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きょうのことば 『主の変貌と私たち』

インマヌエル盛岡キリスト教会2021年0912()の礼拝メッセージをお伝えいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で48年目のご奉仕をしておられます。
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説教題 『主の変貌と私たち』  (國光勝美 牧師)
聖書箇所 新約聖書 マタイの福音書17章18

1 それから六日目に、イエスはペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。
2 すると、弟子たちの目の前でその御姿が変わった。顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった。
3 そして、見よ、モーセとエリヤが彼らの前に現れて、イエスと語り合っていた。
4 そこでペテロがイエスに言った。「主よ、私たちがここにいることはすばらしいことです。よろしければ、私がここに幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」
5 彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲が彼らをおおった。すると見よ、雲の中から「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け」という声がした。
6 弟子たちはこれを聞いて、ひれ伏した。そして非常に恐れた。
7 するとイエスが近づいて彼らに触れ、「起きなさい。恐れることはない」と言われた。
8 彼らが目を上げると、イエス一人のほかには、だれも見えなかった。

 

<お話し>
前回の場面を幾つか紹介しますので、ああそうだったと思い起していただきたいと思います。 

イエス様は、変貌山にはペテロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて行かれました。祈るために山に登られた。すると弟子たちの前で祈っている間に、イエス様の御顔のようすが変わり、衣は光のように白く輝き、そこにモーセとエリヤが現れました。イエス様を囲む彼らと何か話しておられる。その内容こそ、イエス様がエルサレムで遂げようとしておられる最期のことについてでした。これが旧約を代表するモーセとエリヤの中心テーマでした。これほど主イエス様の十字架の救いが聖書の真っ中心であることに、もう一度私たちは、ここで確認をさせていただいたことであります。

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 想像を絶する光栄に、彼らはもう目がくらんでしまったと言ってよろしいでしょう。何をどう言っていいのかわからない。ペテロはすっかり動転して、こんなにすばらしいのに、もう帰られるんですか。ここに庵を準備しますから、どうぞお留まりくださいというペテロの慌てぶりが思い起されることであります。でもそのときに、栄光の雲、これは光り輝く雲、神の臨在を象徴する雲、ちょうど出エジプト記のときに、イスラエルの民の前に後ろに現れ、そして聖所にも夜も昼も現れて導き守ってくださった神の臨在をあらわす栄光のあらわれである雲。この雲の中から、「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」というお声を聞いた。まさにこれは主イエス様の戴冠のときであったと理解することができます。私たちが、もし、イエス様のように罪一つ犯すことなく、神のみこころに従っていく人間であったならば、彼のごとく私たちは栄化の恵みに与って天に帰っていくことができる。罪なき人間であるならば、地上生涯、よくやった。さあ、ここに昇りなさいとあげられるでしょう。イエス様の栄化はそのデモンストレーションのようなものであったといえるでしょう。 またそれとともに、イエス様は、何一つ罪のない全きいけにえとしての資格を神様から頂戴しました。さあ、これであなたは世の罪を贖う神の子羊として、その使命を果たすことができるのだ。まさにこれはクライマックスのときでありましょう。

 私は、このペテロ、ヤコブ、ヨハネという人物が、このような尊いイエス様との新たな出あい、主の変貌に触れたということと、聖書の中に、それに類似したいくつかの人物がいることを心に示された一つとして、私はイザヤという人物を思い起してみました。このイザヤが何を経験したか、それはイザヤの6章にあります。これは信仰生涯を送っていればやがて、ああそうかとお分かりいただけます。ただここに皆さんと一緒に覚えたいのは、神様に尊く用いられたイザヤという預言者が、ペテロたちが経験したような新しい神経験をしたことがイザヤの6章1節に記されてございます。

 「ウジヤ王が死んだ年に、私は、高く上げられた御座についておられる主を見た。その裾は神殿に満ち」、こうあります。ウジヤ王はイザヤと血縁関係にあった、いわゆるイザヤは王族の家系であったという人もいます。たぶんそうでしょう。それはそれとして、イザヤはこのウジヤ王という偉大な存在のもとで一生懸命に主に仕えていた。そして、ウジヤ王が死んだ年に、イザヤは彼が仕えている神様の栄光に触れることができたのです。ちょうど、ペテロ、ヤコブ、ヨハネが、これから十字架にお架かりになられて主が去っていくという大きな出来事の前に、主イエス様が格別にこの3人を選んで栄光をお示しになられたように、イザヤの場合には、ウジヤ王が亡くなり、ある意味、失望、落胆するような大きな変化の時に、神様は、あたかも「イザヤよ見てごらん」と仰るかに、主を見せてくださった。そこにはまさしくイザヤが仕えている神様がご存在を現わしていた。これは受肉前の主イエス様であると理解しても差し支えないと言われております。御使いが「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満ちる」と呼び交わしていました。受肉前のほむべき三位一体の主イエス様はこのような栄光に富んでおられる。6:4「その叫ぶ者の声のために敷居の基は揺らぎ、宮は煙で満たされた」
このように栄光の雲に満たされたのです。そのとき、イザヤは言いました「ああ、私は滅んでしまう。この私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。しかも、万軍の主である王をこの目で見たのだから」

 ちょうどお弟子さんたちが変貌山で、「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」と栄光の雲の中から扱われたそのとき、ペテロたちはどんな扱いをうけたのだろうか。私はこれを思うのです。イザヤは、この栄光の主、変貌されたイエス様といってもいいでしょう、そのお方に触れたとき、新しい神経験をしました。ウジヤ王が取り去られたという悲しいできごとに直面した。しかし、そのようなところを通して、彼は新たにまことに神様の臨在を経験し、「ああ、私は滅んでしまう。この私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。しかも、万軍の主である王をこの目で見たのだから」とイザヤが言ったとき、セラフィムが祭壇から取った燃えさかる炭をもってイザヤの口に触れさせた。「ほらこの火があなたの唇に触れたので、あなたはきよい」。このようにイザヤはきよめてくださる神様のお扱いを受けました。
 栄光の主に出あうとは、イザヤが経験したように、「十字架の血潮によって、こんなものが神様のお救いに与った」とこの恵みを新たに経験した、これがイザヤの新しい神経験であり、またこれがペテロ、ヤコブ、ヨハネたちの経験にもなったのではないだろうかと私は思います。

 さて、こんど、マタイ14章22~32節、場面はご想像ください。5,000人の大きな奇蹟。人々の熱狂。我らが待ち望んでいるのは、この飢えた人々にふんだんにパンを与えてくださるこのお方だ。熱狂的にイエス様を救い主としてまつり上げようと迫ってきたとき、イエス様は、人々の間を通り抜けて、お弟子さんたちを一足先にガリラヤ湖の向こう岸にわたらせた。そしてイエス様は祈るためにしばらくの時をもたれる。その時大嵐がこの船に乗っていたお弟子さんたちに襲いかかってきました。お弟子さんたちが、このままだと私たちはガリラヤの海の藻屑と消えてしまう。助けてくれと大騒ぎしたときに、明け方、栄光のイエス様が、その嵐の中、湖の上を歩いていてくださった。

まさに変貌山の主のように暗闇の中に主が嵐の中で栄光のうちに弟子たちに近づいてきてくださった。そして、先ほど、ペテロは、ここに三つの庵を建てると言いましたけれども、このときもペテロらしく、「先生、もしあなたでしたら私を波の上を歩いてあなたのもとに行かせてください」と言ったのですが、ペテロは、波と湖を見て沈んでしまいます。そのときにイエス様は近づいて、ペテロの手をしっかりと握りしめて、「信仰薄きものよ、なぜ疑うのか」。ここでイエス様は、どんなことがあってもわたしに目をしっかりと向けなさい。わたしに目をしっかりと向けなさい。そのことをペテロに語られました。それを思うときにわたしはこのマタイの17章のいまの変貌山のできごとに、何か非常に似ているなと思いました。大きな神様のお扱いをいただいたペテロたち。イエス様が、恐れおののいているペテロに、「起きなさい。恐れることはない」。彼らが目をあげると、イエス一人のほかには誰も見えなかった。

 あのとき、ペテロたちはイエス様から選ばれてこのような経験をいたしました。先ほどの嵐のところを思い起しますと、イエス様に「さあ向こう岸に行きなさい」と命じられる。結果的には猛嵐に遭うという大きな試練を通りました。

 私たちの信仰生活をそれに合わせて考えてみました。イエス様はしばしば私たちに命じてこのような試みの中に置かれることがあります。好き好んでではない。信仰生活を送っていく中に、主は思わない嵐の中に私たちをお導きなさるお方です。しかしイエス様はご覧になって自ら近づいて、さあ、嵐を見るんじゃない。波を見るんじゃない。私を見るんだ。モーセを見るんじゃない、栄光のエリヤを見ていつまでもそれに浸っているんじゃない。モーセは消える。エリヤも消える。だけどペテロ、わたしを見るんだ。

 そのように思いめぐらすとき、私はパウロという人物がどうであったかに思いが及びます。彼はクリスチャンを迫害する急先鋒としてその先頭に立ち、ダマスコというところにいるクリスチャンたちを迫害するその殺しのライセンスというものを持って旅をいたします。そのときに、イエス様が大きな光をもって、サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか、こういってパウロに現れ、パウロは倒れ伏します。彼はここでほんとうに主イエスさまにお会いしました。ああほんとうにこのお方こそそうなんだ。この光の中に現れなさった神様、主イエス様の栄光の姿に触れたとき、サウロはパウロと変貌いたしました。

新約聖書の第一テモテ1章にございます。
1:13私は以前には、神を冒涜する者、迫害する者、暴力をふるう者でした。しかし、信じていないときに知らないでしたことだったので、あわれみを受けました。 1:14私たちの主の恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに満ちあふれました。 1:15「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた。」ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。

 栄光の主にお会いするとき、ほんとうの自分の罪深さが、自分が滅んでしまうような者であることがわかります。そのようなとき、主イエス様のみを見上げてください。 

 1:16しかし、私はあわれみを受けました。それは、キリスト・イエスがこの上ない寛容をまず私に示し、私を、ご自分を信じて永遠のいのちを得ることになる人々の先例にするためでした。1:17どうか、世々の王、すなわち、朽ちることなく、目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように。アーメン。

 栄光の主にほんとうに触れるとき、私たちは変えられます。ペテロがそうであったように、パウロがそうであったように、私たち、どうぞ主イエス様によって栄光の主を心に止めさせていただこうではありませんか。

 人生の危機に直面するときがあります。個人的には、そのようなとき、「我いくれば汝らもいくべければなり」という栄光の主に私は扱われました。私たちは難局に直面したとき、嵐を見て恐れたり、人を見て恐れたり、そればかりではない、先行きの不透明さであったりと、世の中には私たちを惑わすようなものはいっぱいあります。そんなものにほんとうに囲まれている嵐の中の私たち。一人ひとりの問題課題の内容は違いますけれど、皆さん方はそれぞれにほんとうに嵐に囲まれていらっしゃるでしょう。そのときに、ただ主イエス様のみを、このお方のみを見つめること、ほかの何か嵐でなく波でなく主イエス様のみをみあげるとき、私たちは変えられるのではないでしょうか。

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 主は私たちを高い山に導かれます。主が登れと仰った。私たちの信仰生活の中で、主が導かれ、主がガリラヤの湖に漕ぎ出せと命じられることがあります。そのとき、主はその高い山でお扱いくださいます。パウロも扱われました。ペテロも扱われました。神様みんな一人ひとりを高い山に導かれます。そのとき、いいかい、わたしだけを見るんだよ。主イエス様だけを見てごらん。イエス様はそのように私たち一人ひとりを信仰生活の中でお導きくださるのではないでしょうか。

 マタイの17章、きょう変貌山のところをお開きしましたけれども、マタイの17章にございます。

7 するとイエスが近づいて彼らに触れ、「起きなさい。恐れることはない」と言われた。
8
彼らが目を上げると、イエス一人のほかには、だれも見えなかった。

イエス一人のほか誰も見えなかった。どうか、信仰生活の中で、このイエス様だけを見上げる歩みをさせていただこうではありませんか。

 

※音声データ、画像は教会からお借りしています。
⏰5時48分更新


 

 

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