまいます。

 皆様方が現実の日々の生活の中で、真実に、あの方の問題、或いは、この事業のこと、あの課題、いろんなことが出てくるとき、おことばが自分にとって励ましとなる。いいおことば、これを次つぎとキャッチするということは、すごく大切なことだと思うのです。みことばがきたとき、ぱっとそれを捕まえる。そのおことばをしっかりと心の中に捕らえて、イエス様のようなあり方にこのおことばがある。大丈夫です。
この山に向かい、『立ち上がって、海に入れ』と言い、心の中で疑わずに、自分の言ったとおりになると信じる者には、そのとおりになります。

 難しいこの問題、この課題を、主は善にして善をなし給うお方じゃないか。主の善意を疑う私はいったい何者なんだ。サタンの信仰じゃあるまいし、自分の都合のいいことだけを信じるんじゃない。神様の善意を信じて、そしておことばを、イエス様が信じたように信じて行かせてください、主よ。そういう祈りの中に、みことばがだんだん整えられてきて、励ましになってくる。このことをきっと経験するに違いありません。

まず神の国とその義とを求めなさい。

 父なる神様のみこころを喜ぶこと、それをするのならば、まして天の父はあなた方によくしてくださらないことは決してない。これが私たちの信仰です。そしてこれこそ神様が喜ばれる信仰です。神様がよくしてくださらないはずはけっしてない。私たちはヨブ記にあるサタンの語りかけをしっかり判別しながら、私は、「我が神、私はみこころに従うことを楽しむ」、というあの詩篇40篇のおことばを心に止めさせていただきたい、このように願うのです。

 

※音声データ、イラストは教会からお借りしています。
⏰5時50分更新

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雑感

J-MERO
ゲストはSHISHAMO、NMB48。
AKB48のようにステージ狭しと女の子たちが数十人単位でどっと登場しパフォーマンスを歌を繰り広げるようになったのはいったいいつからだったろうとみてみるとその一覧が出ていた。ファンが身近に捕らえられるところが魅力かもしれない。
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☆  ☆  ☆

 毎週日曜日は聖書からのおはなしをアップしている。金曜、土曜はたいていその準備だ。突発的に用事が入ったりすると時間的にかなり厳しくなる。いつまでできるか自信はないのだが、できる日まではやり続けるというほかはない。
 音声データを起こしていて、こんなことで今の世の中が渡っていけるのだろうかという疑問が兆すこともないではない。しかし、聖書には真理がある。人の側がグタグタ言おうとも真理である。いつもそこに落ち着く。
 新興宗教などと違い、本来的な教会、まともな聖書理解に土台を置く教会はなぜか清貧。つまり豊かではない。せめてその仕事がその場限りで終わってしまうことのないようにという単純な動機から発して始めたことではあるけれども、後になって大変なことを始めたものだと気づかされた。それは最も肝心なことは、自分がこういうことを行うに相応しい適したものであるかどうかという点。私はそれほど正義感が強いわけでもなく、聖書レベルの清廉さをもっているかとなると、これはキリスト様の十字架の血のきよめにより、その赦しによって行っているといえる。つまり自分は大したことのない者であるけれども、私を動かしている神が機転に優れ、わたしの不足分をイエス様の血によって充填し、斯くあらせてくださっているというところなのだ。指もカクカク、目はショボショボ。ボチボチ、ポチポチ。ボチボチ、ポチポチ。

⛳21時57分

 

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211001 クラシック倶楽部を聴く 清水和音 珠玉の名曲を奏でる 

はや10月。更新はもうしんどい、と思ってもいたが、5時近くには眼が醒めている。習慣だ。
クラシック倶楽部、きのうは清水和音。

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清水和音 珠玉の名曲を奏でる
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「こども情景作品15」シューマン:作曲,(ピアノ)清水和音,「バラード第4番ヘ短調作品52」ショパン:作曲,(ピアノ)清水和音ほか 「巡礼の年第2年(イタリア)からペトラルカのソネット第47番」リスト:作曲,(ピアノ)清水和音,「ピアノ・ソナタ第30番ホ長調作品109」ベートーベン:作曲,(ピアノ)清水和音 ~2020年9月30日NHKホールで収録~番組紹介よりー

清水和音20歳でロンティボー国際音楽コンクールピアノ部門優勝。リサイタル賞受賞。世界的な指揮者、オケと共演。
清水和音のコメント
作曲家はみんな譜面に託すわけですからやはり分かってもらえるように書いてあるはずであるという前提で演奏するというのが基本的な姿勢なんですけれども、それと同時に一人ひとりの作曲家のことでいえば、人と付き合うのと一緒だというのが基本で、シューマンのパーソナリティがどうかというのはもちろん勿論想像でしかないですけども、とても温かい人なんだろうなとそういう感じがしますね。温もりを感じるとか近い感じがするとか、いつもそばにいてくれる感じですね。音楽家はシューマンとシューベルトはみな大好きですよね。多くの人が。それはやはりそのあたたかさなんではないか、そう思いますね。ショパンは演奏家に遠慮させるというか、あまりにも凄すぎて傍にいたらもうみんなが遠慮するんじゃないか、そんな感じがしますね。人にはおそらく優しくてジェントルマンで知的で、あらゆるものがそろっていて、傍にいたらまあ遠慮して除けて避けて通るかなとそんな感じがしてます。それにもかかわらずその表面的なメロディーはほんとうに分かりやすくて魅力的で、みんながショパンを好きになるのはそっちの方面だと思います。演奏家の立場で言うとある意味近寄りがたいというのが正しい表現のような気がしますね。リストは何たって大スターで、華やかで、基本的にオペラが頭の中にいつもあって、神様だとか悪魔とか、天使だとかそういうものが音楽のどの曲を聴いても何かそういうものが聴こえてくる。そのおとぎ話的なものが楽しめる。僕大好きですねリストは。この傍にいたらいちばん仲良くできるんじゃないか、そんな感じがします。ベートーベンは何なんでしょうね、もういろんな顔があってその多くの演奏家たちがおそらくその一部分を深く自分の中に入れていくというか、ベートーベンのほんの一部に触れることで、なんかとても巨大な存在に接しているという体験ができている、そんな感じだと思いますね。あまりにも多くの面がありすぎて、しかもそのとてもおそらく難しい人間で複雑怪奇な内面を持ってるんだけども、表に出ているものは常に単純でわかりやすくて、この二面性というか、中身と表側の違いの面白さというようなものがいつも興味深いですよね。

🎵名曲アルバムではおなじみ。当然のことながらやはりそれぞれの作曲者に対する個人的な思いがあられるらしい。今回の収録からは、ベートーベンの「ピアノ・ソナタ第30番」の第一楽章の終わり部分のピュアな響きが心に落ちたのと、コメントを聞くことでより一層この音楽家のリストとの親密さ、感覚的に、それは人格的な側面もあるのかもしれないが、相通じる親和性を実に肯定的に聴くことができ、また演奏4曲のうちやはりリストが印象にのこった。 

🎧名曲アルバム。ショパン「ピアノ協奏曲第一番」ピアノ小山実稚恵。梅田&東京フィル。
ショパンの心臓が安置されている聖十字架教会。日本なら分骨ということになるのか。どうも臓器の一部を切り取りのこすという意味がよくわからない。
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そう思いつつ、ネットのどこかに出ているかもとググってみたところ、こちら
「あなたの宝の場所にあなたの心もある」聖書のことば
ショパンはフランスに葬られても、心はポーランドに。

⛳昨日10月1日分を2日のきょう、とりあえず更新。12時09分

 

 

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