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きょうのことば「喜びの福音」

インマヌエル盛岡キリスト教会2021年07月04日()の礼拝では、2021617日に85歳で天に召された竿代信和先生のメッセージを聞かせていただきました。


説教題 『喜びの福音』  (故竿代信和 牧師)

聖書箇所 ローマ 5111
1 こうして、私たちは信仰によって義と認められたので、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています。
2 このキリストによって私たちは、信仰によって、今立っている恵みに導き入れられました。そして、神の栄光にあずかる望みを喜んでいます。
3 それだけではなく、苦難さえも喜んでいます。それは、患難が忍耐を生み出し、
4 忍耐が練られた品性を生み出し、練られた品性が希望を生み出すと、私たちは知っているからです。
5 この希望は失望に終わることがありません。なぜなら、私たちに与えられた聖霊によって、神の愛が私たちの心に注がれているからです。
6 実にキリストは、私たちがまだ弱かったころ、定められた時に、不敬虔な者たちのために死んでくださいました。
7 正しい人のためであっても、死ぬ人はほとんどいません。善良な人のためなら、進んで死ぬ人がいるかもしれません。
8 しかし、私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死なれたことによって、神は私たちに対するご自分の愛を明らかにしておられます。
9 ですから、今、キリストの血によって義と認められた私たちが、この方によって神の怒りから救われるのは、なおいっそう確かなことです。
10 敵であった私たちが、御子の死によって神と和解させていただいたのなら、御子のいのちによって救われるのは、なおいっそう確かなことです。
11 それだけではなく、私たちの主イエス・キリストによって、私たちは神を喜んでいます。キリストによって、今や、私たちは和解させていただいたのです。

 

聖書箇所 ヨハネの福音書161924
19
イエスは、彼らが何かを尋ねたがっているのに気づいて、彼らに言われた。「『しばらくすると、あなたがたはわたしを見なくなるが、またしばらくすると、わたしを見る』と、わたしが言ったことについて、互いに論じ合っているのですか。
20 まことに、まことに、あなたがたに言います。あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜びます。あなたがたは悲しみます。しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。
21 女が子を産むとき、苦しみます。自分の時が来たからです。しかし、子を産んでしまうと、一人の人が世に生まれた喜びのために、その激しい痛みをもう覚えていません。
22 あなたがたにも今は悲しんでいます。しかし、わたしは再びあなたがたに会います。そして、あなたがたの心は喜びに満たされます。その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。
23 その日には、あなたがたはわたしに何も尋ねません。まことに、まことに、あなたがたに言います。私の名によって父に求めることは何でも、父はあなたがたに与えてくださいます。
24今まで、あなたがたは、わたしの名によって何も求めたことがありません。求めなさい。そうすれば受けます。あなたがたの喜びが満ちあふれるようになるためです。

 

<お話し>

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 きょうは、私たち信仰者として実際の生活の中で、喜びに生きるとはどういうことか、またどうしたら、そのようになれるのかという極めて実際的なことに思いを向けたいと導かれて、聖書からローマ 5111節とヨハネの福音書161924節の2か所を開きました。

 ロマ書5章の方を最初に見ますと、ここには「喜び」が3回出てまいります。一つは、「今私たちが立っているこの恵み」ということを申しましたが、その立場に立ったために、「神の栄光を望んで大いに喜んでいる」と記されています。そしてその大いなる喜びを受けて、そればかりではなく、「艱難さえも喜んでいます」と書かれていて、その喜ぶ理由が述べられています。この短い111節の中に3番目、11節には、「和解を成り立たせてくださった私たちの主イエス・キリストによって私たちは神を大いに喜んでいる」。神の栄光を望んで喜ぶ。実生活の中の艱難を喜び、そして究極には神ご自身を大いに喜んでいる。このように筆者であるパウロは述べているわけであります。

そこで皆様に極めて基礎的なこと、しかし大切なことをお話し申し上げ、またご一緒に考えていただきたい。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべてのことについて感謝しなさい」という第一テサロニケ51618節のおことばをよく知ってらっしゃるでしょうし、或いは、そらんじていらっしゃると思います。

 ところで、「いつも喜んでいなさい」ってどういうことなのかと踏み込んで訊かれましたら、皆さんはどういうふうにお答えになりますか。いつも喜ぶことだ。それはそうにちがいないのですが、「いつも喜ぶ」。どういうことなんでしょうか。実際に一人ひとりに伺うといろんな答えが返ってくるだろうと思います。ある方は、これは私たちクリスチャンにとって、或いは私にとって、この経験が実現したというところには至らないと。永遠のテーマです。そのゴールに向かって進んでいく。いつも喜び、すべてに感謝し、絶えず祈る、達し得ないけれども、そこに向かって進んでいく。永遠のテーマです。ある方は、何とかそれを経験したいと思うんですけれども、なかなかそれが私の証になっていませんと。ある人は、何だかよくわかりません。

 しかし、私は若いころからこのことばを味わいながら真剣に考えて真剣に悩む時がありました。ほんとうは何を云ってるんだろう。いつも喜べ、絶えず祈れ、わかっていることは、「いつも」、とか「絶えず」ということが言葉通りずっとではない。眠ってる時もいつも喜んでいなさいといつも笑っていたら、家族は気持ちが悪い。或いは、もう少し現実的に考えましょう。愛するものを天に送ったというようなときに、悲しみの涙を流している人に、あなたクリスチャンでしょう、しっかりしなさい、いつも喜んでいなさいと御聖言(みことば)に書いてあるでしょう、と言うでしょうか。愛する方を失って、涙を流しているその人に、喜びなさいというのはどうでしょう。いつも喜ぶ、もしいつも喜ぶということが、そういう意味を表しているんだったら、そこで喜ばなければいけないですが、明らかにそうではない。そんなことを聖書は教えているはずがない。或いは言い換えると、片方で悲しみの涙を流しながら、でも私はいつも喜んでるんですと言える類の経験ではない。それはうれしいとか喜んでいるというのとは違うはずです。また絶えず祈りなさいといって、目をつむってたらクルマの運転だってできない。忙しい。そうすると、そういうことに携わりながら、しかしそれと両立する意味での絶えず祈るという、それはいったいどういうことなんだろうか。そんなことをまず私たちは現実問題として、いったい何を意味してるんだろうか。またどうしたら、その意味している経験に与るのだろうかというあたりが、今日の中心になるところであります。

 もう一つ考えてみたいのは、この「喜ぶ」ということに関連して、聖書の中で、特に新約聖書の中で、喜びと仲のいい言葉がいくつかあります。一つは今回いみじくもつながっています「聖霊」と「喜び」というのは非常につながっている。もう一つの仲良しは、「艱難」とか「苦しみ」ということと、意外や意外、「喜び」とはいっぱい重なっていて、3番目の仲良しは何かというと、「望み」である。「喜び」と「望み」ということが非常に連なって出てまいります。聖霊とかかわる喜び、艱難の中にある喜び、それから望みと深くかかわっている喜び。これが道案内の中に出てくるものなのです。

 それから「喜び」に関してもういちど基礎的に申し上げたいことは、喜びの中に、クリスチャンとされる喜びよりもさらに深いものがあるのではないか。今私は2番目に司会者の先生にヨハネによる福音書のイエス様のことを読んでいただきました。十字架に架かられる前に、或いは捕縛をされる前に、愛する弟子たちに諄々とお別れのメッセージをされた大切な場所です。ですので、イエス様は「しばらくあなたがたはわたしを見なくなる」。一連の苦難の十字架のことを話されました。「しばらくわたしを見なくなるということであなたがたは悲しむだろう。けれども、もういちどあなたがたと会う」。その時に、イエス様はこのように言われたのです。「あなたがたの悲しみはそのときは喜びに変わります。今は悲しみがある。もういちどあなたに会います。そうすればあなたがたの心は喜びに満たされます。その喜びをあなたがたから奪うものはありません」。さらに「求めなさいそうすれば受けます」。そういうことを言われた後で、それはどうして求め、どうして切実に求めたらいいかというと、「あなた方の喜びが満ち満ちたものになる」。ある英語の聖書にはfullそしてcomplete。あなた方の心は満ち、そして完全になるんだと述べています。

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 初代総理の蔦田二雄先生は、満ち満ちた喜びを『喜悦の盈満』という本に著している。これは丸の内教会の聖別会の説教を集めたものですが、素晴らしいメッセージですが、何しろ言葉が古い。喜びが満ち満ちてくるといってくれた方がわかる。イエス様は、ある種の喜びでなくて、そのレベルでなくて、わたしとの深い出会いがあると、もう一段階深い、もう一段階上の喜びに満たされた経験があると示唆されています。

 ある意味で弟子たちと私たちの経験には共通点もありますけれども相違点もあります。弟子たちはイエス様の十字架の贖いの経験をする前に、イエス様を救い主と仰ぎながら、メシアと信じて従っていきました。そして彼らが、本物の証人となるのは、今回、鍵の聖句として掲げられている使徒の働き1章8節、この経験を彼らがしてからであります。聖霊が臨んで、聖霊のバプテスマを受け、彼らが主の証人になったのです。けれども多くの聖書の注解書や或いは、識者が指摘しますように、まったく同じとはいえないけれども、比較をしていうならば、十字架、復活後、昇天前の弟子たちは、私たちでいえば、生まれ変わって救いに与った信仰者に相当する。そして、ペンテコステ経験のちの弟子たちは、まさに今私たちが教えられ指導されている聖霊経験、潔めの経験ののちに相当するわけです。つまり、その弟子たちは、新生とか救いということを私たちとまったく同じような経験をしてはいないわけですけれども、それと同等とみなすことができる経験をしているわけです。いわく、あなた方はわたしとともに生活をし、わたしについて来、そしてわたしに従うことによってほかの世の中で味わうことのできないキリストに従うものの得る喜びを経験してきた。けれども、ほんとうの意味で深く深く深く私と出会い、イエス様を経験し、ある意味で今まではイエス様が目に見える形でそばにいてくださった。でもイエス様が天に帰られてしまったら、物理的な意味ではイエス様はいなくなってしまった。いなくなってしまうからこそもっと深い意味でイエス様が一緒にいてくださる。覚えてらっしゃるでしょう。イエス様は天に帰る直前に、宣教大命令をお与えになったときに、「わたしは世の終わりまでいつもあなたがたとともにいる」と約束してくださった。これから天に帰っていなくなっちゃう。逆にいえば、いなくなってしまうからこそ、これからいつもあなた方とともにいるということは、弟子たちは新しいキリスト経験をする必要がある。今までのイエス様は、危急の時に、助けてください。船が沈んでしまいますよ。たくさんの人がいてお腹を空かしている。イエス様どうしたらいいんでしょうか。いつも目に見える形で傍にいてくださるというのはそういうことだった。ところが逆にそのイエス様が天に帰られて、ふつうの言い方をすれば、いなくなってしまう。そのいなくなるはずのイエス様は、だからいつもこれからはあなた方とともにいるとおっしゃったことは、新しい信仰経験をしない限り、それは成就しないわけです。

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 弟子たちはそのとき初めて目に見える形で、手で触れる形で傍にいてくださるイエス様ではなくて、イエス様を信じ心を開くときに、いつも傍らに共にいてくださるイエス様、目に見えなくても、そのような深い形で一緒にいてくださることを彼らは経験するわけです。そのことをイエス様は、求めるならあなた方の喜びは満ち満ちてより深く完全に至るといわれたのであります。ということは、私たちの信仰生活の中でも、たしかに救いの恵みに与ることは大きな喜びでありますけれども、それに止まらない恵みがあるはずです。

 喜びというのは、聖書の教えている喜び。それはいったい何なのでしょうか。いま申し上げましたように、第一に私たちが救われたという救いの喜びがあるのです。そして永遠に連なる者となったということは、この5章でいえば2節に書いてある今立ってる恵みに与って永遠に望んで喜んでいるということであります。しかしながら、喜びはそれを土台として出発点として、聖書が教えているその深い喜びというのは、私たちの心の在り方、私たちの霊的な姿勢というものを意味することばです。感情的な、気持ちの上での喜びではない。

 私たちは信仰者でありましても人間ですから、嬉しいことがあればニコニコするなと言ってもしたくなる。お母さんは子供がはしゃいでると何がうれしいの? と。お母さんにはわかる。なぜこの子はきょうはこんなにハイなんだろ。私たちは信仰生活を送ってみますと、そんなにハイになってばかりいるようないいことばかりは続きません。むしろ、この中にもいらっしゃると思いますが、試練に次ぐ試練。困難に次ぐ困難の中に置かれていることがあります。世の中では、ついてるとかついてないとか言いますね。あの人ついてないな。あの人悪い星の下に生まれてきたな。もうすこし宗教ぶる人は、あの人きっと前世の因縁だ。確かに私たちから見ても、なぜこの人にばかりつらいことや試練が起きるんだろうかと思うように連続することがありますね。教会の中にもそういう方が存在することがあり得ます。経済的な大変な試みにご主人が遭遇しているところに、奥さんに癌の宣告があったとか、子どもにこういうことが起きたとか、あんなに真実に主に励んでらっしゃるのに、神様何とかしてくださいと思わず神様にそのようなお祈りをしないではいられないような試みが連続することがあり得ます。

 いったい喜ぶということは、そういう嬉しいとか楽しいとかいうことではないことは明らかです。いつも喜んでいなさい。先ほど極端な例を申し上げましたけれども、愛する者が天に帰った、亡くなったときに、そんな意味での喜びの感情、ああこれでよかった、明日から介護しなくて済むなどと、そういう喜びがあったら恐ろしいですね。けれども私たちはそんなことの喜びではない。だとするならば、そういう心の在り方、霊的な姿勢、それは何か、非常に端的な大胆な言い方をすると、神が私たちに最善をしてくださるということを信じ受け止めるその心のすがた。喜ぶということは、主が御心をしてくださっているのだということが気持ちや感情やそういうことがついていかなくても、悲しい時には悲しいのです。苦しい時には苦しいのです。苦しい時には苦しいし、つらい時にはつらい、そのただ中にありながらも、今私は、とてもそれを簡単に乗り越えられない思いの中にいるけれども、しかし、今私にはわからなくとも、この中にもきっと神は最善をなさってくださるのだという神の最善を喜ぶ心が、この喜ぶという意味です。ですから霊的にその恵みに届き到達し、また心してその中に生き続け、その中を深めていきませんと、その種類の喜びは生き生きとしたものにはつながってこない。そしてやがては主の御心を喜び、或いは、御心がなされていることに、これは私がわからなくても主の最善なんだと喜ぶ。さらにそれを乗り越えると、このロマ人の手紙5章にありますように、彼は神ご自身を喜ぶ。神様がしてくださるあの事このこと、神様が止めなさるあのこと、このこと。そういう具体的な事柄だけでなくて、究極の喜びは、神様ご自身を喜ぶという世界にまで入れられるというのであります。

 ネヘミヤ記の8章10節に「神を喜ぶことは大きな力だ」ということばがあります。「あなた方は今日悲しむんじゃない」エリヤはこの祭りの中で、一方で喜びながら一方では反省や悔いや様々なものをもって悲しんでいる民に向かってこう言いました。「神を喜ぶことはあなたの大きな力だ」私たちは究極的に、神様があんな過酷な中にも通してくださる、支えてくださるからということを喜ぶだけではなくて、主ご自身を喜ぶというその高みにまで喜びというものは引き上げられていく。

 それで、もうすこしそのことを掘り下げてみましょう。  
最初私は、喜びと聖霊は仲良しだと言いました。今の5章のところ、「そればかりではなく艱難さえも喜んでいる」、なぜ艱難なんかを喜ぶかというと、それが忍耐につながり、それから練られた品性がそこから生まれ、そしてそれがあるからこそ、そこから希望が生まれてくる。そしてその素晴らしさは、その希望は失望に終わらない。世の中では希望らしきものがどんなに失望に変わるでしょうか。希望を得た人がどんなに失望の存在になってしまうでしょうか。しかしこの希望は失望に終わらない、この根拠は、なぜそういえるか。それは私たちに与えられた聖霊によって神の愛が心に注がれているから。これはよく言われますけれども、農業用語で灌漑ということばがあります。心を耕して豊かに隅々水を流す。あのさまと同じように神の愛が大きく流れてくるだけではなくて、細かく隅々まで及んでいく。そういうきっかけになっていくから実は、艱難もまたよし。艱難が喜びだというようにいっているわけであります。

 ローマ14章17節ご覧ください。「なぜなら神の国は飲み食いのことではなく、義と平和と聖霊による喜びだからです」。ここに聖霊による喜びとある。同じようなことは、パウロはテサロニケの手紙の中でも使っているのですが、「あなたがたも多くの苦難の中で聖霊による喜びをもってみことばを受け入れる」。でもう一つは、ガラテヤ人への手紙の5章22節から「御霊の実は」、結果と結実は違うとありますが、ここに御霊の実が書いてあります「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」と9つ並べられています。よく指摘されますように、実は9つの実という複数形ではなくて、単数形なのです。これぜんぶ合わさったものが総合されたものが御霊の実。ある人がですからそれを考えて、愛という土台の上にほかの8つがくるまれているのだと。どちらを取りましても愛の次に出てくるものは喜びなんですね。前に出てくるから重要で後に出てくるからダメというわけでは決してないのですが、しかし、愛に連結して喜びと平安が続いています。しかもそれは御霊の結実です。御霊のもたらす一つが喜びである。このように喜びの経験というものが、聖霊というお方との深い関わり、聖霊が私たちの中に働いてくださる働きによってもたらされるものだということをお分かりいただけると思います。

 もう一つはイエス様との深い関係によってそのより深い喜びはもたらされる。ただ単にイエス様を信じた、救い主だというだけでなくて、ほんとうにイエス様だ。私のうちにひそんでくださる。イエス様が共にいてくださる。そうすると、あれをいただいたとか、これをもらったとか、こんないいことが起きたからイエス様感謝しますと喜ぶだけでなく、イエス様ご自身を喜ぶようになる。特に私は、それらのことがどのように成就されるのか。いま簡単な何々らしきもので喜びとは何かということを申し上げましたけれども、どうしたらそれではそういうより深い喜びの経験を現実に得る土台ができるのか。

 私たちは自分たちを主体に据えて持っている限り、喜びというのは表面的なものであったり、感情や気分や環境で左右されるもので終わってしまう。こうした聖霊による働きが内側に働いての深い喜びの経験をするためには、イエス様がおっしゃるようなイエス様との親しい関係  は、私たちはどこかで転機的な経験とか、  死すの経験とか言われているような神様あなたを中心とします。あなたを第一といたします。あなたを心の王座にお迎えしますという明け渡しの経験が必要です。まず私がいて、わたしを助けてくださる、折々に助けてくださる、主がいてくださるというレベルの時には、そういうようなことは持ちえない。神の御心が最善であるということを信じる、その経験に立つためには、私たちは明け渡して、そして、神様あなたを第一にいたします。あなたを心の中心にお迎えいたします。聖霊様私の全人格を満たしてくださいというふうに、どこかで私たちは生涯の中で明け渡した、きっかけや状況は色々ですけれど、立場は伝道者であったり信徒であったり或いは仕事をしておられる社会人であったり、主婦であられたり、いろんなことをしている方もあるでしょうけれども、どこかで私はほんとうに御心が最善である、これからいろんなことがあるとき、私たちの感情や希望がついていけないとき確かにあっても、心の奥底で神様の御心がすばらしい。すばらしいだけではなくて大切である。神様は最善のことをなさるお方であって、最善の存在なんだということを受け入れましたという明け渡しの経験を持つことが非常に大切です。なぜならいろんな形でそんなのはお前の思い込みではないかというような揺さぶりが来るからです。その時に私はほんとうにそのように告白をし、受け入れ信じました。しかしながら、それはそれとして、それを基にしてこれが絶えず私たちの地上生活の中で繰り返されていかなければならない。その時に、私は、ほんとうにそのように告白をし受け入れ信じました。しかしながら、それはそれとして、それを基にして、これが絶えず私たちの日常生活の中で繰り返されて行かなければなりません。

 主が最善をしてくださるってるんだ。主の御心だとこういうときこそ信頼するんだ。そういう短い祈りなり信仰の告白は、できるだけ多く練習してく必要がある。そしてできるだけはやく、あっちに行って惹かれ、こっちに行ってさまよい、こっちに行って考え、にっちもさっちもいかなくなる。ああそうだ、こういうときこそ祈れって先生が言ってたなと、20分ぐらい経ってから、ぶつかってぶつかって、迷って迷ってそれからさ迷って、それから戻って来るのではなくて、そういうことにぶつかったときに、なるべくはやく、そして1日の中で小さなことから大きなことに至るまでなるべく多く、主の最善を確認してくるというあり方生き方は大切です。

 急に庶民的な話をしますが、皆さん、パレアナという子どものはなしをご存じですか。幼いころに、我が家に「少女パレアナ」という本がありまして、長岡花子さんが訳したいい本ですが、それを読み耽ったことを思い出します。これがポリアンナという少女のTVアニメになったことがある。宗教色は極めて薄くしてあります。ポリアンナという女の子は牧師の子どもです。両親がはやくに亡くなって、超意地悪なおばさんに預けられる。こんなにひどい意地悪するか。そばにいたら、おばさん、やめろよ、いい加減に! と言いたくなるぐらいに、この意地悪をしまくる。けれどもポリアンナはお父さんから亡くなる前に教えられた喜びの遊びというのを身に着けている。何でも喜んじゃう。何でも喜びに結び付けよう。彼女は一つ一つ、これがあって感謝です。意地悪をされても、おばさんありがとう、こうしてくれて。おばさんはあっけにとられて。さしものおばさんも砕かれるという話であります。

                                                        ーつづくー

 

※イラストは盛岡教会からお借りしています。
ブログ管理人より
 実は前回の竿代信和先生のメッセージも3分の2までは音声データから起こしたのですが、諸事情により間に合わせることができず、掲載できかねました。このブログは強制ではなく自主的に奉仕で行っております。基本的には自分がお世話になっております盛岡の講壇での説教を、この厳しい世情にあって自分は何ら社会的な役割を果たしてはいないという負い目もあり、どなたかおひとりにでも何らかの参考、示唆ともなればと続けてまいりました。今回は9730文字(400字詰め原稿用紙約24枚分)ですが、途中やりかねるかとも思われましたが、何とか更新にたどり着きました。編集、校正ともに不完全なところ多々ございますがお赦しください。

⏰5時50分更新

 

 

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