きょうのことば「『主の祈り』の福音」
インマヌエル盛岡キリスト教会の2021年05月16日(日)の礼拝メッセージをおつたえいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で48年目のご奉仕をしておられます。
説教題 『「主の祈り」の福音』 (國光勝美 牧師)
聖書箇所 新約聖書 マタイの福音書6章9~15節
9 ですから、あなたがたはこう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。
10 御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。
11 私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。
12 私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。
13 私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。
14 もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。
15 しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。
<お話し>
さて、主の祈りは「最大の殉教者」であると言われていますが、何のことでしょうか。これはマルチン・ルターが述べていることです。つまり、この主の祈りが、あまりに考えられもせずに唱えられるという、意味も分からずしてただ唱えられるならば、この主の祈りは、最大の殉教者なのだと聖なる皮肉をこめてルターは言っている。私自身もここに自戒を新たにしたいと思っているわけであります。
先ず今日お開きしましたところがマタイ6章9節から15節ですが、もう一つ、ルカの11章1節から4節をお読みいたします。
1 さて、イエスはある場所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」
2 そこでイエスは彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、御名が聖なるものとされますように。御国が来ますように。
3 私たちの日ごとの糧を、毎日お与えください。
4 私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある者をみな赦します。私たちを試みに会わせないでください。」
マタイと今お読みいたしましたルカのところが、主が教えられた祈り「主の祈り」として世界中に広がっているわけであります。
「主の祈り」は「天にいます私たちの父よ」、この呼びかけで始まります。そして「国とちからと栄とは限りなくあなたにありますように」という頌栄で締めくくられます。この「父」という言葉は、まだ幼い子どもが自分のお父さんに親しく呼びかけている言葉です。どうかすると「父上」といった感じの改まった呼びかけのようにこれを意識してしまう恐れがあるのですが、本来のヘブルの人たちのこの呼びかけは「アバ父」であり、親しみのこもる、幼子がお父さんに呼びかけるような言葉なのです。信頼に満ちた呼び方です。「父上」というと私たちを厳しい目で見ており、諭されでもするような気がするのですが、そうではない。先ずそれを心に留めましょう。そして先ず親しく「お父さん」と呼びかけて、「主の祈り」をお捧げしたいものです。
この主の祈りは前半と後半に分かれます。最初は神様のための祈り。そして後半は、私たちのため、「我らを」という複数形で出てきます。我らの日用の糧を、我らに負い目あるものを、といったように。前半は天におられるお父様の御名が崇められますように、御国が来ますように。御心が天で行われますように、という先ず神様のための祈りを捧げた後、我らの、という祈りが後半にあります。9節、10節の前半、後半。それから11節、12節、13節。
最初に、御名が崇められますように。私たちはついついお題目を唱えるように言ってしまうのですが、御名が崇められる、これは、モーセの時代から、旧約の時代から、神様の御名前をみだりに唱えてはならない。みだりに唱えるものは大きな罪を犯す者であると言われておりますので、ユダヤの人たちは、神様のお名前を口にするということは決してありませんでした。その代わり、御名が崇められますようにという言葉によって、どうか神様ご自身が、私たちの手垢のついているいろいろなものではなく、ほんとうに聖なるものと崇められますようにというのが精いっぱいの祈りです。イエス様がそのようにお弟子さんたちに祈るよう、どうか神様の御名をみだりに唱えるような手垢のつくような祈り方をするのではなく、ほんとうに神様の前に、聖なるお方の前に居住まいを正す。「どうか御名が崇められますように」。
それから「御国が来ますように」というのは、当時のユダヤの人たちのいちばんの願いは、メシヤがはやくこの地上に降りてくださって私たちを救ってくださるように。我らを王の民、一等国民として我らをどうぞお救いくださいという切なる祈りであるとき、どうか神様の御国がきますように。我らがローマのくびきから早く解放せられて我らが覇権を握ることができるようにというような現実的な願望を超えて、ほんとうにあなたの御国が来て、天で神様のみこころがなされるように、どうか私たちが生きているこの地で、あなたのみこころが為されますように。こう祈りなさいとイエス様はお弟子さんたちに教えられたのです。
そしてこんどは私たちに「日ごとの糧を与えてください」と祈るようにと。私たちが神様の前に、物質的な必要を与えてくださいとお祈りすることは意味のあることです。日ごとの糧を与えてくださいと、イエス様は祈るように教えてくださいました。今日の食料のために、今日の生活のために、生業が祝されますようにとお祈りすることは、イエス様が命じられたことなのです。教えられたことなのです。決して質の低いお祈りというものではない。人のための祈りとして、最初に、「どうか私たちの日常における日ごとの糧を与えてください」。
それからもう一つ、「私たちの負い目をお許しください」。或いは、「罪を赦してください」。これは、私たちはインマヌエルの群れで礼拝を共に守っておりますから、主の祈りというときに、「我らに負い目あるものを、我らが赦すごとく、我らの負い目をもゆるしたまえ」と、「負い目」という言葉で祈りますが、何かのきっかけで他の教会に行ってらっしゃるクリスチャンの方々と、それじゃ一緒に主の祈りをお捧げしましょうというときに、私たちが、「我らに負い目あるものを」と祈るところを、「我らに罪あるものを」と「罪」という言葉でお祈りをされる方々もいらっしゃいます。おやっと戸惑うときもあります。実はこれはどちらにも訳すことができる。「負い目」とも「罪」とも翻訳できる言葉が使われております。いったいどちらで、主の教えられた祈りとして私たちは日本語で祈るのか。実は原語では両方の意味があるのです。私たちが日本語として祈るときにどっちを唱えるかは、これは選択の問題なのです。
個人的な思い出ですが、私は御茶ノ水の会館で信仰に導かれました。主の祈りをそこで初めて聞きまして、「罪」という言葉で祈るのがふつうだと思っていた。それが、インマヌエルに導かれて礼拝に出たときに、「負い目」と。ああここではそういうんだなと気が付いた、そういう思い出があります。何かのときにインマヌエルの講壇で、「負い目」と「罪」ということについてのお話しがあったので一層印象深く覚えているのですが。
インマヌエルの創設者の蔦田二雄という人が言ったことは絶対であるというのではありませんが。聞いたことをそのまま思いだしますと、私たちは「きよめ」ということを主張している、それを大切な嗣業として受け継いでいる群れの中にいるとき、この罪、負い目を考えると、罪というのは、意識的に神様に背く、そういう意志的な反神、神に逆らう、そういう意識をもって逆らう、これは罪である。しかし、そうでなくして、意識的に神様に背こうということではなく、人間の持っている弱さ、脆弱さのゆえに神様の前に本来そうであってはいけないところを、やってしまったというところ、そういうことがいっぱいあるわけです。そのときにそれを、毎聖日、毎礼拝で我らの罪をゆるしたまえというと、毎週毎週意志的に神様に罪を犯している私をどうぞゆるしてくださいと祈るのはそれはイエス様がお教えになっている思いとどちらかというならば、神様に背くそういう意識的なものは血潮のゆえに憐れみのゆえに罪きよめられて神さまの前にお祈りするのであって、出ているのであって、だけれども私たちがこの地上にあるときに、足りなさ弱さのゆえにいっぱいそういうことがある。そこで、「我らの負い目をもゆるし給え」と祈ることが相応しいのではないか。どちらが良い悪いの問題ではなく、我らはその選択として「負い目」という方を選んで祈っているのですと。これが私にも良い心の整理になったように思います。
そうです。意志的に神様に背こうとするそういったものではなくして、だけれども、生まれつきの性質として、足りなさ、弱さ、そういうもののゆえに、いかにその悲しませてしまうような、でもそれは成長して神様のご寛容をいただきながら、やがてイエス・キリストの形に似せられていくようになるのでしょうけれども、それを期待しながら「我らの負い目をゆるし給え」とこのように祈っていくのはとても意味のあることだと思うのです。
それからイエス様は私たちを「こころみにあわせないで悪から救ってください」と祈るようにと教えてくださった。こころみにあわせないでください。私たちはほんとうにこころみ、色々なものに直面して日々を生きているように思います。そのこころみというものが持っている良い面、それは私たちをより純粋なものとして整えてくれるという意味の良い面もありますけれども、しかし、どうか「こころみにあわせないでください」。これは私たちの切なる祈りです。どうか今週も、これからも私たちを、「主よこころみにあわせないでください。そして悪から救ってください」。私たちがこころみにあったとき、それはきっと神様がおゆるしくださって、そこで私たちがどういう心の動きをするのか、どういう態度をとるのかということを神様はきっと私たちをより良いものとして整えてくださるためにおゆるしになることはあるでしょう。しかし、「主よこころみにあわせないでください。そして悪から救ってください」という祈り、このことをさせていただきたい。世の中にはさまざまな危険が満ちている。そのような中にあって、真実に「こころみにあわせないでください」。エゴの祈りではなくして、弱さを知っていればいるほど、足りなさを知っていればいるほど、「主よ、ですからこころみにあわせないでください」とお祈りをすることは、みこころに適うことではないでしょうか。そして、「悪から救ってください」。
先ほどルカの11章をお読みしました。改めて「主よ御名が聖なるものとせられますように、御国が来ますように、そして私たちの日ごとの糧を毎日お与えください」
今週、私たちが歩む中で、具体的なあの問題、この問題を、切に神様の前に祈る、このことをさせていただきたいと思うのです。
私たちは、「主の祈り」を日ごとに祈ります。これは偉大なるマンネリズムだと私は思うのです。それをルターは「最大の殉教者」と。しかし私は、「聖なるマンネリズム」にそれを変えたいと思うのです。私たちがこの主の祈りに親しんで、きょうも祈り、祈り続けていくと、主の祈りのある部分が「我らをこころみにあわせたもうな、主よ、ほんとうにそうです」と、ある時突然、聖霊様が主の祈りのある部分を霊的納得を持って肯かせてくださる。主の祈りに親しむことです。「主の祈り」が「最大の殉教者」というルターの言葉を引っ繰り返すように、偉大な聖なるマンネリズムである「主の祈り」に親しんで、今週もどうかこの「主の祈り」のゆえに、守られ歩ませていただきたいと願うものです。
※音声データ、画像は教会からお借りしています。
⏰05時50分更新
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