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雑感

 きょうはクラシック倶楽部は藤倉大だったかも。自分には新しすぎる、オリンピックのさなかばかりも音楽はオフにしようかなどと思いながら、やはり習慣で、自分にとっての定刻5時に10分前、TVを点ける。何やら「花郎」という番組の予告をやっていて音楽が始まらない。ここでやっと今日が土曜日だと勘違いに気づく。土曜日、なんだJ-MERO、ゲストはZOC。
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このグループ、全員がすっきりと揃うパフォーマンスはあえて避けているようだ。個々のインタビューを聴くと、ごく普通のというか、良識もありそう、性格もいい子たち、大変な努力も積んでる、女の子、女の子、女の子……。それが踊りだすと、そこに退廃も感じられる。孤立している個も、どんないきさつ、どんな境遇、どんな今にあってもOKといった内容があるのだけれども、ある意味そのように時代感覚に合わせ仕立てられた女の子たち。いい別な面をたくさん持っていて、それも前面に出せそうなんだけどちょっと奇異なパフォーマンスで別に映っている女の子たちを惜しむ思いにもなり、見ていてちょっとやりきれない気分に。行きつきどころがないところまで来ている詞、楽曲という感じが。

 昨夜はオリンピックの開会式。ほんとうにほんとうに開会! きょうはバトミントンを観て、高校野球岩手県大会の決勝4対4というところまで観る。盛附の方は全国から選手をスカウトしているらしい。ネットで両監督についてググってみる。どんなポリシーで指導しているのだろうかと。それぞれに今の私の心構えからすれば教えられることが多かった。

 しているうちに、先だって聞いた指導者の立場にある方の研修、あるべき姿を佐伯という方が話していたのを思い出した。これはと録り置いたものをちょっと復元。
 ヨーロッパのサッカーの歴史は100年。その方はスペインでサッカーの指導者を長年務めていた。選手は指導者に従うものという思想から抜け出せずにいたという。時の流れの中でものの良しあし、価値観がこれほど変わっているのに、指導者の側の指導方法は100年も変わっていない。そこで2014年当時、所属しているサッカークラブの指導者120名が自らの指導方法を問いはじめ、1年間にわたり「指導者のあるべき姿や指導者とは」を徹底的に問い続けたところ、出たこたえは、「選手の学びの機会を創出するデーターであれ、指導者像は、もはや導く人ではなくなっている。支配することで組織を統率するような方法はすでに機能しなくなってきている」というものだった。
 この方は、
3歳から23歳の大人まで男女、障害者含め約700名のプロのサッカークラブを育て仕立て上げている。プロフェッショナルな指導者だというなら、選手のピッチ上でのパフォーマンスだけに注力していいのだろうか。彼らがサッカー選手じゃなくなったとき、クラブの後ろ盾がなくなったとき、彼らはどんな人間になっているかというところに責任をもっ。それがプロの指導者としての責務ではないか、そんな思いがすこしづつ湧き始め、今一度自分たちの指導を振り返ろうとなる。何と、総勢120名のコーチたちの一人ひとりのコーチングをつぶさに撮影。選手たちへの声掛けや、どのタイミングでどこを見ているのか。何に注目して見ているのかがわかるようにした。そればかりではなく、撮影される側のコーチの胸にアクションカメラとピンマイクをつけてもらったというのだ。指導された選手たちが、その指導をどう受け止めるているか、そのコーチの指導を前向きに受け止めているのか、それとも委縮しているのか、或いはまったく理解できていないのか。そういったことがコーチの胸につけたアクションカメラに映る。選手の表情や動きが鮮やかに浮かび上がる。こうしてまずは自分自身を徹底的に見直し、自分を知るという作業からスタートさせたという。そのビデオを見て、コーチが互いに、これはこうした方がいい、これはよくない。他の言い方はなかったのか、どういう目的、意図でそのメッセージを発したのかを討論する。痛みを伴いながらもこれをやる。これで多くのコーチが自分の指導を見直したという。こうしろ、ああしろという指示命令、選手のダメ出し、否定をしてしまっている気づきとともに何事も俯瞰で見る癖をつけることができたという。選手に問うことを意識的に行うようになり、選手には何が見えているのか、何を感じたのか。その判断に至った経緯はどのようなものだったのか。彼らに問い彼らを尊重するようにする。また練習の時や試合での声がけや態度をチェック。その都度発したことばの仕分けをしてみる。大きく分けると三つ。一つ目が誰にどれだけ声をかけたのか。二つ目、それぞれに対し、ネガティヴ、ポジティブ、メッセージの割合はどうだったのか。そして三つ目、ネガティブ、ポジティブ、それら一言一言のメッセージ内容がどのようなものだったのか。このでデータをもとに後日ミーティングをする。ネガティブメッセージ、ポジティブメッセージは何を意味するのか。そのワードは差し替え可能な、異なる言い回しがあるのではないか、何を目的としてA君にその言葉をかけたのか。これらをひとつづつ1対1で質問してもらいながら冷静に見直していく作業をつづけた。言葉や行動の意図を考えるようになり、結果、自分で選んで言葉を発するようになったり、選択肢をふやすようになったり、自然に言葉の仕分けを自分でするようになった。自分の無意識に意識的になる。無意識に隠れる本音を自覚する、こういった作業を重ねたのだと。そして気づいたことは、私たちが用いる主語はいつも指導者になっている。指導者からの一方的な教え込みは選手の脳がナマケモノになってしまい、彼らの試行を停止してしまう。自ら考え自分で行動できるような選手を育てたいといいながら、実際にやっていることには相違がある。……自身をマインドセットすること。
 とにかくこのような内容で、例えば音楽の指導についてもある指揮者が昔に言った専制君主的なやり方でいいのだろうと思い込んでいた私には目からうろこが落ちるような話であった。運動と文化、これはとんでもない違いがあるとはいえ、何か共通項目もありそう。いずれ指導する立場の方々がアクションカメラとピンマイクをつけてその実情をいわばさらしあう形で研修するという動向には世の中変わったものと、指導的な立場になることのない終生指導される立場の私なぞはひっくり返らんばかりに驚いたのだ。

⛳15時21分更新

 

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