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2021年6月

210630 クラシッククラブを聴く 小山由美 メゾ・ソプラノ リサイタル

国内外の第一線で活躍を続けるメゾ・ソプラノ、小山由美。20世紀の作曲家たちの知られざる名曲を集めた演奏会からお送りする。ピアノは指揮者としても活躍する佐藤正浩。2018年ハクジュホール

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小山由美は東京芸術大学大学院終了後、シュッツットガルト音楽大学で研鑽を積みドイツ拠点に活動。バイロイト音楽祭をはじめ、世界各地の音楽祭に出演。N響との共演を重ねる。オペラ歌手として活躍するほか、歌曲においては古典から現代曲まで幅広いレパートリーを持つ。
佐藤正浩は東京芸術大学声楽科卒業後、ジュリアード音楽院のピアノ伴奏科で学ぶ。1993年サンフランシスコオペラの専属ピアニストとして活動開始。95年からリヨン国立歌劇場で出演歌手に音楽稽古をつける主席コレペキトールを務め多くの公演を成功に導く。指揮者としても数多くの歌劇を指揮。特にフランス歌劇への卓越した解釈が高い評価を受ける。

小山由美のコメント
たとえば映画で、はじめから最後まである一人物をやろうと思うと、人格がいろいろ変わっていくのを映画の中で見ていきますよね。オペラも一人の人物になりきって、その人の人格が変わっていくのを見ていく。リートな場合は逆さまにぜんぜん違って、美術館で絵を一つひとつずつ観ていくように、モネを見たりミケランジェロを見たり、そういういろんな違う絵を一つずつ観て、それを客観的に見せていくというかんじでしょうか。技術的にいうと、ある意味でリートの方が難しいですね。オペラの場合はオケがざーっと入って、きれいな声で歌えばいいけども、リートの場合にはその曲その曲に合った彩を探して、言葉をいろんなふうに遊んでといいますか、ドイツ語だったらドイツ語、フランス語だったらフランス語の愛情の籠め方が違うというか、それで、ある意味でやっぱり歌曲の方が人格、自分のパーソナリティーを聞かれてるという意味では難しいと思っています。日本語のものを歌ったときに、皆さんそれぞれ日本語、日本の曲に対する思い入れがあるでしょう。必ずある。だからそれを一般的な思い入れがなくって、自分にとっての思い入れ、ドイツ語にしてもロシア語にしても、或いは日本語にしても、自分にとっての思い入れをもっと個性として出しちゃうというか、間違っててもこうだという、そのぐらいのパーソナリティー、自分の個性を大事にして自分の言いたいことを音楽を通していっていく。作曲のやりたいことを私たちはやっていかなければいけないかなと思っています。

曲目
「架空庭園の書から」ゲオルグ詞、シェーンベルク曲
「眠り、眠り、眠りだけ」ヘッベル詞、ベルク曲
「メーテルリンクの詞による歌曲」、メーテルリンク詞、ツェムリンスキー曲
「歌曲集作品18から」モルゲンシュテルン詞、ヒンデミット曲
「待雪草」アイフェンドルフ詞、コンゴルト曲
「祝詞」テニメル詞、コンゴルト曲
「博物誌 こおろぎ」ルナール詞、ラヴェル曲
「永遠の謎」ヘブライの歌、ラヴェル曲
「バイオリン」ヴィルモラン詞、プーランク曲
「シラブル」、メシアン曲。歌曲集「ハラウィ」の中の8番。緑の鳩が再び現れ、オノマトペが多用される。これは猿の声の擬声語であり、猿の声の警告によって危機を脱したインカの王子を記念する「猿の踊り」を模したもの。
           以上10曲は多田茂史・訳

「子守唄」ショスタコーヴィッチ曲
「歌うな美しい人よ」プーシキン詞、ラフマニノフ曲
「私はすべてを奪われた」チュッチェフ詞、ラフマニノフ曲
           以上は伊東一郎・訳

 

🎵当初、知られざる名曲と聞いて、きっと厭きるだろうと聞き始めたところが、次は? つぎは? と55分があっという間に。 小山由美がいうに、20世紀前半、第一次世界大戦、第二次世界大戦前後激動の時代を生きた作曲家たちがどんな曲を書いているのか、ことばを通してどんなことをいっているのか、つたえようとしているのか、いわば近代のリートの流れを理論はもっとあるのだろうけれども実際に楽曲に託してつたえてくれたのだ。一般受けしないと仰っていたが、一般受けしない曲がこんなにおもしろいとは! 実にわかりやすくリートをお話くださった。
 どこが良かったか、「どれもそれぞれに」、どれも捨てがたいということなのだが、歌詞の内容、それに密着し引き出してメゾ・ソプラノの幅のある奥行のある豊かさで。ぐんと惹きつけられたという点では、「架空庭園の書から」、「メーテルリンク」「祝詞」、メシアンの「シラブル」、ショスタコーヴィッチの「子守唄」これを聴きながら、ソ連時代の収容所列島なども思い出し、子守唄というよりはソ連、ロシアの多くの婦人たちのやりきれない癒しがたい思いがつたわってきた。そして
「私はすべてを奪われた」私はすべてを厳格な神に奪われた/健康も 力も 意志も 呼吸も 眠りも/神が私に残されたもの/それはお前だけ/神へと 私はまだ祈りを捧げることができるようにとー

 

🎧名曲アルバムはショパンの「前奏曲 雨だれ」。演奏はイリーナ・メジューイワ

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⛳まばゆい日の出とともに、滋味に富んだメゾ・ソプラノがよき一日の始まりをくれた。
8時27分更新

 

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210629 クラシッククラブを聴く モイツァ・エルトマン ソプラノ・リサイタル

「声は神様から授かった贈り物」と語るドイツのソプラノ、モイツァ・エルトマンのリサイタル。メンデルスゾーンとモーツァルトのみで構成された意欲的な演奏会から。ピアノはゲッツ・ペイヤ―ー番組紹介よりー

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曲目
<メンデルスゾーン>

新しい恋. 19a-4
ライカ Op. 34-4
Op. 86-5
歌の翼に Op. 34-2

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モーツァルト>
満足
KV349
すみれ KV476 
寂しい森の中で
KV308
魔法使い KV472
ルイーゼが不実な恋人の手紙を焼いたとき KV520
こころよい静けさが KV152
歓喜に寄す KV53
春へのあこがれ KV596
ラウラに寄せる夕べの思い KV523
アリア「我が美しき恋人よ、さらば」 KV528
アンコール <メンデルスゾーン>夜の歌Op.71-6

🎵真珠のようなエルトマンには白いドレスが良く似合う。澄明な歌声でリリカルに聴かせてくれたのはメンデルスゾーン。彼女が歌うと、メンデルスゾーンの音符にはみなきららかな水晶の羽がついているかのよう。エルトマンが言うに「モーツァルトの歌曲には無駄がない。大げさな表現や余計なことをするとすべてが壊れてしまう。シンプルで透明感のある美しい響きを実現するのに苦労します。逃げも隠れもできないというか演奏者のすべてが見えてしまう作曲家です」。モーツァルトがどの程度、頻度で推敲をしていたものかはわからないが、巧まざるして出来上がった楽曲とはこうしたものであろうか。「我が美しき恋人よ、さらば」、これは圧巻だった。悲劇的、情熱的で声質に与る天上的な香りが。エルトマンが抒情歌手としてもすばらしいが、その範疇を超えられることを聴いた瞬間。バイロイトの華たりうる所以を聴いた気が。平岡さんであったか「劇的な詞と歌が剥離することが無い」とネットに出ている。
 それぞれの詞も興味深い。「満足」は小さな幸せに満足し感謝する心情を歌う。これには2通りの詞があるようだが、今回はウルムの牧師で民謡風の歌を作詞していたミラーの詞であった。神様から健康を授かってさえいれば心朗らかに感謝の気持ちを持って暮らせるという内容。「すみれ」のはじめは、いかにもああエルトマンが歌うに相応しいと思いきや、突如すみれが起きあがりすみれの本音を呟いたか、がらりと詩の雰囲気が変わる。踏みつぶされたすみれが、どこかの頁で「あの子に踏み潰されるのなら死んでもいい」と口にするのだから。明るさの影に見え隠れする心境の複雑さを示唆する箇所でもあるが、その細やかな歌い分けも万全。日本のリートにこんな詩があったかどうか。「春へのあこがれ」には曲にも詞にも共感あるのみ、「
 「ぶらあぼ」にギルゲエフを驚嘆させた名歌とあった。「ラウラに寄せる夕べの思い K.523」はエルトマンが最も愛する曲の一つであるらしい。エルトマンのコメントもこの誌に掲載されている。彼女がプログラムの最後に入れたモーツァルトのオペラのアリア「わが美しき恋人よ、さらば」は圧巻、悲劇的、情熱的で声質に与る天上的な香りが。

アンコール曲「夜の歌」、詩がアイヒェンドルフということで拾ってみた歌詞を。


昼の明るさはもはやない
彼方から届くのは鐘の音
かくして時は夜をめぐり
不意に人の命を奪いもする
楽しかったことどもは今いずこ
友の慰めはまことの胸は
愛する女の甘きまなざしは?
わたしと目覚めていたいものはないのか?
さあ意気揚げてナイチンゲールよ
ごうと鳴る滝よお前もだ
神をたたえようともに和して
まばゆき朝が輝き出るまで

翻訳は舩木篤也、和田ひでき、河野典子の各氏。

 

🎧名曲アルバムはチャールズ・E・キングの「ハワイアン・ウェディング・ソング」
演奏はLagoon

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⛳雛の鳴き声がしている。梅雨空にみどり潤うこずえのどこかに巣があるらしい。真昼のチャイム。
12時2分更新。

 

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210628 クラシッククラブを聴く ナタリー・シュトゥッツマン&オルフェオ55

コントラルト、そして指揮者のふたつのキャリアで活躍するナタリー・シュトゥッツマン、そして彼女自身が創設した室内オーケストラ、オルフェオ55の演奏でバロック期の声楽曲・器楽曲をお送りする。声楽を学ぶ学生が必ず勉強する「イタリア歌曲集」の曲目をオリジナル編成で演奏した公演で、深みのある豊かな歌唱、そして集中度の高いアンサンブルが注目を集めた。2018年5月、紀尾井ホールで行われた演奏会の後半から。ー番組紹介よりー

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ナタリー・シュトゥッツマンのコメント
歌と指揮を同時におこなうことについては、私の脳が二つのパーツで構成されているのかもしれません。オルフェオ55は、歌と指揮と音楽に対する愛を仲間と分かち合う夢を結実させたアンサンブルです。誰もが「不可能だ」と言いましたが、歌いながら指揮する演奏スタイルを実現したかった。モダン楽器もピリオド楽器も演奏できる柔軟な演奏家たちをオーデションで厳選したことで、きわめて幅広いレパートリーを演奏しています。楽器パートも歌唱パートも自分でやって両方とも自分で表現できたらおもしろいだろうなと思ったのです。いつか指揮をしたいという夢もありましたから、「オルフェオ」はコントラル歌手にとって最高の役柄です。音楽で地獄の生き物たちまで魅了します。そのようなイメージで「オルフェオ」と名付けました。「55」とつけたのは「5」が私のラッキーナンバーだから。自分と同じようにシンプルでまっすぐな名にしたかった。私的な名前のオーケストラは数多くあったので、違った名前にしたいと思いました。
 私にとって「声」はずっとメインの楽器でした。ピアノやチェロなども学びましたが、声がもっとも自分を表現しやすかった。だから「二つのことを同時にしている」という感覚はありません。自分もアンサンブルの一部といった感じです。歌のパートは徹底した準備が必要です。本番では歌で体を使うので、オーケストラに細かい指示を出せません。ですからリハーサルではオーケストラの準備を入念に行います。もちろん負担は大きいです。でも作品全体を自分で表現できる至福を味わうことができます。最高ですよ。最近は指揮活動の方が増えました。指揮者になることは夢でしたので嬉しいです。偉大な指揮者たちに支えられて多くのすばらしい機会に恵まれています。でも歌手を辞めたわけではありません。指揮の割合が増えてきたということです。いまはノルウェーのオーケストラの音楽監督とアイルランド放送交響楽団の首席客演指揮者も務めています。オペラの指揮もします。このあいだワーグナーの「タンホイザー」の指揮をしましたが大変でした。でも私自身は何も変わっていません。音楽家であるということは「生き方」だと思うのです。指揮者であろうと歌手であろうと音楽家であることに変わりはありません。私は音楽ができれば幸せなのです。

曲目
☆「協奏曲 第1番 ヘ短調から ポコ・アンダンテ」ドゥランテ:作曲
「歌劇「ポンペオ」から 私を傷つけないで」アレッサンドロ・スカルラッティ:作曲
「歌劇「ジュスティーノ」から この喜びをもって会おう」ヴィヴァルディ:作曲
「歌劇「アルミード」から パッサカリア」リュリ:作曲
「歌劇「救われたアンドロメダ」から 太陽はしばしば」ヴィヴァルディ:作曲
「オラトリオ「敵の将軍ホロフェルネスに勝って帰るユーディット」から 気まぐれの風にもてあそばれ」ヴィヴァルディ:作曲
「歌劇「みやびなインドの国々」から 未開人の踊り」ラモー:作曲
「パッサカリア」ファルコニエーリ:作曲「踊れ、優しい乙女よ」ドゥランテ:作曲
「愛の喜び」マルティーニ:作曲
「歌劇「オリンピアーデ」から 私は苦しみながらも震えている」ヴィヴァルディ:作曲

翻訳の方々は広塚洋子、今谷和徳、岡本和子の各氏

 

🎵シュトゥッツマンのコントラルト、嘆き、憂い、怒り、苦悩、忍耐を浄化しうたいあげる。その奥に底光りを放つ黒い、青い宝石のよう。実に魅力的だ。そしてまるで空中の酸素のかわりに優しさと雅さ、繊細さで呼吸、息をしているようなオルフェオ55。シュトゥッツマンの響きに寄り添うオルフェオ55の柔らかな響き。シュトゥッツマンの歌う歌詞の内容を包み、強弱の別はあれ、そこはかとない包容力に満ちて流れるこの絶妙さ。シュトゥッツマンには女性ながら胆力も感じられ、尻ごみしない精神力がやはり彼女を指揮者に駆り立てるのか。楽団からまだまださまざまな要素を引き出してくれそうな期待を抱かせる。
 この収録は何回か聴いているけれども、とりわけ氷点下9度の朝も起きだして聴いたことが思い出される。
 それがしかし、2019427日の「月刊音楽祭」で報じられたところでは、オルフェ5524日に活動停止を発表。政府の支援が減ったことに原因が。同じ現実が出てきそうな様相に暗たん。この収録は貴重映像。そして、この響きはいまもこちらに。

 

🎧名曲アルバムはリストの「ハンガリー狂詩曲第2番」。手塚幸紀&N響。ロマの音楽がこの曲の作曲のきっかけに。

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⛳朝からけっこう強烈な日ざし。窓は全開。花に水はたっぷりと。青空に突き抜ける工事用の金属がぶつかり合う響き。クルマが通過する瞬時の風の音。働く人の声。遠く烏の声、微かに雛の声。10時08分更新。

 

 

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きょうのことば「我が臨在汝と共に」

インマヌエル盛岡キリスト教会20210620()の礼拝メッセージをおつたえいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で48年目のご奉仕をしておられます。

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説教題 『我が臨在汝と共に』  (國光勝美 牧師)
聖書箇所 新約聖書 マタイの福音書 62534
25 ですから、わたしはあなたがたに言います。何を食べようか、何を飲もうかと、自分のいのちのことで心配したり、何を着ようかと、自分のからだのことで心配したりするのはやめなさい。いのちは食べ物以上のもの、からだは着る物以上のものではありませんか。
26 空の鳥を見なさい。種蒔きもせず、刈り入れもせず、倉に納めることもしません。それでも、あなたがたの天の父は養っていてくださいます。あなたがたはその鳥よりも、ずっと価値があるではありませんか。
27 あなたがたのうちだれが、心配したからといって、少しでも自分のいのちを延ばすことができるでしょうか。
28 なぜ着る物のことで心配するのですか。野の花がどうして育つのか、よく考えなさい。働きもせず、紡ぎもしません。
29 しかし、わたしはあなたがたに言います。栄華を窮めたソロモンでさえ、この花の一つほどにも装っていませんでした。
30今日あっても明日は炉に投げ込まれる野の草さえ、神はこのように装ってくださるのなら、あなたがたには、もっと良くしてくださらないでしょうか。信仰の薄い人たちよ。
31 ですから、何を食べようか、何を飲もうか、何を着ようかと言って、心配しなくて良いのです。
32 これらのものはすべて、異邦人が切に求めているものです。あなたがたにこれらのものがすべて必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。
33まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。34 ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。

 

<お話し>
 きょうは「愛と信頼をもって」という表題です。私たちの信仰の根本をなす聖潔(きよめ)の信仰をということに焦点を合わせたく願っております。

 毎週水曜の夜8時からズームで行っている「牧師の書斎から」で、メーベル・フランシスを取り上げました。いのちのことば社から2000年に発行された「百万人の福音」に掲載されていた記事からです。メーベル・フランシスは、特に四国方面を中心に活躍された婦人宣教師です。自分の目の前で木の葉が地に落ちて腐って木の肥やしになりました。「主は、あなたは今から教会の肥料になるようにと仰いました。誰も肥料をほめそやす者はいない。私はあなたに私の十字架の足跡を踏んでもらいたいのだ」。これが彼女の生涯を貫く生き方となりました。人に認められるということではなく、ほんとうに肥やしのようにイエス様の畑に隠れた奉仕、それをさせてください。このように生きた方です。天に召されたのが1975年、ちょうどこの教会の開拓が1974年ですので、この教会が開拓された年でした。

 もう一人忘れてならないのが、メーベル・フランシスとほぼ同世代生まれのウェブスター・スミス先生。この先生が天に召されたのは1971年でした。
 私が神学生の1年で蔦田真理先生のクラスを受講している最中に、「今連絡が入りましたが、ウェブスター・スミス先生がイギリスで召されなさいました」と知らされました。私自身もお茶ノ水キリスト教センターで信仰に導かれた者であり、いわばウェブスター・スミス先生の晩年の働きにほんの僅かですけれども恵みに与った者であります。
 ウェブスター・スミス先生のOCCビルは、茶ノ水駅からのすぐ近く、明治大学の構内といっていいほどすぐ横にあった。現在でも日本伝道に大きく役割を果たすクリスチャン新聞や太平洋放送協会が入っているところです。
 ウェブスター・スミス先生は東京にいらっしゃる前に兵庫県の明石で女の子の孤児を愛育するという働きに召されなさった。それが明石人丸教会でした。先生が教会を導くときに依って持って立った御聖言(おことば)は

あなたが歩む一歩一歩私はあなたの前に道を開く」旧約聖書 箴言412節で、これはシリヤ語訳バージョンです。シリヤ語訳というのは私たちにとってほとんど目にする機会はありません。

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 実は、これがそのお茶ノ水学生キリスト教会館、OCCに導かれた私に、会館の方から、「ウェブスター・スミス先生の生涯のことばをこのような形で記念していますからどうぞ」と盛岡に来てからプレゼントされたものです。
 シリヤ語バージョンというのはどういうものかと調べてみたところ、「シリヤ語を話すクリスチャンたちに翻訳されたもの」。新約聖書もそうでしたけれども、旧約の部もシリヤ語バージョンですこし趣が違って翻訳されている。なので、聖書を勉強する上には、けっこう興味深いものなのだということが記されておりました。
 今私たちが公用聖書で使っておりますのは、新改訳聖書2017で、そのおことばは、
「あなたが歩むとき、その歩みは妨げられず、走っても、つまずくことはない。」
このシリヤ語バージョンの英訳ですと、
As thou goest, step by step, I will open up thy way before thee.
「あなたが歩む11歩、まさにそのときに、わたしはあなたの前に道を開く。」
良い訳だと思いました。

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 そして今日私は、私たちが信じている福音の恵みというものをもういちど、新しいことは何もなくもう一度、基礎からきちっと整理をしてみましょう。このように導かれました。

 神様、父・子・御霊。三位一体の神様。まさに愛なるお方です。このお方が、神から離れてそれぞれ自分勝手な道を歩んでいた私たちに御目を掛けてくださいました。聖霊なる神様が私たちに、「いいのか、このままでいいのか」。神様は今の自分たちのあり様に光を当ててくださる。そしてその時に、聖霊様は、愛なる神様は、あなたのために御自分の最愛の一人子を身代わりとして、あなたが裁かれるべき十字架の上に磔、身代わりとして贖いの救いのわざをなしてくださった。このお方を信じるならばあなたは救われるのだ。これは私たちが今あるいちばんの土台であります。新生、新しく命が与えられ、そして神様の前に罪赦されるのです。

 

 きょうはメッセージの中で竿代信和先生が召されなさったことをお話しさせていただきたいとこのように導かれております。今回、多くの聖徒たちの最期を思いめぐらしました。
 たとえば私がいちばん大きな恵みをいただいたのは蔦田二雄先生です。私の神学生の一年のときに突然心臓の病で天に召されなさった。救急車で東京女子医大の方に運ばれたのですが、交通渋滞で病院到着がままなりませんでした。私達男子神学生は祈禱室に集まって、いま院長先生がこういう状態だから祈ろう。土曜日でした。神学生たちはあげて祈っていた。そしてついに召されました。
 蔦田二雄先生に付き添っておられたのが蔦田真理先生でした。男子寮の責任をもっておられるし、それに翌日が日曜日なので丸の内教会のご奉仕をしなければなりません。それで男子寮に戻られ、「今親父が天に帰った。ほんとうに天国が近くに感じる。親父の枕辺にいたのが限られた数名だった。その時に私が祈ったのは、親父が今までどんな働きをキリスト教会の中でしたか、そんなことは何にも関係ない。頭に手を置いて『御子イエスの血、すべての罪より我らを潔む』、こういって祈ってきたところだ」。そのときのことをふっと思い出しました。言わんとするところは、最期のとき、私たちが依って持って立つのは、それはイエス様の十字架の血潮の贖いです。これをちゃんと受けている、このことです。

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 救いの恵みの中にありながら、私たちの中には“いま一人の人物”がいます。出て来る。それで私たちは罪を犯します。犯した罪は赦されます。しかし心の中にあるややもすれば神に背く、或いは、信仰から後戻りしたくなってしまうような誘惑が心の中にある。その心のままの状態で信仰生活を全うすることは困難です。そのときに、この肉の心、もうひとり、自分の心の中にいる醜い自我、それをご聖霊様が、ほら、そのあなたのためにイエス様は十字架にお架かりになったんだよ。最初の時は、あなたが今まで犯した罪が赦されたし、そして、あなたは確かに神の子どもとされた、だけども、あなたの心の中にあるまだ神に背く肉の心、それをほら気が付いたね。よく気が付いた。そのあなたの罪の性質のためにもイエス様は十字架にお架かりになったんだよ。
 この私の肉のためにキリストは十字架におつきになられた。もはや私が生きるのではない。キリストが私の内に生きるのだという、これは、イエス様を見上げる信仰による恵みなのです。もういちどイエス様を見上げて、そうだ、旧い私はもうキリストと共に十字架につけられたのだ。今私はこのお方を信じて生きているのだ。
 イラストにある赤いもう一人の自分、これは今生きて神を愛しているこの私達です。

 メーベル・フランシスという人の証にもありました。私が人に褒められたい、一生懸命よくやっている。他人に褒められているときは私は聖徒。でも人から無視されたりぞんざいな扱いを受けたりするとむしゃむしゃと心の中に沸いて来てしまう。そのいやな肉の心、それに気が付く。潔められたはずなのにまだ私にはこんな心がある。そう気が付いたときには、神様有り難うございます、もし私が監守からぞんざいに扱われるという経験をしなかったなら、褒められたい自分が気が付かなかった。人を愛せない自分に、神様は気づかせてくださったんですね、有り難うございます。気づかせてくださってありがとうございますという喜びに変わった。そのとき私はほんとうに解放されました。このように証ししています。

 大いなる岩の顔ではありませんが、このお方を仰ぎ見続けているときに、キリストのごとくに変えられていく。そのような生涯を歩みたいものです。旧い自我は、もうキリストと共に十字架に死んでいます。アーメン。これは信仰です。そして、このお方をもういちど私たちは父なる神への信頼、この信頼、成し遂げてくださったお方を心から信頼することこそ私たちの信仰生活のいちばんの基になるのです。この神様への信頼をどうか持たせていただきましょう。そしてきょう、私は、これを基にしてすこしお話をさせていただきたいと思います。

 

 トラスト・フォールという、人への信頼を培う訓練があります。倒れていく人は後ろ向きです。背中を支える多くの手は見えません。ほんとうに自分が支えられるものかを見ることはできない。だけれども、必ず皆が自分を受け止めてくれると信じて彼は身を委ねている。この訓練を受ける前と後とは絆が全く違うということです。

 父なる神様がほんとうに信じ従って行く者には必ず良きものをもって報いてくださる。頭では分かっています。しかしほんとうに信じて委ね切ることができるかどうか。「明日のことを思い煩うな。明日は明日みずから思い煩わん。一日の苦労は一日にて足れり」。32 ……あなたがたにこれらのものがすべて必要であることは、あなたがたの天の父が知っておられます。33まず神の国と神の義を求めなさい。そうすれば、これらのものはすべて、それに加えて与えられます。34 ですから、明日のことまで心配しなくてよいのです。明日のことは明日が心配します。苦労はその日その日に十分あります。

これを本当に信じて信じ切って、このみことばに委ね切ることができているかどうか。私は、これは小さなことの訓練から始まると思います。小さなことを一つ一つ繰り返してやっていくときに、だんだんと大きな大切なことをお委ねすることができる。
 一つの例があります。蔦田二雄先生が戦後にインマヌエルの神学校がどうしても必要だと神に願い祈るうちに、浦和に適切な物件が与えられた。あれが欲しい。しかしそれを購入する資金がない。だけども神様がきっとこれを私達に与えてくださる。このいきさつはほんとうに興味深いのですが、結論からお話ししますと、いよいよ銀行に支払う期限が迫った。一定の金額を銀行に納めねばならない切羽詰まった時に、神に信頼していた蔦田先生のもとに外国から電報が入った。「日本の蔦田という男がこれだけの金額が必要としている」。海外の見知らぬ人物から必要なだけのお金が蔦田先生のところに届いたのです。浦和の神学校には、そのとき届いたアメリカからの電文が額に入れられて飾られていました。大きなできごとでした。蔦田先生はそれまで、小さなことから何回も何回も神がほんとうに必要なものは与えてくださることを体験的に知っていた。神様のために必要であることは、神様がわざを為してくださる。その結果です。私達どうか小さなことから神様をほんとうに信頼しきって委ね切ることを経験していきましょう。

 

 この教団の竿代信和先生が、長く病床におられましたけれども、このまえの木曜に85歳の生涯を終えられて天に帰られました。竿代信和先生は雪谷伝道所をとても愛してくださって、いろいろな機会に雪谷伝道所に来てお話しをしてくださったので、ひろ子先生は竿代信和先生にはほんとうにお世話になっている。気管切開までされ、いよいよ最期の時が近づいていることを、奥様からのお便りで知っていましたので、私達もどうか竿代先生が苦しまないで天に行かれますようにと祈らせていただいておりました。本部から召されなさったと連絡がきたのは土曜日でした。

 先生に関わる思い出がたくさんございますが。竿代信和先生はバックストン先生に手を置いてお祈りをしてもらった経験がある。それを両親から聞かせられて育ったといいます。私も聞きました。バックストン先生という方は、日本のキリスト教会福音派の人たちに大きな影響を与えた人物でした。1860年生まれ。先ほどお話ししたお二人の女性宣教師とは約20年ぐらいの違いしかない。そんな時代の方です。そしてバックストン先生が天にお帰りになったのは1946年。私が生まれたのが1947年。私が生まれるまさにその年にバックストン先生は天にお帰りになっている。バックストン先生の日本における働きをご子息が著わしておられます。「バークレ・エフ・バックストンの生涯(18601946)に於ける信仰の報酬(1954)ビ・ゴッドフレー・バックストン (著), 小島 伊助 (翻訳)

 私も持っております。パソコンに取り込んでありますので「松本」と検索をかけてみました。「松本」と入れると出てきました。 

1937(昭和12)年の始めの頃、父は三つの団体から日本訪問の招聘を受けた」と父は書いている。一つは、自分が起こした日本における働きの日本伝道隊の招請があって来ている。そしてもう一つは、日本聖公会の宣教師としての招き。いま一つは、日本伝道隊でもなく聖公会でもなくもう一つのミッション、日本人教会の団体からであった。日本伝道隊による組織で学んだ菅野鋭先生が非常に大きな働きを進めていった。この菅先生の中心的な働きが松本にあった教会で、松本の教会は菅さんの働きの実であった。

 いよいよバックストン先生をこの松本の停車場で迎えたのは34人の教会の幹部たちであった。ところが驚いたことに改札口を出ると約200人の牧師、信徒たちが待っており、この一人の外国人を熱狂的に歓迎した。松本にとっては前代未聞のこと。この様子は、当時の信濃毎日新聞に大きく掲載されました。

 松本で、バックストン先生が集会を持たれたのです。そのときに松本でクリスチャンとして熱心に励んでおられたのが竿代信和先生のご両親でした。信和先生のお父さんはシンガーミシンの仕事をしておられた。お母さんは、まだ赤ちゃんだった信和先生をバックストンの集会に連れて行って頭に手を置いて祈ってもらったのだそうです。

 信和先生は2007年の花巻における聖会の講師としておいでくださっております。

 

 バックストン先生にしても、ウェブスター・スミス先生にしても、ほんとうに自分に死んだ日があったのです。そして成長すればするほど自分の醜さに気が付くのですが、そのたびに、神様感謝します、まだ私にはこんな未熟なところがありました、あの人に指摘されなければ気が付かなかった自分、またしても未熟なところに気が付きましたといって、がっかりするのではなく、有り難うございます、こんな私のためにイエス様は十字架に架かられたのですねと、尚、神様を見上げ、見上げ続ける、そういう生涯を送られたでしょう。そして日々、神様に委ね切った生涯を送られたのです。

 

※音声データ、画像は教会からお借りしています。
6675字、⏰6時31分更新

 

 

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J-MEROざっと

土曜更新を忘れかけて、はたと起きだし今PCに向かう。

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J-MEROのゲストはHKT48、MARiA。HKT48、博多にも歌う女の子軍団がいたようだ。新曲が出るたびに12人の選抜があるとか。専用劇場があり、毎日公演があるとか。この新型コロナを除く時期には、だろうけれども。MARIAは、内から出る自分と人から見られた自分はたぶんぜんぜん違う見え方をしてるんだろうなと思っていて、予期せぬ自分と出会う感覚というものを楽曲の中で感じているのだとか。

 

⛳23時18分更新

 

 

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210625 クラシッククラブを聴く アンサンブル石田組

カリスマ・バイオリニストの呼び声高い石田泰尚率いる弦楽合奏団「石田組」が登場!繊細かつ熱量溢れる骨太サウンドに弘前の観客が沸いた白熱のライブを放送。201871日 弘前文化センター―番組紹介よりー

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(バイオリン)石田 泰尚、(バイオリン)廣岡 克隆、(バイオリン)丹羽 洋輔、(バイオリン)塩田 脩、(ビオラ)冨田 大輔、(ビオラ)萩谷 金太郎、(チェロ)門脇 大樹、(チェロ)玉川 克
 石田組を率いる石田泰尚、クラシック界ではまず見かけない風貌。Wikipediaによれば川崎市出身。明星高等学校国立音楽大学を首席で卒業、同時に矢田部賞を受賞。1994年から新星日本交響楽団コンサートマスター、2001年から神奈川フィルハーモニー管弦楽団ソロコンサートマスター。 神奈川フィルハーモニー管弦楽団やソロ活動だけでなく、石田自身がプロデュースする男性奏者のみの弦楽アンサンブル「石田組」、ピアソラを追及した「トリオリベルタ」、ピアニスト及川浩治の呼びかけで結成されたピアノトリオ「Bee」等、様々なユニットで活躍する。メンバーはみなオーケストラで活躍している。
 
石田の使用楽器は、1690年製G.Tononi。音色は石田の手になると骨太で繊細、けっこう力強い。

石田のコメント
聴きに来たお客さんを楽しませる、喜ばせる、感動させるみたいなそれしか考えてないというか、それを考えながら日々努力、練習です。クラシックとかロックとか弾きますけど、お客さんがその曲をよく知らない、この曲は何年に作られて、作曲者がどういう気持ちで作ったとか、そういうことを知らなくても、とにかく自分の演奏で喜んだり悲しんだりしてほしいなという感じですね。

 

曲目
「アイネ・クライネ・ナハトムジーク K.525」モーツァルト:作曲
アディオス・ノニーノ変奏曲」アントニオ・アグリ:作曲
(バイオリン)石田 泰尚
「映画「荒野の七人」のテーマ」エルマー・バーンスタイン:作曲、近藤和明:編曲
「映画「ニュー・シネマ・パラダイス」」エンニオ・モリコーネ&アンドレア・モリコーネ:作曲、近藤和明:編曲
「紫の炎」
ディープ・パープル:作曲、近藤和明:編曲
「津軽海峡・冬景色」三木たかし:作曲、松岡あさひ:編曲

🎵クラシックをもっと広範にするために、もうすこし何とかできないか、照明をもっとアクティブにするとか、衣装のパターンを打ち破るとか、と考えたことがある。もしかすればこれは石田のそんな模索の結果だったのか。
 石田が「組員を紹介」とメンバーを紹介。会場に笑い。「メンバーは男だけ。ここにいる7人を好きで尊敬してます。7人もぼくのことが好き(ここでまた会場に笑い)そういう感じでやってます」        

「アイネ・クライネ・ナハトムジーク K.525」、息苦しくなるほどの狭い空間を開け放ち、広い野も狭しと響きわたる自在な透過性を今朝は感じた。「アディオス・ノニーノ変奏曲」、この曲は、ピアソラが最愛の父の死に寄せて作曲した「アディオス・ノニーノ」を基にアントニオ・アグリが編曲したものだという。石田のソロバイオリン。石田といえば「紫の炎」だが、その「紫の炎」と対極にあるこの曲。骨太さと繊細さが本領であるなら、この曲では、懐かしみ、繊細さを。「映画「荒野の七人」のテーマ」「映画「ニュー・シネマ・パラダイス」」「紫の炎」、ディープ・パープル曲、近藤和明の編曲。解説では「イギリスのロックバンドが後世に影響を残した曲、石田組の公演には欠かせない、ボーカル・ギターをバイオリン一つでこなす石田のわざが光る」、と。平穏、マンネリズムを抉る鋭さに共感。石田はじけるこの曲がやはり石田の真骨頂。
 Wikipediaによると、「ディープ・パープルは、イングランド出身のロック、ハード・ロック・バンド。日本では「レッド・ツェッペリン」と並びハードロック・バンドの代表格の一つに数えられ、後のハード・ロック、ヘヴィ・メタル・バンドにも大きな影響を与えた。1976年に一度解散した[3]1984年に再結成した。2016年度に『ロックの殿堂』入りを果たした。」とある。うちにゆらめく幾つもの焔が見える。アンコールに応えるは「津軽海峡・冬景色」。バイオリンがむせび泣く。むせび泣く弦を久しぶりに聴く。飽きさせないこの強引さがおもしろい。

 

🎧名曲アルバム。沖縄民謡「谷茶前」。渡邉一正&東京フィル

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⛳津軽は、こぎん刺し、津軽塗、津軽三味線、弘前ねぷた祭り。こうして録音を聴いてみると、石田組の「炎」の響きには津軽の威勢のよさが踊っている。9時16分更新
 

 

 

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210624 クラシック倶楽部を聴く   小山実稚恵とアルテ弦楽四重奏団 

名実ともに日本を代表するピアニスト小山実稚恵、そして結成20年・名手の集ったカルテット、アルティ弦楽四重奏団による演奏会から。ドイツ・ロマン派の室内楽を二曲。【出演】ピアノ/小山実稚恵 弦楽四重奏/アルティ弦楽四重奏団(バイオリン/豊嶋泰嗣・矢部達哉、ビオラ/川本嘉子、チェロ/上村昇)【曲目】弦楽四重奏曲変ロ長調作品67から(ブラームス作曲) ピアノ五重奏曲変ホ長調作品44(シューマン作曲)【収録】2018年9月30日 第一生命ホール(東京都中央区)番組紹介よりー

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小山実稚恵
日本を代表するピアニスト。チャイコフスキー国際コンクール、ショパン国際ピアノコンクールに入賞してから国内外で積極的に演奏活動を広げている。アルティとは2016年に初めて共演。初共演をきっかけに201822年まで第一生命ホールで室内楽演奏会が企画され、長期的なシリーズに発展することになった。
小山実稚恵コメント
アルティとの共演については、ピアノだけと対話していると、どうしても自分の音楽がピアノをもとに作った音楽になりそうになるんですけど、こういうそれもすばらしい演奏家の方たちとすると、ああほんとうに、ピアノがどうにでもできる楽器だったら、自分だってこう弾きたかったというフレーズがいっぱい出てくるわけで、そういうときにやっぱり、それがふっとこう自分の音楽を見直すきっかけになったり、合わせる喜びもあればそういう自分のほんとうに好きだったものに立ち返るチャンスを貰える瞬間でもあるし、やっぱりあとは想像力が広がるとかいろんな魅力があるので大好きです。

アルティ弦楽四重奏団
1998
年結成。4人のメンバーはソリストとして活躍しながら弦楽四重奏団の演奏活動を意欲的に続け、20018年に結成20周年を迎える。日本を代表する弦楽四重奏団の一つ。メンバーは(バイオリン)豊嶋泰嗣、(バイオリン)矢部達哉、(ビオラ)川本嘉子、(チェロ)上村昇。
矢部達哉 コメント
最初にカルテットをやりだしたときに、やっぱりカルテットのレパートリーってたくさんあるので、先ずそれをやらなきゃいけないというのでゲストを呼んだり、そういうことしないようにして、つい最近なんですけれども、そういう別な方と一緒にやろうという機運が生まれて、それで小山さんとご一緒させていただくことになって、カルテットとクインテットは全然ちがうものかもしれないんですけど、僕は、小山さんと一緒に弾く時は、その延長線上でピアノがより奥行と彩りを加えていただけるような、なんかそんな感じで弾いていました。

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曲目
「弦楽四重奏曲 変ロ長調 作品67」ブラームス:作曲
アルティ弦楽四重奏団。
「ピアノ五重奏曲 変ホ長調 作品44シューマン:作曲
小山実稚恵&アルティ弦楽四重奏団

🎵共演の相乗効果にわくわく。小山さんに対する自分の好感度が高いからかというと、そればかりではない。互いが活き活きと立ち上がり楽曲を成している。随所思い入れのある旋律もしっかと響かせ、共感をさらに震わせてくれた。 

🎧名曲アルバムはヴィラ・ローボスの「ショーロス第一番」。演奏は大萩。「ショーロ」はポルトガル語」で「泣く」という意味だとか。儚く切なく、それで重くも深刻でもないところが老若男女から隔てなく愛される理由だろうか。
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⛳近頃は家事をしながら聴いている時間帯も多く聴き落し、見落としも。TV視聴はそれも誰にとやかく言われることもないのがいいところか。梅雨にはいっている。梅雨空のもとにあってもピアノと弦の独立性は大したもの。6時51分更新。

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210623 クラシック倶楽部を聴く ウィーン・ニコライ弦楽四重奏団 演奏会

ウィーンを拠点に活躍するカルテット、ウィーン・ニコライ弦楽四重奏団。ヘーデンボルク和樹・直樹兄弟のインタビューを交え、ウィーン古典派の作品をお送りする。【出演】ウィーン・ニコライ弦楽四重奏団【曲目】弦楽四重奏曲ニ長調K.575から第1・第4楽章(モーツァルト作曲) 弦楽四重奏曲作品59「ラズモフスキー」第3番ハ長調(ベートーベン作曲)【収録】2018年10月6日 フィリアホール(横浜市青葉区)番組紹介よりー

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ウィーン・ニコライ弦楽四重奏団はウィーン・フィルのメンバーから成り、2012からウィーンを拠点に活動。ドイツ・オーストリアの古典派、ロマン派の作品を得意とし、伝統を重んじながら新たな響きの創造に取り組んでいる気鋭の演奏家たち。今回が日本での初めての演奏会ヴィルフリート・和樹・ヘーデンボルク(ヴァイオリン)使用楽器はM. SchwalbD. Bagué。弓はT. M. Gerbeth1977年生まれ。
ベンジャミン・モリソン(ヴァイオリン)使用楽器は父デヴィッド・モリソン作(2006年)とジュゼッペ・ナドッティ作(1785年)。
ゲルハルト・マルシュナー(ヴィオラ)
ベルンハルト・直樹・ヘーデンボルク
(チェロ)

和樹(長男)・直樹(次男)は、洋(三男)とは日本語が流暢な三兄弟。洋のピアノでピアノトリオでの活動も。オーストリア・ザルツブルク出身。スウェーデン人のヴァイオリニストの父と日本人のピアニストである母をもつ。ヘーデンボルク・トリオとしても活躍。

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コメント
和樹:僕は先に生まれて子どもの頃、ケースが置いてあったのに大変興味深く眺めていたらしくて、ある日、そこに行って父のバイオリンを取り出したがってたという覚えはある。それを渡してもらって、ちゃんと持てない。だから顎に当ててもらって、支えてもらって音を出し、興味を示したのが始まりだったみたいで、と同時にやっぱり母がピアノだったのでピアノも勉強をはじめました。どっちが先だったかちょっと覚えてないけど。
直樹:母がすこし得策を練って、もちろん父と兄がバイオリンを弾いているので私もバイオリンを弾きたいというようすがあったみたいですけど、だけどそこでバイオリニストが3人も家族にいては困ると気付いて、実は母が自分でチェロをはじめたらしいんです。そのレッスンにいつもついていって、母がチェロのレッスンを受けている姿を見て、チェロを弾きたいと思ったんじゃないかなと思います。
―以下は直樹さんと和樹さん順不同―
ピアノを弾いている弟は齢が離れているので、大人というか今になって同じ目線で話をすることができる。そして、一緒に音楽を作れるというのがとても嬉しいです。
和樹:でも昔から小さい時からなんか弾ける曲があったら一緒に弾いてたよね。だからそれはやっぱり家族として、家族の中の室内楽? オーストリアももちろんだけどウィーンの家族の中で音楽がやはり伝統的なので、そこは、こう兄弟で弾けるというのはすごくいいところ。あとはやっぱり、血がつながってる。毎日一緒に過ごしてる。だから何も言わなくてもわかってくれてる。リハーサルとか事が進みやすい。そこはやっぱり兄弟のメリットかなあと思う。

オーケストラにも室内楽にも共通しますが、やはりウィーン・フィルのメンバーとして歌手の音に耳を傾けるのがオペラのピットの中での仕事ですよね。オーケストラの中でも  の音をたくさん聴く。その中でも室内楽はさらにアットホーム、親密な関係である4人の中でお互いに耳を傾ける。語り合う。そこが共通点かな。それでも常にアンテナは室内楽やってるときみたいに出てて、室内楽の編成がおおきくなった、もしくはかなり大きくなった、でも最後まで室内楽的にお互いに反応して演奏してるというところがある。やはりオ^ケストラとしてもそれはウィーン・フィルの特徴の一つ。毎日何時間も何年にもわたって一緒に弾いてるオーケストラは、家族より過ごしてる時間が多い。同僚たちとカルテットを弾くのも、オーケストラでやってるのと差があるかといえば、あまり差はないと思う。ただ一つ違うのは、オーケストラは言ってみれば公的な場での音楽ですから、わかりやすいとてもはっきりした音楽。作曲家もオーケストレーション、楽器の割り振ることによって音色から何を聴いてほしいかというのはとてもはっきりしているんですけれども、弦楽カルテット、弦だけの室内楽だとそれ以上に音のイメージが必要。だって弦の4人だけで作ってるわけですから、そこで私たちのオーケストラの体験が楽器の音色などをイメージしてジェスチャーなどの持っていく。そこが面白みかなと思います。

曲目
弦楽四重奏曲ニ長調K.275 から モーツァルト
弦楽四重奏曲作品59「ラズモフスキー」から第3番ハ長調 ベートーベン 

🎵モーツァルトの「弦楽四重奏曲 ニ長調 K.575から」。聴くときのその時々に聴く側がどういう心境にあるかによっても強く受け取る部分に違いが出てくることもあるのだが、前回は、森の中を散策しながら樹上にかける鳥の音を聴き、自然との対話を楽しんでいる心境で、繊細優美な流れをそのまま受け取っていた。今回はそれよりも風通しよく軽快に流れる心地よさをそのまま。ベートーベンの「弦楽四重奏曲 作品59「ラズモフスキー」から第3番 ハ長調」。これは、ベートーベンの「傑作の森」のうちの一曲。第一楽章、深淵、慎重、第九の冒頭のようにこの音じゃない、この音でいいのかと、作者の模索が聞こえる。流麗なところあり、対話的なところも。これは自分との対話、自らに問いながらの思いめぐらしが感じられる。第二楽章、この冒頭に心がざわついた。室内を歩き回り、ときに窓外に視線を移し、こうか、ああかと反問、思索、試作をくりかえすさまがほうふつと。第三楽章、明るみに向かう弾んだ気分。ちょうど鬱を脱したような解放された快活さ、躍動感が。意匠、着想がそちこちに飛翔し最高の心境にかけのぼったところで、これでよし! とペンが置かれたような。

 

🎧名曲アルバム。
メンデルスゾーン。菱沼尚子編曲。梅田&東京フィル。
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⛳夕方になってしまった。朝のうちに更新をしておこうという気構えが薄らいでいる。いいのか悪いのか、必要があるのかないのか。何れ音楽を耳にしながら音楽を書くことは心地よく楽しい。それで続いてもいる。来春からこの時間で別なことをしよう、それが4月までは、それが5月までは、6がつまでとなり、今に。先はどうなるか自らも不明。16時52分更新

 

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210624 クラシック倶楽部を聴く ノトス・カルテット

ノトス・カルテットは2007年にベルリンで結成された世界でも珍しい常設のピアノ四重奏団。マーラーとバルトークのピアノ四重奏曲が演奏された。マーラーは16歳、バルトークは17歳で作曲された若き日の作品。バルトークは楽譜が失われていた知られざる作品で、ノトス・カルテットが再発見し、今回の日本初演が実現した。2019年7月2日、京都コンサートホール アンサンブルホールムラタでの収録。番組紹介よりー

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メンバー
シンドリ・レーデラ:ヴァイオリン 
アンドレア・ブルガー:ヴィオラ 
フィリップ・グラハム:チェロ 
アントニア・ケスター:ピアノ アントニア・ケスター

 

🎵マーラーが16歳で作曲した現存する唯一の室内楽曲☆「ピアノ四重奏曲イ短調」、歌心あふれる抒情性に富み、瑞々しい、それに加えてドラマ性も。とても16歳とは思われない老成した部分も。レーデラーであったか、我々はオーケストラのようにも23人で弾くようにも演奏できると語っていたが、もうこの曲からにして、ピアノが入っているという理由からばかりではなく、オケ並みの量感、質感を感じさせる。第一楽章からが終章のような豊かさがあり、この楽章だけでも事足りるかの満足感。曲が進むごとに、調和という目標はすでに眼下、気づけば各パートが完全に前面に躍り出て各々の個性を存分に発揮している。これがノトスならではの響き、滋養の豊かさであるかと。

☆バルトークの「ピアノ四重奏曲ハ短調」、これがまたすばらしかった。ノトスの誇りとする曲。レデラーがいう。この作品の存在はバルト-クの作品一覧で知る。楽譜もどこかにあるに違い譜を探した。そしてブタペストの国立公文書館で見つけたものの持ち出しもコピーを取ることができず演奏することができなかった。どうしてもこの曲を演奏したくて楽譜を探し続けやっと発見し手にしたときは信じられない思いだったという。初めて演奏して作品に命を吹き込んだ瞬間は何とも言えない気分だったという。またグラハムは、私たちはこの曲への理解を深めて来た。成熟期以降のバルトークのモダンな作風と異なり、ロマンチックで若々しく情熱的ですと語る。日本では初演。バルトーク17歳、ブラームスの影響が濃く、密度の高い演奏との解説。終始聴く者の意識を逸らせないすばらしい演奏だった。

アンコールはブルガーの日本語での紹介で、☆クライスラー「愛の悲しみ」☆エルガー「愛のあいさつ」2曲が。

🎧名曲アルバムは「ミニヨン」。林美智子、円光寺&東京フィル。

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⛳21時28分更新

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210621 クラシック俱楽部を聴く 関西弦楽四重奏団

奈良県奈良市公開収録関西弦楽四重奏団演奏会
2018526日 奈良県文化会館国際ホール~

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関西弦楽四重奏団
バイオリン:林七奈、田村 安祐美
ヴィオラ:小峰 航一
チェロ:上森 祥平

 

 関西を拠点として活躍する音楽家たちによって2012年に結成。4人はそれぞれ東京藝術大学で学び、ヨーロッパでの研鑽と活動の後、林 七奈は現在、大阪交響楽団コンサートマスター。田村 安祐美は同じく大阪響のコンサートマスターを歴任し、現在は京都市交響楽団で活躍。小峰 航一は札幌交響楽団首席ヴィオラ奏者を経て現在は京都市交響楽団首席ヴィオラ奏者。上森 祥平は日本音楽コンクール第一位を契機にドイツでの研鑽を経て、現在ソリストとして、また主要オーケストラの客演首席奏者としても多忙な活躍を続けており、2016年には第14回 齋藤秀雄メモリアル基金賞を受賞している。 2014年度 大阪文化祭賞奨励賞、2015年度咲くやこの花賞受賞。

田村:私は大学時代から習っていた師匠の影響で、とても弦楽四重奏が好きで、ずっとメンバーを決めて、固定で、息長くカルテットを続けたいとずっと思っていたbbですけれども、当時大阪交響楽団のコンマスをしていた田村さんに一緒にやらないといわれて、そこかから

「5つの小品」、シュルホフ:作曲
「弦楽四重奏曲 ヘ長調」、ラヴェル:作曲
「関西ラプソディ」 福富 秀夫:作曲

 🎵関西系で聴いたことがあるのは、大阪交響楽団、それも朝比奈隆、それとたまに流れる民謡。東北にいると関西系を聴く機会はまずない。それが弦楽四重奏団というわけで興味津々。シュルホフの年代は、18941942チェコ。「5つの小品」、面白い曲だ。1、ウィーン風のワルツ、2、セレナーデ、3、チェコ風に、4、タンゴ・ミロンガ、5、タランテラ。作曲年、ウィキには1919と出ていたが、放送では、たしか1920年代と。民族舞踏を大胆にデフォルメしたシュルホフの代表作。民族音楽は、世紀を超えて、どの時代にも形を変えるなりして息を吹き返すものらしい。4、に、日本のどこかで聴いたような旋律もあり、どこにあっても人の同じ想いというものを聴いたような。
 ラヴェル唯一の弦楽四重奏曲。調和の霊感。この調和をとるには、どうもメンバーの合言葉なのか何か、「関西風でゆこうよ」となるらしい。その内容は不明。「関西ラプソディ」、この出演の日のために、特別に福富秀夫氏に委嘱したという。関西各地の歌のメドレーだ。観客がけっこう集中し熱心に耳を傾けていたのも印象的。

🎧名曲アルバムはベートーベンの「田園」。大友&東京フィル

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⛳昨夜のクラシック音楽館、札幌交響楽団が出ており、興味深く聴いた。21時04分更新

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きょうのことば 『我が臨在汝と共に』

インマヌエル盛岡キリスト教会20210613()の礼拝メッセージをおつたえいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で48年目のご奉仕をしておられます。

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説教題 『我が臨在汝と共に』  (國光勝美 牧師)
聖書箇所 旧約聖書 出エジプト記331216
12さて、モーセは主に言った。「ご覧ください。あなたはわたしに『この民を連れ上れ』と言われます。しかし、だれをわたしと一緒に遣わすかを知らせてくださいません。しかも、あなたご自身が、『わたしは、あなたを名指して選び出した。あなたは特にわたしの心にかなっている』と言われました。 13今、もしも私がみこころにかなっているのでしたら、どうかあなたの道を教えてください。そうすれば、私があなたを知ることができ、みこころにかなうようになれます。この国民があなたの民であることを心に留めてください。」 14主は言われた。「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる。」15モーセは言った。「もしあなたのご臨在がともに行かないのなら、私たちをここから導き上らないでください。 16私とあなたの民がみこころにかなっていることは、いったい何によって知られるのでしょう。それは、あなたが私たちと一緒に行き、私とあなたの民が地上のすべての民と異なり、特別に扱われることによるのではないでしょうか。」

 

<お話し>

 きょうは『我が臨在汝と共に』 という題で、御聖言(みことば)のご奉仕に与らせていただきたく導かれております。

 前回、私たちはヘブル122節から「信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい」。そして、聖潔(きよめ)とは円満さにあらわされるということを中心に学びました。そして、一つの例話として、S兄が囲碁する中で、怒りの感情に捕らわれている自分に気が付き、以来、囲碁を止めたという経験をお話ししました。S兄はキリストを見続けたい、そういう思いで生涯を歩まれた方であったと思います。光に従う柔和さ、謙遜さを彼は持っておりました。これは信仰生活においては大切なことです。イエス様はご自身が御子であられるのに、お受けになったさまざまな苦しみによって従順を学ばれました。S兄もそうでした。
 イエス様が地上生涯を歩まれたときに、イエス様とその兄弟たちの間にも、やはり複雑な思いがありました。イエス様ご自身もそのような環境、境遇のもとでさまざまに学ばれることがおありになったことなど、前回のメッセージから思い出していただければと思います。
 「大いなる石の顔」も、しばしばお話をさせていただいております。どうも昭和36年の小学校6年の教科書に載っていたようで、もう随分昔の教科書だったんですね。
 「大いなる石の顔」から、私は一つの大きな示唆を頂戴しました。
「信仰の導き手またこれを全うする者なるイエスを仰ぎ見るべし」と聖書にはあります。一生懸命努力してまじめに真実に見上げ続ける、これは大切なことです。それと同じくらい大切なことがある。それは、主が私達を、自分をどのように見ていてくださるのか。そのことに気がつきました。
 ある他教団の先生にこのことをお話ししました。その時に、その先生から次のようなメールを頂きました。
 「一生懸命に主を見あげている自分があるけれども、それでは、主の方ではこのような自分をどのようにご覧になっておられるのか。神様は『私の目にはあなたは高価で貴い。私はあなたを愛している』とご覧になっておられる。また神様は『主は遠くから私に現れた。永遠の愛を持って私はあなたを愛した、それゆえ私はあなたに真実の愛を尽くし続けた。あなたがたに触れるものは私の瞳に触れるものだ』」とも聖書の中に記されている。神様は、こんなに乏しい私たちを、このようにご覧になっていてくださる。このことに気がついたとき、大きな祝福をいただきました」
 私も心からアーメンと肯いたことであります。そのときから文語訳「我が臨在汝と共に行くべし」というおことばが深く心に示されているのでございます。

 

「我自ら汝と共に行くべし」というこの文語訳のかたちになります。しかしこれは英語訳を和訳しますと、「我が臨在汝と共に行くべし」、これはどの英語の訳をみても、「我が臨在汝と共に行くべし」となっております。そして、最近の聖書のことば、そして新改訳の2017、その訳でも「わたしの臨在が共に行きあなたを休ませる」、このことばになっております。「私の臨在があなたと共に行く」。私今別の用件で別の聖書を講壇にもってきていたので、ちょっとこれを確認してみましょう。こちらの方の聖書では、主が「わたしが自ら同行し、あなたがたに安息を与えよう」といわれる。「わたしが自ら同行し、あなたに安息を与えよう」。これらの訳を突き合せますと、このことばの持っている恵みの意味が立体的に捕らえられるように思います。参考までに今読んだ聖書は、新共同訳聖書でした。

 ここにモーセが何を願ったか。
「どうかあなたの道を教えてください」とモーセは願っています。非常に困難な役割を託せられたモーセは、とても自分ではこのうなじのこわい人々を導いていくのは大変だ、主よ、どうかあなたの道を教えてくださいと願っています。ところがそれに対して神様は「わたしの臨在が共に行き、あなたを休ませる」、こう仰いました。それに対する神様のおこたえは三つでした。
「我が臨在」。つまりこれは、他の人を遣わすのではない。主ご自身が一緒に行ってくださる。どうかこの大きな問題を解決する方法を教えてください。神様この困難を解決する手段を教えてくださいと願ったとき、神様は、いいや私が一緒に行く。これが第一番目の私たちに対する神様のお応えなのです。それは聖霊がわたしたちの心の中に住んでくださる。他の人たちではない、ほんとうにイエス様は私たちの心の内に住んでくださる。
 1週間どんなところを歩まれましたか。そのとき、どんな解決手段があるでしょうか。その道を教えてください。というそれでなく、私自身、あなたと一緒に行くよ。もう一つは「共に行く」、こう仰いました。たしかに出エジプトのときに、雲の柱、火の柱をもって神様はイスラエルの民を導いてくださった。しかし私は、この「我が臨在汝と共に行くべし」というこのおことばを出来るだけ原語の意味に近く理解したいと「我が臨在」を欄外に見ますと、「我が顔」と出ているのにお気づきと思います。「わたしの顔が」とある。そして、それは「主の御使い」というときに、「神様ご自身」という意味があるのだということを、イザヤ書639節を見たときに知りました。

彼らが苦しむときにはいつも主も苦しみ、主の臨在の使いが彼らを救った

「主の臨在の御使い」とある。あれ、代理になるのかなあ、御使いなのかなあと」、調べていきますと。直訳すると「彼の顔」というように欄外に出ています。手元にあるコメンタリーを参考に見たときに、これは神様御自身を、つまり、我が臨在そのものなのだということが一様に記されていました。その時に、イザヤ639

彼らが苦しむときにはいつも主も苦しみ、主の臨在の使い(つまり神様ご自身)が彼らを救った。その愛と憐れみによって主は彼らを贖い、昔からずっと彼らを背負い担ってくださった。

主がわたしたちと共にいてくださるということはこういうことなのです。

共同訳でイザヤ639節をご紹介しますと、

彼らの苦難を常にご自分の苦難とし、御前に仕える御使いによって彼らを救い、愛と憐れみによって彼らを贖い昔から常に彼らを負い、彼らを担って下さった。

ここには「御前に仕える御使いによって」と書いてありますけれども、これは先ほど申しました通りに、主ご自身の臨在なのです。そして彼らの苦難を常に自分の苦難としてくださる。すると新改訳のおことばがいいですね。
「彼らが苦しむときにはいつも主も苦しんで、臨在が、そして憐れみによって彼らを背負い担ってくださる」。「我が臨在汝と共に行くべし」。

1週間いろんなところを通ってきた。だけどもそのときに主も一緒に苦しんで下さったんだ。嬉しいなあ。主も一緒に苦しんでくださった。そして彼らを贖って、こんど彼らを背負って担ってくださる。「我が臨在汝と共に行くべし」。
そして「休ませる」というおことば。安らかならしめるというおことばです。

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 これを思いめぐらしておりました時に、メーベル・フランシスという先生を思い出しました。四国の方で活躍をしておられたご婦人の宣教師です。彼女は生まれは明治の終わり。そして召されたのが1970何年です。それはそれとして日本に非常な重荷を持って一生懸命に日本の文化にも馴染み、熱心に伝道していたのですが、結局疲れ切ってしまった。太平洋戦争になると宣教師たちは母国に帰るようにと言われ、荷物を全部まとめて送り返すことになったんだそうです。一つにまとめられた荷物、その送り先はどこかといえば収容所、日本における収容所の庭に放り出されていたそうです。そこに雨が降って来た。自分の大切なバックが収容所の庭で雨に濡れている。フランシスは、監守に「お願いだからあのバックを雨の当たらないところに入れてください」と頼んだ。そうしたところ監守の人がものすごい剣幕で「そんなことは自分でやれ」と。その時彼女の心の中に、「私は日本のためにこれだけ一生懸命やってきました。なのに神様どうしてこんなつらい目に遭わせるんですか」。情けなさに怒りながら雨の中で荷物を纏めているとき、ぱっと気が付いたというのです。あ、私は誰かに感謝されたい、私はイエス様のためにこんなに一生懸命にやっているということを認めてもらいたい。でもこんな形になっている。ああ、私にはこんなに醜い自分がある。そうだ私はきよめられていたと思っていたけれども、こんな醜い自分があることに気が付いた。そんなときに彼女はその監守の憎々し気な自分を見る顔を見て「主よ、分かりました」。分かったことは、醜い自分がきよめられるということではなくて、私には自分を認めてもらいたいという肉の心がある。この自分を殺して十字架に死んで、そして、「一粒の麦地に落ちて死なずばただ一つにてあらん。もし死なば多くの実を結ぶべし」。神様が「死なば多くの実を結ぶ」と仰った。この経験がフランシス宣教師の大きな霊的な転機になったということです。そしてそれ以来、ほんとうにこの休ませるということ。今まで自分が一生懸命しなければ、自分がこれを頑張らねばと思っていた自分が頑張るということをやめて、自分に死ぬということをしたときに、ほんとうに安息を得たというのです。
 私はこの人の証しを20年ほど前にある雑誌で読んだ記憶があって、今日皆さん方に礼拝のメッセージでお伝えできればと思ったのです。
自分で一生懸命頑張って、頑張って、それでもだめです。主はその愛する者に眠りを与えてくださる。そして眠っている間に主は備えてくださる。自分ががんばらねば、がんばらねばということではなく、本当に自分に死ぬとき、神様からの安息、「我汝をして安らかならしめん」。このおことばが事実となる。このことをお伝えさせていただきました。

 

※音声データ、画像は教会からお借りしています。
⏰06時16分更新


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雑感

J-MERO、May J.ゲストはSHISHAMONMB48

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とにかく眠い。キーを意識したはずが指がうごかない。頭の中に打つべき言葉が浮かんだはずが猛烈な睡魔が、言葉を音もなく持ち去ってしまう。こんな日もある。そんな日もある。

⛳21時07分更新

 

 

 

 

 

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210618 クラシック倶楽部を聴く アンサンブル天下統一 コンサート

アンサンブル天下統一関東初公演!栃木県壬生町公開収録日本を代表するバイオリン奏者長原幸太、ビオラ奏者鈴木康浩、チェロ奏者中木健二の実力派弦楽トリオによる、至高のベートーベン&モーツァルトの世界なぜ天下統一?インタビューで語るベートーベン 弦楽三重奏曲 ハ短調から第1楽章、モーツァルト ディヴェルティメントK.563から ほか2019年10月25日城址公園ホールで収録―番組紹介よりー

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アンサンブル天下統一は、愛知県岡崎市シビックセンターのレジデントアンサンブルとして2014年に結成される。チェロの中木健二が徳川家康の出生地である愛知県岡崎市出身であるところかららしい。中木はキングレコードよりCD「美しき夕暮れ」および「J.S.バッハ:無伴奏チェロ組曲全曲」(「レコード芸術」誌・特選盤)をリリース。紀尾井ホール室内管弦楽団メンバー。第11回名古屋音楽ペンクラブ賞受賞。使用楽器はNPO法人イエロー・エンジェルより貸与されている1700年製ヨーゼフ・グァルネリ。ついでに日本音楽財団所有の名器はこちら
 読売日本交響楽団コンサートマスターの長原幸太のバイオリン鈴木康浩のビオラ。鈴木康浩は2001年よりドイツのカラヤン・アカデミーで研鑽を積んだ後ベルリン・フィルの契約団員となり、04年秋帰国。現在読売日本交響楽団ソロ・ヴィオラ奏者。読響との関りが深い三重奏団。久方ぶりに読響の頁も訪問。コバケンが出ていたが懐かしい。

3人のコメント
「天下統一」というネーミングには二つの理由がある。一つは岡崎市が家康のゆかりの地であることから、地元に根付いた活動をという意味で天下統一。もう一つは、演奏会って、どうしても一回ホールに出向いてそのとき出会った人たちと演奏して、そのときに来てくださるお客さんに聴いていただいて、一回きりというのが多いんですけれども、室内楽っていうほんとうにフレキシブルな音楽の形態を利用することで、音楽をもっと身近に感じてもらって、作曲家、作品そのものに興味を持っていただくことで、音楽に興味を持ってもらうという活動そのものが、じわじわ浸透していく。それを岡崎発信でいろんなところに広めていって、行く行くは天かを取りたいというのが、アンサンブル天下統一の名前の由来です。
ほんとに少年のころから性格は知ってて、演奏もうまいなと知ってる。うまい人たちが6年前に結集したから、ほんとうに友達の方が先という感じ。何でも言うし、何でも受け入れるし、だからそれが楽だしおもしろい。
音楽に対してはすごくまじめで、だからみんなそれぞれの曲に対して思い入れか、あとは造詣の深さがあるんだけれども、やっぱり音楽というのは生き物だから、その時、その都度、同じ曲をやってもちょっとづつ違うんです。そのときにどれだけフレキシブル野中で音楽を一緒に作り上げられるかというときに、この3人は抜群に相性がいいです。だからみんなそのことがフレキシブルにできるし、イメージの共感をするのも速いし、でも各々のイメージは常にしっかり持っているから、そういう融合がおもしろいんじゃないかなと思う。
天下統一するというさっきのその自分たちがやってる活動をいろんな方に共有してもらうということが勿論目標ではあるんですけど、焦らずというか一つづつやっていることに共感してもらったり、自分たちが、今日みたいな来たことのない場所に来て、演奏会で多くの人々と出会って、つながりができて、またその信頼関係から次に演奏する機会があってと言うように一つづつ積み重ねていきたいので、
3
人でやることによって、3人でやる音楽の深みが好きだし、どんどん増えていけば。それでさらに生まれるものを探していけば、一人ひとりとか、それぞれえは活動しているんですけど、やはり3人いると全然違う。
何でも3という数字はいいこと、歴史のはなしでいけばね。3本の矢、毛利元就か。やっぱりそれでみんなで作って行って、100歳ぐらいで全国統一。

曲目
☆弦楽三重奏曲作品9 第3から 第一楽章 ベートーベン作曲
☆ディヴェルティメント K563  モーツァルト作曲

🎵ヴェルティメントK.563、これが第6楽章まである。これが「ジュピター」を作曲してすぐにまた作曲されており、無尽蔵の創作の泉にまたも! 

wikipedia:モーツァルトはディヴェルティメントと題した曲を20曲以上作曲しているが、弦楽三重奏の形態をとるものはこの変ホ長調K.563のみである。このK.5636つの楽章からなり「ディヴェルティメント」と題されてはいるが、ディヴェルティメントに特有の娯楽性を目的としたもののみならず、もっと高い音楽性を指向しているのが特徴である。室内楽曲としての書法としては弦楽四重奏からヴァイオリンを1本欠くため難しくなるが、各楽器を均等に扱いつつ精緻な作曲技法を施し、構成的にもしっかりしたものにすることにより、モーツァルト晩年らしい作品になっている。演奏技術的にも高いものを要求し、各楽器は時には協奏曲のような妙味も見せ、モーツァルトの他の弦楽四重奏曲などより難度は高い。

 

🎧名曲アルバムはニーノ・ロータの「ゴッド・ファーザー」
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⛳初の23時代の更新。あすのちょっとした発表のための資料作りに追われた一日となった。いつもなら真夜中、熟睡中。年に1度かの23時21分更新。そういえば壬生はおもちゃの街でもあるらしい。写真も載せたかったけれども、本日はここまで。

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210617 クラシック倶楽部を聴く ザ・ベース・ギャング コンサート

イタリア出身の4人のコントラバス奏者による驚異のアンサンブル。クラシックからジャズ、映画音楽、ロックまで名曲の数々を、巧みなアレンジとパフォーマンスでお届け!【曲目】フニクリ・フニクラ(デンツァ作曲)、モリコーネ・メドレー(モリコーネ作曲)、バードランド(ザヴィヌル作曲)、赤とんぼ(山田耕筰作曲)、恋(星野源作曲)ほか 2018年10月11日 京都コンサートホール アンサンブルホールムラタで収録―番組紹介よりー

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メンバーのコメント
アントニオ・シャンカレーポレ:来日するたびに日本人の心をとらえている曲を模索する。スキヤキ(上を向いて歩こう) 、赤とんぼなど。日本曲のいくつかはイタリアでも大成功をおさめている。
アンドレア・ピーギ :オーケストラで演奏するようになって35年。今も若い情熱を持ち続けています。もともとジャズやポップスを演奏しており、ずっと続けてきました。オーケストラ・コンサートの開演前や終演後に仲間と一緒にジャズやポップスを演奏するのです。
アルベルト・ボチーニ:コントラバスで4人は例がないだろう。第9はベートーベンに敬意を表しつつ革新的なリズムを前面にした。本質的な部分はすべて尊重した。
アメリーゴ・ベルナルディ:レパートリーは広くジャンルは多岐にわたる。編曲をしているアンドレアはクラシックにも精通している。

曲目
☆「20世フォックス・トレード・マーク・ファンファーレ」ニューマン:作曲
☆「黒猫・白猫」カライリチほか
☆「月影のナポリ」デ・フィリッピ
☆「フニクリ・フニクラ」デンツァ
☆「オー・ソレ・ミオ」ディ・カプア
☆「バートランド」サヴィヌル
☆「モリコーネ・メドレー」
 ウェスタン、続夕日のガンマン、ミッション、ニュー・シネマ・パラダイス
☆「ボラーレ」モドゥーニョ 
☆「ロックンロール No.9 」ベートーヴェン、進上広行・編曲
☆「赤とんぼ」山田耕筰
☆「恋」星野 源
☆「5×4メドレー」
 テイク・ファイブ、チャイコフスキー、ジーザス・スーパースターから
☆「ラテン・ベース・メドレー」
 1曲目、またも見落とし。2度あることは3度あるか。ブラジルの水彩画、南京豆売り、コーヒー・ルンバ、ティコ・ティコ、テキーラ、マシュケ・ナダ、ビリン・バウ 

🎵ベース・カルテットというものなのかどうかはわからない。ただ4人のベースはめずらしい。以前か同時期かにもう一つのグループがあったらしいが続かなかったようだ。このグループがいまだ活躍し続けている理由は、各々の個性が存分に生かされている、殊にもアメリーゴ・ベルナルディの存在、演奏中の突然の雄たけびに驚きもしたが、とにかく観客をぐいと引き込む。眠る者も起こされる。歌う。それも、演奏もそうだけれども、日本の歌をうたうにしても日本語でということもあるが、曲がよく咀嚼されている。ほかの3人も言葉は少なくともベーシストらしい大ぶりの楽器を抱え込んで低音を奏でる「らしさ」にも好感がもてる。選曲、編曲のよさもあるだろう。何れサービス精神あふれる演奏企画の練りがある。
 この大型楽器でのラテン・ベーメドレーは明るく、聴いているうちに、ああ、向こうの方々はテキーラをやりながらこんなに陽気に愉快にやっているかと思ったところに、何と「テキーラ」が鳴りだし、大きな声で「テキーラ!」と謳歌の声が。コントラバスはオケの傍らにいての底力と思っていたが、バスでの演奏は高音域でもむしろ小さな弦楽器よりも豊かな幅、空間を感じさせ広く空間を満たす。
 と、ここまでは前に書いたそのまま。
けさは換気のために戸を全開にしていたが、“咆哮”で思わず戸を閉じた。近所の方が事件でもあったかと驚かれては大変。それくらいの野性味と威力なのだ。第9のロック版、名曲は如何なる編曲、幾とおりもの替え歌をも包含し、且つ没個性とはならない凄さが。けさはラテンがすんなりと。明るく、こだわらず、軽やかに刻まれる「コーヒー・ルンバ」、「ティコ・ティコ」のリズムに反応。

 

🎧名曲アルバムは宮城道雄が14歳で作曲した「水の変態」。第一作にして代表作のみずみずしさ。清新さは!箏青木礼子、池田和花奈。宮城道雄記念館では

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⛳17時41分更新

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210616 クラシック倶楽部を聴く 新倉瞳 チェロ・リサイタル(無観客収録)

「自分のできる精一杯をやるしかない」新倉瞳が奏でるチェロの名曲集新型コロナ・ウイルス感染拡大による緊急事態宣言後、番組初の無観客中継収録 チェロ新倉瞳ピアノ梅村百合【曲目】白鳥(サン・サーンス)、シチリア舞曲、エレジー(フォーレ)、フランス組曲(プーランク)、ヴォカリーズ、チェロ・ソナタ第3楽章(ラフマニノフ)、ルーマニア民俗舞曲(バルトーク)【収録】2020年7月3日古賀政男音楽博物館けやきホール―番組紹介よりー

クラシック倶楽部の中継収録がおよそ4か月ぶりに行われる。ホールの設備や収録機材も除菌。ホールの扉を数か所開け、無観客収録。演奏者同士の距離もメジャーで測る。対面でなければ1.5m。中継車内の換気のため空調機器も増やす。車内に入るスタッフの人数も最少限に。リハーサルはマスク着用で演奏。1時間ごとの休憩、ホール内の換気と思いつくだけの対策が講じられての収録。

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新倉瞳:桐朋学園音楽大学卒業後、バーゼル音楽院修士課程を修了。2014年からスイスのカメラータ・チューリヒでソロ首席チェリストを務めるほか、歌舞伎とのコラボレーションなど幅広く活躍。
梅村百合桐朋女子高等学校音楽科、桐朋学園大学を経て、2010年同大学研究科を修了。

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新倉瞳のコメント
リサイタル・プログラムとしては数か月ぶり。帰ってきた、私も楽器も息を吹き返したような気がしました。とても長い時間をかけて用意してきているものを失ってしまうとどこに向けてモチベーションを持っていいのか、ほんとに私以外の皆さんも感じていたことだと思いますし、私自身も来年、再来年を見越して用意していたものとか、ちょっとずつ全部ずれてしまったのでどうしたものかな、というのはあったんですが、もう受け入れるしかないので。最初はどきどきそわそわしていたんですけれども、ある時からもう、力だめして、この期間だからできることをするしかないなと、わりと落ち着いたかなと思います。
 プログラムについては、プログラム順というとプーランクからなんですけど、こちらは16世紀の古い舞曲をもとにして、プーランクがマルコ王妃という方が主人公の、いってみればシアター音楽というので書かれたんですね。そういう古いものを新しい形で提供するということ、私自身はかなり自分のテーマにしているので、そういう意味でそのプーランクの思いがとてもリンクしたなと思って。もともとプーランク、好きだったんですけれども、またこの曲をお勉強するにあたって、またチャーミングなところを見つけられたかなあと思っていて、もっともっと弾いて掘り下げていきたい曲でもあります。
 ルーマニア民俗舞曲、この曲は大変有名な曲ですし、ピアノがオリジナルで、弦楽合奏だとかバイオリンにアレンジされてるものはたくさん弾かれていると思うんですけども、チェロで弾いてらっしゃる方が少ないということで、弾けないかなと思ってたんですが、実際バイオリンだとそこまで難しくないテクニックでも、チェロにした途端に大変で、けっこう大変になったんですけれども、私自身が音楽をするうえで、あまりチェロを弾いてるという意識ではやってないことに最近気づいたんですね。とにかく大好きなので、その思いとイメージがあれば音が出るであろうという思いがありまして、チェロだから止めておくというのには自分の中で封印をしたんです。だからそういう意味で、今回はプーランクとバルトーク、うまくつながらないようで、私の中ではリンクする部分があったので、選びました。
 きょう久しぶりにホールでぜいたくにリサイタル・プログラムを弾かせていただいて感じたことなんですけども、収録ではありましたが、生の音楽を弾いてる感覚が凄く大きくて、そういったときに勿論こまかいいろいろな自分的な反省点というのも限りなくあるんですけども、そう言った中でその時にしかできない、出てこない音色だとか色合いというものが、チェロという楽器は音程が取りにくいとかそういう事情があるんですが、それがゆえ、とても人間的に、声が近いとも言われますし思うんですけど、その感情の起伏に添っていると思いますし、それが、勿論聴いてくださいとオープンにバーンといくところもあるんですけども、内側に音楽を感じられるというか、そういう意味ではチェロという楽器は特別に人の精神的な部分に近い楽器なのかなあというのは、きょうその音が空気に乗って振動して届くときに感じました。何ともいえないわからない事ばかりですし、今はインターネットだったりSNSがほんとうに盛んになっている世の中なので、知っていただくきっかけだとか、何か興味を持つきっかけというのは、もしかしたら今までよりもチャンスが増えるんじゃないかなと思うんですけど、ただ、それがやっぱり説得力が無かったり魅力が無かったりしたら、かえって興味を持っていただけないことになってしまうと思うので、そういう意味ではもう全く変わらず自分のできる精一杯をやるしかないんじゃないかなと思っていて、特に私はいろんなことに興味が湧いてしまう人間なのですけれども、この機会によく自分と対話をしていくと結局はその音楽オタクといいますか、結局そういうものが好きでそこを突き詰めていく職人的な気質を今後も大事にしたいなと思いました。

曲目
白鳥       サン・サーンス作曲
シチリア舞曲   フォーレ作曲
エレジー     フォーレ
フランス組曲   プーランク作曲
ヴォカリーズ   ラフマニノフ作曲
チェロ・ソナタ 第3楽章   ラフマニノフ作曲
ルーマニア民俗舞曲   バルトーク作曲

 

      

🎵たとえ12年、或いは3年前の収録であってもいいものは良い、何回でもと思って毎回聴きながら、しかし、次の週録はいつ頃になるのだろうと思っていたが、今回の収録現場のスタッフの様子も含めての映像に、その大変さを納得。新倉がサーキュレーターの間近にチェロを寄せていたが、ドアの開閉のたびに湿気も室内に流れ込むらしく、楽器は湿気に弱いので風に当てているのだとか。ピアノを調弦するところも久方ぶりに目にして、コンサートが始まる前もコンサートだという感じが。
 ルーマニア民俗舞曲、バルトークが特に興味深かった。鮮烈さ、また踊る人々の間に立ち上る土埃、湧き立つ陽気さすべてが地にしっかりと繋がっているかの力強さ。たまにバルトークが聴きたくなったのはいつごろからだったろう。

🎧名曲アルバムはラフマニノフの「パガニーニの主題による狂詩曲」。ピアノは江口玲。現田&東京フィル。

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ラフマニノフの死の床での一言は「もうこれで手がだめになる」。

⛳きのうは雷鳴、強風。いまも風が鳴っている。11時18分更新

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210615 クラシック倶楽部を聴く エマニュエル・チェクナヴォリアン バイオリン・リサイタル

1995年生まれ。7歳でオーケストラとデビューを果たす。2015年シベリウス国際コンで第2位を受賞。ゲヴァントハウス管やサンクトペテルブルク・フィルなど共演多数【収録】2019年12月1日 ハクジュホール で収録―番組紹介よりー

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エマニュエル・チェクナヴォリアン1995年、指揮者の父とピアニストの母を両親に持つウィーンの音楽一家に生まれ、アルメニアに育つ。5歳でバイオリンを始め、7歳でオーケストラデビュー。2015年シベリウス国際ヴァイオリン・コンクールで第2位及び、ベスト・シベリウス演奏賞を受賞。使用楽器は、ベアーズ国際ヴァイリン協会から貸与された1698年製ストラディヴァリウス。
マリオ・ヘリング(ピアノ)1989年ハノーファー生まれ。いずれもヴァイオリニストの両親は、父がドイツ人、母が日本人である。3歳からピアノを始める。2018年リーズ国際ピアノコンクールで第2位及びヤルタ・メニューイン賞受賞。

チェクナヴォリアンのコメント
ウィーンには日本の芸術家がたくさんいて、日本はまったく知らない国ではありませんでした。アルメニアでは父の助手が日本人でしたから、幼い時から日本はとても身近な存在でした。今回は日本で初めてのリサイタルなのでドイツやオーストリアを代表する作品でまとめました。
シューベルトは生粋のウィーン人です。きょうは二人のウィーンの作曲家で締めくくられます。この「華麗なるロンド」はあまりシューベルトらしくない作品です。シューベルトは歌曲、ピアノ・ソナタの作曲家として有名ですが、この曲は全く彼らしくない。ものすごく技巧的で歌曲のようなところもありますが、どこか「悪魔的」です。ピアノもバイオリンも非常に難しい最晩年の作品ですが、最後に突拍子もないものを書いてしまった感じ。演奏可能かどうかを考えずに湧き上がる音楽をそのまま書いたかのようです。でもすばらしい曲です。

 

曲目
☆ヴァイオリン・ソナタ 第5番 ヘ長調 Op.24「春」 (ベートーヴェン)
☆ウィーン風狂想的幻想曲 (クライスラー)
バイオリニストとして著名なクライスラーが、70歳を超えた1948年に作曲した作品。幻想的でゆったりとした序奏の後にウィンナ・ワルツ風の音楽が続く。
☆華麗なるロンド ロ短調 D895 (シューベルト)
シューベルトがこの世を去る2年前1826年に作曲された曲。10分を超える作品で、チェコのバイオリニストヨーゼフ・スラヴィークに捧げられた。アンダンテの序奏の後に情熱的なアレグロのロンドが続く。
☆アンコールは愛の喜び(クライスラー)

🎵「ウィーン風狂騒的幻想曲」、何とクライスラー70歳で作曲。出だしは玄妙、あとはゆったりと黄昏時を楽しんでいるような、鼻歌が聞えてきそうなところも。昔語りを夢の中に懐かしみ、むせぶように追憶をにれ食んでいるようなところに共感。聴く側の自らもそろそろというか、すでにというか、骨董品なのだ。
 クライスラーはシェークスピア、当時一世を風靡した歌手カルーソーと並んで大いに 迎えられた自らの人生に満足であったのでは。「華麗なロンド」をチェクナヴォリアンは「シューベルトの歌曲、ピアノ・ソナタの作曲からは彼らしくない作品であると。突拍子もなく考えもせずに湧きあがるがままに書かれている」とコメント。譜面の上ではいかに破天荒でも。これが言葉で表した場合には難儀なことになることも。アンコールの「愛の喜び」、この曲を当時の人々はどれほどに待ち望んだことか。
 私は70歳まで生きられればと思っていたが、クライスラーは70でこんな作曲を作っている。単純でもいいから賛美歌の一つも作曲して譜面に残したいと思うのだけれども。

 

🎧名曲アルバムは「ハワイアン・ウェディング・ソング」C.E.キング作曲/田村玄一・編曲(演奏)Lagoon ~映像アメリカ・ハワイ~

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⛳けさ4時ごろは街ぜんたいが霧に覆われていたけれども、東の明るみがまたたまに霧を払って明るく。久方ぶりに7時前、6時53分更新

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0614 クラシック倶楽部を聴く オーレン・シェヴリン チェロ・リサイタル 

オーレン・シェヴリンはイギリス生まれ。2001年ロストロポーヴィチ国際コン第2位。ケルンWDR交響楽団の首席チェロ奏者。ソロ活動を積極的に行いヘルシンキ・フィルやパリ管弦楽団などと共演している。室内楽でもシェヴリン・トリオを率いる。ピアノの芦川真理子は、東京芸術大学で学んだ後、ケルン音楽大学に留学。国家演奏家試験に合格。チャイコフスキー国際コンで最優秀伴奏者賞を受賞。ヨーロッパ中心に活動。【演奏】オーレン・シェヴリン(チェロ)、芦川真理子(ピアノ)【曲目】民謡風の小品集(シューマン)、ル・グラン・タンゴ(アソラ)ほか【収録】2021年3月1日武蔵野野市民文化会館―番組紹介よりー

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曲目
民謡風の小品集 作品102  シューマン作曲
1849
年シューマンがドレスデンで創作活動をしていた時期にわずか数日間で完成させた。
チェリストのグラーバウのために作曲されたが現在はさまざまな楽器で演奏されている。
☆チェロ・ソナタ第一番 ホ短調 作品38 ブラームス作曲
ブラームスは生涯に2曲のチェロ・ソナタを残した。第一番は186532歳のときに完成。3つの楽章すべてが短調で書かれ、全体を通してチェロの低い音域が際立った重厚な雰囲気を持つ。
ル・グラン・タンゴ  ピアソラ作曲
アルゼンチンの作曲家でバンドネオン奏者のピアソラが1982年チェロの巨匠ロストロポーヴィチのために作曲した。ピアソラは当時「ピアノのパートは綿密なタンゴの語法で書いた」と語っていたという。

🎵ル・グラン・タンゴ、1頁、1場面切り開かれていくような音色の心地よさ。


🎧名曲アルバムはショパンの「雨だれ」。ピアノはイリーナ・メジューイワ

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スペイン、マヨルカ島の修道院に滞在したこのとき、肺結核が深刻化して尚、断ちがたかったショパンの音楽的野望が何であったかはこちら

⛳22時02分更新

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きょうのことば 『主イエスを見上げよう』 

インマヌエル盛岡キリスト教会20210606()の礼拝メッセージをおつたえいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で48年目のご奉仕をしておられます。

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説教題 『主イエスを見上げよう』  (國光勝美 牧師)
聖書箇所 新約聖書 ヘブル人への手紙1212

12:1こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。 12:2信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。

 

<お話し>

 きょうは「主イエスを見上げよう」、このテーマでメッセージを導かれております。


ヘブル人への手紙12章の特に注目したいのは2節のおことばです。

12:2信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。

 イエス様が私たちの信仰の創始者であって下さる。イエス様が私たちの信仰の完成者であってくださる。つまり私たちクリスチャン信仰の始めから終わりまで、主イエス様を見上げるところから離れては何もない。私たちがクリスチャンになったのは、主イエス様の十字架の贖いの恵みを、私たちが信仰の眼をもって仰ぎ続け、そして、私たちがこの許された地上生涯を終えて、「今日汝は我と偕(とも)にパラダイスに在るべし」と仰ってくださるこのお方のもとに天がけるとき、信仰の始めであり信仰の完成者であるイエス様から目を離さないで、ずっと見続けていましょう。歩み続けて行きましょう。これがきょうの私の与えられているメッセージであります。

 このきっかけとなりましたのは、すでにお話ししました「偉大な岩の顔」でした。アーネストという主人公が待っている。小さな村の川の崖に、崇高な人の顔に見える岩がある。これに似た顔をした人がきっといつかやってくる。この村に現れるのだ。少年アーネストはやがて青年となり、すでに老年を迎えています。
 私はこの話を教科書で学んだのですが、小学校なのか中学校なのか忘れてしまいました。また是非読んでみたいと思っておりますが。原文は読んでいませんので、それをまとめたものを読んだそこからの恵みということでありますが。

 「大いなる岩の顔」で検索しますと、色々な画像が出てきます。英語でナサニエル・ホーソンの 「The Great Stone Face」と検索したところ、またいろいろな写真がありました。ホーソン作。アーネストという主人公のように、この村出身のこの岩の顔に似た人がやがて現れることを待ち続けている。
 実は「大いなる岩の顔」の評論では、老齢になったアーネストが、人々から請われてお話をしているとき、やってきた有名な詩人がアーネストを指して、「見よ、今私たちに話している彼こそ、あの岩の顔その人ではないか」、日々見続けながら老齢になったアーネストがまさにその預言の人であったという締めくくりがある。一方、その後の続きもあった。詩人が「見よ、この人こそが」と言ったとき、アーネストは「いや私ではない、私はやがて来るその人を待っているのだ」と去っていったという締めくくりもありました。私じゃない、最後に必ず現れる」というそれを聞いたときに、ああ私は、いや私はというよりも私たち一人ひとりはイエス様というお方に目を留めて、そして私たちの生涯を締めくくり天がけるときに、このお方に従って歩んだ者として、いや、私は、このお方を見上げてひたすら歩んでいる一介の者にしか過ぎないという、そのような生涯を歩みたい。アーネストの生き方を、私達クリスチャンとイエス様と置き換えたとき、

信仰の導き手またこれを全うする者なるイエスを仰ぎ見るべし。

というヘブル122のおことばが深く心にとどまりました。

 

 私たちの目指すべき信仰者であられるイエス様御自身が、人としてこの世においでくださった。このイエス様が持っておられる信仰。先ほど申しましたこととすこしアクセントが、或いは見方が異なるでしょうけれども、先ほどは、私自身が、或いはアーネストが、というところを思いめぐらしたのですけれども、このお聖言を思うときに、イエス様ご自身が一人の信仰者として、その模範的な始まりであり、そして締めくくりでもあって下さる。イエス様ご自身がまさに信仰の創始者であり完成者なのだ、というように味わうことができる。そうした時に、ピリピの2章の6節~8節、

6キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、7ご自分を空しくしてしもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、8自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。

 イエス様はほんとうに遜って私たちと同じようになって、父なる神様の御想いを成就するために死にまで、十字架の死にまで従われたことに、私たちのまさに模範とする信仰の創始者であるこのお方に、倣うようにと教えている。なるほどという思いがいたします。

信仰の完成者としてのイエス様、同じくピリピの聖言にありますけれども、そのような十字架の死にまで従われたお方。

9それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。10それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、11全ての舌が、「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。

 泥の中から引きあげられたものが、キリストの作品と作り変えられて、そして、そのお方に従って形作られていくときに、イエス・キリストは主です。すべてのものが従う。このように告白をして、父なる神がほめたたえられる。私たちの存在を通して、そのようなあり方、信仰生活を送りたいものと心から願う事です。

 主イエス様のあり方、つまり信仰の創始者であり完成者であるという私たちの模範としての主イエス様のあり方はどうだったでしょうか。神の御子なのだから、罪のないお方が人となって下さったそのお方が完全な信仰のあり方をするのは当然と考え、そして、弱さや、足りなさのいっぱいある私たちには、そんなイエス様が歩まれたような信仰生活はできないのが当然じゃないか。しかし、このカギとなる聖言があります。

キリストは御子であられるのに、お受けになったさまざまな苦しみによって従順を学ばれた。

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 このイエス様が従順を学ばれたとヘブル書にあることに、私たちは目を留めたいと思うのです。イエス様は御子であられるのに、お受けになったさまざまな苦しみのゆえに従順を学ばれている。イエス様だから、もう何もせずして理想的な信仰者であるのではない。ならば、私たちは誠実をもって努力精進するのがこのお方に倣う事なんでしょうか。これは、しばしば私たちが陥る罠です。これはガラテヤ書の33節、

あなた方は、そんなにもおろかなのですか。御霊によって始まったあなた方が、今肉によって完成されるというのですか。

 どうかこのお聖言を思い起こして頂きたいのです。私たちが御救いに与ったのは信仰によるのですよね。信仰によるのにも関わらず、ああイエス様のようになりたい、一生懸命に頑張ってイエス様のようになりたいと努力、精進していくことが、イエスを見上げていくということなのかというと、そうではない。御霊によって歩む、これは主イエス様を見上げる心の営みです。御霊によって歩む。アーメン。そうです。日々の歩みの中にイエス様を見上げる心の営み。これこそが信仰による歩みであって、それこそ御霊の実としての私たちのあり方なんです。繰り返すようですが、頑張ってイエス様のようになろうなろうなろうといって自らを励ます生き方は、パウロにすれば

「ああ愚かなるガラテヤ人よ、信仰によって始まったものを掟によって全うしようとするのか」

 そうじゃない。御霊によって生まれたのだから、御霊に聞き従う。御霊をいつでも心の中に仰ぎながらこのお方に従って行くというこの信仰の歩みによっていつの間にか御霊の実としてキリストの品性が私達に形作られてくるのです。この違い。私たちはしばしば真面目さのゆえに陥ってしまう失敗です。そして私はその聖潔(きよめ)ということ、このアーネストのたとえではありませんが、あのような、あの岩の顔のような人になりたい。というとき、聖潔は私たちが目指している、或いは私たちが歩んでいる聖潔というものは、円満さに現れるということを申し上げたいのです。 

 皆さんは落語はお好きでしょうか。楽しいですよね、落語は。その演目の中に「堪忍」という噺がある。出てくるのは長屋の八っつぁん、熊さんでしたでしょうか。一人が「堪忍とは何ですか」と訊く。すると一人が「成らぬ堪忍するが堪忍」(我慢できないことをこらえるのが、本当の忍耐というものである)。これは人と人の間のだいじな品性であると付け加える。「堪忍するというこの二文字がだいじなんだ、分かったか?」。それが向こうはなかなか物わかりが悪い。「堪忍っていま二文字だと言ったけど、4文字じゃないですか」。いや「堪忍は二文字じゃ」。「だって、か・ん・に・ん、って4文字でしょう」。「堪忍と書いて堪えて忍ぶ、これが堪忍じゃ。この簡単なことがわからぬのか」と相手の頭をぽこんと叩いてしまった。ああ、これは堪忍じゃないなとオチがつく。ある和尚の「堪忍の二字か四字かは知らねどもこらえしのぶぞまことなりけり」という歌もあります。「堪忍が大切だ、それがわからぬか」と頭をぽかんと殴ってしまう。自分が説教をしていながら実はその本人がわかっていないというわけなのですが。

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 クリスチャン生活でいうなら、これは聖潔(きよめ)の問題であり、これは実生活に証しされなければならないのです。今「堪忍」をお話ししましたけれども、私たちの日頃の生活の中で、このことがどのように証しされていくか。つい「この馬鹿もん」と頭をこつんと叩いてしまうような、そういう生き方、これは聖潔を説く私自身の問題として、私自身の心の問題としても、しっかり心に留めなければならない、このように思います。 

 ここですでに天に召されて久しいS兄を思い出します。S兄は囲碁が好きだった。強かったのです。このS兄を何かの機会にクルマでご自宅にお送りしたことがあります。そのときの雑談ですが。私が「碁はどこで始まったんでしょうか」と訊くと、「中国からです」とそれは詳しく説明くださいました。「碁をなさいますよね」と訊いたときに仰ったことは、S兄は碁が好きで、それはもう強かった。ライバルがいて、彼にだけは絶対負けたくなかった。それが負けてしまった。その負けたときの悔しさ。碁石を盤に投げつけたいほどカーッとなった。そのとき、S兄は、自分の中にこんな怒りがあるということに気が付いた。怒りは人を殺す。それに気づいて私は碁を止めましたと仰った。

 それと前後する私の思い出です。NHKで大阪弁で話すアナウンサーのインタビュー番組があった。工藤棋士がタイトルを取ったときでしたか、そのインタビューにこう話していました。「わたしも子供の時から将棋が好きで、親父とやるんですよ。ほんとにコテンパにやられると、子どもながら手がぷるぷると震えて涙が出て、ほんとに悔しい」と。そのときに久保さんが言っていました。「そうなんです。囲碁であれば陣地が一目か二目少ないだけでいい線まで行ったと目に見えてわかるんだけども、将棋の場合には首を取られてしまうような誰が見ても負けという状態になる。しかもそのときに、相手に『負けました』と言わないと投了にならない。負けた相手に『負けました』と頭を下げるあの屈辱感、それは激しいものです」と。そうかなと思いました。

 

 先ほどのS兄の話になりますが、S兄、「私はそれに気づいて碁を止めました。自分の心の中にこんな醜いものがあると気がつかなかった」。S兄のそこに学ぶ謙虚さ、光に従う柔和さが思われます。

キリストは御子であられるのに、お受けになったさまざまな苦しみによって従順を学ばれた。

 イエス様が学ぶって、いったい何を学ばれたのだろうか。イエス様とご兄弟の関係を考えてみるとき、ヨハネの福音書を見ますと、兄弟たちはイエス様を信じていなかった。だから兄弟関係でも、イエス様はずいぶんと辛いところをお通りになったろうと思います。パウロとペテロの関係、パウロとマルコの関係、パウロとバルナバの関係、あの素晴らしい信仰の器たちが人間関係でけっこう辛い思いをしている。イエス様にしてそうなんです。絶えず学び続ける謙虚さ。光に従う柔和さ。絶えず主イエスを見上げ続ける。私はここに聖潔(きよめ)の証人としての姿があるように思うのです。私たちはこのキリストの円満さを慕い求めながら、この聖潔(きよめ)の道をともに歩ませていただきたいと心から願うことであります。

 

 

※音声データ、画像は教会からお借りしています。
⏰5,328字、6時15分更新

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あれこれ

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一通りは聴いた今朝。

ここのところの強風によく耐えて咲いてくれたロベリアとナスタチウム。

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⛳22時32分更新

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21611 クラシック倶楽部を聴く  ホアキン・アチュカロ ピアノ・リサイタル 

1932年スペイン・ビルバオ生まれのピアニスト、ホアキン・アチュカロ。86歳の巨匠による、モンポウ、ファリャを集めたスペイン・プログラムのコンサートから。20191月武蔵野市民文化会館―番組紹介よりー

ホアキン・アチュカロは1932年スペイン生まれ。1959年にイギリスのリバプール国際コンクールで優勝したのち国際的に活躍。これまでに200を超えるオーケストラと共演。また長年による音楽活動の功績が認められ、祖国スペインで数々の芸術賞を受賞している。スペインの作曲家紹介を使命ともしているアチュカロ、まだまだコンサート活動は続く予感が。

https://www.nhk.jp/p/c-club/ts/6N5K88R4Q5/episode/te/WLVZK28729/

☆スペイン小曲集 第一曲アラゴネーズ(フャリャ作曲)
☆ドビュッシーの墓に捧げる賛歌(モンポウ作曲)
☆前奏曲第10番 ショパンの主題による変奏曲(モンポウ作曲)
☆歌と踊り第6番(モンポウ作曲)
☆ショパンの主題による変奏曲(モンポウ作曲)

🎵ホアキン・アチュカロ、ことしは89歳に。これまでに200を超えるオケ、350人を超える指揮者との公演、その他、華々しい幾多の名誉を受けていることを知れば、番組のプログラムを聴いただけで云々できるものではない。前回観たときには、結構な齢でこれだけの演奏がと感心したところまでであったが、改めて、この年齢まで演奏を続けられる方の内には、びっしりと華々しい演奏歴が詰まっていることを知らされる。「ぶらあぼ」で「繊細に織り上げてゆく音のショール。たおやかな手触りと静かな情熱を伴って、私たちの心を優しく包み込み、温めてくれるだろう」評される。

🎧名曲アルバムはベートーヴェン「交響曲 第6番田園」(管弦楽)東京フィルハーモニー交響楽団,(指揮)大友直人 ~映像ドイツ・ボン、オーストリア・ハイリゲンシュタット~

萩谷由喜子著「宮澤賢治の聴いたクラシックレコード」によれば、詩「小岩井農場」はこの「田園」の手法と同じであるとか。この詩の特徴は一部の各行の頭が少しずつずらされて表記されているが、そのうねりを持つ曲線は、五線譜に記された音楽作品の横の流れを思わせ、スコアを読むような感覚を読み手に抱かせるという。

 

⛳写真データは誤って消失。慌てて作業をした結果だ。写真は番組のHPから。21時20分更新

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210610 クラシック倶楽部を聴く イノン・バルナタン ピアノ・リサイタル

1979年イスラエル・テルアビブ生まれのピアニスト、イノン・バルナタンの演奏会からおおくりする。ピアノの巨匠レオン・フライシャーの薫陶を受け、現在はニューヨークを拠点に活動するバルナタン。圧倒的なテクニックを誇るが、シューベルトの後期ソナタの録音、室内楽奏者としての数々の演奏など、深い知性による多面的な活動が注目を集めている。トッパンホールのリサイタルシリーズ「異才たちのピアニズム」から。―番組紹介よりー

 

イノン・バルナタン
1979
年イスラエルのテルアビブ生まれ。3歳でピアノを始め11歳でオ-ケストラと共演しデビュー。ロンドンの王立音楽院でクリストファー・エルトンに師事。これまでにニューヨーク・フィルハモニックやベルリン・ドイツ交響楽団など世界有数のオーケストラと共演。指揮者アラン・ギルバートはバルナタンの洗練された緻密な音楽を高く評価。2009年には優れた若手音楽家に送られるエイヴリー・フィッシャー・キャリア賞受賞。




コメント
私はピアノが持つ無限の可能性に驚いています。あらゆる楽器で演奏される音はすべてピアノで再現することができます。
作曲家と演奏家の違いは、演奏家は音楽の中で「役」を演じます。役者は脚本の中に生きる登場人物とその世界について思考しなければなりません。演奏家はどのように演奏するのかだけではなく、作品の世界観、目的、意図を創造するのです。演奏家としてピアノを弾くことは俳優が役を演じることと似ています。
「目に見える暗闇」アデスはジョン・ダウランドが1610年に書いた歌曲。「暗闇に住まわせておくれ」を素材にしました。音符もリズムも変えていませんが、原曲の構築を破壊しました。原曲の音符はあらゆる所で音域を変えて出現します。私はアデスの音楽を夢を見ているような感覚で聴いています。夢の中で感じるような微妙で不思議な違和感を覚えるのです。なぜ500600年前の曲を用いて現代的な作品を生み出せるのかと驚いています。終盤はダウランドの音楽を直接引用しています。しかし古典の音楽が新たな作品として聞えるように書かれているのです。

 

曲目

「ベルガマスク組曲」ドビュッシー:作曲
「目に見える暗闇」トマス・アデス:作曲
「夜のガスパール」ラヴェル:作曲

🎵バルナタン、けさ、演奏を聴いていて、水の動き、輝き繊細さといった描写をほんとうに瑞々しく弾いてくれると思った。
「目に見える暗闇」では、闇の奥にある静寂を手探りしまるで糸巻機で巻き取るように、人差し指と親指で絡め取ってでもいるような響きが印象的。出だしで、音の配列、間合いによってこうも意表を憑く描出がされるものかと。トマス・アデス、「ぶらあぼ」では「その音楽は多彩な声部や音色がシスティマティックに管理されつつ輝きを放ち、まるで現代における情報網を音にして聴かせるような趣きさえ感じられるものだ」。これはいわく言い難いところをしっかりと言葉にしてくれている。原曲は1610年に書かれた歌曲「暗闇に住まわせておくれ」。バルナタンのコメントにあるけれども500600年前の曲で現代曲が書けるのが不思議。後に作曲家たちの心を強く捉える優れた古の旋律がどこですがたを現わすかおもしろいところ。トマス・アデスはポスト・モダン。この曲は、1992年にアデス自身がブダペストで初演している。私にしてもドヴォルザーク、ベートーベンに満足しながらも、音楽番組に向かうと、常に、まだ聴いたことのない斬新で奇抜で、奇想天外な音を待っている自分がある。
 「夜のガスパール」、第一曲、感情の上り下りをアルペジオに聴く。オンデーヌが笑ったところはここかな、などと物語の内容を追うゆとりはここではあるのだが、第2曲は、「絞首台」というショッキングなタイトルが、曲に釘付けにする。重々しいテンポに、深淵に引き込まれてゆくような雰囲気は読み取るのだが、死体がさらされているような感覚にまではならない。第3曲、リストの「メフィスト・ワルツ」第一番からの着想、これが下敷きになっているらしい。難易度の高い指運びは、この曲の一つの特徴でもあるようで、終始運指に目を凝らしてしまった。曲を理解しようとするうちに、作曲者の野心がみっちりと詰め込まれている凄さがぐいんと刻まれた。

🎧名曲アルバムはリスト作曲「ハンガリー狂詩曲 第2番」(管弦楽)NHK交響楽団,(指揮)手塚幸紀 ~映像ハンガリー・ホルトバージ~番組紹介よりー

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⛳けさは何と目を覚ましたのは5時55分。聴いたのは名曲アルバムだけとなり、クラシック倶楽部の書き込みは以前に聴いた書き込みの転載です。暑い1日でした。21時06分更新

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210609 クラシック倶楽部を聴く クリスティアン・ベザイデンホウト フォルテピアノ・リサイタル

フォルテピアノの名手、クリスティアン・ベザイデンホウトのリサイタルから。平均律ではなく、古典調律でチューニングされた楽器によるモーツァルトのソナタをお送りする。―番組紹介よりー

クリスティアン・ベザイデンホウト
1979年、南アフリカ生まれ。イーストマン音楽院を最優秀の成績で卒業し、チェンバロ、フォルテピアノ、通奏低音を学びつつ、欧米各地でバロック・オペラ公演の通奏低音奏者として経験を積む。21歳でブルージュ国際古楽コンクール(2001)の第1位と聴衆賞を獲得、今日では世界の主要アンサンブルから頻繁に招かれており、ブリュッヘン、ホグウッド、ケラス、ムローヴァなど著名アーティストとの共演や音楽祭への出演も多数。09年からハルモニアムンディと長期的な録音プロジェクトを継続中。

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コメント(途中から)
(
フォルテピアノは)上品できめ細やかでハープシコードのようにとても精密な一方、歌うように叙情的で美しく、モーツァルトの音楽にとても寄り添っています。モーツァルトはもともとハープシコードの名手でした。彼の原点はハープシコードにあります。そして1770年前後にこのフォルテピアノに出会いました。そしてこの楽器から彼にとって最も重要な作品が生まれるのです。それがピアノ協奏曲やピアノ・ソナタです。私はフォルテピアノに出会った瞬間、この楽器がモーツアルトの音楽を音楽を理解する鍵だと確信しました。今でも信じてやみません。
 モーツァルトの作品は深く考えずに聴くと当たり障りのない音楽に聴こえるかもしれません。高級ホテルのエレベーターで聴くようなね。それはとても退屈です。18世紀の音楽は表面上は驚くほど優雅ですが、その奥底には強烈にうごめくエネルギーに満ちた小宇宙が存在していると感じます。全身でそれを感じて演奏しなくてはいけないのです。私はこの楽器を通してやっと本当のモーツァルトに出会えたと感じました。彼の音楽と人間性はとても賢く文学的で洗練されたユーモアにあふれています。きょうのようなピアノ・ソナタだけのプログラムは一見退屈そうに見えるでしょう。しかしモーツァルトの曲はそれぞれがまったく違う劇場のような世界なのです。私はモーツァルトの音楽に歌舞伎の世界を感じています。歌舞伎は一つの「見得」に、信じられないほどの力強さを感じられます。観客はそんな「見得」にこめられた役者の熟練の技に魅了されるのです。モーツァルトの音楽も一つの小さな動作に劇的な力が込められています。それを意識して聴くと彼の音楽は本当に力強く心が震えるのです。

曲目
「ピアノ・ソナタ ヘ長調 K.332
「ピアノ・ソナタ 変ロ長調 K.281 から 第2楽章、第3楽章」
「ピアノ・ソナタ ハ短調 K.457」

 

🎵 モダンピアノ、チェンバロ、フォルテピアノに関してボツボツと聴き逃し、王子ホールの頁を開いてみたが、
「チェンバロがアーティキュレーションやアゴーギクやニュアンスをいかに大切にしているかを知ったことは、大きな衝撃でした――スタインウェイに代表されるモダンピアノには音色やダイナミクスという面で大きな可能性がありますが、表現力豊かなチェンバロ演奏に不可決なアーティキュレーションへの飽くなきこだわりのようなものは見られません。その反対に、継続してスタインウェイを弾いてきたことでリリカルで心を揺さぶる演奏を志すにあたっての基礎ができましたし、こういったことすべてがフォルテピアノの演奏でも役立っているのです。フォルテピアノというと、チェンバロの後継者という歴史的な位置づけのことばかりが頭にある人が多く、音色の変化、トーンやテクスチュアの多彩さといった無限の可能性がまだまだ認知されていないような気がします。」とあった。
 番xx組では、ベザイデンホウト、フォルテピアノはチェンバロとモダンの間にあって、上品さ、きめこまやかさ、歌うような抒情性があると語っていたが、私がこれに気づかされたのは、ここのところのクラッシク倶楽部のフォルテピアノ演奏のお蔭。それまでは、フォルテピアノを聴きもせずに未開の楽器としか区分していなかった。
 ベザイデンホウトが、モーツァルトの音の説明に歌舞伎の見得を引いたことで、一音一音をまたモーツァルトの才能に驚きをもって新鮮に聴くことができた。あまり賛辞を呈すると、逆に価値を貶めるのではないかと恐れもするのだが、このような音楽家たちの感性にはやはり見得を切られたときような注意、意識を喚起される。

 

🎧名曲アルバムは

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⛳きょうはもう書きかねるかなと思ったが、「モーツァルトの曲はそれぞれがまったく違う劇場のような世界」を思い出し、もうちょっとひと頑張りと21時36分更新。

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210608 クラシック倶楽部を聴く 長野県軽井沢町公開収録~佐藤卓史(さとうたかし) ピアノ・リサイタル

気鋭のピアニスト佐藤卓史による軽井沢公開収録から。全曲演奏を手がけるシューベルトの名作や、幻想即興曲などショパンの名曲を熱演。

秋田市出身。ドイツ、オーストリアで研鑽を積み、2007年シューベルト国際ピアノコンクール第一位。数多くの国際コンクールで優勝。2014年にはシューベルトの関連器楽曲全曲を演奏する「佐藤卓史シューベルトチクルス」を開始。2030年に完結する予定。

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コメント
ピアノ曲としては、やはりテクニックとしてはそんなに、シューベルト自身がピアノがヴィルトオーソで弾ける人じゃなかったので、とても派手な曲というのはあまりないんですけれども、その中で内面へのアプローチみたいなものがシンプルな手法で書かれているのが魅力的なところかなと思います。
 私はピアニストとしていろんな作曲家の作品に取り込むときに、自分がもしこの人だったら、ここまで書いたらこの後どう書くかなと音楽の分岐点みたいなこと思うんです。そうすると、たいてい、私と違う道に行くわけなんです。シューベルトに関しては、そういうものがほとんどなくてですね、私が思った通りの方向に行くんです。私がもしこれを思いついたら、シューベルトほど天才的ではないので、このフレーズ思いつかないけれども、思いついたとしたらこれ書いただろうなというふうなところに行ってくれるので、そういう意味ではほんとうに不思議なというか、こう感覚の近さみたいなものを特別に感じる作曲家ではあるんです。
 ショパンも実は私はレパートリーとして非常に大事に思っている作曲家で、学生時代からたくさん取り組んできたんですけれども、20歳に弾いていたときとはだんだん意識が変わって来て、やはりピアノの作曲家、ピアノの詩人なんて言われて、ほとんどピアノ曲を書いた人ですけれども、その曲の中にすごくオーケストラ的な発想だとか、弦楽器的発想だとか、或いは声楽的な発想もあって、どんどんそれがピアノじゃない音として聞えてくるようになったんですね。で、最近また改めてショパンの曲に取組んでみて、今自分がどのようなものを新しく見出せるかなと思うんです。私自身の挑戦として演奏して聴いていただきたいということで選びました。

曲目
「楽興の時 D.780」シューベルト:作曲
「幻想即興曲 嬰ハ短調 作品66」ショパン:作曲
「舟歌 嬰ヘ長調 作品60」ショパン:作曲
「ポロネーズ 変イ長調 作品53「英雄」」ショパン:作曲

 

🎵「楽興の時」、コメントを参考に聴き耳をたて、たしかに12は自分の心の内を逍遥していると聴こえ、また自己愛的な旋律でもあると感じられた。有名な3で外へと踏み出し気分を変えてくれ4で事物、人との関りが彷彿と。6のところでまた内省にもどり足元を確認しながら歩を進めながら、自分の内に静かに止まり終えたという感じが。
 「幻想即興曲 嬰ハ短調 作品66」、ショパンによる4つの即興曲のうち一番早く作曲されたが、生前は出版されず、死後遺作として発表されたとか。右手で16分音符、左手で6連符異なるリズムがぶつかり合う主部が印象的との番組解説。好きな曲の一つだ。心の内が危うからず波立つ。
 

🎧名曲アルバム、これが宮城道雄の「水の変態」。箏本手:青木礼子、箏替手:池田和花奈。
「春の海」で知られる箏曲家・宮城道雄が14歳で挑んだ第一作。生涯をかけて箏曲の革新に挑み続けた道雄の原点というべき一曲を清らかな水の情景とともにお届けする。―番組紹介よりー
 近代を代表する筝曲家。明治42年の作曲。生涯にわたり「春の海」「瀬音」「泉」など水を主題とする作品を多く世に出している。

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感動。

 

⛳終日、家をくぐり抜ける風が心地よい。20時31分

 

 

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210607 クラシック倶楽部を聴く 角野隼斗 Beethoven Chopin Sumino

1995年生まれ。3歳からピアノを始める。2018年東京大学大学院在学中にピティナピアノコンペティション特級グランプリ受賞。19年リヨン国際コンで第3位を受賞。

東京大学大学院修了。20189月から半年間フランス音響音楽研究所(IRCAM)で音楽情報処理の研究に従事。20203月東京大学大学院情報理工学系研究科を終了し現在はさまざまな舞台に立つばかりでなく、自作・編曲した動画を配信。ポップス・ジャズ・アニメ・ゲームなどジャンルにとらわれないオリジナリティあふれる音楽で人気を集めている。【曲目】スケルツォ第1番、夜想曲 作品48第1(以上、ショパン)大猫のワルツ(角野隼斗)ほか【収録】2021年3月9日 武蔵野市民文化会館 大ホール

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コメント

ベートーベンの和声の積み方というのは、けっこう、特にこの「ワルトシュタイン」なんかはピアノの音域が広がって、ピアノがすごく進化していったころに作られた曲の一つでもあって、高域、低域というのをガツンと使うみたいなのが多くて、でもそれはそれでベートーベンとしての男性的な力強い魅力というのがあって、そういうのを改めて聴いてみると、あ、すごいカッコイイなと思うんです。ロック的というか、ギターを低弦ですごく鳴らしているみたいな、うんと近いようなカッコ良さを感じるんですけど、なので、そういう曲としてショパンとの対比という意味でも面白いかなと今回弾かせていただきました。
 音楽を届けたい、楽しんでもらいたいというのは、何らかわりはなくて、たぶん、僕もユーチューブとかの活動とコンサートでクラシックを弾くという活動が、もともとぜんぜん別のところにあって、どういうふうに自分の中で両立していけばいいのかなというのをいろいろ考えた時期があったんですけど、でも別にそれは200年前のフランツ・リストとかがやってたことと同じだなと思ったんですよね。昔のその当時のクラシックも演奏するし、自分で作曲アレンジ、即興とかもやるというということに改めて考えて気づいたときに、あ、この二つは自分の中でぜんぜん分けて考えなくていいんだと思うようになって、お互いにいい影響を与え合ってるんじゃないかなと思ってます。
 ショパンはその音を出したときの響きがすごく輝いて洗練されているなというのを感じるんです。いろいろなところが緻密に輝いているんだけれども、でも、たぶん、すごくインスピレーションというのはだいじにしてて、ショパンだって即興演奏とかはしてましたから、そういうバランスっていうんですか、インスピレーションをだいじにするけれども、そこからそれをちゃんと曲として完成度の高いものに構築していくというところがすごく見習うべきところがあるなというか、自分にとってすごく大きな存在ですね。
 「子犬のワルツ」と「大猫のワルツ」については、そうですね、それ(子犬のワルツ)の逆を行こうというか、子犬の逆は大猫かなあみたいな、その大猫であるのには理由がありまして、ショパンもジョルジュ・サンドが飼っていた子犬にインスピレーションを得ててというはなしがありますけれども、僕の実家で猫を飼ってるんですけど、大きい猫なんですね。大きんだけど太ってるんだけど、すごいジャンプしたり走り回ったり軽々と駆けまわってるんだけど、こう重量感はあるような、そんなようなところから、これも家でそういうのを見ながら即興してて、たところから生まれた曲なんですけども。ロマン派時代のなんか良いセンスはすごいありますよね。で、それにちょっとだけジャズっぽいハーモニーとかリズムを自分なりにちょっとだけ加えてみてるという感じです。
 でも僕はやっぱりクラシックは大好きなんだけど、クラシックを演奏するだけではなくて、今の21世紀、多様なジャンルがあるわけですけど、そういうものと或いはそのどんどん取り入れる中で、こう混じらわせてこう次への世代へと音楽を繋いでいきたいという気持ちは強くて、何かそういうところはずっとやり続けると思います。 

曲目

ピアノ・ソナタ第21番「ワルトシュタイン」 ベートーベン
スケルツオ第1 ショパン
子犬のワルツ ショパン
大猫のワルツ 角野隼斗

 

🎵え、これが「ワルトシュタイン」? そう思った。一か所の打鍵の瞬間に意識はもう次の音に移り、次つぎに音を追い続けてゆく感じが。感情が一つのフレーズに留まり玩味するということが無いかに始めは聞こえていた。ピアノに遊ぶというか、ピアノは彼の遊びの一つなのではと。これを音楽の読みはすでに完了させ一種の超越ととらえたらよいものかどうか迷った。デジタルな音色の探り出しといった感じも。第2楽章の終わりのところで、この感じで次があり得るのだろうかと思ったところで第3楽章。夕景に映えるさざ波を抜き手抜き手で泳ぎわたりゆく感じが。「スケルツォ」、ワルトシュタインとは一味違う。感情を入れる余地を十分に学び知って後に、その余地を意識的に排しているように感じられた。コメントからそのヒントが。「逆に」。こう弾くであろうことは常道であるが敢えてその逆にといういわば挑戦なのだろうか。「大猫のワルツ」ロマンの作曲家の作品のような感じが。
 今後の活動については聞いてみたい事項、それを質問し録ってくださっていたが。どんな展開が為されていくものか楽しみというよりも興味津々。このような感覚の音楽家はどんな作品展開、或いは演奏展開を踏みゆくものだろう。

 

🎧名曲アルバムは「ショーロス第一番」ヴィラ・ローボス作曲
リオで生まれた音楽「ショーロ」は、ポルトガル語で「泣く」という意味。どこか寂しくはかなげな音色に魅了されたヴィラ・ローボスが作曲したのが連作「ショーロス」なのだー番組紹介より

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⛳結局きょうは買い物もなし。散歩もなし。へやの片付けに没頭。あるのは紙類ばかり。紙類のファイル化で一日は終了。16時54分更新

 

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きょうのことば「キリストの作品」

インマヌエル盛岡キリスト教会20210530()の礼拝メッセージをおつたえいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で48年目のご奉仕をしておられます。

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説教題 『キリストの作品』  (國光勝美 牧師)
聖書箇所 新約聖書 エペソ人への手紙2110

2:1あさて、あなたがたは自分の背きと罪の中に死んでいた者であり、 2:2かつては、それらの罪の中にあってこの世の流れに従い、空中の権威を持つ支配者、すなわち、不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいました。 2:3私たちもみな、不従順の子らの中にあって、かつては自分の肉の欲のままに生き、肉と心の望むことを行ない、ほかの人たちと同じように、生まれながら御怒りを受けるべき子らでした。 2:4しかし、あわれみ豊かな神は、私たちを愛してくださったその大きな愛のゆえに、 2:5背きの中に死んでいた私たちを、キリストとともに生かしてくださいました。あなたがたが救われたのは恵みによるのです。2:6神はまたキリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。 2:7それは、キリスト・イエスにあって、私たちに与えられた慈愛によって、この限りなく豊かな恵みを、来るべき世々に示すためでした。 2:8この恵みのゆえに、あなたがたは信仰によって救われたのです。それはあなたがたから出たことではなく、神の賜物です。 2:9行ないによるのではありません。だれも誇ることのないためです。 2:10実に私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。神は、私たちが良い行ないに歩むように、その良い行ないをあらかじめ備えてくださいました。

 

<お話し>

 きょうは「キリストの作品」 という題で、ペンテコステ後の聖霊による歩みに思いを留めさせていただきます。

 いったいクリスチャン信仰生活を送っているときに、どんな者となるように歩ませていただくのでしょう。望むところはイエス様に似た者になること。前回の「大いなる岩の顔」を思い起こしながら、この盛岡で皆さん方とご奉仕をさせていただいて、そのような者になりたいとの思いを深くしております。
聖霊があなた方の上に臨むとき、あなた方は力を受けます。
 この使徒の働きの聖言(みことば)を心に留めながら、そうだ、聖霊は、わたしの、即ちキリストの証人となる力を私たちに約束してくださった。とするのならば、私たちは神の作品、キリストの作品である。このことを、この1週間心に留めてまいりました。

 安比のA兄がご存命だったときに陶芸をやっておられました。厳選した土で粘土をこねて成形し火や電気で焼くと見事な器ができる。その器の数々を思い出します。そんな思い巡らしのうちに導かれたのが、このエペソ2110節です。特に10節、
実に私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。
 私たちは神の作品です。きょうのメッセージの締めくくりも、この聖言でと思っておりますが、そこに到るまでに、三つのことばに先ず心を向けてみたいと思うのです。

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 その一つは、「かつては」ということばです。私たちはかつて、どういう存在であったのか。23節に目を走らせていただければ、きっとおわかりいただけるでしょう。
 もう一つは「しかし」です。かつてはあなたがたはこうだった。しかし今はという、この「しかし」です。大きなポイントです。
 そして、もう一つのことば。「それは何のためだったのか」。かつてはこんな者だったけれども、しかしあなた方は今このようになっている。それは何のためだったのかという、それが2節、4節、7節、これに注目してそして最後に10節、そうだ、私たちは神の作品なんだというところに心を向けたいと願っているわけです。ですので、きょうのポイント、この3つを捕らえていただければと思っています。

 かつてはどういう存在だったのでしょうか。それは、罪の中にあって、この世の流れに従って、空中の権威を持つ支配者、即ち不従順の子らの中に今も働いている霊に従って歩んでいた。そしてかつては私たちも他の人たちと同じように自分の肉の慾のままに生き、肉と心の望むことを行っていた、他の人たちと同じように生まれながら御怒りをうけるべき子らでした。

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 旧約聖書のイザヤ書に、あなた方が切り出された岩、掘りい出された穴を見よ。という言葉がありますけれども、かつて私たちは、暗い埋もれた土の中にあったものでした。この世の流れに従う、つまり、これを横からの力というように理解をするために敢えて、これは私たち、この世、私たちを取り囲んでいる平面上の、たとえるならば、平面上、前から、横から、後ろから。敢えてどうして後ろじゃないんですか、前じゃないんですか、と言わないでください。平面上のところでいうならば、私たちはこの世の様々な流れによって生きていた者でした。それから、今も働いている上からの力、それは、空中の権を持つ支配者、今も働いている所謂サタンの、神に背かせようとする上からの力、私たちにも間断なくあります。横からというのは、私たちが社会で生きていくときに、神から離れさせようとする力。ほんとうにひしひしと感じます。またそれと共に私たちを上から悪の霊は亡びへと導こうとします。それから、もう一つは、内からの力、それは、私たちの心の中にある。内側からの力。そうです。私たちは、このような中にいた者だったのです。いいですね。いいじゃないか、ああそうだ、本当にそうだ、と自分自身をほんとうにこれに、迎合させている。でもそのときに、偉大なことには、「しかし」、というこれがあるのです。これが無かったら何のために。がっかりさせるためのことばだったに違いないのです。しかし、「しかし」がある。「しかし」。憐れみ豊かな神は私たちを愛して下さったその大きな愛のゆえに、背きの中に死んでいた私たちを、キリストと共に生かしてくださった。

あなたがたが救われたのは恵みによるのです。2:6神はまたキリスト・イエスにあって、私たちをともによみがえらせ、ともに天上に座らせてくださいました。

 そうです。いまこう語らせていただきながら、詩篇の尊き中に在りて悟らざるは亡び失せる獣のごとしという聖言が思い出されます。世の中でうまくやって富を得て、存分に好き勝手に生きている、そういう人たちを見ると、何て自分は損で愚かな選択をしたもんだ、というような思いさえする。そういう誘惑というのはあります。まさに慾の力でぐらつく。前から後ろから押されるような。しかし、しかし、彼らは本当の行くところを知らない。地上生涯は実は僅かな間です。これがこの頃実感を伴うようになりました。若い頃はそれほど今のようには感覚は持ち得なかったのですけれども、私たち、もう70半ばになりました。どう100歳まで見ても25年。510年はほんの僅かです。それを思った時に、ほんとうに人間の一生なんて僅かなものです。旨いもの食べて、享楽し、気長に気楽に満ち足りているこの世の人たちの生き方を見たときに羨ましいと思う。しかしほんとうに彼らの最後はどうであるのか。尊き中に在りて悟らざるは、滅び失せる獣のごとし。
 罪の中に死んでいた私たちが、キリストと共に生かされて、救われて、そして恵みのゆえに救われて、すばらしい天に坐させてくださるその永遠の嗣業を保証され、いまそこにある。それでも、信仰を持つなんてばかばかしいとつい言いそうになってしまうそれこそは、尊き中に在りて悟らざるは、滅び失せる獣のごとし。

 憐れみ豊かな神様は、私たちがどんなに憐れみと恵みのゆえに土くれの中から見出されて、キリストの十字架を知り、キリストの愛を知るようになって、復活の栄光の約束を与えられている。この地上における一幕を間もなく、この第何幕か地上の幕は過ぎ去りますけれども、やがて次の次元には栄光の約束が待っている。それを心に留めたときに、有り難うございます。心からそのことを思うのです。

それはキリスト・イエスにあって、私たちに与えられた慈愛によって、この限りなく豊かな恵みを期待できる。示すことができる。神様の救いってこんなにすばらしいんです。あの人が、あんな土くれの泥の中にいた者が、そんな中にいた私が、神によって見出されて、キリストの十字架の救いに与って、こんなふうに変えられているじゃありませんか。

あなた方は信仰によって救われたのです。それはあなたが優れていたからじゃない、神の賜物なのです。行いによるのではありません。あなたはこんなすばらしい恵みに今与っているのは、神様の憐れみ、恵みなのです。

10実に私たちは神の作品であって、良い行ないをするためにキリスト・イエスにあって造られたのです。

 ダビデ像という有名な彫像があります。ゴリアテと戦おうとして石投げ器を取って狙いを定めている。ダビデ像の大きさは台座まで入れると5メートル以上あるそうです。ミケランジェロがフィレンツェで制作しました。実はダビデ制作以前に、この大理石は長い間放って置かれていたそうです。しかし、この大理石をこの場所に運び込むための人手や経費も掛かっている。放置するわけにもいかず、制作を依頼してみた。ところが途中までやったけれどもとてもその人の手に負えなかった。後はそのまま25年も放置されていた。何としてももったいないので誰かに何かを作らせようと、作者を選考する委員会を設けました。その中にはレオナルド・ダ・ヴィンチもいたそうです。いったい誰にこの大理石を彫らせようか。ミケランジェロはどうだろうかということになった。ミケランジェロはそのとき25歳。雨ざらしで汚れ、誰にも見向きもされないこの大理石を、ミケランジェロは見事に彫り上げたのです。巨人のゴリアテを相手に小石一つで戦うダビデ。その当時のイタリアのフィレンツェは強大な敵国、ライバルたちに囲まれており、勇気を奮い立たせる必要があった。少年ダビデが巨大な敵ゴリアテと石一つで戦う勇敢な姿に人々は大いに共感しました。ダビデ像はそういうものだったのだと後になって知りました。

 私たちは、かつては石ころだらけで不純物が多い粘土のようなものでした。誰が見ても上等な陶器には焼きあがらないはずが、それが名工に見出され、これを使おうと手をかけられた。かつては人の眼に何の役にも立たなかったような埋もれていた者が、見出され、神によって見出されて、そして練られて、焼き上げられる。これ、誰の作品ですか? はい、これは神の作品です。一人ひとり、あるとき神様の下で見出され、そして神様の御手、憐れみのゆえに御手に取られて、形作られて、それが、よいわざに、良き技にそなえられる。「キリストの傑作だ」、このように言われたいものです。

 インマヌエルの初代の代表蔦田二雄先生が仰ったことですが、聖潔(きよめ)というものはその人の人格に現れる。キリストの人格の円満さ。蔦田先生はたしか聖潔というときに円満さという言葉を使われました。私としては神学的な言葉を期待していたのですけれども、聖潔というものはその人の人格に現れると聞きました。たいへん印象的なできごとでした。随分前から私は、書籍をPDFの形にして言葉を検索できるようにする自推作業をやっていますが、蔦田先生は「円満」という言葉をどこで使っているのだろうかと「円満」を検索にかけてみました。すると、蔦田二雄院長のメモという小冊子が出てきました。これは東京の雪谷に関係しているT先生がまとめたものです。ある先生、私より一回り上の先生がいらっしゃいました。T先生は学びの機会というものが全くなかった方で、聖書の知識もないまま召命を受けました。蔦田院長先生が、このままでは神学校に入るときに困るだろうからと、蔦田先生に毎週時間を取ってもらい、個人レッスンを受けた。T先生はご自分の著書の中で、そういう何も知らなかった者、学歴もなかった者でしたが、と卑屈にもならずありのままに述べ、そして蔦田先生から学んだものをぜんぶこの本の中に私は纏めたいと思ったと書いておられます。
 「私は体調がすぐれず、医師に診て頂いたところ、進行性のすい臓癌であり余命は2年と告げられました。兄もすい臓癌で召されています。それで私は教団に退職願を出して、引退させてくださいと。そしてのこる使命は何か。何にもできない土くれ、それが神に見出された者、あと2年の命が与えられたのなら、蔦田先生の言葉を纏めたいと思った」と。
 纏められた小さな冊子が、幸いなことに自炊した中にあった。皆さんにも感謝のお祈りをお願いしたいんですけども、T先生、それから今10年経っているんです。今でも治療は受けながら普通に生活をしておられます。神様の証人としての使命があられたとつくづく思ったことであります。

 神様は土くれの中から見出してくださる。その神様の御手の中に私が落ち込んでいくのならば、神様の名品として、すばらしい作品として、証し人となるのではないだろうか。クリスチャンの成熟、円満さというのは、こういうことなのかなとT先生を思いながら、きょうの私のメッセージを締めくくらせていただきます。

※音声データ、画像は教会からお借りしています。

⏰6時54分更新

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雑感

J-MERO    
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カテゴリーは ライトノベル/アニソン/アジアツァー/ダンス(複雑な動き)とフォーメーション

J-MEROの前番組で、さわやかウィンドウわたらせ渓谷鐵道の一場面。とてものどかで気持ちがやすまる。無人駅。

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⛳バルコニーに置いてある鉢植え、花の苗を買ったときにおまけでいただいた名前のない花が、葉の形からロベリアに違いないと分かり始めたのだが、それがたしかにロベリアであることを鮮やかな美しい青い花を咲かせて教えてくれたきょう。そして新型コロナのワウチン接種日が決まったきのう。21時03分更新

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210604 クラシック倶楽部を聴く アンドレアス・シュタイアー チェンバロ・リサイタル

【出演】アンドレアス・シュタイアー「ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ」ジョン・ブル:作曲,(チェンバロ)アンドレアス・シュタイアーほか 「半音階的幻想曲SwWV258」スウェーリンク:作曲,(チェンバロ)アンドレアス・シュタイアー,「平均律クラヴィーア曲集第2巻から第20番イ短調BWV889」バッハ:作曲,(チェンバロ)アンドレアス・シュタイアー,「クラヴサン曲集第2巻第8組曲からラファエル」クープラン:作曲,(チェンバロ)アンドレアス・シュタイアーほかー番組紹介よりー

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アンドレアス・シュタイアー
 1955年ドイツのゲッティンゲン生まれ。ハノーヴァーとアムステルダムでピアノとチェンバロを学び、1983年よりムジカ・アンティクァ・ケルンのチェンバロ奏者として活動し、以降フォルテピアノとチェンバロのスペシャリストとして国際的に活躍している。80年代初頭のデビュー当時は、チェンバロとフォルテピアノを弾くにもかかわらず、「バックハウスやケンプ以来の、ドイツ音楽を代弁するピアニスト」と賞され、彼の大いなる才能が注目された。その後も真摯に自らの芸術を極め、今や「巨匠」への道を着実に歩む数少ない実力者として広く認められるところとなった。

 

コメント
平均律クラヴィーア曲集は多種多様な要素を入れた器のようです。今回のリサイタルのコンセプトはこの曲集の多様性を背景としています。バッハは先人の多彩な作曲技法を受け継ぎひとつの成果を導き出したのです。

クープランの組曲からフランス風のリズムを持つアルマンドとガヴォットを選びました。バッハの嬰ホ長調の前奏曲にはクープランと同じ付点のリズムが出てきます。フランス風の序曲のようです。そしてフーガにはガヴォットの典型的なリズムがあらわれます。

半音階の音型には苦しみ悲しみ、死といったメランコリックな重苦しさがあります。バッハのロ短調のフーガは、完全にあてはまるわけではないもののそのような音型が使われていて驚くべきことがなされています。オクターブに含まれる12の音すべてが主題の中で使われているのです。平均律クラヴィーア曲集のフーガの中にそのような曲は他にひとつもありません。そういう意味でロ短調のフーガは平均律第一巻を総括する極め付きの作品なのです。

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ジョン・ブル(Wikipediaから)

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曲目

「ド・レ・ミ・ファ・ソ・ラ」ジョン・ブル・作曲。
ジョン・ブルはバッハよりも120年前に生まれたイギリスの作曲家。彼の驚くべき技法はドイツに伝えられて発展し、バッハの源流の一つとなった。
「半音階的幻想曲 SwWV258」、スウェーリンク・作曲。
スウェーリンクは即興演奏の妙技で知られ、「アムステルダムのオルフェウス」と称された。優れた教育者としてドイツからの留学生を数多く育て120年の時を超えてバッハへと受け継がれた。この作品では半音階で下降する音型をテーマに見事なポリフォニーが展開されていく。
「平均律クラヴィーア曲集 第2巻から第20番 イ短調 BWV889」、バッハ・作曲。
「クラヴサン曲集 第2巻 第8組曲から「ラファエル」」、クープラン・作曲。
「クラヴサン曲集 第2巻 第8組曲から「ガヴォット」」、クープラン・作曲。
フランソワ・クープランはクラヴサン(仏語ではチェンバロ)の名手だった。4巻からなるクラヴサン曲集は約220の小品からなる大作。華やかなフランス音楽は同時代のバッハにも大きな影響を与えた。
「平均律クラヴィーア曲集 第2巻から第13番 嬰ヘ長調 BWV882」、バッハ・作曲。
「トッカータ 第2番 ニ短調 FbWV102」、フローベルガー・作曲。
フローベルガーは、ヨーロッパ各地を旅してバロック様式の組曲を確立させた。その礎はバッハに受け継がれ、数多くの名曲として花開くことになる。
「組曲 第20番 FbWV611aから「瞑想~来るべき我が死を思って~」」、フローベルガー・作曲。
フローベルガーには印象的なタイトルを持つ情感豊かな作品も多い。晩年に書かれたこの作品には「思いのままにゆっくりと」と書き添えられている。
「平均律クラヴィーア曲集 第1巻から第24番 ロ短調 BWV869」、バッハ・作曲。

 

🎧名曲アルバムはトマ作曲「歌劇ミニヨン」から「君よ知るや南の国」。メゾソプラノ林美智子。円光寺&東京フィル。
当時ワイマール宮廷の大臣だったゲーテが創作活動の行き詰まりからローマを訪れたのは1786年。

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少女ミニョンが故郷のイタリアを思って歌う歌「ミニヨン」


🎵今回はバッハ以前で、バッハに影響を与えた作曲家たちの作品紹介とバッハへの影響だった。ジョン・ブル(1562631628)、対位法の大家。「単純な旋律を変形するのに用いられた技法は、音価の拡大・縮小、逆行形、拍子記号の混用などである」(Wikipedia)。技法はドイツに伝えられたという。スウェーリンク(15621621)、即興演奏の妙技。見事なポリフォニーの展開。クープラン(16681733)から、バッハは、アルマンドとガボットを学んだという。フローベルガー(16161667)、バロック様式の組曲を確立。それにしても、チェンバロの仕様のすばらしさは!ちょっとジョン・ブルを録り落としたけれども、後でまたググってみよう。

⛳10時00分更新

 

 

       

 

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210603 クラシック倶楽部を聴く バンジャマン・アラール オルガン&チェンバロ リサイタル

主要な古楽アンサンブルのメンバーとしても活躍する名手、バンジャマン・アラール。オルガンとチェンバロをともに演奏したオール・バッハ・プログラムによる演奏会からお送りする。【出演】バンジャマン・アラール(オルガン/チェンバロ)【曲目】イタリア協奏曲BWV971(バッハ作曲)、前奏曲、トリオとフーガBWV545b(バッハ作曲) ほか【収録】2018年12月8日 武蔵野市民文化会館 小ホールー番組紹介よりー

バンジャマン・アラールは1985年フランス生まれ。ふるさとディエップで音楽を学び始める。ルーアン音楽院でオルガンを、パリでチェンバロを学び、2003年バーゼルのスコラカントルムに入学。2004年古楽の世界で最も権威あるコンクールの一つブルージュ国際古楽コンクールチェンバロ部門で第一位。
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バンジャマン・アラールのコメント
バッハは膨大な数の音楽を作曲した音楽家です。私の日常に欠かせない作曲家です。バッハの音楽は常に私に寄り添い、私を支え音楽への探求心を駆り立ててくれます。絶えず研究し、学び続けていても、知り尽くすことのできない作曲家です。長く弾き続けている作品でも初めて弾くような感覚にとらわれることがあります。それは聴衆にとっても同じで、バッハは聴衆も演奏者も絶えず魅了し続ける作曲家なのです。
バッハはまるで「スポンジ」のように先人たちの音楽のすべてを、そしてさまざまな国の音楽スタイルを吸収した作曲家です。イタリアは勿論、フランスの舞曲などもバッハに強い影響を与えています。これらすべてを習得してさまざまな影響を受けながらも、常に自分の音楽を書き続けることができた。バッハは当時すでにあった作曲法や音楽様式を駆使して時代を超越する音楽を生み出しました。当時の音楽界に新風をもたらしたのです。バッハを演奏するには、演奏者は勤勉でなければなりません。寝ても覚めてもバッハと一緒にいる日常生活です!
チェンバロとオルガンの違いについて、チェンバロには多くの長所がありますが欠点もあります。長所と短所がオルガンと正反対なのです。チェンバロの長所は音の立ち上がりがはっきりしていることで、欠点は音がすぐに消えてしまうことです。チェンバロの音は生まれると同時に小さくなり消えていきます。オルガンはまったく逆です。音をいくらでも伸ばしてすぐに切ることができます。こうした両方の楽器の特性をしっかり踏まえて活かす弾き方をしなければいけません。チェンバロは音を持続させて歌手やバイオリンのように楽器を歌わせなければなりませんし、オルガンは楽器が勝手に歌ってくれるのですが、響きに命を吹き込まなければなりません。ただ音を伸ばして切るだけでは音楽にならないので、そこに命を与える方法を探っています。二つの異なる奏法をひとつの演奏会で聴くのはとても興味深いと思います。

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曲目はオールバッハ
☆「ソナタ ニ短調 BWV964 から 第1楽章・第2楽章」、チェンバロ。

☆「イタリア協奏曲 ヘ長調 BWV971」、チェンバロ。
この曲はイタリア風の協奏曲を1台のチェンバロで奏でようというバッハの意欲作。協奏曲のトウッティと独奏をチェンバロの二段の鍵盤で再現している。
トリオ・ソナタ ホ短調 BWV528」、オルガン。

トリオ・ソナタは、17世紀イタリアに生まれた音楽形式。2つの旋律楽器と、1つの通奏低音の3声部の楽曲。バッハは1台のオルガンの右手・左手・足鍵盤によって3声部が融合するトリオ・ソナタを作り上げた。曲の原型はバッハがワイマールの宮廷に勤めていた1716年頃に出来上がった。今回はヴィオラ・ダ・ガンバ・ソナタ第3番の第3楽章を取り入れた版が演奏された。
前奏曲、トリオとフーガ 変ロ長調 BWV545b」、オルガン


🎵武蔵野市民文化会館のパイプオルガンの映像、これはTVから撮ったのですが、やはり盛岡市民文化会館のように、大ホールではなく小ホールに設置されているようだ。その理由は? と思うのだが、……
 アラールがいう「バッハを演奏するときは、演奏者は勤勉でなければならない」。バッハを聴くときに、聴衆は勤勉でなければならないと勝手に思ってしまったのだが。
 若い時に、毎日聴いたゼルキンのチェンバロが自分の中では基本となってしまっているが、バンジャマン・アラールの音には、鋭くもある部分にも優しさが感じられた。パイプオルガン、今回は、特に、繊細で緻密な音に慈愛が丸みを帯びて感じられた。それにしても、パイプオルガンという建造物の壮大さ、音の豊穣さ、宇宙的な音色には魅されて止まない。

🎧名曲アルバムは「夏の夜の夢~序曲と結婚行進曲」(管弦楽)東京フィルハーモニー交響楽団,(指揮)梅田俊明 ~イギリス ストラットフォード・アボン・エイポン~

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⛳10時20分更新

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210602 クラシック倶楽部を聴く クリストフ・コワン シューベルト演奏会

ナヴァラ、アーノンクールに学んだ古楽の雄、クリストフ・コワン。金子陽子、ジェローム・アコカとの共演でシューベルトが死の前年に作曲した室内楽の名作をお送りする。 ナヴァラ、アーノンクールに学んだ古楽の雄、クリストフ・コワン。金子陽子、ジェローム・アコカとの共演でシューベルトが死の前年に作曲した室内楽名作をお送りする。【出演】ジェローム・アコカ(バイオリン)、クリストフ・コワン(チェロ)、金子陽子(フォルテピアノ)【曲目】ピアノ三重奏曲変ホ長調作品100(シューベルト作曲)ほか【収録】2018年4月19日 武蔵野市民文化会館小ホールー番組紹介よりー



🎵金子のHPには「コワンたちとの共演では、フォルテピアノのもつ限りない表現の可能性と室内楽のあるべき真の姿を共に提示した」とある。古楽器。モダンのような華麗さにはちょっと距離を置くけれども、遠い時代の空気感、絹の手触りの音色で安らぎをくれる古楽器たち。

今回はナヴァラ、アーノンクールに学んだ古楽の雄クリストフ・コワンの。「アルペジョーネ」が聴きどころかと。シューベルトは1824年、27歳で、開発されたばかりのアルペジョーネのために「アルぺジョーネ・ソナタ」を作曲したが、28年に初演されたときには、もうアルペジョーネが廃れており、バイオリンで演奏されたというのだから、アルペジョーネの短命さがわかる。廃れた理由は、別なコンサートのコメントで聞いた気がするが「音程を変えたりビブラートをかけることができない」などの事情がありそう。音を聴いたところでは、幾分軽みのある分、明るさ、懐かしさを感じさせるのだが、この楽器に底深く力強い響きを望もうとすれば限界がありそう。しかし、アコカ言うに「哀愁を帯び神秘的」でもあると。アルペジョーネはいま世界に20挺ある。そのうちの1挺、たぶん1挺をコワンが所有。20世紀になってからミュンヘンで製作されたもの。シューベルトの思い入れあるこの貴重な音色を聴く機会の一つがこのコンサート。

このジェローム・アコカのバイオリンも古楽器。弦はガット弦。弓も時代に合ったもの。また金子弾くピアノは、金属製のフレームを持たない古いピアノ。フォルテピアノは音の強弱の幅が狭いので繊細なタッチが求められるという。古楽器は照明が当たるだけでも音程が不安定になる」と。温度、湿度の変化に敏感な楽器、長時間の演奏は冷や汗ものなのかも。

シューベルトが30歳で作曲した「ピアノ三重奏曲 変ホ長調 作品100」。これはシューベルトが死の前年182711月に作曲、すでに病んでいた「ゴッドファーザー」(管弦楽)東京フィルハーモニー交響楽団,(指揮)現田茂夫 ~イタリア・シチリア島~

時期。寂寥感、時として絶望感も聴こえる。それでも尚その中に激しさや美しさを探り当てている。「死と乙女」などの傑作もこの時期ではなかったかと。ベートーヴェンが亡くなり、シューベルトはこの葬儀に参列し、翌年には彼自身が亡くなっている。

ここまでは前に書いた通りなのだが、
今朝は実は15分遅れで視聴。聴いていて、響きの中に、何者かを呼び求めているような作曲者の孤独も感じられ、これが旋律の美しさがあるゆえに心に沁み、落涙。

🎧名曲アルバムはニーノ・ロータ作曲「ゴッド・ファーザー」
名曲だと思う。この曲につられて映画を見た記憶が。
東京フィル&現田 ~映像イタリア・シチリア島~

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⛳午後に近くの公園の木陰に行くと、学童の子どもたちが15,6人、先生の見守りの中で遊んでいた。片や、ベンチでは、高齢の男の方が二人でビール、焼酎を酌み交わしている。どう見ても水ではなさそうと。高さ30メートルほどありそうな樹高から青空に向かって、生きたい、生きねば、何としてでも生きねばとそれぞれの方向に枝が張り伸ばされている。青空が明るく黙してそれを受け止めている。
18時17分更新




 

 

 

 

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210601 クラシック倶楽部を聴く 村治佳織・村治奏一 ギター・テュオ・リサイタルⅡ

村治佳織・奏一姉弟のギターによる珠玉のギターの調べ。バッハとブリテンの代表曲、そして映画音楽の巨匠モリコーネに思いをはせて。岡山県津山市での公開収録の後編。 個性が響く独奏と息のあったデュオ演奏。大曲への思い、お互いについて語ったインタビューもご紹介。【曲目】映画「ニュー・シネマ・パラダイス」から「愛のテーマ」(モリコーネ作曲/鈴木大介編曲)、シャコンヌ(バッハ作曲)、ダウランドに基づくギターのためのノクターナル作品70(ブリテン作曲)ほか 【収録】2020年12月11日 津山文化センター 大ホール(岡山県津山市)ー番組紹介よりー

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村治佳織は3歳でギターを始める。幼いころから数々のコンクールで優勝。15歳デビュー。高校卒業後パリのエコール・ノルマルに留学。現在は国内外のオーケストラト共演。弟の村治奏一も4歳でギターを始める。その後姉と同様に数々のコンクールで優勝。中学卒業後アメリカに渡り、マンハッタン音楽院で学ぶ。オーケストラとの共演で世界の舞台で活躍する一方、作曲家としても活躍。

コメント
Q
ギター二重奏の魅力は
佳織:弦が6本から12本になりますから、より多くの音がいっぺんに出せてシケールが大きくなりますね。とにかく響きが豊かになるというところは魅力かなと思います。どうでしょう。
奏一:まさにその弦が6本あって、ギター1台でメロディーと伴奏をほんとうは完結できるんですよね。だから奏者が二人になると、どちらがメロディー、伴奏に回るんじゃなくて、その役割が途中で入れ替ったり、メロディーを一緒に歌ったりというような、役割を入れ替えてこう相乗効果が起きやすいデユオになっているのかなあと思ってますね。
佳織:常に相手の音を聴いて、バランスも音色も、それにこうするっていうのが会話をしているのと同じような感じですね。
Q
それぞれの個性を楽しむ
佳織:クラシックギターの良さ、ソロとデュオ、2台と1台の響きの豊かさ、そして、1台で表現できること。その違いを楽しんでいただければなというところが一つですね。
奏一:違いという意味では、佳織さんの持っているギターは杉の表面板で、僕は松。音の取り方の違いとかもあるので、一緒に楽しみながら音作りをしている。
佳織:杉は元気よくパーンと前に飛んで行く感じで、松はどうでしょうね。
奏一:こう色彩で入ったらすごく彩が豊かに出ている違いがあります。
奏一:「シャコンヌ」、学生の頃から弾いているので、ただその自分の年齢に合わせてこういう表現をしたいと思うに、ちゃんとその楽譜が返してくれるというか、これからも一生続けて弾いていく作品ではないかなと思っています。バッハの時代というのは、当時リュートしかなかった。クラシックギターが無かったんですけれども、やっぱりそれでも、クラシックギターに奏法的にもすごく通じるものがあるので、毎回特別な思いで演奏しています。
佳織:ヘイリアンのクラシックというと分業制じゃないんですよね。作曲家の方が一人で丹精こめて書いてくださるものを私たち一演奏家が感じて、また一人のお客様の心に届くというすごく、ここはいい意味で密な循環ができるのが、やはりクラシック音楽の良さの一つ。大作曲家がなかなかギターのためにオリジナルを残しているということは少ないです。それですが、ブリテンは一曲だけギターのために遺してくださって、それが私が演奏する「ノクターナル」で、シャコンヌと対峙するかのような曲の分数もほぼ同じですし、バロックの大作品と、片やブリテンの大きな作品を一つのコンサートの中でお聞きいただけるのも魅力かなあと思います。この曲は10代から、いつか弾いたらいいよと言われてたんですけれども、なかなか取り上げる機会がなくて、40代に入ってから新しく加えたんですけれども、おばあちゃんになっても弾いていたいなと思います。この曲はダウランドの「来たれ深き眠りよ」という死を連想させるような誰にとっても人生のテーマであるような詩がテーマになってる曲ですので、人生とは何かなとかいう答えのないテーマを考えたいときにもうぴったりの曲かなあと思います。でも最後はこう希望があるような感じなんですよね。ですから人生の中で困難に遭ったときにも励ましてくれるような曲だと思いますし、まあ今は、世界中が混乱の中にいますけれども、その中にあって最後は一筋の光をみんなで見出していきたいという、そんな今の時代にも合うかなあと思ってます。

 

曲目
☆映画「ニュー・シネマ・パラダイス」から「愛のテーマ」 モリコーネ作曲、鈴木大介編曲 デユオ演奏
☆シャコンヌ バッハ  村治奏一演奏
☆ダウランドに基づくギターのためのギターのためのノクターナル作品70 ブリテン
 村治佳織演奏

🎵「シャコンヌ」に感じた品格。「ノクターナル」、洒脱、巧み。

🎧名曲アルバムはラヴェルの「弦楽四重奏曲」 エクセルシオクワルテット
華々しい活躍前28歳での作曲

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⛳10時01分更新

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