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2021年9月

210930 クラシッククラブを聴く こ辻彩奈 バイオリン・リサイタル

モントリオール国際音楽コンクール優勝、期待の若手バイオリニスト辻彩奈。ベートーベンとフランクの名曲に加え、辻自身が現代作曲家・権代敦彦に委嘱した新作も披露する。 【出演】辻彩奈(バイオリン)、阪田知樹(ピアノ)【曲目】ロマンス 第1番 ト長調 作品40(ベートーベン作曲)、Post Festum 無伴奏バイオリンのための 作品172(権代敦彦作曲)、バイオリン・ソナタ イ長調(フランク作曲)【収録】2020年11月16日 NHK大阪ホールー番組紹介よりー

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辻彩奈さん(バイオリン)
1997
年岐阜県出身。2016年モントリオール国際音楽コンクール第一位。現在フランスと日本を拠点に活躍。
阪田知樹さん(ピアノ)
1993
年愛知県出身。2016年フランス リスト国際ピアノコンクール第一位。以来世界20か国で演奏。


作曲家 権代敦彦
さん、独自の死生観をもつ作品で国際的に高く評価されている。辻彩奈さんからの依頼にこたえて無伴奏バイオリンのための新作Post Festum(ポスト・フェスティム)を作曲。

Dsc02218-2 辻彩奈さんのコメント
自分のために作品を書いていただくという経験は初めてでしたし、自分にとってはすごく大きな意味だったし、いざ練習して権代さんと、どんなふうに弾いたらいいとか、どんなことを考えながら作曲したとかいろんなお話を伺って、そういう生きている作曲家とお話しするという体験も初めてだったので、すごくすばらしい経験でした。Post Festumというのは、「祭の後」という意味があって、祭の後の静けさだったり、詳しく権代さんとも何を描いたのかという話をしてないんですけれども、遠くから何か見えないものが形はないんだけれども、それをずっとこう暗い中を探しているというイメージですかね。

私が演奏する色んな人のコンチェルトとかソナタの中で、すごく好きな作品というのはたくさんあるんですけれども、フランクはその中でもすごく大切に向き合ってきた作品で、ピアニストの阪田知樹もこのフランクにすごく熱い思いがあるということを知っていたので、彼と弾くならぜったいフランクしかないなと思ってこれを選びました。何回弾いてもすごく美しい旋律がわたしは好きなんですけれども、中でも34楽章が好きなんですけれども、3楽章、悩み、悩んでこう淡々と歩いている中で、一筋の光が見えて来て、それで第4楽章に光が溢れるみたいな。私はそういうふうに感じるんですけれども、4楽章は特にきれいなメロディーをピアノとバイオリンが掛け合う、そこがとても好きで彼の曲に対する大切さとかもすごく伝わってくるし、私もそれを受け継ぎたいなと思って、そういう気持ちで演奏しました。

 

曲目

ロマンス 第1番 ト長調 作品40(ベートーベン作曲)
ベートーベン30歳の頃の作品。穏やかな和声の中に抒情性が
Post Festum 無伴奏バイオリンのための 作品172(権代敦彦作曲)
協奏曲の後に演奏するアンコール・ピースとして作曲された。20206月に辻彩奈によって初演された。一丁のバイオリンが永遠を求めて時を刻み、高揚と沈静を経て聴く者を彼岸へと導く。
バイオリン・ソナタ イ長調(フランク作曲)
フランクはベルギーで生まれフランスで活躍した。フランクと同郷の名バイオリニスト イザイの結婚を祝福して作曲された。内面的な情熱と緻密な構成を併せ持ち、バイオリン・ソナタの最高傑作の一つ。

 

🎵「ロマンス」、甘やかな旋律。
「Post Festum」、、なぜか芥川の「蜘蛛の糸」が眼前に。躍り出たくとも鳴りを潜める魑魅魍魎に控えめな木魚の響きが。、魂のざわめき、しゅーっと天上にのぼり、昇りつめて辺りの見晴らしを確かめているが、そこにある形を留め得ない何者か。、宙を漂っている、これは昇天を果たした何者かであるのか、経文が彼方に遠くに、役目を果たし終えたかに遠ざかっていくかのよう。
フランクの「バイオリン・ソナタ」、1楽章、内に秘られた熱い思い。2楽章泡立ち波立つ不信感。持って行きどころのないやり場のない感情の表出。3楽章、沈思黙考しつつ部屋と思しき空間を一人さまようような。名旋律が一連の褒章のように鳴り響いたところで、ああ、これでしょう、人生のこたえはこれでしょう。4楽章、明るい日差しに冴えわたる喜びの名旋律。ああ、そうですよ。人生は捨てたもんじゃない。悪くはない。バイオリンとピアノの実に当を得、さえた気分のいい会話が。

🎧名曲アルバム。岡野貞一作曲、高野辰之作詞「故郷」。東京混声合唱団、東京フィル&円光寺雅彦高野辰之のノート。
高野は演劇や歌謡の歴史にも関心が高くその分野で多くの業績をのこしたという。左は高校の時のノート。
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⛳9月も一通り聴き通したクラシック倶楽部。来月からはほんとうに気まぐれ更新になりそう。もう4時、5時は寒くもなってくる。
音楽ばかりではなく、さまざまに楽しむこともできたことに感謝!
20時14分更新




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210929 クラシック倶楽部を聴く 神尾真由子 バイオリン・リサイタル

今朝の雲。
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☆  ☆  ☆

 

【神尾真由子(バイオリン)】2007年第13回チャイコフスキー国際コンクールで優勝。ロストロポーヴィチ、インバル、アシュケナージ、メータなどの指揮者と共演、国際的に活躍する【田村響(ピアノ)】2007年ロン・ティボー国際コンクールで第1位。オーケストラとの共演のほか、室内楽でも活躍【曲目】チガーヌ(ラヴェル)妖精の踊り(バッツィーニ)ほか【収録】2020年11月13日文京シビックホール 大ホールー番組紹介よりー

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神尾真由子
4
歳でバイオリンを始める。11歳でメニューイン国際バイオリンコンクールジュニア部門で最年少入賞。2007年21歳で第13回チャイコフスキー国際コンクールで優勝。
田村響
3
歳からピアノを始め、18歳でザルツブルクモーツァルテウムに入学。200720歳でパリのロンティボー国際コンクールで第一位。

神尾真由子のコメント
Q国際コンクール優勝後の変化について
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歳になりたててコンクールに出たんですが、そのときはどこに行っても右手を注意されるような状態で、自分でも自信がなくて、それによって表現できる幅が狭くなっていたんですが、20代の後半ぐらいからほぼ、ある日いきなりのように右手のつかえがとれたような気がしまして、それからは自分でも自由に弾けるようになったかなと思います。たとえば、声だと一息で弾けるところもバイオリンでは弓をちょこちょこ返さないとそんなに続かないところであったり、ほんとうに一息のように弾けるように弓を動かしていくというようなことであったり、弓をはやく使うこともけっこう難しいことだったり、色々なほんとうに自分の体という楽器のように弾くと思ったら至らない部分が難しい部分がたくさんあるので、そういう意味で右手というのは目には付きにくいですけれど、かなり大きなウェイトをしめるところかなと思います。
Q母親となって変わったことは
いい意味で、もっと大事なものがあるので、それまでは演奏が大きなウェイトを占めていたんですが、そこまでだいじでなくなったことがいいように作用しているかなあと思いますね。これは演奏家には付きものなんですが舞台に出る恐怖みたいなのが誰でもあります。よく言われるのが仕事が決まったら嬉しいけどキャンセルになったらもと嬉しいとか、いざ出ることになったら怖い、キャンセルしたくなるというのが常なので、そういう意味ではやはり(聴きとれなかったところ)いやだなと思っても、子どものことでひやっとするのに比べたらもう全然怖い事じゃないのでほんとうに最近は楽しく演奏させていただいてるなと思います。
Qプロコフィエフの「バイオリン・ソナタ第2番について
後半はプロコフイエフの、すごくフランス的な響きがありながら、ちょっとロシアの響きもありながら、ただロシアものにしてはかなり軽め、叙情的でリリカルな流れるような不思議なはーもにーだったりきれいなハーモニーだったりととてもきれいなので、聴いてあまりズドーンとする感じではなく、きれいだなと思って聴いていただけると思います。

曲目
「月の光」ドビュッシー 田村響のピアノ演奏
「チガーヌ」ラヴェル
「バイオリン・ソナタ 第2番」プロコフィエフ
アンコール 「妖精の踊り」パッツィーニ

🎵神尾さんのように母親となって生きる演奏家、また敢えて独身を選び取り音楽に専念する方とさまざま。
それにしても聴き直すほどに!

🎧名曲アルバムは中国江南地方民謡「太湖船」
栗山和樹編曲。二胡演奏はシャー・パンファン。岩村力&東京フィルハーモニー管弦楽団
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⛳17時58分更新

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210928 ナビル・シェハタ コントラバス・リサイタル

けさ5時26分の東の空。もっとも美しい瞬間。美しさはほんの束の間。
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☆  ☆  ☆
クラシック倶楽部

エジプト人とドイツ人の両親のもとクウェートで生まれたナビル・シェハタはベルリン・フィルで首席奏者として活躍した名手。実兄カリムとの共演で低音の魅力を聴く。【出演】ナビル・シェハタ(コントラバス)、カリム・シェハタ(ピアノ)【曲目】無伴奏チェロ組曲第1番・コントラバス版(バッハ作曲)、歌劇「夢遊病の女」による幻想曲(ボッテシーニ作曲)ほか【収録】2018年11月22日 ハクジュホールー番組紹介よりー

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ナビル・シェハタ(コントラバス)
エジプト人とドイツ人の両親のもとに生まれ、9歳でコントラバスを始める。2003年、ミュンヘン国際コンクールのコントラバス部門で優勝。2004年から2008年までベルリン・フィル首席奏者。指揮者としてもデビュー。
カリム・シェハタ(ピアノ)
クウェート生まれ。5歳でドイツへ移住。音楽教育者の家庭に育つ。(ここまでは)ハノーヴァー音楽演劇大学やブレーメン芸術大学大学院で研鑽を積んだのち、世界各地のコンサートに出演。近年は弟のナビルのよきパートナーとして度々ステージを共にしている。

 

コメント
ナビル:
コントラバスのレパートリーはとても限られています。プログラムを充実させるためにチェロに書かれた曲などを加えています。今回はブルッフの「コル・ニドライ」やバッハの「無伴奏チェロ組曲」を加えました。「無伴奏チェロ組曲」はコントラバスで弾くのは非常に難しいです。通常の演奏よりも1オクターブ高い指使いになるためです。しかし、曲の性格上、それが技巧的に聞こえてはいけません。長年演奏をためらっていましたが、バッハから学べることはたくさんあります。チェロと異なる響きは聴衆にとってもおもしろいはずです。やりがいのある挑戦です。
カムリ:私たち兄弟は12歳ごろからデュオを組んでいました。ジュニア・コンクールに挑戦するときはいつも(ふたり)一緒でした。
ナビル:兄は気の合うピアニストとしてとても大切な存在でした。
カムリ:兄弟だと何でも自由に言い合えます。相手にどういえばいいか遠慮したり気を使う必要はありません。子どもの頃から一緒だから意思の疎通が楽です。
―なんでも言いあってけんかになることもあるのだとか。

曲目
無伴奏チェロ組曲第一番(コントラバス版、イ長調) (バッハ)
歌劇「夢遊病の女」による幻想曲 (ボッテシーニ)
 コントラバスのパガニーニと称された19世紀の名奏者ボッテシーニの代表作。ベッ  リーニの歌劇の名旋律をコントラバス特有の音色と超絶技巧で楽しめる作品。
コル・ニドライ (ブルッフ)
 ユダヤ教の典礼歌「コル・ニドライ」の旋律を用いて書かれた幻想曲。バイオリン協奏曲と並ぶブルッフの傑作。
間奏曲とタランテラ (グリエール)
 グリエールは友人の名コントラバス奏者クーセーヴィッキーのために4つの小品を書いた。叙情性あふれる間奏曲と高度なテクニックが要求されるタランテラは中でも人気の作品。
アンコール リベルタンゴ (ピアソラ) 

🎵「チェロ組曲」、日の落ちかかる広い空間に朗々と、延びる影を踏み進みゆく足元を照らし添いゆくような響き。
「夢遊病の女」による幻想曲、ジョークを転がすところ、能天気にうたうような部分、それらにまともに関わりあう旋律も聴こえて。
「コル・ニドライ」、何ものかを詳らかにしたい無意識の意図といったものが。
「リベルタンゴ」コントラバスが弾けば、踊りも地に足がついて心は踊るという感じが。
コントラバスの音域は臓腑におさまりがいい。指板を大きく行き来する5指、運弓、小型の弦楽器よりもかなり体力が消耗されるのではと思うのだがどうだろう。それにしても弦楽器の形が今の形状に落ち着いたのはいつ時代であったか。

🎧名曲アルバムはピアソラ「ブエノスアイレスの冬」バンドネオン五重奏 三浦一馬キンテート
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⛳6時34分更新

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210927 クラシック倶楽部を聴く ラファエル・アギーレ ギター・リサイタル

2007年のタレガ国際ギターコンクールをはじめ、世界の名だたる13のコンクールで優勝を収めたスペインのギタリスト。賞賛を受け続ける華麗な演奏をご紹介します。 【出演】ラファエル・アギーレ(ギター)【曲目】スペイン組曲 第1集からアストゥーリアス(アルベニス作曲)、月に映えて(パコ・デ・ルシア作曲)、歌劇「はかない人生」からスペイン舞曲第1番(ファリャ作曲)、サルスエラ「ルイス・アロンソの結婚式」から 間奏曲(ヒメネス作曲)、カヴァティーナ(マイヤーズ作曲)、アランブラ宮殿の思い出(タレガ作曲)ほか【収録】2020年2月4日 浜離宮朝日ホールで収録

 

ラファエル・アギーレ
南スペインのマラガ出身。8歳でギターを始め16歳でオーケストラトと共演してデヴューアンドレ・セゴビヤやナルシソ・イエペスの後を継ぐギター奏者として高く評価されている。

今回は母国スペインの音楽。クラシックからフラメンコまでさまざまな作品を演奏。

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ラファエル・アギーレのコメント
スペインの音楽はスペイン人そのものです。情熱的でメランコリーで気性が激しくドラマチック生き生きとしていて人生を楽しむ気風があります。ギターの魅力とはそのすべてを表現できることだと思います。ピアノには敵いませんが、ベルリオーズがいったようにギターは小さな一つのオーケストラなのです。
このギターは2016年に私の父が故郷のマラガで作ったものです。表板はシダー(米杉)、裏板と側板はインディアンローズウッド。フラメンコとクラシック両方演奏するのに最適です。演奏するときは、神経質なのでとても緊張します。そんなときは子どものころのことを思いだします。ギターの奏でる音を聴いて恋に落ちた時のことです。その感情がステージにあがる理由を思い出させて完璧を求めずに楽しむこと。演奏会はパーティーですから。音楽の力を分かち合う事で聴衆は私に力を与えてくれます。そして演奏会は大きな力をくれる場になるのです。
ギターとういう楽器は演奏技術を知らないと自然な流れを作るのが難しい、ギターは特殊なところがあって響きにくい調性があったり派手に聴こえるアルペジオやコードの組み合わせがありそれを熟知していないといけない、その点スペインのギタリストの作品にはベースとなる深い知識があると。

曲目

スペイン組曲から 「アストゥーリアス」(アルベニス):原曲はスペイン民族主義音楽を確立させたアルベニス(18601909)のピアノ曲。セゴビアが愛奏したことで、ギター曲としても人気の作品となった。
スペイン組曲から「セビリャーナス」(アルベニス):超絶技巧で名を馳せたサビーカス(19121990)とフラメンコにジャズやクラシック・ギターの要素を取り入れたパコ・デ・ルシア(19472014)の作品。ともにフラメンコ奏者による曲だが、それぞれの特徴が出た作品となっている。
オレイ・ミ・カディス(サビーカス)
月に映えて(パコ・デ・ルシア)
はかない人生から「スペイン舞曲 第1(ファリャ):民族主義と印象主義を巧みに融合させたファリャ(18761946)の歌劇の中の一曲。結婚式の場面で演奏される音楽で流麗な主部に熱い中間部が挟まれている。
スペイン風セレナーデ(マラッカ):スペインの名ピアニストホアキン・マラッツ(1872)の作品中ほとんど唯一知られた作品。近代ギターの礎を築いたタレガによってギター曲として広まった。
サルスエラ「ルイス・アロンソの結婚式」から間奏曲(ヒメネス)
 ギタリスト山下和仁の見事な編曲によってめくるめく妙技が披露される。
アンコール カヴァティーナ(スタンリー・マイヤーズ)
「私の大好きな小品を演奏します。がらりと雰囲気を変えて」とアギーレが弾いたのがこの曲。心休まる寛げる静かな曲。
アンコール 「アルハンブラ宮殿の思い出」(タレガ)

 

🎵「ギターの場合、たとえば「はかない人生」で民族主義と印象主義との融合と解説があっても即座にそれを聴き分けられなかったり、小曲が並んだ場合、超有名な曲しか印象にのこらず、あとは並列的に聴こえていたギター、それが回を重ねるうちには、じわじわと心に落ち込んでくる。一曲一曲にブラボー。「アストゥーリアス」の最初の1音で、これはもう! という感じが。人気の高さにもそれがバッチリ。

🎧名曲アルバム。バダジェフスカ「おとめの祈り」(ピアノ)仲道郁代
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きのう午後、盛岡市の岩手県民会館中ホールで古楽器の演奏会があった。

「第3回 いわて古楽器の会 コンサート」
後援は日本ヴィオラ・ダ・ガンバ協会
出演 アルト・リコーダー  西川ふみ子・吉村誠子
   ヴィオラ・ダ・ガンバ 村里明香・奥津恵里
   チェンバロ 長谷川恭一
   ヴァロック・バイオリン 山口あうい(友情出演)
   使用バイオリン製作者 松本伸(松本ヴァイオリン工房) 

曲目  
1・ルネッサンス時代の音楽より
  トマス・モーリー:「もう貴女とは逢いたくない」
  W.バード:「お帰りなさい、ウィルビー侯爵!」
  ピエール・パスロー:「うちの亭主はお人よし」
2・J.S.バッハ:ヴァイオリンと通奏低音のためのソナタ
  ト短調(BWV)
  アンコール バッハ ソナタ ハ短調 第一楽章
3、テレマン:「食卓の音楽(タフェルムジク)」から四重奏曲・二短調
  Ⅰ・Andante Ⅱ・Vivace  Ⅲ・Largo Ⅳ・Allegro
  アンコール バッハ アリア
  アンコール 「魔女の宅急便」から

 秋の風に吹かれてどこからともなくとんできた楽譜を、窓から手を伸ばしてすっと受け取り、それがあたりまえのようにアルト・リコーダーが鳴り、ビオラ・ダ・ガンバが目を覚まし、チェンバロがさざめき始めたかのコンサート。古楽器の明るく透き通る柔らかな響きが素晴らしかった。

21時15分更新

 

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きょうのことば 『希望と喜びの日々』 

インマヌエル盛岡キリスト教会2021年0919日()の礼拝メッセージをお伝えいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で48年目のご奉仕をしておられます。

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説教題 『希望と喜びの日々』  (國光勝美 牧師)
聖書箇所 新約聖書 マタイの福音書6章2534

25 ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか、何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか。
26 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。
27 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、すこしでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。
28 なぜ着る物のことで心配するのですか。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
29 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を極めたソロモンでさえ、この花の装っていませんでした。
30 今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっとよくしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ。
31 ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくてよいのです。
32 これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものすべてが必要であることは、あなた方の天の父が知っておられます。
33 まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。
34 ですから、あすのことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。

 

<お話し>

 きょうは『希望と喜びの日々』と題しまして、メッセージを取り次がせていただきます。
またきょうは謝恩日聖日です。牧会や伝道に生涯をお捧げくださった引退牧師の先生方に感謝を表し祈りを捧げ、いつもの礼拝献金に加えて謝恩日聖日献金のお願いを申し上げます。よろしくお願いいたします。 

 本来ならば、会堂の方でメッセージをお取次ぎするはずでございましたが、突然ノートパソコンがフリーズしてしまいまして、皆さん方には大変ご迷惑をおかけしました。心から申し訳なく思います。
 きっと神様が、短い時でもいいからメッセージを取り次ぐようにということでしょう。ベストを尽くさせていただきますので、よろしくお願いいたします。 

 私には敬老の日の思い出があります。それは、今からおおよそ35、6年前のことでありました。古い方々はご存じですけれども、北天昌寺町の一戸建ての借家で牧会しておりました。その教会から車道を隔てて見えるところに江藤整形外科があり、隣は今はマルイチというスーパーの駐車場になっておりますが。その江藤整形外科にT兄がご入院をされたときのことであります。かねてから何とか教会に結びついていただきたいと祈らせていただいておりました。それがT兄がここに入院。このような形で祈りが聞かれたのでありましょう。ちょうど病室の窓からインマヌエル盛岡教会が見えます。
 敬老の日でした。ひろ子先生とカードを持って病室に伺いました。すると、病院のTVニュースで「きょうは敬老の日です」。国民の祝日としてご高齢で元気な方々、そしてその行事などが報じられておりました。80歳以上の高齢者がだいたい何パーセントとか、100歳以上高齢者がどれくらいとか、よく聞くようなニュースが流れておりました。私は、よいところに来たな、こうして敬老の日をお祝いしているのだと思いながら見ていたんですけれども。
 ところが病室におられたT兄の受け止め方は、ちょっと私たちの感じと違うのです。どこか違う。どうもそれは、国や社会からあなたは老人なんです。だからお祝いするんですと、自分が好むと好まざるとにかかわらず、敬老の日に老人であるというレッテルを貼られてしまうと感じられていた。私はその時、39歳でした。今74歳、間もなく後期高齢の75という齢になりまして、あの時のT兄のお気持ちが、自分の体験としてわかるような気がいたしました。

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 たしかに私たちは老います。でもそれを、齢をとればみんなそうなんだと悲観的になってあきらめるというのでは決してないはずです。むしろ、これを素直に、老いる、衰えるということは、これはもう当たり前のことなのだと肯定的に受ける、これは大切な心構えであるように思うのです。

 素直に自分が老いていくのを認めること。それは天のお父様が、私たちをちゃんと顧みていてくださるんだから、私たちの天のお父様は野の花さえきれいに飾ってくださるお方。小さな鳥にさえも糧を与えてくださる。天のお父様は私たちにすべてのものをちゃんと与えてくださるじゃないか。この天のお父様というお方をしっかりと心に受け止めるときに、希望と喜びの日々を送ることができる。このように私は思います。それを「信仰によって生きる日々」ということばでまとめたいと思います。

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へブル人への手紙11:1
信仰は、望んでいることを保証し、目に見えないものを確信させるものです。

第2コリント5:7
私たちは見えるものによらず、信仰によって歩んでいます。

そう、父なる神様を見上げる信仰、父なる神様が必ず私たちを顧みてくださるという信仰、

へブル11:6
信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。

 父なる神様を素直に信じる。これが神の喜ばれる私たちの在り方だということを思います。そして聖書はいうんです。

まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。マタイ633

 イエス様は仰るのです。まず私たちは神の国とその正しさを求めていけばいい。そうするのならば、それらのものはすべて、私たちが食べるもの、着るもの、あるいはいのちのこと。それらのものぜんぶ神様が与えてくださる。幼子のように単純に信じる。私たちの天の父は、私たちのこれからを、これからの日々を必ず祝してくださる。

 信仰の錨を天にしっかりとおろす。確かな希望。ふつう、錨というのは、海の底に落として船が動かないようにしますけれども、私たちは信仰の錨をしっかりと天に向かっておろすのです。私たちの信じている救い主は死んでよみがえって、今天において私たちをしっかりと受け入れてくださる。この信仰の錨をしっかりと天におろしていきたいと思います。これは、まさにに信仰です。そしてこの信仰によって生きるということは、今のこの時しかできないことなのです。

 私たちが、もし天に帰ったのならば、もう贖い主なるお方に眼と眼を合わせて、イエス様だ! もはや見えないお方ではない、そのお方をしっかりと目で見て主イエス様を神としてあがめる、そういう生き方を天においてはすることができます。しかし、信仰においてというのは、まだ見えていない、まだ確かなお方を私たちは目では見ていない。だけれども、このお方をしっかりと信じて、この見えないお方を確かなものと信じていくとき、この信仰を神様は何よりも愛でてくださる。ですから、信仰を持って歩むということができるのは、今のように生きているこれからの私たちの特権です。そして先ほどもお祈りいたしましたけれども、おそらく、私たち、私も高齢者になっておりますけれども、今までよりもはるかに、あとは短いとき、地上ゆるされているこの時に、神様がお喜びになる信仰を思いっきり働かそうじゃありませんか。信仰を働かせることができるのは今の世にあるときだけです。天に帰ったのならば、もう目と目を合わせてこのお方をあがめるのですから。どうぞ、まず神の国とその義を求めて、そして父なる神様を心から信じて歩んでいく生き方をさせていただきたい、心からそのように思います。

 

※音声データ、画像は教会からお借りしています。
⏰6時02分更新

 

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無題

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 J-MERO、ゲストはCrystal Kay&吉澤嘉代子。このコロナ禍で、Crystal Kayが「たいせつなものは何かに気づけました」と。何もなかった時の価値基準がくつがえること多々。振り切れない、逃げ切ることが極めて難しいウィルスとの闘い。その中で一つでも教訓なりを手にできたかたは全くこれが無駄ではなかったということにも。一日も早く、若い方々も高齢者も、思う存分活躍できる日が来ればと思う。


⛳きょうは半日はハックルベリーのジャムづくりに専念。22時46分更新

 

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210924 クラシッククラブを聴く イル・デーヴ スペシャルコンサート

重量級ボーカルグループ、イル・デーヴが心にしみる日本の名曲を熱唱望月哲也、大槻孝志(テノール)青山貴(バリトン)山下浩司(バスバリトン)河原忠之(ピアノ) 「さびしいカシの木」「かもめ」「涙そうそう」「花は咲く」(イル・デーヴ)「ちびつぐみ」(山下浩司)「かやの木山の」(望月哲也)「あわて床屋」(青山貴)「春」(大槻孝志)「ピアノのためのからたちの花」(河原忠之)「糸」「いのちの歌」「アンパンマンのマーチ」(イル・デーヴ)2020年11月29日 北海道伊達市 だて歴史の杜カルチャーセンター公開収録ー番組紹介よりー

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青山貴のコメント
今年のコロナ禍で、イル・デーヴも他のクラシックの演奏家の皆さんと同じようにやはり春から演奏会が次々と中止になってしまいました。練習もできなかったですし、活動が全くできない状態が何か月も続いたんですが、その秋から少しづく演奏活動を再開させていただき、これが何とか続けていけたらなあとおもっています。

メンバーが互いに魅力を語る
山下浩司の魅力
山下さんはこのイル・デーブ5人のリーダー。大先輩にあたる。頼らせて頂いてるし気さくに接しているし、とてもやさしい方です。
望月哲也の魅力
イル・デーブのいちばん上のパートを歌う事が多いんですけれども、みんなを先導してくれるすばらしいテノール。
青山貴の魅力は
いちばん年下のメンバー。デーブのマスコットといわれている。彼の歌唱、彼のおしゃべり、いわゆるMCいわれているんですけれども、いちばんお客さんの人気が高い。イル・デーブのメンバーからもそうですしお客さんのみんなからも愛される愛すべき存在。
大槻孝志の魅力は
望月は大槻とは大学時代からの同級生。アイデアマン。コンサートのプログラミングも積極的に考えてくれ、イル・デーブの可能性も探って盛り上げてくれる。
河原忠之の魅力
ほんとうに見た通りの大柄な体格で、僕(大槻)たちの声も見た目も支えてくださって、僕は個人的に河原先生のピアノの音が好きで、みんなもそうなんですが、その音に後押しされて毎回気持ちを乗せられるという大黒柱というか、縁の下の力持ちと言った存在。

曲目
「さびしいカシの木」やなせたかし作詞、木下牧子作曲
「鷗」三善達治作詞、木下牧子作曲
「涙そうそう」森山良子作詞、BEGIN作曲
「花は咲く」岩井俊二作詞、菅野よう子作曲
「ちびつぐみ」北原白秋作詞、平井康三郎
 歌 山下浩司
「かやの木山の」北原白秋作詞、山田耕筰作曲
 歌 望月哲也
「あわて床屋」北原白秋作詞、山田耕筰作曲
 歌 青山貴
「春」新川和江作詞、信長貴富作曲
 歌 大槻孝志
「ピアノのためのからたちの花」山田耕筰作曲
 ピアノ 河原忠之
「糸」中島みゆき作詞曲
「いのちの歌」Miyabi作詞、村松崇継作曲
「アンパンマンのマーチ」やなせたかし作詞、三木たかし作曲

 

🎵詩人としてのやなせたかしが主宰する「詩とメルヘン」に何回か自分の詩を取り上げていただいたこともあり、最後がやなせの詩で締めくくられ嬉しく思った。最初は大人向けに書いた「アンパンマン」を、後に子供向けの漫画に描き直してヒット。やなせは60歳を過ぎていた。1988にはTV放映。69歳にして爆発的なヒットを手にする。

こうしてじっくり聴いてみると、歌の雰囲気が「アンパンマン」のところだけ瞬時あの飛ぶヒーローが浮かぶのだが、よい詩だなと思う。

「そうだ うれしいんだ
生きる よろこび
たとえ 胸の傷が
いたんでも」

 ちょっと話は飛躍するけれども、イエス・キリストは人の罪の身代わりに十字架につけられ罰を受け苦しんだというけれども、このアンパンマンはお腹を空かせたものたちに自分の体を食べさせる。自分は痛いのだけれどその痛みの分だけ他者が生きる。私の友達が病気で苦しむ過程を踏むことになり、何といってよいか分からなかった。けれどもその後で、自分が苦しむときには誰かがどこかで生かされるときなのではないか、だから苦しみは無駄ではない、そんな気がした。けれども、友達と全く同じ状況に置かれてみなければ、それを口にはできない、そんな気もした。
 今回聴いていて、流行歌にも人を励ます、気持ちをホットにしてくれる歌はたくさんあるなと。中島みゆきもMiyabiも。 
 メンバーによるそれぞれの方の紹介とソロ演奏、バス・バリトン山下の「ちびつぐみ」、朗々と重厚、聴きごたえがあった。

 まだまだ書き足りない気がするけれども、時間の都合できょうはここまで。メンバーの方々は、海外で研鑽を積み、国立音楽大学、愛知県立芸術大学で准教授、教授である方々である。

 以上は前に書いた通りなのだが、付け加えて、互いが互いを認め、いい点好ましい点をこのように述べ合う、こんな友人関係に恵まれたならどんなに素敵な人生となるだろうと。

 

🎧名曲アルバム。
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⛳きのうはお葬儀があった。母の兄弟姉妹の最後にアンカーを歩んだ叔父が逝き、もっとさまざま話を聞いておくのだった、自分はいったい何をしていたのだろうかという心境になった。落ち着いたあたりに叔母を訪問し話を聞きたい。

9月25日5時31分更新

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210923 クラシック俱楽部を聴く

武蔵野音楽大学声楽科および大学院、ニューヨークのマネス音楽院で学ぶ。「魔笛」夜の女王役でアメリカでオペラ・デビュー。以後、欧米各地の主要歌劇場に出演を重ねている。【演奏】森谷真理(ソプラノ)山田武彦(ピアノ)【曲目】歌劇「マノン」から 私が女王のように町を行くと(マスネ)叙情的散文(ドビュッシー)ほか【収録】2020年11月26日めぐろパーシモンホール 小ホールー番組紹介よりー

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森谷真理のコメント
 歌との出会いは、母が声楽家だったので物心ついたときには母の歌を聴いていたという出会いでした。ちょうどその大学院に入る前の時に、母の大学時代の友人の方が、ニューヨークに住んでらっしゃる方だたんですけど、その方が偶然栃木の実家に遊びに来て下さって、その時に、ニューヨークはどう? といってくださったのがたぶん最初のきっかけだと思います。何しろアメリカは他のヨーロッパの国と違って、やはりオペラというものは後から国に取り入れた国ですよね。彼らのものではなかったというところが大きくて、とてもよい先生たちがそろってたんですね。アメリカに行ったことがご縁で、やはりイタリアオペラだけではなく、たとえばあの当時学校に入って、すべてきちんとドイツ歌曲を勉強する機会を得たりオラトリオか、あとはちょっとバロックに触ってみるとか、フランス歌曲であるとか、色々なジャンルのものを手広くそれをきっかけになったのは、アメリカの学校に行けたお蔭ではないのかなと今でも思ってます。
 まずアメリカの国独特の事かもしれないんですが、例えばコンクールにしてもオーデションにしても、一つの言語だけの曲を持って行ってはいけない。色々な時代のものを幅広く入れつつ、たとえばドイツ語もありフランス語もあり、英語もありというような形でのプログラムになるので、私は何も知らなかったので、そのときついていた先生に、あなたどう、これやったらどうと言われつつ受験をこなして、それで学校に入ってまた授業を通って、他の生徒さんが歌っているのを聴いたりだとか、先生にもらった曲を自分で見たりだとかやってるあいだに、ああ、自分はこう言う曲が好きなんだなとか、こっちのジャンルはもうちょっと勉強してみたいとか、そういった意識は芽生えていました。
 この日本で働き始める前はオペラばかり歌ってたので、逆にあまりコンサートというものをしたことがなかった。オペラの魅力は、わたしがどうしてオペラを好きかと言えば、一人じゃないというところですね。アンサンブルが好きなんです。誰かと一緒に歌ってるのが好き。あとお芝居が楽しいですね。言葉もあるけれども、そこに演技というものがついてくる。演技をするときも相手方がいる。そういうところが私はすごく、オペラやりたいと思う時はそういう時で、人恋しいときですね。
 歌曲の魅力は、歌曲で特にチクルスが好きなんですけど、その世界観と言うものを自分で作れるというところが好きです。自分で、勿論ピアニストの方と一緒にですけれども、その空気感であるとか方向性であるとか最終的にマネージメント、自分からですよね。そこが面白いところかなあとは思ってます。
 私はドビュッシーが大好きなんです。歌曲と言ったらドビュッシーが群を抜いて好きなので、私にとってはすごく感動が深い。すごく深く突き刺さるものがあって、かといって攻撃的でもなく、独特の柔軟性と言うか柔らかみもありつつ深みもありつつ鋭いところもあってというところがすごく魅力的で、やはり自分が良いと思った曲を歌いたいという本能的な欲求があります。私はドビュシが好きなんですよね。

曲目
歌劇「アルチーナ」から「帰ってきて、喜ばせて」
ヘンデル作曲
歌劇「ジュリアス・シーザー」から「夜は青く」ヘンデル作曲
歌劇「マノン」から「私が女王のように町を行くと」マスネ作曲
歌劇「タイス」から鏡の歌「私を美しいと言っておくれ」マスネ作曲
「アナカプリの丘」ドビュッシー  山田武彦のピアノ演奏
「叙情的散文」ドビュッシー作曲
 ドビュッシー33歳のときの作曲。1895年出版の歌曲集。歌詞はドビュッシー自身の手による。4つの曲で構成されている。番組ではどなたの訳であったか見落としてしまったけれども、一応ネットに出ていた訳をつないでみた。


🎵オペラはアリアを聴くだけでも、確かに聴いたという充実感をのこしてくれる。

🎧名曲アルバム。サラサーテ「マラゲーニャ」。バイオリンはアナスタシア・チェボタリョーワ、ピアノ伊賀あゆみ
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⛳名曲アルバムにはよく東京フィルが出るが、TV,昼間の時間帯で東京フィルの番組「必ずよみがえる ー魂のオーケストラ1年半の闘いー」を観た。1911年生まれのオケだ。チョン・ヨンフンが20年間楽団と共に音作りをしてきている。プロとして活躍している音楽団体、どこからも援助を受けていない音楽団体は今どこも厳しい現実にさらされている。国や自治体の台所が苦しくなると、経済が逼迫してくると、どうしても文化が削られることになるようだ。胸が痛んだ。
 自分に矛先を向け、自分は音楽愛好家ではあるけれども、支援に回っているかとなると、音楽会に足を運んではいない。申し訳ないと思いつつ。信条から優先しなければならないところがあり、音楽会があるたびに、実はほんとうにすまなく思っている。何かことばが続かないけれども、音楽の恩恵は聴くごとに嵩を増してきている。
 コロナ収束まではまだまだかかりそうだけれども、すこしでもその先に明るみが見えるようにと祈るしかないところが何ともはや……。
20時34分更新


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210922 クラシック俱楽部を聴く 林美智子 メゾ・ソプラノ リサイタル

国際ミトロプーロス声楽コンクール2003で最高位入賞。オペラのほか、オーケストラとの共演、リサイタルなどでも活躍を続ける。自身のプロデュース公演でも注目を集める。【演奏】林美智子(メゾ・ソプラノ)石野真穂(ピアノ)【曲目】朧月夜(岡野貞一)赤とんぼ(山田耕筰)落葉松(小林秀雄)旅のこころ(加藤昌則)恋のかくれんぼ、昨日のしみ(武満徹)ほか【収録】2020年11月18日 めぐろパーシモン小ホールー番組紹介よりー

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石野真穂
桐朋学園大学音楽学部卒業。パリのシャトレー劇場でコレペティツールの研鑽を積む。帰国後コレペティツールとして活躍。二期会、新国立劇場の演奏に関わる。

 林美智子のコメント
日本の歌曲の魅力は、母がお風呂で毎日のように歌ってくれていたので、みかんの花咲く丘とか、色々な歌、そしてコーラスでも四季折々の日本の歌をたくさん習っていたので、自然に慣れ親しんだ感じでしたね。母国語ですからお客様とキャッチボールが直接的にできるので、自分が感じていることをそのまま伝えて、そしてお客様にもそのまま感じていただいただく、そんな分野ですね。
 武満徹さんの歌を好きになったきっかけというのは、もともとは谷川俊太郎さんの詩の方が私には身近にありまして、シンプルで想像力が湧く愉快な詩には心躍らされて、そしてまた武満さんは、こと歌に関しては何かの書物で、もう歌は限りなく自由でいい、その人のその人のことばで表現で自由であるべきだと書かれていたのを読んでなるほどなと思って、是非これらの歌を自分のライフワークとして歌って行きたいなと感じました。

曲目 
朧月夜
 高野辰之作詞 岡野貞一作曲
お菓子と娘 西条八十作詞 橋本国彦作曲
くちなし 高野喜久雄作詞 髙田三郎作曲
貝がらのうた 三善晃作詩曲
市の花屋 深尾須磨子作詞 髙田三郎作曲
赤とんぼ 三木露風作詞 山田耕筰作曲
落葉松 野上彰作詞 小林秀雄作曲
さびしいかしの木 やなせたかし作詞 木下牧子作曲
ねむの木の子守歌 上皇后作詞 山本正美作曲
旅のこころ 高田敏子作詞 加藤昌則作曲
夢みたものは 立原道造作詞 木下牧子作曲
以下は武満徹作曲
恋のかくれんぼ 谷川俊太郎作詞
昨日のしみ 谷川俊太郎作詞
小さな部屋で 川路明作詞
見えないこども 谷川俊太郎作詞
うたうだけ 谷川俊太郎作詞

「さびしいかしの木」 アンパンマンの作者やなせたかしの詩。山頂に立つ一本のかしの木がさみしさに慣れてしまったとつぶやく様子を歌っている。
「市の花屋」 髙田三郎はパリの庶民の生活を書いた深尾の詩に日本への愛しさを感じて「パリ旅情」をさっきょくしたが、その一曲。
「落葉松」 野上彰は昭和22年の秋に軽井沢で「落葉松」の詩を書いた。野上の死後小林はこの詩を読んで深く感動し一気に作曲したといわれている。
「旅のこころ」 詩人高田敏子は主婦の立場から平易なことばで日常を描き多くの女性から支持されていた。
「夢見たものは」 木下牧子が高校生の時に作曲。
「ねむの木の子守歌」 上皇后が高校生の時の作詩

🎵今回も「落葉松」がじわりと。落葉松、新緑の落葉松には清々しさ、黄葉の落葉松には明るさばかりを感じ取ってきただけに、この詩と曲の全く違った青色、濃紺、水色、黒と林美智子のメゾ・ソプラノに透明度が増してくる色彩感と雨に濡れそぼつ、涙に濡れそぼつ深い悲しみに打たれた。「落葉松の/小鳥の雨に/わたしの/乾いた眼が濡れる/わたしの/乾いた眼が濡れる」。落涙。
日本語の歌曲はやはり一番身近。しかし向こうの歌曲を日本語で聴いた時に、語学に通じていないにも関わらず、何か味気ない感じがすることも。語感も音楽というのはほんとうらしい。

🎧名曲アルバム。ワーグナー「ニュルンベルクのマイスタージンガー 前奏曲」。広上淳一&N響
ベネチア、サンマルコ広場にあるカフェ・ラヴェーナは1750年創業。二階の一番隅がワーグナーの定席であったとか。

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⛳あまりに性急に記事アップしようとして失敗。しかし、拙いながら自分でやっているということはそれなりにメリットがあり、いつもの手順でじきに回復。いまICレコーダー、武満の「小さな部屋で」が流れている。川路明氏の作詞。「小さな部屋で父さんが言った」「小さな部屋で母さんが言った」戦後10年という時期であるらしい。リフレインの部分だけ。


    春がきたけど
    なにもない
    夏がきたけど
    なにもない
    何もないけどあたたかい
    あたたいのは空と風
    あたたかいのは雲とひかり
    ああ、ひとのこころのあたたければ
    何もないけど
    それこそすべて

 朝に聴いたときには詞をなぞろうとまでは思わなかったが、今改めて聴いていると、なにかほんのり、あたたかく、ほほえましい。
21時37分更新

 

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210921クラシッククラブを聴く ウィーン少年合唱団

クラシック界のアイドル的存在として、長年、日本のファンを楽しませてきたウィーン少年合唱団が登場。ヨハン・シュトラウスに加え日本の歌やドイツの合唱曲などを歌う。【出演】ウィーン少年合唱団(合唱)マノロ・カニン(ピアノ・指揮)【曲目】ポルカ「雷鳴と電光」、ワルツ「美しく青きドナウ」(ヨハン・シュトラウス作曲)、「ふるさと」(岡野貞一作曲)【収録】2019年5月29日 東京芸術劇場大ホールー番組紹介よりー 

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神聖ローマ帝国から500年の歴史を持つ。ハイドン、シューベルトも少年時代に参加。拠点はアウガルテン宮殿にある全寮制の学校。オーストリア内外から集まった1014歳までの凡そ100人の少年たちがブルックナー組、ハイドン組、モーツァルト組、シューベルト組の4つに分かれ学ぶ。学習はもちろん海外ツァーも。2019年はイタリア出身のマノロ・カニンが率いるブルックナー組の少年たちが来日。30回以上の公演を行う。カニンは合唱団について、先ず歌うのは最高に楽しいと感じること、そしてプロとして常に高いレベルを目指しながら互いに尊重し合い、チームワークを築くことが大事と語っている。

曲目
喜べ正しい人たちよ:ヴィアダーナ
天は神の栄光を語り:ハイドン
詩篇第13番 主よいつまで私をお忘れになるのですか:ブラームス
3
声のためのカプリース 動物たちの対位法:バンキエーリ
リベルタンゴ:ピアソラ
サウンド・オブ・ミュージックより ひとりぼっちの羊飼い:
ねむの木の子守歌:皇后陛下御作詞 山本正美作曲
ふるさと:岡野貞一
内なる平和:ヴィルト
ポルカ 雷鳴と稲妻:ヨハン・シュトラウス
ワルツ 美しく青きドナウ:ヨハン・シュトラウス
アンコール 花は咲く:菅野よう子

 🎵「喜べ正しい人たちよ」、主を賛美することは 誠実な者にふさわしいー。「天は神の栄光を語り」では、ケントくんの日本語紹介。この後にも日本語挨拶、日本語での合唱がここまでやってくれたのという感じで出てくるのだけれども、同団は世界中で公演をしており、英語、フランス語、ドイツ語、或いはラテン語をはじめとして、行く先々の言葉で語り歌っているのかと思うが、そういった訓練もすんなりと受け入れ努力するすがたが浮かんだ。
「主よいつまで私をお忘れになるのですか」、こんな心境になることも。一応、新改訳を取り出してみると、

指揮者のために、ダビデの賛歌

1 主よ。いつまでですか。あなたは私を永久にお忘れになるのですか。いつまで御顔を私からお隠しになるのですか。
2
いつまで私は自分のたましいのうちで思い計らなければならないのでしょう。私の心には、一日中、悲しみがあります。いつまで敵が私の上に、勝ちおごるのでしょう。3 私に目を注ぎ、私に答えてください。私の神、主よ。私の目を輝かせてください。私が死の眠りにつかないように。4 また私の敵が、「おれは彼に勝った」と言わないように。私がよろめいた、と言って私の仇が喜ばないように。5 私はあなたの恵みに拠り頼みました。私の心はあたの救いを喜びます。6 私は主に歌を歌います。主が私を豊かにあしらわれたゆえ。

(太字の部分は番組では「どうか敵がお前を制圧したと「驕る」ことがないように」と訳されている。)

3声のためのカプリース」、金澤正剛の訳。マリスくんのコメント。犬、猫、カッコウ、みみずくなどの登場。明るく愉快。「リベルタンゴ」、因習からの脱却という意味がこめられているとか。「ひとりぼっちの羊飼い」はティモくんのピアノ。「ねむの木の子守歌」、デヴィットくんのコメント。「ふるさと」、1914年尋常小学唱歌集に登場。ふるさととは実は天国のことであるとか。「内なる平和」、カビールの詩をタゴールが英訳。これがちょっと考えさせられる内容の詩なのだが、

庭に入ってはいけません
花咲く庭に
友よ! 入るのはそこではありません
友よ! あなたの身体の中にこそ
花咲く庭があるのです
たくさんの蓮の花弁に座り

そこで無限の美を見つめなさい

「雷鳴と稲妻」、結局どこにいても雷鳴と稲妻は避けられないと悟る。何処に行っても逃れ場はなかったか。ユーモラス。
「美しく青きドナウ」、1867プロイセンとの戦いに疲弊した人心を慰め励ます。この歌詞に、この曲がただにニューイヤーコンサート定番の優雅なワルツではないことがわかる。TVでの字幕は井形ちづる氏の訳。この詞が何とも素晴らしいのだ。
それにしてもあの凝った装飾のベーゼンドルファーは国内にあるものか、持ち込まれたものか……

🎧名曲アルバム。グリーグ「トロルハウゲンの婚礼の日」

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⛳きょうは秋晴れ。お墓参りのついでに梁川ダムに足を延ばす。根田茂経由で稲刈りを見たり、路端の栗を拾う。農家の方が教えてくれたキノコの在り処もわかったが、山歩きに自信がなく、道路沿いからのぞき込むだけでその場を離れる。リスたちはちゃんと栗をため込んだかしらん。まだ紅葉にははやい樹間に日差しがやわらかく明るかった。
20時49分更新

 

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210920 クラシック倶楽部を聴く 清水華澄 メゾ・ソプラノ リサイタル

 盛岡、まだ暗かった4時前、星が素晴らしかった。南の空高くに見える四つの星『ペガススの四辺形』、別名『秋の四辺形』。星座盤は引っ越しのときも捨てずに持ってきたはずだが、どこかにしまい込まれたまま。それぞれが煌々と確かな自らの今の存在を知らしめている。
 写真はけさ5時半ごろの東の空。

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     ☆  ☆  ☆

5時からのクラシック倶楽部は
「未来の自分へ」と銘打たれた清水華澄の初リサイタルから。「さすらう若者の歌」「臨死船」と、人生や未来に正面から向き合った意欲的なプログラムを聴く。【出演】清水華澄(メゾ・ソプラノ)/鈴木広志(サクソフォーン)/越知晴子(ピアノ)【曲目】さすらう若者の歌(マーラー)/「エディプス王」から(ストラヴィンスキー)/臨死船(詩:谷川俊太郎 根本卓也作曲)ほか【収録】2018年6月26日 紀尾井ホール―番組紹介よりー

清水華澄(メゾ・ソプラノ)
静岡県生まれ。国立音楽大学大学院修了。イタリアボローニャ留学を経てオペラの舞あたし台を中心に精力的に活動。この度は自身初のリサイタルを行う。
越知晴子(ピアノ)
ミュンヘン国立大学の大学院を修了。ソリスト、また歌の伴奏で高い評価を受ける。
鈴木広志(サクソフォーン)
東京芸術大学で学んだのち、演奏家、作曲家、プロデューサーとして活躍。


 清水華澄のコメント
毎日が当たり前のように訪れるのは奇跡だと思い始めているんです。だんだん大人になって色々なことを経験していくうちに明日が無事に来るというのはほんとうに奇蹟なんだなと思うようになって、さらに感謝の言葉は必ず伝えるということを心がけるようにしています。音楽を心から楽しめる時間を必ず持つようにしている。どうしても仕事にしてしまうと違う感情も芽生えてしまうと思うので、オーケストラの演奏会とかに足を運んでそこで音楽を思い切り浴びて、あとそこでプレイしている皆さんに心から尊敬する気持ちを忘れないようにしています。
「臨死船」については、私と根本さんは新国立劇場の音楽スタッフさんに入ってらして、私が歌手で、根本さんがプロンプターだったり、そのときにちょろっと発音を指導してくださるときもあるんですね。で、根本さんにぜったいディキション習いたかった。ラテン語もそうなんです。そこでその話を根本さんに相談したら、じゃ僕の曲を歌ってもらえますかと仰ってくださって、根本さんが作曲家でもあるのをそこではじめて知って、彼の作品を集めたCDをいただいて、そこで聴いたら、そのときに私の気持ちと谷川さんの詩が合ったので不思議で、是非これを歌わせて欲しいとお願いしたのが始まりです。
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曲目
☆「さすらう若人の歌」グスタフ・マーラー。詩の訳は喜多尾道冬。1さすらう若者の歌2朝の野辺を歩けば3燃えるような短剣で4彼女の青い目が。
『エディプス王』より「恥と思わぬか、王子たち」ストラヴィンスキー
詞の訳は浅沼圭司 因みに浅沼氏は岩手県盛岡市生まれ
カンタータ『臨死船RINSHISEN* 谷川俊太郎 詩/根本卓也 曲

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アンコール 「うたうだけ」 谷川俊太郎 詩  武満徹 曲

 

🎵マーラーの実体験を詞に曲にしたものだけに、その真実味迫る。3の燃えるような短剣で、は劇的。抉られるような苦悩、苦悩で自らを苛む。最後に癒されるのが、これがぼだい樹の樹下。菩提樹の下でぐっすりと眠り、たぶん目覚めたときに光の中に菩提樹の花が白く降り注いでいたというのだろう。4「彼女の青い目が」が心にのこる。
「臨死船」、現代の特異なテーマを曲に。サクソフォーンが様々な状況にある人の影、声の影のまたは魂のかもしれないが、その揺らぎのような効果が。曖昧模糊とした感覚も引き連れ独特な空間に浮遊し或いは、漕ぎゆく。「手を握ると手ごたえがない。そのかわりに気持ちが手に取るようにわかる」。「死んだ後に残るものは」。体は朽ちるが魂はあると思った。「音楽を頼りに歩いてゆくしかない」と終わる。

曲目
☆グスタフ・マーラー 「さすらう若人の歌」。詩の訳は喜多尾道冬。1さすらう若者の歌2朝の野辺を歩けば3燃えるような短剣で4彼女の青い目が。訳は喜多尾道冬、よくレコード芸術で見かけた方。
ストラヴィンスキー 『エディプス王』より「恥と思わぬか、王子たち」
谷川俊太郎 詩/根本卓也 曲 カンタータ『臨死船RINSHISEN*
」アンコール 谷川俊太郎 詩  武満徹 曲「うたうだけ」

🎧名曲アルバム。モーツァルト「ピアノ協奏曲 ジュノム」。ピアノ津田裕也。円光寺&東京フィル
この協奏曲は、1777年1月ザルツブルクで作曲され、フランスの女流ピアニストであるジュノーム嬢がザルツブルクを訪れた際に、彼女に献呈されたといわれてきたため、『ジュノーム』という愛称で呼ばれている。この曲の新鮮さ、大胆さとこれまでにない規模の大きさは、彼女の影響によるものとされている。(wikipedia)

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21歳のときの作品。

⛳なぜか日曜日の午後でもあるかのような感覚が抜けなかった1日。20時17分更新

 

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きょうのことば 『主の変貌と私たち』

インマヌエル盛岡キリスト教会2021年0912()の礼拝メッセージをお伝えいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で48年目のご奉仕をしておられます。
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説教題 『主の変貌と私たち』  (國光勝美 牧師)
聖書箇所 新約聖書 マタイの福音書17章18

1 それから六日目に、イエスはペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。
2 すると、弟子たちの目の前でその御姿が変わった。顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった。
3 そして、見よ、モーセとエリヤが彼らの前に現れて、イエスと語り合っていた。
4 そこでペテロがイエスに言った。「主よ、私たちがここにいることはすばらしいことです。よろしければ、私がここに幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」
5 彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲が彼らをおおった。すると見よ、雲の中から「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け」という声がした。
6 弟子たちはこれを聞いて、ひれ伏した。そして非常に恐れた。
7 するとイエスが近づいて彼らに触れ、「起きなさい。恐れることはない」と言われた。
8 彼らが目を上げると、イエス一人のほかには、だれも見えなかった。

 

<お話し>
前回の場面を幾つか紹介しますので、ああそうだったと思い起していただきたいと思います。 

イエス様は、変貌山にはペテロ、ヤコブ、ヨハネだけを連れて行かれました。祈るために山に登られた。すると弟子たちの前で祈っている間に、イエス様の御顔のようすが変わり、衣は光のように白く輝き、そこにモーセとエリヤが現れました。イエス様を囲む彼らと何か話しておられる。その内容こそ、イエス様がエルサレムで遂げようとしておられる最期のことについてでした。これが旧約を代表するモーセとエリヤの中心テーマでした。これほど主イエス様の十字架の救いが聖書の真っ中心であることに、もう一度私たちは、ここで確認をさせていただいたことであります。

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 想像を絶する光栄に、彼らはもう目がくらんでしまったと言ってよろしいでしょう。何をどう言っていいのかわからない。ペテロはすっかり動転して、こんなにすばらしいのに、もう帰られるんですか。ここに庵を準備しますから、どうぞお留まりくださいというペテロの慌てぶりが思い起されることであります。でもそのときに、栄光の雲、これは光り輝く雲、神の臨在を象徴する雲、ちょうど出エジプト記のときに、イスラエルの民の前に後ろに現れ、そして聖所にも夜も昼も現れて導き守ってくださった神の臨在をあらわす栄光のあらわれである雲。この雲の中から、「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」というお声を聞いた。まさにこれは主イエス様の戴冠のときであったと理解することができます。私たちが、もし、イエス様のように罪一つ犯すことなく、神のみこころに従っていく人間であったならば、彼のごとく私たちは栄化の恵みに与って天に帰っていくことができる。罪なき人間であるならば、地上生涯、よくやった。さあ、ここに昇りなさいとあげられるでしょう。イエス様の栄化はそのデモンストレーションのようなものであったといえるでしょう。 またそれとともに、イエス様は、何一つ罪のない全きいけにえとしての資格を神様から頂戴しました。さあ、これであなたは世の罪を贖う神の子羊として、その使命を果たすことができるのだ。まさにこれはクライマックスのときでありましょう。

 私は、このペテロ、ヤコブ、ヨハネという人物が、このような尊いイエス様との新たな出あい、主の変貌に触れたということと、聖書の中に、それに類似したいくつかの人物がいることを心に示された一つとして、私はイザヤという人物を思い起してみました。このイザヤが何を経験したか、それはイザヤの6章にあります。これは信仰生涯を送っていればやがて、ああそうかとお分かりいただけます。ただここに皆さんと一緒に覚えたいのは、神様に尊く用いられたイザヤという預言者が、ペテロたちが経験したような新しい神経験をしたことがイザヤの6章1節に記されてございます。

 「ウジヤ王が死んだ年に、私は、高く上げられた御座についておられる主を見た。その裾は神殿に満ち」、こうあります。ウジヤ王はイザヤと血縁関係にあった、いわゆるイザヤは王族の家系であったという人もいます。たぶんそうでしょう。それはそれとして、イザヤはこのウジヤ王という偉大な存在のもとで一生懸命に主に仕えていた。そして、ウジヤ王が死んだ年に、イザヤは彼が仕えている神様の栄光に触れることができたのです。ちょうど、ペテロ、ヤコブ、ヨハネが、これから十字架にお架かりになられて主が去っていくという大きな出来事の前に、主イエス様が格別にこの3人を選んで栄光をお示しになられたように、イザヤの場合には、ウジヤ王が亡くなり、ある意味、失望、落胆するような大きな変化の時に、神様は、あたかも「イザヤよ見てごらん」と仰るかに、主を見せてくださった。そこにはまさしくイザヤが仕えている神様がご存在を現わしていた。これは受肉前の主イエス様であると理解しても差し支えないと言われております。御使いが「聖なる、聖なる、聖なる、万軍の主。その栄光は全地に満ちる」と呼び交わしていました。受肉前のほむべき三位一体の主イエス様はこのような栄光に富んでおられる。6:4「その叫ぶ者の声のために敷居の基は揺らぎ、宮は煙で満たされた」
このように栄光の雲に満たされたのです。そのとき、イザヤは言いました「ああ、私は滅んでしまう。この私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。しかも、万軍の主である王をこの目で見たのだから」

 ちょうどお弟子さんたちが変貌山で、「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」と栄光の雲の中から扱われたそのとき、ペテロたちはどんな扱いをうけたのだろうか。私はこれを思うのです。イザヤは、この栄光の主、変貌されたイエス様といってもいいでしょう、そのお方に触れたとき、新しい神経験をしました。ウジヤ王が取り去られたという悲しいできごとに直面した。しかし、そのようなところを通して、彼は新たにまことに神様の臨在を経験し、「ああ、私は滅んでしまう。この私は唇の汚れた者で、唇の汚れた民の間に住んでいる。しかも、万軍の主である王をこの目で見たのだから」とイザヤが言ったとき、セラフィムが祭壇から取った燃えさかる炭をもってイザヤの口に触れさせた。「ほらこの火があなたの唇に触れたので、あなたはきよい」。このようにイザヤはきよめてくださる神様のお扱いを受けました。
 栄光の主に出あうとは、イザヤが経験したように、「十字架の血潮によって、こんなものが神様のお救いに与った」とこの恵みを新たに経験した、これがイザヤの新しい神経験であり、またこれがペテロ、ヤコブ、ヨハネたちの経験にもなったのではないだろうかと私は思います。

 さて、こんど、マタイ14章22~32節、場面はご想像ください。5,000人の大きな奇蹟。人々の熱狂。我らが待ち望んでいるのは、この飢えた人々にふんだんにパンを与えてくださるこのお方だ。熱狂的にイエス様を救い主としてまつり上げようと迫ってきたとき、イエス様は、人々の間を通り抜けて、お弟子さんたちを一足先にガリラヤ湖の向こう岸にわたらせた。そしてイエス様は祈るためにしばらくの時をもたれる。その時大嵐がこの船に乗っていたお弟子さんたちに襲いかかってきました。お弟子さんたちが、このままだと私たちはガリラヤの海の藻屑と消えてしまう。助けてくれと大騒ぎしたときに、明け方、栄光のイエス様が、その嵐の中、湖の上を歩いていてくださった。

まさに変貌山の主のように暗闇の中に主が嵐の中で栄光のうちに弟子たちに近づいてきてくださった。そして、先ほど、ペテロは、ここに三つの庵を建てると言いましたけれども、このときもペテロらしく、「先生、もしあなたでしたら私を波の上を歩いてあなたのもとに行かせてください」と言ったのですが、ペテロは、波と湖を見て沈んでしまいます。そのときにイエス様は近づいて、ペテロの手をしっかりと握りしめて、「信仰薄きものよ、なぜ疑うのか」。ここでイエス様は、どんなことがあってもわたしに目をしっかりと向けなさい。わたしに目をしっかりと向けなさい。そのことをペテロに語られました。それを思うときにわたしはこのマタイの17章のいまの変貌山のできごとに、何か非常に似ているなと思いました。大きな神様のお扱いをいただいたペテロたち。イエス様が、恐れおののいているペテロに、「起きなさい。恐れることはない」。彼らが目をあげると、イエス一人のほかには誰も見えなかった。

 あのとき、ペテロたちはイエス様から選ばれてこのような経験をいたしました。先ほどの嵐のところを思い起しますと、イエス様に「さあ向こう岸に行きなさい」と命じられる。結果的には猛嵐に遭うという大きな試練を通りました。

 私たちの信仰生活をそれに合わせて考えてみました。イエス様はしばしば私たちに命じてこのような試みの中に置かれることがあります。好き好んでではない。信仰生活を送っていく中に、主は思わない嵐の中に私たちをお導きなさるお方です。しかしイエス様はご覧になって自ら近づいて、さあ、嵐を見るんじゃない。波を見るんじゃない。私を見るんだ。モーセを見るんじゃない、栄光のエリヤを見ていつまでもそれに浸っているんじゃない。モーセは消える。エリヤも消える。だけどペテロ、わたしを見るんだ。

 そのように思いめぐらすとき、私はパウロという人物がどうであったかに思いが及びます。彼はクリスチャンを迫害する急先鋒としてその先頭に立ち、ダマスコというところにいるクリスチャンたちを迫害するその殺しのライセンスというものを持って旅をいたします。そのときに、イエス様が大きな光をもって、サウロ、サウロ、なぜ私を迫害するのか、こういってパウロに現れ、パウロは倒れ伏します。彼はここでほんとうに主イエスさまにお会いしました。ああほんとうにこのお方こそそうなんだ。この光の中に現れなさった神様、主イエス様の栄光の姿に触れたとき、サウロはパウロと変貌いたしました。

新約聖書の第一テモテ1章にございます。
1:13私は以前には、神を冒涜する者、迫害する者、暴力をふるう者でした。しかし、信じていないときに知らないでしたことだったので、あわれみを受けました。 1:14私たちの主の恵みは、キリスト・イエスにある信仰と愛とともに満ちあふれました。 1:15「キリスト・イエスは罪人を救うために世に来られた。」ということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪人のかしらです。

 栄光の主にお会いするとき、ほんとうの自分の罪深さが、自分が滅んでしまうような者であることがわかります。そのようなとき、主イエス様のみを見上げてください。 

 1:16しかし、私はあわれみを受けました。それは、キリスト・イエスがこの上ない寛容をまず私に示し、私を、ご自分を信じて永遠のいのちを得ることになる人々の先例にするためでした。1:17どうか、世々の王、すなわち、朽ちることなく、目に見えない唯一の神に、誉れと栄光が世々限りなくありますように。アーメン。

 栄光の主にほんとうに触れるとき、私たちは変えられます。ペテロがそうであったように、パウロがそうであったように、私たち、どうぞ主イエス様によって栄光の主を心に止めさせていただこうではありませんか。

 人生の危機に直面するときがあります。個人的には、そのようなとき、「我いくれば汝らもいくべければなり」という栄光の主に私は扱われました。私たちは難局に直面したとき、嵐を見て恐れたり、人を見て恐れたり、そればかりではない、先行きの不透明さであったりと、世の中には私たちを惑わすようなものはいっぱいあります。そんなものにほんとうに囲まれている嵐の中の私たち。一人ひとりの問題課題の内容は違いますけれど、皆さん方はそれぞれにほんとうに嵐に囲まれていらっしゃるでしょう。そのときに、ただ主イエス様のみを、このお方のみを見つめること、ほかの何か嵐でなく波でなく主イエス様のみをみあげるとき、私たちは変えられるのではないでしょうか。

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 主は私たちを高い山に導かれます。主が登れと仰った。私たちの信仰生活の中で、主が導かれ、主がガリラヤの湖に漕ぎ出せと命じられることがあります。そのとき、主はその高い山でお扱いくださいます。パウロも扱われました。ペテロも扱われました。神様みんな一人ひとりを高い山に導かれます。そのとき、いいかい、わたしだけを見るんだよ。主イエス様だけを見てごらん。イエス様はそのように私たち一人ひとりを信仰生活の中でお導きくださるのではないでしょうか。

 マタイの17章、きょう変貌山のところをお開きしましたけれども、マタイの17章にございます。

7 するとイエスが近づいて彼らに触れ、「起きなさい。恐れることはない」と言われた。
8
彼らが目を上げると、イエス一人のほかには、だれも見えなかった。

イエス一人のほか誰も見えなかった。どうか、信仰生活の中で、このイエス様だけを見上げる歩みをさせていただこうではありませんか。

 

※音声データ、画像は教会からお借りしています。
⏰5時48分更新


 

 

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無題

きょうの夕焼け
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        創世記1:5
          神は光を昼と名づけ、闇を夜と名づけられた。夕があり、朝があった。第一日。

                             ☆  ☆  ☆

 ブログ更新は、これはもう書き癖なのか……。
 歌謡番組を観ることは滅多にないので、氷川きよしがどんな活躍を展開しているのかまるで知らなかった。今朝のJ-MEROに登場、彼のモチベーションの豊かさに眼を瞠った。40代に入っている。悩んでいる人の背中を押すようでありたい。前向きなことばを乗せるように心がけているという。アニソン、EDM(エレクトロニック・ダンス・ミュージック)、ポップス系など幅広くいつの間に!
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⛳22時40分更新

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210917 クラシック倶楽部を聴く LEO(今野玲央) 箏リサイタル

9歳の時に箏と出会い、箏曲家のカーティス・パターソンや沢井一恵に師事。14歳で全国小中学生箏曲コンクールでグランプリ16歳で「くまもと全国邦楽コンクール」コンクール最優秀賞・文部科学大臣賞受賞。時代やジャンルを超えて箏の魅力を発信している【演奏】LEO(今野玲央)【曲目】みだれ(八橋検校)、無伴奏バイオリン・パルティータ第2番からアルマンド(バッハ)ほか【収録】2021年2月25日ハクジュホール―番組紹介よりー

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LEO(今野玲央)のコメント
Q箏の魅力について
ほんとうに原始的な楽器でして、薪に弦を張って、「柱」と書いて「じ」と読むんですけれども、コマのようなものを立てて、ピッチを取る。ほんとうに原始的な造り、しかも素材も何百年も前から変わっていない。そんな中で弾いているうちに調弦がずれてきたり、ちょっと爪、ピックですね、ずらしただけで音色が悪くなってしまったり、楽器のコンディションも途中ずっと自分で調整しながら弾くんですね。このすべてを操っているということが、この楽器の特徴でもありますし、難しくも面白く感じているところですね。その和楽器と言うのは一つ一つの音のパワーが凄いんですね。一音入魂ということばもありますけれども、この一つ音を鳴らしただけで何かを伝える。古典の音楽なんかは音数が少なくて、音のないところにまでメッセージをこめるような曲が多くて、この音の情報量のおおさというか、その音の力強さでどんなジャンルの音楽にこの楽器がはいっても、ちゃんと意味のある表現ができるんじゃないかなと僕は考えてます。
Q
箏の魅力を多くの人に届けたい
僕の夢としては、一つは、この楽器をより普及させたいなということがやはり一番大きな目標としてありまして、昔、50年程前でしたらお箏の教室が近所にあって、色んな所のお子さんが箏に触れていた時代があったんですけど、いまはやはりそこまでポピュラーではなくなってしまった。やはり今の時代に合わせた音楽と言うのが、この楽器はすこし発展が遅れてしまったのかなと思っておりまして、ピアノとかだったらどんなジャンルにも使われる。この楽器もそれだけの力があると僕は信じている。僕の活動としてはオーケストラをはじめとして、色々な西洋楽器とのコラボだったり、ほんとうにクラシックに止まらず、色んなジャンルの中にこの楽器を持ち出して僕が演奏することで、より広くこの楽器の魅力を知ってもらって、これからのお箏の新しい表現と言うものを追求していきたいなと思っております。

 

曲目
すばるの七ツ 作品78 (吉松隆)
みだれ  (八橋検校)
無伴奏バイオリン・パルティータ 第2
 ニ短調 BWV1004からアルマンド
  (バッハ)
ドリーム (ジョン・ケージ)
  (沢井忠夫)
さくら替手五段 (半田弘)

🎵「すばるの七ツ」、これは吉松隆の作曲。吉松隆は「1981年に「朱鷺によせる哀歌」でデビュー。以後、現代のクラシック系音楽創作界(いわゆる「現代音楽」)の非音楽的な傾向に異を唱え、調性やメロディを全面的に復活させた独自かつ異端の路線を貫き、作曲活動を展開する。」とホームページにある。これには共感するところがある。型を破ろう、既成を破壊しようとの曲には意外性や、ある時には奇異な独創性、次にはどんなふうにやってくれるかと一種怖いもの見たさに通じる期待感がある。あるときには感心もし、独自性を賞賛する想いにもなることもあるけれども、その後に、ああ、あの曲をもういちど聴いてみたいという思いになることがない。振り向いてみたときに、それはそれで遠い彼方のある一時点に音の輪郭を際立たせて確かな明確な型を持って一つの存在としてある。そういう感じなのだ。しかし、そういう改革が後の作曲に影響力を持ち、なにがしかの普遍的な楽曲をもたらすということはあるのかもしれない。
 「すばるの七ツ」を聴いて、平安のドラマ背景が彷彿とし、しかしちょっと言いかねる、言ってしまってよいものかと戸惑っていたが、吉松が「平清盛」も手がけていると、実際に放映されているときには気づきもしなかったのだが、それを知り、あながち違ってはいないなと。鳥が聴こえると言いかけて、また「鳥か」、自分の想像力が乏しいのではないかと思っていたところが、これまた<鳥のシリーズ>も。自分の思うところを思うがままに言えばよい。そう思わせられた。
「みだれ」の八橋検校、彼の「六段の調べ」には音階、間の取り方をも含めて格調の高さを感じるのだけれども、この「みだれ」にも精神性の高さが感じられる。八橋検校は近代筝曲の礎を築いた江戸初期の筝曲家。
「アルマンド」、これには落涙。何度かコマを調整しながら弾いていたけれども、この演奏自体がバッハに通じると思わせられた瞬間。
「ドリーム」、20世紀アメリカの実験音楽家ジョン・ケージが1948年に書いたピアノ作品。「単旋律を弾き続けることで生まれる残響が白昼夢のような空間をつくりだす」と番組の解説にあったが、琴で演奏しているとは思えない東南アジア、或いはインドあたりの楽器だろうかとも思わせる響き。
「楽」、沢井忠夫1988年作曲。1無窮動。湧きに沸く華麗、流麗。解説のように「心の高ぶり」。2変奏曲。さざ波に追懐、にれ食み、追憶。3輪舞
「さくら替手」無心に聴くに心に染み、すでに沁みこんでいる。これもまた華麗な音の渦。
 こんな色彩、音空間を散歩していたいもの。検校の音のない音と音との間合いに流れる響きの静けさ奥ゆかしさ。

 

🎧名曲アルバム。リスト「愛の夢 第3番」。ピアノ横山幸雄
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リストとリストのピアノ。じっと見ているとリストのさまざまな曲が流れてくる。

⛳久方ぶりに朝のうちにの更新。6時37分

 

 

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210916 クラシック倶楽部を聴く REICH85 加藤訓子

パーカッションならではの表現を追求し、全てのパートを加藤訓子自身が演奏&録音。圧巻の演奏を披露する。スティーヴ・ライヒからのメッセージも必見【曲目】シックス・マリンバ・カウンターポイント、ピアノ・フェイズ[ヴィブラフォン版・放送による世界初演]、ニューヨーク・カウンターポイント、ヴァーモント・カウンターポイント(全てスティーヴ・ライヒ作曲、加藤訓子編曲)【収録】2021年2月NHK放送センター―番組紹介よりー

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スティーブン・ライヒ(作曲家)
1936
年生まれ。ミニマルミュージックの先駆者として現代音楽に多大な影響を与える。
加藤訓子(パーカッショニスト)
愛知県豊橋市出身のパーカッショニスト。時習館高等学校を経て、桐朋学園大学研究科修了後に渡欧。蘭・ロッテルダム音楽院を首席で卒業。サイトウキネンオーケストラ、アンサンブル・イクトゥスなどへ参加後、ソロ活動を開始。2011年にスティーヴ・ライヒの代表作を打楽器へ編曲したソロ作『kuniko plays reich』が話題を呼び、2013年の『カントゥス』がMPCJ音楽賞最優秀録音賞を受賞。若手プロ育成を目的にアーティストインキュベーション・プロジェクトinc.を始動させる。2018年にダンスプロジェクト“DOPE”を始動。同年に『ドラミング』を発表。ダルムシュタッド国際現代音楽祭クラニヒシュタイン賞ほか受賞歴多数
今回はライヒの85歳を記念し、その作品を加藤訓子がアレンジ。
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スティーブン・ライヒからのメッセージ
私は以前から東京を始め日本の各地で公演を行ってきました。1991年には私のアンサンブルを連れてBunkamura(東京)で、最近では2017年にも訪日し、ロンドンのコリン・カリー・グループと共演しました。何よりも日本にはすばらしいパーカショニスト加藤訓子がいます。また皆さんに直接お目にかかりたかったのですが東京は遠いですしこのような年齢でもあります。私の音楽を応援してくれていることに感謝しています。これからも楽しんでください。
加藤訓子のコメント
ピアノ・フェイズ、ずっとやってみたくて、ピアノフェイズはマリンバで弾いていいというバージョンがあるんですけど、私はどうしてもヴィブラフォンでやってみたかったので、それをずっと考えていて、ずっとこの場で作ってみれないかというのをもちろんライヒさんに相談して、ノンペダルでやるのか、それともペダおんなにルがぜんぶあったらそれは無理だろう。ただぜんぶノンペダルだと、それがいいかどうかはわからないという答えだったんですね。とにかくやっぱりデモをくれ、君が何を考えているのかそれを聞きたいからというので、私はもちろんノンペダルでやるつもりだったんですけれど、一生懸命やってお送りしたら、音がちょっとデッドすぎるということで、やっぱりペダルを使えと。ペダルを使うという事はずっと鳴りっぱなしにはできないので、こまめに切るか、やっぱりバイブってそんなに完成度が高い楽器ではないので、そのフェルトの具合をちゃんと万遍無く均等にするのはけっこう難しいんですね。オリジナルの、それをとにかく聴きなおして聴きなおして、だいじなのはやっぱりそのハーモニーというか、一つひとつのスタカートの後にこう響きが残っている、弦とその響きが余韻と言うか、それが必要だった、やっぱり言ってることが正しかったんだ、デッドの音じゃないんだというのがわかって、ペダルを踏み続けることを決意して、15分間ぐらいなんですけど、ずっと、挑戦しました。

 

曲目
全曲スティーブン・ライヒ/加藤訓子
シックス・マリンバ・カウンターポイント
ピアノ・フェイズ ヴィブラフォン版
ニューヨーク・カウンターポイント
ヴァーモント・カウンターポイント

🎵「シックス・マリンバ・カウンターポイント」、はじめは単調ともきこえるのだが、聴いていくうちに自由奔放というのではなく、たとえば解脱してからの自由とでもいったらいいのか、遮るものもなく何者にも捉われないこだわらない魂の自由が感じられた。6台のマリンバの多重録音、これが時として重厚なおとを響かせる1台とも錯覚させられるが、完璧な多重を成功させているところはすごいなと。
「ピアノ・フェイズ ヴィブラフォン版」、ずれが、逃れられない拘束感、出口のない閉塞感を思わせるのだが、そこには深刻さも悲壮感もない。その何某かのるつぼと感じられ、霊が不可思議に揺らいでくるような思いにもさせられる。
「ニューヨーク・カウンターポイント」、ニューヨークの街の映像が背景に流れている。これが映像を見ながら聴くと飄々と風の中をという感じもするのだが、後で聴きなおしたところが、クルマの車窓から風景をまなじりに流しているようでもあるのだが、見納め、聴いているうちに出て来た言葉は一つひとつを淡々と心に刻んでいくという音なのだ。これが当たっていようといまいと私はそう感じた。無意識の底に幾つもの場面を落とし込んでいく音。
「ヴァーモント・カウンターポイント」、これがまた前に演奏された曲にさらにピュアな明るさ遊び心を感じさせる。ハミングかスキップでもするような。人生肯定の響き。それこそ街中にカリヨンが一斉によき訪れを告げ知らせてでもいるような。凝った映像が演奏をより現代的な面白さにしてくれた。
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曲ともに作曲者の透徹した達観が聴こえた気が。

🎧名曲アルバム。テクラ・バダジェフスカヤ(1829~1861)「おとめの祈り」。ピアノ仲道郁代
ポーランド。22歳で作曲。

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⛳20時35分更新

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210915 クラシック倶楽部を聴く イ・ムジチの四季

初回放送日: 2020724

イ・ムジチといえば四季、四季といえばイ・ムジチ。1980年代、全世界に四季ブームを巻き起こした「イ・ムジチ合奏団」の現在の、清冽な「四季」をお送りする。―番組紹介よりー

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今回のイ・ムジチの「四季」、これは現在のコンサートマスター、マッシモ・スパダーノの感覚かと思ったが、前任者のアントニオ・アンセルミはこの公演の直前に急逝しており、コンマスを引き継いだマッシモが成り行きからいっていきなりアンセルミの音を覆すとも思われない。ただソロはマッシモ。アンセルミはドラマティックな演奏を得意としていたようだが、マッシモは古楽に通じているという。1983年までに1000万枚を売り上げたイ・ムジチ。地球全体に認知され聴かれているということか。1952年デビュー。番組予告を初めて見たときは、正直、イ・ムジチという名がセピア色を帯びて聞こえた。ところがそれは間違い。イ・ムジチの果たした役割を思いつつ耳を傾け、団員のお一方お一方、特にアンコール曲を喜びのうちに演奏くださって、その喜びがこちらにそのまま流れ込み、心が揺すぶられた。番組タイトルに「イ・ムジチの四季」とあったけれども、やはり「イ・ムジチの四季」は他の四季とは違う、そう思わせられた。

 今回の字幕は「あずさまゆみ」。この字幕で、実にドラマティックに聴くことができた。これには哲学的な意味も込められているといっていたのは誰だったか、もう云十年前に読んだ解説のこと。
 夏の楽章で、北風が挑みかかってきたところで「牧人は運命が脅かされているのを恐れて泣く」「凶暴なハエどものため疲れた手足が憩うことができない」「ああ悪いこと恐れているとおりだった」「雹がふって誇らしげな麦の穂を絶つ」……、ヴィヴァルディの曲には苦悩すらも降り注ぐ光の中にある、光の透過があると感じられる。ヴィヴァルディはカトリックの司祭でもある。「冬」の章、最後の「冬は喜びをもたらしてくれる」。あたたかくそして意味の深いことばだ。
 あまりに有名なヴィヴァルディ、しかしこのヴィヴァルディを自分がどの程度把握しているかはずいぶんと怪しい。というわけで、こちらを繋いでみた。
 アンコールはバッハの「アリア」、ヴィヴァルディの「調和の霊感 作品3第10番 第一楽章」。喜びに満ちた「調和の霊感」!

🎧名曲アルバム。清水和音のピアノでショパン「幻想即興曲」
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⛳盛岡のマリオスであった原田智子さんのコンサート、行きかねたけれども、そちこちのブログで様子を見、気にしつつ、21時41分、更新。

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210914 クラシック倶楽部を聴く 佐藤俊介 バッハ無伴奏バイオリン作品 演奏会

オランダを拠点に世界的に活躍するバイオリニスト佐藤俊介。バイオリン音楽の金字塔、バッハの無伴奏ソナタとパルティータ全曲をピリオド楽器で演奏したコンサートから。【出演】バイオリン/佐藤俊介【収録】2018年11月15日 浜離宮朝日ホール(東京都中央区)ー番組紹介よりー

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佐藤俊介さん(バロック・バイオリン)
1984
年東京生まれ。2歳からバイオリンを始める。その後家族と共にアメリカに渡り、カーティス音楽院、ジュリアード音楽院で研鑽を積む。近年ではヨーロッパにも活動の場を広げ、20186月からオランダ・バッハ協会の第6代音楽監督を務めている。モダン楽器ピリオド楽器の両方を弾きこなしコンサート活動を行っている。この演奏会では、バロック時代のオランダの製の楽器を使って演奏。

佐藤俊介さんのコメント
Q
オランダ・バッハ協会について
このオランダ・バッハ協会にもおもしろい歴史がありまして、その100年弱存在する団体なんですね。1921年にできたもので、その音楽監督になるまえの5年ほどコンサートマスターとして弾いてたんですけれども、やっぱりその団体の一人であった人が音楽監督になる、今思い返してみるとごく自然なものだったのかなと思いますね。
Q
バロック・バイオリンについて
バロック・バイオリン、ピリオド楽器、弦楽器はガット弦、羊の腸をねじって作る弦です。昔はガット弦、いまはスチールとかナイロンの弦がある。この楽器は大変古いもので1684年だと思うんですが、これもバロック・バイオリンといってもいいのでしょうか。指板がちょっと短かったり、顎あてがなかったり、弓もバロックのもの。やっぱりいい音色です。弾き始めて1年ちょっとしか経っていないんですけれども、とても大らかな木のとてもまろやかな音色であります。
Q
シャコンヌについて
まず最初に気付くのはやはりテンポですよね。やっぱり舞曲であるという事を忘れずに弾きたいという事ですね。そうなると、ひょっとしたら一般のシャコンヌに比べると速く感じられるかもしれないんですけれど、そういう、ですからシャコンヌという、バッハのシャコンヌというか、もうすこしそれを広くみて、舞曲のシャコンヌというスターティングポイント、出発点があったわけですね。それで、やっぱりテンポがアップするとそれは流れも変わりますし、あと、シャコンヌという巨大な真中、お城みたいな、巨大なものという見方ももちろんできますし、私が知ってるシャコンヌの中でも大変例外的なものもいっぱいあるとおもうんですけれども、色んな色彩が見えてくるというそういうシャコンヌになって欲しいなと思っています。

 

【曲目】
無伴奏バイオリン・ソナタ第2番イ短調から第1・第2・第4楽章(バッハ作曲)
 6曲から成る無伴奏バイオリン・ソナタとパルティータはバッハがケーテン宮廷に務  めていた30代の作品とされる。このソナタ第2番の第2楽章に置かれたフーガはポリフォニックな音楽を得意としたバッハの真骨頂。
無伴奏バイオリン・パルティータ第2番ニ短調全曲(バッハ作曲)
 パルティータは舞曲を集めた組曲を意味し、第2番ニ短調5つの曲から成っている。終曲のシャコンヌについてブラームスは「一段の譜表で全世界を描いた曲」と評した。

🎵弦の明るさ、明晰さ、中心がぶれない速い目のリズム展開、輝かしさに疎通する響きが心地よい。

🎧名曲アルバム。作詞 高野辰之「故郷」
作曲 岡野貞一 編曲 大島ミチル。

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東京混声合唱団。円光寺&東京フィル

⛳レコーダーに録った佐藤俊介を耳に書いている。今聴くと、まるでトランペットのような高らかさも感じられる。バッハの無伴奏の存在肯定の響きはすばらしい。20時07分更新

 

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210913 クラシッククラブを聴く アンサンブル・ディアーロギ 演奏会

アンサンブル・ディアーロギは「フォルテピアノ」「オーボエ」「クラリネット」「ナチュラル・ホルン」「ファゴット」の五重奏団。古典派の音楽を作曲当時の楽器の音色でおおくりする。【曲目】ピアノと管楽器のための五重奏曲変ホ長調作品16(ベートーベン作曲)ほか【収録】2019年1月23日 浜離宮朝日ホール(東京都中央区)ー番組紹介よりー

 ンサンブル・ディアーロギはピリオド楽器奏者5人で結成されたアンサンブル。古典派、ロマン派の音楽を演奏し、音楽に内在する対話、即興性、ドラマ、ユーモアなど、オペラのような様々な感情を聴衆に伝えることをモットーにしている。

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メンバーによる楽器の解説
ピエール・アントワーヌ・トレンブレイ
(ナチュラル・ホルン):ナチュラル・ホルンはバルブもピストンもないのでそう呼ばれています。仲間の楽器には備わっている穴もキーもありません。すべての音は唇の振動で作られます。
クリスティーナ・エスクラペス(フォルテピアノ):このフォルテピアノは1795年製のウィーンの製作者ワルターのコピー楽器です。今日の楽器の中で、この楽器のみパリで作られたオリジナル楽器です。
ハビエル・ザフラ(ファゴット): 19世紀初頭、音楽と楽器製作の重要都市だったドレスデンからパリに移住した製作者によるものです。
ジョセプ・ドメネク(オーボエ):現代の楽器と同じ三つのパーツから成るオーボエです。同じくドレスデンの製作者による楽器のコピーです。
ロレンツォ・コッポラ(クラリネット)18世紀末のウィーンで、ハイドン、モーツァルト、後にはベートーベンなどの作曲家が使いました。

 

曲目
ピアノ三重奏曲ニ長調 Hob.XV-16 ハイドン
ピアノと管楽器のためのピアノ五重奏曲 作品16 ベートーベン 

 🎵ディアーロギは「対話」、もっと聴衆とのコミュニケーションを取りたいと意識してつけたとか。このメンバー、古楽器奏者というとどこか時代がかったアンチーク世界にあるかと思いきや、このページを見るとみなオペラ、オペレッタの陽気な世界で存外愉快に人生を音楽を楽しんでいるという雰囲気が。
それにしてもやはりおもしろいナチュラル・ホルン。穴もキーもない。音程はよくない、ということは正確な演奏はけっこう難しいということに。しかし作曲家はこのような特性も周知の上でやはりこの楽器を組み入れているのだろう。ナチュラル・ホルンについての音域などのあれこれはこちら

ハイドンの「ピアノ三重奏曲ニ長調 Hob.XV-16」。ハイドンには端正、律義といってしまっては語弊があるかもしれないがそんな感じ、それと気品を感じるのだが、それらがすこし奥まったところで穏やかに流れるといった感じ。ハイドン58歳での作曲。ベートーベンの「ピアノと管楽器のための五重奏曲 作品16」。これぞベートーベンという情感の流れがどこに出て来るのかと待てど。ただ後の有名な数々の旋律が生まれる過渡期にあって、フォルテ・ピアノにはそんな序奏と言うか予兆が。解説では、これはモーツァルトの同じ楽器編成での曲をモデルとしたベートーベン26歳の作曲であると。

古楽器演奏は作曲者が生きた音楽の時代の空気感をやんわりと伝えてくれる。そして音程が狂いやすいことも含めてより人間的で優しい響きを醸してくれている。ロレンツォ・コッポラが、「美しい和音と旋律だけではなく、モーツァルトやハイドンが多様した演劇的な要素、時にはオペラ・ブッファのような面白おかしい仕掛けを解き明かしてお見せします」とクラリネットを置いて、とても分かりにくい、しかし親しみあるユーモアあふれる日本語を交えて愉快なパフォーマンスを三つ。ベートーベンのオペラからだったかと思うが。会場には幾たびも笑いが。これが愉快。

モダン楽器演奏を聴いてからこの古楽器演奏を聴けば、さらにその違いが分かると思われるけれどもそこまでの時間がというよりもマメさ、熱心さが今一。ただ古楽器演奏は作曲者が生きた音楽の時代の空気感をやんわりと伝えてくれる。そして音程が狂いやすいことも含めてより人間的で優しい響きを醸してくれている。コッポラがクラリネットを置いて、日本語を交えオペレッタのような愉快なパフォーマンス、これがまた愉快。

 

🎧名曲アルバム。「太湖船」中国江南地方民謡、編曲は栗山和樹
二胡ジャー・パンファン。岩村力&東京フィル

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江蘇省と浙江省にまたがるこの湖は中国五大湖の一つ。湖岸には水郷の街として栄えた蘇州や無錫がある。休日には中国全土から人々が癒しを求めてやってくる。はるか昔海だったという太湖、長い年月をかけ貴重なものを生み出した。……。毎年秋漁の解禁日には湖の恵みに感謝をし、帆を張って漁に出る。「太湖船」はこの湖周辺に伝わる民謡。
 1920年代には日本でも流行した。宮澤賢治は聞いた旋律を書き起こし、しばしばチェロで演奏していたという。
 現在では中国の伝統楽器「二胡」の練習曲として親しまれている。

⛳とにかく朝のうちにメモって、更新するまでが長い近頃。ピリオド楽器演奏と賢治の「太湖船」、やっぱりけさも聞いてよかった!
ついでにきょうの暁の雲は
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きょうの一日に感謝しつつ、20時51分 更新

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きょうのことば「十字架と変貌」

インマヌエル盛岡キリスト教会2021年0906()の礼拝メッセージをお伝えいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で48年目のご奉仕をしておられます。
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説教題 『十字架と変貌』  (國光勝美 牧師)
聖書箇所 新約聖書 マタイの福音書1624178 

24 それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。
25自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。
26 人は、たとい全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。
27 人の子は、やがて父の栄光を帯びて御使いたちとともに来ます。そしてそのときには、それぞれその行いに応じて報います。
28 まことに、あなたがたに言います。ここに立っている人たちの中には、人の子が御国とともに来るのを見るまでは、決して死を味わわない人たちがいます。」
1 それから六日目に、イエスはペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた。
2 すると、弟子たちの目の前でその御姿が変わった。顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった。
3 そして、見よ、モーセとエリヤが彼らの前に現れて、イエスと語り合っていた。
4 そこでペテロがイエスに言った。「主よ、私たちがここにいることはすばらしいことです。よろしければ、私がここに幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ。」
5 彼がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲が彼らをおおった。すると見よ、雲の中から「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け」という声がした。
6 弟子たちはこれを聞いて、ひれ伏した。そして非常に恐れた。
7 するとイエスが近づいて彼らに触れ、「起きなさい。恐れることはない」と言われた。
8 彼らが目を上げると、イエス一人のほかには、だれも見えなかった。

 

<お話し>

きょうは「十字架と変貌」と題しまして、メッセージを取り次がせていただきたく導かれております。
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 この地図は何回かにわたってご紹介したものですので、お分かりいただけるだろうと思います。そして今日は、この信仰告白の後、ヘルモン山と言われているこの変貌山。たぶんヘルモン山であろうといわれているのですけれども、ここでの出来事を主に扱わせていただきたいと願っています。

 

きょうは17章に入りますが、その前に、8月からのところですけれども、簡単にマタイ伝16章の復習をします。

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「信仰の告白」、「十字架の宣言」、「主の変貌」について扱わせていただき、そして特に心したいのは、イエス様が、ペテロの「あなたは生ける神の子キリストです」という信仰告白、これこそが教会の土台となるべきものなのですが、これを引き出したその時から、イエス様は、ご自分がエルサレムに行って、「長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを弟子たちに示し始められた」ことです。ペテロの信仰告白の後に、いよいよ十字架に向かって、主のご使命の中心部へと入っていくところを扱わせていただきました。

 このペテロの信仰告白に対して、サタンは、何とかしてイエス様の十字架を避けさせよう、十字架を選ばせまいとしました。しかし、イエス様は、そのサタンの誘惑に最後まで勝利し、ご目的を達成されたわけであります。
 そして前回は、「私たちへの諭し」として、「それからイエスは弟子たちに言われた」。「弟子たちに」を「私たちクリスチャンに」と言い換えても差し支えございません。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て自分の十字架を負って、わたしに従ってきなさい」とイエス様。これは強制ではありません。ほんとうに十字架がわかったのならば、ペテロと同じ信仰告白にアーメンと同意する者ならば、どうか、自分を捨て、自分の十字架を負ってイエス様に従って歩んでいただきたい。これを私たちの信仰生活の基準とさせていただきたいと思います。
 皆さん方もきっと、もしクリスチャン信仰を持っていなかったならば、人々からこんな扱いを受けなくてよかったと思うような、そのような経験をすることがあるでしょう。しかしイエス様は、わたしについて来たいと思うなら、自分第一の主張を捨てて、あなたの十字架を負って私に従ってくるようにと促される。どうでしょうか。アーメン。私もそうさせていただきたい、このように心から願うことであります。

 

 そしていよいよ今日の主題となりますけれども、「主の変貌」の場面。イエス様の変貌はマタイ、マルコ、ルカの三つの福音書に出ておりますけれども、きょうは対比のために、マタイとルカに焦点を合わせて主の変貌を扱わせていただきたいと思います。

マタイ171「それから6日目に、イエスはペテロとヤコブとその兄弟ヨハネだけを連れて、高い山に登られた」
これと同じ個所をルカは、このようにいっています。
ルカ928「これらのことを教えてから八日ほどして、イエスはペテロとヨハネとヤコブを連れて、祈るために山に登られた」
 
「これらのことを教えてから」というのは、ペテロの信仰告白を導き出し、そして「十字架を負って、さあわたしに従うんだよ」と言ったときのことです。
 並行的な記事がこのようにあります。
どうかこのように主が祈るために山に登られたことと、そしてイエス様が十二弟子の中から格別にペテロ、ヤコブ、ヨハネの中心となる3人を連れて山に登られたということを心に止めましょう。
 マタイ172「すると、弟子たちの目の前でその御姿が変わった。顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった。」
ルカ929「祈っておられると、その御顔の様子が変わり、その衣は白く光り輝いた。」
これが主の変貌の場面であります。

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マタイ173「そして、見よ、モーセとエリヤが彼らの前に現れて、イエスと語り合っていた。」
マタイにはこのように記してあります。ところが、ルカの方をご覧ください。
ルカ93031「そして、見よ、二人の人がイエスと語り合っていた。それはモーセとエリヤで」その次「栄光のうちに現れ、イエスがエルサレムで遂げようとしておられる最期について、話していたのであった。」
イエス様は3人のお弟子さんたちを格別に近くにお呼びになって、その目の前で突然姿変わりをなさって、その栄光のうちにモーセとエリヤが現れた。そして、イエスがエルサレム遂げようとしておられる最期について語った。
 モーセ、これは旧約の律法を代表する人物といってよろしいでしょう。またエリヤとありますけれども、私たちはイザヤとかエレミヤとか書物に書かれた預言者を近くに感じますけれども、実はエリヤこそ旧約の預言者の代表的な人物であります。そして敢えていうのなら、エリヤは、地上で私たちと同じような死を見ずして天に挙げられていった預言者であります。イエス様の変貌のときに、このエリヤが現れたというのも意義深いことであります。
 エリヤは旧約の預言者を代表する者と位置付けて差し支えございません。つまり旧約聖書の律法と預言、つまり旧約聖書というよりは聖書全体といっていいでしょう。この聖書全体が、このときにイエス様の前に現れて何について語ったか。それは、エルサレムで遂げようとしておられる十字架の最期についてであり、このことを3人のお弟子さんたちに見せてくださった。
 これほど主の変貌は大きな大きな意味のあるできごとであります。いわば、聖書全体は救い主メシヤが十字架に架かり、そして復活し、よみがえられたというこの福音がまさに主イエス様において成就しているということです。モーセとエリヤが現れたという意味を私たちはこのとき深く心に止めたいと思うのであります。

マタイ173では、「そして、見よ、モーセとエリヤが彼らの前に現れてイエスと語り合っていた。
ルカ930
の方では「ペテロと仲間たちは眠くてたまらなかったが、はっきり目が覚めると、イエスの栄光と、イエスと一緒に立っている二人の人が見えた」とこう続いてあります。
 この「眠くてたまらなかった」というのは、私は興味深い表現だなと思うのです。私たちも眠くて仕方がないことがあり、わからないわけではありませんけれども、何でこのときそうなるの、という気がします。それこそ人類史上から見ても、いちばんここぞというときに3人のお弟子さんたち眠くなってしまったというのです。おいおいしっかりしてくれよと思わず言いたくなるのですが。

 しかし、もう一つ思いますのは、十字架を目前にしたあのゲッセマネのとき、イエス様が血の汗を流して、「主よこの苦い杯を私がのまなければならないのでしょうか」という最期の祈りをささげて、お弟子さんたち、お願いだから一緒に起きていて祈ってくれとお願いするのです。一度ではない、再び、三度お願いしたのですけれども、イエス様が祈り終えて帰ると、3人のお弟子さんたちはやはり眠ってしまっていた。これだけでも起きていることはできなかったのか。皆さん、これをどう思われますか。私は結論というものは人それぞれにあって、これが正解だということはないと思うのですが、これには二つの要素があるかと思われます。
 一つはサタンの影響。十字架という大切な福音の心臓部分にあたろうとするときに、真剣にそのことを捕らえることができないように眠らせてしまう。十字架から目を逸らせてしまう。或いは、もう一つは圧倒的な主のご臨在の前に、私たちは正気でいられるはずがない。圧倒的な神様の、そしてイエス様の、たとえばゲッセマネもそうですけれども、そういう場面に私たちが出会った場合には、とてもふつうの状態ではいられない。この眠くてたまらなかったというのは、いかにもと私には思われます。 

 ですからマタイの方を見ますと、もうペテロは何をいっているのかわからなくなっている。モーセとエリヤが彼らの目の前に現れて、しかもこの二人がイエス様と語り合っている。「主よ、私たちがここにいることはすばらしいことです。よろしければ、私がここに幕屋を三つ造ります。あなたのために一つ、モーセのために一つ、エリヤのために一つ」とペテロは口走る。「どうかこの恵みの中に私たちをいつまでもおらせてください」。もうペテロはぼーっとしちゃった。わかる気がします。あまりに圧倒的な神様のご臨在の前です。
 ルカ9:33にもあります。モーセとエリヤが消えようとしたときです。
「この二人がイエスと別れようとしたとき、ペテロがイエスに言った。「先生。私たちがここにいることはすばらしいことです。幕屋を三つ造りましょう。一つはあなたのために、一つはモーセのために、一つはエリヤのために。」ペテロは自分の言っていることが分かっていなかった。」
 もう消えちゃうんですか、とんでもありません。せっかくこんなすばらしいときなのに。どうかどうかここに幕屋を建てていつまでも私たちの目の前にいてください。これがペテロの気持ちです。
ここでペテロは自分の言っていることがわかっていなかった。ペテロは愛すべき男です。わかる気はします。あまりの圧倒的な大きな出来事の前にいるのです。
 ペテロはここでイエス様をモーセとエリヤと同列に理解し扱っている。三つの幕屋には、そのようなペテロの見方が現れているともいえます。しかしイエス様はモーセとエリヤと同列に置く方では決してないのです。

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 モーセとエリヤ、それは旧約を代表する人物ですけれども、しかし、イエス様は彼らと同列に置かれるような方では決してない。ペテロがまだ話し終わらないうちに、こんどは決定的な瞬間を目の当たりにします。

マタイ17:5「彼(ペテロ)がまだ話している間に、見よ、光り輝く雲が彼らをおおった。すると見よ、雲の中から「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け」という声がした。」
 これは父なる神様が雲の中で仰ったことです。この雲というのは、たぶんイスラエルの民が雲の柱火の柱によってエジプトから導き出されたあの神様の臨在をあらわす雲。セキナの栄光と表現することもあります。そのまばゆい栄光の雲が、イエス様とモーセとエリヤを囲んでしまった。ペテロは圧倒されて何を言っているのかわからなかった。そのとき、主なる神様は、ペテロよ、と呼び掛けてはいませんけれども、ペテロよ、と言いたくなります。ペテロ、わかるか、モーセも偉大な人物だ。エリヤもまた偉大な旧約の代表的な預言者だ。だけどね、お前はこの3人のために幕屋を建てたいといったけれども、いいか、このイエスは「私の愛する子だ。」、神であるわたしの子、つまりイエスは神なのだ。「わたしはこれを喜ぶ」。
ルカ9:35の方を見ると、「すると雲の中から言う声がした。「これはわたしの選んだ子。彼の言うことを聞け。」この声がしたとき、そこに見えたのはイエスだけであった」
 これはわたしの選んだ子だ。ペテロ、わかるか。或いは、これを敢えて、ペテロというのではなく、この朝の神様の私たちへの語りかけと受け止めてもいいでしょう。私たちはイエス様をほんとうにこのようなお方として受け止めているでしょうか。


「彼の言うことを聞け」。
 
そうです。このお方イエス様は、私たちのために十字架上ですべての愛のわざをなしたあと、大牧者として一人ひとりを導いてくださるお方です。
「彼のいうことを聞け」。信仰生活の中で、聖霊様は聖書を通して語りかけてくださる。そのとき、「彼の言うことを聞け」。そして彼はこう言います。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、日々自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」(ルカ9:2)

このイエス様を、天の父なる神様が「これはわたしの愛する子。わたしはこれを喜ぶ。」と仰る意味は何でしょう。それは、イエス様のご生涯におけるまさに戴冠であります。冠を戴いたときと言ってよろしいでしょう。父なる神様のイエス様へのすばらしい評価が「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」「これはわたしの選んだ子」。

 イエス様は、乙女マリアから、人としてこの世においでくださいました。お生まれくださいました。そしてイエス様は一つも神に背くことをなさらず、全身全霊をもって神様に従っていく。罪のない人間として、完全な生涯を全うされているお方です。

 私たちは残念ながら、アダムとエバの末裔として、原罪、罪というものから逃れることができません。生まれながら神の怒りを受けなければならない存在であります。
 もし神に造られた人が一つも罪を犯さず神に喜んで従い続ける生涯を送ったなら、人間は罪の呪いからくる苦しみや悲しみを経ずして栄化され、死を見ずに天に帰っていくことができる存在であります。もし人がエデンの園でアダムとエバが罪を犯さず神によって造られたままの人として歩むなら、罪なき人間に神様が願っておられたゴールはこれだったのです。決して悲しみや苦しみや痛みを伴うところの死を通ることはない。それが神様の計画でありました。
 イエス様は罪のない者が「あなたはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」と言っていただけるその標準を示してくださったことでありますが、それとともに、このおことばがあったからこそ、イエス様は、私たちの罪の身代わりとなる十分な資格をお持ちになられた。すこしでも罪を持っているものは、罪ある者の身代わりになる資格はありません。神様からの、あなたは罪なき全き者だ、というそのお声の保証があったからこそ、このお方は、身代わりとしての尊い使命を果たすことができる。変貌山から降りてきて、御顔をかたくエルサレムへ向けて贖いの十字架への道をおとりになったのであります。

 このようにお取次ぎさせていただきながら、「あなたはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」とそのお父様からのお声をいただいた主イエス様が、こんどはあの十字架の上で「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)と私たちの罪を全部背負って贖いを成してくださった。そのお方の苦しみ、その十字架を私たちは決して忘れてはならないと思うのです。

 変貌山において、父なる神様のお喜びを得たお方だからこそ、「たとえ、あなたがたの罪が緋のように赤くても、雪のように白くなる。たとえ、紅のように赤くても、羊の毛のようになる」(イザヤ1:18)とイザヤは述べております。たとえ私たちの罪が地上においていかなるものであったとしても、この御子イエス様が、「わたしを信ずる者のために、わたしは最後の血の一滴までも注ぎだす」といって贖いを成してくださったお方を、「主よ、私はあなたを信じます。信じさせてください」、こういって主の前に自分の罪を悔い改める。これは聖霊様の感動がなければ誰もこんなことはできません。

しかしこのメッセージを通し、聖霊様のお働きを得て、主よ有難うございますといって、このお方を信じすがりゆくとき、
「子よ、あなたの罪は赦された!」(マルコ2:5)
「御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます」(第一ヨハネ17)
この恵みの福音の中に今私たちは生かされているのではないでしょうか。
 ここで、変貌山の3人のお弟子さんたちを、私たちは決して何と愚かなということはできません。


 
先に私はマルコ伝にも並行記事があると申しました。そこでマルコ伝からもすこし引用します。
マルコ92139さて、山を下りながら、イエスは弟子たちに、人の子が死人の中からよみがえる時までは、今見たことをだれにも話してはならない、と命じられた。10彼らはこのことばを胸に納め、死人の中からよみがえると言われたのはどういう意味か、互いに論じ合った。」
 
まだ分からない。弟子たちにはまだまだ分からない。そうです。イエス様が十字架を控えた最後の晩餐のときでさえ、弟子たちは、いよいよイエス様が御国の王座にお着きになるときが近いようだが、この12人のなかで誰がいちばんイエス様の側近に任じられるだろうかなどと言っています。ペテロは、ぼくを措いてほかにないだろう、でもヨハネはいつもイエス様の近くにいたからあいつ、あいつがもしかしたら、というような、思いめぐらしをしていたのです。最期の晩餐のときでさえ、ゲッセマネの園での祈りのときでさえ、お弟子さんたちはまだわかってない。イエス様のお弟子になるということがどういうことかがわかっていない。まだまだ未熟なお弟子さんたちにイエス様は変貌山のできごとをお見せになった。そして、さあいいか私が復活するまで誰にも言うんじゃないよ。このようにくさびを打ち込まれたといってよろしいでしょう。このところから十分に語りつくすことは到底できませんけれども、きょうはそこまでにさせていただきます。

 

※画像、音声データは教会からお借りしています。
⏰5時54分更新

 

 

 

 

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あれこれ

昨日の写真2枚
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きょうは

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二村さん言う「欧米型民主主義を押し付けても成功しない」になるほど。

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「小さな旅」、きょうは鈴鹿山脈。ただ言いたかったことは景観もいいけれど、山田敦子アナの声の温かさ。優しい音楽を聴いているような感じなのだ。以前から聴くたびに癒されている。

☆  ☆  ☆

というわけで、J-MERO 、慌ててTVを点けたときには、もうMay J.が笑顔で、ではまた、と手を振っていた。

☆  ☆  ☆

千住真理子著「聞いてヴァイオリンの詩」から
168頁「身障者とその家族のためのチャリティー・ディナーコンサート」でのこと。音楽企画で間に入った方からであろうか、「わからないかもしれないから」と言われたらしい。初めて重度の身障者に囲まれて足が震えたという。「夕やけこやけ」「あかとんぼ」「春の小川」「もみじ」を弾く。しかし彼らは不満げだった。「曲目を変更することにします」というのを不安げに見る介護スタッフ。彼女は目を閉じ、大ステージを踏んでいるときと変わらぬ自分自身の状態になると、心の軸を一点に集中させて、バッハの無伴奏パルティータ第二番から、きわめて荘厳な曲である〝シャコンヌ〟を弾きはじめた。すると、それまでうなっていた人、奇声を発していた人、突然泣いたり怒ったりしていた人、あるいは動きにくい身体が痛むのか始終体をくねらせていた人……、誰もが息をひそめた。目を閉じ弾き続ける彼女と、魂を研ぎ澄ませた彼らとの、真剣勝負の〝対話〟が始まったことを実感した瞬間、でもあったという。ここに私なぞのお粗末なコメントなど入り込むスキはない。

51頁からの「バッハの祈り」も、書かれてある内容の向こうに神が垣間見えているようなバッハの曲がくれる希望が感じられるのだ。

⛳22時11分更新

  

 

 

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210910 クラシック倶楽部を聴く 江口玲 アメリカに思いを寄せて

アメリカ同時多発テロから20年。NYを拠点に活動してきた江口玲が思いを込めて演奏する。【収録】2021年4月15日 東京・めぐろパーシモンホール 小ホール 【曲目】なつかしいウィーン(ゴドフスキ)、ノクターン(ホフマン)、メロディー、幻想的クラコーヴィアク(パデレフスキ)、パガニーニの主題による狂詩曲から第18変奏(ラフマニノフ/江口玲)、4羽の白鳥の踊り(チャイコフスキー/ワイルド)、小犬のワルツによるパラフレーズ(ミハウォフスキ)、ジャズボ・ブラウン・ブルース(ガーシュウィン)、ラプソディー・イン・ブルー(ガーシュウィン/江口玲)ほかー番組紹介よりー

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東京芸術大学作曲科卒業。ジュリアード音楽院ピアノ科大学院修士課程、プロフェッショナルスタディング終了。その後NYと東京を行き来しながらソリスト、室内楽奏者、伴奏者として多彩な活動を。2001911日アメリカ同時多発テロが起きた時、ニューヨークで暮らしていた。あれから20年となる2021年当時のアメリカに思いを寄せながら名曲の数々を演奏する。

江口玲のコメント
前半に入れたクラシックの小品たちというのは、実は作曲した人たちが、みんなカーネギーホールに由来のある人たち、ピアニストたちなんですよね、作曲家というよりもピアニストたち。いわゆる1890年から1900年代の初頭を、ピアノとしては、後期ロマン派からいわゆるいちばんロマンティックなこてこてのピアニストたちがいっぱいいた時代というんですかね。ゴドフスキはカーネギーホールが公式にオープンするより前にそこで非公式なリサイタルを一番最初に演奏したピアニストだったり、あとホフマンもパでレフスキーもみんなアメリカでデビューというかコンサートはカーネギーホール、ラフマニノフもそうですし、そういう由来をもって選んでみました。
 自分の中でガーシュインという作曲家を過小評価してたところがあったんですが、弾いてみたら何て美しいメロディーを次からつぎへと書く人だろうっていう、最初の「ジャズボ・ブラウン・ブルース」ってうのは、あれはポーギーとベス、オペラの、一番最初に出てくる曲なんですけれども、残念ながら上演される際にその場面カットされてしまうことが多いんですよ。でもあんな素敵な小品があそこピアノのソロなんですよね。酒場で弾いてるという、これはたぶん聞いたことある方あまりいらっしゃらないんじゃないかと思ってぜひこれ入れてみたいなと。とってもガーシュインらしい曲だなあと思って。2曲目に「ザ・マン・アイ・ラブ」を入れたんですけど、これは「ラプソディー・イン・ブルー」が時々クラシックとジャズの間に挟まっているみたいなことを時々いわれるんだけれども、そこの中に含まれているメロディーというか、イディオムというものが、やっぱりガーシュインがとっても好きだった音型というものがいっぱいあって、それの一つとしてこのメロディー、いろんなところに「ラプソディー・イン・ブルー」にも出てくるので、とてもきれいな曲だなと思っておりました。「ラプソディー・イン・ブルー」は必ず最後に入れたいなと思って。改めて久しぶりに弾いてみたという感じなんですけれど。そうですね、自分がNYで家族と一緒に過ごしている何十年かの歴史ですか、そういったものが今頭の中によみがえってきたような気がしてます。
 <アメリカ同時多発テロの記憶、今のアメリカはどう見えているか。>
あの日のことはほんとうにはっきりよくお覚えていて、というのは実は上の娘が幼稚園に登園する最初の日だった。ものすごくいい天気で、さあ今から行こうかと言ってたときに、そういうことが起こって、学校の方に確認したところが、学校の方は何にもわかってなくて、当たり前でしょ、みたいな感じ。で、時間が経つにつれて緊急車両などの数が増えてきて、残念ながらやっぱり幼稚園のご家族の方も犠牲者何人か出てしまって、大変なことがここで起こって、それを境に世界がやっぱり変わってしまった。
 それをきっかけにアメリカはものすごく国として団結してた。テロに立ち向かう。なんだけれど、今、完全に分断されてます。この20年の間、ここ数年の間なんですけども。なぜそうなってしまったのか。私がアメリカの人たちに願うこととして、一つの大きな国の人として、その隣の人、移民で成り立ってる国として隣の人を尊敬すること、そして一人ひとりアメリカ人としての誇りを持ってそれを生きていってほしいなということ。ほんとに今の状態、一部の人だと思うんですけど、アメリカ人としてとっても恥ずかしいと思うことがあります。今はそんなことを考えてますね。

【曲目】
なつかしいウィーン(ゴドフスキ)
ノクターン(ホフマン)
メロディー(パデレフスキ)
幻想的クラコーヴィアク(パデレフスキ)
前奏曲 作品3212(ラフマニノフ)
パガニーニの主題による狂詩曲から第18変奏(ラフマニノフ/江口玲)
4羽の白鳥の踊り(チャイコフスキー/ワイルド)
小犬のワルツによるパラフレーズ(ミハウォフスキ)
ジャズボ・ブラウン・ブルース(ガーシュウィン)
ザ・マン・アイ・ラブ(ガーシュウィン/グレンジャー)
ラプソディー・イン・ブルー(ガーシュウィン/江口玲)

▽アレクサンドル・ミハウォフスキ(18511938)はポーランドのピアニスト、教師。主にポーランドとロシアで活動。ショパンの弟子の薫陶を受け、ショパン演奏家として名をはせた。ショパンの作品に超絶技巧を加えた編曲を数多く行っており、「小犬のワルツによるパラフレーズ」もその一つ。

🎵江口玲さんはクラシック倶楽部の顔。どなたかとの共演で登場するたびに、どんな個性でどんな音楽傾向をお持ちの方かと思っていたけれども、きょうは共演者のいない立場でのプログラム選択と演奏。ピアノになぜロゴが入っていないのだろうと不思議に思っていたところが、例外的にピアノの内側に刻まれていた。スタインウェイ。これがホロビッツの使ったピアノであるというから驚く。

Dsc01483-3 Dsc01484  カーネギーホールに所縁のある音楽家たちというブログラムもおもしろい。また様々な編曲のバリエーションも楽しかった。最後の「ラプソディー・イン・ブルー」の編曲、格調が付加されたのも感じられ、軽みがミキサーされ、存在感となってのこった。

Dsc01518-2  911当日のもよう、直にNYにいた方のはなし、あれから20年、アメリカ軍はアフガニスタンから撤退。まさかのタリバンのアフガン征服。弱体化したアメリカ、根強い人種差別、問題化したのはまだまだ氷山の一角。けさは音楽を通してさまざまなことを考えさせられた。

 

 

🎧名曲アルバムはピアソラ「ブエノスアイレスの冬」
バンドネオン五重奏、三浦一馬キンテート

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⛳外は30度近くあるようだけれども、室内は27度。久しぶりに暑い。
けさは岩手山が雲の上からすこしだけ頂をのぞかせていた。鰯雲広がる青空。
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13時09分更新




 

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20210910 青木尚佳&ウェン・シン・ヤン デュオ・リサイタルx

若手の新星・青木尚佳、そしてバイエルン放送交響楽団で首席奏者を務め、現在は世界各地で活躍するウェン・シン・ヤン。個性際立つふたりによる二重奏の世界をお送りする。【出演】青木尚佳(バイオリン)、ウェン・シン・ヤン(チェロ)【曲目】八つの小品 作品39から(グリエール作曲)、バイオリンとチェロのための二重奏曲 作品7(コダーイ作曲) ほか【収録】2018年12月4日 武蔵野市民文化会館小ホールー番組紹介よりー

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青木尚佳(ヴァイオリン)
ロイヤルアルバートホール、ウィグモアホール、カドガンホールなどで演奏、チャールズ皇太子よりタゴール・ゴールドメダルを授与された才媛。
ウェン・シン・ヤン(チェロ)
ジュネーヴ国際に優勝し、C.デイヴィス、サヴァリッシュ、マゼールなど世界の巨匠たちと共演してきた名手。

プログラム
☆4
つの二重奏曲(8つの小品Op.39より) グリエール
無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第4番 ホ短調 Op.27-4(ヴァイオリン・ソロ)  イザイ 
ヴァイオリンとチェロのための二重奏曲 Op.7 コダーイ

青木尚佳のコメント:ウェン・シン・ヤンの魅力は、ものすごく深い音を出される方で、支えてくれるというのがいちばん大きいですね。すごいコンスタブルだと言って下さるんですけれども、私の方がすごく頼りにしている部分もありますけれども、対等に音楽を奏でてくださっているというところが一番の魅力かなあと思います。
ウェン・シン・ヤンのコメント:尚佳は傑出したバイオリン奏者です。室内楽を演奏するときには、演奏者が自由であることがとても重要です。尚佳とはそれが可能です。自由に演奏できます。それはかけがえのない喜びです。尚佳は技術があり自然な音楽性を持つ。自由さが備わっている。

 

🎵バイオリンとチェロの二重奏曲は沢山あるだろうと思っていたところ、これが意外に少ないのだという。その中からの選曲がグリエールの「二重奏曲 作品39」。第45曲がちょうどバイオリン描く細い川とチェロが描く幅広の川が地の上を交差し、くっきりと跡を記しながら歌い流れ下るような映像が想像せられる。7のスケルツォの躍動感に遠景に見えていた川が近景と迫り、あがる飛沫に砕け遊ぶ。
イザイの「無伴奏ソナタ第4番」。おもしろいのは1924に全6曲が完成するのだが、それぞれが偉大なバイオリニストに捧げられているところ。因みにこの4番はフリッツ・クライスラーに献呈されている。イザイも光と影の作曲家。この第4番の第3楽章では、これもあるか、そこにもある、おお、むこうにも、スポットライトが隠れた存在を照射し、存在をくっきりと浮かび上がらせていくのだ。さて、献呈された名だたるバイオリニストとは、と見ると、第1番はヨーゼフ・シゲティに。第2番はジャック・ティボーに。第3番はジョルジェ・エネスクに。第4番はもちろんフリッツ・クライスラーに。第5番はマチュー・クリック・ボームに。第6番はマヌエル・キロガに。すべて7~12分前後の曲。イザイが曲を献呈したがゆえにその後までも名をのこすことになったバイオリニストが何人かはいるだろうという側面があるかないかを知るには、その演奏を聴いてみるほかはないのだが。ここで思うのはイザイのために献呈された作品はあるのだろうか。デュメイ、カプソン、パパヴラミといった大物たち。エリザベート音楽院やエリザベート国際コンクールから排出された人々による作品があるようだ。こうして辿るときりもないのでこの辺で。
コダーイ「二重奏曲 作品7」。コダーイは民俗音楽の研究者。どこを取っても聴くたびに新鮮。影響の大きい曲はたとえ繊細な旋律にさえも、その内にもどこか骨太な感じが聴こえるのだ。このお二人の「二重奏曲 作品7」は絶品。民俗音楽的な響きを醸しながら異次元の音を探りだし、にれ食んでいるかに始まり民俗色を土台に、そこを一つ超えた響きをテクニックを駆使しながら展開させていく。言語が音楽をダメにしたと誰かが言っていたが、このところのすばらしさを言語化しかねて焦りを覚えている自分がある。そんなときは「素晴らしかった」というこの一言に集約する。

🎧名曲アルバム。ヴュータン「バイオリン協奏曲第4番」

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バイオリン米元響子、大井剛史&東京フィル。7歳で演奏会を開く。ブリュッセル音楽院で教鞭を執り、イザイらを輩出。

⛳ちょうど今千住真理子著「聞いて、ヴァイオリンの詩」を読んでいたところだけれども、この本なかなかすばらしい。イザイについてのページ、届かぬ想い、叶わぬ願い、というものは切ない。彼女はイザイを弾くとき、いつもそんな切ない想いにとらわれるという。「どうやってその想いを伝えようかと、いろいろな工夫をこらしさまざまな言い方をしたり説明をしたりする。あるときは強く叫び願い、あるときは独り言を言い、またあるときには深く思い悩む。そんなイザイの人間くさい姿が浮き彫りにされているのが、彼が晩年に書いた「バイオリンのための無伴奏ソナタ」(全6曲)である」と。イザイはある日、名ヴァイオリニストシゲッティ一の演奏する「バッハの無伴奏曲」を聴いて大変感銘を受け、一晩で6曲のソナタのスケッチを一気に書き上げたという。他にもバッハについて、ボランティアについて、感動的な内容がいっぱい!ちょうど閉塞感に行き詰まっていた今、この本にバッタリ出合った。それも古書店で。
20時24分更新

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210907 ,210908 クラシッククラブを聴く 

20210907 クァルテット・エクセルシオ ベートーベンを奏でる

桐朋学園在学中に1994年結成。常設の弦楽四重奏団として演奏活動を全国で展開。「学生や地域のためのアウトリーチ」「現代曲の紹介」「定期演奏会の開催」の3つを活動の中心に据える。 1994年結成。「学生や地域のためのアウトリーチ」「現代曲の紹介」「定期演奏会の開催」の3つを活動の中心に据える。【演奏】クァルテット・エクセルシオ 西野ゆか(第1バイオリン)北見春菜(第2バイオリン)吉田有紀子(ビオラ)大友肇(チェロ)【曲目】1.弦楽四重奏曲 ラズモフスキー第1番 2.弦楽四重奏曲 作品130から (以上、ベートーベン)【収録】2021年1月15日めぐろパーシモン 大ホールー番組紹介よりー

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クァルテット・エクセルシオ
第一バイオリン 西野ゆか
第二バイオリン 北見春菜
ビオラ   吉田有紀子
チェロ   大友 肇

コメント
西野ゆか
:<長年にわたりベートーベンを演奏してきて>
最初の頃は、こうやって練習してきたものを温めたものをコンサートでみんなに聞いてもらうという意識が強かったと思うんですけど、これだけ何度も弾いてまた今後も弾くチャンスがあることが、自分たちの中にあって、あのときはこんな考えでこんなふうに演奏してきたけど、今はまた違ったり、未来もまた新しいアイデアが生まれると思うし、また違った意味での楽しみが今はできていると思います。
吉田有紀子:<ベートーベンの弦楽四重奏曲の魅力>
もうとにかく作品がすばらしいというところが第一にありますし、ハーモニーの美しさというのが神がかったような感じがあるので、もう特別な存在ですね。
大友 肇
ベートーベンって、たしかにメロディーとかメロディーラインあるんですけれども、役割がメロディーと伴奏というそういう分け方じゃない。ほんとうにもう4人が音楽の主導を持っている。そういう存在が絡み合って何かもう一つの世界を作るという、そういうところが最大の魅力じゃないかなと思います。
北見春菜:<ラズモフスキー第一番 について>
初期の作品6曲と比べて、壮大なスケールというか演奏時間も長いですし、技術的にもけっこう演奏するのが難しい作品ではあるんですけれども、特に2楽章とかもすごくリズミックですし、強弱のコントラストもすごくあったり、たぶん聴いていても面白いと思うんですけど、視覚的に見ていてもすごく面白いのでがないかなと思います。4楽章は4楽章ですごく明るくて軽快な雰囲気なんですけれども、今けっこう世の中は暗いニュースが多いんですけれども、この曲を聴いていただいたらみなさんハッピーな気持ちになっていただけるんじゃないかなと思います。

曲目
弦楽四重奏曲 作品59「ラズモフスキー」第一番 ベートーベン
 ベートーベンはウィーン駐在ロシア大使ラズモフスキー伯爵の依頼を受けて3曲の弦楽四重奏曲を作曲した。ベートーベン中期の代表作に数えられ、初期の弦楽四重奏曲とは一線を画する独創性と豊かな楽想を持つ。
弦楽四重奏曲 作品130から 第5楽章      ベートーベン
 1825年に出版されたベートーベン後期の弦楽四重奏曲。全体は6つの楽章からなる。美しい旋律を持つ第5楽章「カヴァティーナ」は、作曲者自身もその出来栄えに満足したといわれる。

🎵今回の曲は暗闇を超えて光にといった根底の苦悩から発しているのではないなと。ラズモフスキー、2楽章で何かドラマがはじまりそうな気配も感じさせるけれどもそこには平明な幸せな気分も感じられる。3楽章は穏やかな空気に穏やかな会話が美しく流れ時としてさざめくような哄笑が聴こえる。このような曲調というのは自らが安定、充実しているときに浮かぶものなのかもしれない。「作品130 第5楽章」、夢うつつに心地よく流れているような。コメントで吉田さんが「神がかったような」と仰っていたが、質問内容を見落としたのだけれども、この第5楽章について仰ったものかと。

ところで、ラズモフスキーってどんな人? はこちら。

🎧名曲アルバム。サラサーテ「マラゲーニャ」。バイオリンはアナスタシア・チェボタリョーワ、ピアノ伊賀あゆみ。
スペインのコスタ・デル・ソルの中心都市マラガ。ピカソも生まれた街。マラガに伝わる民謡のことをマラゲーニャという。3拍子のリズムと切ないメロディー。19世紀の大バイオリニストサラサーテはマラゲーニャの響きに心を奪われた。
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     ☆ ☆  ☆

210908 エール弦楽四重奏団 躍動のアンサンブル
メンバー4人が国内外の著名なコンクールに上位入賞歴をもち、それぞれがソロ活動も行う。2011年高校生の時に結成され、現在最も期待を集める若手アンサンブルの一つ【演奏】山根一仁(バイオリン)毛利文香(バイオリン)田原綾子(ビオラ)上野通明(チェロ)【曲目】弦楽四重奏曲D.810「死と乙女」(シューベルト)、弦楽四重奏曲 作品10から(ドビュッシー)【収録】2021年2月19日 紀尾井ホール(東京)―番組紹介よりー

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メンバー4人が内外の著名なコンクールで上位入賞歴をもち、それぞれソロ活動も行う。2011年高校生の時に結成された、現在最も期待を集める若手アンサンブルの一つ。 メンバー4人が国内外の著名なコンクールに上位入賞歴をもち、それぞれがソロ活動も行う。2011年高校生の時に結成され、現在最も期待を集める若手アンサンブルの一つ【演奏】山根一仁(バイオリン)毛利文香(バイオリン)田原綾子(ビオラ)上野通明(チェロ)【曲目】弦楽四重奏曲D.810「死と乙女」(シューベルト)、弦楽四重奏曲 作品10から(ドビュッシー)【収録】2021年2月19日 紀尾井ホール(東京)ー番組紹介よりー

 

エール弦楽四重奏団は、高校時代に桐朋学園で出会った4人が2011年に結成。エールはフランス語で「翼」を表し、大きく羽ばたいていけるようにという願いをもとに名付けられた。ふだんは、それぞれがソリストとして海外を拠点に活動している。不定期に集まって演奏している。2021年で結成10周年を迎えた。
バイオリン 山根一仁
バイオリン 毛利文香
ビオラ   田原綾子
チェロ   上野道明

Q4人にとってエール弦楽四重奏団とは
山根一仁:久しぶりに今回このメンバーで弾いてるんですけど、リハーサルのときとかもやっぱり室内楽っていいなと思う瞬間がたくさんあったし、音楽家としても友達としてもすごく尊敬できて、楽しい仲間なので、そういった仲間と室内楽ができる自分、それが幸せでした。
田原綾子:よく話すのは、コノカルテットはエール弦楽四重奏団という名前はついているけれども感覚的にはファミリーみたいだよねとよく言ってます。
毛利文香:カルテットとして、常設のカルテットみたいにすごく頻繁に一緒に弾いているというわけではなくして、やっぱりそれぞれの勉強、ソロだったり別の室内楽やったりとか、そういうのをしながらたまに集まってカルテットを弾く感じなので、ちょうどいい頻度で演奏のために集まれてるのかなと、私自身はそういう感じがしてます。
上野道明:みんなそれぞれ違うところにいて違う場所で違う先生について、違う音楽のしゃべり方などを身につけてるから、久しぶりに集まったときは正直同じ音楽を作るのに楽ではない。みんなけっこう別の感じだから。だけどそんな中でお互いその違いを楽しみながらというか、その違いに影響を受けて刺激し合いながら作れるのがすごいいいと思います。

今回みんながそろったのは3年ぶりで、集まると昨日も会ったみたいなテンションでまた合わせの日々が始まるという感じなそうです。

 

曲目
弦楽四重奏曲ニ短調「死と乙女」D.810  シューベルト
 シューベルト自身が作曲した歌曲「死と乙女」の旋律を第2楽章の主題に用いていることから同じ名前で呼ばれている。当時シューベルトは病に侵されており、死を感じていた心境を表現したとも言われている。
弦楽四重奏曲ト短調 作品10 第14楽章 ドビュッシー
 当時は否定的な意見が多かったが、作曲家デュカスは自由ながらも明確な構成と大胆な和声を絶賛した。己の独立性を確立した第一歩となる。

ここからはネットからの引用です。
ドビュッシーは古い教会旋法などを活用することで、今までの誰もが気づかなかった繊細で茫漠とした響きを音楽の中に導入したのです。
当然の事ながらそれらの響きは当時の聴衆にとっては「不協和音」の一種として受け取られたはずです。
ですから、この作品が発表されたときの聴衆の反応は極めて冷淡だったと伝えられています。
しかし、多くが冷淡な態度を取る中で、この作品に新しい時代の到来を見いだした人もいました。「魔法使いの弟子」で有名なポール・デュカスもそんな一人で、彼は「ハーモニー自体も非常に大胆であるがいささかも耳障りではない。こうした不協和音は不快どころか全体の複雑な流れの中では協和音よりもかえって調和しているほどだ。」
「こうした不協和音は不快どころか全体の複雑な流れの中では協和音よりもかえって調和しているほどだ。」という言葉は、この作品の本質をもっとも見事に言い当てています。

🎵「死と乙女」、急こう配をすべり下りるようなところでの小気味よさ。シューベルトは死を見はるかしながら、出来上がっていく楽曲にはほくそ笑み、こうだ、これでいい!と芸術的な満足にも浸っていたのでは。今回結成10周年のエール。3年ぶりに整合性を模索しての演奏は鮮烈。

 

🎧
名曲アルバムは、アーノルド「アーノルドの金管五重奏」
演奏はトランペット長谷川智之、安藤友樹。ホルン高橋臣宣。トロンボーン五箇正明。 チューバ大塚哲也。
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ロンドンのアトルバラに暮らす。80本を超える映画音楽、多くの管弦楽、室内楽など作曲。映画「戦場に架ける橋」でアカデミー作曲賞


⛳2日分まとめて、前に書いたものにちょっと付け足し、写真を付け足して更新17時13分。ただに自己満足のための更新。



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210906 クラシッククラブを聴く エルデーディ弦楽四重奏団

東京芸術大学出身者によって1989年に結成された弦楽四重奏団。ロンドンでアマデウス弦楽四重奏団のメンバーなどに師事。結成30年の円熟の演奏をご紹介します。 2020年に結成30年を迎えたエルデーディ弦楽四重奏団。円熟のアンサンブルをご紹介します。【出演】エルデーディ弦楽四重奏団 蒲生克郷(バイオリン) 花崎淳生(バイオリン) 桐山建志(ビオラ) 花崎薫(チェロ)【曲目】1.弦楽四重奏曲 第3番 イ短調 作品33(ドホナーニ作曲) 2.弦楽四重奏曲 へ短調 作品95「厳粛」(ベートーベン作曲)【収録】2020年2月2日 東京・第一生命ホールで収録

コメント
蒲生克郷
(がもうかつさと)30年ちょっと前に最初の演奏会をやったのが初めなんですけれども、小さな喫茶店で演奏会をやらせていただいて、その時にハイドンの作品76の4の「日の出」を演奏してきたんですね。それはエルデーディ伯爵に献呈されたという事がありまして、で、そこからエルデーディ弦楽四重奏団と名前をつけるときにいただいたという形ですね。
花崎淳生(はなざきあつみ):以前ハンガリーの作曲家を集めたえんそうかいのときにドホナーニを取り上げたことがあって、その時をたぶんきょうもドホナーニのカルテットを聴いたことがあるという人はいないような感じなんですけど、でも私たちがそのドホナーニに取組んだ手ごたえというのがおもしろくて充実してて、これはもっと人にも聴いてもらいたいなと言う思いはもっていたので。
桐山建志(きりやまたけし):きょうのお客さんも含めてドホナーニがよかったと言ってくださるお客様はすごく多いので、他の演奏会でも、たとえばよく知られた曲と知られてない曲と並べたときに、初めて聴いたけどその曲がよかったと言ってくださる方というのはすごく多いですね。
花崎薫(はなざきかおる):今までもあまり演奏されない曲に取組んだことが幾つかありまして、前回の時はイベールのカルテットをやってます。それも素晴らしい曲で、あとはイタリアのピテッツィの作品もやったことあるんですけども、それもほんとうにすばらしいんですけども長くて、だからあまり聴いたことがなかったんですよね。そういったなかなか演奏される機会がない少ない曲を取り上げていきたいのもあります。

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「弦楽四重奏曲 第3番 イ短調 Op.33」ドホナーニ
「弦楽四重奏曲 ヘ短調 Op.95「厳粛」」ベートーヴェン

🎵知らない作曲家の知らない曲を取り上げて演奏してくれる四重奏団。まだ観客の反応も分からない曲を演奏するのには思い切った決断も要るものかと思う。敢えてそれに挑戦する気構えを持ち続けての30年。手掛けてきたそういった系列のそれぞれその時々に対する観客の反応がどうであったかも聴いてみたい気がした。それはこの楽団の財産ともなっているのかなと。
 ドホナーニの「第3番」、はじめの旋律を聴かせられて「誰の曲?」と問われたなら、筆者は「ブラームスでしょう」と答えているかも。それがブラームスの作曲技術に学んで1926年に作曲されている。1926、日本では大正15年、昭和元年というとき。49歳での作曲。ドホナーニを「結局新しいものは何も生み出せなかった」と言う方もいるようだけれども、「おもしろくて、充実していて」と花崎さんが仰る通りであるかと。しめやかさを感じさせるところも。第2楽章をおもしろく聴いた。
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によれば、「ドホナーニは自作自演よりも、古典的なレパートリー、とりわけモーツァルトベートーヴェンシューマンを得意としたピアニスト。いくつかの録音は現在CDにも復刻されている。ピアニストとしては、正確無比の演奏技巧と、独自の解釈によって知られ、近年イギリスや日本で復刻が行われている。」
「厳粛」、人生のドラマを吟味しながら石橋をたたいて歩を進めていくという感じが。

🎧名曲アルバムは清水和音のピアノでショパン「幻想即興曲」

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⛳きょうはもう更新しかねるかと思い、また明日にしようかと思い、またすこし眠いけれども何とかと思い直し。パラリンピックも終わって、秋の気配がどっと。21:45分更新。

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きょうのことば 「十字架を負う者」 

インマヌエル盛岡キリスト教会2021年08月29()の礼拝メッセージをお伝えいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で48年目のご奉仕をしておられます。
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説教題 『十字架を負う者』  (國光勝美 牧師)
聖書箇所 新約聖書 マタイの福音書161328 

13 さて、ピリポ・カイザリアの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに「人々は人の子をだれだと言っていますか」とお尋ねになった。
14 彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人も、エリヤだと言う人たちもいます。またほかの人たちはエレミヤだとか、預言者の一人だとか言っています」
15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」
16 シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」
17 すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。
18 そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれには打ち勝つことはできません。
19 わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます。あなたが地上でつなぐことは天においてもつながれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれます。」
20 そのときイエスは弟子たちに、ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならない、と命じられた。
21 そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた。
22 すると、ペテロはイエスをわきにお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。」
23 しかし、イエスは振り向いてペテロに言われた。「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」
24 それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。
25自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。
26 人は、たとい全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。
27 人の子は、やがて父の栄光を帯びて御使いたちとともに来ます。そしてそのときには、それぞれその行いに応じて報います。
28 まことに、あなたがたに言います。ここに立っている人たちの中には、人の子が御国とともに来るのを見るまでは、決して死を味わわない人たちがいます。」

 

<お話し>
「十字架を負う者」という題を与えられております。みことばをご一緒させていただきたいと願っています。
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 この地図はもう皆さん方すぐに思い起こされるだろうと思います。ガリラヤ湖の下の方にヨルダン川が流れ下って死海に注いでいます。その死海の西の方にエルサレム、いわゆるユダヤの首都があるわけでありますが、イエス様は、主にガリラヤ湖周辺、カペナウムとかこの辺りを中心に伝道生涯を送られました。そして折々に必要があるときにエルサレムの方、いわゆる首都の方へと出向いておられました。

 イエス様の伝道生涯のご目的は、人々の罪を贖う神の子羊として十字架にお架かりになること、贖罪というその使命を果たすことでありました。この目的のために、主はピリポ・カイザリヤに来られた。そしていよいよその時が近づいていました。

 果たして自分の周りにいるお弟子さんたちは、わたしのことをどのように理解をしているのだろうか。いわば今テストをするためにイエス様はこのガリラヤから北の方、ピリポ・カイザリヤと呼ばれるこの地方に隠遁、隠居と記してある注解書もありますけれども、隠居というと日本語ではすこし意味合いが異なると思われますので、隠遁といったらいいでしょうか。今までの活動をチェンジして、お弟子さんたちを集中的にお扱いになるときを主は願っておられました。そしていよいよこのピリポ・カイザリヤというところにやってまいりましたとき、これはもう何回も扱わせていただいたところですが、イエス様が、「人々は人の子(わたし)をだれだと言っていますか」とお尋ねになる。弟子たちは各々、バプテスマのヨハネだと、エリヤだと、エレミヤだと、預言者の一人だと言っていると答えたところが、「あなたがたは、わたしをだれと言いますか」とイエス様がいのちを賭けるような大きな問いかけをしたところ、シモン・ペテロが「あなたは生ける神の子キリストです」と答えた。今それを扱っている最中であります。この大きなことをなさって一区切り。

 いよいよイエス様のご生涯のまた一つの大きな大きな区切り、それはヘルモン山で主が姿変りをなさったことです。イエス様が変貌をされた山という意味で私たちは変貌山と呼んでおります。夏でも頂にはなお雪が残っております。イエス様はこのヘルモン山にお弟子さんたちのうち主だった3人のお弟子さんを連れて行かれ、いったいご自分がどういう者であるのかをお示しになった。いよいよの十字架を前にし、これからエルサレムに行って大切な使命を果たされる前のほんとうのターニングポイントといったらいいでしょうか。

 その時、「すると、弟子たちの目の前でその御姿が変わった。顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった」(マタイ17:2)。イエス様の御姿がお弟子さんたちの目の前で、世の布さらしさえも、これほどには白くできないほどの姿変わりをされた。つまり、罪を犯さないまことの神に従い続けた人間の姿は本来はこういうものであることをデモンストレートしてくださった。そのような変貌山での出来事の意味、それはまた次の機会に扱わせていただきますが、きょうはその直前の信仰告白の場面、これを中心にもうひとたび見てまいりましょう。
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マタイ16章13~20節は「信仰の告白」(confession―告白)です。使徒の代表格ペテロの「あなたは生ける神の子キリストです」という信仰告白です。
そしてまた、マタイの16章21~28節は「十字架の宣言」(crucifixion―磔殺)です。この時から主は十字架を初めてお弟子さんたちにはっきりと明言をされます。人の子は十字架につけられる。そのときペテロは「主よ、とんでもないことです」と言ってしまうのですが。
そしてその後、マタイ17章1~8節、主の変貌」(crowned―戴冠)です。「御姿が変わった。顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった。」 

 以上が前回のお話しでした。ズームというこの通常ならざる時期を通っております私たちです。この機会にもう一度「わたしの教会を建てる」とイエス様が仰る教会とはいったい何なのか。これに焦点を当てて語らせていただきました。

 教会とはキリストが基を据えた信仰者の集まりである。個々の教会においては神の言葉が正しく説き明かされ、聖礼典が正しく執行され、そして神を礼拝し、信仰者が互いに交わりを持ち、キリストの救いが宣証されていく。そして個々の教会というものは聖なる一つの使徒的な公同教会、つまり、「あなたは生ける神の子キリストです」と告白する仲間たちと同じ幹に連なっている者であるということ。これを心に止めさせていただきました。

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さて、今日のメインでありますけれども、「十字架の宣言」(crucifixion―磔殺)。

マタイ伝16章21節に「そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた」とあります。これまで漠然としていたものが一つの核となって「その時から」と輪郭を帯びるというほんとうに大きな意味のあるところを今私たちは学んでいるところであります。
 するとどうでしょうか。つい先ほどはペテロが「あなたは生ける神の子キリストです」と答え、それに対してイエス様が「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。」とペテロの100点満点の答えに大喜びされ、ならばとはっきりとこれからの十字架を示されたところに、ペテロがイエス様をわきにお連れしていさめ始めたというのです。ちょっとちょっとイエス様、そんなこと言うもんじゃありませんよ。とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。ペテロにはまだ十字架がよく理解できていなかった。
 そのとき23節でイエス様が振り向いてペテロに言われたことは「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。ペテロはどんな思いでこのイエス様のことばを聞いたでしょうか。ペテロは「下がれサタン」と言われたのです。「あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」。ペテロは22節にあるように「主よとんでもないことです、十字架なんて」、つまりペテロは、イエス様、あなたが神の子メシアのキリストであるとさっき私は言ったじゃないですか。「あなたは生ける神の子キリストです」。あなたは十字架以外にそのメシアとしての道があるはずでしょ。だから十字架以外の道でメシアであることをあなたは証しなければならないのです。そうイエス様を叱りとがめた。イエス様が地上に来られたご目的からすれば、これはそれこそとんでもないことですけれども、でも、これが偽らざるペテロの気持ちでした。
 これもサタンの狡猾で執拗な誘惑であり、イエス様の十字架というものをはさんでのすさまじい綱引きです。これがあったのだということを確認いたしましょう。

 最初に荒野の誘惑というのがありました。イエス様がいよいよ公の伝道生涯に入ろうとしたときに悪魔がやってきて、イエス様を荒野に導いていった。これからあなたがほんとうに神の子として進もうとしているなら、ほら人々は飢えているじゃないか。人々のためにこの石をパンに変える大きな奇跡をやってごらん。人々はあなたを、我らが待ち望んでいたメシアだといって受け入れるでしょう。しかしイエス様は敢然として私は人々にパンを与える者じゃない。そのために来たんじゃない。人々の罪を贖う神の子羊、贖罪のために生まれてきた、十字架につくために生まれてきたとサタンの誘惑に立ち向かう。もっと確認したいところはありますけれども。
 人々が願っている飢えからの解放、つまり豊かな糧を与えてくれるもの、人々が待ち望んでいるのは、つまり世の中が待ち望んでいるメシアというのは、人の心の罪の問題などは関係ない。人々がほんとうに求めているのは、繁栄、それです。
 イエス様がなさった5000人の施食と呼ばれるあの大きな奇蹟があります。人々はイエス様のお話しを聞こうとして集まってきました。皆が空腹になったとき、少年が一つのお弁当を持ってきていた。イエス様はこの少年のお弁当を、これを人々にお腹いっぱい食べさせなさいと奇蹟の力で増やし、大人の男だけで5000人、当時は女子供を数えなかったので実際には1万人をはるかに超える人たちに、お腹いっぱいの食物を与えられました。弟子たち、その人々の興奮たるや! 我らが待ち望んでいたメシヤはこの人だ。人々は熱狂的にイエス様を王にしようとやってきました。しかしイエス様は、違う、私はそのためのメシアではないといって、人々のところから身を隠す。これはお判りでしょう。

荒野での試練のように、悪魔は何とかイエス様を十字架に架からせまいとします。ほらあなたは十字架なんか必要ないんだよ、パンをやれば、あなたはメシアになるし、人々はそれこそを待ち望んでいるんだ。悪魔はイエス様の目的から何とか十字架を外させようとつまずかせようとするのです。イエス様はこのサタンに対して、「下がれサタンあなたはわたしをつまずかせようとするものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」と。ペテロを通して語ったサタンに向かって、イエス様は「サタン!」と仰ったのです。

また、十字架に架けられる前日にイエス様はゲッセマネの園で血の汗を流しながら祈られました。

マタイ26:39「わが父よ、できることなら、この杯を私から過ぎ去らせてください。しかし、わたしが望むようにではなく、あなたが望まれるままに、なさってください」。

イエス様のこの杯が何を意味するのか。それは父なる神様が最も嫌悪しておられる罪を、全人類の罪を背負って、イエス様ご自身がその罪そのものとなって、人々の代わりに罪の裁きを受けなければならない。罪そのものとなり愛する神様から捨てられるという経験を、その十字架上でしなければならない、それがこの杯です。
 サタンは、この苦い杯を、この十字架を何とか避けさせようとして、ここにも最後の攻撃をかけてまいります。血の汗を流して祈られるイエス様に、み使いはほんとうに現れて、イエス様の祈りに力を与えられます。サタンは十字架の成就が自分の敗北だということを知っておりますがゆえに、これを妨害する。

そして最後、イエス様が十字架にお架かりになられたとき、一緒に二人の強盗が、一人は右に、一人は左につけられました。一人の強盗が見ていた多くの人々と同じようにイエス様をののしり悪態をつきます。おまえがもし神の子だったら十字架から降りられるじゃないか。ほんとうに神の子だったらそこから降りてみろ。そして降りて俺たちを救ってみろ。

最後までこの強盗のことばを通してサタンは十字架を避けさせようとイエス様を誘惑し続けました。これほどに、十字架をないがしろにしようとするサタンの企みは執拗です。

マタイ16章23節「しかし、イエスは振り向いてペテロに言った。「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている」

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どうか、十字架を避ける、十字架を避けたい、主と共に十字架を負うことなどまっぴらだ、これは、サタンの間断なき誘惑です。ですからイエス様は、私たちへの諭しを仰いました。

マタイ16章24節「それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」。
 「だれでもわたしについて来たいと思うなら」、これは、強制ではありません。私たちの心の在り方。聖霊様は私たちに神の愛をほんとうに示してくださいますけれども、それを示されたあと、それを知った私たちに、「さあ私について来たいと思うなら」、これはおきてでもない。律法でもない。イエス様は仰るのです。「ほんとうに十字架の意味がわかっているね、あなたがたは。ならばこのキリストに従う道を歩みたいと思うのなら」。

どうでしょうか。イエス様は強制することもできるはずのお方です。ですけれども、決してそれを望んではおられない。十字架の愛をくまなく私たちにお示しになられたあと、クリスチャンたち、弟子たちに、「さあわかったね、十字架の意味がわかったね。だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て」、この「自分を捨て」というのは、自分が自分でなくなってしまうということではない。自分第一とする生き方、自分の願望を第一とする生き方、そうではなく、いつでも私第一ではなく、イエス様あなた第一の生き方にということです。そして「自分の十字架を負って」、これは、よくクリスチャンどうしで、ペテロの在り方を見るとおもしろいんですけれども、ほかの人と比べてあの人はこうだ、この人はこうだ。そんなことは問題ではない。イエス様は、「あなたの十字架があるだろう、そう、人がどんなに華々しく、ひとがどんなに、でもそれと比較するんじゃない。あなたはあなたの十字架、それが神様が与えてくださる十字架です。自分の十字架を負ってわたしに従って来なさい」。先だって歩まれる主に従って歩むということです。「わたしに従ってきなさい」。

世の中の暴君はしもべたちに行けーと命じて自分はふんぞり返っているかもしれません。イエス様は「わたしに従って来なさい」と仰る。十字架のことがよく分かった私たち、どうか、イエス様の諭しを心にとめさせていただきましょう。

「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従ってきなさい」

いまちょうどパラリンピックが行われております。TVを通じてでも観戦する機会が与えられておりますが、彼らがどんなに大きな十字架を負わされたことだろうかという角度からもアスリートたちの懸命な姿を見させていただきながら、このイエス様の諭しをアーメンと肯きながら進ませていただきたいと願っております。

※画像は教会からお借りしています。
⏰6時更新

 

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ざっと

何かを証拠立てるもの、資料的なもの以外の、メモ的に撮り置いた画像は次つぎに消しているけれども、今も消しながら、あ、これはちょっともったいないと思ったのがこれ。
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リストが75歳で亡くなるまで作曲に使ったピアノ。

☆  ☆  ☆

J-MERO、きょうの、といっても再放送の…なのだが、それにしてもコロナウィルスの怖さ、いちどこのコロナ禍での収録のようすを見たけれども、新たな収録は容易ではない。一つの番組を数回流すとしても、そこにまた新たな発見があることもある。こんどはどんな変異株が、に怯えているさ中、ディスクは勿論あるけれども、番組で習慣的にたとえ何回目であろうと聴くことができるのは有難い。

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zocのパフォーマンス、前に見たときは、ちょっと退廃的にも感じられたけれども、孤立化し閉塞感にある、逃げ場のない或いは、認めてもらえない10代の女の子たちの、若者たちの逃げ場、避けどころとなっていると思われた。歌詞をパフォーマンスでステージ上にダイレクトにたたきつける。この音楽世界、安直な理屈や説得力のない正義を暴き抵抗をみせている。

⛳22時45分更新

 

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210903 クラシック倶楽部を聴く ジャパンシリーズ Takemitsu Alon 武満徹 没後25年

草月会館 イサム・ノグチの石庭に静かに響く武満徹の音楽「巡り」「海へ」など代表作から武満の愛したビートルズまでフルート工藤重典・ギター鈴木大介2021年収録 武満徹作曲「巡りーイサム・ノグチの追悼に」(フルート工藤重典)武満徹編曲「ギターのための12の歌」全曲・「ロンドンデリーの歌」「オーバー・ザ・レインボー」「サマータイム」「早春賦」「星の世界」「ミッシェル」「ヘイ・ジュード」「イエスタデイ」他(ギター鈴木大介)「海へ」(アルト・フルート工藤重典 ギター鈴木大介2021年草月会館 花と水と石の広場「天国」(イサム・ノグチ作)で収録ー番組紹介よりー

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工藤重典:武満さんが雄大な海を鯨のような頑健な身体を持って自由に泳ぎ回りたいんだと仰ってたように、時間とか空間とかいったものをすべて超えて解き放たれた命のありようというか、そういったものが非常に凝縮された音楽ですね。改めてその一つ一つの音楽が自分にどんなものをもたらしてくれるのかということを皆さんがとてもニュートラルな状態と言うか真摯な気持ちで接しておられるなというのは、コロナ禍になってからの自分の演奏体験を通じて強く感じるところです。
そうなってくるとこの起承転結というものがあるようなないような終わり方も、まあ、いわゆるブラボーって声がかけられない、ジャンと終わらない曖昧模糊とした終わり方の多い、武満さんの音楽というのは。すごくそれを目的として音楽を聴かないという状態においては真実の姿が皆さんに受け取ってもらえると思います。
鈴木大介:リズムとかそういうのもすごく複雑なんですけど、彼の書いている作品はだいたいすごく複雑ですね。だけどなんか、その中のこう僕らが探し求めているものがまた発見されるんじゃないかなあという気がするんです。考古学の  が一生懸命掘り起こして
何か見つけるみたいに、わかってんだけどまだ何にも出てこないなあみたいな感じで一所懸命やるでしょ、ああいう感じでこの作品を掘り下げて一生懸命えんそうしたり気持ちを入れて、ま、本番も重ねていくと、独特な精神性の違うもの、深いものというんですかね、出てくるような気がする。それが僕たちを支えるような気もして、これからたぶん、これからの時代、別な意味をもって接するということにだんだんなってくる。僕はそう思います。
鈴木大介:「ギターのための12の曲」、何でも書ける人だったですね、武満さんは。そういうのが一切ご自身のコンサートピースの中には顔を出さないんですけれども、非常にジャズでも何でも書けた。だからその割烹なり料亭をやってる世界的に有名な板前さんが、実は中華作ってもステーキ焼いても一流だみたいなはなしですね。そういうバラエティーに富んだ方なんですよ。12の歌というのは、ギタリストの荘村清さんのために武満さんがアレンジした12の世界中のポピュラーソングですね、とはいえ、世界中から集めたのに、なぜかビートルズが4曲も入っている。どんだけビートルズが好きなんだという、ほんとうにビートルズが好きでらした。一つひとつの曲に、その曲に対する思い入れとか愛情が感じられて、その一曲一曲のもとの世界観というか、原曲の世界観を大切に思ってらっしゃるんだなということがわかります。特にギターの曲は、武満さんの編曲作品もそうですけれども、オリジナル作品も非常にロマンティックな部分が強いのでそういった映画音楽の巨匠武満さん、そして、現代音楽の武満さん、前衛芸術の武満さんという色々な武満さんがちょうどうまくバランスをよく顔をのぞかせている、武満さんの音楽の中でも最も、ある意味では武満さんらしい音楽がギターのための音楽だと思います。

 

曲目
「巡り」
 工藤重典フルート演奏。イサム・ノグチへの追悼曲
ギターのための12の曲
 すべて武満の編曲版。クラシックギターが「今日」とふれあい生きたものとなるなるようにとの願いがこもる。
1
、ロンドンデリーの歌 (アイルランド民謡)
2
、オーバー・ザ・レインボー (ハロルド・アーレン作曲)
3
、サマー・タイム (ジョージ・ガーシュイン作曲)
4
、早春賦 (中田章作曲)
5
、失われた恋 (ジョゼフ・コスマ作曲)
6
、星の世界 (チャールズ・C・コンヴァース作曲)
7
、シークレット・ラヴ (サミー・フェイン作曲)
8
、ヒア・ゼア・アンド・エヴリウェア(ジョン・レノン/ポール・マッカトニー作曲)
9
、ミッシェル(ジョン・レノン/ポール・マッカトニー作曲)
10
、ヘイ・ジュード(ジョン・レノン/ポール・マッカトニー作曲)
11
、イエスタディ(ジョン・レノン/ポール・マッカトニー作曲)
12
、インター・ナショナル(ピエール・ドジェイテール作曲)
海へ  ギターとフルートのための曲。環境保護団体からのリクエストにより作曲。
1
The Night
2
Moby Dick 白鯨
 ハーマン・メルヴィルの小説「白鯨」に因む
3
Cope Cod 鱈岬
 アメリカのケープゴットに因む

🎵「巡り」、冒頭に現代的な修羅を聞いたような。フルートの抑揚に輪廻転生も思い巡らす。覚めたような奥行、広がり、ぬくもりも。フルートがいつの間にか尺八に重なるのだけれども。魂が次の嵌りどころを求め行脚しているような。「ギターのための12の曲」、武満のうちにある音楽の蔵に広く深く網を差し掛け下ろしたときに、武満の感性に引っ掛かってきた旋律が手繰り寄せられての12曲かと。編曲により穏やかな揺らめき懐かしさ、色彩感によってリニューアルされた感じが。この曲目の中でちょっと驚きだったのは「インターナショナル」。労働歌、革命歌の系列。静かに穏やかに沈殿した過去を思い出してでもいるよう。勇ましい「インターナショナル」で元気になれる自分にはかなり意外な音の展開。

🎧名曲アルバムはリストの「愛の夢 第3番」。ピアノ横山幸雄
シューマン、ワーグナー、リスト活躍の街ワイマール。リストはワイマールの宮廷楽長。甘美な旋律はカロリーネへの愛を思わせると解説が。
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⛳いま武満を耳にしながら書いているけれども。
きょうのウルトラ重機のはなし。ポーランドのヴィエチカ岩塩鉱山の坑道に塩の礼拝堂、聖キンガ礼拝堂がある。前にも何かで見たことがあるけれども、その時は犠牲者への思いが欠けていたと思う。

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18世紀の終わりまではこの鉱山で働いた20パーセント(1年で)の方々が亡くなっている
今は、岩塩削り重機エクスタベーター、ソルトハーベスターが過酷を担ってくれている。いずれ重機は危険な労働を肩代わり。それでも開発途上国などの方々、多くの方々はまだまだウルトラ重機どころか、小型さえもないだろう。

 また650キロ離れた地点からの重機の遠隔操作もできるようだ。作業現場に人影はない。/鉄道クレーン車での40メートル線路の交換にも驚く。レールとレールの間は6ミリ。どでかい重機の繊細、緻密な仕事。/災害時のタービン式噴射機は毎分4700リットル。/自衛隊が緊急時に100メートルの橋を架けられる装備/200人分の食事を炊き出せる重機にはちょっと落涙。/450キロのガラスを吸盤で運んで据え付ける自走式マニピュレーターに高層ビルの窓を納得。
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 重機に時間を費やしてどうなるという気持ちも湧かないではないけれども、ついこんなことを書いてみるのも面白く打ち込んでしまった。
で、20時25分更新

 

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210902 聞き逃したクラシック倶楽部は 上野星矢 フルート・リサイタル

19歳でランパル国際フルート・コンクール優勝、国際的な活躍を展開する上野星矢。20世紀に書かれたフルートの名曲を軸に、ポップスやオペラまで多彩な曲目を披露する。 【出演】上野星矢(フルート)、岡田奏(ピアノ)【曲目】パンの笛(ドビュッシー作曲)、カルメン・ファンタジー(ビゼー作曲/上野星矢・内門卓也編曲)、春よ、来い(松任谷由実作曲・上野星矢・内門卓也編曲)、後悔と決断(ショッカー作曲)、フルート・ソナタ ニ長調 作品94(プロコフィエフ作曲)【収録】2020年12月2日 NHK大阪ホールー番組紹介よりー

上野星矢さん(フルート)
東京都出身。小学校4年生でフルートを始め、全日本学生音楽コンクール全国大会中学生の部、高校生の部など、国内の主要コンクールの数々で優勝を果たす。2008年、東京藝術大学音楽学部フルート専攻入学。同年、第8回ジャン=ピエール・ランパル国際フルートコンクール優勝。2009年よりパリに留学し、パリ国立高等音楽院に審査員満場一致で入学。2012年同校を首席で卒業。
岡田奏さん(ピアノ)
2013年第8回プーランク国際ピアノコンクール第一位。パリ国立高等音楽院ピアノ科・室内楽科を最優秀で終了。 

曲目
☆パンの笛(ドビュッシー作曲)
 
 パンの笛はギリシャ神話の精霊の名を取って「シランクス」とも呼ばれる。揺れ動く   神秘的な響きは同時代の作曲家に大きな影響を与えた。
カルメン・ファンタジー(ビゼー作曲/上野星矢・内門卓也編曲)
 歌劇「カルメン」の名旋律で構成された幻想曲。上野星矢自身が編曲に携わった。フルートの多彩な音色とテクニックが随所に散りばめられている。
春よ、来い(松任谷由実作曲・上野星矢・内門卓也編曲)
☆REGRETS AND RESOLUTIONS-
後悔と決断-(ショッカー作曲)
フルート・ソナタ ニ長調 作品94(プロコフィエフ作曲)

🎵「パンの笛」、ドビュッシーは従来を破壊し、新たなる構築であるらしい。それが当時、最先端、前衛といわれたようだけれども。旋律が霊妙に曳かれ曳かれする。繊細でピュアな響き。「カルメン・ファンタジー」、ピアノの方の編曲が流麗に、優雅に仕立て直されたという感じが。「春よ来い」、これはアンコール用として演奏するなど、上野さんが気に入っている曲らしい。ショッカーはフルーティストであると同時に200曲にも及ぶフルート曲を作曲しているとか。「フルート・ソナタ」、この曲の持つ美しさが繊細な緻密なところまでの具現。

⛳実はこのページ、前回聴いたものをそのまま。朝気づいてみれば6時15分。寝過ごし。滅多にはない、というよりも今後はたびたびありそうな予感も。聞き逃してしまい、もったいなかったと思うもすでに遅し。

音楽とは関係ないけれども、TV、昨日の続きだろう、「ウルトラ重機」が映し出されていた。
これは思わずきのうTVから撮ったもの。
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 きょうはバケットホイールエクスカベーターや石炭と粘土を掘り分けるバケットチェーンエクスカベータ―、書きながらどこか1文字ぐらい違ってやしないかと不安なのだが、とにかく石炭採掘用どでか重機。
Dsc01252-2  それに黒海沿岸のブルガスにある物流の拠点で働くモバイルハーバークレーン、ありとあらゆる形状のコンテナの積み下ろしのための重機が港湾で活躍。物流もこういった重機が要所要所に設置され日夜稼働していることでまるで生き物のごとくに間断なく、物資は形を変えながらアンカーにたどり着いて配送されるに至ることを知る。

22時05分更新 

 

 

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210901 クラシック倶楽部を聴く ブルー・オーロラ サクソフォン・カルテット

パリ国立高等音楽院に学びJ.M.ロンデックス国際サクソフォーン・コンクールで優勝した平野公崇により結成。独奏者としても活躍する名手たちによるアンサンブル。 パリ国立高等音楽院に学びJ.M.ロンデックス国際サクソフォーン・コンクールで優勝した 平野公崇により結成。それぞれが独奏者としても活躍する名手たちによるアンサンブル。【演奏】平野公崇、田中拓也、加藤里志、本堂誠【曲目】サクソフォーン四重奏曲 第1番(サンジュレー作曲)、日本組曲(ホルスト作曲 久保田麻里・平野公崇編曲)、和樂(平野公崇作曲)【収録】2020年11月1日武蔵野市民文化会館 大ホール。―番組紹介よりー

 

平野公崇:神奈川県生まれ。東京藝術大学在学中、第7回日本管打楽器コンクールサクソフォン部門にて史上最年少の第1位入賞。同大学卒業後、パリ国立高等音楽院に外国人枠廃止後、サクソフォン科初の日本人として入学し、サクソフォン科、室内楽科、即興演奏科を最優秀の成績で卒業。同音楽院在学中にJ=Mロンデックス国際コンクールを制して日本人サクソフォニスト初の国際コンクール優勝者となり、フランス国立ボルドー・アキテーヌ管の定期演奏会に出演、Sud-Ouest紙の絶賛を浴び華やかなフランス・デビューを果たす。日本では2000年、現代作品と即興のみで構成された異色のアルバム「ミレニアム」で鮮烈なデビューを果たす。読響、新日フィル、大フィル、札響、広響等オーケストラとの共演多数。また、山下洋輔、塩谷哲、アキコ・グレースらジャズメンとの共演も多い。フランス、ドイツ、スペイン等の音楽祭におけるコンサートは毎回好評を博し、その出演を待望する多くのファンを獲得している。

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曲目
☆平均律クラヴィーア曲集 第2巻 第1番 BWV870 より プレリュード  J.S.バッハ/平野公崇 編
☆サクソフォン四重奏曲第1番 Op.53  ジャン=バティスト・サンジュレー
☆和樂  平野公崇:
☆日本民謡 津軽じょんがら節  田中拓也、平野公崇 編
☆沖縄民謡 てぃんさぐぬ花  平野公崇 編:
☆日本組曲 作品33  G.ホルスト/久保田麻里、平野公崇 編:
☆アンコール  BASQプレリュード(J.S.バッハ:平均律クラヴィーア曲集第1巻 第2BWV847

🎵サンジュレ―のまろく明るく穏やか目の作品をユーチューブで聴いたり、レコーダーに録音したものを聞いたり、しまいには何分かずらして両方をずらしてかけて聞いてみたところ、なかなか面白かった。「和樂」は「越天楽」の旋律からとられているようだが、笙、篳篥、笛などのオーケストレーションで聴いているようでもあり、次のジャズ仕様の「津軽じょんがら節」のまったく三線と思わせる、バチさばきまで聞こえるような響きと共に、サクソフォンでこんなところまでと深甚。「日本組曲」、同じ名前の曲がネットに7曲も出ていた。もっとあるらしい。貴志康一も同名の曲を書いているようだが聞いたことがないのが残念。ホルストの「日本組曲」は原曲はオーケストラ曲らしい。1前奏曲 - 漁師の歌2儀式の踊り3操り人形の踊り3間奏曲 - 漁師の歌 4桜の木の下での踊り5終曲 - 狼たちの踊りの5曲から成っている。アンコール「BASQプレリュード」、鎖がどうしても解けない、その硬質なもの、もがく、あがく、叫ぶ。現代的、都会的なセンスががっちり噛んでいるような面白さ。

🎧名曲アルバム。グリーク「トロルハウゲンの婚礼の日」。ピアノ田部京子
ノルウェーの町ベルゲンから10キロにあるトロルハウゲン(妖精の丘)にある自らが設計した家でこの曲が書かれた。写真はグリーグ夫妻の銀婚式に友人たちから送られたピアノ。

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⛳はや9月。「宴たけなわ」、人生は常に宴たけなわ、常に「善き宴たけなわ」でありたいとはたった今浮かんだことば。秋風の中にも。
15時46分と書きながら、はたと、けさの大型重機の再放送、再々ぐらいか、もっとか。ニッケル鉱山で活躍するスラグポットキャリヤ、1750°に熱したスラグをポットに入れて、マグマを運ぶごとくに運ぶキャリアカーやら230人分のブドウの収穫作業を一手にこなすハーベスター、3階建てのビルほどの巨大なウォーキングドラグラインで大地を剥がし石炭層を露にする重機。しかも歩ける重機。なかなかスタンバイしない朦朧頭がこれで一気に覚めたのだ。で13時56分の更新。

 

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