きょうのことば「キリストの作品」
インマヌエル盛岡キリスト教会の2021年05月30日(日)の礼拝メッセージをおつたえいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で48年目のご奉仕をしておられます。
説教題 『キリストの作品』 (國光勝美 牧師)
聖書箇所 新約聖書 エペソ人への手紙2章1~10節
2:1あさて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、 2:2かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。 2:3私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。 2:4しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、 2:5背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。2:6神はまたキリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。 2:7それは、キリスト・イエスにあって、私たちに与えられた慈愛によって、この限りなく豊かな恵みを、来るべき世々に示すためでした。 2:8この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。 2:9行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。 2:10実に私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをあらかじめ備えてくださいました。
<お話し>
きょうは「キリストの作品」 という題で、ペンテコステ後の聖霊による歩みに思いを留めさせていただきます。
いったいクリスチャン信仰生活を送っているときに、どんな者となるように歩ませていただくのでしょう。望むところはイエス様に似た者になること。前回の「大いなる岩の顔」を思い起こしながら、この盛岡で皆さん方とご奉仕をさせていただいて、そのような者になりたいとの思いを深くしております。
聖霊があなた方の上に臨むとき、あなた方は力を受けます。
この使徒の働きの聖言(みことば)を心に留めながら、そうだ、聖霊は、わたしの、即ちキリストの証人となる力を私たちに約束してくださった。とするのならば、私たちは神の作品、キリストの作品である。このことを、この1週間心に留めてまいりました。
安比のA兄がご存命だったときに陶芸をやっておられました。厳選した土で粘土をこねて成形し火や電気で焼くと見事な器ができる。その器の数々を思い出します。そんな思い巡らしのうちに導かれたのが、このエペソ2章1~10節です。特に10節、
実に私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。
私たちは神の作品です。きょうのメッセージの締めくくりも、この聖言でと思っておりますが、そこに到るまでに、三つのことばに先ず心を向けてみたいと思うのです。
その一つは、「かつては」ということばです。私たちはかつて、どういう存在であったのか。2、3節に目を走らせていただければ、きっとおわかりいただけるでしょう。
もう一つは「しかし」です。かつてはあなたがたはこうだった。しかし今はという、この「しかし」です。大きなポイントです。
そして、もう一つのことば。「それは何のためだったのか」。かつてはこんな者だったけれども、しかしあなた方は今このようになっている。それは何のためだったのかという、それが2節、4節、7節、これに注目してそして最後に10節、そうだ、私たちは神の作品なんだというところに心を向けたいと願っているわけです。ですので、きょうのポイント、この3つを捕らえていただければと思っています。
かつてはどういう存在だったのでしょうか。それは、罪の中にあって、この世の流れに従って、空中の権威を持つ支配者、即ち不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいた。そしてかつては私たちも他の人たちと同じように自分の肉の慾のままに生き、肉と心の望むことを行っていた、他の人たちと同じように生まれながら御怒りをうけるべき子らでした。
旧約聖書のイザヤ書に、あなた方が切り出された岩、掘りい出された穴を見よ。という言葉がありますけれども、かつて私たちは、暗い埋もれた土の中にあったものでした。この世の流れに従う、つまり、これを横からの力というように理解をするために敢えて、これは私たち、この世、私たちを取り囲んでいる平面上の、たとえるならば、平面上、前から、横から、後ろから。敢えてどうして後ろじゃないんですか、前じゃないんですか、と言わないでください。平面上のところでいうならば、私たちはこの世の様々な流れによって生きていた者でした。それから、今も働いている上からの力、それは、空中の権を持つ支配者、今も働いている所謂サタンの、神に背かせようとする上からの力、私たちにも間断なくあります。横からというのは、私たちが社会で生きていくときに、神から離れさせようとする力。ほんとうにひしひしと感じます。またそれと共に私たちを上から悪の霊は亡びへと導こうとします。それから、もう一つは、内からの力、それは、私たちの心の中にある。内側からの力。そうです。私たちは、このような中にいた者だったのです。いいですね。いいじゃないか、ああそうだ、本当にそうだ、と自分自身をほんとうにこれに、迎合させている。でもそのときに、偉大なことには、「しかし」、というこれがあるのです。これが無かったら何のために。がっかりさせるためのことばだったに違いないのです。しかし、「しかし」がある。「しかし」。憐れみ豊かな神は私たちを愛して下さったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストと共に生かしてくださった。
あなたがたが救われたのは恵みによるのです。2:6神はまたキリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。
そうです。いまこう語らせていただきながら、詩篇の尊き中に在りて悟らざるは亡び失せる獣のごとしという聖言が思い出されます。世の中でうまくやって富を得て、存分に好き勝手に生きている、そういう人たちを見ると、何て自分は損で愚かな選択をしたもんだ、というような思いさえする。そういう誘惑というのはあります。まさに慾の力でぐらつく。前から後ろから押されるような。しかし、しかし、彼らは本当の行くところを知らない。地上生涯は実は僅かな間です。これがこの頃実感を伴うようになりました。若い頃はそれほど今のようには感覚は持ち得なかったのですけれども、私たち、もう70半ばになりました。どう100歳まで見ても25年。5年10年はほんの僅かです。それを思った時に、ほんとうに人間の一生なんて僅かなものです。旨いもの食べて、享楽し、気長に気楽に満ち足りているこの世の人たちの生き方を見たときに羨ましいと思う。しかしほんとうに彼らの最後はどうであるのか。尊き中に在りて悟らざるは、滅び失せる獣のごとし。
罪の中に死んでいた私たちが、キリストと共に生かされて、救われて、そして恵みのゆえに救われて、すばらしい天に坐させてくださるその永遠の嗣業を保証され、いまそこにある。それでも、信仰を持つなんてばかばかしいとつい言いそうになってしまうそれこそは、尊き中に在りて悟らざるは、滅び失せる獣のごとし。
憐れみ豊かな神様は、私たちがどんなに憐れみと恵みのゆえに土くれの中から見出されて、キリストの十字架を知り、キリストの愛を知るようになって、復活の栄光の約束を与えられている。この地上における一幕を間もなく、この第何幕か地上の幕は過ぎ去りますけれども、やがて次の次元には栄光の約束が待っている。それを心に留めたときに、有り難うございます。心からそのことを思うのです。
それはキリスト・イエスにあって、私たちに与えられた慈愛によって、この限りなく豊かな恵みを期待できる。示すことができる。神様の救いってこんなにすばらしいんです。あの人が、あんな土くれの泥の中にいた者が、そんな中にいた私が、神によって見出されて、キリストの十字架の救いに与って、こんなふうに変えられているじゃありませんか。
あなた方は信仰によって救われたのです。それはあなたが優れていたからじゃない、神の賜物なのです。行いによるのではありません。あなたはこんなすばらしい恵みに今与っているのは、神様の憐れみ、恵みなのです。
10節実に私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。
ダビデ像という有名な彫像があります。ゴリアテと戦おうとして石投げ器を取って狙いを定めている。ダビデ像の大きさは台座まで入れると5メートル以上あるそうです。ミケランジェロがフィレンツェで制作しました。実はダビデ制作以前に、この大理石は長い間放って置かれていたそうです。しかし、この大理石をこの場所に運び込むための人手や経費も掛かっている。放置するわけにもいかず、制作を依頼してみた。ところが途中までやったけれどもとてもその人の手に負えなかった。後はそのまま25年も放置されていた。何としてももったいないので誰かに何かを作らせようと、作者を選考する委員会を設けました。その中にはレオナルド・ダ・ヴィンチもいたそうです。いったい誰にこの大理石を彫らせようか。ミケランジェロはどうだろうかということになった。ミケランジェロはそのとき25歳。雨ざらしで汚れ、誰にも見向きもされないこの大理石を、ミケランジェロは見事に彫り上げたのです。巨人のゴリアテを相手に小石一つで戦うダビデ。その当時のイタリアのフィレンツェは強大な敵国、ライバルたちに囲まれており、勇気を奮い立たせる必要があった。少年ダビデが巨大な敵ゴリアテと石一つで戦う勇敢な姿に人々は大いに共感しました。ダビデ像はそういうものだったのだと後になって知りました。
私たちは、かつては石ころだらけで不純物が多い粘土のようなものでした。誰が見ても上等な陶器には焼きあがらないはずが、それが名工に見出され、これを使おうと手をかけられた。かつては人の眼に何の役にも立たなかったような埋もれていた者が、見出され、神によって見出されて、そして練られて、焼き上げられる。これ、誰の作品ですか? はい、これは神の作品です。一人ひとり、あるとき神様の下で見出され、そして神様の御手、憐れみのゆえに御手に取られて、形作られて、それが、よいわざに、良き技にそなえられる。「キリストの傑作だ」、このように言われたいものです。
インマヌエルの初代の代表蔦田二雄先生が仰ったことですが、聖潔(きよめ)というものはその人の人格に現れる。キリストの人格の円満さ。蔦田先生はたしか聖潔というときに円満さという言葉を使われました。私としては神学的な言葉を期待していたのですけれども、聖潔というものはその人の人格に現れると聞きました。たいへん印象的なできごとでした。随分前から私は、書籍をPDFの形にして言葉を検索できるようにする自推作業をやっていますが、蔦田先生は「円満」という言葉をどこで使っているのだろうかと「円満」を検索にかけてみました。すると、蔦田二雄院長のメモという小冊子が出てきました。これは東京の雪谷に関係しているT先生がまとめたものです。ある先生、私より一回り上の先生がいらっしゃいました。T先生は学びの機会というものが全くなかった方で、聖書の知識もないまま召命を受けました。蔦田院長先生が、このままでは神学校に入るときに困るだろうからと、蔦田先生に毎週時間を取ってもらい、個人レッスンを受けた。T先生はご自分の著書の中で、そういう何も知らなかった者、学歴もなかった者でしたが、と卑屈にもならずありのままに述べ、そして蔦田先生から学んだものをぜんぶこの本の中に私は纏めたいと思ったと書いておられます。
「私は体調がすぐれず、医師に診て頂いたところ、進行性のすい臓癌であり余命は2年と告げられました。兄もすい臓癌で召されています。それで私は教団に退職願を出して、引退させてくださいと。そしてのこる使命は何か。何にもできない土くれ、それが神に見出された者、あと2年の命が与えられたのなら、蔦田先生の言葉を纏めたいと思った」と。
纏められた小さな冊子が、幸いなことに自炊した中にあった。皆さんにも感謝のお祈りをお願いしたいんですけども、T先生、それから今10年経っているんです。今でも治療は受けながら普通に生活をしておられます。神様の証人としての使命があられたとつくづく思ったことであります。
神様は土くれの中から見出してくださる。その神様の御手の中に私が落ち込んでいくのならば、神様の名品として、すばらしい作品として、証し人となるのではないだろうか。クリスチャンの成熟、円満さというのは、こういうことなのかなとT先生を思いながら、きょうの私のメッセージを締めくくらせていただきます。
※音声データ、画像は教会からお借りしています。
⏰6時54分更新
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