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きょうのことば 「十字架と教会と私たち」

インマヌエル盛岡キリスト教会2021年08月22()の礼拝メッセージをお伝えいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で48年目のご奉仕をしておられます。

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説教題 『十字架と教会と私たち』  (國光勝美 牧師)
聖書箇所 新約聖書 マタイの福音書161328 

13 さて、ピリポ・カイザリアの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに「人々は人の子をだれだと言っていますか」とお尋ねになった。
14 彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人も、エリヤだと言う人たちもいます。またほかの人たちはエレミヤだとか、預言者の一人だとか言っています」
15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」
16 シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」
17 すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。
18 そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれには打ち勝つことはできません。
19 わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます。あなたが地上でつなぐことは天においてもつながれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれます。」
20 そのときイエスは弟子たちに、ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならない、と命じられた。
21 そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた。
22 すると、ペテロはイエスをわきにお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。」
23 しかし、イエスは振り向いてペテロに言われた。「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」
24 それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。
25自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。
26 人は、たとい全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。
27 人の子は、やがて父の栄光を帯びて御使いたちとともに来ます。そしてそのときには、それぞれその行いに応じて報います。
28 まことに、あなたがたに言います。ここに立っている人たちの中には、人の子が御国とともに来るのを見るまでは、決して死を味わわない人たちがいます。」
 

<お話し>

 この朝は、「十字架と教会と私たち」というテーマでメッセージを導かれております。
 実
のところを申しますと、今日は、前回の信仰告白のところ、そして「自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」というところから次の17章の変貌山、イエス様の姿変わりのところを扱いたく願っていたのですけれども、前回の信仰告白のところとイエス様が「我この磐の上に我が教會を建てん(マタイ16:18)と仰ったそのおことばが非常に深く心に止まりました。これはとても大切な聖書のおことばであります。私たちは今ズーム礼拝を常態化して礼拝を共に守らせていただいておりますが、この時こそ、教会とはいったいどういうものなのだろうか。このことを真剣に捕らえ直すときでもあります。こんな時代、こんな時だからこそ、教会って何なのか、これをもうすこし掘り下げてみたいという思いがございました。それで前回も個人的な証を交え、またマタイ伝にあるペテロの信仰告白を扱わせていただいたのです。教会というものに視点を置くとき、私自身にも、教会との関わりを振り返って、ポイントとなるところがある、このように思っているのです。

 一つは何といってもあの御茶ノ水の学生キリスト教会館。今は御茶ノ水キリスト教会館として大きなビルになっているところの特別集会に導かれ、そこで信仰を持ちました。その時、そこのチャペレンの先生が、信仰を持ったばかりの私たち数名の者たちに、「ここは教会じゃないんだ。僕は、君たちがよい教会に導かれることを願っているんだ」と仰った。私にはまだ教会というものがどういうものなのかを知りませんでした。「ここは教会じゃない」。じゃ、いったい。何なんだ、教会って、何なんだ。となるわけです。これが一つ思い出です。

 それからもう一つは、インマヌエルというところに導かれたきっかけとなった大田区南雪が谷2714という番地まで覚えているんですけれども、そこにあるインマヌエル雪が谷伝道所というところの特別集会に導かれて、これがインマヌエルとの関わりのそもそものきっかけとなったのでありますが、そこの週半ばに持たれている祈祷会で恵まれておりました。それがそこの先生が仰るには、「ここは丸の内教会の伝道所で、ここでは礼拝を持っておりません。日曜日には丸の内教会の礼拝を守ることになっているんです。ここは伝道所です」。さあ、わかったようなわからないようなことでした。

 そこで初めて日曜日に丸の内教会というところに向かいました。どこなんでしょうかと有楽町の駅から探し歩きました。日曜日ですからビジネス街のほとんどのオフィスは閉まっています。教えられたどり着いた教会があるというビルに着きました。入り口が一つだけで閉じられている。守衛さんがいて、そこで、このビルの9階にある教会の集会に来たことを告げてノートに書いて、それから入っていく。それが300人くらいの教会だったのですが。
 9階のホール。それこそパーテーションを取り除き椅子を並べて300人の椅子を並べるわけですから大きなホールではある。おもしろいことに、教会が終わると、こんどは神学生たちが、皆さん方がお帰りになるのを待って、パーテーションで元通りに仕切り掃除をする。いわゆる十字架のある教会ではなかったのです。
 礼拝のメッセージをしてくださった先生が、ここはセンターのようなところで、私たちが今願っていることは、教会堂を持つことなのだということを仰る。そこはたしかに教会ではあるんですけれども、日曜日、そして木曜日、教会の集会のある時にだけホールを借りていたわけなんです。ますますわかったようでわからない。教会とは何か教会堂とは何かがはっきりとしませんでした。

 盛岡教会でいうのならば、教会を開拓をしましたときは大館町616で、2階建てで2世帯の棟割りアパートでした。今のこの教会は大館町1226で、大館町6の16は、ここから歩いて数分です。そこが開拓をした教会でした。1世帯分をお借りして、会堂として使わせていただいておりました。2階が集会場で、来会者がとんとんとんと階段を登ってこられます。そこで特別集会を開き、信仰を持たれ、洗礼を受けられた方々がおられます。

 私は確信するのです。たとえ棟割りアパートの一角でも、ここは立派な教会なのだ。会堂がある、ないではなく、ほんとうにイエス様を救い主として信じ悔い改めて生まれ変わった人たちが集まって神を礼拝しているなら、これは立派な教会なのだ。このようにして、その方々と一緒に、インマヌエル盛岡キリスト教会が棟割りアパートの2階から始まりました。

 会堂が何とかほしいという思いが与えられて、それから真実な信者の方々が、「じゃ先生、毎月少しずつでも教会堂のために献金しましょう」と、小さい教会が月々の積み立てを開始したわけです。
 ちょうどそのころ、アパートの会堂に一人の酔っ払いさんが入ってきました。そしてチラシを握って、「先生こんな奥のところでやっていたって人は集まらないよ。俺が知っているところで、家賃が払えなくなって出て行った、そこが一戸建てで道路に面しているから、ここよりはいいと思うよ」と教えてくれました。家主は釜石でした。一戸建てに移り、十字架を建てて、7年間。そこは借家ですけれども教会だった。そのころには積み立てが30万ほどになっていました。新たに会堂建設が始まり、主は大館町1216に測り縄を落としてくださって、ここに教会ができあがりました。私も本当に若く、会堂を建てるという大きな金額を扱うことに不慣れな者でありましたが、教会を愛するほんとうに真実な方々の助けと祈りによって新会堂は与えられました。 

 こうしてみると、教会とは何なのだろうか。
 コロナ禍で、集会にいつもいらっしゃていた方々を集会にお迎えすることはできません。ズームで礼拝や交わりが持たれております。このような厳しい状況でございますが、このようなときにこそ、わたし、そして、あなた方にとってこの教会って何だろうかということを真剣になって考えるチャンスではないかと、今回このように導かれております。

 序論からこんなに長くなってしまいましたが、あとは復習もかねておりますので、次は大切なところに進んでいきたく願います。
 教会は何の上に建てられるのかを前回お話ししました。イエス様が、お弟子さんたちと3年半寝食を共にして、さあいよいよこれからエルサレムに行って十字架に架からなければならない。この贖いを成し遂げるという大切な使命を果たす前にどうしてもしておきたかったのは、後を託すお弟子さんたちが、自分の十字架というものをどのようにわかってくれているのか。その生命線ともなる自分に対する認識、そのことをはっきりさせる必要があるというので、イエス様はわざわざ伝道の本拠地のガリラヤから北の方へ辺鄙なピリポ・カイザリヤという地方に隠遁されて、その間にお弟子さんたちに問いかけたわけです。そしてこのところで、イエス様はペテロから信仰の告白を引き出しました。そして十字架の意味を、ほんとうはこのところに今日のメッセージの重きをとも思っておりましたが、序論が長くなってしまって申し訳ありません。でも十字架とはいったい何なのか、そして、この二つの大切なことを引き出されたあと、ちょうどそれをはっきりさせるようにイエス様は、お弟子さんたちを連れてヘルモン山というところに行きました。そして17章これはお弟子さんたちの見ておられるうちに白く栄光の躰に、輝く御姿にイエス様が変えられる。その時、「これはわたしの愛する子だ」という天からの声をペテロははっきり聞いたのです。そうだ、このお方だ! 

 ですからはなしはすこし飛びますけれども、ペテロへの手紙を読みますと、「聖書の中にペテロの手紙として私が書いておいたことは勝手に想像して書いた作り話ではなく、これは実際にわたしが自分の目で見て、自分の耳で声を聞いたそのことを私が言ってるんだ」と伝えている。イエス様が十字架につけられることをあれほど恐れていたペテロが変えられたのは、この主の変貌という出来事を直に見たからなのだということを覚えておいていただきましょう。 

「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」(マタイ1615)
「あなたは生ける神の子キリストです。」(マタイ1616)

 この告白をイエス様はほんとうにお喜びになって、

「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です」(マタイ1617)

「そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。」(マタイ1618)

 こう仰いました。

 ここに「ペテロ」はペトロス(小石)という意味の言葉が使われており、「この岩」は「ペトラ」()という意味の言葉が使われています。「わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てる」と仰ったのは、皆さんよくお分かりの通りです。「あなたは生ける神の子キリストです」。つまり、教会というのは、イエス様を、「あなたは生ける神の子キリストです」と心からアーメンと告白する人たちの集まっているところなのです。このことをほんとうにアーメンと言うことができるのは、罪を赦されるという経験、イエス・キリストの十字架によって罪許され永遠の神の子のいのちが与えられるという、このほんとうに悔い改めて新しいいのちが与えられているという、そのように生まれ変わった者たちだけが告白することができる。「汝はキリスト活ける神の子なり」と告白できる岩にイエス様は教会を建てると仰いました。

「わたしは建てます」
「この岩の上に建てます」
「わたしの教会を建てます」

 きようはこの三つのことばに注目してみたいと思うのです。

「わたしは建てます」
 教会は主イエス様ご自身がお建てになるものです。よく工事現場に施主の名が書かれてあるようなイメージを私は持ってしまったんですが、教会はイエス様がご自身がお建てになるもの。つまり人間が勝手に建てるようなものではない。教会は神的な起源を持っているものです。
 こんな例話を出すことさえ嫌なんですけれども、宗教法人というので税金を逃れるために、何とか本尊、何とか大仏というようなものを建てて、私たちは宗教法人ですといって、課税を逃れる方便として使う場合があります。想像しただけでも嫌なのですけれども、教会というのは、誰か人の思惑で建てるようなものではない。私はこの盛岡教会もいろんな目に見えるところはありましたけれども、イエス様ご自身がこの教会をお建てくださっている。

「この岩の上に建てます」
 当然これはお分かりです。「あなたは生ける神の子キリストです」というこの告白をしている人たち、イエス様に対して、この告白に対してどうかほんとうにピュアな混じりけのない信仰を持っている人たちの集まりがこの教会なのだということを覚えていただきたいと存じます。

「わたしの教会を建てます」
 ここに私は、私たちの教団の教義及び条例というすこしかたぐるしい小さな本があります。つまり、インマヌエル綜合伝道団というものは、こういう教義の上に、そしてこういう条例のもとに成り立っているという、日本の国に憲法があるように、法律があるように、私たちは、この教義及び条例というものによって成っているのですけれども、そこには第14条に教会というものの定義が記されています。
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 「教会とは、キリストがその基を据えた信仰者の集まりである。個々の教会においては神の言葉が正しく説き明かされ、聖礼典が正しく執行される。神を礼拝し、信仰者が互いに交わり、キリストの救いが宣証されていく。個々の教会は、聖なる一つの使徒的公同教会に連なる」
 これが私たちの教義の中に記されている第14条「教会とは」であります。

 教会とはキリストがその基を据えた信者の、信仰者の集まりである。これアーメンですね。キリストがその基を据えた信仰者の集まり。そして個々の教会においては、つまり、ローカルチャーチ、私たちの今でいうのならば、インマヌエル盛岡キリスト教会においては、神のことばが正しく説き明かされているところ。つまり教会はこの聖書が正しく説き明かされているところでなければならない。もしここで有能なキリスト教学者がいて聖書を説き明かしたとしても、神のことばが正しく説き明かされるということ。教会は時事問題とか社会問題を論じる場所では決してない。聖書のことばが説き明かされるところ。それから聖礼典が正しく執行されるところ。

 私はこの条例を見ながら、ああ、御茶ノ水のチャペレンの先生が仰ったことが、こういう解釈から見るとよくわかるなと思ったのです。お茶の水のその特別集会のチャペレンのところでは、神のことばが正しく説き明かされていた。だけども、ここ教会じゃないんだよ。聖餐式、或いは洗礼式を持つところではない。

 教会はクリスチャンたちが、あの迫害を逃れたローマの時代、地下墓地であるカタコンベに潜んで、使徒たちが、暗号のようなことばを交わしながら、ああ、スパイじゃないね、だいじょうぶ、仲間たちが集まって、そこで彼らが何をしていたのか。聖餐式をしていたのです。その当時まだクリスチャンという名で呼ばれていなかったかもしれませんが、その者たちが示し合わせてどこかにいる。それをスパイのような人たちが後をつけていって様子を探ると、讃美歌が歌われて、そして、そこで「取りて食らえ、これは我が肉なり」。十字架で裂かれたイエス様の御苦しみ、御躰を象徴するパン」、「取りて飲め、これは我が血なり」。そしてぶどうの液が回される。ほんとうにクリスチャンたちは聖餐式をこの迫害の中で、信徒の皆が一緒になることを喜びとして、彼らは命がけで聖餐式を持っていたのです。それをスパイたちが、「あのグループは人の肉を食べている。人の血を飲んでいるとんでもない人たちだ」といったデマを流したことがクリスチャン迫害のいきさつにもなった。これは神学院で学んだキリスト教概論でしたか、歴史書の文章の中に書いてあったことを見ながら、私はほんとうにあの意味するところをはたと気がついたのでした。

 そこは十字架を建てて礼拝をするというようなそんなところではなかった。むしろ地下墓地に隠れて、誰も入ってこないようなところで集会を持っていた。神のことばが説き明かされ、聖礼典が正しく執行されるところ、そしてそこで、神を礼拝する。信仰者が互いに交わりを持つ。そして、キリストの救いが証されていく。一人ひとりがそこで、或いは当時のローマですから、奴隷として使われている人たちもいたでしょう。でもそのような人たちをも含めてほんとうに輝いているようすを見ながら、クリスチャンになる人々が起こされていく。

 私たちは今まさにコロナ禍でこのズームを用いての礼拝、聖礼典、交わりという中にいます。ズームというこの現代のすばらしい文明の利器によってともに礼拝を守ることができていますけれども、やがてコロナ禍も過ぎ去るでしょう。そのときに、私たちはこの人たちの持っているような教会での礼拝、そして交わりを、聖餐式を心から慕うそのような者でありたい、そのような交わりの中に、あり方に、今私たちはズームではあるけれども、インマヌエル盛岡キリスト教会の一員としてあるのです。

 そして、個々の教会は、聖なる一つの使徒的公同教会に連なる。この盛岡の教会もほかの団体や、ほかの群れの、例えば私たちはこの前、ズームで、郡山教会の礼拝に一緒に加わらせていただきました。一つの公同的な教会、或いは、それが群れを超えてほかの教派、教団でも同じ主イエス様を信じている人たちの公同的、この公同教会という、これはいわゆるよく言われるカトリック教会という目に見える、そういう地上の組織ではなくして、このカトリックという意味はまさしくそういう意味ではあるのですが。ほんとうにみんな一つとなるイエス・キリストを救い主として信じている、そういう一つを教会の中にある。そして今日時間があれば、もっと触れたいなと思っていたのは、たとえば私たち盛岡教会、ここに一つの教会が成り立っています。しかしそれとともにたとえば、すでに天に帰っておられる方々は、これはもうすでに闘う必要はない。戦い終えて凱旋して天に帰っていったという意味で、凱旋の教会。そして私たち今、地上にあるこの盛岡教会は、地上で一歩外に出たのならばサタンとの闘いがある。地上における教会は戦闘の教会です。凱旋とか戦闘というとすこしイメージが違ってしまうかもしれませんが、謂わんとするところはおわかりでしょう。私たちはサタンとの闘いの中にある。そして、イエス・キリストを主として従っていく教会。私たちはやがて凱旋の教会の中に入っていくでしょう。

 この「わたしの教会」というイエス様の中に、どうかインマヌエルだけがまことの教会だというような意味では決してなくして、このような教会とは、キリストがその基を据えられた信仰者の集まり、個々の教会においては、神のことばが正しく解き明かされ、聖礼典が正しく執行され、そして神を礼拝し、信仰者が互いに交わり、キリストの救いが宣証されていく。ここの教会は聖なる一つの使徒的、ほかの教会とも同じ連なっているものなのです。どうぞこのような信仰の中に生かされていただきましょう。

※音声データ、イラストは教会からお借りしています。
⏰5時55分更新



 

 

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