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きょうのことば 「喜悦の盈満」

インマヌエル盛岡キリスト教会2021年0725()の礼拝メッセージをお伝えいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で48年目のご奉仕をしておられます。

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説教題 『喜悦の盈満』  (國光勝美 牧師)
聖書箇所 新約聖書 第一ヨハネ1章1~10

1:1初めからあったもの、私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて、 1:2このいのちが現われました。御父とともにあり、私たちに現れたこの永遠のいのちを、私たちは見たので証しして、あなた方に伝えます。1:3私たちが見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えます。あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父また御子イエス・キリストとの交わりです。 1:4これらのことを書き送るのは、私たちの喜びが満ちあふれるためです。1:5私たちキリストから聞き、あなたがたに伝える使信は、神は光であり、神には闇がまったくないということです。1:6もし私たちが、神と交わりがあると言いながら、闇の中を歩んでいるなら、私たちは偽りを云っているのであり、真理を行っていません。1:7もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます1:8もし自分に罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。 1:9もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます1:10もし罪を犯したことがないと言うなら、私たちは神を偽り者とすることになり、私たちのうちに神のことばはありません。

 

<お話し>

私たちは、67月の礼拝のうち2回は、10年前に東北聖会・南聖会での竿代信和先生のメッセージ、1回は、工藤弘雄先生のメッセージを聞き恵まれたことでありました。
 竿代信和先生のメッセージの中で、特に潔(きよ)めといわれている主題について、潔(きよ)められたときに「喜びが満ちあふれる」と語られました。初代総理の蔦田二雄先生は、丸の内教会での潔(きよ)めの説教をまとめ「喜悦の盈満」として出版しておられます。年齢からすれば竿代信和先生は私よりも一回り上の先生でありますし、田中敬康先生は同年でありますから、一回り上のそのお二人の先生方が「蔦田先生のメッセージは恵まれるけれども、何せ言葉が難しい。「喜悦の盈満」、「喜悦」はわかったとしても、「盈満」はふつう使わない。だから再版するときには、これを何とか直したいが」と竿代信和先生のメッセージにありました。それはともかく、竿代先生のメッセージを2回に分け、また工藤先生を入れて3回の説教を聞いて私自身大変祝福をいただきました。

 この標準的な「きよめ」ということを扱うメッセージ、これを自分なりに咀嚼をして、このズームの画面で皆さん方にできるだけわかりやすく提供できるならとの思いで、さらに何回か聞き直しながら画面づくりをし、自分なりに咀嚼をして「喜悦の盈満」という蔦田先生の本を参考にしながらまとめさせていただいたのが、今日のメッセージであります。

 鍵となる言葉があります。それはこの1章全体のところから、色が変わって表示されている。この「交わり」という言葉が赤い字によって強調されています。それから7節を見ると「光の中を歩んでいるなら」というところ、そして、同じく7節にすこし色合いが茶色ぽくなっている「きよめてくださいます」、或いは9節のところには「罪をゆるしすべての不義からきよめてくださいます」というこの「交わり」という言葉、「光の中を歩む」ということ、それから「赦し」ということと「きよめ」ということ、この6つを注意して心にとめて、これからの時をと願っているわけであります。

 まとめてみますと、「交わり」ということ。そして歩むというときには「光の中を歩む」。そして、罪を解決するときに、「赦し」ということがある。「きよめ」ということがある。このことを今日は皆さんと一緒にポイントとして理解していただければと思います。

 

 戻るようですけれども、ここに執筆した目的があります。4節、「これらのことを書き送るのは、私たちの喜びが満ちあふれるためです。」
 ヨハネの手紙はユダの手紙とヨハネの黙示録とともに新約聖書のいちばん後ろの方に分類されております。ヨハネの手紙第一、第二、第三とあり、それぞれの手紙には記された目的があるのですが、第一の4節には、はっきりと、「これらのことを書き送るのは、私たちの喜びが満ちあふれるためです」とある。まさに喜悦の盈満。喜ぶことを私たちはこんなにもすばらしいものとして体験することができる。そのためにヨハネはこのお手紙を書いたのであります。喜び、これを私たちは日常の生活においても経験しますけれども、今ここで云っている喜びは、それとは本質的に違う。イエス様によって罪の滅びから永遠のいのちと祝福が約束されている。天の御国へ私たちは確かに移されている。このクリスチャンとなった喜びなのであります。皆さん、クリスチャンになったとき、この類の喜びというものを経験しているはずです。仮にそのことを明確に思い出せなかったとしても、ヨハネが書いたこの目的にある「あなた方の喜びが満たされるためです」ということは、私たちはそれを理解することはできているものです。しかし、もしここに、クリスチャン信仰とは無関係な人がいきなり入って来て、「あなたここで語っている喜びを持っていますか?」と訊いたときぽかんとするかもしれない。それは、罪が赦された喜び、神がともにいてくださるという喜び、こういう霊的な問題とまったく関係がない人にとっては、この喜びとは何のこと? 

 しかしもう一度言います。私たちがこの前の工藤先生のメッセージではありませんが、泥の中から、罪の暗闇の中から救い出されて神様を愛して神様に従って歩むことを喜びとするそういう世界に私は今引き上げられている、これはもう体験的なもので説明してわかってもらえるものではない。どんなに難しい神学を読んだとしてもです。ですから、詩篇の47節に「あなたは喜びを私の心にくださいます」とある喜びは、世の中の喜びとは違う。一般的には世の中の人たちは穀物がいっぱいある、或いはおいしい葡萄酒がいっぱいある、すると喜んでいられる。しかし、「あなたは喜びを私の心にくださいます」。それは、世の中の人がるんるんするような、そういうものの類とは全く違う救いの喜びです。竿代信和先生がメッセージで、この喜びについて仰っていました。村岡花子が訳した物語の少女の感謝の喜びのゲーム。このことは私たちにとってアーメン、体験的な事実としてうなずくことができるものです。

 そして、その道を歩んでいくときには、愛、喜び、このような御霊の実が私たちのうちに実って来る。そしてこの喜びは、私たちとイエス・キリストとの結びつき方によって、或いはきょうのポイントでいうなら、どのような交わりの中に歩んでいるかによって、いよいよ喜びが満ちあふれるようになる。

イエス様が仰ったヨハネの福音書の1010
「わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです」
この意味がお分かりいただけるだろうと思います。

 イエス様がこの世においでくださったので、それぞれ自分の好き勝手な道を歩んでいた私たち羊が、この真の羊飼いなるお方によって罪を悔い改めて、いのちを得ることができた。これが救いの恵みです。これが救いの喜びです。しかしそれだけに留まらず、しかも、「それも豊かに得るためです」
 ここに、喜びを持つということと、喜びが満ちあふれてくるということとは違うんだよ、というメッセージが語られている。

 私たちは肉体のことを考え、霊的なことにちょっとこれを当てはめてみたらどうでしょうか。私たちは、命をもっていますから、肉体があるのですが、肉体は疲労困憊することがある。これを霊的ないのちに当てはめてみるのならば、かろうじてクリスチャンという状態になったとして、どうでしょうか。

 今の履歴書の記入事項がどのようになっているのか、価値観が多様になっていますから昔のそれとは違うかもしれません。私の若いころの履歴書には宗教というところがあった。学生時代にキリスト教信仰をもちましたが、生家はふつうの仏教です。就職の時点ではまだ信仰をもってなかったので、家の人にこれどう書いたらいいんだろうねと訊きましたら、「仏教とでもかいておけ」。それもそうかもしれないなと、何の考えもなしに仏教と書いたことも、何か恥ずかしい思い出です。そういう意識でした。しかしそのあと会社に就職できて、人事の方と面接があった。ここでどうしても言わなくちゃならないと思い、「私の履歴書で訂正してほしいところがあるんです。宗教欄に仏教と書いたんですけれど、つい数か月前にクリスチャンになりましたのでキリスト教と訂正してください」とお願いしたことがありました。

 あなたの持っている宗教は何ですかと訊かれたら、はい、キリスト教ですと皆さん答えるだろうと思います。それを、ほんとうにそうです。クリスチャンです。と言えるのか、そうでないのかというところを考えてみてもらいたいのです。

 疲労困憊する、これはあり得ることです。いつもいつも元気印というわけにはいかない、それが人間です。これもご存じかもしれません。私は近場の山登りをするのが大好きです。いつものように、いつもの坂道を登って行ったときに、ついこの前のことだったのですが、10分程度の坂道を、健康な時であれば休もうという気すら起こらず、そのまますたすたと歩いて、この前はここは7分で登った、あのときは10分で登ったというように、ふつうは10分で登る坂道なんですが、ついこの間、4回立ち止まりました。そのときに、疲労困憊ってこのことかなあ。足に力が入らなくなってびっくりしました。何だろう。たぶんこの夏の暑さということもあるかもしれませんけれども。

 どうしてこんな話をするかと言いますと、そんなに意識していなくて変わっていなかったとしても、私たちは無意識に疲れているときってあるんです。自分で霊的に弱るとは思ってないんですけれども、しかし様々な困難とか課題に直面したときに、あれ、前はおんなこと乗り越えられたのにというようなそういう状況ってほんとうに体験するんだと思うのです。あれ、前と違う、そのときにどうか思い出してください。イエス様がいらしたのは「羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るため」であることを。

それを私はここにまとめてみました。この肉体的にも霊的にも恵みに満ち溢れるということの内容を私なりにまとめさせていただいたものです。

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 いのちの豊かさは「交わり」の豊かさです。イエス様との交わり、みことばを通して神様を深く思う、「エホバをおもふ わが思念(おもい)は たのしみ深からん。豊かな交わり。そして工藤先生が仰ったのは40篇の8節
わが神よ私はあなたのみこころを行うことを喜びとしますあなたのみおしえは私の心のうちにあります。

 あなたのうちにある、つまりこれが光の中を歩むということです。光の中を歩むときにいよいよ神様とぴったりと歩調が合って、するとさっき言ったような私たちは弱る、そういうことはあって当然なんですけれども、そこから回復することができる。そしてこんど、チャートの方の下の方をご覧いただきますと、私たちがイエス様の救いを受けた喜びを経験したのは、何だったでしょうか。それは、聖霊の恵み憐み以外にないのですけれども、自分自身が滅びの中に、泥の中に沈んでいたものであったのに、神様は引き上げてくださったというその救いの転機を私たちは経験しています。イエス様の十字架の救いということを初めてそこで自分に適用することができました。それは神様の恩寵ですし、そして救われた喜びというのは、これは信仰による以外にない。なぜならば、それは自分が努力して一生懸命に正しいきよい行いをすることによって救われるのではないということがわかっているからです。

 こんなものが救われた、それは神の恩寵以外何ものでもない。自ら誇るなにものもない。ただそれは御子イエス様が尊い血潮をもってご自分のいのちと引き換えに、わたしはこのものを愛している。このもののどうか命の代わりに、わたしを裁いてくださいといってイエス様は十字架の上で贖いを成してくださった。それを私たちはただ主よ有難うございますと信じただけで救いの喜びというものを経験したではありませんか。

 その救いの喜びという転機。そして先ほど、罪が赦されるということと罪がきよめられるということとの違いを申しました。第一番目のそれは、これまでの罪を神様は赦してくださいました。しかし、それからあと、私たちは信仰生活を送っていきます時に、どうしても世のしがらみといったらいいのか、不信仰な悪しき心、ややもすれば世の中の方に惹かれてしまう、そういうことがある。それでもあなたの履歴書を書くときには、はいクリスチャンです。そう書くけれども、だけども、そういうところを通ってしまう。そのときに、ああ私の心はこんな罪のまだ神に逆らう性質を持っている。こんな性質を持っているのでは到底神様との交わりを豊かに保つことはできない。そのことに気が付いた時、それこそ恵みなのです。自分ではこれをどうすることもできないけれども、イエス様は、その罪を赦し、すべての不義から我らをきよめてくださる。羊がいのちを得、かつ豊かに得るためにというときに、私たちは、神に従うことを喜びとするというそれをしたい。自分ではそれはできない。汝の法はわが心のうちにあり、それが自分ではできない、それが私たちをしっかりと神に溶接してくださるのは何かといえば、それはイエス・キリストの血潮なんです。十字架で流してくださった神様、御子イエス様の、罪に感じて赦してきよめてくださるこのお方にしっかりと私たちが溶接されるのならば、私たちは喜びをいよいよ深めていくことができる。喜悦の盈満というのは、まさにこのことであります。そしてそれは、日々に日々に成長していくものであります。人間ですから転ぶことがあります。転んだらばまたそこで主を見上げ、主の十字架の血潮を仰いでいけばいいのです。だって私たちは救われたのはただ神様の恵みであって、私たちが信じたから救われたんでしょ。じゃ私たちがきよめられるのは、一生懸命いいことを内側のもの、律法で外から一生懸命にきよく正しい行いをしなければならないんじゃない、あなたのみことば、おきてを行うことを喜びとするというそれを信仰によって受けるとき、御子イエスの血がこの問題を見事に解決してくださる。それを繰り返していくことこそ無限の成長になることではないでしょうか。これが喜悦の盈満、そしてこれが10年前に竿代信和先生が語られたメッセージであり、まさにこれが工藤先生が語られたメッセージに他なりません。これをどうか大切な神様の語りかけとし、喜びにあふれた信仰生涯をたどらせていただきたいと存じます。

※音声データ、画像は教会からお借りしています。
⏰8時12分更新

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