きょうのことば「御旨に生きる喜び」
インマヌエル盛岡キリスト教会の2021年07月18日(日)の礼拝では、香登教会 工藤弘雄先生の2021年の塩屋聖会でのメッセージを聞かせていただきました。
説教題 『御旨(みむね)に生きる喜び』 (工藤弘雄 牧師)
聖書箇所 詩篇40:8
わが神よ 私は あなたのみこころを行うことを喜びとします。あなたのみおしえは 私の心のうちにあります。
<お話し>
私たちの拙いご奉仕の家内と私の合言葉は「二人してみ旨一筋主に仕えん」、これを心の中で交わしながらご奉仕をさせていただいたことであります。その基調となる、或いはまた土台となるおことばが、この詩篇40:8であります。
文語訳ですと
「わが神よわれは聖意(みこころ)にしたがふことを樂む なんぢの法(のり)はわが心のうちにありと」
思えば今お読みいただきましたこの聖書の流れを見るときに、滅びの穴から罪の泥沼から救い出されて、救いの上に立脚させていただいて、新しい詩を詠う。そして、神に喜ばれる生きた聖なる供え物としての、みこころの生きものとして、主にわが身もわが魂も捧げさせていただくとそういう意味で、この40篇の8節は救いのゴールのようなおことばであり、さらに恵みに成熟していくところの基盤となるおことばではないかと思わせられておることであります。
へブル人への手紙8章や10章でも取り上げられておりますけれども、新しい契約と、その新しい契約のちょっと違うこのところに詠われておると思いますし、また主イエス様の生きざま、みこころの存在である主イエス様の御姿そのものが、またこの8節に見ることができるのではないかと思わされております。
そんなわけで、きょうは、この40篇8節を中心としながら、聖句説教と申しますか、この聖句に集中させていただきまして、三つの視点、角度から神様の御旨(みむね)に生きるということについて見させていただきたいと願っております。
三つのことと申しましたけれども、まず第一のことは、「御旨に生きる」、それは自我の明け渡しからということであります。
わが神よ 私は あなたのみこころを行うことを喜びとします。
生ける神様に対して、臨在の主に対して、私たちのためにいのちを捨て、血潮を濯ぎ、贖いのみわざを完成されたその御神を前にしながら、顔と顔を合わせるようにして、その告白ができるとするならば、何と幸いな信仰者であろうか、何と幸いな魂であろうかと思わせられます。
17世紀から18世紀生きられた際立った霊性の持ち主であられるマダム・ヨイヨン夫人がこのように告白しております。
「幼子が母の懐に抱かれるように、私の身もあなたのみこころに憩います」
小さな赤ちゃんがお母さんの懐に抱かれるように、私の身も心もあなたのみこころに憩いますと、このように詠っております。さらに私の愛する神様のみこころは何と甘美でしょう、何と美味しいでしょう、何と美しいでしょう、何と楽しいでしょう、なんという喜びでしょう。しかも彼女は、それを獄中の中で告白していることであります。世の中の幸福感を一転するような究極的な永遠的な幸福というものがこのところにあるのではないでしょうか。
そこには、神様のご意思とわが意思、つまり、我意との衝突、激突、或いはまた格闘、しかし、腰骨が砕かれてほんとうに我意が砕かれた、或いはまた自我が明け渡されたというそれゆえに「わが神よわれは聖意(みこころ)にしたがふことを樂む」と告白することができるのではないでしょうか。ですから神様の御旨に生きるということは、自我の磔殺(たくさつ)から始まる、或いは自我の明け渡しから始まるということ、これはもう本当に基本の中の基本でありますが、当然といえば当然ですけれども、この自我の明け渡しを避けて通れない。これなくしてこの告白をすることができないということを私たちは、まず第一に心にとめさせていただきたいし、これがまた塩屋聖会のメッセージであり、全キリスト者のメッセージではないか、或いはまた、全キリスト者の喜び、幸せ、安息ではないかと思わせられることであります。
主イエス様をお信じになられて、新生の喜びに生きられる、そのようなクリスチャンが、神様のみこころに従いきれずに、旧い自我性のゆえに、或いはまた、処分しきれない罪との闘いであるとか、或いはまた支えきれない、明け渡しきれない、投げ出しきれない、そういう一物との闘いを、新生した、救われた、そのような信仰者が、戦いを経験するということはよくあることですし、それは当然のことではないかと思います。むしろ、そのことを通して新しい飛躍というか、それこそ第二の恩寵などと呼ばれておりますような、そういう開かれた世界に導かれているのではないかと思います。
第二のことでありますけれども、御旨(みむね)に生きる。それは、内住の律法のゆえ、ということであります。8節の後半を見ますと、
「あなたのみおしえは 私の心のうちにあります」
ここに御旨に生きる秘訣がある。自我の明け渡し、或いは自我の磔殺と表裏一体の恩寵の心理です。まったく同じことです。消極的に見るならば自我の明け渡しでしょう。積極的に見るならば、内住の律法です。みおしえというのは口語訳では律法(おきて)、文語訳では法(のり)となっている。あなたの律法が、あなたの法が、あなたのみおしえが、私の心のうちにあります。驚くばかりの、これは恵みですね。しばしば所謂おきてというものは、律法というものは、外部からこうしてはいけない、こうしなさい、外部から命令が来ます。そしてそれに従おうとする、従えない、或いは葛藤がある。けれども、このところを見ると、あなたのみおしえは、あなたのおきては、あなたの法は、私の心のうちにあります。
旧契約時代、預言者エレミヤは、驚くばかりの新契約、新しい契約を預言しました。これらの義の後に私がイスラエルの家と結ぶ契約はこうだとエレミヤは預言しています。
エレミヤ31:33わたしは、わたしの律法を彼らのただ中に置き、彼らの心にこれを書き記す。
こう預言されております。
外側でなはない、内側に神の律法が記される。その律法をするのが当然であり、自然であり、喜びであり、楽しみであり、感謝である律法。驚くべきこの新契約、今は新契約、新約の時代に生きているクリスチャン。にもかかわらず、外側からこうしなければいけない、ああしなければいけないと、もし縛られているとするならば、それは新約の時代に生きていながら、旧契約の中に生きている。しかし、新契約というのは、内住の律法であります。預言者エゼキエルはこの内住の律法を内住の御霊、内住の聖霊に結び付けている。彼は預言しています。
「わたしがきよい水を注ぎ、すべての穢れ、すべての偶像をきよめ、石のような頑固で冷たい重い心を取り除き、肉のような温かい教えられやすい感じやすいその心を与えると。そしてその次に、私の霊をあなたに授けて、わたしの定めに従って歩み、わたしのさだめを守り行うようにする」とエゼキエル書の36章25~27節。
わたしの霊を、わたしの御霊を、あなたのうちに授けて、わが定めを守ってこれを行わせる。つまり、内住の律法は内住の御霊によって成就されるのだとエレミヤは預言をし、エゼキエルはそれをまた預言をし、へブル書の記者は、そのことを8章或いは、また10章において展開をしておることでございます。まさに内住の律法は内住の御霊と同一の恵みである。と同時に、それは内住のキリストの恵みであります。
聖歌の556番、これは今の新聖歌にはございませんけれども、その4節に「捧げつくし、明け渡しし心こそたえなれ」。ほんとうにたえなれだな、ほんとにワンダフルだな。「捧げつくし、明け渡しし」、これは聖霊様の恵み以外にない。捧げさしていただいた、明け渡さしていただいたその心こそたえなれ。君なるイエス、心に住み、みこころをなし給う」と。みこころの生きもののご本尊でいましたもうところの主ご自身が御霊によって内にお住まいくださって、主がみこころに生きる喜びと楽しみと自由と安息を享受させていただくという、これは新契約の恵みですし、またダビデはそのことを高らかに詠って告白をしておるということであります。みむねに生きる、それは内住の律法のゆえに、ということです。
最後に、第3に、これは当然のことですけれども、み旨に生きる。それは無上の喜びです。無上の楽しみです。人生には様々な喜び楽しみ、いろいろありましょう。ゴールデン・ウィークです。楽しんでください。喜んでください。いろいろな健全な喜びや楽しみがおありでしょう。しかし、信仰者にとって、無上の喜び、楽しみ、それは究極的には神様のみこころ、神様のみこころに生きる。神様のみこころは、最初は、ヤーちょっと困難だなあ、いやだなあと思うことがあっても、従ってみていくうちに、じわじわとあふれてくるところの喜びです。従順こそ、最大の注解書だとよく神学校でも教えられました。従ってみてみこころのすばらしさがわかる。従ってみて神様のほんとうにみこころが何と尊いかということがわかりますけれども、どのような苦しみの中でも、どのような悲しみの中でも、たとえ獄中であっても、死の床であったとしても、今私は神のみこころの真ん中にいるのだ。み旨の生き物とさせていただいてるんだという確信が来るとするならば、それは無上の永遠の究極的な喜びであるということです。
その3週間の説教シリーズの中で、家内の説教のご奉仕、工藤澄子先生の最後の説教がございます。どうぞ皆様お聞きくださるようにと、また、愛のテレフォンで訴えておる。それを聞いたら、最後の説教ですよ、今まで何回も聞いてきましたけれども、これが最後ですよ、という響きがするんですけれども、初めてなんです。最初で最後なんです。家内のお務めと来た日にはですね、もう受付で、もう礼拝の前から20分、30分も前から来ていらっしゃる方々、或いはまた始まる直前に来られる方々、途中で恥ずかしそうに来られる方々。もういちばん最後になって来られる若者であったとしても、お爺ちゃんでもお婆ちゃんでも、或いはまた青年でも、また学生でも子供でも、「よくいらっしゃったね」、「よくいらっしゃったね」と笑顔をもって感謝をもってお迎えをする。そしてメモを書いて或いはこういう方が出席しています、それをそうっと講壇の方に回しにくる、というようなことで一緒にご奉仕をさせていただいた先生方とともに、23年ご奉仕をさせていただきました。その間、8年間も神学校での兼任のためにも、ずいぶん助けてもいただきました。そういう家内が初めの最後の説教、祈ったようですね。で、どういう題にするの? と訊いたら、「苦しみよ我が歌となれ」。いろいろな苦しみの経験もしました。次男が生まれて2週間半にして重い筋肉腫という筋肉の癌のために脚を切断せざるを得ないあの苦しみ悲しみ、痛みの日々や、また最終的についこの4か月前には、愛する次女を天に送るというようなこともあり、或いは、また私も倒れて今ペースメーカーを、というような自分も動脈瘤の手術を受けるというような様々な試練がございました。しかし、祈り祈っている中で、「苦しみよ我が歌となれ」。
第一の要点は、なぜ「苦しみにあったことは私にとって喜びだと、幸せだ」と、そのように詩篇の記者は歌えるだろうか。その一つは、苦しみというものは、人をして、神を呼び求めるものにするのだから、苦しみは幸せなのです。第二は、苦しみは信仰者をして苦しみを喜ぶものとする。いろいろの苦しみ、試練もございますけれども、若い時に、我が汗よ歌となれ。我が高熱よ歌となれ。詩篇の103篇には我が内なる諸々のすべてよ、主をほめよ、それが汗であろうと、高熱であろうと、動脈瘤であろうと、歌となれ。神様は、そのようにさえ変えてくださる。さらに苦しみというものは、信仰者をして主の臨在に近づける。主のみこころの真ん中を歩ませて、主の臨在に近づけることで、家内は最終的に自分の娘の証をしておりました。
皆さんにもよくしていただき、また愛していただき、さまざまに励ましていただいた次女が召されたのは昨年の1月3日のことでございました。結婚生活3年に満たないようなことです。夫婦で毎日2時間、ときには4時間ぐらいデボーションの時を持ったということです。そして最後に夫の兄弟が、「神様、真史の癌をお癒しくださーい」と叫びます。そういう祈りをする。祈りが終わるたびに娘が、「癌が癒されるようにと祈らないで。どのような状況であっても、ただ神様の御栄が現れるようにと祈ってね」。「わかった」と言いながらも、また「癒してください」。当然でしょ。そのためにまた注意をされるというようなことでした。ついには兄弟の方も献身し、今は自分の母教会のルーテル同胞教団の聖書神学校、仙台の方で学び、或いはまた、神戸の方にも籍があるそうなんですけれども、ルーテル神学校で学んでおるようなことでございます。
真史が最後の演奏をしたのは、召される一か月半前、11月の半ばに滋賀県の前原で演奏をした。あのやせた娘がショパンの「バラード」を演奏する。どこからそれだけの力が出てくるのかと思うことでございました。
最後の最後は依頼の演奏会を一つ二つと見送る、或いはキャンセルする中で、何としても香登教会で演奏の御用をしたいという願いがございました。それで香登に連れてまいりましたが、激しい激痛です。それは戦いました。近くのクリニックで検査をして診ていただいた。これはヘルペスです。帯状疱疹の痛みです。ああよかった、そうだったのか。ところが、三日四日過ぎてもなお激痛は止まらない。念のためにMRIを撮っている途中で、私たちは呼び出されました。何だろう。画面を見ましたら、もう全体に癌が及んでいました。MRIの検査を終えて、静かに出てきた娘。先生には「父親の私が告知します」と申しました。生涯、こんなつらい告知はないです。「真史、癌が脳に転移していたんや」。癒してくださいとはもう言えませんでした。おばあちゃんたちも待ってるよ。おじちゃんたちもみんな待ってるからね。頑張ったなあ、みんなそう言ってくれるから。黙って「わかった」。娘は静かにそれを受け止めました。そして私たちが毎週通っている緩和ケア病棟に、先生がすぐに手配してくださってお部屋を用意してくださったその翌朝、美しい空を見ながら彼女は歌いだした。きれいな瞳で。そしてきれいな声で「美しいこの空を愛らしいこの花を浮かんでいる白い雲、香りよき青草をじっと眺めているだけで、ただ眺めているだけで、君もわかるでしょう。ほら神様がわかるでしょう」。軽いノリで中学生や高校生がバイブルキャンプなどでよく歌う歌です。しかし、その床において、「ほら神様がわかるでしょう」。主の臨在の喜びと安息と勝利と、そのような中で、家族との濃厚な交わりの中で天の御国へと凱旋してまいりました。その歌っている娘の姿を、家内は見続けることができなかったというようなことです。
「それが起こったときから、わたしはそこにいた」イザヤ48章16節。
新共同訳では
「事の起こるとき、わたしは常にそこにいる」
ことの起こるときに、私は常にそこにいる。主のご臨在。みこころの真ん中にあるそのものに対して、主はご自身を現し、みこころを喜ぶものとともにいたもう主ご自身、ご臨在の主を喜び楽しむ。また望み、平安を与えてくださる。
足らない足らない私たちの伝道者生涯でありましたけれども、香登教会でたくさんのメッセージカードをいただく中で、家内と私の写真入りカードに、一緒に教会で仕えてきた長老の兄弟が詠んでくれた歌です。
黒髪も息子も娘もみな捧げ君は進めり迷いなき道
ああほんとうにそうであったかなあと反省することですけれども、しかし、神のみこころの中に、神の残りのときを生かされたい、と同時に、この塩屋聖会をユーチューブでお聞きの方々、またインターネットで全世界をつないでいるこの塩屋聖会です。
1 主よみ手もて ひかせたまえ
ただわが主の 道をゆかん
いかに暗く けわしくとも
みむねならば われいとわじ
2ちからたのみ 知恵にまかせ
われと道を えらびとらじ
ゆくてはただ 主のまにまに
ゆだねまつり 正しくゆかん
3主よ、飲むべき わがさかずき
えらびとりて さずけたまえ
喜びをも かなしみをも
みたしたもう ままにぞうけん
4この世を 主にささげまつり
かみのくにと なすためには
せめもはじも 死もほろびも
何かはあらん 主にまかせて
4は献身です。神のほか、誰をもおそれじ。罪のほか何をも憎まず。十字架のほか何をも誇らない。この魂、100人いたら日本を覆せます。どうぞ塩屋聖会の輩の皆さん方、このみ旨一筋で、一つ、日本が転覆するような今週のリバイバルの御わざを見させていただきたい。そのことのためにみ旨に、皆様方の心と意思を投じていただきたいと願います。
※画像は盛岡教会國光牧師からお借りしています。
⏰5時1分更新
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