きょうのことば『セラの福音』
インマヌエル盛岡キリスト教会の2021年05月09日(日)の礼拝メッセージをおつたえいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で48年目のご奉仕をしておられます。
説教題 『セラの福音』 (國光勝美 牧師)
聖書箇所 新約聖書 ヨハネの福音書14章26~27節
14:26しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。 14:27わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。
<お話し>
この朝は、「セラの福音」という説教題をつけさせていただきました。このメッセージに関わる内容は、盛岡教会発行の「主の角笛」にも、また一か月ほど前の教団発行の「教報」の燭台というコラムにも記させていただいたおことばを改めて心に留めたいと導かれております。
「セラ」という言葉が聖書の中、特に詩篇の中に限って何回出てくるかをPC検索したところ72回で、その多さを心に留めました。
さて、「セラ」ということばの意味、私たちの理解に共通しているのは、このフェルマータという音楽記号です。勿論、詩篇というのは、本来その一定のリズム、まさしく詩を謳うことが前提となっている。しばし詠嘆する。すこし思いを巡らして留まるというような、或いは、さらにそこから調を変えてといったらいいのか、転調というのでしょうか。すこし趣を変えたトーンに行きましょうと。色々な意味が詩にはあるでしょう。私たちが比較的知っている音楽記号としては、フェルマータというのがあります。これは本来イタリア語で「停止」を意味している。それからもう一つ、一説によると、地平線なり海なりに一日の太陽が沈んでいく。その地平線、水平線に太陽が沈んできょうの一日が終わるというような意味でその形を表しているのがこのマークであると知りました。
イタリアを旅行した人の写真があります。何かお気づきでしょうか。BUS STOP。バスの停留所です。その下にFERMATAと書いてある。イタリアのバス停はフェルマータ。バスが走ってきて、ここで一旦止まりますよ、降りる人は降りて、乗る人は乗ってください。そして、もういちど、ここからスタートしますよ。このようにバス停を表すのがフェルマータ。なるほどと改めてこのことを興味深く見ました。
さてきょうのメセージでありますが、
14:27わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。
「平安」。この言葉は世の中ではあまり使われない。聖書を読むようになって、こんなにも「平安」ということばが使われるんだなと改めて思った言葉の一つです。
わたしの平安を与えます。
イエス様がお持ちの心の平安、それをイエス様が私たちに与えてくださる。「わたしの平安を与えるんだ」。とてもほっとすることばであります。
イエス様は大いに人々の歓待を受けて、そして最後にはご存知の通りの十字架に追いやられる。そしてまたお弟子さんたち、ペテロ、ヤコブ、その他、お弟子さんたちさえもまだ十分には十字架の意味をわかっていない。そういうもどかしさ等などいろいろなことがあり、そして最後の晩餐でお弟子さんたちに言われる。「いいかい、わたしの平安をあなた方に与えるからね。わたしはこれからあなたがたのもとからいなくなるけれども、ひるんじゃいけないよ。わたしの平安を与えるからね」。それはよく考えてみると、イエス様はいつでも御父との深い交わりの中の心の安心を持っていた。そのことを心に留めたいと思うのです。
そしてきょうはほんとうの安息、主の恵みに憩うということを聖書の幾つかの箇所から、メッセージというよりも、聖書のおことばを心に留めたいと思います。
詩篇127:2
1主が家を建てるのでなければ 建てる者の働きはむなしい。
主が町を守るのでなければ 守る者の見張りはむなしい。
2あなたがたが早く起き 遅く休み 労苦の糧を食べたとしても それはむなしい。
実に 主は愛する者に眠りを与えてくださる。
私たちは一生懸命にわざに励みますけれども、ほんとうのわざは、イエス様ご自身がなさることである。だからこのお方を信じ、このお方の中に休んづる。この「セラ」、主に憩う時を得たいものです。
詩篇65:1
1主よ 御前には静けさがあり シオンには賛美があります。
あなたに誓いが果たされますように。
どうですか。きょう私たちは、今、御前にあるのですけれども、静けさを心の中に肯くものでありたいですね。いまのこと、このこと、どうなるんだろうか、どうしようか、勿論私たちはそういう中にあるのですけれども、ほんとうに家を建て、わざをなさるのは主なんだ。自分のわざを休めて、主の前にしばし静まる。御前に静けさがある。こうありたいものです。
第一ペテロ1:8
8あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに踊っています。
さきほど、フェルマータというのがしばし休んで、そしてその後調を変える。転調といったらいいのか、そうか、そうだよな、救われているんだ、天に輝く栄光が待っているんだというところにふっと心の中に流れている音階なり、調べなりが。ああ、そうだ、私はこの中に今いるんじゃないか。こんな恵まれているところに自分はいるんじゃないか。どうでしょうか。この1週間もいろんなところを歩んできたお互いですけれども、もういちど、そうだったと思い返しましょう。
イザヤ46:4
4あなたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す。
聖書のおことばによって、わー、そうだった。だって自分が今ここにこう生きているのは、主が私にいのちを与え、この生涯をここまで導いてくださったから。いま「あなたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す」。そうだ、あの時、主は私を背負ってくださったんだ。同じおことばが、主は、約束としてきょうこのズームの礼拝に身を置いているお一人お一人に主は約束をしてくださっておられる。「わたしは背負う、そうしてきたのだ、そうじゃなかったか」、「わたしは運ぶ、背負って救い出す」。このお方に憩えばいいのだ。主の背中におんぶされるときに、躊躇して体を強ばらせるんじゃなくて、背負われている時にほんとうに信頼して主の背に、宜しくお願いしますと背負っていただく。頑張って体を硬くしているんじゃないんだ。
ローマ8:37
37しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。
「しかし、これらすべてにおいても」、パウロは、多くの苦難、迫害、困難があった。「これらすべての中にあっても私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者なんだ」。そうだ。そして、これを思いめぐらすときに、やっぱり、思いだされるのは
マタイ11:28
「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」
ほんとうにほっとするおことばに励まされます。
セラの時、セラの恵み。これは「さあ、やめなさい。一旦止まりましょう」。イタリアのバスではありませんけれども、一生懸命に走っていたのをちょっと休んで、止まって、それがセラが命じられている時です。
詩篇46:10汝ら静まりて、我の神たるを知れ。この文語訳のことばがピタりと嵌ります。
黙せ、静まれ。ガリラヤの湖に声をかけて鎮めてくださるお方は、「ほら、わたしだよ」。「黙せ、静まれ」。こうお声をかけてくださる。そうだ。「神は我らの避けどころ、また力、苦しむときそこにある助け」。ゼカリヤ書にもありますけれども、「すべて肉なる者よ、主の前に静まれ」。文語訳には「主の前に粛然たれ」とあります。主の前に粛然たれ。
このコマで、何を皆さんにお伝えしようとしているでしょうか。このコマは止まっているでしょうか。それともこのまま回っているでしょうか。激しく回っている時、一見止まっているように見えるコマですけれども、実は、働きは進んでいるんです。
詩篇62:1
1私の魂は黙って、ただ神を待ち望む。
私の救いは神から来る。
2神こそ わが岩 わが救い わがやぐら。
私は決して揺るがされない。
3おまえたちは いつまで一人の人を襲うのか。
お前たちは こぞって打ち殺そうとしている。
城壁を傾け 石垣を倒すように。
4実に彼らは 人を高い地位から 突き落そうと企んでいる。
彼らは偽りを好み 口では祝福し 心では呪う。
5私の魂よ 黙って ただ神を待ち望め。
私の望みは神から来るからだ。
6神こそ わが岩 わが救い わがやぐら。
私は揺るがされることがない。
7私の救いと栄光は ただ神にある。
私の力の岩と避けどころは 神のうちにある。
8民よ どんなときにも神に信頼せよ。
あなた方の心を 神の御前に注ぎだせ。
神はわれらの避け所である。
この左側の方に記してある1~4節のような、私たちはそういう日々の生活という中に身を置いてきました。そして自問自答する。わたしの魂はただ黙って神を待ち望む。神こそは。そして右側の方を見ると、まさに左側の方のところから影響して、深い確信をもつ。わたしの魂は黙ってただ神を待ち望め。私の望みは神から来る。神こそ我が岩わが救いわがやぐら。私は揺るがされることはない。私の救いと栄光はただ神にある。私の力の岩と避け所は神の内にある。そして「私」といってきたダビデが、こんどは民に呼びかけて、そうだ、民よどんなときにも神に信頼せよ。今まで「私の心」でしたけれども、あなた方の心を神の御前に注ぎ出せ。神はわれらの避け所である。
さまざまなところを通ってきたお互いです。心の中にはさまざまなものが錯そうし、ガリラヤの海の嵐が止まない。そのような状態のときには、ひたと静まること。この技術は大事です。セラという時を自分に当てはめるスキル、技術、テクニックをその人が持っているかどうか。疾走している車に急ブレーキをかけてピタリとそこに静かに止まることができる。そういう技術を持っている人は、すごいものだと蔦田院長から聞いたことがあります。またしてもまたしても心の中に波立つ、そのようなときに、主の前にセラの時を持つ。
私の魂は黙って、ただ神を待ち望む。これが文語訳ですと我動かされじ。そしてまた別なところを見ますといたくは動かされじとあり、おもしろいなあと思います。全部できている人が、イエス様のような方が大きな試練に遭ってびくともしないなら、それはそれで納得もできますけども、弱さを持っている私たち。だけれども、いたくは動かされじ。裏から見ると、じゃちょっとは動いたのね、と言いたくなりますけれども、いいじゃないですか。
私の魂は黙って、ただ神を待ち望む。
そのときに、セラの恵みが私たちに与えられることを思いましょう。
※音声データ、イラストは教会からお借りしています。
⏰06時31分 更新
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