インマヌエル盛岡キリスト教会の2021年06月06日(日)の礼拝メッセージをおつたえいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で48年目のご奉仕をしておられます。

説教題 『主イエスを見上げよう』 (國光勝美 牧師)
聖書箇所 新約聖書 ヘブル人への手紙12章1~2節
12:1こういうわけで、このように多くの証人たちが、雲のように私たちを取り巻いているのですから、私たちも、一切の重荷とまとわりつく罪を捨てて、自分の前に置かれている競走を、忍耐をもって走り続けようではありませんか。 12:2信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。この方は、ご自分の前に置かれた喜びのために、辱めをものともせずに十字架を忍び、神の御座の右に着座されたのです。
<お話し>
きょうは「主イエスを見上げよう」、このテーマでメッセージを導かれております。
ヘブル人への手紙12章の特に注目したいのは2節のおことばです。
12:2信仰の創始者であり完成者であるイエスから、目を離さないでいなさい。
イエス様が私たちの信仰の創始者であって下さる。イエス様が私たちの信仰の完成者であってくださる。つまり私たちクリスチャン信仰の始めから終わりまで、主イエス様を見上げるところから離れては何もない。私たちがクリスチャンになったのは、主イエス様の十字架の贖いの恵みを、私たちが信仰の眼をもって仰ぎ続け、そして、私たちがこの許された地上生涯を終えて、「今日汝は我と偕(とも)にパラダイスに在るべし」と仰ってくださるこのお方のもとに天がけるとき、信仰の始めであり信仰の完成者であるイエス様から目を離さないで、ずっと見続けていましょう。歩み続けて行きましょう。これがきょうの私の与えられているメッセージであります。
このきっかけとなりましたのは、すでにお話ししました「偉大な岩の顔」でした。アーネストという主人公が待っている。小さな村の川の崖に、崇高な人の顔に見える岩がある。これに似た顔をした人がきっといつかやってくる。この村に現れるのだ。少年アーネストはやがて青年となり、すでに老年を迎えています。
私はこの話を教科書で学んだのですが、小学校なのか中学校なのか忘れてしまいました。また是非読んでみたいと思っておりますが。原文は読んでいませんので、それをまとめたものを読んだそこからの恵みということでありますが。
「大いなる岩の顔」で検索しますと、色々な画像が出てきます。英語でナサニエル・ホーソンの 「The Great Stone Face」と検索したところ、またいろいろな写真がありました。ホーソン作。アーネストという主人公のように、この村出身のこの岩の顔に似た人がやがて現れることを待ち続けている。
実は「大いなる岩の顔」の評論では、老齢になったアーネストが、人々から請われてお話をしているとき、やってきた有名な詩人がアーネストを指して、「見よ、今私たちに話している彼こそ、あの岩の顔その人ではないか」、日々見続けながら老齢になったアーネストがまさにその預言の人であったという締めくくりがある。一方、その後の続きもあった。詩人が「見よ、この人こそが」と言ったとき、アーネストは「いや私ではない、私はやがて来るその人を待っているのだ」と去っていったという締めくくりもありました。私じゃない、最後に必ず現れる」というそれを聞いたときに、ああ私は、いや私はというよりも私たち一人ひとりはイエス様というお方に目を留めて、そして私たちの生涯を締めくくり天がけるときに、このお方に従って歩んだ者として、いや、私は、このお方を見上げてひたすら歩んでいる一介の者にしか過ぎないという、そのような生涯を歩みたい。アーネストの生き方を、私達クリスチャンとイエス様と置き換えたとき、
信仰の導き手またこれを全うする者なるイエスを仰ぎ見るべし。
というヘブル12:2のおことばが深く心にとどまりました。
私たちの目指すべき信仰者であられるイエス様御自身が、人としてこの世においでくださった。このイエス様が持っておられる信仰。先ほど申しましたこととすこしアクセントが、或いは見方が異なるでしょうけれども、先ほどは、私自身が、或いはアーネストが、というところを思いめぐらしたのですけれども、このお聖言を思うときに、イエス様ご自身が一人の信仰者として、その模範的な始まりであり、そして締めくくりでもあって下さる。イエス様ご自身がまさに信仰の創始者であり完成者なのだ、というように味わうことができる。そうした時に、ピリピの2章の6節~8節、
6キリストは、神の御姿であられるのに、神としてのあり方を捨てられないとは考えず、7ご自分を空しくしてしもべの姿をとり、人間と同じようになられました。人としての姿をもって現れ、8自らを低くして、死にまで、それも十字架の死にまで従われました。
イエス様はほんとうに遜って私たちと同じようになって、父なる神様の御想いを成就するために死にまで、十字架の死にまで従われたことに、私たちのまさに模範とする信仰の創始者であるこのお方に、倣うようにと教えている。なるほどという思いがいたします。
信仰の完成者としてのイエス様、同じくピリピの聖言にありますけれども、そのような十字架の死にまで従われたお方。
9それゆえ神は、この方を高く上げて、すべての名にまさる名を与えられました。10それは、イエスの名によって、天にあるもの、地にあるもの、地の下にあるもののすべてが膝をかがめ、11全ての舌が、「イエス・キリストは主です」と告白して、父なる神に栄光を帰するためです。
泥の中から引きあげられたものが、キリストの作品と作り変えられて、そして、そのお方に従って形作られていくときに、イエス・キリストは主です。すべてのものが従う。このように告白をして、父なる神がほめたたえられる。私たちの存在を通して、そのようなあり方、信仰生活を送りたいものと心から願う事です。
主イエス様のあり方、つまり信仰の創始者であり完成者であるという私たちの模範としての主イエス様のあり方はどうだったでしょうか。神の御子なのだから、罪のないお方が人となって下さったそのお方が完全な信仰のあり方をするのは当然と考え、そして、弱さや、足りなさのいっぱいある私たちには、そんなイエス様が歩まれたような信仰生活はできないのが当然じゃないか。しかし、このカギとなる聖言があります。
キリストは御子であられるのに、お受けになったさまざまな苦しみによって従順を学ばれた。
このイエス様が従順を学ばれたとヘブル書にあることに、私たちは目を留めたいと思うのです。イエス様は御子であられるのに、お受けになったさまざまな苦しみのゆえに従順を学ばれている。イエス様だから、もう何もせずして理想的な信仰者であるのではない。ならば、私たちは誠実をもって努力精進するのがこのお方に倣う事なんでしょうか。これは、しばしば私たちが陥る罠です。これはガラテヤ書の3章3節、
あなた方は、そんなにもおろかなのですか。御霊によって始まったあなた方が、今肉によって完成されるというのですか。
どうかこのお聖言を思い起こして頂きたいのです。私たちが御救いに与ったのは信仰によるのですよね。信仰によるのにも関わらず、ああイエス様のようになりたい、一生懸命に頑張ってイエス様のようになりたいと努力、精進していくことが、イエスを見上げていくということなのかというと、そうではない。御霊によって歩む、これは主イエス様を見上げる心の営みです。御霊によって歩む。アーメン。そうです。日々の歩みの中にイエス様を見上げる心の営み。これこそが信仰による歩みであって、それこそ御霊の実としての私たちのあり方なんです。繰り返すようですが、頑張ってイエス様のようになろうなろうなろうといって自らを励ます生き方は、パウロにすれば
「ああ愚かなるガラテヤ人よ、信仰によって始まったものを掟によって全うしようとするのか」
そうじゃない。御霊によって生まれたのだから、御霊に聞き従う。御霊をいつでも心の中に仰ぎながらこのお方に従って行くというこの信仰の歩みによっていつの間にか御霊の実としてキリストの品性が私達に形作られてくるのです。この違い。私たちはしばしば真面目さのゆえに陥ってしまう失敗です。そして私はその聖潔(きよめ)ということ、このアーネストのたとえではありませんが、あのような、あの岩の顔のような人になりたい。というとき、聖潔は私たちが目指している、或いは私たちが歩んでいる聖潔というものは、円満さに現れるということを申し上げたいのです。
皆さんは落語はお好きでしょうか。楽しいですよね、落語は。その演目の中に「堪忍」という噺がある。出てくるのは長屋の八っつぁん、熊さんでしたでしょうか。一人が「堪忍とは何ですか」と訊く。すると一人が「成らぬ堪忍するが堪忍」(我慢できないことをこらえるのが、本当の忍耐というものである)。これは人と人の間のだいじな品性であると付け加える。「堪忍するというこの二文字がだいじなんだ、分かったか?」。それが向こうはなかなか物わかりが悪い。「堪忍っていま二文字だと言ったけど、4文字じゃないですか」。いや「堪忍は二文字じゃ」。「だって、か・ん・に・ん、って4文字でしょう」。「堪忍と書いて堪えて忍ぶ、これが堪忍じゃ。この簡単なことがわからぬのか」と相手の頭をぽこんと叩いてしまった。ああ、これは堪忍じゃないなとオチがつく。ある和尚の「堪忍の二字か四字かは知らねどもこらえしのぶぞまことなりけり」という歌もあります。「堪忍が大切だ、それがわからぬか」と頭をぽかんと殴ってしまう。自分が説教をしていながら実はその本人がわかっていないというわけなのですが。

クリスチャン生活でいうなら、これは聖潔(きよめ)の問題であり、これは実生活に証しされなければならないのです。今「堪忍」をお話ししましたけれども、私たちの日頃の生活の中で、このことがどのように証しされていくか。つい「この馬鹿もん」と頭をこつんと叩いてしまうような、そういう生き方、これは聖潔を説く私自身の問題として、私自身の心の問題としても、しっかり心に留めなければならない、このように思います。
ここですでに天に召されて久しいS兄を思い出します。S兄は囲碁が好きだった。強かったのです。このS兄を何かの機会にクルマでご自宅にお送りしたことがあります。そのときの雑談ですが。私が「碁はどこで始まったんでしょうか」と訊くと、「中国からです」とそれは詳しく説明くださいました。「碁をなさいますよね」と訊いたときに仰ったことは、S兄は碁が好きで、それはもう強かった。ライバルがいて、彼にだけは絶対負けたくなかった。それが負けてしまった。その負けたときの悔しさ。碁石を盤に投げつけたいほどカーッとなった。そのとき、S兄は、自分の中にこんな怒りがあるということに気が付いた。怒りは人を殺す。それに気づいて私は碁を止めましたと仰った。
それと前後する私の思い出です。NHKで大阪弁で話すアナウンサーのインタビュー番組があった。工藤棋士がタイトルを取ったときでしたか、そのインタビューにこう話していました。「わたしも子供の時から将棋が好きで、親父とやるんですよ。ほんとにコテンパにやられると、子どもながら手がぷるぷると震えて涙が出て、ほんとに悔しい」と。そのときに久保さんが言っていました。「そうなんです。囲碁であれば陣地が一目か二目少ないだけでいい線まで行ったと目に見えてわかるんだけども、将棋の場合には首を取られてしまうような誰が見ても負けという状態になる。しかもそのときに、相手に『負けました』と言わないと投了にならない。負けた相手に『負けました』と頭を下げるあの屈辱感、それは激しいものです」と。そうかなと思いました。
先ほどのS兄の話になりますが、S兄、「私はそれに気づいて碁を止めました。自分の心の中にこんな醜いものがあると気がつかなかった」。S兄のそこに学ぶ謙虚さ、光に従う柔和さが思われます。
キリストは御子であられるのに、お受けになったさまざまな苦しみによって従順を学ばれた。
イエス様が学ぶって、いったい何を学ばれたのだろうか。イエス様とご兄弟の関係を考えてみるとき、ヨハネの福音書を見ますと、兄弟たちはイエス様を信じていなかった。だから兄弟関係でも、イエス様はずいぶんと辛いところをお通りになったろうと思います。パウロとペテロの関係、パウロとマルコの関係、パウロとバルナバの関係、あの素晴らしい信仰の器たちが人間関係でけっこう辛い思いをしている。イエス様にしてそうなんです。絶えず学び続ける謙虚さ。光に従う柔和さ。絶えず主イエスを見上げ続ける。私はここに聖潔(きよめ)の証人としての姿があるように思うのです。私たちはこのキリストの円満さを慕い求めながら、この聖潔(きよめ)の道をともに歩ませていただきたいと心から願うことであります。
※音声データ、画像は教会からお借りしています。
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