インマヌエル盛岡キリスト教会2021年08月29日(日)の礼拝メッセージをお伝えいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で48年目のご奉仕をしておられます。

説教題 『十字架を負う者』 (國光勝美 牧師)
聖書箇所 新約聖書 マタイの福音書16章13~28節
13 さて、ピリポ・カイザリアの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに「人々は人の子をだれだと言っていますか」とお尋ねになった。
14 彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人も、エリヤだと言う人たちもいます。またほかの人たちはエレミヤだとか、預言者の一人だとか言っています」
15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」
16 シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」
17 すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。
18 そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれには打ち勝つことはできません。
19 わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます。あなたが地上でつなぐことは天においてもつながれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれます。」
20 そのときイエスは弟子たちに、ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならない、と命じられた。
21 そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた。
22 すると、ペテロはイエスをわきにお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。」
23 しかし、イエスは振り向いてペテロに言われた。「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」
24 それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。
25自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。
26 人は、たとい全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。
27 人の子は、やがて父の栄光を帯びて御使いたちとともに来ます。そしてそのときには、それぞれその行いに応じて報います。
28 まことに、あなたがたに言います。ここに立っている人たちの中には、人の子が御国とともに来るのを見るまでは、決して死を味わわない人たちがいます。」
<お話し>
「十字架を負う者」という題を与えられております。みことばをご一緒させていただきたいと願っています。
この地図はもう皆さん方すぐに思い起こされるだろうと思います。ガリラヤ湖の下の方にヨルダン川が流れ下って死海に注いでいます。その死海の西の方にエルサレム、いわゆるユダヤの首都があるわけでありますが、イエス様は、主にガリラヤ湖周辺、カペナウムとかこの辺りを中心に伝道生涯を送られました。そして折々に必要があるときにエルサレムの方、いわゆる首都の方へと出向いておられました。
イエス様の伝道生涯のご目的は、人々の罪を贖う神の子羊として十字架にお架かりになること、贖罪というその使命を果たすことでありました。この目的のために、主はピリポ・カイザリヤに来られた。そしていよいよその時が近づいていました。
果たして自分の周りにいるお弟子さんたちは、わたしのことをどのように理解をしているのだろうか。いわば今テストをするためにイエス様はこのガリラヤから北の方、ピリポ・カイザリヤと呼ばれるこの地方に隠遁、隠居と記してある注解書もありますけれども、隠居というと日本語ではすこし意味合いが異なると思われますので、隠遁といったらいいでしょうか。今までの活動をチェンジして、お弟子さんたちを集中的にお扱いになるときを主は願っておられました。そしていよいよこのピリポ・カイザリヤというところにやってまいりましたとき、これはもう何回も扱わせていただいたところですが、イエス様が、「人々は人の子(わたし)をだれだと言っていますか」とお尋ねになる。弟子たちは各々、バプテスマのヨハネだと、エリヤだと、エレミヤだと、預言者の一人だと言っていると答えたところが、「あなたがたは、わたしをだれと言いますか」とイエス様がいのちを賭けるような大きな問いかけをしたところ、シモン・ペテロが「あなたは生ける神の子キリストです」と答えた。今それを扱っている最中であります。この大きなことをなさって一区切り。
いよいよイエス様のご生涯のまた一つの大きな大きな区切り、それはヘルモン山で主が姿変りをなさったことです。イエス様が変貌をされた山という意味で私たちは変貌山と呼んでおります。夏でも頂にはなお雪が残っております。イエス様はこのヘルモン山にお弟子さんたちのうち主だった3人のお弟子さんを連れて行かれ、いったいご自分がどういう者であるのかをお示しになった。いよいよの十字架を前にし、これからエルサレムに行って大切な使命を果たされる前のほんとうのターニングポイントといったらいいでしょうか。
その時、「すると、弟子たちの目の前でその御姿が変わった。顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった」(マタイ17:2)。イエス様の御姿がお弟子さんたちの目の前で、世の布さらしさえも、これほどには白くできないほどの姿変わりをされた。つまり、罪を犯さないまことの神に従い続けた人間の姿は本来はこういうものであることをデモンストレートしてくださった。そのような変貌山での出来事の意味、それはまた次の機会に扱わせていただきますが、きょうはその直前の信仰告白の場面、これを中心にもうひとたび見てまいりましょう。

マタイ16章13~20節は「信仰の告白」(confession―告白)です。使徒の代表格ペテロの「あなたは生ける神の子キリストです」という信仰告白です。
そしてまた、マタイの16章21~28節は「十字架の宣言」(crucifixion―磔殺)です。この時から主は十字架を初めてお弟子さんたちにはっきりと明言をされます。人の子は十字架につけられる。そのときペテロは「主よ、とんでもないことです」と言ってしまうのですが。
そしてその後、マタイ17章1~8節、「主の変貌」(crowned―戴冠)です。「御姿が変わった。顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった。」
以上が前回のお話しでした。ズームというこの通常ならざる時期を通っております私たちです。この機会にもう一度「わたしの教会を建てる」とイエス様が仰る教会とはいったい何なのか。これに焦点を当てて語らせていただきました。
教会とはキリストが基を据えた信仰者の集まりである。個々の教会においては神の言葉が正しく説き明かされ、聖礼典が正しく執行され、そして神を礼拝し、信仰者が互いに交わりを持ち、キリストの救いが宣証されていく。そして個々の教会というものは聖なる一つの使徒的な公同教会、つまり、「あなたは生ける神の子キリストです」と告白する仲間たちと同じ幹に連なっている者であるということ。これを心に止めさせていただきました。

さて、今日のメインでありますけれども、「十字架の宣言」(crucifixion―磔殺)。
マタイ伝16章21節に「そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた」とあります。これまで漠然としていたものが一つの核となって「その時から」と輪郭を帯びるというほんとうに大きな意味のあるところを今私たちは学んでいるところであります。
するとどうでしょうか。つい先ほどはペテロが「あなたは生ける神の子キリストです」と答え、それに対してイエス様が「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。」とペテロの100点満点の答えに大喜びされ、ならばとはっきりとこれからの十字架を示されたところに、ペテロがイエス様をわきにお連れしていさめ始めたというのです。ちょっとちょっとイエス様、そんなこと言うもんじゃありませんよ。とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。ペテロにはまだ十字架がよく理解できていなかった。
そのとき23節でイエス様が振り向いてペテロに言われたことは「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。ペテロはどんな思いでこのイエス様のことばを聞いたでしょうか。ペテロは「下がれサタン」と言われたのです。「あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。ペテロは22節にあるように「主よとんでもないことです、十字架なんて」、つまりペテロは、イエス様、あなたが神の子メシアのキリストであるとさっき私は言ったじゃないですか。「あなたは生ける神の子キリストです」。あなたは十字架以外にそのメシアとしての道があるはずでしょ。だから十字架以外の道でメシアであることをあなたは証しなければならないのです。そうイエス様を叱りとがめた。イエス様が地上に来られたご目的からすれば、これはそれこそとんでもないことですけれども、でも、これが偽らざるペテロの気持ちでした。
これもサタンの狡猾で執拗な誘惑であり、イエス様の十字架というものをはさんでのすさまじい綱引きです。これがあったのだということを確認いたしましょう。
最初に荒野の誘惑というのがありました。イエス様がいよいよ公の伝道生涯に入ろうとしたときに悪魔がやってきて、イエス様を荒野に導いていった。これからあなたがほんとうに神の子として進もうとしているなら、ほら人々は飢えているじゃないか。人々のためにこの石をパンに変える大きな奇跡をやってごらん。人々はあなたを、我らが待ち望んでいたメシアだといって受け入れるでしょう。しかしイエス様は敢然として私は人々にパンを与える者じゃない。そのために来たんじゃない。人々の罪を贖う神の子羊、贖罪のために生まれてきた、十字架につくために生まれてきたとサタンの誘惑に立ち向かう。もっと確認したいところはありますけれども。
人々が願っている飢えからの解放、つまり豊かな糧を与えてくれるもの、人々が待ち望んでいるのは、つまり世の中が待ち望んでいるメシアというのは、人の心の罪の問題などは関係ない。人々がほんとうに求めているのは、繁栄、それです。
イエス様がなさった5000人の施食と呼ばれるあの大きな奇蹟があります。人々はイエス様のお話しを聞こうとして集まってきました。皆が空腹になったとき、少年が一つのお弁当を持ってきていた。イエス様はこの少年のお弁当を、これを人々にお腹いっぱい食べさせなさいと奇蹟の力で増やし、大人の男だけで5000人、当時は女子供を数えなかったので実際には1万人をはるかに超える人たちに、お腹いっぱいの食物を与えられました。弟子たち、その人々の興奮たるや! 我らが待ち望んでいたメシヤはこの人だ。人々は熱狂的にイエス様を王にしようとやってきました。しかしイエス様は、違う、私はそのためのメシアではないといって、人々のところから身を隠す。これはお判りでしょう。
荒野での試練のように、悪魔は何とかイエス様を十字架に架からせまいとします。ほらあなたは十字架なんか必要ないんだよ、パンをやれば、あなたはメシアになるし、人々はそれこそを待ち望んでいるんだ。悪魔はイエス様の目的から何とか十字架を外させようとつまずかせようとするのです。イエス様はこのサタンに対して、「下がれサタンあなたはわたしをつまずかせようとするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と。ペテロを通して語ったサタンに向かって、イエス様は「サタン!」と仰ったのです。
また、十字架に架けられる前日にイエス様はゲッセマネの園で血の汗を流しながら祈られました。
マタイ26:39「わが父よ、できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください」。
イエス様のこの杯が何を意味するのか。それは父なる神様が最も嫌悪しておられる罪を、全人類の罪を背負って、イエス様ご自身がその罪そのものとなって、人々の代わりに罪の裁きを受けなければならない。罪そのものとなり愛する神様から捨てられるという経験を、その十字架上でしなければならない、それがこの杯です。
サタンは、この苦い杯を、この十字架を何とか避けさせようとして、ここにも最後の攻撃をかけてまいります。血の汗を流して祈られるイエス様に、み使いはほんとうに現れて、イエス様の祈りに力を与えられます。サタンは十字架の成就が自分の敗北だということを知っておりますがゆえに、これを妨害する。
そして最後、イエス様が十字架にお架かりになられたとき、一緒に二人の強盗が、一人は右に、一人は左につけられました。一人の強盗が見ていた多くの人々と同じようにイエス様をののしり悪態をつきます。おまえがもし神の子だったら十字架から降りられるじゃないか。ほんとうに神の子だったらそこから降りてみろ。そして降りて俺たちを救ってみろ。
最後までこの強盗のことばを通してサタンは十字架を避けさせようとイエス様を誘惑し続けました。これほどに、十字架をないがしろにしようとするサタンの企みは執拗です。
マタイ16章23節「しかし、イエスは振り向いてペテロに言った。「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」

どうか、十字架を避ける、十字架を避けたい、主と共に十字架を負うことなどまっぴらだ、これは、サタンの間断なき誘惑です。ですからイエス様は、私たちへの諭しを仰いました。
マタイ16章24節「それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」。
「だれでもわたしについて来たいと思うなら」、これは、強制ではありません。私たちの心の在り方。聖霊様は私たちに神の愛をほんとうに示してくださいますけれども、それを示されたあと、それを知った私たちに、「さあ私について来たいと思うなら」、これはおきてでもない。律法でもない。イエス様は仰るのです。「ほんとうに十字架の意味がわかっているね、あなたがたは。ならばこのキリストに従う道を歩みたいと思うのなら」。
どうでしょうか。イエス様は強制することもできるはずのお方です。ですけれども、決してそれを望んではおられない。十字架の愛をくまなく私たちにお示しになられたあと、クリスチャンたち、弟子たちに、「さあわかったね、十字架の意味がわかったね。だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て」、この「自分を捨て」というのは、自分が自分でなくなってしまうということではない。自分第一とする生き方、自分の願望を第一とする生き方、そうではなく、いつでも私第一ではなく、イエス様あなた第一の生き方にということです。そして「自分の十字架を負って」、これは、よくクリスチャンどうしで、ペテロの在り方を見るとおもしろいんですけれども、ほかの人と比べてあの人はこうだ、この人はこうだ。そんなことは問題ではない。イエス様は、「あなたの十字架があるだろう、そう、人がどんなに華々しく、ひとがどんなに、でもそれと比較するんじゃない。あなたはあなたの十字架、それが神様が与えてくださる十字架です。自分の十字架を負ってわたしに従って来なさい」。先だって歩まれる主に従って歩むということです。「わたしに従ってきなさい」。
世の中の暴君はしもべたちに行けーと命じて自分はふんぞり返っているかもしれません。イエス様は「わたしに従って来なさい」と仰る。十字架のことがよく分かった私たち、どうか、イエス様の諭しを心にとめさせていただきましょう。
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従ってきなさい」
いまちょうどパラリンピックが行われております。TVを通じてでも観戦する機会が与えられておりますが、彼らがどんなに大きな十字架を負わされたことだろうかという角度からもアスリートたちの懸命な姿を見させていただきながら、このイエス様の諭しをアーメンと肯きながら進ませていただきたいと願っております。
※画像は教会からお借りしています。
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