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きょうのことば 「あなたはわたしをだれと言うか」

インマヌエル盛岡キリスト教会2021年08月15()の礼拝メッセージをお伝えいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で48年目のご奉仕をしておられます。
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説教題 『あなたはわたしをだれと言うか』(國光勝美 牧師)
聖書箇所 新約聖書 マタイの福音書161328

13 さて、ピリポ・カイザリアの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに「人々は人の子をだれだと言っていますか」とお尋ねになった。
14 彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人も、エリヤだと言う人たちもいます。またほかの人たちはエレミヤだとか、預言者の一人だとか言っています」
15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」
16 シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」
17 すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。
18 そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれには打ち勝つことはできません。
19 わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます。あなたが地上でつなぐことは天においてもつながれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれます。」
20 そのときイエスは弟子たちに、ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならない、と命じられた。
21 そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた。
22 すると、ペテロはイエスをわきにお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。」
23 しかし、イエスは振り向いてペテロに言われた。「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」
24 それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。
25自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。
26 人は、たとい全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。
27 人の子は、やがて父の栄光を帯びて御使いたちとともに来ます。そしてそのときには、それぞれその行いに応じて報います。
28 まことに、あなたがたに言います。ここに立っている人たちの中には、人の子が御国とともに来るのを見るまでは、決して死を味わわない人たちがいます。」

 

<お話し>

『あなたはわたしをだれと言うか』、きょうはこの説教題でメッセージを導かれております。
 東北聖会で証をする機会を与えられ、そしてこれまでのことをもう一度振り返るときを、そして、一つ一つを片付けるように、この時、あの時というようにしたことがとても自分にとって良かったことでありました。そして自分と福音との出会い、それをこの機会にもう一度整理しておきたいとこのように思いまして今日のメッセージを導かれたのであります。


 特にきょう掲げましたマタイの16章、このみことばとの出会いを考えてみました。
ちょっとわかりずらいかもしれませんが、御茶ノ水学生キリスト教会館、いまは、学生という字が抜けていて御茶ノ水キリスト教会館と言って建物も大きくなっているんですが、まさに私が導かれたのはこの建物でありました。理事長が本田 弘慈、総主事が三森春生先生になっております。いま三森先生はお元気に過ごしてらっしゃいます。

 私はこの学生キリスト教会館で救われて、丸の内教会というところに導かれました。で、丸の内教会というと盛岡教会でずっとともに信仰生活を送っている方々は、どんな教会をイメージしておられるでしょうか。

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実はこの丸の内教会は新国際ビル(写真)と呼ばれている9階にありました。この新国際ビルというのは、山手線が有楽町駅、そのすぐお隣が東京駅。有楽町駅をもしイメージしていただけたのならば、有楽町駅から銀座方面に歩いても行けるそういう近い銀座はそういうところなんですけれども、それと反対側の方が皇居側なんです。で、皇居側はいわゆる日比谷といわれる、日比谷公会堂とかそういったところがあるとすれば、その日比谷方面に、有楽町駅から降りるとすぐ前が、いまたぶんそごうデパートはなくなったと聞いているんですけれども、流行歌で「有楽町で逢いましょう」というのは、そごうデパートのコマーシャルソングだったんだそうです。フランク永井という人が歌って有名になったんですが。その有楽町駅のそごうデパートのそのすぐ近く、数分のところに新国際ビルがありました。私が導かれた丸の内教会というのは会堂があってないようなもの。新国際ビルの9階に並んでいる窓、この窓の4つぐらいをパーテーションで一つ一つ区切られるようになっているんですが、日曜日になると、このパーテーションが取り外されておりまして、一つの大きなホールになっておりました。で、丸の内教会はこのホールを日曜日、祈祷会が木曜日にありますので、木曜日と日曜日はここを借り切って、いわゆる丸の内教会といわれているところがあったのであります。

 今でも思い起こすんですけれども、私たちが初めて丸の内教会のころ大きな集会に出ました時、日曜日ですから、ビルはきれいにしておかなければならないので、時々窓ふきの業者さんが、たぶん屋上から命綱をつけて、かごのようなものに乗って、上から下がってくることがありました。中には300人ぐらいの人たちが集まっていて、急に窓の外に人がぶら下がってくるのをこちらもびっくりして見るんですけれども、見られた人もさぞびっくりしただろうなと。日曜日に窓を拭いたりする光景が見られました。
 それから日曜日はこういうところは窓を開けることができない。全館の中で一つのホールにだけクーラーを点けるわけにいきませんから、夏はけっこうな暑さでした。そんな思い出があります。このようなところを丸の内教会として使っていた時代がありました。 

 そして当時、山手線と言っていましたが、今は山の手線。これに乗って、有楽町、そして私の場合には、山手線に乗って、新橋、それから品川とか大崎、そして五反田。五反田から雪が谷大塚というところのいわゆる池上線というのに乗るんですけれども、その当時の池上線。懐かしいです。乗りますと、油が敷いてある独特の匂いがしたその池上線に乗って雪が谷大塚に降りた、これが初めてのみことばとの出会いとなりました。そしてこの丸の内の教会で、蔦田二雄という先生が、メッセージを取り次いでおられました。当時はインマヌエルは文語訳聖書を公用聖書として使っておりました。先に御茶ノ水の会館に親しんでいたわけですけれども、雪が谷の伝道所に行きましたときに、ここは丸の内教会の伝道所ですので、礼拝は丸の内教会の方に出席しておりますということで、どきどきしながら丸の内教会の9階にいったのであります。ちょうどマタイ伝16章13~20節からの説教でした。忘れられません。

マタイ伝の161320
16:13イエス、ピリポ・カイザリヤの地方にいたり、弟子たちに問ひて言ひたまふ『人々は人の子を誰と言ふか』
16:14
彼等いふ『或人はバプテスマのヨハネ、或人はエリヤ、或人はエレミヤ、また預言者の一人』
16:15
彼らに言ひたまふ『なんぢらは我を誰と言ふか』
16:16
シモン・ペテロ答へて言ふ『なんぢはキリスト、活ける神の子なり』
16:17
イエス答へて言ひ給ふ『バルヨナ・シモン、汝は幸福なり、汝に之を示したるは血肉にあらず、天にいます我が父なり。
16:18
我はまた汝に告ぐ、汝はペテロなり、我この磐の上に我が教會を建てん、黄泉の門はこれに勝たざるべし。
16:19
われ天國の鍵を汝に與へん、凡そ汝が地にて縛ぐ所は天にても縛ぎ、地にて解く所は天にても解くなり』
16:20
ここにイエス、己がキリストなる事を誰にも告ぐなと、弟子たちを戒め給へり

ちょうどこのところが、丸の内教会の礼拝の聖書箇所でした。
御茶ノ水の会館ももちろんすばらしい恵みの場所でしたけれども、このインマヌエルの蔦田二雄という先生は、人一倍小柄な先生なんです。ほんとうに小柄な先生なんですが、この先生が丸の内の講壇に立って、がっと構えてメッセージを取り次がれたときに、私は、このお爺ちゃん、すごいな! と思いました。その迫力に圧倒されました。それが大きな印象でありまして、実はこのことばこそ私の信仰生活の土台、或いは、背骨になったといってよろしいのです。何回かここのところからメッセージが礼拝ごとに解き明かされ、そのたびにすごいなーと心から感動したところこそ、私の信仰の背骨になっています。文語訳を懐かしく思います。

 

ピリポ・カイザリヤ地方と言いますと
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ガリラヤ湖の下の方に下りていくと、いわゆる死海になるわけですけれども。ピリポ・カイザリヤは、ガリラヤ湖よりもぐっと北の方にあって、あまり注目されない辺境の地にあります。そこにお弟子さんたちとイエス様が移動された。それはイエス様のご生涯にとっても非常に意味のあるところでありまして、この地図にはありませんが下の方いわゆるエルサレムの方、そちらの方にイエス様の評判とが、だんだんと、それは良きにつけ悪しきにつけ、イエス様の存在というものが、無視できないほどの大きな影響をもっていた。そしてイエス様は、いよいよ自分の使命を全うする大切な十字架に向かう歩みをこれから始めるという、イエス様のご生涯にとっても大きな転機を迎えようとしていたところなのです。ですので、イエス様はそれまでご自分と一緒に3年半のあいだ共に生活をしてきたお弟子さんたちに、さあ、これから十字架に向かおうとするとき、あとを託さなければならないお弟子さんたちは、自分についてどのような評価と言ったらいいか認識しているのか、自分のことをどう告白するだろうか、それがイエス様にとって非常に生命的な大切な部分でした。

そして、できたら来週にお話ししたいと思っておりますけれども、ヘルモン山というところがあります。これは夏でも雪があるというところですけれども、この変貌山というマタイ伝でいえば、17章2節のところに、このところでイエス様が姿変わりをされたというところですが、これは来週できたら扱わせていただきたいと思っているところでありますけれども、

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16章にこのピリポ・カイザリヤに行くとき、お弟子たちに、15節「あなたがたは、わたしを誰だと言いますか。」と非常にきわどい質問をされたんです。このマタイ伝の今のところをマタイ16章13節~20節は 信仰の告白(confession)告白「あなたは生ける神の子キリストです。」とシモン・ペテロ。
また、マタイ16章21節~28節は 十字架の宣言(crucifixion) 磔殺「人の子は十字架につけられ」、そのときペテロは「主よ、とんでもないことです。…」と言ってしまうのですが。それから17章1~8節 主の変貌(crowned)戴冠「御姿が変わった。顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった。」

これを手元にあります資料などを参考に、覚えやすい三つのCによってこの部分をまとめてみました。きょうはこの最初の一つか二つの部分、どこまで時間が許されるかわかりませんが、お話しを進めていきたいと思っています。 

 人々は人の子を誰だといっていますか。皆さんも聖書をお開きいただきたいと思います。マタイ16章13~14節のところ、彼らは言った。「バプテスマのヨハネだという人もいる。或いはエリヤだという人もいる。またほかの人たちはエレミヤだと。或いは、預言者の一人だとか言っている。人々はそう言っている。そのあとイエス様は弟子たちがご自分をどのような存在であると捕らえ認識しているのかという生命的な質問を投げかけました。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」。そのときペテロが「あなたは生ける神の子キリストです」と答える。これはペテロだけではなくして、12弟子の筆頭格のペテロがお弟子さんたちを代表して、そう、あなたこそ、生ける神の子、われらが待ち望んでいるキリストですと答えたのです。これがもしほかの人たちが言っているように、あなたは偉い人です、私たちもそう思ってますなどと言ったなら、イエス様はどんなに悲しまれたことでしょうか。

イエス様は「神の子」というペテロのこの告白をほんとうに喜ばれたのです。
「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です」

バルヨナ・シモンというのはバルテマイとか、何々の子という意味です。バルヨナ・シモンといわば改まって呼ぶのはこのペテロのことです。バルヨナ・シモン、ペテロ、あなたは幸いだ。わたしを生ける神の子キリストだと内に明らかに示されたのは、血肉で、人間の限られた理論的な結論から導き出せたのではない、イエス様がほんとうに神の子だと告白できるのは、天のお父様、そしてそれを私たちにうなずかせてくださる聖霊様、つまり、神的なそういった力によってのみイエス様はキリストだということを告白することはできない。これは非常に大きな意味のあることです。私たちは学問的な理論的な結論によってだからあなたは神の子ですと言ったのではない。そうではなくして、聖霊なる神様が、父なる神様の意によってキリストを主と告白させてくださる。ですからこのイエス様の「バルヨナ・シモン汝は幸いなり。汝にこのことを示したるは血肉にあらず、天におられる我が父なり」。ほんとうにイエス様はこの告白を導き出すことにこそこれまでの数年間を過ごしたといっていいでしょう。それほどの告白を引き出されたあと、イエス様は、「そこで私もあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます」

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 マタイ伝16章18節の「ペテロ」は「ペトロス」ということばが使われており、これはいわゆる岩というよりもむしろ「小石」をあらわす。「この岩」とは「ペトラ」、ペテロはそのようなペテロということです。

 イエス様は「そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです」。そしてそのペテロという言葉に合わせるようにして、「わたしはこの岩の上に」、このペトラということばがこんど使われている。このペトラという言葉は「岩」という意味を持つ。「わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます」。こうおっしゃった。イエス様はペテロという一人の人間の上に教会を建てるとは言わない。ローマカトリックの方は、イエス様がそのようにおっしゃったんだから、ローマ教会はペテロの正統的な後継者だからといってその権威を主張いたしますけれども、それはおかしなことです。むしろ、このところは、イエス様は「わたしはこの岩の上に」、「あなたは生ける神の子キリストです」というイエス様に対する信仰告白、この岩の上にわたしの教会を建てる。この意味がお分かりいただけますでしょうか。

教会はイエス様を何というか。「あなたは生ける神の子キリストです」というこの岩の上に教会は建てられているのです。そして、この告白を導き出されたあと、イエス様は初めて公に十字架のことを語られました。

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21節「そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた」。
 イエス様は弟子たちの信仰告白を導き出して、それから、よし、わかったね、わかったね。それならばといって、イエス様は初めてご自分の十字架のことについて語り始めなさいました。

 それを聞いたペテロが、「え? イエス様、あなたが十字架にお架かかりになるんですって? なんでそんなことがあるんですか。とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません」といっていさめ始めたというのです。誰を? イエス様をいさめ始めたというのです。わかってない。ペテロもわかってないんです、まだ。先ほどあれほどすばらしいイエス様を大喜びさせた満点の答えをしたペテロに十字架がわかってない。しかし、イエス様は振り向いてペテロに言われた。

「下がれサタン」

ちょっときつすぎる言葉です。悪魔にですよ。下がれサタン。さっきあんなにイエス様を喜ばせたペテロ、さっきあんなにイエス様を喜ばせて、喜んでいたそのペテロが、十字架のことがわからなくなって、そんなことはない、イエス様何を仰るんですかといったそのペテロに、それは人間的にいえばそれほどイエス様を愛してそれほどイエス様を慕っていた、だからこそ、そんなこと言うもんじゃありませんよイエス様と。その時にイエス様は、ペテロに、「下がれ、サタン。あなたはわたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで人のことを思っている」。

イエス様は私たちの罪の身代わりとして私たちを罪から救ってくださるために十字架に架かりそしてよみがえられる。この贖いによってイエス様は救い主となるはずなのに、サタンは、その十字架を、十字架なしの救い主、それにさせようとする、これがサタンなんです。主の十字架の救いというものをないがしろにそれを骨抜きにしようと画策するもの、ここでイエス様が厳しく「サタンよ退け!」、これはペテロに言っているというよりも、十字架を避けるように言ったそのペテロを通してサタンが語ったのです。それに対して、

ヨハネ6章15節、これはイエス様が5000人の施食、少年の持っている小さなお弁当を増やして人々を満腹になさったあの奇跡の場面です。人々は、この方こそ私たちが待ち望んでいたメシアだ。キリストだ、救い主だと言った。

15節 人々がやって来て、自分を王にするために(メシヤにするために)連れて行こうとしているのを知り、再びただ一人で山に退かれた。

人々がイエス様をこの世的なメシヤにするために群がってきたときに、イエス様は、人々から身を隠しなさる。もしこのときイエス様がそのまま王として、この世の貧困をなくし、人々に豊かに糧を与えるそのために私は来たのだといったのならば、サタンの思うつぼです。サタンはイエス様を十字架の救いなしに何とかしようと虎視眈々としていたの8うです。

ルカ22章42節これはゲッセマネの園の祈りです。いよいよイエス様は十字架を目の前にした。その時42節

「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」

この杯をわたしから取り去ってください。人々の罪を背負って愛する神様の罰を受けなければならないということが、イエス様にとってどんなにつらいことであったことか。十字架の上でイエス様はまさしく罪の化身となられねばならない。これほど苦い杯はない。

「しかし、わたしの願ではなくみこころが成りますように」。

み使いが現れてイエス様の祈りに力を与えられた。いよいよ苦しみ悶えて切に祈られた。十字架というものがどんなに大きな意味があるものかを、私たちはここで知ります。 

 マタイ27章に開いてください。39節。いよいよイエス様が十字架につけられたとき、39節「通りすがりの人たちは、頭を振りながらイエスをののしった。神殿を壊して三日で建てる人よ、もしおまえが神の子なら自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」
 サタンはこの十字架を何とかなきものにしようとして、いまはのきわの場面でさえも「十字架から降りてみろ」。イエス様を十字架の救いからなきものにしようとサタンは必死になっている。

 そしてイエス様はマタイ16章24節で語られました。
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」。

 きょうのお話はここまでにさせていただきたいと思います。来週はこのところからお話しを継続させていただきたいと思います。

※画像は教会からお借りしています。


⏰6時41分更新


 

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