きょうのことば「十字架と変貌」
インマヌエル盛岡キリスト教会2021年09月06日(日)の礼拝メッセージをお伝えいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で48年目のご奉仕をしておられます。
説教題 『十字架と変貌』 (國光勝美 牧師)
聖書箇所 新約聖書 マタイの福音書16章24節~17章8節
24 それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。
25自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。
26 人は、たとい全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。
27 人の子は、やがて父の栄光を帯びて御使いたちとともに来ます。そしてそのときには、それぞれその行いに応じて報います。
28 まことに、あなたがたに言います。ここに立っている人たちの中には、人の子が御国とともに来るのを見るまでは、決して死を味わわない人たちがいます。」
1 それから六日目に、イエスはペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。
2 すると、弟子たちの目の前でその御姿が変わった。顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった。
3 そして、見よ、モーセとエリヤが彼らの前に現れて、イエスと語り合っていた。
4 そこでペテロがイエスに言った。「主よ、私たちがここにいることはすばらしいことです。よろしければ、私がここに幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」
5 彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲が彼らをおおった。すると見よ、雲の中から「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け」という声がした。
6 弟子たちはこれを聞いて、ひれ伏した。そして非常に恐れた。
7 するとイエスが近づいて彼らに触れ、「起きなさい。恐れることはない」と言われた。
8 彼らが目を上げると、イエス一人のほかには、だれも見えなかった。
<お話し>
きょうは「十字架と変貌」と題しまして、メッセージを取り次がせていただきたく導かれております。
この地図は何回かにわたってご紹介したものですので、お分かりいただけるだろうと思います。そして今日は、この信仰告白の後、ヘルモン山と言われているこの変貌山。たぶんヘルモン山であろうといわれているのですけれども、ここでの出来事を主に扱わせていただきたいと願っています。
きょうは17章に入りますが、その前に、8月からのところですけれども、簡単にマタイ伝16章の復習をします。
「信仰の告白」、「十字架の宣言」、「主の変貌」について扱わせていただき、そして特に心したいのは、イエス様が、ペテロの「あなたは生ける神の子キリストです」という信仰告白、これこそが教会の土台となるべきものなのですが、これを引き出したその時から、イエス様は、ご自分がエルサレムに行って、「長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた」ことです。ペテロの信仰告白の後に、いよいよ十字架に向かって、主のご使命の中心部へと入っていくところを扱わせていただきました。
このペテロの信仰告白に対して、サタンは、何とかしてイエス様の十字架を避けさせよう、十字架を選ばせまいとしました。しかし、イエス様は、そのサタンの誘惑に最後まで勝利し、ご目的を達成されたわけであります。
そして前回は、「私たちへの諭し」として、「それからイエスは弟子たちに言われた」。「弟子たちに」を「私たちクリスチャンに」と言い換えても差し支えございません。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て自分の十字架を負って、わたしに従ってきなさい」とイエス様。これは強制ではありません。ほんとうに十字架がわかったのならば、ペテロと同じ信仰告白にアーメンと同意する者ならば、どうか、自分を捨て、自分の十字架を負ってイエス様に従って歩んでいただきたい。これを私たちの信仰生活の基準とさせていただきたいと思います。
皆さん方もきっと、もしクリスチャン信仰を持っていなかったならば、人々からこんな扱いを受けなくてよかったと思うような、そのような経験をすることがあるでしょう。しかしイエス様は、わたしについて来たいと思うなら、自分第一の主張を捨てて、あなたの十字架を負って私に従ってくるようにと促される。どうでしょうか。アーメン。私もそうさせていただきたい、このように心から願うことであります。
そしていよいよ今日の主題となりますけれども、「主の変貌」の場面。イエス様の変貌はマタイ、マルコ、ルカの三つの福音書に出ておりますけれども、きょうは対比のために、マタイとルカに焦点を合わせて主の変貌を扱わせていただきたいと思います。
マタイ17:1「それから6日目に、イエスはペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた」
これと同じ個所をルカは、このようにいっています。
ルカ9:28「これらのことを教えてから八日ほどして、イエスはペテロとヨハネとヤコブを連れて、祈るために山に登られた」
「これらのことを教えてから」というのは、ペテロの信仰告白を導き出し、そして「十字架を負って、さあわたしに従うんだよ」と言ったときのことです。
並行的な記事がこのようにあります。
どうかこのように主が祈るために山に登られたことと、そしてイエス様が十二弟子の中から格別にペテロ、ヤコブ、ヨハネの中心となる3人を連れて山に登られたということを心に止めましょう。
マタイ17:2「すると、弟子たちの目の前でその御姿が変わった。顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった。」
ルカ9:29「祈っておられると、その御顔の様子が変わり、その衣は白く光り輝いた。」
これが主の変貌の場面であります。
マタイ17:3「そして、見よ、モーセとエリヤが彼らの前に現れて、イエスと語り合っていた。」
マタイにはこのように記してあります。ところが、ルカの方をご覧ください。
ルカ9:30、31「そして、見よ、二人の人がイエスと語り合っていた。それはモーセとエリヤで」その次「栄光のうちに現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について、話していたのであった。」
イエス様は3人のお弟子さんたちを格別に近くにお呼びになって、その目の前で突然姿変わりをなさって、その栄光のうちにモーセとエリヤが現れた。そして、イエスがエルサレム遂げようとしておられる最期について語った。
モーセ、これは旧約の律法を代表する人物といってよろしいでしょう。またエリヤとありますけれども、私たちはイザヤとかエレミヤとか書物に書かれた預言者を近くに感じますけれども、実はエリヤこそ旧約の預言者の代表的な人物であります。そして敢えていうのなら、エリヤは、地上で私たちと同じような死を見ずして天に挙げられていった預言者であります。イエス様の変貌のときに、このエリヤが現れたというのも意義深いことであります。
エリヤは旧約の預言者を代表する者と位置付けて差し支えございません。つまり旧約聖書の律法と預言、つまり旧約聖書というよりは聖書全体といっていいでしょう。この聖書全体が、このときにイエス様の前に現れて何について語ったか。それは、エルサレムで遂げようとしておられる十字架の最期についてであり、このことを3人のお弟子さんたちに見せてくださった。
これほど主の変貌は大きな大きな意味のあるできごとであります。いわば、聖書全体は救い主メシヤが十字架に架かり、そして復活し、よみがえられたというこの福音がまさに主イエス様において成就しているということです。モーセとエリヤが現れたという意味を私たちはこのとき深く心に止めたいと思うのであります。
マタイ17:3では、「そして、見よ、モーセとエリヤが彼らの前に現れてイエスと語り合っていた。
ルカ9:30の方では「ペテロと仲間たちは眠くてたまらなかったが、はっきり目が覚めると、イエスの栄光と、イエスと一緒に立っている二人の人が見えた」とこう続いてあります。
この「眠くてたまらなかった」というのは、私は興味深い表現だなと思うのです。私たちも眠くて仕方がないことがあり、わからないわけではありませんけれども、何でこのときそうなるの、という気がします。それこそ人類史上から見ても、いちばんここぞというときに3人のお弟子さんたち眠くなってしまったというのです。おいおいしっかりしてくれよと思わず言いたくなるのですが。
しかし、もう一つ思いますのは、十字架を目前にしたあのゲッセマネのとき、イエス様が血の汗を流して、「主よこの苦い杯を私がのまなければならないのでしょうか」という最期の祈りをささげて、お弟子さんたち、お願いだから一緒に起きていて祈ってくれとお願いするのです。一度ではない、再び、三度お願いしたのですけれども、イエス様が祈り終えて帰ると、3人のお弟子さんたちはやはり眠ってしまっていた。これだけでも起きていることはできなかったのか。皆さん、これをどう思われますか。私は結論というものは人それぞれにあって、これが正解だということはないと思うのですが、これには二つの要素があるかと思われます。
一つはサタンの影響。十字架という大切な福音の心臓部分にあたろうとするときに、真剣にそのことを捕らえることができないように眠らせてしまう。十字架から目を逸らせてしまう。或いは、もう一つは圧倒的な主のご臨在の前に、私たちは正気でいられるはずがない。圧倒的な神様の、そしてイエス様の、たとえばゲッセマネもそうですけれども、そういう場面に私たちが出会った場合には、とてもふつうの状態ではいられない。この眠くてたまらなかったというのは、いかにもと私には思われます。
ですからマタイの方を見ますと、もうペテロは何をいっているのかわからなくなっている。モーセとエリヤが彼らの目の前に現れて、しかもこの二人がイエス様と語り合っている。「主よ、私たちがここにいることはすばらしいことです。よろしければ、私がここに幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ」とペテロは口走る。「どうかこの恵みの中に私たちをいつまでもおらせてください」。もうペテロはぼーっとしちゃった。わかる気がします。あまりに圧倒的な神様のご臨在の前です。
ルカ9:33にもあります。モーセとエリヤが消えようとしたときです。
「この二人がイエスと別れようとしたとき、ペテロがイエスに言った。「先生。私たちがここにいることはすばらしいことです。幕屋を三つ造りましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために。」ペテロは自分の言っていることが分かっていなかった。」
もう消えちゃうんですか、とんでもありません。せっかくこんなすばらしいときなのに。どうかどうかここに幕屋を建てていつまでも私たちの目の前にいてください。これがペテロの気持ちです。
ここでペテロは自分の言っていることがわかっていなかった。ペテロは愛すべき男です。わかる気はします。あまりの圧倒的な大きな出来事の前にいるのです。
ペテロはここでイエス様をモーセとエリヤと同列に理解し扱っている。三つの幕屋には、そのようなペテロの見方が現れているともいえます。しかしイエス様はモーセとエリヤと同列に置く方では決してないのです。
モーセとエリヤ、それは旧約を代表する人物ですけれども、しかし、イエス様は彼らと同列に置かれるような方では決してない。ペテロがまだ話し終わらないうちに、こんどは決定的な瞬間を目の当たりにします。
マタイ17:5「彼(ペテロ)がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲が彼らをおおった。すると見よ、雲の中から「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け」という声がした。」
これは父なる神様が雲の中で仰ったことです。この雲というのは、たぶんイスラエルの民が雲の柱火の柱によってエジプトから導き出されたあの神様の臨在をあらわす雲。セキナの栄光と表現することもあります。そのまばゆい栄光の雲が、イエス様とモーセとエリヤを囲んでしまった。ペテロは圧倒されて何を言っているのかわからなかった。そのとき、主なる神様は、ペテロよ、と呼び掛けてはいませんけれども、ペテロよ、と言いたくなります。ペテロ、わかるか、モーセも偉大な人物だ。エリヤもまた偉大な旧約の代表的な預言者だ。だけどね、お前はこの3人のために幕屋を建てたいといったけれども、いいか、このイエスは「私の愛する子だ。」、神であるわたしの子、つまりイエスは神なのだ。「わたしはこれを喜ぶ」。
ルカ9:35の方を見ると、「すると雲の中から言う声がした。「これはわたしの選んだ子。彼の言うことを聞け。」この声がしたとき、そこに見えたのはイエスだけであった」
これはわたしの選んだ子だ。ペテロ、わかるか。或いは、これを敢えて、ペテロというのではなく、この朝の神様の私たちへの語りかけと受け止めてもいいでしょう。私たちはイエス様をほんとうにこのようなお方として受け止めているでしょうか。
「彼の言うことを聞け」。
そうです。このお方イエス様は、私たちのために十字架上ですべての愛のわざをなしたあと、大牧者として一人ひとりを導いてくださるお方です。
「彼のいうことを聞け」。信仰生活の中で、聖霊様は聖書を通して語りかけてくださる。そのとき、「彼の言うことを聞け」。そして彼はこう言います。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」(ルカ9:23)。
このイエス様を、天の父なる神様が「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」と仰る意味は何でしょう。それは、イエス様のご生涯におけるまさに戴冠であります。冠を戴いたときと言ってよろしいでしょう。父なる神様のイエス様へのすばらしい評価が「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」「これはわたしの選んだ子」。
イエス様は、乙女マリアから、人としてこの世においでくださいました。お生まれくださいました。そしてイエス様は一つも神に背くことをなさらず、全身全霊をもって神様に従っていく。罪のない人間として、完全な生涯を全うされているお方です。
私たちは残念ながら、アダムとエバの末裔として、原罪、罪というものから逃れることができません。生まれながら神の怒りを受けなければならない存在であります。
もし神に造られた人が一つも罪を犯さず神に喜んで従い続ける生涯を送ったなら、人間は罪の呪いからくる苦しみや悲しみを経ずして栄化され、死を見ずに天に帰っていくことができる存在であります。もし人がエデンの園でアダムとエバが罪を犯さず神によって造られたままの人として歩むなら、罪なき人間に神様が願っておられたゴールはこれだったのです。決して悲しみや苦しみや痛みを伴うところの死を通ることはない。それが神様の計画でありました。
イエス様は罪のない者が「あなたはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」と言っていただけるその標準を示してくださったことでありますが、それとともに、このおことばがあったからこそ、イエス様は、私たちの罪の身代わりとなる十分な資格をお持ちになられた。すこしでも罪を持っているものは、罪ある者の身代わりになる資格はありません。神様からの、あなたは罪なき全き者だ、というそのお声の保証があったからこそ、このお方は、身代わりとしての尊い使命を果たすことができる。変貌山から降りてきて、御顔をかたくエルサレムへ向けて贖いの十字架への道をおとりになったのであります。
このようにお取次ぎさせていただきながら、「あなたはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」とそのお父様からのお声をいただいた主イエス様が、こんどはあの十字架の上で「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)と私たちの罪を全部背負って贖いを成してくださった。そのお方の苦しみ、その十字架を私たちは決して忘れてはならないと思うのです。
変貌山において、父なる神様のお喜びを得たお方だからこそ、「たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとえ、紅のように赤くても、羊の毛のようになる」(イザヤ1:18)とイザヤは述べております。たとえ私たちの罪が地上においていかなるものであったとしても、この御子イエス様が、「わたしを信ずる者のために、わたしは最後の血の一滴までも注ぎだす」といって贖いを成してくださったお方を、「主よ、私はあなたを信じます。信じさせてください」、こういって主の前に自分の罪を悔い改める。これは聖霊様の感動がなければ誰もこんなことはできません。
しかしこのメッセージを通し、聖霊様のお働きを得て、主よ有難うございますといって、このお方を信じすがりゆくとき、
「子よ、あなたの罪は赦された!」(マルコ2:5)
「御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます」(第一ヨハネ1:7)
この恵みの福音の中に今私たちは生かされているのではないでしょうか。
ここで、変貌山の3人のお弟子さんたちを、私たちは決して何と愚かなということはできません。
先に私はマルコ伝にも並行記事があると申しました。そこでマルコ伝からもすこし引用します。
マルコ9:2~13「9さて、山を下りながら、イエスは弟子たちに、人の子が死人の中からよみがえる時までは、今見たことをだれにも話してはならない、と命じられた。10彼らはこのことばを胸に納め、死人の中からよみがえると言われたのはどういう意味か、互いに論じ合った。」
まだ分からない。弟子たちにはまだまだ分からない。そうです。イエス様が十字架を控えた最後の晩餐のときでさえ、弟子たちは、いよいよイエス様が御国の王座にお着きになるときが近いようだが、この12人のなかで誰がいちばんイエス様の側近に任じられるだろうかなどと言っています。ペテロは、ぼくを措いてほかにないだろう、でもヨハネはいつもイエス様の近くにいたからあいつ、あいつがもしかしたら、というような、思いめぐらしをしていたのです。最期の晩餐のときでさえ、ゲッセマネの園での祈りのときでさえ、お弟子さんたちはまだわかってない。イエス様のお弟子になるということがどういうことかがわかっていない。まだまだ未熟なお弟子さんたちにイエス様は変貌山のできごとをお見せになった。そして、さあいいか私が復活するまで誰にも言うんじゃないよ。このようにくさびを打ち込まれたといってよろしいでしょう。このところから十分に語りつくすことは到底できませんけれども、きょうはそこまでにさせていただきます。
※画像、音声データは教会からお借りしています。
⏰5時54分更新
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