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2021年8月

210831 クラシッククラブを聴く ハインツ・ホリガーと仲間たち

80歳を迎えたホリガーは言う。「時計の針は人生を計るものではない。私は続けられる限り、演奏し、指揮し、作曲する。」信頼する仲間との絶妙なアンサンブルを放送する。―番組紹介よりー 

ハインツ・ホリガーは1939年生まれ。スイス出身のオーボエ奏者、指揮者、作曲家。演奏家としてバロック音楽から現代音楽までの作品に取り組む。作曲家としてさまざまな楽器の可能性を追求した作品を発表。


ホリが―のコメント
<80を超えての活動のエネルギーは>
 私にとって音楽は呼吸と同じように重要です。音楽がなければ窒息してしまいます。ヨーロッパでは若い人たちが物事への興味を失い、心が老いてしまっています。一方では精神がとても若い高齢者がいます。私たちは年月を時計の針で計りますが、人生や世界をそれと同じように計ることはできません。音楽は最高のエネルギーの源です。私は続けられる限り演奏し指揮し作曲します。年齢とは驚くほど相対的なものなのです。
<「結び」について>
 私は俊夫がドイツで学んでいるときから彼を知っています。俊夫はこの作品で日本の「結び」の儀式、つまり、贈り物を特別な形で包む様を私のオーボエ、そしてイングリッシュホルンのマリー=リーゼ・シュプバッハのために書いてくれました。シュプバッハは長年バイエルン放送交響楽団のソロ奏者を務め、バーンスタイン、クーベリック、マゼールなどと共演しています。オーボエとイングリッシュホルンどちらの楽器にも絡み合いや装飾がたくさんあり、演奏に卓越した技術が求められます。
<ゼレンカについて>
 ゼレンカはバッハと同時代の作曲家でバッハと同じように別の時代の生き残りといえます。晩年のバッハとゼレンカの時代にはすでにロココと感傷的な音楽が流行していました。その中で二人は複雑な音楽を書いていましたので、まったく違う時代の生き残りのようでした。バッハはゼレンカの音楽に興味を持っていて、作品を研究するために息子に写譜させています。ゼレンカもバッハを何度も訪ねています。特にバッハがドレスデンにいるときによく訪ねていました。ゼレンカの死後、彼の作品は印刷が認められず、バッハと同じようにほとんど忘れられてしまいました。バッハの「マタイ受難曲」を上演したメンデルスゾーンのように、ゼレンカを宣伝する人は多くありませんでした。最初にゼレンカのオーケストラ作品を指揮したのは作曲家のスメタナでした。オーケストラのための序曲です。有名な音楽辞典にはすでに1830年にこう書いてあります。「ゼレンカの玉座は天国で偉大なバッハの玉座すぐ隣にある」と。つまりゼレンカはバッハの同時代人としては最も偉大な作曲家なのです。

<演奏者>       
オーボエ、指揮:ハインツ・ホリガー
オーボエ、イングリッシュ・ホルン:マリー=リーゼ・シュプバッハ
ファゴット:ディエゴ・ケンナ
コントラバス:エディクソン・ルイース
チェンバロ:桒形亜樹子

<曲目>
☆トリオ・ソナタ第1番 変ホ長調 BWV525   J.S.バッハ
☆『結びハインツ・ホリガーの80歳の誕生日を祝して』(2019)   細川俊夫
☆『Klaus-Ur(クラウス・ウール)』  ハインツ・ホリガー
☆二つのオーボエ ファゴットと通奏低音のためのソナタ第5番  ゼレンカ

 

🎵バッハとゼレンカを主に。バッハとゼレンカ、才能がある者同士は互いにその存在を意識し合うものかと思う。互いを研究しあっていたのだろう。同時代であればライバルともいえるだろうが、ライバルをいたずらに否定するのではないところ、まずは学んでみることが大事であるということか。
 バッハの曲にはやはり神へのささげものである軸からの片よりは感じられず、ゼレンカの曲からは、世俗的な、「俗」という文字を当てはめるのは行き過ぎかとも思うが、同じような華やかさ、情緒,情趣、空気感でも、世に一脈通じるような気配、気分が感じられる。バッハとゼレンカの時代には、ロココ、感傷的な音楽もあったらしく、そちらの影響が入ってきていたのかとも。あとでそちこちのブログをぐぐっているうちに、ゼレンカの5番を「貴族的遊戯」と評していた方がいたが、まさしく。バッハ、ゼレンカが亡くなった後は信じられないことだが世に忘れられたふたり。バッハのマタイ受難曲を世に出したのがメンデルスゾーンだったが、ゼレンカを世に出したのはスメタナであったようだ。
 細川俊夫の「結び」。こんどはどう感じるだろうと興味津々で。ホリガーが贈り物をするときに布の端と端を結び合わせる、これは風呂敷のことかと思ったが。これがホリガーの80歳の誕生プレゼント曲。オーボエとイングリッシュホルンのデュエット。このイングリッシュホルンがなかなかの聴きどころ。出だしには雅楽のような感じ。しだいに能楽を聴いている気がして、能面がイメージに現われると、それが脳裡から容易には去らず、ついに最後まで舞い続けていた。ところどころに和楽器の鼓が入っても不自然ではないと思われた。笙や篳篥をきいているような気分にも。ただこの和楽器、オーボエとイングリッシュホルンとの性能には格段の差があり、音域や技術的なことはよくわからないが、現代の楽器だからこそこの曲のように緻密で細やかな演奏も可能であり、幽玄ではあるけれども且つ現代的な仕上がりとしても聴かせるものになっているとも思われた。ホリガーの「Klaus-ur」、これが一瞬ジャズかとも思いきや、やはり正真正銘のクラシック。新しい。たえず炸裂するもの、大きくも小さくも火花を散らすもの、明滅するものの表現か。うめきというよりも見えないもの掴めない空間の呻きに意識の明滅とも。すごい感性の持ち主と。いちど聴いたら忘れない。譜面はいったいどう表記されているのだろうと。通常連なりうる旋律の埒外に見出した音符というには乾いた現代的な衝撃的な音なのだが、何れ平板と平板との間隙から拾い弾き集めたかのよう。最後部分のそれが点のように遠景となり締めくくられる。異形の造形なのだ。
 相対的な齢を重ねるホリガー、そして仲間たちを今朝も新鮮に聴いた。

 

🎧名曲アルバム。フォーレ「ペレアスとメリザンド」。大友直人&東京フィル。
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フランス音楽界の中心人物フォーレが院長を務めたパリ音楽院の近くには楽器店が立ち並んでいる。フォーレはマドレーヌ大寺院のオルガニストでもあった。多忙な彼が作曲に専念できるようになったのは75歳からだという。

⛳最近は意識的に耳を傾けなければなかなか聴けない、或いは、耳を傾けても何か心に浸透してこないのを感じることがある。これはそのときの自分の体調、疲れているかいないかも関係あるだろうし、また曲との相性もあるかと思っている。けさのような演奏は何か細胞と細胞の親和性、浸透性がよいという感じがする。自然体でリラックスして楽しめるというのがいちばん。
 今月はじめには、備忘録もそろそろしんどいかなと思っていたが、ショパンに起こされて、結局それでまた継続、沈没しそうになってまた水面からちょっと顔を出し、息継ぎをしながら音楽の海の一角を泳ぎきったというほどの確かさとカッコよさはないけれど、ああ、今月も一通り聴き続けたなと思いつつ。
 パラリンピック、競泳、ラグビー、あの車いすのぶつかり合いガガーンがエキサイティングだったり、サッカー選手のふしぎさ、見えないのになぜ? 自分を顧みてなどと気取らなくとも単純に自分を見てみれば、私見えてます。手足あります。だけど、こんな程度か~、ちと情けない。
10時39分更新

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210830 クラシック倶楽部を聴く マテュー・デ゙ュフォー フルート・リサイタル

【収録】2019年7月30日 武蔵野市民文化会館(東京都武蔵野市)

マテュー・デュフォー(フルート):1972年パリ生まれ。8歳から本格的に始める。20歳でトゥールーズ・キャピタル管の首席就任、以降各地の名門オケの首席を歴任。2015年にはベルリン・フィルの首席に。
浦壁信二(ピアノ):1969年生まれ。都立芸術高校、パリ国立高等音楽院に学ぶ。国内外の演奏家と共演。洗足楽員音楽大学客員教授。

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マテュー・デュフォーのコメント
音楽の演奏家はみな「歌うような音楽」を目指しています。声をイメージして演奏するのです。声は何も介さずに自己表現ができる最も原始的な「楽器」です。フルートは声に一番近い楽器です。息と音が直接結びついています。歌口に(リードのような)物理的な抵抗がなく直接息が入る唯一のクラシック楽器なのです。だから私はフルートに話しかけるように演奏します。とても親密な関係です。息と戯れている感覚です。
今回は前半にフランス、後半にドイツとはっきり分けたプログラムにしました。私自身の人生と重なります。私にとってもピアニストにとっても難曲ぞろいですが、心を豊かにしてくれる作品ばかりです。やや暗く物悲しいプログラムですが、その気持ちを共有し会場を一つにしたい、そう願って組みました。
美しい音とはどのような音?
感情が伝える響きだと思います。ポジティブな感情もネガティブな感情もただ綺麗なものは飽きられます。人生と同じように音も変化や柔軟性があってこそ輝くのです。感情を音に乗せることが大切だと思います。私が音楽を通して目指すのは分かち合いです。音楽で物語を語りメッセージを伝える。それさえできれば私は満足です。人の心に響く演奏をすることが、私の幸せなのです。 

 

【曲目】
フルート・ソナタ  プーランク
フルートとピアノのためのソナチネ op.76  ミヨー
フルート・ソナタ ホ短調「ウンディーネ」op.167  ライネッケ

🎵プーランクの「フルート・ソナタ」、街の喧騒のなかを逍遥しているような感じもするミヨーの「フルートとピアノのためのソナチネ」。この2曲の作曲家は20世紀後半のフランスの作曲家「6人組」に入っている。
 ライネッケの「ウンディーネ」、これは水の精の悲恋を書いたものらしいが、筆者は勝手に巨樹を想像しながら音を楽しんだ。1000年の木の葉をざわつかせるというよりは、1000年の流れの樹下に見てきた人間世界に愁嘆している木の葉のさざめきと思って聴くと、これが存外おもしろく聴こえだしたのだ。
 そして同じ「ウンディーネ」をまた時を隔てて聞いてみると、水の精を歌うフルート。時として陰影も伴う奥行きのあるフルートにピアノがけっこうドラマを付加してくれる。水の面をすべり揺らぐものがしだいに森の木立のかしこにあすをかなしく希望をさがしめぐるという感じが。悲しく呼ぶような、はたまたそれが木漏れ日に慰められてでもいるような魂のひとり歩き。第2楽章でアクティブに。いいじゃないの、これで、けっこうこれも愉快愉快と聴こえてからは解放されたような伸びやかさ。次楽章、それこそ、こうか、ああかと歌うような。終章、追いかけるのはピアノかフルートか、フルートかピアノかと華麗に勢いづく先の静けさ。 

 

🎧名曲アルバムはワーグナー「ワルキューレの騎行」
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ルートヴィッヒ2世はバイロイト祝祭劇場のみならずワーグナーの私邸までに私財をつぎ込んで。

⛳20時12分更新

 

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きょうのことば 「十字架と教会と私たち」

インマヌエル盛岡キリスト教会2021年08月22()の礼拝メッセージをお伝えいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で48年目のご奉仕をしておられます。

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説教題 『十字架と教会と私たち』  (國光勝美 牧師)
聖書箇所 新約聖書 マタイの福音書161328 

13 さて、ピリポ・カイザリアの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに「人々は人の子をだれだと言っていますか」とお尋ねになった。
14 彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人も、エリヤだと言う人たちもいます。またほかの人たちはエレミヤだとか、預言者の一人だとか言っています」
15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」
16 シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」
17 すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。
18 そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれには打ち勝つことはできません。
19 わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます。あなたが地上でつなぐことは天においてもつながれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれます。」
20 そのときイエスは弟子たちに、ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならない、と命じられた。
21 そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた。
22 すると、ペテロはイエスをわきにお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。」
23 しかし、イエスは振り向いてペテロに言われた。「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」
24 それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。
25自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。
26 人は、たとい全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。
27 人の子は、やがて父の栄光を帯びて御使いたちとともに来ます。そしてそのときには、それぞれその行いに応じて報います。
28 まことに、あなたがたに言います。ここに立っている人たちの中には、人の子が御国とともに来るのを見るまでは、決して死を味わわない人たちがいます。」
 

<お話し>

 この朝は、「十字架と教会と私たち」というテーマでメッセージを導かれております。
 実
のところを申しますと、今日は、前回の信仰告白のところ、そして「自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」というところから次の17章の変貌山、イエス様の姿変わりのところを扱いたく願っていたのですけれども、前回の信仰告白のところとイエス様が「我この磐の上に我が教會を建てん(マタイ16:18)と仰ったそのおことばが非常に深く心に止まりました。これはとても大切な聖書のおことばであります。私たちは今ズーム礼拝を常態化して礼拝を共に守らせていただいておりますが、この時こそ、教会とはいったいどういうものなのだろうか。このことを真剣に捕らえ直すときでもあります。こんな時代、こんな時だからこそ、教会って何なのか、これをもうすこし掘り下げてみたいという思いがございました。それで前回も個人的な証を交え、またマタイ伝にあるペテロの信仰告白を扱わせていただいたのです。教会というものに視点を置くとき、私自身にも、教会との関わりを振り返って、ポイントとなるところがある、このように思っているのです。

 一つは何といってもあの御茶ノ水の学生キリスト教会館。今は御茶ノ水キリスト教会館として大きなビルになっているところの特別集会に導かれ、そこで信仰を持ちました。その時、そこのチャペレンの先生が、信仰を持ったばかりの私たち数名の者たちに、「ここは教会じゃないんだ。僕は、君たちがよい教会に導かれることを願っているんだ」と仰った。私にはまだ教会というものがどういうものなのかを知りませんでした。「ここは教会じゃない」。じゃ、いったい。何なんだ、教会って、何なんだ。となるわけです。これが一つ思い出です。

 それからもう一つは、インマヌエルというところに導かれたきっかけとなった大田区南雪が谷2714という番地まで覚えているんですけれども、そこにあるインマヌエル雪が谷伝道所というところの特別集会に導かれて、これがインマヌエルとの関わりのそもそものきっかけとなったのでありますが、そこの週半ばに持たれている祈祷会で恵まれておりました。それがそこの先生が仰るには、「ここは丸の内教会の伝道所で、ここでは礼拝を持っておりません。日曜日には丸の内教会の礼拝を守ることになっているんです。ここは伝道所です」。さあ、わかったようなわからないようなことでした。

 そこで初めて日曜日に丸の内教会というところに向かいました。どこなんでしょうかと有楽町の駅から探し歩きました。日曜日ですからビジネス街のほとんどのオフィスは閉まっています。教えられたどり着いた教会があるというビルに着きました。入り口が一つだけで閉じられている。守衛さんがいて、そこで、このビルの9階にある教会の集会に来たことを告げてノートに書いて、それから入っていく。それが300人くらいの教会だったのですが。
 9階のホール。それこそパーテーションを取り除き椅子を並べて300人の椅子を並べるわけですから大きなホールではある。おもしろいことに、教会が終わると、こんどは神学生たちが、皆さん方がお帰りになるのを待って、パーテーションで元通りに仕切り掃除をする。いわゆる十字架のある教会ではなかったのです。
 礼拝のメッセージをしてくださった先生が、ここはセンターのようなところで、私たちが今願っていることは、教会堂を持つことなのだということを仰る。そこはたしかに教会ではあるんですけれども、日曜日、そして木曜日、教会の集会のある時にだけホールを借りていたわけなんです。ますますわかったようでわからない。教会とは何か教会堂とは何かがはっきりとしませんでした。

 盛岡教会でいうのならば、教会を開拓をしましたときは大館町616で、2階建てで2世帯の棟割りアパートでした。今のこの教会は大館町1226で、大館町6の16は、ここから歩いて数分です。そこが開拓をした教会でした。1世帯分をお借りして、会堂として使わせていただいておりました。2階が集会場で、来会者がとんとんとんと階段を登ってこられます。そこで特別集会を開き、信仰を持たれ、洗礼を受けられた方々がおられます。

 私は確信するのです。たとえ棟割りアパートの一角でも、ここは立派な教会なのだ。会堂がある、ないではなく、ほんとうにイエス様を救い主として信じ悔い改めて生まれ変わった人たちが集まって神を礼拝しているなら、これは立派な教会なのだ。このようにして、その方々と一緒に、インマヌエル盛岡キリスト教会が棟割りアパートの2階から始まりました。

 会堂が何とかほしいという思いが与えられて、それから真実な信者の方々が、「じゃ先生、毎月少しずつでも教会堂のために献金しましょう」と、小さい教会が月々の積み立てを開始したわけです。
 ちょうどそのころ、アパートの会堂に一人の酔っ払いさんが入ってきました。そしてチラシを握って、「先生こんな奥のところでやっていたって人は集まらないよ。俺が知っているところで、家賃が払えなくなって出て行った、そこが一戸建てで道路に面しているから、ここよりはいいと思うよ」と教えてくれました。家主は釜石でした。一戸建てに移り、十字架を建てて、7年間。そこは借家ですけれども教会だった。そのころには積み立てが30万ほどになっていました。新たに会堂建設が始まり、主は大館町1216に測り縄を落としてくださって、ここに教会ができあがりました。私も本当に若く、会堂を建てるという大きな金額を扱うことに不慣れな者でありましたが、教会を愛するほんとうに真実な方々の助けと祈りによって新会堂は与えられました。 

 こうしてみると、教会とは何なのだろうか。
 コロナ禍で、集会にいつもいらっしゃていた方々を集会にお迎えすることはできません。ズームで礼拝や交わりが持たれております。このような厳しい状況でございますが、このようなときにこそ、わたし、そして、あなた方にとってこの教会って何だろうかということを真剣になって考えるチャンスではないかと、今回このように導かれております。

 序論からこんなに長くなってしまいましたが、あとは復習もかねておりますので、次は大切なところに進んでいきたく願います。
 教会は何の上に建てられるのかを前回お話ししました。イエス様が、お弟子さんたちと3年半寝食を共にして、さあいよいよこれからエルサレムに行って十字架に架からなければならない。この贖いを成し遂げるという大切な使命を果たす前にどうしてもしておきたかったのは、後を託すお弟子さんたちが、自分の十字架というものをどのようにわかってくれているのか。その生命線ともなる自分に対する認識、そのことをはっきりさせる必要があるというので、イエス様はわざわざ伝道の本拠地のガリラヤから北の方へ辺鄙なピリポ・カイザリヤという地方に隠遁されて、その間にお弟子さんたちに問いかけたわけです。そしてこのところで、イエス様はペテロから信仰の告白を引き出しました。そして十字架の意味を、ほんとうはこのところに今日のメッセージの重きをとも思っておりましたが、序論が長くなってしまって申し訳ありません。でも十字架とはいったい何なのか、そして、この二つの大切なことを引き出されたあと、ちょうどそれをはっきりさせるようにイエス様は、お弟子さんたちを連れてヘルモン山というところに行きました。そして17章これはお弟子さんたちの見ておられるうちに白く栄光の躰に、輝く御姿にイエス様が変えられる。その時、「これはわたしの愛する子だ」という天からの声をペテロははっきり聞いたのです。そうだ、このお方だ! 

 ですからはなしはすこし飛びますけれども、ペテロへの手紙を読みますと、「聖書の中にペテロの手紙として私が書いておいたことは勝手に想像して書いた作り話ではなく、これは実際にわたしが自分の目で見て、自分の耳で声を聞いたそのことを私が言ってるんだ」と伝えている。イエス様が十字架につけられることをあれほど恐れていたペテロが変えられたのは、この主の変貌という出来事を直に見たからなのだということを覚えておいていただきましょう。 

「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」(マタイ1615)
「あなたは生ける神の子キリストです。」(マタイ1616)

 この告白をイエス様はほんとうにお喜びになって、

「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です」(マタイ1617)

「そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。」(マタイ1618)

 こう仰いました。

 ここに「ペテロ」はペトロス(小石)という意味の言葉が使われており、「この岩」は「ペトラ」()という意味の言葉が使われています。「わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てる」と仰ったのは、皆さんよくお分かりの通りです。「あなたは生ける神の子キリストです」。つまり、教会というのは、イエス様を、「あなたは生ける神の子キリストです」と心からアーメンと告白する人たちの集まっているところなのです。このことをほんとうにアーメンと言うことができるのは、罪を赦されるという経験、イエス・キリストの十字架によって罪許され永遠の神の子のいのちが与えられるという、このほんとうに悔い改めて新しいいのちが与えられているという、そのように生まれ変わった者たちだけが告白することができる。「汝はキリスト活ける神の子なり」と告白できる岩にイエス様は教会を建てると仰いました。

「わたしは建てます」
「この岩の上に建てます」
「わたしの教会を建てます」

 きようはこの三つのことばに注目してみたいと思うのです。

「わたしは建てます」
 教会は主イエス様ご自身がお建てになるものです。よく工事現場に施主の名が書かれてあるようなイメージを私は持ってしまったんですが、教会はイエス様がご自身がお建てになるもの。つまり人間が勝手に建てるようなものではない。教会は神的な起源を持っているものです。
 こんな例話を出すことさえ嫌なんですけれども、宗教法人というので税金を逃れるために、何とか本尊、何とか大仏というようなものを建てて、私たちは宗教法人ですといって、課税を逃れる方便として使う場合があります。想像しただけでも嫌なのですけれども、教会というのは、誰か人の思惑で建てるようなものではない。私はこの盛岡教会もいろんな目に見えるところはありましたけれども、イエス様ご自身がこの教会をお建てくださっている。

「この岩の上に建てます」
 当然これはお分かりです。「あなたは生ける神の子キリストです」というこの告白をしている人たち、イエス様に対して、この告白に対してどうかほんとうにピュアな混じりけのない信仰を持っている人たちの集まりがこの教会なのだということを覚えていただきたいと存じます。

「わたしの教会を建てます」
 ここに私は、私たちの教団の教義及び条例というすこしかたぐるしい小さな本があります。つまり、インマヌエル綜合伝道団というものは、こういう教義の上に、そしてこういう条例のもとに成り立っているという、日本の国に憲法があるように、法律があるように、私たちは、この教義及び条例というものによって成っているのですけれども、そこには第14条に教会というものの定義が記されています。
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 「教会とは、キリストがその基を据えた信仰者の集まりである。個々の教会においては神の言葉が正しく説き明かされ、聖礼典が正しく執行される。神を礼拝し、信仰者が互いに交わり、キリストの救いが宣証されていく。個々の教会は、聖なる一つの使徒的公同教会に連なる」
 これが私たちの教義の中に記されている第14条「教会とは」であります。

 教会とはキリストがその基を据えた信者の、信仰者の集まりである。これアーメンですね。キリストがその基を据えた信仰者の集まり。そして個々の教会においては、つまり、ローカルチャーチ、私たちの今でいうのならば、インマヌエル盛岡キリスト教会においては、神のことばが正しく説き明かされているところ。つまり教会はこの聖書が正しく説き明かされているところでなければならない。もしここで有能なキリスト教学者がいて聖書を説き明かしたとしても、神のことばが正しく説き明かされるということ。教会は時事問題とか社会問題を論じる場所では決してない。聖書のことばが説き明かされるところ。それから聖礼典が正しく執行されるところ。

 私はこの条例を見ながら、ああ、御茶ノ水のチャペレンの先生が仰ったことが、こういう解釈から見るとよくわかるなと思ったのです。お茶の水のその特別集会のチャペレンのところでは、神のことばが正しく説き明かされていた。だけども、ここ教会じゃないんだよ。聖餐式、或いは洗礼式を持つところではない。

 教会はクリスチャンたちが、あの迫害を逃れたローマの時代、地下墓地であるカタコンベに潜んで、使徒たちが、暗号のようなことばを交わしながら、ああ、スパイじゃないね、だいじょうぶ、仲間たちが集まって、そこで彼らが何をしていたのか。聖餐式をしていたのです。その当時まだクリスチャンという名で呼ばれていなかったかもしれませんが、その者たちが示し合わせてどこかにいる。それをスパイのような人たちが後をつけていって様子を探ると、讃美歌が歌われて、そして、そこで「取りて食らえ、これは我が肉なり」。十字架で裂かれたイエス様の御苦しみ、御躰を象徴するパン」、「取りて飲め、これは我が血なり」。そしてぶどうの液が回される。ほんとうにクリスチャンたちは聖餐式をこの迫害の中で、信徒の皆が一緒になることを喜びとして、彼らは命がけで聖餐式を持っていたのです。それをスパイたちが、「あのグループは人の肉を食べている。人の血を飲んでいるとんでもない人たちだ」といったデマを流したことがクリスチャン迫害のいきさつにもなった。これは神学院で学んだキリスト教概論でしたか、歴史書の文章の中に書いてあったことを見ながら、私はほんとうにあの意味するところをはたと気がついたのでした。

 そこは十字架を建てて礼拝をするというようなそんなところではなかった。むしろ地下墓地に隠れて、誰も入ってこないようなところで集会を持っていた。神のことばが説き明かされ、聖礼典が正しく執行されるところ、そしてそこで、神を礼拝する。信仰者が互いに交わりを持つ。そして、キリストの救いが証されていく。一人ひとりがそこで、或いは当時のローマですから、奴隷として使われている人たちもいたでしょう。でもそのような人たちをも含めてほんとうに輝いているようすを見ながら、クリスチャンになる人々が起こされていく。

 私たちは今まさにコロナ禍でこのズームを用いての礼拝、聖礼典、交わりという中にいます。ズームというこの現代のすばらしい文明の利器によってともに礼拝を守ることができていますけれども、やがてコロナ禍も過ぎ去るでしょう。そのときに、私たちはこの人たちの持っているような教会での礼拝、そして交わりを、聖餐式を心から慕うそのような者でありたい、そのような交わりの中に、あり方に、今私たちはズームではあるけれども、インマヌエル盛岡キリスト教会の一員としてあるのです。

 そして、個々の教会は、聖なる一つの使徒的公同教会に連なる。この盛岡の教会もほかの団体や、ほかの群れの、例えば私たちはこの前、ズームで、郡山教会の礼拝に一緒に加わらせていただきました。一つの公同的な教会、或いは、それが群れを超えてほかの教派、教団でも同じ主イエス様を信じている人たちの公同的、この公同教会という、これはいわゆるよく言われるカトリック教会という目に見える、そういう地上の組織ではなくして、このカトリックという意味はまさしくそういう意味ではあるのですが。ほんとうにみんな一つとなるイエス・キリストを救い主として信じている、そういう一つを教会の中にある。そして今日時間があれば、もっと触れたいなと思っていたのは、たとえば私たち盛岡教会、ここに一つの教会が成り立っています。しかしそれとともにたとえば、すでに天に帰っておられる方々は、これはもうすでに闘う必要はない。戦い終えて凱旋して天に帰っていったという意味で、凱旋の教会。そして私たち今、地上にあるこの盛岡教会は、地上で一歩外に出たのならばサタンとの闘いがある。地上における教会は戦闘の教会です。凱旋とか戦闘というとすこしイメージが違ってしまうかもしれませんが、謂わんとするところはおわかりでしょう。私たちはサタンとの闘いの中にある。そして、イエス・キリストを主として従っていく教会。私たちはやがて凱旋の教会の中に入っていくでしょう。

 この「わたしの教会」というイエス様の中に、どうかインマヌエルだけがまことの教会だというような意味では決してなくして、このような教会とは、キリストがその基を据えられた信仰者の集まり、個々の教会においては、神のことばが正しく解き明かされ、聖礼典が正しく執行され、そして神を礼拝し、信仰者が互いに交わり、キリストの救いが宣証されていく。ここの教会は聖なる一つの使徒的、ほかの教会とも同じ連なっているものなのです。どうぞこのような信仰の中に生かされていただきましょう。

※音声データ、イラストは教会からお借りしています。
⏰5時55分更新



 

 

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メモ

J-MERO

ゲストはHKT48 &MARiA
若い人たちが力いっぱい頑張ってくれているのを見ると明るい気分に。
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☆  ☆  ☆

今週おもしろいと思ったのは、これは再放送であったけれども、環境が厳しくなる中、タバコを多くの植物と接ぎ木することによって環境に強い植物を作り出せるということだ。いつかはコオロギを食用にする研究をしている方がいたけれども。こういう研究が積み重ねられていることを幾ばくかでも知ると、災害、嵐、猛暑の危機的状況がいくらかでもしのぎやすい。これもクラシック倶楽部に近い時間帯の周辺番組から。

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⛳20時54分更新

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210827 クラシック倶楽部を聴く 服部百音 バイオリン・リサイタル 島根県川本町公開収録

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朝の光。

☆  ☆  ☆

けさのクラシック倶楽部

数々のコンクールで優勝を果たした気鋭のバイオリニスト・服部百音と、卓越した技巧で注目のピアニスト・亀井聖矢。若き才能2人による、情熱あふれる演奏をお送りする。 服部百音(バイオリン)祖父・服部克久、父・隆之(共に作曲家)という音楽一家に育つ。2009年ヴィエニャフスキ国際コンクール(ジュニア部門)を最年少で制し、10歳で演奏活動を開始。【曲目】ノクターンとタランテラ 作品28(シマノフスキ作曲)、バイオリン・ソナタ 第1番 へ短調 作品80(プロコフィエフ作曲)、チガーヌ(ラヴェル作曲)【収録】2021年6月27日 悠邑ふるさと会館(島根県川本町)

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服部百音:島根は訪れる前から、日本のある意味原点の場所というか、神話にもあるように神聖な空気とかエネルギーに満ちた場所だとおもうんですけれども、音楽というのも目に見えないとても大きな存在と人間が結びつきを感じることができる芸術だと思うのでその意味で何か共通点があるというか、こういうところに来て音楽ができるということはすごく嬉しいですし、神様に感謝しながら弾かなきゃと思ってます。
亀井聖矢:すごく自然が美しくて、美しいという中にもすごく厳かな感覚があって、その中にこの自然の中にたたずむこの立派な音楽堂の中で二人で一緒に演奏できるということがすごく自分にとっても音楽のインスピレーションにもなりますし、またそこから得たものを音楽を通して還元していけたらなというふうに思ってます。
バイオリン・ソナタ 第1番 へ短調 に挑戦する思いは
服部百音:当時の戦争であったり、ソ連の粛清であったり、そういった殺伐とした時代背景が色濃く反映された曲ですし、ピアノとバイオリンはけっこう役割が分かれているんですね。で、こう物理的な爆撃音だったり鐘の音であったりとか、そういった残酷な現状というのを淡々と映し出す役目のピアノとそこに魂の歌であったり人々の叫びとかそういった感情とかいったものを歌うパートであるバイオリンというか二つの要素が一つになって一つの戦争映画のようなものなんですが、そういった世界観を作り出せる。ピアノとバイオリンの編成ですけれども、シンフォニーのような作品で、プロコフィエフに関しては、容赦のない音というのを出してくださるのでそれがまたこう内臓をえぐり取られるようなひしひしと感じる、やっぱり近くで弾いているので感じて刺さって来るものがあると、それを受けてこちらの出す音というのもさらにこの世界にマッチする音が出せたらいいなと思っています。
亀井聖矢:僕はそれを受けてそういう気持ちになっていくような感じです。
服部百音:またそれを受けて音を出してるわけなんですけどね。
亀井聖矢すこし特殊で難しい面もあるんですけど、ただこの曲のそういうこの世の終わりのような世界観と音色と雰囲気がすごく心に刺さるような大好きな作品なので、そういった世界観を存分に届けられるように演奏したいなと思います。
服部百音:どこまで作品の持つ描写的な部分は近づけることができるんだろうとずっと思ってたんですけど、ある意味音楽的にまとまってしまうと、どうしても人の感情の産物で終わってしまうというか、そういった部分も出てくるんですが、そういったところを一切前提を取り払ったところで音楽を作っていってくださるので、一緒に話しながらすごく新鮮ですね。新しいプロコフィエフの世界が私も見えています。
<チガーヌ>
服部百音:最後のチガーヌは私のソロの部分がすごく緊張しますけど、そこが終わるとピアノが入って来てくれるんでほっと一息という感じで、安心するんですけど。
亀井聖矢:僕はそのあとに出てくる16小節ぐらいのソロの部分が一番緊張しますけどね。何よりもその音遣いというかピアノもバイオリンも同じ旋律を奏でて、それがハモリというか、そういう融合の仕方がそれぞれにどんどんどんどん変わっていくので、すごく不思議な音色というが感じられる部分があるし、最後はほんとうに二人で盛り上がって盛り上がって派手に終わるので。
服部百音:丁々発止じゃないですけど、ちょっとアドリブ的な勢いだったりそういったのは本番で出てくるものだったりしますけど、楽譜に記されたことを真面目にやってるんじゃないという曲なので、そういった面白おかしい部分だったりとかちょっと滑稽に弾いてみるとかいったやりとりが幅があって面白い曲ですけど、ラヴェルのかわいらしくて意地の悪い性格がよく出ているすばらしい作品なので、楽しんでいただきたいです。

🎵きょうのプロコフィエフ、ラヴェル、面白かった。平和の中に生まれ育った世代の演奏家の解説と演奏。それがなかなかリアル。

 

🎧名曲アルバムはテノール福井敬のトスティ作曲「マレ・キアーレ」。現田&東京フィル。
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🎵福井さんのテノールは短時間であっても、じっくりと聴かせていただいたという実感がのこる。

⛳中空に飛行機雲がのびていく。子供たちの声がしている。16時31分更新

 

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210826 クラシッククラブを聴く 松田理奈 バイオリン・リサイタル

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暗く見えても、雲の向こうのわずかな明るみには、理屈を超えた希望が。

☆  ☆  ☆

 

松田理奈はニュルンベルク音楽大学並びに大学院を首席で卒業。第73回日本音楽コンクール第1位。ソリストとして第一線で活躍。ピアの三舩優子は第57回日本音楽コンクール第1位。 3歳からバイオリンを始める。桐朋学園で学んだ後ドイツのニュルンベルク音楽大学に留学、大学並びに大学院を首席で卒業。第73回日本音楽コンクール第1位。ソリストとして国内外の有名オーケストラと共演。ピアノの三舩優子は第57回日本音楽コンクール第1位。【演奏】松田理奈(バイオリン)三舩優子(ピアノ)【曲目】バイオリン・ソナタ第1番ト長調作品78(ブラームス)/バイオリン・ソナタ第3番二短調作品108(ブラームス)
ほか【収録】2021年6月10日ハクジュホール(東京)―番組紹介よりー
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コメント
松田理奈:
今まで小品だったりとかいろんな曲を演奏させていただいてきたんですけども、その他の作品というのも初めてなんですけれども、三舩さんのピアノの音自体というのが、ほんとうに意思がはっきりしてらっしゃる。こういうふうにフレージングを考えてらっしゃるんだ、こういうふうに感じてらっしゃるんだという、完全に新しい刺激というものがたくさんありまして、違う角度からの融合というみたいなのが一つ大きな楽しみなのかなと思って弾いています。
三舩優子:
理奈さんは、以前共演させていただいたときに、すごくパッションもあって、もちろん若々しい瑞々しさもあって、ぜひご一緒できららいいなあというふうに思っていたので、ブラームスはかなり重たいというか深い作品ですけれども、ですからこそいろんな解釈や見ているもの感じているものを越えて二人の融合が一つうまく出来上がったらいいなと楽しみにしています。
松田理奈:
3番に関しては、かなり冷静にいられていない、でも冷静でいなきゃいけないというふうな、何か自分を抑えようとしている努力がたくさん詰まっているような感じがして、だからこそ2楽章の美しい温かいメロディーがほんとうにありがとうの気持ちで感謝みたいなのが存分に込められて
三舩優子:ピアノも端から端まで使い切るので体力も気力もとても必要という、ほんとうにチャレンジということばがぴったりの作品だなあと思いますが、感情的には抑制された情熱とか抑制されたノルタルジーとかセンチメンタリズムみたいなものを弾こうというよりは音色の種類をたくさん抱えていないと表現がとても難しい作品だと思います。

🎵1番が完成する前にシューマンの息子フェリックスが亡くなったというけれども、クララが亡き子を呼ばわる悲しみの声も聞こえる。2番たしかに抑制を思わせる旋律があってこそ第2楽章が一層熱く切々と内を貫く。

 

🎧名曲アルバム。アリ・パローゾ作詞、作曲「ブラジルの水彩画」
歌ペドロ・ミランダ、Perc宮澤摩周、ギター尾花毅

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⛳14時21分更新

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210824 ギル・シャハムのバイオリン 210825アラベラ・美歩・シュタインバッハーのバイオリン

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街がずぶぬれているこんな雨の朝にも音楽のあるありがたさ。

☆  ☆  ☆

ギル・シャハムのバイオリン

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ギル・シャハム&江口玲
クラシック倶楽部を聴く名手ギル・シャハムによるバッハの無伴奏パルティータ、そしてシャハムが「すばらしい音楽の達人」と評するピアノの江口玲との共演でフランクのバイオリン・ソナタほか。
ギル・シャハムのコメント
「バッハほど喜びをもたらす音楽はない」「バッハを練習するとより良い人間になった気がします」「すべての音楽の源はバッハ」「モーツァルトはバッハを研究していたし、ベートーベンもショパンも平均律蔵ヴィーア曲集を弾いていました。シューマン、ブラームス、プロコフィエフ、あぶねる、ドルマン、スコット・ウィーラ……ポップミュージシャンさえもすべての音楽はバッハとつながっているのです」
「わたしはとてもラッキーです。玲のような共犯者がいてくれて。コンサートではこの相棒といろいろな悪だくみをしてきました。出会って30年。お互いを知り尽くしている。彼の演奏には隙がなく巧みに完成されています。そしてその場にいる全員を旅へといざなってくれるのです」

🎵幸いにも何度も聴く機会に恵まれたギル・シャハム&江口玲。小気味よく爽やか、さりげない清涼な風を潜り抜けたときの心地が。フランクは江口氏語る作曲者に忠実な再現であるところからかまた一味違った情感が。

🎧名曲アルバムはバッハの「農民カンタータ おいらの今度の領主様」
ソプラノ天羽明恵、バス浦野智行、指揮岩村力&東京フィル。
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☆ ☆  ☆ 

 

アラベラ・美歩・シュタインバッハー&島田彩乃
アラベラ・美歩・シュタインバッハーはドイツ人の父と日本人の母の間にミュンヘンで生まれた。世界の主要オーケストラと共演するほか、ソロや室内楽の分野でも活躍している。【ピアノ】島田彩乃【曲目】ロマンチックな小品から 第1曲(ドボルザーク)、バイオリン・ソナタ(ドビュッシー)、フラトレス(ペルト)バイオリン・ソナタ第2番 イ長調 作品100(ブラームス)【収録】2021年6月7日 王子ホールー番組紹介よりー 

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アラベラ・美歩・シュタインバッハーのコメント
新型コロナウィルスの影響を受けて1年以上になります。それでも日本ではコンサートが開かれていて来る前からワクワクしていました。ドイツではほとんど中止になったので、この1年はどうなるかわからなかったので、ショックを受け、怖かったです。私も気分が落ち込みました。この時期を乗り切るうえで娘の存在が救いでした。娘と一緒に過ごす時間が増え感謝しています。生後1年間はとても重要な時期ですから。個人的には小さな娘のおかげで新型コロナウィルスに対処できたと思います。
きょう演奏するドビュッシーのソナタは他とは全く違う作品です。弓が弦に触れるか触れないかで弾く奏法も出てきます。カラフルで自由に様々に奏法を試みることができます。このソナタはドビュッシーの中でも特に即興的で、弾くたびに変化します。ピアノへの呼応の仕方によって変化し、バイオリンが何かを与えるとピアノから別な何かが生まれるのです。まるで即興のようです。
ブラームスのソナタはそれぞれ異なった性格がありますが、3曲のうち第2番が最もロマンチックです。ブラームスは自分と同じ場所にいる感じで、ドイツ的とは言いたくありませんが、ある種の重厚さとリアリティがあります。ブラームスはドイツ音楽そのもので、私は半分は日本人、半分はドイツ人なのでとても親しみを感じます。
 今のような誰もが恐怖におびえ、苦しみ先が見えないときこそ文化や音楽が重要になると思います。音楽は免疫力を高め、私たちを病気から守ってくれると思います。これが音楽の役割で、エネルギーや安心感、強さを与えてくれるのです。

🎵毅然としダイナミックなアラベラ・美歩の演奏姿。コメントを参考にしながら聴き、ブラームスがより身近に。

🎧名曲アルバムはファリャ「スペインの庭の夜」
小泉和裕&東京フィル、ピアノ廻由美子
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ファリャはこの作品で異国情緒漂う庭園の夜の情景を呼び覚まそうとした。


⛳パラリンピック。どこからあんな力が!

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22時21分更新

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210823 クラシッククラブを聴く ティモシー・リダウト ビオラ・リサイタル

今朝がたであったか福島県に大雨注意報。
そして5時半ごろの盛岡は
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クラシック倶楽部。ビオラの音、この曇り空に歌うように。
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2014年セシル・アロノヴィッツ国際コンクール優勝。イザベル・ファウストら著名ソリストと共演。ピアノの加藤洋之は1990年ジュネーヴ国際音楽コンクール第3位。 2014年セシル・アロノヴィッツ国際コンクール優勝。著名なソリストや指揮者と共演を重ねる注目の若手ビオラ奏者。ピアノの加藤洋之は、1990年ジュネーヴ国際音楽コンクール3位入賞。室内楽の分野でも活躍。【演奏】ティモシー・リダウト(ビオラ)加藤洋之(ピアノ) 【曲目】ビオラ・ソナタ第1番から抜粋(ブラームス)詩人の恋・ビオラ版(シューマン)。【収録】2021年6月4日 王子ホール(東京)―番組紹介よりー 

 

ティモシー・リダウト:1995年ロンドン生まれ。英国王立音楽院を最優秀で卒業。2016年ライオネル・ターティスビオラ国際コンクールでイギリス人として初の優勝。以後世界各国のオーケストラと共演。ルツェルン音楽祭、ロッケンハウス音楽祭などヨーロッパの音楽祭に出演。世界を舞台に活躍。
加藤洋之:東京芸術大学を首席で卒業。大学院在学中の1990年ジュネーブ国際音楽コンクール第3位。ハンガリー国立リスト音楽院で研鑽を積み、国内外のオーケストラと共演。室内楽奏者としても篤い信頼を寄せられ、ウィーン・フィルの元コンサートマスター、ライナー・キュッヒルとは1999年以来共演を重ねる。 
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ティモシー・リダウトのコメント
ビオラというよりとにかく音楽が好きで4歳のころからいつも歌っていました。合唱団にも入りましたしミュージカルにも大変興味がありました。そういう私の音楽の歩みの中で、ある時からビオラが加わりましたが(ビオラに関しては)ひどい生徒でした。ビオラは8歳か9歳の時に始めたのですが、練習が嫌いで外で遊んだりコンピューターゲームをするのに夢中でした。でも歌はよく歌っていました。そして11歳か12歳の時に声変りが始まりました。きれいな声ではなくなってしまいました。ビオラのレッスンは毎日続けていましたが、歌ほど熱心ではありませんでした。ところがそれまでは歌にしか熱が入らなかったのに、突然ビオラに目覚め一生懸命練習するようになりました。歌のレッスンも続けていたので歌にも戻れたのですが、そのころはなぜかもうビオラと恋に落ちていたのです。それが私の人生になりました。
 この1年自宅で過ごす時間が増えましたが、以前はあまり興味がなかったピアノを弾いたりしています。音楽のさまざまな可能性を感じます。そしてビオラは私の音楽の「声」となりました。とても興味深い声です。
「詩人の恋」について、歌うことは幼いころからずっと生活の一部でした。ですから歌曲を組み入れたかったのです。「詩人の恋」の音域がビオラにぴったり重なることに気づき、歌曲の性格をうまく表せると思ったのです。「詩人の恋」の(ビオラ用への)編曲プロセスは非常に興味深いものでした。テノールが歌うように弾くところもあれば譜面に書かれたままビオラで弾くところもあります。オクターブの(上か下かの)選択はより人間の声が出るような感じにしました。歌手の音域はかなり限られていて、低音域の音は優しく甘い感じを持つ高音域とはまったく違う性格です。それをビオラの音色でなぞり、心の痛み、気持ちを表現しようと思いました。この美しい原曲の悲しみと喜びをうまく捉えられていればと願うばかりです。

曲目
ビオラ・ソナタ第一番へ短調 第1、3,4楽章 作品120第一 ブラームス作曲
作曲活動を中断していたブラームスが制作意欲を取り戻し完成させた最晩年の作品。19世紀後半に活躍したクラリネットの名手ミュールフェルトの演奏に刺激されクラリネット・ソナタとして作曲。後にブラームス地震がビオラ用に編曲した。
詩人の恋  シューマン作曲、ティモシー・リダウト編曲
くららとの結婚が決まり喜びに包まれる中に書かれたシューマンの最高傑作といわれる歌曲をティモシー・リダウトがビオラ用に編曲

🎵「詩人の恋」、この編曲は歌うことにこだわりを持つティモシーならではの編曲。ー美しい五月に/私の涙からばらに/ゆりに、はとに/あなたの瞳をみつめるとき/私の心をゆりのうてなに/神聖なラインの流れに/私は嘆くまい/鳴るのはフルートとバイオリン/恋人の歌をきくとき/若者は乙女を愛し/明るい夏の朝/夢の中で私は泣いた/夜ごとの夢に/昔話の中から/いまわしい思い出の歌ーそれぞれ淡彩で描かれた淡い短詩の歌をきいているような。「神聖なラインの流れに」が何かぐいと魂がつかまれれ、「明るい夏の朝」澄んだ一音一音が惜しまれながら心に落ちた。

 

🎧名曲アルバム。「ペール・ギュント」から「ハリング舞曲」。グリーグ作曲、山瀬理桜編曲
ハルダンゲルバイオリン山瀬理桜、ピアノ中村真理
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グリーグはハルダンゲル地方で生まれたハルダンゲルバイオリンを愛した。ライオンの頭と自然をモチーフにした伝統的な装飾。熟練工でさえ年に1,2台しか製作できないほど。弦の下には共鳴弦を張ってある。
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ハリング舞曲は劇音楽「ペール・ギュント」の第一幕の結婚式ののシーンに登場する。


けさは曇っていたが、日中は30度はあったのではないか。16時32分更新

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きょうのことば 「あなたはわたしをだれと言うか」

インマヌエル盛岡キリスト教会2021年08月15()の礼拝メッセージをお伝えいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で48年目のご奉仕をしておられます。
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説教題 『あなたはわたしをだれと言うか』(國光勝美 牧師)
聖書箇所 新約聖書 マタイの福音書161328

13 さて、ピリポ・カイザリアの地方に行かれたとき、イエスは弟子たちに「人々は人の子をだれだと言っていますか」とお尋ねになった。
14 彼らは言った。「バプテスマのヨハネだと言う人も、エリヤだと言う人たちもいます。またほかの人たちはエレミヤだとか、預言者の一人だとか言っています」
15 イエスは彼らに言われた。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」
16 シモン・ペテロが答えた。「あなたは生ける神の子キリストです。」
17 すると、イエスは彼に答えられた。「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です。
18 そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます。よみの門もそれには打ち勝つことはできません。
19 わたしはあなたに天の御国の鍵を与えます。あなたが地上でつなぐことは天においてもつながれ、あなたが地上で解くことは天においても解かれます。」
20 そのときイエスは弟子たちに、ご自分がキリストであることをだれにも言ってはならない、と命じられた。
21 そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた。
22 すると、ペテロはイエスをわきにお連れして、いさめ始めた。「主よ、とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません。」
23 しかし、イエスは振り向いてペテロに言われた。「下がれ、サタン。あなたは、わたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで、人のことを思っている。」
24 それからイエスは弟子たちに言われた。「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい。
25自分のいのちを救おうと思う者はそれを失い、わたしのためにいのちを失う者はそれを見出すのです。
26 人は、たとい全世界を手に入れても、自分のいのちを失ったら何の益があるでしょうか。そのいのちを買い戻すのに、人は何を差し出せばよいのでしょうか。
27 人の子は、やがて父の栄光を帯びて御使いたちとともに来ます。そしてそのときには、それぞれその行いに応じて報います。
28 まことに、あなたがたに言います。ここに立っている人たちの中には、人の子が御国とともに来るのを見るまでは、決して死を味わわない人たちがいます。」

 

<お話し>

『あなたはわたしをだれと言うか』、きょうはこの説教題でメッセージを導かれております。
 東北聖会で証をする機会を与えられ、そしてこれまでのことをもう一度振り返るときを、そして、一つ一つを片付けるように、この時、あの時というようにしたことがとても自分にとって良かったことでありました。そして自分と福音との出会い、それをこの機会にもう一度整理しておきたいとこのように思いまして今日のメッセージを導かれたのであります。


 特にきょう掲げましたマタイの16章、このみことばとの出会いを考えてみました。
ちょっとわかりずらいかもしれませんが、御茶ノ水学生キリスト教会館、いまは、学生という字が抜けていて御茶ノ水キリスト教会館と言って建物も大きくなっているんですが、まさに私が導かれたのはこの建物でありました。理事長が本田 弘慈、総主事が三森春生先生になっております。いま三森先生はお元気に過ごしてらっしゃいます。

 私はこの学生キリスト教会館で救われて、丸の内教会というところに導かれました。で、丸の内教会というと盛岡教会でずっとともに信仰生活を送っている方々は、どんな教会をイメージしておられるでしょうか。

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実はこの丸の内教会は新国際ビル(写真)と呼ばれている9階にありました。この新国際ビルというのは、山手線が有楽町駅、そのすぐお隣が東京駅。有楽町駅をもしイメージしていただけたのならば、有楽町駅から銀座方面に歩いても行けるそういう近い銀座はそういうところなんですけれども、それと反対側の方が皇居側なんです。で、皇居側はいわゆる日比谷といわれる、日比谷公会堂とかそういったところがあるとすれば、その日比谷方面に、有楽町駅から降りるとすぐ前が、いまたぶんそごうデパートはなくなったと聞いているんですけれども、流行歌で「有楽町で逢いましょう」というのは、そごうデパートのコマーシャルソングだったんだそうです。フランク永井という人が歌って有名になったんですが。その有楽町駅のそごうデパートのそのすぐ近く、数分のところに新国際ビルがありました。私が導かれた丸の内教会というのは会堂があってないようなもの。新国際ビルの9階に並んでいる窓、この窓の4つぐらいをパーテーションで一つ一つ区切られるようになっているんですが、日曜日になると、このパーテーションが取り外されておりまして、一つの大きなホールになっておりました。で、丸の内教会はこのホールを日曜日、祈祷会が木曜日にありますので、木曜日と日曜日はここを借り切って、いわゆる丸の内教会といわれているところがあったのであります。

 今でも思い起こすんですけれども、私たちが初めて丸の内教会のころ大きな集会に出ました時、日曜日ですから、ビルはきれいにしておかなければならないので、時々窓ふきの業者さんが、たぶん屋上から命綱をつけて、かごのようなものに乗って、上から下がってくることがありました。中には300人ぐらいの人たちが集まっていて、急に窓の外に人がぶら下がってくるのをこちらもびっくりして見るんですけれども、見られた人もさぞびっくりしただろうなと。日曜日に窓を拭いたりする光景が見られました。
 それから日曜日はこういうところは窓を開けることができない。全館の中で一つのホールにだけクーラーを点けるわけにいきませんから、夏はけっこうな暑さでした。そんな思い出があります。このようなところを丸の内教会として使っていた時代がありました。 

 そして当時、山手線と言っていましたが、今は山の手線。これに乗って、有楽町、そして私の場合には、山手線に乗って、新橋、それから品川とか大崎、そして五反田。五反田から雪が谷大塚というところのいわゆる池上線というのに乗るんですけれども、その当時の池上線。懐かしいです。乗りますと、油が敷いてある独特の匂いがしたその池上線に乗って雪が谷大塚に降りた、これが初めてのみことばとの出会いとなりました。そしてこの丸の内の教会で、蔦田二雄という先生が、メッセージを取り次いでおられました。当時はインマヌエルは文語訳聖書を公用聖書として使っておりました。先に御茶ノ水の会館に親しんでいたわけですけれども、雪が谷の伝道所に行きましたときに、ここは丸の内教会の伝道所ですので、礼拝は丸の内教会の方に出席しておりますということで、どきどきしながら丸の内教会の9階にいったのであります。ちょうどマタイ伝16章13~20節からの説教でした。忘れられません。

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16:13イエス、ピリポ・カイザリヤの地方にいたり、弟子たちに問ひて言ひたまふ『人々は人の子を誰と言ふか』
16:14
彼等いふ『或人はバプテスマのヨハネ、或人はエリヤ、或人はエレミヤ、また預言者の一人』
16:15
彼らに言ひたまふ『なんぢらは我を誰と言ふか』
16:16
シモン・ペテロ答へて言ふ『なんぢはキリスト、活ける神の子なり』
16:17
イエス答へて言ひ給ふ『バルヨナ・シモン、汝は幸福なり、汝に之を示したるは血肉にあらず、天にいます我が父なり。
16:18
我はまた汝に告ぐ、汝はペテロなり、我この磐の上に我が教會を建てん、黄泉の門はこれに勝たざるべし。
16:19
われ天國の鍵を汝に與へん、凡そ汝が地にて縛ぐ所は天にても縛ぎ、地にて解く所は天にても解くなり』
16:20
ここにイエス、己がキリストなる事を誰にも告ぐなと、弟子たちを戒め給へり

ちょうどこのところが、丸の内教会の礼拝の聖書箇所でした。
御茶ノ水の会館ももちろんすばらしい恵みの場所でしたけれども、このインマヌエルの蔦田二雄という先生は、人一倍小柄な先生なんです。ほんとうに小柄な先生なんですが、この先生が丸の内の講壇に立って、がっと構えてメッセージを取り次がれたときに、私は、このお爺ちゃん、すごいな! と思いました。その迫力に圧倒されました。それが大きな印象でありまして、実はこのことばこそ私の信仰生活の土台、或いは、背骨になったといってよろしいのです。何回かここのところからメッセージが礼拝ごとに解き明かされ、そのたびにすごいなーと心から感動したところこそ、私の信仰の背骨になっています。文語訳を懐かしく思います。

 

ピリポ・カイザリヤ地方と言いますと
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ガリラヤ湖の下の方に下りていくと、いわゆる死海になるわけですけれども。ピリポ・カイザリヤは、ガリラヤ湖よりもぐっと北の方にあって、あまり注目されない辺境の地にあります。そこにお弟子さんたちとイエス様が移動された。それはイエス様のご生涯にとっても非常に意味のあるところでありまして、この地図にはありませんが下の方いわゆるエルサレムの方、そちらの方にイエス様の評判とが、だんだんと、それは良きにつけ悪しきにつけ、イエス様の存在というものが、無視できないほどの大きな影響をもっていた。そしてイエス様は、いよいよ自分の使命を全うする大切な十字架に向かう歩みをこれから始めるという、イエス様のご生涯にとっても大きな転機を迎えようとしていたところなのです。ですので、イエス様はそれまでご自分と一緒に3年半のあいだ共に生活をしてきたお弟子さんたちに、さあ、これから十字架に向かおうとするとき、あとを託さなければならないお弟子さんたちは、自分についてどのような評価と言ったらいいか認識しているのか、自分のことをどう告白するだろうか、それがイエス様にとって非常に生命的な大切な部分でした。

そして、できたら来週にお話ししたいと思っておりますけれども、ヘルモン山というところがあります。これは夏でも雪があるというところですけれども、この変貌山というマタイ伝でいえば、17章2節のところに、このところでイエス様が姿変わりをされたというところですが、これは来週できたら扱わせていただきたいと思っているところでありますけれども、

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16章にこのピリポ・カイザリヤに行くとき、お弟子たちに、15節「あなたがたは、わたしを誰だと言いますか。」と非常にきわどい質問をされたんです。このマタイ伝の今のところをマタイ16章13節~20節は 信仰の告白(confession)告白「あなたは生ける神の子キリストです。」とシモン・ペテロ。
また、マタイ16章21節~28節は 十字架の宣言(crucifixion) 磔殺「人の子は十字架につけられ」、そのときペテロは「主よ、とんでもないことです。…」と言ってしまうのですが。それから17章1~8節 主の変貌(crowned)戴冠「御姿が変わった。顔は太陽のように輝き、衣は光のように白くなった。」

これを手元にあります資料などを参考に、覚えやすい三つのCによってこの部分をまとめてみました。きょうはこの最初の一つか二つの部分、どこまで時間が許されるかわかりませんが、お話しを進めていきたいと思っています。 

 人々は人の子を誰だといっていますか。皆さんも聖書をお開きいただきたいと思います。マタイ16章13~14節のところ、彼らは言った。「バプテスマのヨハネだという人もいる。或いはエリヤだという人もいる。またほかの人たちはエレミヤだと。或いは、預言者の一人だとか言っている。人々はそう言っている。そのあとイエス様は弟子たちがご自分をどのような存在であると捕らえ認識しているのかという生命的な質問を投げかけました。「あなたがたは、わたしをだれだと言いますか」。そのときペテロが「あなたは生ける神の子キリストです」と答える。これはペテロだけではなくして、12弟子の筆頭格のペテロがお弟子さんたちを代表して、そう、あなたこそ、生ける神の子、われらが待ち望んでいるキリストですと答えたのです。これがもしほかの人たちが言っているように、あなたは偉い人です、私たちもそう思ってますなどと言ったなら、イエス様はどんなに悲しまれたことでしょうか。

イエス様は「神の子」というペテロのこの告白をほんとうに喜ばれたのです。
「バルヨナ・シモン、あなたは幸いです。このことをあなたに明らかにしたのは血肉ではなく、天におられるわたしの父です」

バルヨナ・シモンというのはバルテマイとか、何々の子という意味です。バルヨナ・シモンといわば改まって呼ぶのはこのペテロのことです。バルヨナ・シモン、ペテロ、あなたは幸いだ。わたしを生ける神の子キリストだと内に明らかに示されたのは、血肉で、人間の限られた理論的な結論から導き出せたのではない、イエス様がほんとうに神の子だと告白できるのは、天のお父様、そしてそれを私たちにうなずかせてくださる聖霊様、つまり、神的なそういった力によってのみイエス様はキリストだということを告白することはできない。これは非常に大きな意味のあることです。私たちは学問的な理論的な結論によってだからあなたは神の子ですと言ったのではない。そうではなくして、聖霊なる神様が、父なる神様の意によってキリストを主と告白させてくださる。ですからこのイエス様の「バルヨナ・シモン汝は幸いなり。汝にこのことを示したるは血肉にあらず、天におられる我が父なり」。ほんとうにイエス様はこの告白を導き出すことにこそこれまでの数年間を過ごしたといっていいでしょう。それほどの告白を引き出されたあと、イエス様は、「そこで私もあなたに言います。あなたはペテロです。わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます」

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 マタイ伝16章18節の「ペテロ」は「ペトロス」ということばが使われており、これはいわゆる岩というよりもむしろ「小石」をあらわす。「この岩」とは「ペトラ」、ペテロはそのようなペテロということです。

 イエス様は「そこで、わたしもあなたに言います。あなたはペテロです」。そしてそのペテロという言葉に合わせるようにして、「わたしはこの岩の上に」、このペトラということばがこんど使われている。このペトラという言葉は「岩」という意味を持つ。「わたしはこの岩の上に、わたしの教会を建てます」。こうおっしゃった。イエス様はペテロという一人の人間の上に教会を建てるとは言わない。ローマカトリックの方は、イエス様がそのようにおっしゃったんだから、ローマ教会はペテロの正統的な後継者だからといってその権威を主張いたしますけれども、それはおかしなことです。むしろ、このところは、イエス様は「わたしはこの岩の上に」、「あなたは生ける神の子キリストです」というイエス様に対する信仰告白、この岩の上にわたしの教会を建てる。この意味がお分かりいただけますでしょうか。

教会はイエス様を何というか。「あなたは生ける神の子キリストです」というこの岩の上に教会は建てられているのです。そして、この告白を導き出されたあと、イエス様は初めて公に十字架のことを語られました。

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21節「そのときからイエスは、ご自分がエルサレムに行って、長老たち、祭司長たち、律法学者たちから多くの苦しみを受け、殺され、三日目によみがえらなければならないことを、弟子たちに示し始められた」。
 イエス様は弟子たちの信仰告白を導き出して、それから、よし、わかったね、わかったね。それならばといって、イエス様は初めてご自分の十字架のことについて語り始めなさいました。

 それを聞いたペテロが、「え? イエス様、あなたが十字架にお架かかりになるんですって? なんでそんなことがあるんですか。とんでもないことです。そんなことがあなたに起こるはずがありません」といっていさめ始めたというのです。誰を? イエス様をいさめ始めたというのです。わかってない。ペテロもわかってないんです、まだ。先ほどあれほどすばらしいイエス様を大喜びさせた満点の答えをしたペテロに十字架がわかってない。しかし、イエス様は振り向いてペテロに言われた。

「下がれサタン」

ちょっときつすぎる言葉です。悪魔にですよ。下がれサタン。さっきあんなにイエス様を喜ばせたペテロ、さっきあんなにイエス様を喜ばせて、喜んでいたそのペテロが、十字架のことがわからなくなって、そんなことはない、イエス様何を仰るんですかといったそのペテロに、それは人間的にいえばそれほどイエス様を愛してそれほどイエス様を慕っていた、だからこそ、そんなこと言うもんじゃありませんよイエス様と。その時にイエス様は、ペテロに、「下がれ、サタン。あなたはわたしをつまずかせるものだ。あなたは神のことを思わないで人のことを思っている」。

イエス様は私たちの罪の身代わりとして私たちを罪から救ってくださるために十字架に架かりそしてよみがえられる。この贖いによってイエス様は救い主となるはずなのに、サタンは、その十字架を、十字架なしの救い主、それにさせようとする、これがサタンなんです。主の十字架の救いというものをないがしろにそれを骨抜きにしようと画策するもの、ここでイエス様が厳しく「サタンよ退け!」、これはペテロに言っているというよりも、十字架を避けるように言ったそのペテロを通してサタンが語ったのです。それに対して、

ヨハネ6章15節、これはイエス様が5000人の施食、少年の持っている小さなお弁当を増やして人々を満腹になさったあの奇跡の場面です。人々は、この方こそ私たちが待ち望んでいたメシアだ。キリストだ、救い主だと言った。

15節 人々がやって来て、自分を王にするために(メシヤにするために)連れて行こうとしているのを知り、再びただ一人で山に退かれた。

人々がイエス様をこの世的なメシヤにするために群がってきたときに、イエス様は、人々から身を隠しなさる。もしこのときイエス様がそのまま王として、この世の貧困をなくし、人々に豊かに糧を与えるそのために私は来たのだといったのならば、サタンの思うつぼです。サタンはイエス様を十字架の救いなしに何とかしようと虎視眈々としていたの8うです。

ルカ22章42節これはゲッセマネの園の祈りです。いよいよイエス様は十字架を目の前にした。その時42節

「父よ、みこころなら、この杯をわたしから取り去ってください。しかし、わたしの願いではなく、みこころがなりますように。」

この杯をわたしから取り去ってください。人々の罪を背負って愛する神様の罰を受けなければならないということが、イエス様にとってどんなにつらいことであったことか。十字架の上でイエス様はまさしく罪の化身となられねばならない。これほど苦い杯はない。

「しかし、わたしの願ではなくみこころが成りますように」。

み使いが現れてイエス様の祈りに力を与えられた。いよいよ苦しみ悶えて切に祈られた。十字架というものがどんなに大きな意味があるものかを、私たちはここで知ります。 

 マタイ27章に開いてください。39節。いよいよイエス様が十字架につけられたとき、39節「通りすがりの人たちは、頭を振りながらイエスをののしった。神殿を壊して三日で建てる人よ、もしおまえが神の子なら自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い」
 サタンはこの十字架を何とかなきものにしようとして、いまはのきわの場面でさえも「十字架から降りてみろ」。イエス様を十字架の救いからなきものにしようとサタンは必死になっている。

 そしてイエス様はマタイ16章24節で語られました。
「だれでもわたしについて来たいと思うなら、自分を捨て、自分の十字架を負って、わたしに従って来なさい」。

 きょうのお話はここまでにさせていただきたいと思います。来週はこのところからお話しを継続させていただきたいと思います。

※画像は教会からお借りしています。


⏰6時41分更新


 

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メイが言う「あなたたちこそがチャンピオンだ!」

 近くに24時間営業のスーパーがある。6時台に買い物を済ませておいた方がよくはないか。この時間なら店内には一人か二人しか客は来ていないだろう。そう思いつつも迷う。ここでJ-MEROから焦点が外れ、ついつい起床はなぜか6時半。迷うとはこういうこと。結局どちらも成しえないという結果に。

 朝のTV習慣が探り当てた「おはよう日本」に顔を出してくれたのがイギリスのミュージシャンで天文学者(天体物理学博士)でもある「クイーン」のブライアン・メイさん。彼は74歳。メッセージがあった。こんなときの音楽とは?

「今は人類が光へ向かう道を模索している時」「あなたたちこそがチャンピオンだ」

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 医療崩壊目前にしてコロナの最前線で闘う医療従事者の方々、また死活問題の瀬戸際にいらっしゃる飲食、娯楽に携わっている方々、そればかりではないもう社会のありとあらゆる方々が全力をあげて対峙し闘っている。メイが言う「あなたたちこそがチャンピオンだ!」。
 

⛳19時57分更新。

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210820 クラシック倶楽部を聴く ニルス・メンケマイヤー ビオラ・リサイタル

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6時17分の雲。どこぞの天才が創り出すこの造形、これを確実に形と成して留め置くには写真、映像に録り置くしかない。瞬時にして形を変え生まれては消えゆくはかなさ。堅牢な積乱雲でさえも夕べとともに跡形もなく消えゆく。いまこのときの、今の一瞬の造形のいのち。

けさのクラシック倶楽部

ドイツ・ブレーメン出身のニルス・メンケマイヤーは、2006年、ユーリ・バシュメット国際ビオラ・コンクールで優勝した俊英。「ビオラは天国と地上の間にある楽器です。光り輝くバイオリンに対し、ビオラは影と憂いの楽器。暗く陰影を帯びたビロードのような音色が、心に奥深いところに訴えかけてきます。(メンケマイヤー)」
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楽曲
☆「バイオリンとビオラのための二重奏曲 K.423から 第2楽章」モーツァルト:作曲
(バイオリン)山根 一仁、(ビオラ)ニルス・メンケマイヤー
「ピアノ、クラリネットとビオラのための三重奏曲 変ホ長調 K.498」モーツァルト:作曲
(ピアノ)島田 彩乃、(クラリネット)コハーン・イシュトヴァン、(ビオラ)ニルス・メンケマイヤー
「ビオラ・ソナタ第2番 変ホ長調 作品120第2」ブラームス:作曲
(ビオラ)ニルス・メンケマイヤー、(ピアノ)島田 彩乃

 

🎵ビオラが特に重要な役割をつとめる室内楽曲を、ビオラの名手ニルス・メンケマイヤーと、クラリネットのコハーン・イシュトバーン、バイオリンの山根一仁、ピアノの島田彩乃で演奏。聴きどころは番組解説にもあった「ビオラは天国と地上の間にある楽器です。光り輝くバイオリンに対し、ビオラは影と憂いの楽器。明白な主張をする楽器ではありません。暗く陰影を帯びたビロードのような音色が、心に奥深いところに訴えかけてきます。(メンケマイヤーのコメント)」。またメンケマイヤー、「ビオラは際立った存在の影となり支えている楽器なのです。なのでビオラで明るい曲を弾いていてもどこか影を感じます。ビオラの美しさは秋の彩ですね、春ではありません。そこにとても魅力を感じます」と。
 モーツァルトの「バイオリンとビオラのための二重奏曲」これがハイドン的と聴いていたところ、解説に「病にあったミヒャエル・ハイドンの窮地を救うためにモーツァルトが代作した」と。ハイドンの曲が1音符もらざず、はずすことなくきっちりと脳内に明記されているモーツァルトが、瞬く間に、かどうか、そう時間をかけずにハイドン風に書き上げたところ恐れ入ります!
 「ピアノ、クラリネットとビオラのための三重奏曲 変ホ長調 K.498」、ビオラはバイオリンが導き鳴っていて自然というパターンに親しんでいるせいか、バイオリンのない曲を聴いていて、その1オクターブ上あたりをバイオリンが鳴っているように、これは幻聴に近い感じなのだが、そんな感じに捉えられることがある。この曲、ジョークを飛ばしながらのことばの戯れのような。ビオラが確固たる立ち位置を得、陣取って鳴り響いているという感じ。
 ブラームスの「ビオラソナタ変ホ長調」、。ブラームスはよくわからないが、人の底の想いを持ち上げ芸術上の市民権を得させてくれているかなと。番組解説にもあったが、WIKIにも、これはブラームスが晩年になって創作意欲を失っていたところ、名クラリネット奏者リヒャルト・ミュールフェルトの演奏に刺激されて立て続けにクラリネット作品を作曲したが、ブラームス本人によってビオラ用に書かれた曲。やはり、これもクララ・シューマンに批評を求め、またロベルト・シューマンの影響もあるのかもしれない。このところは、磯部周平の研究に詳しいらしい。
 オケの場合でもセロに注意力を向けることはあっても、ビオラに特に耳を傾けるということはそうない。どうかすればビオラをセロだろうと勘違いしていて何ら識別しようと注意力を喚起してみることすらしない。しかしこういった室内楽で、ビオラ用の曲を聴いてみると、その役割、滋味というものを教えられる。明るい色彩にさーと淡彩で陰影を施された絵画を見ているような味わいなのだ。クラリネットには音の性質的な共通点が感じられる。何れもブラームス的な翳りを弾き出してくれる。メンケマイヤーのいう「ビロードのような」。美しい重音となった時に殊にもそう感じられる。ビローがビオラとすれば、絹の楽器は? ホームスパン、羊毛の風合いの楽器はなどと連想。ただブラームス作品のほうによりビオラの持つ音の「こく」を味わうことができた。奏者がどう弾くかよりも楽曲への興味から聴いたけさの視聴、このように時間を経過すると、記憶から剥落してしまったところも多いのだが、心の何らかの滋養とはなっているだろう。
 以前聴いたときとほとんど同じ思いをもっての視聴となった。

🎧名曲アルバムはエステン作曲「アルプスの夕映え」
角聖子ピアノ。
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⛳遠くに虫の音、思いおもいの方角へと駆け抜けるクルマの走行音。昼日中の焼けつくような暑さは闇に消えたか、点在するビルの明かりと民家の窓明かり。先ほどまで雲間に見え隠れしていた月は姿を隠し、涼しく心地よい風がきょうの終わりのプレゼントのように吹き込んでいる。
耳奥には「アルプスの夕映え」。22時03分更新。
消してしまうには惜しい今夜の月の写真もプラス。
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210819 クラシッククラブを聴く タカ―チ弦楽四重奏団/ヴィジョン弦楽四重奏団

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けさ4時半、暁の空を望みながらクラシッククラブを待つ。

タカーチ豊かな弦の響きと緊張感あふれる演奏で世界的な人気と実力を誇る
1975年ハンガリーで結成。豊かな弦の響きで世界屈指の人気と実力を誇る
曲目:弦楽四重奏曲ヘ長調作品96「アメリカ」(ドボルザーク作曲)

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ヴィジョン2016年ジュネーブ国際音楽コンクールで第一位、副賞も全て獲得した実力派。2012年ベルリンを拠点に結成。幅広いレパートリーとチェロ以外の全員が立奏する自由なスタイルで人気を得る。
曲目:弦楽四重奏曲第4番(グラジナ・バツェヴィチ作曲)
   Opus2(ザンダー・シュトゥアート作曲)

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女性は作曲家グラジナ・バツェヴィチ



                         


🎧名曲アルバム。「かなりや」
西條八十:作詞、成田為三:作曲、長生淳:編曲、与那城敬:歌、東京フィル&大井剛史

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苦境にあったところ、鈴木三重吉の「赤い鳥」から詩の依頼が。これに成田為三が作曲。西條八十は世に出る。
うたを忘れたカナリヤの歌詞が心にしみる。

6時53分更新

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210818 クラシッククラブを聴く フィルハーモニック・ファイヴ×ベートーベン×デジタルアート

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こんな雨もよいの朝を切れよく明るくしかも滋養あるピアノと弦で引き上げてくれたウィーン・フィルメンバーの響き

ウィーン・フィルのメンバーを中心に結成されたピアノ五重奏団デジタルアートミュージアム「チームラボプラネッツ」での演奏ベートーベンの音楽に新たな光を当てる【出演】フィルハーモニック・ファイヴ,ティボール・コヴァーチ,エカテリーナ・フロロヴァ,ゲルハルト・マルシュナー,ペーテル・ソモダリ,クリストファー・ヒンターフーバーー番組紹介よりー

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🎵 この収録は、NHKとUNITELの国際共同制作。
クラシック界のあるオーソリティーが、クラシックの曲には何も付け加えて欲しくないと仰っていたが、この五重奏団の意図するところの「本気」に打たれた。当初は制作、企画の演奏者を巻き込んでのゴリ押しではないかという思いも。ところが、聴き進むほどに納得。「ピアノ・ソナタ 第32番」が編曲により「ルートヴィッヒのラグ」として登板。これはもうベートーベンがジャズに行き着いたというか探りあてたというか、それで有名なのだが、これを皮切りにどう展開するのか興味津々で次に。「ピアノ四重奏曲 作品16 第2楽章」、音で楽しみ視覚で楽しむ。続く「テレーゼの夢」、ベートーベンが愛した女性、なぜかベートーベンの恋愛は成就しない。テレーゼの方がベートベンの音楽を夢に見、夢で聴くであったか、そのような思いめぐらしからのコヴァーチの作曲。「セレナード作品25から」、ここではバイオリンがフルートパートを務める。「交響曲第7番第2楽章」が「シネマ風アレグレット」として登場。これは生涯的に聴いていた楽曲でもあり切々と興味深く。あのバイオリンンの高音は4ポジションであったか、3ぐらいだったかもしれないが実に効果的。次の「ピアノ協奏曲 第一番 ロンド」が「ロンドとチャールストン」での登場、1920年のチャールストンへと、1917発表のティコティコへと自在に変容。ここから5重奏の意図が鮮烈に訴えてくる。ここでコヴァーチのコメントが俄然精彩を帯び説得力を効かせる。コヴァーチ語るに、21世紀の美のルネサンスがここに。さまざまなインスピレーションがわく。あの時代の古い教会や大聖堂などの英知、力強さ、美がここにある。彫刻、音楽、絵画、文学は互いに響き合うもの。クラシック音楽の天才ベートーベンはジャズが生まれる100年以上も前にジャズを響かせている。ベートーベンはジャズの預言者。芸術の巨人レオナルド・ダ・ヴィンチ、ミケランジェロを筆頭に当時の錚々たる大芸術家の名を連ねて、ベートーベンは彼らと並んで力強いメッセージとともに生き続けると。ベートーベンの作曲への誠意、新しいものを造ろうとする勇気、彼は後の世代にも必ず理解してもらえると信じていたのだと。落涙。ベートーベンは古びない、ベートーベンはどの時代の音楽とも並び立ち凌駕し、未来永劫に新しいというこの5重奏団のメッセージがぎりっと鳩尾に落ちる。たしかに、演奏を聴きながら、大聖堂も見えたと実感した瞬間がある。続く「ピアノ・ソナタ17番 テンペスト」が「カリビアン・テンペスト」とジャズ仕様。どんな仕様をまとってもその時代の音楽を巻き込み元曲が映えるベートーベン、21世紀の奏者とデジタルをも吸収し映える曲の見事さ、奏者の渾身に感動! この楽団、たちまちに最先端のデジタルアートを吸収し、消化し昇華させる力あるメンバーたち!

🎧名曲アルバム。アリ・パローゾ作詞、作曲「ブラジルの水彩画」
歌ペドロ・ミランダPere宮澤摩周、ギター尾花毅
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サンバの原型サンバ・ジューラ。アフリカ人奴隷が持ち込んだ打楽器とポルトガルの民謡シューラが出会い生まれた。

⛳このところ過ごしやすかったが、あすはまた30度にはなるらしい。
午後の景色も追加して21時25分更新。

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210817 クラシック倶楽部を聴く カナディアン・ブラス

50年にわたり金管五重奏の音楽をけん引し、世界中の聴衆をとりこにしてきたカナディアン・ブラス。確かな技術と豊かな音楽性で紡ぎ出されるスーパーサウンドをご紹介。 【出演】カナディアン・ブラス ブランドン・ライデナワー(トランペット)ケイレブ・ハドソン(トランペット)ジェフ・ネルセン(ホルン)アキレス・リアルマコプーロス(トロンボーン)チャック・デーレンバック(テューバ)【曲目】トッカータとフーガ ニ短調 BWV565(バッハ作曲ミルズ編曲)リベルタンゴ(ピアソラ作曲バーグストーラー編曲)ほか【収録】2020年2月1日  武蔵野市民文化会館 大ホールー番組紹介からー

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曲目
☆「ジャスト・ア・クローサー・ウォーク・ウィズ・ジー」黒人霊歌:作曲、ギリス:編曲
「戦いのガイヤルド」シャイト:作曲、カナディアン・ブラス:編曲
「トッカータとフーガ ニ短調 BWV565」バッハ:作曲、ミルズ:編曲
「ビートルズ・オン・ブラス」レノン/マッカートニー:作曲、ライデナワー/デドリック:編曲
「ライト・ナウ」ロングストレス:作曲、ライデナワー:編曲
「リベルタンゴ」ピアソラ:作曲、バーグストーラー:編曲
「ロンドンデリーの歌(ダニー・ボーイ)」アイルランド民謡:作曲、ハドソン:編曲
「デキシーランド・トリビュート」ヘンダーソン:編曲

🎵カナディアン・ブラス、伝統をまもり、未来をめざし、ブランドンいうに「今のこの瞬間がいちばん大切」と。もともとは子どもたちとの活動、子どもたちのために演奏していたのが、やがてはカーネギーホールに、世界にと。バッハからビートルズ、ソプラノからバスまでを5声、それぞれの個性をアンサンブルに反映させての演奏。演奏者自身がカナディアンを聴いて育ったとも。
 5人が黒のパンツスーツにオレンジ色のネクタイ、スニーカーで、黒人霊歌「ジャスト・ア・クローサー・ウォーク」を演奏しながら観客席に登場。これがどうも葬送行進曲? これもジョーク。客席のあいだを縫ってステージに。この曲を演奏しながら登場するのがこの楽団の定番であるという。続く「戦いのガイヤルド」。何と、ここまでがアンコール曲。時々時間の関係でできないこともあるので先にアンコールを演奏。これからがプログラムにある演奏です」とユーモアたっぷりの日本語挨拶。
 そしてバッハの「トッカータとフーガ」。軽さ、光の軽さとでもいおうか、そんな明るい響きを巧みに響かせながらも荘重さも感じさせる。ここで逆なりにパイプオルガンの響きが思いだされ、パイプオルガンの地を圧する地のすべてをおおう壮大な響きのすごさを再確認させられたような。「ビートルズ・オン・ブラス」ではビートルズナンバーから3曲を。トランペットで「イエスタディ」。トロンボーンで「ブラック・バード」、これは黒人女性を傷つきながらも飛びたつ黒い鳥にたとえた応援歌。続く「ケニ・レイン」。「リベル・タンゴ」。「ロンドンデリーの歌」。
 それにしても、このブラス使用の金管の美しさは! 譜面台や天井に並ぶライト、演奏する指のうごきなどが輝く金色のラッパの曲面に映りこみ繊細にうごき流れている。どこかの頁でアメリカのどこぞで製作されたものと出ていたけれども、華麗、流麗という感じが。
 ディキシー・ランドジャズ、発祥はニュー・オリンズ。1917年にニューオリンズに登場し、ニューヨーク、シカゴに移動して広まったのが190年か。1917年というと大正6年。たしか最初は大阪の道頓堀あたりで盛んに鳴っていたはず。しだいに東京へと。
 五重奏のディキシーランドジャズ「ハイ・ソサィエティ」、「ブラック・ボトム・スクンプ」、「テューバ・タイガー・ラグ」、軽々とチューバを自在に振り回し振り回されるチャックのパフォーマンス。せっかくのサービスに観客の反応はちょっと遅いのが残念。また3人の奏者が歌声を聴かせてくれた。ユーモアたっぷりな実力派金管五重奏、けさも曇り加減の朝の空気を清々しく震わせてくれました。

ところで、アイルランド民謡は清楚で懐かしく澄んだ空気を思わせ心魅かれるのだが、どんなもながあるかとググってみると、スコットランドの釣鐘草 変奏曲イギリスの歌メドレー(ロッホ・ローモンド~アニー・ローリー~ロング・ロング・アゴー)サリーガーデンロンドンデリーの歌春の日の花と輝く庭の千草(菊)思い出のサリーガーデン と出てきた。これら一曲一曲をさらに旅してみたいもの。

 しかしピアソラのリベル・タンゴ、よく演奏される曲。ピアソラはもともとバンドネオン奏者。いつであったか、NHKの音楽番組でバンドネオン4台&オケでピアソラのバンドネオン協奏曲であったか、この演奏には恐れ入った。単なるタンゴ演奏家、作曲家、タンゴ革命家ぐらいにとらえていたピアソラ像ががらりと変わった瞬間だった。クラシックへの憧れを捨てきれなかったようだ。

🎧名曲アルバムはドヴォルザークの「新世界 第二楽章」

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⛳危うく忘れるところだったけれども、ふっと思い出され、20時41分更新。

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210816 クラシッククラブを聴く アメリカン海兵隊バンド

アメリカ海兵隊バンドの金沢公演。1798年創立。マーチ王スーザは第17代隊長。大統領直属、ホワイトハウスの行事、一般でのコンサートなど年間500以上もの演奏を行う。現在の指揮者はジェイソン・フェティッグ。今回の司会はサラ・シェフィールド。金沢市石ノ森ホール、2019年の収録。

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曲目
「アメリカ合衆国国歌「星条旗」」
「日本国歌「君が代」」
「行進曲「海を越えた握手」」ジョン・フィリップ・スーザ:作曲
「エスプリ・ドゥ・コール」ロバート・ジェイガー:作曲
「イロァ・イロァ」ケヴィン・ウォルツィク:作曲
「ルイ・アームストロングへのトリビュート」スティーヴ・ブラ:編曲
(独奏トランペット)ダニエル・オーバン、(独奏クラリネット)パトリック・モーガン、(独奏トロンボーン)サミュエル・バーロウ、(吹奏楽)アメリカ海兵隊バンド
「「ユーソニアン・ドゥエリング」(世界初演)から 第2楽章「タリアセン・ウエスト」、第3楽章「落水荘」」マイケル・ギルバートソン:作曲
「くちづけ」アルディゲーリ:作詞、アルディーティ:作曲、パターソン:編曲
(メゾソプラノ)サラ・シェフィールド、(吹奏楽)アメリカ海兵隊バンド「「ウエストサイド物語」から「サムホエア」」ソンドハイム:作詞、バーンスタイン:作曲フェティッグ:編曲
(メゾソプラノ)サラ・シェフィールド、(吹奏楽)アメリカ海兵隊バンド
「行進曲「星条旗よ永遠なれ」」スーザ:作曲

🎵 両国国歌に始まりスーザの「海を越えた握手」ジェイガーの「エスプリ・ドゥ・コール」、そして東日本大震災と津波の犠牲者のためにウォルツィクが2015年に作曲した「イロァ・イロァ」。「神よ、神よ、なぜ私を見捨てたのですか」という聖書のことばが引かれている。小学校の音楽室にはベートーベンとバッハの写真が貼られていたように思うが、小学校の時にはバッハの一曲も知らなかった。しかしスーザは、スーザという名は知らなくとも曲は知っていた。元気をくれる曲の数々。一転、明るく「ルイ・アームストロングへのトリビュート」、ルイ・アームストロングの6曲のメドレーでルィブラの編曲。そしてギルバートソンの「ユーソニアン・ドゥエリング」。今回聴いていてもやはりこのギルバートソンの新しい世界に覚醒された。第2楽章「タリアセンウェスト」、第3楽章「落水荘」、マイケル・ギルバートソンの初の吹奏楽作品。この金沢公演が初演。建物周辺の荒涼とした景色ということだったが、無機質をふるわせて振動を起こしてゆくような渺茫とした感じもある中に静謐な荘厳な光に足を踏み入れたところを丁寧に慎重にたどりゆくときにもたらされる一種のカタルシスも覚えた。ギルバートソンもこの金沢初演に駆けつけていた。詩や戯曲、伝説、民俗音楽、寺院、宮殿などに刺激を受けての作曲はよくあるけれども、こういった建築物にインスピレーションを受けての作曲。
 いまは入居者で埋まっているが、筆者の住まい近くのビルが工事中だったころ、現場を見ながら、これを管楽器で作曲したら時間と空間をギューント貫き裂くような大地を平板を抉るような現代の最先端の響きともいえる曲ができあがるのではないかと思ったが、このギルバートソンの音、楽器の用い方に、まさしく、これ、これだ! と初めて聴いたときには飛び上がった。前にも聴いていたはずだが今回はその特異さを得心したというところ。ギルバートソンは建築家ロイドライトの設計になる建物から着想を得たようだが、むしろ建築途上にある重機の動き、技術、人の動き、危険度すれすれの緊張感を引き寄せて作曲すれば、それこそサンサーンスの3番のオルガン付きぐらいの壮大さ、その現代版になるのではと。誰かこれで世界のオンリー・ワンになれないものか。
 ロイド・ライトの建築物はこちら、ぜひご覧ください。「落水荘」。「タリアセンウェスト」。
 
それにしてもサラ・シェフィールドのメゾソプラノ、軍楽隊のイメージを反転させ花と輝いている。アルディティの「くちづけ」、軍楽隊に咲く一輪の薔薇のよう。バーンスタインの「サム・ホエア」。この衣装がアメリカンバンドの正装なのだろうが、花と歌う場面では、やはりドレスを着た方がと思わないでも。アンコール「星条旗を永遠なれ」。スーザの「世界共通言語」、子どものときから無意識のうちにも入ってしまっている数々の曲だが、今回その偉大さが一層おもわれた。

🎧名曲アルバム。トスティ「マレキアーレ」。栗林和樹編曲、テノール福井敬。現田&東京フィル。トスティはオペラ全盛の中で歌曲にこだわり続けたという。
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⛳けさも「海を越えた騎手」が流れている最中に地震速報。豪雨、地震、コロナ、……きょうも緩急緩急、しかし気を引き締めて一日を越えたい、か、超えたいか、それとも淡々と行くのがよいか。
トラックの荷台が軋む音を聞きながら、10時37分更新。どこかで小型犬が吠えている。散歩に行きたいのかな。

 

 

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きょうのことば「みことばの戸が開くと」

インマヌエル盛岡キリスト教会2021年08月08()の礼拝メッセージをお伝えいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で48年目のご奉仕をしておられます。

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説教題 『みことばの戸が開くと』  (國光勝美 牧師)

聖書箇所 旧約聖書 詩篇119105130
詩篇119:105 あなたのみことばは 私の足のともしび
        私の道の光です。
詩篇119:130 みことばの戸が開くと 光が差し
        浅はかな者に悟りを与えます。

 

<お話し>

この朝の聖書朗読は2か節のみですが、これを文語訳でも読んでみましょう。文語訳を懐かしく思われる方も方もいらっしゃるでしょう。

詩篇119:105 なんぢの聖言はわがあしの燈火わが路のひかりなり
詩篇119:130 聖言うちひらくれば光をはなちて 愚かなるものをさとからしむ

 このみことばがきょうのメッセージとして与えられましたのは、実は東北聖会のとき、証(あかし)の機会が与えられました。自分の特にきよめを中心にした信仰生活をまとめて証させていただくとき、限られた時間、10分を目途にということで準備をさせていただきました。そこでまとめたおことばを心に留めながら、きょうはもう一度、私の証が核になると思いますけれども、私はこんなにもすばらしい福音、あなたが信じているキリスト教ってどんなものですかと言われたときに、こんなにすばらしいものなんです、これが私の信じているキリスト教なんですということをアーメンと心にうなずきながら、繰り返しお伝えしたいとここにいるわけなのです。 

いつかもお話ししましたが、インターネットにNHKの番組で音叉の共鳴、共振が出ておりました。
 このように、神様のおことばと、それを受け取る私の心が響きあう、おことばと心が響きあう、こういう経験をこれまでの信仰生涯の中でさせていただきました。きっと皆さん方もそういう角度から振り返って、なるほどあの時、神様が鳴らされた音が、つまり神様が与えてくださったおことばが、私の心に響いた、共鳴したのだな、なるほどこういうことかとお分かりいただけたかと思います。
私はその音叉、神様のおことばが鳴り響いたときに、その証をさせていただきましたが、その最初は救いの時、それから、次がきよめの時、そして、今の歩みにおける証があります。

この神様のおことば、
「聖言(みことば)うちひらくれば光はなちて愚かなるものをさとらしむ
まさにそのことをアーメンと申し上げたいと思うのです。 

 みことばが最初に私に響いたのは1967年でありました。当時アパートで自炊生活をしておりました学生時代に、雪が谷大塚駅で一枚のチラシをいただきました。降りてくる人降りてくる人に手渡していたチラシでしたが、そこに記されていたことばが
「我は道なり真理なり命なり」(ヨハネ14:6
というおことばでした。ああキリスト教かと思った程度のことでしたが、なぜかチラシを捨てることができずポケットに入れて帰り、机の引き出しにしまっておいたのです。それから1年経ちました。こんど1968年ことであります。御茶ノ水駅前でいただいた一枚のチラシには、「キリスト教講演会11月12日火曜日から16日土曜日まで。御茶ノ水学生キリスト教会館」とあり、その下に、「国電御茶ノ水西口「丘」(名曲喫茶)隣」というようにある。まさしくこの当時これをもらったのでした。そしてこれに私は共鳴したわけであります。初めて自分の意志で、求める気持ちでここに入り、そしてお救いに与りました。その時の写真を見ますと、真ん中にウェブスター・スミス先生が。その横にどういうわけか私が座っています。21歳のとき。これが救いの時であります。

 1枚のチラシ、たしか以前教会のチラシをもらったなと、もういちど机の引き出しを探して、あったあったと。「我は道なり真理なり命なり」というおことばが書かれてあるチラシ。地図をもって初めて雪が谷の伝道所というところを訪ねました。当時は、学生運動が大きなうねりにありましたので、雪が谷の伝道所におられた先生は、私のようすを見て、教会を冷やかしに来た若者だろうとあまり相手にしてもらえなかったのかどうかはわかりませんが、とにかく、私はここで求めるつもりで、ここでお願いしたいと思ってきましたと言いました。それがインマヌエル雪が谷伝道所との出会い、正式な出会いということになりました。

 大学を卒業し就職しました。全国に営業所がある会社でした。それがたまたま丸の内教会の近くの営業所に配属されました。営業所のうちでは教会に一番近いところに配属されましたので、ほんとうに憐みだったと思っております。
 丸の内教会で洗礼を受け、そして喜んで信仰生活に励んでおりました。 

 さてこんどはきよめのことであります。丸の内教会の礼拝、或いは交わりの中で、きよめということは、クリスチャンとしてごくごく当然のこと、この信仰に立つということは当たり前のことのように指導されていましたけれども、私にはきよめということが今一つよくわかりませんでした。そんなときに、この「信仰の盈満」というS.Aキーンという人の本、小さな本です。これを手に入れることができて、きよめがわからなくなっていたときに、これを興味深く読んでいきました。ああそうかと気づかされたところにフリーハンドで線を引きながら読みました。

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その箇所は、
「元来信じることは私たち自身の行為である。何人でも神でさえも、私たちの代わりにそれをなさることはできない。それは私たちに与えられることができることではなく、私たちによってされるべきことである。」
さらに次のページで
「彼は、信仰が与えられることを待っていた。これが間違いだということに気がつきました。主がそのみことばに信仰を置くことを待っていらっしゃるのに、私は神が私のうちに信仰を入れてくださるのを待っていたことを悟りました」
 そうか、微妙に違うな。きよめの信仰をいただきたいと思って主よお願いします。きよめの信仰を与えてくださいと祈っていたけれども、いったいそれは神様がわたしのふところに心にそれを入れてくださるのを待っていた。でもSAキーンのこの本を読んだときに、いやそうじゃない。神様が与えてくださるきよめのたまもの、それを手を伸ばして有難うございますと私が握ることであって、信仰は私が握ることであって、それは神様が代行することさえもできない、それは、あなたが為すべきことなのだと気が付き教えられたのでした。ああそうか、私は微妙に間違っていた。条件さえ果たしてこの神様のおことばをそうかと信じ握りきよめの信仰に立った、それが大きなことでありました。

 しかし、それから神学校に導かれまして、いよいよ1年2年、そして当時は3年生の学びを成し終えようとした丸の内の祈祷会の時です。丸の内教会のことをご存じの方はお分かりいただけるでしょうけれども、礼拝、祈祷会とあるのですが、その祈祷会の時に、司会者の方が立って、それでは皆さんご一緒にお祈りしてくださいと促されました。だれだれさんと指名をされることもありますけれども、集まっている人全員で自分のことばでお祈りする。その時わたしはこう祈ったのです。

 まもなく私は卒業して郷里の長野県の松本にもし開拓伝道として遣わされたのならば、あなたは実習で福音のラッパを吹いた、松山でも吹いた、路傍行軍をした。さあいよいよあなたは、もし松本で開拓しなさいと言われたならば、ラッパを吹いて太鼓をたたいてチラシを撒くことができますか。自問自答しました。その時私は心の中で、主よ私は臆病ですから、そうすることは難しいと思います。とても勇気のいることだと思います。でも、あなたが私にそれを命じられるのなら私は喜んでそれをさせていただきますと心の中で祈りましたまさにその瞬間に、私の心の中に「ヱホバに聖(きよし)」出エジプト記の28章36節、このことばがほんとうに飛び込んできたのです。神様は神様のおこころに従おうという者、それをきよい者といってくださるのだ。このことはほんとうに私個人にとっては恵みのおことばであり続けています。 

 このまえ私は皆さんとご一緒に竿代信和先生の、或いは工藤弘雄先生のメッセージを何回かに分けて礼拝で扱わせていただいたとき、工藤先生のあのお勧めの中に、
詩篇40篇8節わが神よわれは聖意にしたがふことを樂む なんぢの法はわが心のうちにありと
 これは律法で外からの押し付けでなく、心の中にある内側にある与えられた律法であって、これに従うことは楽しみなのだ。このおことばも私は大きな恵みになりました。これが、きよめなのだな。神のみこころにしたがうことを楽しむ。これがきよめの証であります。

 

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 そして今の歩みということで、盛岡の皆さん方には何回も証をさせていただきましたけれども、私は究極的にこのおことばが今とても共鳴しているのです。あなたが今あなたの信仰って何ですか。何がいいんですか。こういわれたときに、わたしはこのおことばがとても意味のあるおことばとして響いてきました。それはイエス様、復活されたイエス様、十字架につけられ贖いを成し遂げられ、こと終わりぬとすべてを成就したとイエス様はよみがえられた。このよみがえられたイエス様が、ほらわたしは生きている。わたしは生きている。汝らも。とある、
われ活くれば汝らも活くべければなり」(ヨハネ14章19節)
 とあるのです。恐れ多くもほんとうに恐れ多いことなんですけれども、イエス様の復活されたいのち、わたしがこうなんだから、あなたも同じいのちに活きるんだよ。それはビオスのいのち、つまり生物学的な心臓が動いているとか、そういう生物学的な命ではなく、ゾーエイという神のいのち、これにつながっている。
 付き添っていたある方の手術がまもなく終わろうとしているころでしたけれども、われ活くれば汝らも活くべければなり」と響いたおことばでもあります。大きな大きな恵みでありました。 

 きよめ、それは、私は、このようなものでも、このようなものだからできる証だと思うのです。私はほんとうに小さな足りないことの多いものです。こんな乏しいものだけれども、いつでもそのときに、私のために血を流してくださったイエス様、このお方をいつでも仰いで

御子イエスの血すべての罪より我らを聖む

 アーメン。失敗したとき、いろいろな申し訳ないことをしたとき、すぐに主にお詫びをし、決して自己義というものに頼ることなく、頼れるはずもない。ブラザー・ローレンスという人の証を本で読みましたけれども、修道士であったローレンス。彼は生来そそっかしい。取り立てる何もない。いつも修道院の厨房で働いている一介の人物。彼が粗相をして皿を割ってしまう。すると、ああ、主よまた私はこのような失敗をしてしまいました。あなたの御助けがないと私はこんな者ですと言ってすぐその失敗をお詫びし、そしてそのあとは、いつもと同じように淡々と歩んでいった。失敗をしないのがきよめではない。足りないことがないのがきよめではない。足りないところ、失敗だらけの者でも、だからこそできるのは、心の中に、私はあなたに従うことが何よりも喜びです。あなたに従うことが楽しみです。そのスタンスに私はノーと言ったことはありません。それがきよめというもの、きよめの証というものなのだ。このように思うことであります。

 先ほど、「恵み深き主よ 深き淵より 叫ぶ我が声に こたえたまへや」と歌いましたが、この讃美歌こそ、将来を貫くありのままの姿であるということを思うのであります。

※画像は教会からお借りしています。
⏰5時51分更新

 

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210812,13クラシッククラブを聴く 14 J-MERO

8月12日()は、1956年の設立以来、250回を超える定期演奏会、200曲を超える新曲委嘱を行ってきた東京混声合唱団。設立以来、日本の合唱界をけん引してきた。【出演】東京混声合唱団(合唱)、山田和樹(指揮)、福間洸太朗(ピアノM3のみ)【曲目】1.コンダリラ(スティーブン・リーク作曲)、2.カンタータ「人間の顔」(プーランク作曲)、3.混声合唱とピアノのための「鉄道組曲」(信長貴富作曲) 【収録】2020年2月8日 東京文化会館 小ホールで収録番組紹介よりー


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山田和樹のコメント:東混ができた当時は合唱曲というものがそもそも日本に少なかった。それを委嘱して作っていこうという団体でもあって、必然的にそれが委嘱初演というものが活動の主軸にあって、今の時代ですからハーモニーがちゃんとしている曲から無調のような現代音楽まで幅広いものに対応できないとプロフェッショナルとしてやっていけないものですから、そこらへんはここに技量の高い人が集まっているという面もあります。一つ今回、自然と人というんですか「コンラリダという曲も、アボリジニに伝わる曲でして、そこに先ず大自然があって、そこに人が生まれて、そして音楽が生まれて行ったというこの三つの自然と人と音楽を結びつけるようなプログラミングになればいいなあというのがありまして、そこに信長さんが加わってレールがそこに敷かれるというスト-リー的にはうまくまとまったんではないかなと思っております。

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🎵東混の桂冠指揮者は田中 信昭。この合唱団が創立当時に掲げた目標は三項目。
一、楽しい雰囲気の演奏会を行う。
一、職業合唱団として成立させる。
一、日本の合唱曲を創る。
この三つめがやはりすごいところ。200を超える新曲委嘱作品を誕生させたわけだ。現在の指揮者はブザンソン指揮者コンで優勝の山田和樹。

「コンダリラ」、あっと驚く演奏技術。「カンタータ 人間の顔」、「鉄道組曲」と、この合唱団だからこそ演奏しきれるといった感じが。「鉄道組曲」は委嘱作品で勿論初演。作曲家・信長貴富、巧まざるというよりも巧んで巧んで仕掛ける作曲家なのではないか。意外の次に来るのはまた意外。1~5曲までの総体的な透徹した連関というか、凡人筆者はこの曲をこの時間帯でただ一度聴いただけでは、それを見とおせずに戸惑っている。 山田和樹が「今回は自然があり、人が生まれ、音楽が生まれた」といったストーリー性を持たせた選曲と。やはり委嘱初演が真骨頂、東混の技量の高さを知らされる。
「コンダリラ」がいちばん自然に近く自然と人とのかかわりの親密さ、民俗色もあるという点でわかりやすかった。ジャングルに忍び入る陽光の明滅と感じられた旋律が印象的。「人間の顔」はプーランクがナチス占領下のパリで作曲した。ポール・エリュアール、ダダイズムとシュールレアリズムの具現、型破り、既存の破壊。凡人筆者からすれば精神分裂的。「人間の顔」、ここでは高橋秀雄・訳。

名曲アルバムはエステン(1813~1870)の「アルプスの夕映え」円光寺&東京フィル。ピアノ角聖子
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☆  ☆  ☆

8月13日
ベルリンRIAS室内合唱団 演奏会

1948年設立。ドイツを代表として活躍する合唱団として世界各地で活躍。時代を超えた幅広いレパートリーを持ち、透明感のある歌声は高く評価されている。

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ジャスティン・ドイル
イギリスのランカスター生まれ。ウェストミンスター大聖堂歌隊に所属した後、ケンブリッジのキングス・カレッジで学ぶ。2017年にベルリンRIAS室内合唱団芸術監督および首席指揮者に就任。
ジャスティン・ドイルのコメント
この合唱団のすばらしいところは35人の歌手がひとつの生き物のように動くことができることです。とてもしなやかで繊細まるでカメレオンのようです。心が温かく、声という驚異的な楽器を持っている人たちが集まっています。オペラやオラトリオでソリストを経験した人たちが、この合唱団で活躍する道を選んだのです。寛大で勤勉な彼らと仕事ができるのはすばらしいと思います。
ふだんはアカペラで小品を歌っていますが、合唱カンタータのような大作の委嘱を初めています。しかし、ヘンデル、ハイドン、モーツァルトといった古いレパートリーも大切にしています。RIASはドイツ合唱の伝統を受け継ぐ「大使」ですが、違う文化の音楽を歌う能力を持っています。だから他国の民謡などにも取り組んでいます。そのような活動は今後も続けたいと思います。  

「歌え 主のみ前に新しい歌を BWV225」バッハ:作曲
1726
27年に作曲したといわれているモテット2群の4声合唱により3つの部分で構成されている。
3つの詩編 作品783 詩編22 神よ なぜわたしを見捨てられたのか」メンデルスゾーン:作曲
1844
年にこの年の聖金曜日のために作曲された。キリストの受難を預言する詩篇22に基づいている。
「キリストは われらのために」ブルックナー:作曲
ブルックナーは教会オルガン奏者を務めながら数多くの壮大な交響曲を作曲した。ラテン語の典礼用モテットも生涯にわたり作曲し、神秘的な作品を残している。
「エサイの枝は芽を出し」ブルックナー:作曲
「イエスは わが喜び BWV227」バッハ:作曲

🎵
今回はメンデルスゾーンの「詩編22 神よ なぜわたしを見捨てられたのか」に集中。今の世の中を見るに、神に対する多くの方々の疑問、不審はここにあると思われてのこと。これがどのように創られ、どのように歌われているものなのか。

1 わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか。遠く離れて私をお救いにならないのですか。私のうめきのことばにも。
2
わが神、昼、私は呼びます。しかし、あなたはお答えになりません。夜も、私は黙っていられません。
3
けれども、あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます。
4
私たちの先祖は、あなたに信頼しました。彼らは信頼し、あなたは彼らを助け出されました。
5
彼らはあなたに叫び、彼らは助け出されました。彼らはあなたに信頼し、彼らは恥を見ませんでした。
6
しかし、私は虫けらです。人間ではありません。人のそしり、民のさげすみです。
7
私を見る者はみな、私をあざけります。彼らは口をとがらせ、頭を振ります。
8
「主に身を任せよ。彼が助け出したらよい。彼に救い出させよ。彼のお気に入りなのだから。」
9
しかし、あなたは私を母の胎から取り出した方。母の乳房に拠り頼ませた方。
10
生まれる前から、私はあなたに、ゆだねられました。母の胎内にいた時から、あなたは私の神です。
11
どうか、遠く離れないでください。苦しみが近づいており、助ける者がいないのです。
12
数多い雄牛が、私を取り囲み、バシャンの強いものが、私を囲みました。
13
彼らは私に向かって、その口を開きました。引き裂き、ほえたける獅子のように。
14
私は、水のように注ぎ出され、私の骨々はみな、はずれました。私の心は、ろうのようになり、私の内で溶けました。
15
私の力は、土器のかけらのように、かわききり、私の舌は、上あごにくっついています。あなたは私を死のちりの上に置かれます。
16
犬どもが私を取り囲み、悪者どもの群れが、私を取り巻き、私の手足を引き裂きました。
17
私は、私の骨を、みな数えることができます。彼らは私をながめ、私を見ています。
18
彼らは私の着物を互いに分け合い、私の一つの着物を、くじ引きにします。
19
主よ。あなたは、遠く離れないでください。私の力よ。急いで私を助けてください。
20
私のたましいを、剣から救い出してください。私のいのちを、犬の手から。
21
私を救ってください。獅子の口から、野牛の角から。あなたは私に答えてくださいます。
22
私は、御名を私の兄弟たちに語り告げ、会衆の中で、あなたを賛美しましょう。
23
主を恐れる人々よ。主を賛美せよ。ヤコブのすべてのすえよ。主をあがめよ。イスラエルのすべてのすえよ。主の前におののけ。
24
まことに、主は悩む者の悩みをさげすむことなく、いとうことなく、御顔を隠されもしなかった。むしろ、彼が助けを叫び求めたとき、聞いてくださった。
25
大会衆の中での私の賛美はあなたからのものです。私は主を恐れる人々の前で私の誓いを果たします。
26
悩む者は、食べて、満ち足り、主を尋ね求める人々は、主を賛美しましょう。あなたがたの心が、いつまでも生きるように。
27
地の果て果てもみな、思い起こし、主に帰って来るでしょう。また、国々の民もみな、あなたの御前で伏し拝みましょう。
28
まことに、王権は主のもの。主は、国々を統べ治めておられる。
29
地の裕福な者もみな、食べて、伏し拝み、ちりに下る者もみな、主の御前に、ひれ伏す。おのれのいのちを保つことのできない人も。
30
子孫たちも主に仕え、主のことが、次の世代に語り告げられよう。
31
彼らは来て、主のなされた義を、生まれてくる民に告げ知らせよう。

 

名曲アルバムはファリャ「スペインの庭の夜」
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☆  ☆  ☆

8月14日(土)

J-MERO。ゲストはクリス・ハート。こんな大雨の、災害のさなかの歌声がクリス・ハートの感情をちょっと抑えめのあたたかな人間味こもる歌声だったので内心ほっと。「I LOVE YOU」はMay J.もカバーしている。
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昨夜は盛岡市の防災マップを開いて見ていた。「浸水深の目安」は色別で分けられている。見ながらこの浸水域はこれからの雨量を予測すると、所によっては1段階、或いは2段階も厳しくなる場合もあると思わなければならないかもしれない。そう思いながらいたところ、今朝の2時ごろからのラジオではずっと九州の大雨情報だった。4時になって一旦TVで。そして5時ということだった。音楽を聴きながらも、別チャンネルではずっと災害情報。氾濫。氾濫。土砂崩れ。桁外れの大雨。それでも神はおられるというこの事実、現実。

14時23分更新

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210811クラシック倶楽部を聴く アラカルト  ウィーン少年合唱団/ジャン・チャクムル

きょう午後の雲
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ウィーン少年合唱団

曲目
☆おお運命の女神よ  オルク
☆良き牧者は復活した  メンデルスゾーン
☆天の女王  ブラームス
☆死と愛  ゲーリンガー
☆オー・ソレ・ミオ   カプア
☆荒城の月  滝廉太郎、ヴィルト編曲
☆今日天使たちがウィーンにやってくる

🎵ゲーリンガーは日本人メンバーの採用に尽力した方であるという。オルクの高いボーイソプラノ、ここまで出るものかと感嘆。「良き牧者は復活した」、良き牧者は「自分の羊たちに霊魂を傾け復活した」と歌う。「死と愛」、主なる神の愛は「愛は死のように強くその熱き思いは地獄のように厳しい」と。「今日天使たちがウィーンにやってくる」、愉快な曲。
 

☆ ☆  ☆

ジャン・チャクムル

97年トルコ生まれのピアニスト、ジャン・チャクムルのステージ。2018年浜松国際ピアノコンクールで第1位を受賞。瑞々しい音楽と冴え渡るテクニックを兼ね備える逸材-番組紹介からー

チャクムル使用のピアノは「SHIGERU KAWAI」 
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曲目
イギリス組曲第6番 ニ短調 BWV811(バッハ作曲)

⛳18時07分急ぎ更新

 

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210809 ,210810クラシッククラブを聴く イ・ムジチ合奏団/ウィーン少年合唱団。

8月9日の朝5時頃の景色
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8月9日()
イ・ムジチ合奏団&天羽明惠2019102日 サントリーホール 大ホール

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☆「ディヴェルティメント ニ長調 K.136」モーツァルト:作曲
「歌劇「ジュリアス・シーザー」から「つらい運命に涙は流れ」」ヘンデル:作曲
(ソプラノ)天羽 明惠
「歌劇「クセルクセス」から ラルゴ「なつかしい木陰」」ヘンデル:作曲
(ソプラノ)天羽 明惠
「ディヴェルティメント 第2番 変ロ長調 TWV50:23テレマン:作曲
「モテット「踊れ、喜べ、幸いな魂よ」K.165」モーツァルト:作曲
(ソプラノ)天羽 明惠

🎵1952年生まれのイ・ムジチの年齢はこの時点で68歳。今は70となられたか。団のお一方お一方が、中には若い方もおられ、またどの程度か団員の交代もあったかと思うけれども、この熟練の方々が自らの先々に胸躍らせる若きモーツァルト作品を。胸につんとこみあげるものがあった。ウィキからの転載で「イ・ムジチ合奏団演奏による『四季』は1995年時点の日本において、6種の録音の合計で280万枚を売り上げている[1]。特に3回目の録音は日本で初めて(レコードとしては今も唯一)の、クラシック音楽でのミリオンセラーを記録した」と。日本の経済を背景に、ヴィヴァルディの「四季」もそうだが、モーツァルトやテレマンで混沌とした空気を浄化し、心を明るく闊達にしてくれた楽団。このモーツァルトの「ディヴェルティメント」を聞いていても「もうどこもかしこも明るいのです。影を帯びた寡黙な草木や建物たちまでが目覚め動きだし、すっかり軽くなってひょいと雲に便乗し、口笛を吹きならして鳥たちにまでこんにちはと両腕を大きくふっています」とこんな陽気な気分になる。
 サントリーホールも満席。観客席で居眠りの方1名映っていたけれども。天羽明惠との共演。ソプラノを引き立てる自在さ、並び立つ柔軟さも。演奏はどこまでも心地よい。
ヘンデル、多田茂史・訳の抜粋「草木がつくりあげたなかで かけがえがなくいとおしい ほんとうに心地よい これほどの陰は存在しなかっただろう」。ついそちこちにある保存樹木を思い出す。猛暑が苛酷になるほどに、大樹のもたらす涼しさ、森の大切さが思われる。神社仏閣にある大樹もよし、殊にも森の中にある草木にはそんな包容力が。街の中にもできるだけ樹木は存在していてほしい。
「モテット」のコロラトゥーラ、天高くに引き連れられた。なぜこのような声が出るのかが不思議。
テレマンの「ディヴェルティメント」、1767年、彼の最晩年の作曲らしい。テレマンはアマチュアの音楽団体も組織していたというから、宮廷、教会ばかりではなく市民にも音楽の楽しみを提供していたようだ。「踊れ、喜べ、幸いな魂よ」、ハレルヤ!ハレルヤ!

🎧名曲アルバムはドヴォルザークの「新世界 第二楽章」
ドヴォルザークはアメリカ到着から1年も経たぬうちに作曲した。
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☆ ☆  ☆

810()
ウィーン少年合唱団。【収録】2019年5月29日 東京芸術劇場大ホール番組紹介よりー

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 神聖ローマ帝国から500年の歴史を持つ。ハイドン、シューベルトも少年時代に参加。拠点はアウガルテン宮殿にある全寮制の学校。オーストリア内外から集まった1014歳までの凡そ100人の少年たちがブルックナー組、ハイドン組、モーツァルト組、シューベルト組の4つに分かれ学ぶ。学習はもちろん海外ツァーも。2019年はイタリア出身のマノロ・カニンが率いるブルックナー組の少年たちが来日。30回以上の公演を行う。カニンは合唱団について、先ず歌うのは最高に楽しいと感じること、そしてプロとして常に高いレベルを目指しながら互いに尊重し合い、チームワークを築くことが大事と語っている。

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曲目
☆喜べ正しい人たちよ:ヴィアダーナ
☆天は神の栄光を語り:ハイドン
☆詩篇第13番 主よいつまで私をお忘れになるのですか:ブラームス
3声のためのカプリース 動物たちの対位法:バンキエーリ
☆リベルタンゴ:ピアソラ
サウンド・オブ・ミュージックより ひとりぼっちの羊飼い:
☆ねむの木の子守歌:皇后陛下御作詞 山本正美作曲
☆ふるさと:岡野貞一
☆内なる平和:ヴィルト
☆ポルカ 雷鳴と稲妻:ヨハン・シュトラウス
☆ワルツ 美しく青きドナウ:ヨハン・シュトラウス
☆アンコール 花は咲く:菅野よう子

 🎵「喜べ正しい人たちよ」、主を賛美することは 誠実な者にふさわしいー。「天は神の栄光を語り」では、ケントくんの日本語紹介。この後にも日本語挨拶、日本語での合唱がここまでやってくれたのという感じで出てくるのだけれども、同団は世界中で公演をしており、英語、フランス語、ドイツ語、或いはラテン語をはじめとして、行く先々の言葉で語り歌っているのかと思うが、そういった訓練もすんなりと受け入れ努力するすがたが浮かんだ。
「主よいつまで私をお忘れになるのですか」、こんな心境になることも。一応、新改訳を取り出してみると、

指揮者のために、ダビデの賛歌

1 主よ。いつまでですか。あなたは私を永久にお忘れになるのですか。いつまで御顔を私からお隠しになるのですか。
2
いつまで私は自分のたましいのうちで思い計らなければならないのでしょう。私の心には、一日中、悲しみがあります。いつまで敵が私の上に、勝ちおごるのでしょう。3 私に目を注ぎ、私に答えてください。私の神、主よ。私の目を輝かせてください。私が死の眠りにつかないように。4 また私の敵が、「おれは彼に勝った」と言わないように。私がよろめいた、と言って私の仇が喜ばないように。5 私はあなたの恵みに拠り頼みました。私の心はあたの救いを喜びます。6 私は主に歌を歌います。主が私を豊かにあしらわれたゆえ。

(太字の部分は番組では「どうか敵がお前を制圧したと「驕る」ことがないように」と訳されている。)

3声のためのカプリース」、金澤正剛の訳。マリスくんのコメント。犬、猫、カッコウ、みみずくなどの登場。明るく愉快。「リベルタンゴ」、因習からの脱却という意味がこめられているとか。「ひとりぼっちの羊飼い」はティモくんのピアノ。「ねむの木の子守歌」、デヴィットくんのコメント。「ふるさと」、1914年尋常小学唱歌集に登場。ふるさととは実は天国のことであるとか。「内なる平和」、カビールの詩をタゴールが英訳。これがちょっと考えさせられる内容の詩なのだが、

庭に入ってはいけません
花咲く庭に
友よ! 入るのはそこではありません
友よ! あなたの身体の中にこそ
花咲く庭があるのです
たくさんの蓮の花弁に座り

そこで無限の美を見つめなさい

「雷鳴と稲妻」、結局どこにいても雷鳴と稲妻は避けられないと悟る。何処に行っても逃れ場はなかったか。ユーモラス。「美しく青きドナウ」の詩がすばらしい。別訳の抜粋だけれども。1867プロイセンとの戦いに疲弊した人心を慰め励ます。

ウィーンで君の流れを止めてくれ
そこは君をとても愛しているのだから
君がどこをみようとも
第二のウィーンは見つからないだろう

(番組の井形ちづる氏訳では「君がどこをみようとも」は「君がどこに流れていこうと」ー井形氏の訳の方が私は好きなのだが、録りかねて)

ここにはいっぱいの胸から流れ出ている
明るい喜びに満ちた魔法が
そして忠実なドイツの心が
ここから遠くへまかれる

私たちは一つになろう
兄弟たちをしっかりと輪舞に加えて
重苦しい時代でも明るく
私たちに危機が迫っても、勇気をもって

ドナウの川岸の故郷は
私たちの心の絆
いつも君のために
財産も血も捧げる

最後に もう一度挨拶しよう
私たちの愛するドナウに 素晴らしい川に!
その日 私たちにもたらしてくれるもの
忠実と団結

それがいつも私たちを守ってくれますように
そう 忠実と団結!
()の心を 力で自分のものとする

(しっかり団結して困難なときにも明るく!!!)

 

ウィーン少年合唱団、凪いだ海の面に散らされ微細に光を放ち透きとおりさざめき歌うちっちゃな宝石たちのメッセージが清新。

🎧名曲アルバムは西城八十・作詞「かなりや」。作曲は成田為三。編曲長生淳。

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⛳珍しく22時35分更新。今からが、という方もいらっしゃるかもしれないが、私はもう一日を終える時間なのです。

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きょうのことば 「信仰者の輝き」

7月31日、8月1日の両日、インマヌエルの教会の東北聖会があり、1日の聖日は東北、北海道の方々とともにZOOM礼拝に参加いたしました。
お話しはユーチューブでご覧ください。講師は国内教会局長大兼久芳規先生です

掲げられました聖書からのおことばは詩篇34:1~22でした。


詩篇34篇

ダビデによる。ダビデがアビメレクの前で、頭がおかしくなったかのようにふるまい、彼に追われて去ったときに。

1 私はあらゆるときに 主をほめたたえる。
 私の口には いつも主への賛美がある。

2 私のたましいは主を誇る。
 貧しい者はそれを聞いて喜ぶ。

3 私とともに主をほめよ。
 一つになって 御名をあがめよう。

4 私が主を求めると 主は答え
 すべての恐怖から 私を救い出してくださった。

5 主を仰ぎ見ると 彼らは輝いた。
 彼らの顔は辱められることがない。

6 この苦しむ者が呼ぶと 主は聞かれ
 すべての苦難から救ってくださった。

7 主の使いは 主を恐れる者の周りに陣を張り 
 彼らを助け出される。

8 味わい 見つめよ。
 主がいつくしみ深い方であることを。
 幸いなことよ 主に身を避ける人は。

9 主を恐れよ。主の聖徒たちよ。
 主を恐れる者には 乏しいことがないからだ。

10 若い獅子も乏しくなり 飢える。
 しかし 主を求める者は
 良いものに何一つ欠けることがない。

11 来なさい。子たちよ 私に聞きなさい。
 主を恐れることを教えよう。

12 いのちを喜びとする人はだれか。
 幸せを見ようと 日数の多いことを愛する人は。

13 あなたの舌に悪口を言わせず
 唇に欺きを語らせるな。

14 悪を離れて 善を行い 
 平和を求め それを追い続けよ。

15 主の目は 正しい人たちの上にあり
 主の耳は 彼らの叫びに傾けられる。

16 主の御顔は 悪をなす者どもに敵対し
 主は彼らの記憶を地から消しさられる。

17 苦しむ者が叫ぶと 主は聞かれ
 そのすべての苦難から救い出してくださる。

18 主は心の打ち砕かれた者の近くにおられ
 霊の砕かれた者を救われる。

19 正しい人には苦しみが多い。
 しかし 主はそのすべてから救い出してくださる。

20 主は彼の骨をことごとく守り
 その一つさえ 折られることはない。

21 悪は悪しき者を殺し
 正しい人を憎む者は責めを負う。

22 主は そのしもべのたましいを贖い出される。
 主に身を避ける人は だれも責めを負わない。

 

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ショパンがまたまた引き戻し

83()連弾

ジョス・ファン・インマゼール&伊藤綾子
音楽の場合の師弟関係がいかに緊密であるかは、中村紘子著「ピアニストだって冒険する」の第一章に、音楽家たちのさまざまな師弟関係が挙げられているけれども、このふたりの音楽家からは理想的なそれが察せられる。この時代の作品を弾くにふさわしいというエラール社製のピアノでの演奏を再び。
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名曲はグリーグ「ペール・ギュント」から「ハリング舞曲」
この演奏で使われたのがハルダンゲルバイオリン(ハーディングフェーレ)
これが何とも懐かしい響き。
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☆  ☆  ☆

8月4()反田恭平のショパン

もう早起きで聴くのはここまでにと決め込んでいたところ、何があっても5時には起きて聴くはずの私が起きないので、どうしたんだろうと思ったらしい主人が「5時だけど起きないの?」。もう時間に追われるのはやめたから」と返事したところが、こんどは主人が起きだしてTVを点けている。ショパンだ。それがなかなか。ついつい誰? と起きだしてみると反田恭平だった。反田さんを書きそしてきのうの演奏も書くことに。
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名曲アルバムはワーグナー「ワルキューレの騎行」東京フィル&飯森泰次郎
1876
年ワーグナーは自身の作品を上演するための祝祭劇場を建設。木を主な材料として。座席にクッションがないのは音の吸収を防ぐため。オケピットも包み込むような音を現出。ルートヴィッヒ2世のワーグナーへの傾倒ぶりは破格。ルートヴィッヒの神話、芸術への溺れようがどれほどのものであったかが具体的にわかる映像。いつもながらたった5分にこれだけの内容をぎゅっと詰め込んである制作に唸る。
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☆  ☆  ☆

8月5日(木)
ニュウニュウ。ジュリアードの舞踊専攻の仲間から影響を受け美しい動きを研究したニュウニュウ。ニュウニュウの手先、指先、上腕は踊る。
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名曲アルバムはフォーレの「ペレアスとメリザンド」東京フィル&大友直人
「ペレアスとメリザンド」はベルギーの作家メーテルリンクの劇作品。
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フォーレはパリ音楽院院長、パリのマドレーヌ教会のオルガニストと超多忙。作曲に専念できるようになったのは75歳から。これに大いに励まされ、75過ぎても創造的な活動ができるのだ! ただし体力気力が持てばのはなし。とはいえ、音楽番組も悪くはない。

☆  ☆  ☆

86()迫昭嘉&江口玲の2台のピアノ版第9。リスト編曲。飛び交う多くの師弟の方々の歓呼、拍手。
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名曲アルバムはホルストの組曲「惑星」から「木星」
苦労したけれども名を成したホルストに何か嬉しさが。
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☆  ☆  ☆  

8月7日(土)

J-MERO
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⛳8月7日(土)12時08分更新

 

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方針の変更

 このブログは5,6年以上も連日更新してきました。ただ令和元年の引っ越しの前後ひと月ほどであったかは、本末転倒であるという気もして整理整頓に専念。我ながらよく気力体力が続いたものとも思っております。さすがにここのところ眼精疲労を覚え、それでもとも思いましたが、ここでも腹をくくり、1週間となるか、10日となるか、それ以上となるかはわかりませんが、連日の更新はいたしません。視力、体力の温存を図ろうと思います。ただ書く書かないに関わらず音楽を聴き続けたく思います。このブログで自分を支えてきたともいえます。訪問くださった方々の中には、もっとこう書いた方がいい、こうは書かない方がいいと思われた点が多々あるかと思います。今後はきまぐれ更新ともなりますが、どうぞ宜しくお願いいたします。

⛳20時54分

 

 

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210802 クラシック倶楽部を聴く アリス・紗良・オット

アリス・紗良・オット。けさのクラシック倶楽部を聴き終えて、このブログの過去記事を検索すると、何とこれまでに5回書いている。はたと考え込んでしまった。だいたい今朝聴いて感じたのとほぼ一致。やはり前にも「夜のガスパール」の「スカルボ」を興味深く聴いたようだ。自分の書いたもの以外のページに飛んでみると、彼女が裸足でステージに出ていることを知った。裸足はトランペットのルシエンヌばかりかと思っていたが、アリスも。それと2019年に多発性硬化症と闘っていることを知った。今朝の録画はたしか18年だから、或いはこの時にもうわかっていたのかもしれない。演奏を終えたときの彼女の目ににじんでいた涙の意味は。 

ドイツ人の父と日本人の母のもと、ドイツで育ち、幼い頃から数々のピアノコンクールで優勝。活動は音楽のみならずアートの世界にも広がっている。201819年にかけて日本とヨーロッパの各地で行われるリサイタルは、「ナイトフォール」というコンセプトで企画された。

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コメント

ナイトフォールというのは、日の入りの直後の空がちょっと薄暗いときの光の世界と闇の世界がぶつかりあって混じり合う、一日の中の私はとても好きな時間なんですけどそのことであって、日本語に訳すとけっこう難しいんですけど、「たそがれ」とか「宵の口」とかともいうんですけど、それだと演歌っぽくなってくるので、私は個人的に「逢魔時(おうまがとき)」という言葉が好きなんです。それがナイトフォールという時間です。何なんか前に親友であるピアニストのフランチェスコ・トリスターノとリリースさせてもらって、その時はほんとうに20世紀の頭のパリが舞台なんですけれど、当時アートと音楽の世界で起きた革命がメインであって、当時からけっこうその時代に作曲された音楽家にすごい興味があって、ソロの曲ももうちょっと知りたいなと思って、「夜のガスパール」とか「ベルガマスク」の組曲とかを探っていったんですけど、最初はパリというイメージのプログラムを作ろうかなと思ってたのが、なんか、その曲に取り掛かっている最中に、パリではないなと思って、けっこうほんとうにその光と闇の部分がぶつかり合うので、「ナイトフォール」というタイトルが浮かんできたんですけれども、ほんとうに、まさにその二つの世界がぶつかり合うプログラムで、特にドビュッシーとか「夜のガスパール」、サティでもそうなんですけど。私は、人間にも光の部分と闇の部分、そういった二面性があると思うんですね。ふだんは、何が間違っていて何が正しいのかを判断できても、時と場合によってそれは難しくなってくる。白黒ではない時があると思うんですね。だから人間にもそのナイトフォールの部分があると思うんですけど、音楽でもナイトフォールをお客様に(聞き取れず)っていただいて、同時に自分の中にある二面性を探ってもらいたいです。

 

曲目

「夢」ドビュッシー:作曲
「グノシエンヌ第1番」サティー:作曲
「ジムノペディ第1番」サティー:作曲
「グノシエンヌ第3番」サティー:作曲
「夜のガスパール」ラヴェル:作曲
「亡き王女のためのパヴァーヌ」ラヴェル:作曲

 

 

🎵感じたところを、前の記事から転載する。
アリス・紗良・オットの世界「逢魔時」を象徴するかのような青いライトの巧みさ、ナイトフォールに溶けこむかの紗良の美しさに惹きつけられ食い入るかに見入ったけれども、今回はむしろ視覚的な部分を伏せて、ほとんど目を閉じて聴いていたのだけれども。紗良のいう光と闇がぶつかり合う白黒つけがたい、これはいわば葛藤というものでもあるかと。自分の中にある二面性をさぐってもらいたいという紗良。華々しい世界的な活躍をひた走ってきた紗良がたどり着いたこの時点。この収録は2018年だが、現在の彼女にはまた芸術に昇華された変化が織り込まれているのではとユニバーサル・ミュージック・ジャパンに飛んで彼女の今を確認。

ラヴェルの「夜のガスパール」、底に静まっていた沈殿物が、水の面を過るさまざまな生物、動物、物体、などというと曲想からいえば物々しくなってしまうが、いずれ人のさまざまな感情を含んだことばなどで立つさざ波によって、浮遊、これはふだんの自分のありようから思わぬ方向、事態に自分の意思とは時として無関係に引っ張られてしまうような物理的な引力とはまた違った牽引力なのだろうけれども、引かれ浮遊し、自らの存在に安定感を失っている、そんなあり様を想像してしまった。魂の落ち着きどころがなく羅針盤を失った航海でもしているような感じがした。

🎧名曲アルバムはバッハ。それもこんな意外なカンタータが。
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⛳22時01分やっと更新

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きょうのことば 「喜悦の盈満」

インマヌエル盛岡キリスト教会2021年0725()の礼拝メッセージをお伝えいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で48年目のご奉仕をしておられます。

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説教題 『喜悦の盈満』  (國光勝美 牧師)
聖書箇所 新約聖書 第一ヨハネ1章1~10

1:1初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、 1:2このいのちが現われました。御父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私たちは見たので証しして、あなた方に伝えます。1:3私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。 1:4これらのことを書き送るのは、私たちの喜びが満ちあふれるためです。1:5私たちキリストから聞き、あなたがたに伝える使信は、神は光であり、神には闇がまったくないということです。1:6もし私たちが、神と交わりがあると言いながら、闇の中を歩んでいるなら、私たちは偽りを云っているのであり、真理を行っていません。1:7もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます1:8もし自分に罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。 1:9もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます1:10もし罪を犯したことがないと言うなら、私たちは神を偽り者とすることになり、私たちのうちに神のことばはありません。

 

<お話し>

私たちは、67月の礼拝のうち2回は、10年前に東北聖会・南聖会での竿代信和先生のメッセージ、1回は、工藤弘雄先生のメッセージを聞き恵まれたことでありました。
 竿代信和先生のメッセージの中で、特に潔(きよ)めといわれている主題について、潔(きよ)められたときに「喜びが満ちあふれる」と語られました。初代総理の蔦田二雄先生は、丸の内教会での潔(きよ)めの説教をまとめ「喜悦の盈満」として出版しておられます。年齢からすれば竿代信和先生は私よりも一回り上の先生でありますし、田中敬康先生は同年でありますから、一回り上のそのお二人の先生方が「蔦田先生のメッセージは恵まれるけれども、何せ言葉が難しい。「喜悦の盈満」、「喜悦」はわかったとしても、「盈満」はふつう使わない。だから再版するときには、これを何とか直したいが」と竿代信和先生のメッセージにありました。それはともかく、竿代先生のメッセージを2回に分け、また工藤先生を入れて3回の説教を聞いて私自身大変祝福をいただきました。

 この標準的な「きよめ」ということを扱うメッセージ、これを自分なりに咀嚼をして、このズームの画面で皆さん方にできるだけわかりやすく提供できるならとの思いで、さらに何回か聞き直しながら画面づくりをし、自分なりに咀嚼をして「喜悦の盈満」という蔦田先生の本を参考にしながらまとめさせていただいたのが、今日のメッセージであります。

 鍵となる言葉があります。それはこの1章全体のところから、色が変わって表示されている。この「交わり」という言葉が赤い字によって強調されています。それから7節を見ると「光の中を歩んでいるなら」というところ、そして、同じく7節にすこし色合いが茶色ぽくなっている「きよめてくださいます」、或いは9節のところには「罪をゆるしすべての不義からきよめてくださいます」というこの「交わり」という言葉、「光の中を歩む」ということ、それから「赦し」ということと「きよめ」ということ、この6つを注意して心にとめて、これからの時をと願っているわけであります。

 まとめてみますと、「交わり」ということ。そして歩むというときには「光の中を歩む」。そして、罪を解決するときに、「赦し」ということがある。「きよめ」ということがある。このことを今日は皆さんと一緒にポイントとして理解していただければと思います。

 

 戻るようですけれども、ここに執筆した目的があります。4節、「これらのことを書き送るのは、私たちの喜びが満ちあふれるためです。」
 ヨハネの手紙はユダの手紙とヨハネの黙示録とともに新約聖書のいちばん後ろの方に分類されております。ヨハネの手紙第一、第二、第三とあり、それぞれの手紙には記された目的があるのですが、第一の4節には、はっきりと、「これらのことを書き送るのは、私たちの喜びが満ちあふれるためです」とある。まさに喜悦の盈満。喜ぶことを私たちはこんなにもすばらしいものとして体験することができる。そのためにヨハネはこのお手紙を書いたのであります。喜び、これを私たちは日常の生活においても経験しますけれども、今ここで云っている喜びは、それとは本質的に違う。イエス様によって罪の滅びから永遠のいのちと祝福が約束されている。天の御国へ私たちは確かに移されている。このクリスチャンとなった喜びなのであります。皆さん、クリスチャンになったとき、この類の喜びというものを経験しているはずです。仮にそのことを明確に思い出せなかったとしても、ヨハネが書いたこの目的にある「あなた方の喜びが満たされるためです」ということは、私たちはそれを理解することはできているものです。しかし、もしここに、クリスチャン信仰とは無関係な人がいきなり入って来て、「あなたここで語っている喜びを持っていますか?」と訊いたときぽかんとするかもしれない。それは、罪が赦された喜び、神がともにいてくださるという喜び、こういう霊的な問題とまったく関係がない人にとっては、この喜びとは何のこと? 

 しかしもう一度言います。私たちがこの前の工藤先生のメッセージではありませんが、泥の中から、罪の暗闇の中から救い出されて神様を愛して神様に従って歩むことを喜びとするそういう世界に私は今引き上げられている、これはもう体験的なもので説明してわかってもらえるものではない。どんなに難しい神学を読んだとしてもです。ですから、詩篇の47節に「あなたは喜びを私の心にくださいます」とある喜びは、世の中の喜びとは違う。一般的には世の中の人たちは穀物がいっぱいある、或いはおいしい葡萄酒がいっぱいある、すると喜んでいられる。しかし、「あなたは喜びを私の心にくださいます」。それは、世の中の人がるんるんするような、そういうものの類とは全く違う救いの喜びです。竿代信和先生がメッセージで、この喜びについて仰っていました。村岡花子が訳した物語の少女の感謝の喜びのゲーム。このことは私たちにとってアーメン、体験的な事実としてうなずくことができるものです。

 そして、その道を歩んでいくときには、愛、喜び、このような御霊の実が私たちのうちに実って来る。そしてこの喜びは、私たちとイエス・キリストとの結びつき方によって、或いはきょうのポイントでいうなら、どのような交わりの中に歩んでいるかによって、いよいよ喜びが満ちあふれるようになる。

イエス様が仰ったヨハネの福音書の1010
「わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです」
この意味がお分かりいただけるだろうと思います。

 イエス様がこの世においでくださったので、それぞれ自分の好き勝手な道を歩んでいた私たち羊が、この真の羊飼いなるお方によって罪を悔い改めて、いのちを得ることができた。これが救いの恵みです。これが救いの喜びです。しかしそれだけに留まらず、しかも、「それも豊かに得るためです」
 ここに、喜びを持つということと、喜びが満ちあふれてくるということとは違うんだよ、というメッセージが語られている。

 私たちは肉体のことを考え、霊的なことにちょっとこれを当てはめてみたらどうでしょうか。私たちは、命をもっていますから、肉体があるのですが、肉体は疲労困憊することがある。これを霊的ないのちに当てはめてみるのならば、かろうじてクリスチャンという状態になったとして、どうでしょうか。

 今の履歴書の記入事項がどのようになっているのか、価値観が多様になっていますから昔のそれとは違うかもしれません。私の若いころの履歴書には宗教というところがあった。学生時代にキリスト教信仰をもちましたが、生家はふつうの仏教です。就職の時点ではまだ信仰をもってなかったので、家の人にこれどう書いたらいいんだろうねと訊きましたら、「仏教とでもかいておけ」。それもそうかもしれないなと、何の考えもなしに仏教と書いたことも、何か恥ずかしい思い出です。そういう意識でした。しかしそのあと会社に就職できて、人事の方と面接があった。ここでどうしても言わなくちゃならないと思い、「私の履歴書で訂正してほしいところがあるんです。宗教欄に仏教と書いたんですけれど、つい数か月前にクリスチャンになりましたのでキリスト教と訂正してください」とお願いしたことがありました。

 あなたの持っている宗教は何ですかと訊かれたら、はい、キリスト教ですと皆さん答えるだろうと思います。それを、ほんとうにそうです。クリスチャンです。と言えるのか、そうでないのかというところを考えてみてもらいたいのです。

 疲労困憊する、これはあり得ることです。いつもいつも元気印というわけにはいかない、それが人間です。これもご存じかもしれません。私は近場の山登りをするのが大好きです。いつものように、いつもの坂道を登って行ったときに、ついこの前のことだったのですが、10分程度の坂道を、健康な時であれば休もうという気すら起こらず、そのまますたすたと歩いて、この前はここは7分で登った、あのときは10分で登ったというように、ふつうは10分で登る坂道なんですが、ついこの間、4回立ち止まりました。そのときに、疲労困憊ってこのことかなあ。足に力が入らなくなってびっくりしました。何だろう。たぶんこの夏の暑さということもあるかもしれませんけれども。

 どうしてこんな話をするかと言いますと、そんなに意識していなくて変わっていなかったとしても、私たちは無意識に疲れているときってあるんです。自分で霊的に弱るとは思ってないんですけれども、しかし様々な困難とか課題に直面したときに、あれ、前はおんなこと乗り越えられたのにというようなそういう状況ってほんとうに体験するんだと思うのです。あれ、前と違う、そのときにどうか思い出してください。イエス様がいらしたのは「羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るため」であることを。

それを私はここにまとめてみました。この肉体的にも霊的にも恵みに満ち溢れるということの内容を私なりにまとめさせていただいたものです。

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 いのちの豊かさは「交わり」の豊かさです。イエス様との交わり、みことばを通して神様を深く思う、「エホバをおもふ わが思念(おもい)は たのしみ深からん。豊かな交わり。そして工藤先生が仰ったのは40篇の8節
わが神よ私はあなたのみこころを行うことを喜びとしますあなたのみおしえは私の心のうちにあります。

 あなたのうちにある、つまりこれが光の中を歩むということです。光の中を歩むときにいよいよ神様とぴったりと歩調が合って、するとさっき言ったような私たちは弱る、そういうことはあって当然なんですけれども、そこから回復することができる。そしてこんど、チャートの方の下の方をご覧いただきますと、私たちがイエス様の救いを受けた喜びを経験したのは、何だったでしょうか。それは、聖霊の恵み憐み以外にないのですけれども、自分自身が滅びの中に、泥の中に沈んでいたものであったのに、神様は引き上げてくださったというその救いの転機を私たちは経験しています。イエス様の十字架の救いということを初めてそこで自分に適用することができました。それは神様の恩寵ですし、そして救われた喜びというのは、これは信仰による以外にない。なぜならば、それは自分が努力して一生懸命に正しいきよい行いをすることによって救われるのではないということがわかっているからです。

 こんなものが救われた、それは神の恩寵以外何ものでもない。自ら誇るなにものもない。ただそれは御子イエス様が尊い血潮をもってご自分のいのちと引き換えに、わたしはこのものを愛している。このもののどうか命の代わりに、わたしを裁いてくださいといってイエス様は十字架の上で贖いを成してくださった。それを私たちはただ主よ有難うございますと信じただけで救いの喜びというものを経験したではありませんか。

 その救いの喜びという転機。そして先ほど、罪が赦されるということと罪がきよめられるということとの違いを申しました。第一番目のそれは、これまでの罪を神様は赦してくださいました。しかし、それからあと、私たちは信仰生活を送っていきます時に、どうしても世のしがらみといったらいいのか、不信仰な悪しき心、ややもすれば世の中の方に惹かれてしまう、そういうことがある。それでもあなたの履歴書を書くときには、はいクリスチャンです。そう書くけれども、だけども、そういうところを通ってしまう。そのときに、ああ私の心はこんな罪のまだ神に逆らう性質を持っている。こんな性質を持っているのでは到底神様との交わりを豊かに保つことはできない。そのことに気が付いた時、それこそ恵みなのです。自分ではこれをどうすることもできないけれども、イエス様は、その罪を赦し、すべての不義から我らをきよめてくださる。羊がいのちを得、かつ豊かに得るためにというときに、私たちは、神に従うことを喜びとするというそれをしたい。自分ではそれはできない。汝の法はわが心のうちにあり、それが自分ではできない、それが私たちをしっかりと神に溶接してくださるのは何かといえば、それはイエス・キリストの血潮なんです。十字架で流してくださった神様、御子イエス様の、罪に感じて赦してきよめてくださるこのお方にしっかりと私たちが溶接されるのならば、私たちは喜びをいよいよ深めていくことができる。喜悦の盈満というのは、まさにこのことであります。そしてそれは、日々に日々に成長していくものであります。人間ですから転ぶことがあります。転んだらばまたそこで主を見上げ、主の十字架の血潮を仰いでいけばいいのです。だって私たちは救われたのはただ神様の恵みであって、私たちが信じたから救われたんでしょ。じゃ私たちがきよめられるのは、一生懸命いいことを内側のもの、律法で外から一生懸命にきよく正しい行いをしなければならないんじゃない、あなたのみことば、おきてを行うことを喜びとするというそれを信仰によって受けるとき、御子イエスの血がこの問題を見事に解決してくださる。それを繰り返していくことこそ無限の成長になることではないでしょうか。これが喜悦の盈満、そしてこれが10年前に竿代信和先生が語られたメッセージであり、まさにこれが工藤先生が語られたメッセージに他なりません。これをどうか大切な神様の語りかけとし、喜びにあふれた信仰生涯をたどらせていただきたいと存じます。

※音声データ、画像は教会からお借りしています。
⏰8時12分更新

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