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2021年5月

210531クラシック倶楽部を聴く 一行の詩のために~つのだたかしと望月通陽(もちづきみちあき)の世界~

リルケの小説「マルテの手記」から生まれた美術家・望月通陽の作品が飾られている小さな美術館as it is(あるがままに)を訪ね、作品を前にときには詩を朗読してはリュート奏者つのだたかしが奏でる音楽とは。 【曲目】涙のパヴァーヌ、運命(ダウランド作曲)、サラバンド(プーランク作曲)月とりんご、雨のミロンガ(つのだたかし作曲)、トッカータ第6番(カプスベルガー作曲)、キリストは生まれたまいぬ(ユーデンキューニヒ作曲)、パバーナ第4番、第6番(ミラン作曲)、そは5月(ダラス作曲)、ぼだい樹の下で(フォーゲルヴァイデ作曲)ほか【収録】2021年3月 美術館as it is(千葉県長南町)ー番組紹介よりー

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望月通陽の作品2点

つのだたかしのコメント
望月は、彼は音楽家じゃないし、僕は物書きでも物つくりでもないので、あまりそこで芸術的な話を戦わすことはなくて、必要がない。できて来たものを「いいね」とお互いに言うような感じですね。これは今回だけじゃなくていつも思うに望月さんの作品というのは、とても音楽的な感じがする。何かこう、こういう静かなホールで彼の絵を見ていると、何かが聴こえるみたいな、それも滔々と流れて来る音楽ではなくて、中に訴えかけてくれるものというか、中に響いてくるというのがすごく幸せな感じはしますね。ですから望月君の作品は、そうした内なる音楽というのを持ってる作家なのかという。たとえばCDを作った場合に、これに何か絵をつけてくれると最初の編集したものを彼に聴いてもらう。そうすると何だかいろいろなものがにょろにょろと出てくるんですよ。魔法のように。

 この場所(美術館as it is)はもう夢の場所。ここで演奏ができるなんて幸せだと思いますね。手触りがあるもの。やっぱりこのすこし雑味があるといいますか、つるつるにしてないところ、壁でも何でも。手触りがあるというのはリュートの中にもあるんです。音に、2本の弦が完璧に1本に聴こえないところがあるんですね。そこがサワッてくる。サワリのある音楽というのは、ちょっとノイズが、いい音に対する感覚というのがちょっと。ヨーロッパの楽器の中に教わってくるものとはちょっと違う。むしろ民族音楽の中にあるサワリ。三味線のサワリとか琵琶のビンビンというそれだけでぞくぞくとするような音がいっぱいあるわけですよね。僕は歌は大好きなんですけど、歌うんじゃなくて喋る。ぼそぼそ喋るんですけど、喋ってるような音楽はいいなあと思う。リュートを弾いて喋る、こんどは音が作りだす、音が鳴ってるから聴こえてくる静けさみたいなとこが心にサワるんですね。

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リュート

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ウード:日本の琵琶や西洋のリュートの親戚で古くから中近東で愛される民俗楽器

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バロック・ギター

 

曲目
サラバンド(プーランク作曲)
月とりんご(つのだたかし作曲)
ファンタジア(作者不詳 16世紀イタリア)
聖母マリアの頌歌から「バラの中のバラ」(アルフォンソ10世編纂 13世紀スペイン)
プロピニャン(作者不詳 15-16世紀 スペイン)
パバーナ第4(ミラン作曲)
運命(ダウランド作曲)
パバーナ第6番(ミラン作曲)
そは5月(ダラス作曲)
ぼだい樹の下で(フォーゲルヴァイデ作曲)
トッカータ第6番(カプスベルガー作曲)
プレアンベル(ノイジドラー作曲)
涙のパヴァーヌ(ダウランド作曲)
ファンタジア(ナルバエス作曲)
こずえのロシニョール(作曲者不詳 17世紀 フランス)
恋のためにすべてを失って(アテニャン編)
雨のミロンガ(つのだたかし作曲)
キリストは生まれたまいぬ(ユーデンキューニヒ作曲)
カナリー(作曲者不詳 17世紀 イギリス)

 

🎵上記の曲をリュート、ウード、バロック・ギターの3通りの楽器での演奏と詩と詩の朗読、絵画、造形、古楽器が交錯し互いが静かなおしゃべりをしているかのトータルなすばらしさ。オンデマンドでは詩を味わい、この穏やかな内なる時間に再び与ることができそう。企画、制作に感謝!

🎧名曲アルバム
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⛳ 今月の最後の豊かな時間。しあわせを感じながらの演奏にしあわせをもらいながら。21時35分更新

 

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盛岡市のアマチュアアンサンブル シンフォニエッタ盛岡「春のコンサート」を聴く

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 きのう第50回記念 盛岡芸術祭 管弦楽部門、シンフォニエッタ盛岡の春のコンサート、聴きました!
10分ばかり前に着席。ステージ上に並んだまだ空席の椅子、譜面台。置かれてあるコントラバス、ピアノ。そしてこのホールに設えられてある美しいパイプオルガンを見上げながら、久方ぶりのコンサート、胸に迫るものがありました。
団員入場。コンサートミストレス宮野ゆかりさんがバイオリンを構え、チューニングの音がひとしきり。佐々木宏代表が「…昨年はコロナ禍で演奏会が中止となり、しばらくは活動休止が続きましたが、コロナ感染対策のもと音楽活動を再開し練習に励んでまいりました…」とプログラムに挨拶。佐々木駿指揮者の登場となりました。
 ほんとうにベートーベンの交響曲7番を全曲やるのかな。思ううちにプログラム1番のモーツァルトの「劇場支配人」は鳴り、期待の7番。弾き進むほどに質感が増してくるシンフォニエッタ盛岡。第二楽章に入ったときには、ほんとうに笑いがこみあげてきました。この7番を聴いて笑ったことは一度もないのですが、ほんとうに今回は愉快でなりませんでした。「どうだい、コロナくん、大したもんだろう、これじゃ、さしもの君も出番なしってとこさ。それからはもうコロナが指揮者のタクトに突かれて転がり落ちるやら、でっかい弦楽器のびんとした弦にバシッと弾き飛ばされるやら、高らかな金管に吹き飛ばされるやら、勝手違ったるコロナ菌の大騒動、おおわらわ。観客席からは見えないステージ上の空間にはコロナ菌がへなへなと。すっかり正体を失ったコロナ菌がもんどり打ってひっくり返り、もう息も絶え絶え。実にすばらしいベートーベンの7番でした。
 それからはもうコロナをうっちゃっておいて、佐藤公治さん編曲のフォスターメドレーや四季の饗宴。そして、「どんぐりころころオケにはまってさあ大変!」の初演。アンコールをすっかり楽しみました。それにしても、7番、あの輻湊した美しさをよくぞ。どんぐりオケにはまったクラシックの数々の曲が実に原型をはっきり、くっきりと。最後まで感覚的にもごまかしのない演奏の鮮やかさ! 楽しいひと時でした!!

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きょうのことば『待ち望まれたペンテコステ』

インマヌエル盛岡キリスト教会20210523()のペンテコステの礼拝メッセージをおつたえいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で48年目のご奉仕をしておられます。


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説教題 『待ち望まれたペンテコステ』  (國光勝美 牧師)
聖書箇所 新約聖書 使徒の働き2章1~4節

1 五旬節の日になって、皆が同じ場所に集まっていた。
2 すると天から突然、激しい風が吹いて来たような響きが起こり、彼らが座っていた家全体に響き渡った。
3 また、炎のような舌が分かれて現れ、一人ひとりの上にとどまった。
4 すると皆が聖霊に満たされ、御霊が語らせるままに、他国のいろいろなことばで話し始めた。

 

<お話し>

 きょうは「待ち望まれたペンテコステ」 という題で、ことしの五旬節、ペンテコステ礼拝を持たせていただきます。

 待ち望みということを思い巡らせておりますとき、今このとき皆さんがが切実に求めているのはワクチンの接種でありましょう。つい先ごろ、ご近所の方とお話ししました。私は712日の申し込みが可能だというということ。その方は私よりも年齢が上のようでして、「私はそれよりもはやい」と。天気の挨拶から話しを始める方が多いんですけれども、「先生はいつですか」と挨拶代わりに訊かれて、今はそういう時なんだなと改めて思いました。皆さんがどれほど待ち望んでいるのかを痛感いたします。ほんとうにそれが必要なんだ。ほんとうにワクチン接種を期待している。私も期待してないわけじゃないんですけれども、皆さんにとってそうなんだということに気づきました。

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 これほどに何かを待ち望んだことはあったかなと振り返ってみたんです。ありました。昔のマッキントッシュのクラッシックというパソコン。今は屋根裏部屋に眠っています。電源を入れてみますと、ポーンという音が出まして、ああ懐かしい音だなと思ったんですが、これが、実は私が初めて手にしたパソコンです。教会の事務のために欲しかったのを思い出します。
 教会が毎年刊行している「葡萄の樹」の40周年記念誌を見ると、1991年、そうか30年前に手に入れたんだなあと思いました。実はその前まではリコーのワープロを使っていました。これが1986年。それ以前は何を使っていたかというと謄写印刷です。週報などを鉄筆で作っておりました。86年にリコーのワープロを手に入れたときの嬉しさを思い出します。随分教会の事務が楽になりました。でもそのうちにワープロよりもこれからはパソコンの時代だということで、当時NEC98シリーズが日本の90パーセント以上のシエアを持っていたので、買うならこれなのかなあと思っていました。ちょうど東京に当時おりましたひろ子先生の弟H兄が文具店をしておりまして、文具店が契約をしておりましてマックのパソコンが手に入るというのです。素人でも扱いやすいと聞きまして注文しました。いつ入ってくるだろうか、いつ入ってくるだろうかとほんとうに期待していたんです。待ってるときはなかなか入ってこなくて、たぶん私の記憶だと注文してから、入ったよ、そちらに送るよと連絡が来るまで3か月はかかったように思います。その待っている3か月の長かったこと! 
 パソコンをはじめて扱われる方には分っていただけると思うのですが、まったくワープロと違う。教えてくれる人がいないと、どんなにマックが使いやすいからといってもそんなに他の家電のように扱えるわけではない。そしてプリンターも必要なわけです。どうしようか、困り果てていたときに、当時盛岡ではK文具店がマックの特約店になっていると知り、こちらから買った者じゃありませんが、わからないところがあるので教えてくださいとお願いしたところ、担当して下さった方がとても親身になってくださり、ある時には夜中の12時過ぎまで、これはこうでああで。表計算ならエクセルを購入しなくちゃだめですよと、そういうところから教えてもらって、あるときには無償でフォロウアップしてくださいました。当分K店には足を向けて寝られないと思うほどお世話になりましたが。ようやくそれでも何とか使えるようになったのがこのときです。
 どうしても必要だ、これからは使えなくちゃならない。パソコンが届くのを待っている3か月は、これは今までの物質的なことでいうならば忘れられないほど長かった数か月でした。
 なんでこんなお話を? 大切な礼拝の時間に。といいますのは、それだけの切望する思いで、お弟子さんたちは、ペンテコステ、聖霊降臨を待っていたのです。このメッセージをきのう準備させていただきながら、何回かの思いめぐらしの中に、どうしたら待ち望むことの大切さ、切実さをわかっていただけるだろうか。私はマックの必要のために、これだけ待ち望みをした。でもお弟子さんたちから見たのならば、イエス様は天にお帰りになられた。互いに似たり寄ったりのガリラヤの漁師で大した力もない自分たちがのこされてしまった。ローマの兵隊やユダヤの指導者たちがイエス様を十字架につけたときにも、びくびくして隠れ潜んでもうこのまま逃げたかった者たちです。
 しかしイエス様は天に帰られる前に弟子たちに命じておきました。

「エルサレムを離れないで、わたしから聞いた父の約束を待ちなさい」。

 イエス様が一緒にいないなら、もう一刻も早くこんなところから逃れたいと思う弟子たちの心を知るイエス様。不安だからといって、自分の判断や思い込みでじたばたするんじゃない。今あるところで、今一番必要なのはじたばたしないで、エルサレムを離れないで、つまり、イエス様が十字架につけられたその拠点、今一番居たくないところ、そのところを離れないで、そこで「わたしから聞いた父の約束を待ちなさい」。聖霊を与えるというのは、そのイエス様の約束は、天のお父様の約束である。あなた方は間もなく聖霊によるバプテスマを授けられる方々です。この約束をイエス様はお弟子さんたちにエルサレムを離れないで、私から聞いた父の約束を待ちなさい。待つんだ。

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 このイエス様のお約束を待つというときに、これは私も含めて、どういうイメージを持ったらいいのでしょう。その日はこんどの523日ですと仮に言われれば待ちやすくもあるでしょう。しかしはっきりと日時を知らされなくとも、それほどのリアルさをもって待ち望む、信じ切って待ち望むことです。イエス様がおいでくださる。インマヌエル盛岡キリスト教会においでくださる。ヨハネの福音書などを見ましても、「もうひとりの私自身」とイエス様は仰ってます。これが聖霊です。イエス様ご自身が今日いらっしゃるということが、ほんとうに告げられていて、その時を待ちなさいと言われている。ならば、私はどれだけこの今日の日を、どれだけ期待を持って、待っているだろうか、そのことを思うのです。

 自分が弱く小さい臆病な者というこの自分自身を知れば知るほど、ああイエス様がいらっしゃるんだ。勿論正確には聖霊ご自身、聖霊が与えられるということですが、敢えて、イメージをはっきりさせるために、イエス様がいらっしゃるというお約束を、どれだけ私はしっかりと受け止めているだろうか。そのように思いました。これが必要なんです。証人としてどうしても必要なんです。

しかし、聖霊があなた方の上に臨む時、あなた方は力を受けます。そして、エルサレム、ユダヤとサマリヤの全土、さらに地の果てにまで、私の証人となります。

「わたしの証人となります」。ペンテコステの力というときに、往々にして使徒の働きの2章にあるように、ペテロが説教をしたときに、その日救われた者3000人とか、次つぎと大きな救霊のわざが為されていることを「力を受ける」ことであると結び付けてしまいます。しかし私は自分自身、クリスチャン信仰生活を送らせていただく中に、イエス様は、私の証人となる。力を受けるのは人格的な力なのだ。「わたしの証人とその力」を神様は与えてくださる。

 ビリー・グラハムという今世紀最大の伝道者、救霊の器、説教者がいます。みんながみなビリー・グラハムのようになるわけではありません。一人ひとりが聖霊があなた方の上に臨むとき、わたしの証人となる。この思い巡らしのとき、私は、「大いなる石の顔」というお話をもって今回のメッセージを締めくくらせていただき、聖餐式に移っていきたいと導かれております。

「大いなる石の顔」をお読みいたします。

高い山々に囲まれた広くて大きい谷間に、数千人の人々が住んでいました。数マイル離れたところにある山腹の切り立った岸壁には人間の顔に見える巨大な岩石がありました。昔からの言い伝えによれば、いつの日かこの谷間から大いなる顔とそっくりの顔をした立派な人物が現れるというのです。アーネスト、これは真剣な、真面目な、という意味の名前が付いている人物です。アーネストという男の子が母親からその言い伝えを聞き、長生きしてどうしてもその人に会ってみたいと思いました。

 ちょうどそのころ、この谷間出身で商人として成功した大金持ちが現れ、故郷に戻って来るという知らせが入りました。その人は大いなる岩とそっくりな顔をしているという噂が広まりました。その人が馬車に乗ってやって来たとき、人々はその人が大いなる岩の顔にそっくりだと叫びました。しかしそのとき、道端にいた乞食の親子が慈悲を求めると、彼は銅貨を23枚地面に投げつけただけでした。アーネストは悲しい気持ちで岩を眺めますが、その岩の顔は、きっとあの人は来るさ、心配するなと言っているように感じられました。

 アーネストが青年になったとき、この谷間出身の有名な将軍が引退して故郷に戻ってくることになりました。人々は晩餐会を開いて歓迎し、彼の顔が大いなる顔に生き写しだというのですが、アーネストはどうしても納得できませんでした。数年後、アーネストは中年になり、ある程度世間に名を知られるようになっていました。その頃、この谷間出身の政治家で、大いなる顔に似ているという人が、大統領候補に選出されました。この政治家が選挙前に故郷訪問にやってくるのですが、人々は騎馬隊の出迎えを受け、四輪馬車に乗ったその人を見て、そっくりだという中で、アーネストは、似ているようだがこの人ではないと思うのでした。

 それから幾年か経ち、アーネストは白髪の老人になっていました。素朴な一介の夫婦でありながら高邁な思想の持ち主として広く世間に知られ、多くの人が話をしにやってきました。ある日、この谷間出身の詩人がアーネストを訪ねることになりました。アーネストは天才的なこの詩人の詩を読んだときに、魂が震える思いがしたのでこの人かもしれないと期待していたのですが、実際に会ってみると、言い伝えの人とは違うことがわかりました。アーネストが日没のとき戸外に集まった近隣の人たちに話をすることになっていました。アーネストが語りはじめると、彼のことばは思想と調和して力強く響き皆の心に染みとおっていきました。遠くには、金色の夕日の中、大いなる岩の顔が見える。その周りには白い雲がたなびいていて、アーネストの眉間にかかる白髪に似ていました。大いなる岩の顔は慈悲にあふれていました。この瞬間、ことばを口に出そうとしたアーネストの顔に浮かんだ表情の優しさに感動して、詩人は思わず両手をあげて叫びます。「見ろ、見ろ、かの大いなる岩の顔とはアーネストそのひとではないか」。誰もが詩人の言うことは正しいと思いました。こうして、預言は叶えられたのです。

 これは、ホーソンという人の「大いなる岩の顔」です。私は教科書で読んだ記憶がございます。

 聖霊が臨むとき、私たちは、あの人のようになりたい、この人のようになりたいというその思いを持ちやすいものです。「しかし、聖霊があなた方の上に臨むとき、あなた方は力を受けます。そして、わたしの証人になります」。というとき、ほんとうに聖霊に満たされた歩みをしている人は、いつの間にかあの人はイエス様のかおりを放つと言われるような在り方、私はペンテコステの力というときに、このような聖霊の力を持たせていただきたい。斯くあらせていただきたい、斯く語っている自ら、主よどうぞ、憐れんでください。心から祈りつつ、このペンテコステのメッセージとさせていただきたいと存じます。

※画像、音声データは教会からお借りしています。
⏰07時00更新


 

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雑感

けさのJ-MEROはこの写真1枚きり。Dscf4273-2

気が付くと22時55分。

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210528クラシック倶楽部を聴く ファブリス・ミリシェー トロンボーン・リサイタル

圧倒的なテクニックと豊かな表現力で「若きレジェンド」と賞賛される演奏家、ファブリス・ミリシェー。ピアノの中川賢一とのデュオでトロンボーンの妙技を聴く。【収録】2019年1月29日 武蔵野市民文化会館小ホールー番組紹介よりー

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ミリシェーのコメント

6歳のとき、姉のバイオリン、兄のピアノと一緒にピアノ・トリオをしたくてチェロをはじめました。14歳のとき、ジャズをやりたくなって「それならトロンボーンだ!」と。チェロ科と並行してトロンボーンをはじめました。聴いていただければ明らかなのですが、トロンボーンの魅力はまろやかで暖かい音色とその多彩な響きです。繊細で小さな音から力強い音まで幅広い響きで空間を彩ります。私の感性にはトロンボーンが一番合っているようです。金管楽器の中のトロンボーンは、弦楽器の中のチェロと立場が似ていますし、響きも音色も一番私に合っています。生徒には「音楽を楽しむこと」を伝えたいです。音楽を楽しみ共有することはどの楽器でも不変のよろこびです。技術は必要ですが音楽のすばらしさをかみしめ、分かち合うことが一番大切なのです。

 曲目
「トロンボーン・ソナタ「大天使ガブリエルの嘆き」」シュレック:作曲
クロアチア出身のバイオリニストで作曲家シュレックの作品で、聖書に登場する大天使ガブリエルの声をイメージしている。
「室内カプリッチョ 作品35クロール:作曲
「トロンボーンとピアノのためのバラード」マルタン:作曲
ジュネーブ国際コンクールの課題曲として作曲
「交響的小品 作品88ギルマン:作曲
フランス出身のオルガン奏者で作曲家のギルマンがパリ国立高等音楽院の試験曲として作曲。
「ゴールデン・スランバー」レノン&マッカートニー:作曲、武満徹:編曲
(ピアノ)中川賢一
6つの演奏会用小品「ホフマニアーダ」から」グラドキフ:作曲

🎵ミリシェーが、オンライン・マスタークラスについて語っているが、放送とはまた別にちょっと転載してみる。日本にいながら彼の講義を受けられるかもしれない。
「長い間、いつかは始めたいと思っていましたが、はじめは良い方法が見つかりませんでした。リアルタイムのオンライン動画通信でレッスンをしている人もいましたが、それが上手くいくとは思えませんでした。
一つ目の問題は時差です。例えば日本とは8時間の時差があります。生徒が10時にレッスンを受けたいとしたら、フランスにいる私は夜中の2時です。時差のせいでレッスン時間を決めるのがとても難しいのです。二つ目は音のクオリティです。インターネットの状況に左右され音がよく聞き取れない場合があります。三つ目は言葉の問題です。私は英語、フランス語、ドイツ語でレッスンをすることができますが、誰もがこれらの言語に堪能なわけではありません。
こうして、私は「生徒が自分の動画を送り、私がコメントをつけて送り返す」という方法を選びました。
まず生徒が自分の演奏をビデオに撮って私に送ります。例えば、今ギルマンを練習しているとします。彼は自分のビデオカメラでギルマンを演奏しているところを撮影します。それは、一人でもピアニストと一緒でもどちらでも構いません。
その後、受けとったビデオを見ながら私がレッスンをします。本人の演奏動画を流しながら、直すべきこと、もっとこうすべきだと思う箇所で一時停止をし、私がアドバイスをしているところを撮影します。
オンライン・マスタークラスならば、リアルタイムのオンライン動画通信による先ほど述べた3つの問題点は解決できます。また、一時停止もできますので、生徒は理解できるまで何度も聴くことができます。外国語が苦手な学生には特に重要ですね。」

 今回は、グラドキフの「6つの演奏会用小品「ホフマニアーダ」から」、これは大曲だなと思いながら聴く。はじめは錯綜とした感じだったが、思索的になり、第5曲でピアノの促しがよく聴こえだし、最後はちょっとトロンボーンの疾走に次いで音色が覆されたかの断定的、躍動的に。

 

🎧名曲アルバム。
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⛳22時03分更新

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210527 クラシック倶楽部を聴く MAGNUMTRIO フルートアンサンブル 福岡県春日市公開収録

世界が注目する次世代型フルートアンサンブル「MAGNUMTRIO」が登場多久潤一朗、神田勇哉、梶原一紘による、超絶技巧を駆使した圧巻のパフォーマンスちくわ笛 歌劇「ルスランとリュドミーラ」序曲(グリンカ)、コロブチカ(ロシア民謡)、アヴェ・マリア(バッハ/グノー)、童謡メドレー、クロック・アラーム(多久潤一朗)、ミニマルアニマル(多久潤一朗)、剣の舞(ハチャトゥリヤン)、交響詩「死の舞踏」(サン・サーンス)、ハイランドパーク(多久潤一朗)、ブラックバード(マッカートニー&レノン)、くまばちは飛ぶ2020年9月福岡県春日市公開収録 ―番組紹介よりー

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<プロフィール>
 2006年、東京藝術大学在学中に結成。多久潤一朗、神田勇哉、梶原一紘による次世代型フルートアンサンブル。ピッコロからアルト、バス、コントラバスフルートなどの特殊管、尺八型、リコーダー型、中華型、スライド型などの改造頭部管を使う。
 フルートのイメージからは想像し得ない音響を生み出す様々な特殊奏法や超絶技巧を駆使する特異なスタイルのパフォーマンスが注目され、世界各国で公演を行う。2020年ロシアのサンクトペテルブルクのマリインスキー劇場で行われたフルートフェスティバルに日本代表として出演。(番組の解説)

コメント(途中から)
多久:ピアノでドミソと弾いたら、これでもう終わっちゃうんです。ですから、もう3人でいっちゃかめっちゃかになって動かないと曲が成立しませんし、またコンサートを通すと、もうずっとフルートしか出てきませんから、やはりいろんなアイデアが必要になってくるんですね。ですので、私たちは自分たちの事をこう呼んでいるんです。フルートを突き詰めすぎた団体。きょうはこれをテーマに私たちがどれだけ突詰めているのかを皆様に紹介したいと思います。
先ずは、ふつうのフルートをコンサートフルートといいます。そして音が4つ低くなったアルトフルート、そして、1オクターブ低くなったバスフルート。さらに1オクターブ低くなったコントラバスフルートがあります。フルートは楽器が大きくなればなるほど音量がすこしまろやかになって音色がやさしくなるんですけれども、この低音フルートだけでグノーの「アヴェ・マリア」をお贈りします。

 特殊奏法というのは、簡単にいうと普通じゃない奏法です。フルートという楽器は特殊奏法が非常に多い楽器なんです。なぜかというと、口でできることを増幅するシステムだからなんです。口で弾けば、それがフルートで反響して打撃音になりますし、管の中に息を吹き込んでひゅーっと流したり、いろいろな特殊な音響を生み出すことができます。特殊奏法を極めたきっかけは、私はもともと現代音楽を専門にやっていたからなんです。現代音楽では特殊奏法の音を出すことが非常に多い。ただ特殊な音で特殊な音楽をやってるから、結果ふつうになっている。なので、この僕は、この特殊な奏法で普通の音楽をやったら、これがいちばん特殊なものになるのではないかなと、それがアイデアの発端です。
神田:音楽大学で楽器を学ぶということは、クラシックのレパートリーをきちんと吹けることが前提になってくるんですが、現代音楽の曲を演奏してくれと依頼が来たりですとかコンクールの課題曲になったりしたときに特殊奏法が出て来て、皆さんはそれをとりあえずできるようにするまで習得するというところが普通のルートなんですけれども、私たちはその特殊奏法がぼこっと一つだけ出てきたのを、こんなに面白い音がするのをただその音楽のためにだけ一回使うのはもったいないと、これをいかに形を変えて面白い音楽にできないかと、特殊奏法というのは非常に重要な私たちの活動の軸になっています。


多久:「ミニマルアニマル」では、パーカショニストを招いて共演したい。ただこのパーカショニストはちょっと癖が強い。謎のリズムを叩くのでいつも崩壊してしまうんですけれども、きょうはうまくいったらいいなと思っています。

多久:(SNSに投稿した「ちくわの吹き方講座」は12万回以上の再生があった。実際ちくわで鳥のさえずりを演奏)。特殊ということを売りにしてやっていた我々が見落としていたのは、フルーティストがフルートを吹くのはふつうだな。ほかのものを吹いたほうが受けるんだということに何で気づかなかったんだ。なのでこれから仲間の二人はいばらの道を歩まされることになると思います。

演奏にはいろいろな頭部管を使う。Bee モードヘッドジョイントは頭部管に穴をあけてラップを貼っている。音は懐かしさという感じ。多久は中華風な音と。グリッサンドヘッドジョイントはフルートではできないポルタメントとかができる頭部管を使ったり。またアルトリコーダーの頭の部分をフルートに挿してみたら、何と挿さってしまった。こういう楽器を使って「「剣の舞」、「死の舞踏」を、さらに「ハイランドパーク」を演奏します。

 

曲目

「歌劇「ルスランとリュドミーラ」序曲」グリンカ:作曲、多久 潤一朗:編曲
「コロブチカ」ロシア民謡:作曲、多久潤一朗:編曲
「アヴェ・マリア」グノー:作曲、多久潤一朗:編曲
「童謡メドレー」多久潤一朗:編曲
「クロック・アラーム」多久潤一朗:作曲
「ミニマルアニマル」多久潤一朗:作曲
「剣の舞」ハチャトゥリヤン:作曲、多久潤一朗:編曲
「交響詩「死の舞踏」」サン・サーンス:作曲、多久潤一朗:編曲
☆「ハイランドパーク」多久潤一朗:作曲
アンコール「ブラックバード」ポール・マッカートニー&ジョン・レノン:作曲、多久潤一朗:編曲
アンコール「くまばちは飛ぶ」リムスキー・コルサコフ:作曲、多久潤一朗:編曲

🎵多久の編、作曲にはぜんたいに遊び心が感じられる。自分が楽しく愉快になる旋律を編み出し組み立てるという感じが。

「童謡メドレー」では機関車が蒸気を噴き上げる音、滴がしたたる音、ぞうの鳴き声、小鳥のさえずり、にわとりの鬨の声、ウミネコの鳴き声。蜂の羽音、茶摘みの忙しさ爽やかさの音までを追求する愉快な自然描写。

「剣の舞」は改造フルートでの演奏。グリッサンド・ヘッドジョイント、リコーダー・ヘッド・ジョイントとちょっと見落として音だけを聞いた部分ではあったが、移動式の吹き口にはびっくり。

「ハイランド・パーク」ではタップ、足踏み、アンコールの「ブラックバード」では口笛。可能な限りの模索、試行錯誤。「くまばちは飛ぶ」は、いたずらなくまばちが、どこにどんな悪戯できるところがあるかと好奇心いっぱいな目を光らせながら飛ぶさまが浮かぶ。これがまさしくMAGNUMTRIOの好奇心に相通じると思われた。

「クロック・アラーム」は目覚ましに覚醒を促されながらの夢うつつでの作曲らしいのだが。

ちくわばかりではなく、ねぎ、空心菜も吹いて見せるのには驚き! ちくわでえんそうしたのは「大きな古時計」。ちくわではない何かピッコロかを吹いて音を合成したのではとさえ思われるのだが、正真正銘のちくわと見た。ほとんど手品か魔術のよう。

🎧名曲アルバムは

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⛳21時04分 更新

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210526 クラシック倶楽部を聴く エマニュエル・パユ フルート演奏会

89年神戸国際フルート・コン優勝以来、鮮やかな技術と流麗な音楽性で人気を博してきたパユ。今回はドイツ・バロックのテレマンと現代作品を交互に組みあわせた意欲的な公演。【演奏】エマニュエル・パユ(フルート)【収録】2019年12月2日 東京オペラシティ コンサートホールで収録番組紹介よりー

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 パユのコメント
フルート独奏の演奏会で方向性を一つに絞ると少し単調になりがちです。古典と現代の作品を交互に演奏することで、フルートの曲が時代を超えて作られてきたことがわかります。スピルチャルな目的や舞踏のため、それは人類の始まりにまでさかのぼります。それを聴きとることができるのです。テレマンとオネゲルやヴァレーズとの対比は聴衆にとっても興味深いはずです。いわば作曲家たちによる対話です。あなたの音楽の聴き方にも変化をもたらすでしょう。
私にとって舞台に上がることは、大道芸をするようなこととは違います。集中しなくてはなりません。独奏会ではなおさらです。徹底的に集中します。音符一つ一つに私の息と心を吹き込まなければ音は生まれません。責任は重大です。ですから演奏会は常に真剣勝負です。全身全霊を注ぎます。しかし音楽が楽しく跳びはねていたら私の心も躍ります。その喜びが私の演奏を通じて皆さんに伝われば嬉しいです。

曲目
☆「無伴奏フルートのための幻想曲 第1番 イ長調」テレマン:作曲
「比重21.5ヴァレーズ:作曲
「無伴奏フルートのための幻想曲 第10番 嬰へ短調」テレマン:作曲
「スクリーヴォ・イン・ヴェント」カーター:作曲
「無伴奏フルートのための幻想曲 第5番 ハ長調」テレマン:作曲
「めやぎの踊り」オネゲル:作曲
「無伴奏フルートのための幻想曲 第6番 二短調」テレマン:作曲
「ソナタ・アパッショナータ 嬰へ短調 作品140カークエーレルト:作曲
「無伴奏フルートのための幻想曲 第7番 二長調」テレマン:作曲

 

🎵今回のプログラム編成にパユの知見が。テレマン(16811767)の「無伴奏フルートのための幻想曲」、このバロックの響きをベースに巧みにそれぞれ個性の曲調の異なった現代曲を挿入し、飽きることなくバロックを際立たせ、それぞれの現代曲の特徴を際立たせ聴かせてくれた。

後期バロックに一世を風靡したテレマンの幻想曲第1番の次に「比重21.5(ヴァレーズ)、この次にテレマン第10番といった以上のような配列。「比重21.5」はプラチナの比重。解説では1936年フルート奏者のジョルジュ・バレールが新しく作ったプラチナ製のフルートのために作曲されたとか。尺八の節回しも感じられ、尺八の音域の事はわからないが、このような現代曲を尺八でやってみたら面白かろうと。「スクリーヴォ・イン・ヴェント」は「風に書く」の意。風がざわつく叢林に明滅させる光の屈折を写実的にとらえている感じが。異次元に足を掛けたかなと。「ソナタ・アパッショナータ」のカークェーレルトって、と思ったところに、ドイツの作曲家でありオルガニスと。この曲は1917年第一次世界大戦で知り合った友のために作られた曲と当意即妙な字幕解説。曲の終わりは「無伴奏フルートのための幻想曲 第7番」で、フルートの音が遠ざかっていくかに演奏しながらパユがステージの袖にすがたを消す。全曲無伴奏演奏という実力。ベルリン・フィルの首席であってみれば、当たり前といえばあたりまえなのだが、知見によるプログラム編成、演奏の質の高さに感銘。無伴奏フルートのための幻想曲は第10番がいちばんよかったが、この10番を次のベースに入れたことで、テレマンはこんなにいいものだよ、だから続けて最後まで聴きなさいというパユのお勧めが。

ネットにはこの番組から、作曲者、演奏家、曲目の解説、感想までみな出ている。パユがいうこれら作曲家たちの作品が時代を超えて響き合うのは、空中によく響き音がとおっていくフルートという楽器の特徴にもあるかとも思われた。無伴奏の幻想曲が体質的に合う。それにしても「比重」のネーミング、無機物的なネーミングがこの世界ではぎらりと光を放つという効果が。カーターの最強音、どきりとさせて素知らぬ顔で波を引かせてしまう見事さ。「めやぎの踊り」、これも言葉にすれば物議を招きそうだが、音の世界、音楽にしてしまうと振り上げられる拳もするりとかわせるというか、言葉は難儀なものだが、その点音楽は広く幅を利かせられるという感じが。パユのフルートは音の曳き際に余韻、味わいが。

🎧名曲アルバムはラヴェルの「マ・メール・ロア」から「妖精の国」。北原幸男&東京フィル。
写真は「妖精の国」ではなく、個人的な備忘録に「火の鳥」がパリ芸術座で初演されたときの2枚。

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⛳9時13分更新

 

 

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210525 クラシック倶楽部を聴く ルシエンヌ トランペットに恋して

(トランペット)ルシエンヌ・ルノダン・ヴァリ、(ピアノ)沢木 良子
秩父ミューズパーク音楽堂

ルシエンヌ:1999年フランス生まれのトランペット奏者。パリ国立高等音楽院でクラシックとジャズを同時に学ぶ。18歳でワーナー・クラシックスと専属契約。辻井伸行との共演は記憶に新しい。先ずはすべて耳から覚え、後で楽譜で確認する練習方法を取っている。
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 ルシエンヌのコメント
トランペット、授業で知ってすぐに気に入りました。自分の息が音になるところや、楽器の構え方とか……唇をうまく使えば人それぞれいろんな音色が出せる。それにどんなスタイルの曲も演奏できる。私はすぐに夢中になって世界中の曲を拭いてみたいと思った。クラシックもジャズも歌も何でも。
クラシックとジャズはバイリンガルのようなもの。私の演奏は自然体でいつも楽しんでいます。どんな作品だろうと、そこに“音楽”を感じるんです。頭で考えるのではなくて、自分の中から出てくるの。はだしで演奏するのは音楽を感じられるから。バイブレーションを感じるし、動いたり踊ったりしやすいの。自由な空間が欲しいんです。クラシックとジャズを行ったり来たりするのが好き。今朝の目覚めはクラシックで明日はジャズ。好きに選ぶことができるし、二つの音楽なしには生きられません。どちらも大事なんです。まだまだ上手になりたいし、常に学ぶことが大事です。いつも旅をしていたいとも思います。とにかく音楽をやっていきたいですね。素敵なホールで録音やコンサートを。そして常に楽しみたいんです。

曲目

☆「亡き王女のためのパヴァーヌ」ラヴェル:作曲
「スペインの七つの民謡」ファリャ:作曲
「組曲「動物の謝肉祭」から「白鳥」」サン・サーンス:作曲
「ロシアの踊り」オスカー・ベーメ:作曲
「オブリヴィオン」ピアソラ:作曲
「ウィーン風小行進曲」クライスラー:作曲
「愛の悲しみ」クライスラー:作曲
「スカルラッティの主題による変奏曲」マルセル・ビッチ:作曲
「ウォーキング・イン・ジ・エアー」ハワード・ブレイク:作曲
「虹の彼方に」アーレン:作曲

🎵 違和感のあったはだしも今回で違和感がとれた。しょうじきなところそればかりが気になり演奏をどこか曖昧に聴いたところがあったが、彼女はしっかりと柔らかな音色を聞き届け、これがルシアンヌと視聴者に納得させてしまった感じが。これも彼女が探り出した演奏を飽きさせず楽しく聴いてもらうためのパフォーマンスであるのかも。「トランペットはわたしの声です」。授業でトランペットの虜に。とにかく自由でありたい、いつも旅をしていたい、ずっと音楽をやり続けたいというルシエンヌ。サン・サーンスまではトランペットで物語を聴かせ、ベーメになると楽器がおしゃべりを始めるといった感じ。今回、トータルで自然な感じが。
 もしルシエンヌがブラック・ダイク・バンドの制服で演奏したとしたら、音の自由さはどうなる? とナンセンスな想像を。爽やかでセクシー。

🎧名曲アルバムは
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⛳21時13分更新

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210524 クラシック倶楽部を聴く 吉井瑞穂オーボエ・リサイタル 秋田県大仙市公開リサイタル

秋田県大仙市でおこなわれた世界的オーボエ奏者 吉井瑞穂のリサイタルから。巨匠アバドの薫陶を受け、2000年からマーラー室内管弦楽団の首席オーボエ奏者を務める実力派が、知る人ぞ知る名曲から朝ドラのテーマ音楽まで、オーボエの魅力たっぷりのプログラムを披露する。【曲目】オーボエとピアノのための組曲(パヴェル・ハース作曲)、風笛(大島ミチル作曲)ほか【収録】2019年6月14日 大曲市民会館番組紹介よりー

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岡純子は(ピアノ)

吉井 瑞穂 2000年にマーラー・チェンバー・オーケストラの首席オーボエ奏者に就任。07年のザルツブルク音楽祭では、フィッシャーの《オーボエ協奏曲》でソロデビュー。各新聞で絶賛された。いままでに、シュトゥットガルト放送交響楽団、バイエルン放送交響楽団、ケルン放送交響楽団、フランクフルト放送交響楽団などでソロ・オーボエ奏者として出演。
吉井 瑞穂のコメント
花火を見て:瞬間の芸術であるという事。2、3秒で無くなるものに、何時間も何週間も何か月も手間をかけて、その2秒、3秒のために、ほんとうに情熱と努力を惜しまない、その姿勢なのが、我々の音楽も、いま録音するという技術がありますけれども、本来はその場で終わってしまう瞬間芸術なので、(花火伝統文化継承資料館を見聴きして)何か同じ業種の方のインタビューを聴いているような驚きがありました。
最後の曲は「オーボエとピアノのための組曲」でパヴェル・ハース作曲。すこし濃く重いテーマなんですけれども、ちょうどこのパヴェル・ハースさんが45歳まで生きられて、亡くなったのはアウシュビッツの収容所で、ハユダヤ人だったためにガス室送りになった方なんですけども、そういうものすごく精神的にいろんなものが見えてくる曲なんです。そんな曲を最後に一曲選ばさせていただいたのは、やはりその平和と音楽のもたらすことのできる何が芸術で世の中のお役に立てるのかを自分に問いかけつつ皆さんと一緒に考えられたらいいなと思ってこの曲を最後に選んでみました。


岡 純子 10歳からピアノを始める。
大阪音楽大学卒業。在学中にオペラハウス管弦楽団と共演。
ジュネーブ音楽院伴奏科においてディプロム取得。第41回ティボールヴァルガ、ヴァイオリン国際コンクール公式伴奏者。西安国際オーボエフェスティバル公式伴奏者。
10回および11回 国際オーボエコンクール・軽井沢公式伴奏者。第3637回草津国際夏期音楽アカデミーでヴァイオリンクラス、ファゴットクラスのアシスタントピアニストを務める。
(OBOE
より転載)

☆「オーボエ四重奏曲 ヘ長調 K.370」モーツァルト:作曲、ピーター・ホジソン:編曲
「シチリア舞曲 作品78」フォーレ:作曲、アンリ・ビュッセル:編曲
「歌劇「イーゴリ公」から「ダッタン人の踊り」」ボロディン:作曲、グラハム・バスタブル:編曲
「風笛」大島 ミチル:作曲、荻野 松宣:編曲「映画「ミッション」から「ガブリエルのオーボエ」」モリコーネ:作曲
「オーボエとピアノのための組曲 作品17」パヴェル・ハース:作曲
パヴェル・ハースはナチス軍の占領下にチェコ北部のテレジン強制収容所に入れられた後アウシュヴィッツへ移送され、1944年ガス室でその生涯を閉じた。「オーボエとピアノのための組曲」は、第二次大戦が始まる1939年に作曲された。
アンコール「千の風になって」新井満:作曲、荻野松宣:編曲

🎵「シチリア舞曲 作品78、シチリアの空気感、青空を背景に動物たちが憩っている景色を勝手に想像しながら。「ダッタン人の踊り」、ダッタン人って? ググると短く分かりやすく解説してくれているブログがこちら「風笛」、瞼に移ろうノスタルジア。
「オーボエとピアノのための組曲 作品17、単純に通り抜けられない気がして
パヴェル・ハース:チェコのユダヤ人の靴職人ジクムントと、オデッサ出身のオリガ・エプシュテインの子として、チェコ語を母語として生まれ育つ。 14歳からブルノで正規の音楽教育を受ける。1919年から1921ブルノ音楽院ヤン・クンツヴィレーム・ペテルジェルカに学び、その後2年間レオシュ・ヤナーチェクの私塾で研鑽を積んだ。それ後20年の間に50曲以上が作曲されたが、作曲者自身によって作品番号を与えられたのは僅か18曲であった。家業の靴製造を手伝うかたわら、あらゆる種類の作曲にたずさわり、《交響曲》や合唱曲、歌曲、室内楽、映画音楽(「犬の生活」のための音楽)、舞台音楽、歌劇《サルラタン Sarlátan 》を創り続けた。1941年にテレージエンシュタット強制収容所に送致され、アウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所で処刑された。《交響曲》は長らく未完成のまま放置されたが、1994年にズデニェク・ゾウハルにより、ハースの作曲様式を踏まえてオーケストレーションを施された。ハースの作品は、ボヘミアモラヴィア民俗音楽に根差しており、時折りユダヤ人の民謡にも似た趣きがある。テレージエンシュタット時代の作品は僅かに8作が遺されたにすぎない。(wikipediaより転載)
1939
年前後の背景はこちら。ハースも日々の恐怖と戦っていたに違いない。出口、精神的な空気孔が作曲であったものか。背景を思うからか切ない思いに。
アンコール「千の風になって」、歌と違い、やわらかいけれどもどこか硬質な音が天からふって。絶品。
 鈍色の雲の下に平和な羊の鳴き声、その温かさを感じながら一通り聴いた中で、やはり、パヴェル・ハースの曲だけは、今回も改まって拝聴。つかの間オーボエの音色を忘れさせる音色に没入させられたひと時となった。

🎧名曲アルバムは「テネシーワルツ」

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ナッシュビルはカントリー音楽の街労働者たちの素朴な日常が歌われているという。

⛳17時49分更新

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きょうのことば「『主の祈り』の福音」

インマヌエル盛岡キリスト教会20210516()の礼拝メッセージをおつたえいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で48年目のご奉仕をしておられます。

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説教題 『「主の祈り」の福音』  (國光勝美 牧師)
聖書箇所 新約聖書 マタイの福音書6章9~15節

9 ですから、あなたがたはこう祈りなさい。『天にいます私たちの父よ。御名が聖なるものとされますように。
10 御国が来ますように。みこころが天で行われるように、地でも行われますように。
11 私たちの日ごとの糧を、今日もお与えください。
12 私たちの負い目をお赦しください。私たちも、私たちに負い目のある人たちを赦します。
13 私たちを試みにあわせないで、悪からお救いください。
14 もし人の過ちを赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。
15 しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの過ちをお赦しになりません。

 

<お話し>

 さて、主の祈りは「最大の殉教者」であると言われていますが、何のことでしょうか。これはマルチン・ルターが述べていることです。つまり、この主の祈りが、あまりに考えられもせずに唱えられるという、意味も分からずしてただ唱えられるならば、この主の祈りは、最大の殉教者なのだと聖なる皮肉をこめてルターは言っている。私自身もここに自戒を新たにしたいと思っているわけであります。

 先ず今日お開きしましたところがマタイ6章9節から15節ですが、もう一つ、ルカの11章1節から4節をお読みいたします。
1 さて、イエスはある場所で祈っておられた。祈りが終わると、弟子の一人がイエスに言った。「主よ。ヨハネが弟子たちに教えたように、私たちにも祈りを教えてください。」
2 そこでイエスは彼らに言われた。「祈るときには、こう言いなさい。『父よ、御名が聖なるものとされますように。御国が来ますように。
3 私たちの日ごとの糧を、毎日お与えください。
4 私たちの罪をお赦しください。私たちも私たちに負い目のある者をみな赦します。私たちを試みに会わせないでください。」

 マタイと今お読みいたしましたルカのところが、主が教えられた祈り「主の祈り」として世界中に広がっているわけであります。

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「主の祈り」は「天にいます私たちの父よ」、この呼びかけで始まります。そして「国とちからと栄とは限りなくあなたにありますように」という頌栄で締めくくられます。この「父」という言葉は、まだ幼い子どもが自分のお父さんに親しく呼びかけている言葉です。どうかすると「父上」といった感じの改まった呼びかけのようにこれを意識してしまう恐れがあるのですが、本来のヘブルの人たちのこの呼びかけは「アバ父」であり、親しみのこもる、幼子がお父さんに呼びかけるような言葉なのです。信頼に満ちた呼び方です。「父上」というと私たちを厳しい目で見ており、諭されでもするような気がするのですが、そうではない。先ずそれを心に留めましょう。そして先ず親しく「お父さん」と呼びかけて、「主の祈り」をお捧げしたいものです。

 この主の祈りは前半と後半に分かれます。最初は神様のための祈り。そして後半は、私たちのため、「我らを」という複数形で出てきます。我らの日用の糧を、我らに負い目あるものを、といったように。前半は天におられるお父様の御名が崇められますように、御国が来ますように。御心が天で行われますように、という先ず神様のための祈りを捧げた後、我らの、という祈りが後半にあります。9節、10節の前半、後半。それから11節、12節、13節。

 最初に、御名が崇められますように。私たちはついついお題目を唱えるように言ってしまうのですが、御名が崇められる、これは、モーセの時代から、旧約の時代から、神様の御名前をみだりに唱えてはならない。みだりに唱えるものは大きな罪を犯す者であると言われておりますので、ユダヤの人たちは、神様のお名前を口にするということは決してありませんでした。その代わり、御名が崇められますようにという言葉によって、どうか神様ご自身が、私たちの手垢のついているいろいろなものではなく、ほんとうに聖なるものと崇められますようにというのが精いっぱいの祈りです。イエス様がそのようにお弟子さんたちに祈るよう、どうか神様の御名をみだりに唱えるような手垢のつくような祈り方をするのではなく、ほんとうに神様の前に、聖なるお方の前に居住まいを正す。「どうか御名が崇められますように」。

 それから「御国が来ますように」というのは、当時のユダヤの人たちのいちばんの願いは、メシヤがはやくこの地上に降りてくださって私たちを救ってくださるように。我らを王の民、一等国民として我らをどうぞお救いくださいという切なる祈りであるとき、どうか神様の御国がきますように。我らがローマのくびきから早く解放せられて我らが覇権を握ることができるようにというような現実的な願望を超えて、ほんとうにあなたの御国が来て、天で神様のみこころがなされるように、どうか私たちが生きているこの地で、あなたのみこころが為されますように。こう祈りなさいとイエス様はお弟子さんたちに教えられたのです。

 そしてこんどは私たちに「日ごとの糧を与えてください」と祈るようにと。私たちが神様の前に、物質的な必要を与えてくださいとお祈りすることは意味のあることです。日ごとの糧を与えてくださいと、イエス様は祈るように教えてくださいました。今日の食料のために、今日の生活のために、生業が祝されますようにとお祈りすることは、イエス様が命じられたことなのです。教えられたことなのです。決して質の低いお祈りというものではない。人のための祈りとして、最初に、「どうか私たちの日常における日ごとの糧を与えてください」。

それからもう一つ、「私たちの負い目をお許しください」。或いは、「罪を赦してください」。これは、私たちはインマヌエルの群れで礼拝を共に守っておりますから、主の祈りというときに、「我らに負い目あるものを、我らが赦すごとく、我らの負い目をもゆるしたまえ」と、「負い目」という言葉で祈りますが、何かのきっかけで他の教会に行ってらっしゃるクリスチャンの方々と、それじゃ一緒に主の祈りをお捧げしましょうというときに、私たちが、「我らに負い目あるものを」と祈るところを、「我らに罪あるものを」と「罪」という言葉でお祈りをされる方々もいらっしゃいます。おやっと戸惑うときもあります。実はこれはどちらにも訳すことができる。「負い目」とも「罪」とも翻訳できる言葉が使われております。いったいどちらで、主の教えられた祈りとして私たちは日本語で祈るのか。実は原語では両方の意味があるのです。私たちが日本語として祈るときにどっちを唱えるかは、これは選択の問題なのです。

個人的な思い出ですが、私は御茶ノ水の会館で信仰に導かれました。主の祈りをそこで初めて聞きまして、「罪」という言葉で祈るのがふつうだと思っていた。それが、インマヌエルに導かれて礼拝に出たときに、「負い目」と。ああここではそういうんだなと気が付いた、そういう思い出があります。何かのときにインマヌエルの講壇で、「負い目」と「罪」ということについてのお話しがあったので一層印象深く覚えているのですが。

 インマヌエルの創設者の蔦田二雄という人が言ったことは絶対であるというのではありませんが。聞いたことをそのまま思いだしますと、私たちは「きよめ」ということを主張している、それを大切な嗣業として受け継いでいる群れの中にいるとき、この罪、負い目を考えると、罪というのは、意識的に神様に背く、そういう意志的な反神、神に逆らう、そういう意識をもって逆らう、これは罪である。しかし、そうでなくして、意識的に神様に背こうということではなく、人間の持っている弱さ、脆弱さのゆえに神様の前に本来そうであってはいけないところを、やってしまったというところ、そういうことがいっぱいあるわけです。そのときにそれを、毎聖日、毎礼拝で我らの罪をゆるしたまえというと、毎週毎週意志的に神様に罪を犯している私をどうぞゆるしてくださいと祈るのはそれはイエス様がお教えになっている思いとどちらかというならば、神様に背くそういう意識的なものは血潮のゆえに憐れみのゆえに罪きよめられて神さまの前にお祈りするのであって、出ているのであって、だけれども私たちがこの地上にあるときに、足りなさ弱さのゆえにいっぱいそういうことがある。そこで、「我らの負い目をもゆるし給え」と祈ることが相応しいのではないか。どちらが良い悪いの問題ではなく、我らはその選択として「負い目」という方を選んで祈っているのですと。これが私にも良い心の整理になったように思います。

 そうです。意志的に神様に背こうとするそういったものではなくして、だけれども、生まれつきの性質として、足りなさ、弱さ、そういうもののゆえに、いかにその悲しませてしまうような、でもそれは成長して神様のご寛容をいただきながら、やがてイエス・キリストの形に似せられていくようになるのでしょうけれども、それを期待しながら「我らの負い目をゆるし給え」とこのように祈っていくのはとても意味のあることだと思うのです。

 それからイエス様は私たちを「こころみにあわせないで悪から救ってください」と祈るようにと教えてくださった。こころみにあわせないでください。私たちはほんとうにこころみ、色々なものに直面して日々を生きているように思います。そのこころみというものが持っている良い面、それは私たちをより純粋なものとして整えてくれるという意味の良い面もありますけれども、しかし、どうか「こころみにあわせないでください」。これは私たちの切なる祈りです。どうか今週も、これからも私たちを、「主よこころみにあわせないでください。そして悪から救ってください」。私たちがこころみにあったとき、それはきっと神様がおゆるしくださって、そこで私たちがどういう心の動きをするのか、どういう態度をとるのかということを神様はきっと私たちをより良いものとして整えてくださるためにおゆるしになることはあるでしょう。しかし、「主よこころみにあわせないでください。そして悪から救ってください」という祈り、このことをさせていただきたい。世の中にはさまざまな危険が満ちている。そのような中にあって、真実に「こころみにあわせないでください」。エゴの祈りではなくして、弱さを知っていればいるほど、足りなさを知っていればいるほど、「主よ、ですからこころみにあわせないでください」とお祈りをすることは、みこころに適うことではないでしょうか。そして、「悪から救ってください」。

 先ほどルカの11章をお読みしました。改めて「主よ御名が聖なるものとせられますように、御国が来ますように、そして私たちの日ごとの糧を毎日お与えください」
 今週、私たちが歩む中で、具体的なあの問題、この問題を、切に神様の前に祈る、このことをさせていただきたいと思うのです。

私たちは、「主の祈り」を日ごとに祈ります。これは偉大なるマンネリズムだと私は思うのです。それをルターは「最大の殉教者」と。しかし私は、「聖なるマンネリズム」にそれを変えたいと思うのです。私たちがこの主の祈りに親しんで、きょうも祈り、祈り続けていくと、主の祈りのある部分が「我らをこころみにあわせたもうな、主よ、ほんとうにそうです」と、ある時突然、聖霊様が主の祈りのある部分を霊的納得を持って肯かせてくださる。主の祈りに親しむことです。「主の祈り」が「最大の殉教者」というルターの言葉を引っ繰り返すように、偉大な聖なるマンネリズムである「主の祈り」に親しんで、今週もどうかこの「主の祈り」のゆえに、守られ歩ませていただきたいと願うものです。

 

※音声データ、画像は教会からお借りしています。
⏰05時50分更新


 

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雑観

J-MERO

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新しいPCに慣れず、ついつい命脈を微かに保っている旧PCに向かっているが、ほんとうに近々限界点に達しそう。

コロナで足が阻まれている。音楽の有難さ、本の有難さ。コロナがひとを封じ込めても、メロディーが空気感をやわらげ、頁の向こうにはさまざまな世界が。
ワクチンはいつになるやら。7月か8月か……。
イザヤ54章15~17

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210521 クラシック倶楽部を聴く  庄司紗矢香(バイオリン)&ヴィキンガー・オラフソン(ピアノ)デュオ・リサイタル 

庄司紗矢香(バイオリン)ヴィキンガー・オラフソン(ピアノ)5つのメロディから第1曲、第3曲、第5曲(プロコフィエフ)、バイオリン・ソナタ第1番(バルトーク)2020年12月15日アクトシティ浜松中ホール(静岡県浜松市)―番組紹介よりー

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庄司紗矢香1998年からヨーロッパを拠点に活動している。1999年パガニーニ国際ヴァイオリン・コンクールで史上最年少および日本人として初めて優勝した。 1999年都民文化栄誉賞、2010年芸術選奨新人賞、2016年毎日芸術賞 受賞。
使用楽器は、上野製薬株式会社より貸与された1729年製ストラディヴァリウスレカミエ(Recamierである。
ヴィキンガー・オラフソン:アイスランド出身。初共演は2013年。

 

コメント(バルトークのバイオリン・ソナタ 第一番について)
紗矢香:長年、バルトークの1番を弾きたいという気持ちがとても強くあって、年々その気持ちが強まっていっていたこと、共演の中で次は何を弾きたいという話をしていたときに、バルトークというのがあがったことが最初のきっかけ。和声的にとても難解ともいえる曲ですけれども数学を解くようにして解いていくと、その根本がとてもシンプルなメロディーであったり、ストラクチャーがやはりそこにあり、民俗的な歌の要素と  の要素というものと、あとは毎回がインスピレーションということ、いちばん大切に思っています。そういう意味でオラフソンとの共演はとても面白いと思っています。
オラフソン:(途中から)すべてが歌であり、それが紗矢香との共演を一層すばらしいものにしています。紗矢香のようにバイオリンで歌えるひとはいません。偉大な物語を皆さんに届けているのです。この曲はバイオリンと同じぐらいピアノがものすごく難しい曲です。今まで演奏してきた中で最も複雑な曲の中の一つですが、紗矢香と共演できるのは大きな歓びです。ツアーでは8回演奏しますが、同じ曲でも毎回違う演奏になります。この曲は惑星のようで訪れるたびに変化していくのです。

 

曲目
5
つのメロディーから 第135  プロコフィエフ
バイオリン・ソナタ 第一番 バルトーク
 バルトーク自身が「一流のバイオリニストしか弾けない」と語った非常に難しい壮大な作品。

🎵バルトークのバイオリン・ソナタ第一番、研ぎ澄まされた、研磨されたような旋律の奥に、土のにおいもし、狂おしさもあり、デフォルメされた野卑といった感じもあると聴いたのだが、どこかにこの曲の感想が出てはいないかとそちこち探したが、民俗音楽の影響とは出ているが、納得のいくところにはたどり着けなかった。コメントで「宇宙」とも言われていたけれども、闇の空間を縫い何等かに照らされてでもいるような硬質な響きがそんなイメージをも確かにくれる。

🎧名曲アルバム。シューマン「ピアノ協奏曲」ピアノ清水和音。外山&N響。
古くからの出版業の街、世界有数の楽譜出版社もあるライプツィヒ。シューマンの多くの楽譜もここから。

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⛳14時09分 更新

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210520 クラシック倶楽部を聴く ジャン・ギアン・ケラス(チェロ)&アレクサンドル・タロー(ピアノ)

日本では8年ぶりのデュオを披露したチェロのジャン・ギアン・ケラスとピアノのアレクサンドル・タロー。互いを最高の共演相手と認め合う彼らのアンサンブルをお楽しみください【曲目】ハンガリー舞曲集から(ブラームス作曲 ケラス&タロー編曲)ほか【演奏】ジャン・ギアン・ケラス(チェロ)、アレクサンドル・タロー(ピアノ)【収録】2019年11月27日 王子ホールで収録―番組紹介よりー

コメント
タロー:彼とは20年以上も共演しているので、言葉なくして阿吽の呼吸で演奏できます。本番の最中も視線を交わすだけで絶妙な反応が返ってきます。今までと違うニュアンスで弾いていてもそれを受け止めボールを投げ返してくれます。今回演奏するブラームスのように何回も一緒に演奏している曲もありますが、そうではない曲もある。
ケラス:そうした曲はともに理解を深め、我々も作品と共に成長してきました。だから演奏中の無言のやり取りが可能なのです。リスクを恐れずに自由に弾く。長く共演してきたからこそできることです。

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ドビュッシーの「チェロ・ソナタ」1915の作品。

このデュオ、精彩があって華やか。ケラスいう自由さからくる響きと感じられた。第2楽章、ドビュッシーの陰影を曳きながら、次は自分がおもしろいと思った点をwikipediaでたしかめたのだけれども、「短いながらもチェロの幅広い演奏技巧が駆使され、左手のピチカートスピッカートフラウタンド奏法、ポルタメントが認められる」とある、このところに関心を集中。

ブラームスの「チェロ・ソナタ 第2番」。188653歳のとき、避暑地のスイスのトゥーン滞在中にヴィトマンの邸宅で作曲したという。ブラームスの熱が、ケラスの熱となって絞り出されといった感じにも、すこし切なく聴く。

ブラームスの「ハンガリー舞曲」の超有名な第5番、これでケラス&タローの編曲の違いを確かめ得たかなと。それにしても、ロマの影響というものの大きさをここでも。

 

🎧名曲アルバム。メンデルスゾーンの「序曲 フィンガルの洞窟」。尾高&東京フィル。

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⛳17時27分更新。前の筆記にコメントを足して置いた。何か気ぜわしく、じっくりと思うのだが……。

 

 

 

 

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210519 クラシック倶楽部を聴く 黒川侑 バイオリン・リサイタル

第75回日本音楽コンクール第1位受賞をはじめ多数のコンクールで上位入賞。スイス・ロマンド、スペイン国立など国内外の楽団と共演を重ねるほかソロでも活躍を続ける。【演奏】黒川侑(バイオリン)久末航(ピアノ)【曲目】1.「イタリア組曲」から(ストラヴィンスキー作曲ドゥシュキン編曲)2.「神話」から(シマノフスキ)3.バイオリン・ソナタ第1番(ブラームス)【収録】2021年3月26日 ハクジュホール

黒川侑1990年京都府出身。5歳からバイオリンを始める。以降のプロフィールはこちら
久末航1994年滋賀県出身。以降のプロフィールはこちら

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🎵黒川が特別に思い入れがあるブラームスの選曲について、彼が「ぶらあぼ」に語ったところでは、「ブラームスは大好きな作曲家。ヴァイオリン・ソナタは3曲とも好きですが、特に第1番の『雨の歌』は3曲の中で最も規模が大きい作品で、とてもやりがいがある曲なので選びました。例えばシューマンの作品ならば親密さが感じられると思いますが、ブラームスには一種のつらさを感じます。作品の中に書き込まれたブラームスの深い感情に共感する部分があり、それがひたひたと伝わってくるからこそつらさを感じるのだと思います。それが演奏を通して表現できれば嬉しいです」。
 個人的にはシマノフスキの「神話」を面白く聴いた。ピアノがくれる波の音。そしてその間隙を縫うか漂うかのように玄妙に神秘的に響くバイオリン、解説では色彩といっていたが、その移ろいに心魅かれた。
 これからまだまだ先に可能性のあるこのような若い演奏家の方々が、一日も早く多くの聴衆からの刺激でも才能が伸ばせるときが来るといい。それにしてもコロナの強靭さ、したたかさ、怖さは!

 

🎧名曲アルバム。シベリウス「バイオリン協奏曲」加藤知子のバイオリン。現田&東京フィル。

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自分の作品が受け入れられなかったときの失意、聴覚障害と危機に瀕しても尚立ち直り再起。91歳まで生きた作曲家。

⛳14時05分更新

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210518クラシック倶楽部を聴く 西村尚也 バイオリン・リサイタル

(バイオリン)西村尚也、(ピアノ)アンドレア・バッケッティ
2019
616東海中学・高等学校 講堂(名古屋市)

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西村尚也
1985年名古屋市生まれ。東京藝術芸大学を出て渡独。マンハイム音楽大学を最優秀の成績で卒業。ソリスト科終了。2001年イフラー・ニーマン国際コンクールジュニア部門第一位。これまでF.ルイージ指揮、PMFオーケストラやドイツ各地のオーケストラでコンサートマスターを務める。現在はマインツフィルハーモニー管弦楽団の第一コンサートマスターを務めるほか、ハンブルクやフランクフルトの国立歌劇場にも客演している。
コメント
コンサートマスターとソリストの両立について
コンサートマスターはオーケストラという「社会」の中で、劇場だったら歌手とか事務所を含めての「社会」の一員。団体行動をとる一方で、ソロが4小節でもあるとソリストとして結果を出さなくてはいけない。その切り替えが難しい。逆にソリストとして演奏する場合は、本番で結果を出さなければソリストの活動の方が一回の本番に掛かるプレッシャーは大きい。(でも)彼のような天才的な音楽家に触発されて自由に反応していけるのがソロにしかない魅力だと思う

アンドレア・バッケッティ
1977年イタリア生まれ。幼少期よりカラヤンやホルショフスキなど巨匠らの薫陶を受け、11歳の時にミラノでデビュー。モーツアァルテウム音楽大学やパリ国立高等音楽院、パガニーニ音楽院などで学ぶ。96年プレミオ・ベネチア・コンクールで優勝。世界各地でリサイタルを行う他、ザルツブルク音楽祭などに出演。2014年よりバッハの鍵盤作品全曲録音を行う。
コメント
彼との共演はとても興味深いものです。並外れた技術だけでなく音楽的なセンスもあるのでとても勉強になります。彼は楽譜や原典を分析するのですがそれは信じ難いことです。なぜなら多くの演奏家は才能があっても作曲家の考えをそこまで憶測してはいません。だから彼のそういう点をとても尊敬しているのです。もちろんテクニック的にも並外れていて絶対に間違えないのは信じられないことです。

 

「フォリア」コレッリ:作曲
バロック時代の凡例どおり、楽譜には旋律と和声のみ記され、音の肉付けは奏者に委ねられている。
「フランス組曲 第5 BWV816からガヴォット、ブーレ、ルール、ジーグ」バッハ:作曲
(ピアノ)アンドレア・バッケッティ
組曲の形式は17世紀半ばごろドイツで確立され、古い舞曲で構成されている。バッハの時代にはそれらの踊りの多くが消滅し、音楽の形式のみ残ったといわれる。ガヴォット、ブーレ、ルールの舞曲は、当時も踊りの曲としても生きていたといわれる。
「バイオリン・ソナタ 第5番 ヘ長調 作品24「春」」ベートーベン:作曲
ベートーベン31歳のころの作品。甘美な曲想から「春」と呼ばれるようになった。ウィーンに来て1800年ごろ交響曲第一番と同じ時期に作曲。そのころ耳が聴こえなくなってゆくが、伯爵令嬢と恋愛をしていた時期でもあり、若きベートーベンの感情が芸術として昇華されている名曲である。
「バイオリン・ソナタから第2楽章「ブルース」、第3楽章「常動曲」」ラヴェル:作曲
ピアノとバイオリンの独立性が際立たされ、ラヴェルの新しい作風を示している。第2楽章ではラグタイムのリズムが特徴的。またバイオリンのさまざまな奏法が試みられている。第3楽章ではピアノの低音に支えられ、バイオリンは細かな動きを繰り返す。第1楽章と第2楽章で登場した旋律が、断片的に織り込まれ、一気にフィナーレへ向かう。

🎵直截でシャープな響き。聴きやすく分かりやすい。ラヴェルがおもしろかった。不安と平安の中間地点で綱渡りしているような心境に、と書いたのは以前聴いたときに感じた事。ラヴェル、ブルース調なんだけれども、同じフレーズに幾とおりかの味の変化を付けて、とにかく飽きさせずに最後まで聴かせるラヴェル。東海中学・高等学校 講堂1931年竣工、建築に興味が湧いた。

 

🎧名曲アルバム。ブラームスの「ハンガリー舞曲第5番、第6番」

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田中&東京フィル

⛳けさは5分遅れで聴き、フォリアの冴えに目覚める。
またまた遅れて20時53分更新。

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210517 クラシック倶楽部を聴く コリヤ・ブラッハー バイオリン・リサイタル

コリヤ・ブラッハー バイオリン・リサイタル
(バイオリン)コリヤ・ブラッハー、(ピアノ)オズガー・アイディン
今回のリサイタルは、世界的名器と呼ばれる2丁のバイオリンによって演奏された。2019622日トッパンホールー番組紹介からー
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コリヤ・ブラッハー
 ベルリン生まれ。父は作曲家のボリス・ブラッハー。幼い頃から音楽に触れ、5歳でバイオリンを始める。ベルリンで学んだ後に15歳でニューヨークに渡り、ジュリアード音楽院でドロシー・ディレイに師事。1993年からベルリン・フィルハーモニー管弦楽団の第1コンサートマスターを6年間務めた後、世界各国でソリストとして活躍。バロック音楽から現代曲まで幅広いレパートリーを持つ。
使用楽器は1730年製グァルネリ・デル・ジェス「Ex.ズッカーマン」および1730年製ストラディヴァリウス「トリトン」で、キミコ・パワーズ氏より貸与されたものである。

オズガー・アイディン
コロラド州生まれ。トルコ系アメリカ人ピアニスト。トルコのアンタラ音楽院とロンドン王立音楽院で学び、1997ARDミュンヘン国際ピアノコンクール最高位(1位なし2位)、2001年クリーヴランド国際ピアノ・コンクール入賞など、数々の賞に輝き、国際的なキャリアを築いている。


ブラッハーのコメント
 1730年製グァルネリ・デル・ジェス「Ex.ズッカーマン」は、ピンカス・ズッカーマンが若い頃使っていたのでその名がついています。彼の大ファンだった私には特別な楽器です。ニューヨークに留学していたころに、彼がこの楽器で練習するのを聴いたのでしょう。深みのある甘く温かい響き、素晴らしい楽器です。ガルネリはやや心情的な楽器です。おだやかな音色はブラームスに合います。ガルネリは「心」、ストラディヴァリウスは「知性」の楽器といわれています。ストラディヴァリウスは奏者が覚悟を決めて弾かないと鳴ってくれません。ガルネリの方が自由奔放で奏者に寛容に反応してくれます。ご覧の通り、ストラディヴァリウスはガルネリより幅が広くがっちりしていますね。この楽器は20年以上弾いています。
 1730年製ストラディヴァリウス「トリトン」は、トリトン将軍の後にギリシャ神話の愛好家が使用しトリトン神にちなみ「トリトン」と名付けました。ガルネリより骨太で存在感のある響き、革命的で力強いベートーベンの音楽に合っています。
 楽器に寄り添う姿勢をいえば、弾き方を要求されます。特にストラディヴァリウスは頑固です。「ストラディヴァリウスは奏者を追従させ、ガルネリは奏者が主導することができるそうです」。それを聞いて大げさだと思いましたが、実際にはその通りでした。一つの楽器を理解するには3~5年かかります。時間をかけて奏者が望む響きを奏でてもらうのです。だから私が長く弾いていた楽器を誰かが弾けばしばらくの間私の音がします。奏者が望む音がするように少しずつ楽器を導くのです。古い楽器を使うのは自分の成長を貴重な機会です。

「バイオリン・ソナタ 第3番 ニ短調 作品108」ブラームス:作曲
「バイオリン・ソナタ 第9番 イ長調 作品47「クロイツェル」から第13楽章」ベートーベン:作曲
「ヴォカリーズ 作品3414」ラフマニノフ:作曲
 

🎵けさの聴きどころは、2台の名器、ただどんなに録音技術が優れていても、空気感、空気への親和感、ごく繊細な部分は捉えかねるものかとも思うが、しかし、楽しむにそう欠けるところはないと思っている。ブラームスの「ヴァイオリン・ソナタ 第3番 ニ短調 op.108」、これが1730年製グァルネリ・デル・ジェス「Ex.ズッカーマン」での演奏。ベートーヴェンの「ヴァイオリン・ソナタ 第9番イ長調 op.47『クロイツェル』」、この番組編成は13楽章。これが1730年製ストラディヴァリウス「トリトン」での演奏。ブラッハーは2台の名器との相性を探り出し鳴らし続けているわけだ。
 「トリトン」はキミコ・パワーズ氏より貸与されている。「トリトン」とは20年来の付き合い。このキミコ・パワーズ氏に興味がわき、ググってみると、「長野県に生まれ。国際基督教大学卒業後、ブリティッシュ・エアウェイズに入社。客室乗務員として勤めた後、1963年にニューヨークに渡る。夫のジョン・パワーズ氏とともに、日本美術と現代美術のコレクションを始める。特にアメリカン・ポップ・アートにおいては、黎明期の1960年代からパトロン、コレクターとして積極的にかかわり、世界最大級のポップ・アート・コレクションを築く『アーティストたちとの会話 アメリカン・ポップ・アート誕生の熱気』より」とあった。
 それにしてもたとえ貸与であるにしろ、1丁の名器を手にすることも容易ではないところ、コリヤ・ブラッハーは一人で2台も。曲により気分によって使い分けているという、なんという贅沢さ!
 音楽界は音楽世界のみならず、さまざまな人材、或いは産業、業界との連関にあることを実感。

 

🎧名曲アルバム。マーラー「交響曲第6番」。飯森&N響。マーラーに作曲の刺激も与えたが苦悩も与えた妻アルマ。マーラーは楽団の演奏水準を飛躍的にレベルアップさせ、聴衆のマナーも途中の出入りを禁じるなど改めさせたようだ。ウィーンにオペラの一つの全盛期をもたらす。この時期、近代芸術の台頭。マーラーの家もその系列の建築家オットー・ワーグナーが設計。

  

⛳昨夜、久方ぶりにTVでカラヤンとバーンスタインを聴いた。カラヤン&ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団で交響曲第6番「悲愴」~チャイコフスキー。レナード・バーンスタイン&ウィーン・フィルハーモニー管弦楽団で交響曲第5番~マーラー
カラヤンは録画の時に自分の映像にも自らの非常なこだわりを反映させたことで非難もされたけれども、それは間違ってはいないと感じられた。自分の築いた芸術を自分が納得する最高の形で後世に遺す。これは間違ってはいない。楽団員の配置など、すべてはカラヤンの美意識の想定内の設置とさえ思われるのだが、リマスターされた映像はいよいよカラヤンが意図したところのその価値を知らせてくれたと思う。それにしても、改めて観て、女性奏者がいないことに驚く。性比においては黒一色という感じで重々しさも。
 今朝は小雨。灰色の空。しかしこの下でも五月は動いている。その波動が伝わってくるようなそんな空気感のけさ。
09時27分更新


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きょうのことば『セラの福音』

インマヌエル盛岡キリスト教会20210509()の礼拝メッセージをおつたえいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で48年目のご奉仕をしておられます。
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説教題 『セラの福音』  (國光勝美 牧師)
聖書箇所 新約聖書 ヨハネの福音書142627

14:26しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。 14:27わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。

 

<お話し>

 この朝は、「セラの福音」という説教題をつけさせていただきました。このメッセージに関わる内容は、盛岡教会発行の「主の角笛」にも、また一か月ほど前の教団発行の「教報」の燭台というコラムにも記させていただいたおことばを改めて心に留めたいと導かれております。

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 「セラ」という言葉が聖書の中、特に詩篇の中に限って何回出てくるかをPC検索したところ72回で、その多さを心に留めました。

 さて、「セラ」ということばの意味、私たちの理解に共通しているのは、このフェルマータという音楽記号です。勿論、詩篇というのは、本来その一定のリズム、まさしく詩を謳うことが前提となっている。しばし詠嘆する。すこし思いを巡らして留まるというような、或いは、さらにそこから調を変えてといったらいいのか、転調というのでしょうか。すこし趣を変えたトーンに行きましょうと。色々な意味が詩にはあるでしょう。私たちが比較的知っている音楽記号としては、フェルマータというのがあります。これは本来イタリア語で「停止」を意味している。それからもう一つ、一説によると、地平線なり海なりに一日の太陽が沈んでいく。その地平線、水平線に太陽が沈んできょうの一日が終わるというような意味でその形を表しているのがこのマークであると知りました。

 イタリアを旅行した人の写真があります。何かお気づきでしょうか。BUS STOP。バスの停留所です。その下にFERMATAと書いてある。イタリアのバス停はフェルマータ。バスが走ってきて、ここで一旦止まりますよ、降りる人は降りて、乗る人は乗ってください。そして、もういちど、ここからスタートしますよ。このようにバス停を表すのがフェルマータ。なるほどと改めてこのことを興味深く見ました。

 さてきょうのメセージでありますが、
14:27
わたしはあなたがたに平安を残します。わたしの平安を与えます。わたしは、世が与えるのと同じようには与えません。あなたがたは心を騒がせてはなりません。ひるんではなりません。
 「平安」。この言葉は世の中ではあまり使われない。聖書を読むようになって、こんなにも「平安」ということばが使われるんだなと改めて思った言葉の一つです。

わたしの平安を与えます。
 イエス様がお持ちの心の平安、それをイエス様が私たちに与えてくださる。「わたしの平安を与えるんだ」。とてもほっとすることばであります。
 イエス様は大いに人々の歓待を受けて、そして最後にはご存知の通りの十字架に追いやられる。そしてまたお弟子さんたち、ペテロ、ヤコブ、その他、お弟子さんたちさえもまだ十分には十字架の意味をわかっていない。そういうもどかしさ等などいろいろなことがあり、そして最後の晩餐でお弟子さんたちに言われる。「いいかい、わたしの平安をあなた方に与えるからね。わたしはこれからあなたがたのもとからいなくなるけれども、ひるんじゃいけないよ。わたしの平安を与えるからね」。それはよく考えてみると、イエス様はいつでも御父との深い交わりの中の心の安心を持っていた。そのことを心に留めたいと思うのです。

 

 そしてきょうはほんとうの安息、主の恵みに憩うということを聖書の幾つかの箇所から、メッセージというよりも、聖書のおことばを心に留めたいと思います。

詩篇1272
1
主が家を建てるのでなければ 建てる者の働きはむなしい。
主が町を守るのでなければ 守る者の見張りはむなしい。
2
あなたがたが早く起き 遅く休み 労苦の糧を食べたとしても それはむなしい。
実に 主は愛する者に眠りを与えてくださる。

 私たちは一生懸命にわざに励みますけれども、ほんとうのわざは、イエス様ご自身がなさることである。だからこのお方を信じ、このお方の中に休んづる。この「セラ」、主に憩う時を得たいものです。

詩篇651
1主よ 御前には静けさがあり シオンには賛美があります。
あなたに誓いが果たされますように。
 どうですか。きょう私たちは、今、御前にあるのですけれども、静けさを心の中に肯くものでありたいですね。いまのこと、このこと、どうなるんだろうか、どうしようか、勿論私たちはそういう中にあるのですけれども、ほんとうに家を建て、わざをなさるのは主なんだ。自分のわざを休めて、主の前にしばし静まる。御前に静けさがある。こうありたいものです。

第一ペテロ18
8
あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに踊っています。
 さきほど、フェルマータというのがしばし休んで、そしてその後調を変える。転調といったらいいのか、そうか、そうだよな、救われているんだ、天に輝く栄光が待っているんだというところにふっと心の中に流れている音階なり、調べなりが。ああ、そうだ、私はこの中に今いるんじゃないか。こんな恵まれているところに自分はいるんじゃないか。どうでしょうか。この1週間もいろんなところを歩んできたお互いですけれども、もういちど、そうだったと思い返しましょう。

イザヤ464
4
あなたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す。
 
聖書のおことばによって、わー、そうだった。だって自分が今ここにこう生きているのは、主が私にいのちを与え、この生涯をここまで導いてくださったから。いま「あなたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。わたしは運ぶ。背負って救い出す」。そうだ、あの時、主は私を背負ってくださったんだ。同じおことばが、主は、約束としてきょうこのズームの礼拝に身を置いているお一人お一人に主は約束をしてくださっておられる。「わたしは背負う、そうしてきたのだ、そうじゃなかったか」、「わたしは運ぶ、背負って救い出す」。このお方に憩えばいいのだ。主の背中におんぶされるときに、躊躇して体を強ばらせるんじゃなくて、背負われている時にほんとうに信頼して主の背に、宜しくお願いしますと背負っていただく。頑張って体を硬くしているんじゃないんだ。

ローマ837
37
しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。
「しかし、これらすべてにおいても」、パウロは、多くの苦難、迫害、困難があった。「これらすべての中にあっても私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者なんだ」。そうだ。そして、これを思いめぐらすときに、やっぱり、思いだされるのは
マタイ11:28
「すべて疲れた人、重荷を負っている人はわたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。」
 ほんとうにほっとするおことばに励まされます。
 

 セラの時、セラの恵み。これは「さあ、やめなさい。一旦止まりましょう」。イタリアのバスではありませんけれども、一生懸命に走っていたのをちょっと休んで、止まって、それがセラが命じられている時です。

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詩篇46:10汝ら静まりて、我の神たるを知れ。この文語訳のことばがピタりと嵌ります。
黙せ、静まれ。
ガリラヤの
湖に声をかけて鎮めてくださるお方は、「ほら、わたしだよ」。「黙せ、静まれ」。こうお声をかけてくださる。そうだ。「神は我らの避けどころ、また力、苦しむときそこにある助け」。ゼカリヤ書にもありますけれども、「すべて肉なる者よ、主の前に静まれ」。文語訳には「主の前に粛然たれ」とあります。主の前に粛然たれ。
 このコマで、何を皆さんにお伝えしようとしているでしょうか。このコマは止まっているでしょうか。それともこのまま回っているでしょうか。激しく回っている時、一見止まっているように見えるコマですけれども、実は、働きは進んでいるんです。

詩篇62:1
1私の魂は黙って、ただ神を待ち望む。
私の救いは神から来る。
2神こそ わが岩 わが救い わがやぐら。
私は決して揺るがされない。

3
おまえたちは いつまで一人の人を襲うのか。
お前たちは こぞって打ち殺そうとしている。
城壁を傾け 石垣を倒すように。
4実に彼らは 人を高い地位から 突き落そうと企んでいる。
彼らは偽りを好み 口では祝福し 心では呪う。
5私の魂よ 黙って ただ神を待ち望め。
私の望みは神から来るからだ。
6神こそ わが岩 わが救い わがやぐら。
私は揺るがされることがない。
7私の救いと栄光は ただ神にある。
私の力の岩と避けどころは 神のうちにある。
8民よ どんなときにも神に信頼せよ。
あなた方の心を 神の御前に注ぎだせ。
神はわれらの避け所である。

 この左側の方に記してある1~4節のような、私たちはそういう日々の生活という中に身を置いてきました。そして自問自答する。わたしの魂はただ黙って神を待ち望む。神こそは。そして右側の方を見ると、まさに左側の方のところから影響して、深い確信をもつ。わたしの魂は黙ってただ神を待ち望め。私の望みは神から来る。神こそ我が岩わが救いわがやぐら。私は揺るがされることはない。私の救いと栄光はただ神にある。私の力の岩と避け所は神の内にある。そして「私」といってきたダビデが、こんどは民に呼びかけて、そうだ、民よどんなときにも神に信頼せよ。今まで「私の心」でしたけれども、あなた方の心を神の御前に注ぎ出せ。神はわれらの避け所である。

 さまざまなところを通ってきたお互いです。心の中にはさまざまなものが錯そうし、ガリラヤの海の嵐が止まない。そのような状態のときには、ひたと静まること。この技術は大事です。セラという時を自分に当てはめるスキル、技術、テクニックをその人が持っているかどうか。疾走している車に急ブレーキをかけてピタリとそこに静かに止まることができる。そういう技術を持っている人は、すごいものだと蔦田院長から聞いたことがあります。またしてもまたしても心の中に波立つ、そのようなときに、主の前にセラの時を持つ。

私の魂は黙って、ただ神を待ち望む。これが文語訳ですと我動かされじ。そしてまた別なところを見ますといたくは動かされじとあり、おもしろいなあと思います。全部できている人が、イエス様のような方が大きな試練に遭ってびくともしないなら、それはそれで納得もできますけども、弱さを持っている私たち。だけれども、いたくは動かされじ。裏から見ると、じゃちょっとは動いたのね、と言いたくなりますけれども、いいじゃないですか。

私の魂は黙って、ただ神を待ち望む。
そのときに、セラの恵みが私たちに与えられることを思いましょう。

 

※音声データ、イラストは教会からお借りしています。
⏰06時31分 更新

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雑感

JーMERO、May J.がアニソンについてインタビュー。やはり流れてきたときにドラマが浮かび感動するのだという答えが。一通り聴いておいた。

話しは音楽から離れるが、いつであったか、タバコを接ぎ木することで環境に強い野菜などを作ることが可能だという話が。接ぎ木は比較的安全な技術であるらしい。これが2000年前の聖書の中に出てきているということで驚きだった。ロマ書11章11~24節にあるらしい。


更新のための更新は22時04分

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210513 クラシック倶楽部を聴く 小糸恵 バッハ・オルガン作品演奏会

ヨーロッパでバッハの第一人者として高く評価されているオルガン奏者、小糸恵の7年ぶりの帰国公演。2020年2月22日いずみホール(大阪市)での収録。ー番組紹介よりー

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小糸恵のコメント
ヨーロッパに渡ったのは25歳ぐらいの頃でした。それでいてたぶん最初にすこしコンセルバトワールで勉強してから日本に帰ろうと思ったんですが、いろいろオルガンを調べているうちに、やっぱり残って、もっと探さなきゃだめだと思いまして、で、歴史的なオルガンをやる場合は、イイタリアとかフランスとかスペインとかオランダとか、特に北ドイツ、南ドイツもそうですけども、バッハの音楽の完全には必要だし、そのためにあちこち旅行して、その場の方に教えて頂いて、オルガン製作者の人と一緒に旅行したり研究したり致しました。でもオルガン音楽をやる場合は、オルガンだけやっていたらだめだと思って、バハの例えばその時作ったどういう他の音楽を作っていたかというようなことですね。特にオーケストラとか合唱とかいろんなもの、そういう作品も勉強しなきゃいけないし、それで今はバッハの他の楽器の勉強もし始めて、私は他のピアノとかチェロとか昔から弾いてたんですけれども、今はちょうどオボエ・ダモーレとヴィオラダ・ガンバの勉強をしておりまして、彼がどのような作り方をしたか、それを今学んでるところで、たぶんそれがオルガンのいろんな奏法に影響できるようになればと思っております。

 

演奏曲目 オールバッハ 
前奏曲とフーガハ長調BWV545
ライプツィヒで45歳のとき最終稿を書いたが25歳で書かれた作品
「心よりわれは求めん」BWV727  1
ハンス・レオ・ハスラーの「わが心は千々に…」から。マタイ受難曲にも現れる旋律
前奏曲とフーガ ト短調 BWV535
アルンシュタットでのオルガニスト時代に20歳で書かれた。ブクステフーデがよく用いた同音反復の形式が用いられている。
☆「おお人よ、お前の罪に泣け」BWV622
バッハより200年前の1525年頃のコラールをもとに書かれている
前奏曲ハ短調 BWV546/1
トマス教会時代、45歳で作曲
ヴァイオリン・ソナタ第3BWV1016より 第1楽章 (小糸恵編曲)
30歳代半ば1720ごろの作曲
☆「バビロンの流れのほとりに」BWV653
罪のゆえの追放とその快復
トッカータとフーガ ニ短調 BWV538(「ドリア調」)
ワイマール時代2732歳で作曲。カッセル・マルティン教会時代か。
バッハ自身がこの曲に愛着をもっていたようだ
アンコール:カンタータ第106番「神の時」からソナチネ

🎵今回聴いていて、小糸に対する深い敬愛の念が湧いた。小糸は、バッハがこの時代に遣わしたバッハ音楽の女性大使であるような気がした。
小糸の来日のとき、武漢でのコロナ禍がグラフ頂点に。その後コロナが世界中に。
BWV535、これはバッハがブクステフーデから影響を受けて作曲との解説。コープマンがブクステフーデの研究者だが、その演奏を聴いて私は「もう光あふれる宙、神の恩寵の只中に、あらゆるものが喜びに活き活きと戯れあそび飛び交う感じなのだ。コープマンの神の光、恩寵への向日性だ。」とこのブログに感想を記している。ブクステフーデの影響に成るこの曲がまた小糸恵演奏でさらに緻密な異彩を帯びていると。小糸の編曲によるBWV1016の第一楽章、細密な緻密にはめ込まれ柔らかな光を帯び、量感も感じさせるステンドグラスの響き。

 

以下は小糸の演奏会紹介記録より転載
バッハ・アルヒーフ・ライプツィヒといずみホールが共同企画で開催した「バッハ・オルガン作品連続演奏会」(20072012年)と「バッハ・オルガン作品全曲演奏会」(20122019年)では、合計22名のオルガニストたちが出演。彼らはバッハ演奏のスペシャリストばかりで、毎回個性が光るステージで高い評価を獲得しました。
お客様に22名のオルガニストの中から「再登場を希望するオルガニスト」についてのアンケートを実施。アンケートで最も多くの方が再演を希望したのが、今回の出演者の小糸恵でした。
小糸恵は、20133月にバッハ・オルガン作品全曲演奏会Vol.2「鼓舞される心」公演で初めていずみホールに登場し、卓越した音色作りとダイナミックな表現力で感動的なバッハの音楽を届けました。その時から交友が続いていた故礒山雅芸術監督の突然の死を悼み、命日である222日にいずみホールのオルガンを奏でます。彼女の強い希望で、バッハ研究に尽くした故人へ贈るオールバッハ・プログラムを披露します。

 

世界有数のコンサート・オルガニストであり、特にバッハ演奏のスペシャリストである。
東京藝術大学を経て渡欧し、現代曲初演を含むオルガン音楽の全てのレパートリーとする演奏家として活動。1985年以降、古典作品をレパートリーの柱とし、歴史的資料の研究に基づいた、楽器の選択および演奏法を、独自に展開している。
バッハ作品の優れた演奏者のひとりとして、ヨーロッパ、ロシア、日本、アメリカでコンサートを開催。また、ソリストとしてのみならず、バロックオーケストラやグレゴリオ聖歌隊との共演にも積極的に取り組んでいる。とりわけ、ムジカ・アンティクァ・ケルンとはバッハのカンタータおよびオルガン・シンフォニアやヘンデルのオルガン協奏曲を、アンサンブル・ジル・バンショアとはフランスの古典、前古典やイタリア・ルネッサンス、バロックの作品演奏で共演した。
また、レコーディングも数多く、歴史的価値の高いオルガンを弾き古典をレパートリーの柱とする数々のバロック時代のオルガン作品を発表し、数多く栄誉ある賞を授与されている。2019823日には、Sony/DHMより新CD BACK TO BACH」をリリース。
1992
年にローザンヌ高等音楽院のオルガン科教授に就任。加えて、英国王立音楽院、オーストリアバロックアカデミー等の客員教授を務めている。また、著名な国際オルガンコンクールの審査員としても頻繁に招かれている。
「ローザンヌ・バッハ・フェスティバル」は、1997年の開始当初より芸術監督を務めており、2012年からは、ローザンヌ・シティ・オペラのバロック・オペラ共同プロデューサー。

🎧名曲アルバム 民謡「箱根馬子唄」

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⛳11時30分更新

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210513 クラシック倶楽部を聴く 福間 洸太朗 ベートーベンを弾く

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福間洸太朗のコメント
 ベートーベンに対して恐怖心というか、恐れていたために、自分には向いていないんじゃないかとか、まだ早いんじゃないかという意識を持ちながら作品を弾いたり取り組んでいたんですけれども、ようやくベートーベンという人間像にすこしづつ近づいているように感じられて、生誕250年というタイミングもあったので、CDを録音しましたし、演奏会でもたくさん取り上げるようになったんですね。彼自身ものすごい向上心と忍耐と勇気を持っていた方だと思うんですね。そういったものを私は彼の音楽を通してつたえたいなと思います。
「幻想曲」に関して言うと、ほんとうにユニークな作品だなあと私は思います。記述によると、「幻想曲ト短調」と書かれている場合もあるんですけれども、ト短調の部分というのは最初の4小節ぐらいしかないんですね。それからどんどんどんどん転調していっちゃって結局はロ長調で終わるんですけども、その調性だけでなく、場面もかなり頻繁に変わりますし、テンポも変わりますし、こう、ソナタ形式とかロンド形式とかバリエーションとか、その当時は形式に則ってその中で自由に冒険しながら音楽を書くというのが通例だったと思うんですけど、ほんとうに自由な作品だなと思います。その中でもベートーベンなりのロジックを立てて音楽を構築してて、最後は一つのモチーフがバリエーションになって盛り上がっていくんですけど、ほんとにこれはユニークな作品だなと思います。
 

「ロンド・カプリッチョ」について、あまり取り上げられない作品を敢えて取り上げました。やはり生誕250年だけれども、ベートーベンがいかに幅広い音楽スタイルを書いたかということも皆さんに聴いていただきたいなということで選んだんですけれども、「ロンド・カプリッチョ」、これもまた大変珍しい作品ですけれども、オーパス・ナンバーは129といってかなり終わりの方なんですけれども、実は初期の作品で、「悲愴」とかも作られる前に書かれたんですよね。サブタイトルがあって、「失われた小銭への怒り」という冗談みたいなタイトルがついているんですけれども、この曲が全体にアップテンポで、非常に技巧的にも難しいですし、見せ場もたくさんあるんですけれども、全体にはハンガリー風のロマの音楽をモチーフに作られているので、非常にリズミックだし、一人で弾いてるんですけれども、何かこう楽団、ロマの人たちが何人かで一緒に弾いてるという気分で私は弾いています。

 ベートーベンを弾くにあたって難しいのは、感情表現はとても大切なんですけれども、ほんとうにもう細かなところで緻密に音楽が構築されてるんですね。「熱情ソナタ」とかは、たぶん10代、たぶん20代で弾いたときには、とにかく勢いに任せてエネルギッシュに弾くことで満足を得ている自分がいたと思うんですけど、今は全然そうじゃなくて、特に3楽章とか、アレグロ・マ・ノントロッポ、「速いんだけれどもそんなに速くなく」いう指示を私はすごくこだわりたいんですね。勢いに任せてエネルギッシュに弾くんだったらもう指の訓練とその時のフィーリングで弾けると思うんですけども、そうじゃない、どこか抑制しながら、どこか抵抗を感じながら弾くということにすごい意味があると思うんですね。「熱情」というタイトルは勿論そうなのかもしれないですけど、かなり冷静な部分というのも私は大切じゃないかと思います。

🎵激情の表現にも抑制のある方がとおもっていたけれども、今回の「熱情」が何かそれでむしろ奥行、深みが出ていたという感じが。選曲の面白さ、「幻想曲」にはピアノ・ソナタ32番で聴いた旋律も。何か新しい。「失われた小銭への怒り」が小銭でこれほどの素晴らしい曲想が湧くのであれば、是非とも大金を失って見ていただきたいもの、などと愚にもつかないことを想い一人笑った。すっきりと立ち上がった響きが、くぐもった頭脳を洗ってくれた。

 

🎧名曲アルバムはヴェルディの「レクイェム」。ソプラノ緑川まり、合唱二期会合唱団、円光寺&東京フィル。
🎵この5分は1時間にも感じられた5分。ヴェルディ+画像+解説の濃さは!
1873年5月イタリアの文豪マンゾーニ逝く。厚い信仰と愛国心に満ちた小説を数多く著わした。ヴェルディはマンゾーニを神のように崇拝していたという。下は生前のマンゾーニからの手紙。

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⛳22時20分 更新

 

 

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5月4~12日までのクラシック倶楽部を振り返る

5時きっかりに聴きながらもパソコン不良でドック入り中、備忘録メモを更新できなかった5412日までのクラシック倶楽部を振り返ってみたい。

 

54()5()、この両日は二期会の19年のサマーコンサートⅡ、Ⅲ。これほどに歌える声楽家の方々が日本にこんなに多くいらっしゃる! の再確認。一曲一曲真に迫り素晴らしかった。
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56()7()、この両日はドビュッシー没後100年のⅠ、Ⅱ。作曲年代順にカルテット楽器にハープとフルートを交えて。
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コメント
吉野:ドビュッシーは、まさに印象派の絵を見ているような、やっぱり自然、風だったり、外の風景なんか緑なんかに移ろって行く、光が当たることによって見える景色が微妙に変わっていく、そういう情景がすごく浮かんでくる。五感ぜんぶを使って、匂いから聴覚から、全身で移ろって行く光の移り変わりだったり、そういうものを音楽で、それもすごく緻密に楽譜に、楽譜通りに弾くと色々書いてあるので、それを一つひとつ辿ってくと、そういう移ろいが出てくる。すごく自然と関係が自分の中であります。
川本:ドビュッシーは音楽なのに人の気配とか立てるものの気配とかない感じが。要するに絵を見ている感じ。大きい工場でオートメーションになったりとか、機関車ができたりとか、人類がすごく変わっていく時期だったと思うんです。そういう興奮がすごい伝わってきてて、なのに静かという、その何か遠い、両極端な者に対して自分に今までなかったものに対して、すごい興奮してるものを音楽から、楽譜からというか感じられる。ほんとうにおもしろい作曲家だなと思います。
川本:「フルートとビオラとハープのためのソナタ」について、フルートとビオラとハープの音が一緒になった時の他では体験できないような快感というか。
吉野:ドビュッシーが、この楽器の組み合わせで書いたことがやっぱり考えられないというか、ドビュッシーがその自分の何かをあらわすためには、このフルートとビオラとハープだったのか、ふつうは考えない。それぞれの個性を生かしつつ、溶け合うときもあり、そのバランスというか、同じ人と弾いていてもその時の自分の心理状態でも変わるだろうし、ほんとうにいろんなものに影響されながら、でもその変わらないドビュッシーの世界。でもすごく自由も感じるんですね、弾いていて。こうではないんですけど、
川本:解放はしてて、感性に対しての心は解放しておいて、
吉野:ただやっていることはすごく緻密に、という感じかもしれない。それが楽しい。やっぱり会話ですから。
川本:ドビュッシーの他の曲にはあまりない、曲ではあまり体験しない瞬間の響きとかがたくさんある。

510()金子三勇士 ピアノ・リサイタル
カンパネラに落涙。金子の生涯的に突詰め続けようというリストのピアノ・ソナタロ短調はリストの人生が詰め込まれて。
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511()ベンジャミン・フリス ピアノ・リサイタル
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コメント
ベートーベンの魅力は、ハイドンやモーツァルトなど先人たちを振り返るようなところです。バッハやヘンデルのときもあります。ベートーベンは彼らを敬愛していました。過去の作曲家の模倣ではなく過去の音楽への尊敬があってそれが後期の作品に浸みこんでいるのです。同時に未来の音楽も預言することができています。ディアベルリ変奏曲の最後の変奏はバッハとショパンの様式が混在しています。好きなのは世界のすべてを表現しているように感じるところです。彼の音楽には普遍的な感情があります。私はずっとベートーベンに囲まれた人生を送ってきました。人々のために彼の音楽を演奏できて有難く思います。

 

512() 北村朋幹 ピアノ・リサイタル
スツールの代わりに三段重ねパイプ椅子。ピアノ・ソナタ 作品1(ベルク)、ピアノ・ソナタ 第3番 ヘ短調 作品5から(ブラームス)。
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⛳このゴールデンウィークも心豊かにしてくれた音楽の数々。名曲アルバムもメモッたけれども、書かずともいま心の中で鳴っている。心に録り置いた緑の美しいグラデーションと相まって響いていてくれる。
22時03分更新





 

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きょうのことば 『三位一体の神』

インマヌエル盛岡キリスト教会20210502()の礼拝メッセージをおつたえいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で48年目のご奉仕をしておられます。
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説教題 『三位一体の神』  (國光勝美 牧師)
聖書箇所 新約聖書 ヨハネの福音書1章1~13

1:1初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。 1:2この方は、初めに神とともにおられた。 1:3すべてのものは、この方によって造られた。造られたもので、この方によらずにできたものは一つもなかった。 1:4この方にはいのちがあった。このいのちは人の光であった。 1:5光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。1:6神から遣わされた一人の人が現われた。その名はヨハネであった。 1:7この人は証しのために来た。光について証しするためであり、彼によってすべての人が信じるためであった。 1:8彼は光ではなかった。ただ光について証しするために来たのである。1:9すべての人を照らすそのまことの光が、世に来ようとしていた。 1:10この方はもとから世におられ、世はこの方によって造られたのに、世はこの方を知らなかった。 1:11この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。 1:12しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。 1:13この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意思によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。

 

<お話し>

(復習は先週のページをご覧ください。)

このヨハネの1章のはじめの部分から三位一体の神というテーマでお話をと導かれております。ペンテコステまでのこの期間は、私たちは毎年聖霊という神様について格別に思いを集中する時期であります。ちょうどクリスマスでいうと御子なるイエス様のお誕生、そして、イースターのときというと十字架の贖いとそれに続く主イエス様の復活、このようにしてイエス様に関わることについてはしばしば取り上げる機会が多いのですけれども、聖霊なる神様に思いを致す機会はこのペンテコステに向かうこの時期がいちばんふさわしいような気がしているのであります。

ヨハネの福音書第1章をお開き下さい。ここに
1:1
初めにことばがあった。ことばは神とともにあった。ことばは神であった。
 
とございます。
 「ことば」、これは「いのち」である。また「交わり」であるとこのヨハネの1章は私たちに示してくださいます。初めにことばがあった。まさに「ことば」、これを介して「交わり」がある。そしてこれがあるから「いのち」がある。「いのち」と「交わり」は不可分でありますから、初めにことばがあった。ということは、神様は私たちと交わりを持ちたい。そのいのちを交わすということがそもそもの始まりであったということがわかります。ここに神様のご本質を見ることができます。そしてこのことばこそ主イエス様ご自身であるわけです。

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 ここに一つの図、三位一体の神様を理解する助けになる一つの図がございます。とはいえ、図一つで三位一体の神様を説明しきれるものではない。無限の神様をことごとく完全に神様とはこういうお方ですと有限な私たちに理解できるとするならば、それは矛盾中の矛盾です。私たちが理解できない神様を私たちが完全に理解したつもりになることは矛盾以外の何ものでもありません。それを私たちは十分にわきまえながら、しかし、この聖書は、神様というお方をこのように私たちに示してくださっているという意味で描いてみました。

 私たちは父なる神様、そして子なるキリスト、聖霊なる神様。人の場合には人格というように、私は私の人格を持つ私であり、というように、人の人格をいいます。しかし神様は人ではありません。ですから三位一体の神様をあらわすときには、一、二、三位の「位」という字と人格の「格」をあてて「位格」というように、「父なる神」、そして「子なる神」、「聖霊なる神」。私たちは神様をこのように理解しています。この部分だけを強調すると、キリスト教とは多神教だな、「父なる神」、そして「子なる神」、「聖霊なる神」という三つの神様を信じている多神教なんだという理解をする立場の異教徒、イスラム教の人たちだとか、或いはユダヤ教の人たちもそうですね。ユダヤ教の人たちはもう神は唯一のお方である。絶対的に神は唯一であるという深い理解をもっています。ですからこそユダヤ教をベースにして誕生され、ユダヤ教が御子イエス様の誕生、そして贖いのわざということを旧約聖書はいっているのですけれども、イエス様が「わたしとあなた方が信じている神様、父なる神様とは一つです」といったときに、ユダヤ教の人たちはもう我慢することができなかった。受け入れることなど到底できなかったという背景はそこにあるわけです。ユダヤ教徒の人たちは、一神教、しかしクリスチャンたちは多神教徒であるというような評価をするわけです。しかし、聖書をよく見るときに、決してそうではない。神は唯に一なるお方であります。神は唯一、そしてこの図を見ていただきますと、ここに「父なる神」というお方は、この真ん中の神とは=(イコール)です。これは等式で結ばれています。そして同じように「子なるキリスト」という方も神ご自身です。そして、「聖霊なる神様」も=で結ばれていて、これは、神ご自身のそれぞれの人格、位格ですね、パーソナリティー、それをけっして一緒くたではない、父なる神と子なるキリストがごっちゃになっているというのではないのです。同じく聖霊もそうです。しかし、たとえば父なる神様と子なるキリストとは、赤い太い、これは交わりを意味しています。まったく深い交わりを意味していますけれども、しかし同じではない。等式ではなく不等式。まったく同じではない。子なるキリストと聖霊とは深い交わりの中にありますけれども、しかし、人格は同じではない。同じように父なる神と聖霊なる神様は深い交わりの中にあるけれども同じではない。このように示しています。いまはネットが使えますので、「三位一体」で方々見ますとこのような図を見出すことができます。

 

初めにことばがあった。というときに、神様ご自身は、深い交わりの中にあるということなのです。父、子、聖霊は各混じりけのない交わりの中にいのちがある。そこにことば、意思が働いている。これが聖書がいっている三位一体の神の精一杯の表現かというように思います。

 聖霊という神様に焦点を置いていますけれども、ヨハネの福音書1章をお開き頂きながら、この聖霊なる神様は、私たちに「あなたはこのままでいいのか」と覚醒を与えてくださる。私たちは闇の中に生きていた者ですけれども、「ほんとうにあなたはそれでいいのか」。そしてヨハネの1章の1112
1:11
この方はご自分のところに来られたのに、ご自分の民はこの方を受け入れなかった。 1:12しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。1:13この人々は、血によってではなく、肉の望むところでも人の意思によってでもなく、ただ、神によって生まれたのである。
 
そうだ、神様は、イエス・キリストの十字架を通して罪ある私たちを救おうとされていたのだ。そのことに光を与え、そして自分自身の罪の自覚。「そう、そのとおりだ」と認めさせてくださるのは、聖霊なる神様のお働きによるのです。聖霊なる神様がイエス・キリストの十字架の意味を私たちの心の中に深く示してくださいます。

 イエス様が十字架上で処刑されている右側と左側に同じく十字架につけられた罪びとたちが二人いました。同じように聖霊様が真ん中にイエス様ご自身を示していてくださるんですけれども、そのうちの一人の方が聖霊様の働きがあるにも関わらず、「お前が神の子だったならお前と俺を救ってみろ」。しかし、もう一人の方は「この方は何も悪いことをしていない。私たちは自分が悪いことをした報いを受けていて当然なんだ」。聖霊なる神様は、私たちに、それぞれに語り掛けてくださる。決して強制的にロボットのように私たちがみんなイエス様を信じますと言わせるのではない。私たちには自由意思が与えられている。聖霊様がその私たちに語りかけてくださったときに、イエス様の十字架を示してくださったときに、「ああ、そうか」。まさに、おことば(御聖言)が語りかけてくださる。ことばによって語りかけてくださる。聖霊の語りかけ方は、一つはみことばを通して私たちに深く語りかけてくださるということです。たとえば今日112節のおことばを読んだときに、
1:12
しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。
 
私はいったい右の十字架につけられた強盗なのか、それとも左側につけられた強盗なのか、いったいどっちなのか。私は、このキリストの十字架が必要ない者なんだろうか、いやそうじゃない。闇の中にあったのだ。このようにして、この12節を読んだ時に、
1:12
しかし、この方を受け入れた人々、すなわち、その名を信じた人々には、神の子どもとなる特権をお与えになった。
 
そうだ、私はまさにこれを必要としているのだと信じるとき、みことばを通して聖霊様が私たちの心の中にいのちを与えてくださる。また聖書のおことばだけではなく、神様は、色々な環境を通して聖霊様は私たちに語ってくださいます。


 私は19681116日お茶の水キリスト教会館で、ダビット・マーチン先生のキリスト教講演会を聞きました。そのとき、ほとんど聖書は知りませんでした。しかし、あのときマーチン先生が語っておられた一途な「イエス様はあなた方のために死んで十字架につけられたんだ。あなたはこのイエス様を信じますか」とまさに命を賭けてのメッセージ。「今晩、イエス様を信じたいと思う人は手をあげてください」。私は何も聖書知識のない者でしたけれども、しかし、この先生の信じておられる伝えようとしておられるこの福音はほんとうだ、私はこれが欲しいと思ったのです。しかし手をあげたのはほんの数人しかいませんでした。それでも「今私は信じよう」と私は手をあげました。これは聖霊の働きなのです。後になって自分なりに整理をするのですけれども。その時には、マーチン先生の促しに、「そうだ、私はこれを必要としている。これを信じて私は生きていきたい」という思いを持った。これは聖霊の働きです。そのとき私はみことばは知りません。ですから、みことばを通して聖霊は語ってくださいますけれども、それだけではなく、友人や環境とかさまざまな事柄を通してもご聖霊様は働いてくださいます。

この方にはいのちがあった。
 交わりです。
 このいのちは人の光であった。 1:5光は闇の中に輝いている。闇はこれに打ち勝たなかった。
 
アーメンです。

 わたしが今日皆様方と一緒に開きたい聖書の箇所は第一ヨハネ17節です。
1:7もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。 1:8もし自分には罪がないと言うなら、私たちは自分自身を欺いており、私たちのうちに真理はありません。 1:9もし私たちが自分の罪を告白するなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、私たちをすべての不義からきよめてくださいます。

もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持つ
 お互い人格を持っている私たち、ほんとうに交わりを持つ生き方をしたい、このように思いました。
 夫婦の間でも、友人同士のあいだでも、もし交わりがなかったらその関係は空疎でとても寂しく冷たいものになります。交わりのある人間関係、信仰生活でありたいと願うものです。

※最後の例話が二つありましたが簡略にさせていただきました。
音声データ、画像は教会からお借りしています。

⏰パソコンの不具合、買い替えに伴う設定、データ移行などの関係で更新が遅れましたこと、毎週読んで頂いております方々には深くお詫び申し上げます。

15時28分更新

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210503 二期会サマー・コンサートⅠ

今をときめく豪華な顔ぶれが出演した二期会のサマーコンサート。40人を超える歌手とピアニストが名曲の数々を披露しました。コンサートの1日目から抜粋でご紹介します。【曲目】歌劇「リゴレット」から(ヴェルディ)歌劇「ミニョン」から(トマ)【演奏】松永知史(ソプラノ)加耒徹(バリトン)三縄みどり(ソプラノ)岩森美里(メゾ・ソプラノ)大藤玲子(ピアノ)他【収録】2019年8月23日渋谷区大和田さくらホール番組紹介よりー

曲目
1フロトー 歌劇『マルタ』第2幕よりもっと近くへおいで、はにかみやのお嬢さん
松永知史(ソプラノ)、成田伊美(メゾソプラノ)、新津耕平(テノール)、藪内俊弥(バリトン)
2
ヴェルディ 歌劇『リゴレット』第1幕より慕わしい人の名は
全 詠玉(チョン・ヨンオク)(ソプラノ)
3
ヴェルディ 歌劇『リゴレット』第2幕より頬にかかる涙が
山本耕平(テノール)
4
ニコライ 歌劇『ウィンザーの陽気な女房達』第1幕よりあなたのお嬢さんをください
西岡慎介(テノール)、倉本晋児(バス)
5
トマ 歌劇『ミニヨン』第2幕より今宵、私は妖精の女王
愛 もも胡(ソプラノ)
6
チャイコフスキー 歌劇『スペードの女王』第2幕より私は貴方を愛しています
加耒 徹(バリトン)
7
ベルリオーズ 歌劇『ファウストの劫罰』第4部より燃える恋の思いに
小林由佳(メゾソプラノ)
8
チレア 歌劇『アドリアーナ・ルクヴルール』第2幕よりさあ、答えがないわ、開けてください
三縄みどり(ソプラノ)、岩森美里(メゾソプラノ)

ピアノ 大藤玲子    
字幕は多田茂史

🎵二期会の頁で何人もの写真を拝見すると壮観なのだけれども、今朝の一曲一曲を聴きながら、それぞれのすばらしさに心酔。折しも眩い朝日が雲間に現れ、ほんの一時とはいえ、曙光に射られながら聴き入るひと時は至福でした。

 

🎧名曲アルバムは「宵待草」多忠亮作曲、竹久夢二作詞。
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よく見ると「さみせんぐさ 作」とある。多忠亮は昔盛岡市の旧太田村にもよく来ていた人。

⛳このGWはブログ更新はあきらめていたところが、どうもパソコン側がGW明けの買い替えまで使わせてくれるつもりでいるらしい。とはいえいつ気が変わらないとも限らず、ちょっぴりはらはらしながらキーを打っている。8時44分更新。

 

 

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きょうのことば 『真理の御霊』

インマヌエル盛岡キリスト教会20210425()の礼拝メッセージをおつたえいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で48年目のご奉仕をしておられます。
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説教題 『真理の御霊』  (國光勝美 牧師)
聖書箇所 新約聖書 ヨハネの福音書16416

4 これらのことをあなたがたに話したのは、その時が来たとき、わたしがそれについて話したことを、あなたがたが思い出すためです。わたしは初めからこれらのことを話すことはしませんでした。それはあなたがたとともにいたからです。
5しかし今、わたしは、わたしを遣わされた方のもとに行こうとしています。けれども、あなたがたのうちだれも、「どこに行くのですか」と尋ねません。
6 むしろ、わたしがこれらのことを話したため、あなたがたの心は悲しみでいっぱいになっています。
7 しかし、わたしは真実を言います。行くことは、あなたがたの益になるのです。去って行かなければ、あなたがたのところに助け主はおいでになりません。でも、行けば、わたしはあなたがたのところに助け主を遣わします。
8 その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世の誤りを明らかになさいます。
9 罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです。
10義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです。
11 さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです。
12あなたがたに話すことはまだたくさんありますが、今あなたがたはそれに耐えられません。
13 しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導いてくださいます。御霊は自分から語るのではなく、聞いたことすべてを語り、これから起こることをあなたがたに伝えてくださいます。
14 御霊はわたしの栄光を現されます。わたしのものを受けて、あなたがたに伝えてくださるのです。
15 父が持っておられるものはすべて、わたしのものです。ですからわたしは、御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに伝えると言ったのです。
16 しばらくすると、あなたがたはもうわたしを見なくなりますが、またしばらくすると、わたしを見ます。」

 

<お話し>

(復習は先週のページをご覧ください。)

きょうは先週の内容を下敷きにしてさらに進めていきたいと思っております。

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 イエス様を信じた私たちには、いのちの御霊、真理の御霊が与えられますけれども、しかし、一方、キリストに敵対するサタンという堕落した天使、徹底した反キリストという霊的な存在があります。そしてそのサタンは、私たちを一人ひとりを断罪します。この男は生まれたときから今までほんとうに神に背いた人物だ! このように、サタンは、神様の前に私たちを断罪するのであります。サタンの断罪はまさしくその通りです。私たちには言い逃れることはできません。


 例話と言ったらいいでしょうか。私はパソコンはマックしか使ったことがない。たぶんウィンドウズでもその機能があるんだろうと思うんですが、マックの場合、トラブルが起きて今の状態がダウンしてしまう。パソコンがどうすることもできなくなってしまうというときに、タイムマシーンという機能があります。今この時点で、壊れてしまっているハードディスクにあるデータが、たとえば昨日のお昼、或いは昨日の深夜、このときにはパソコンは正常に動いていたとして、タイムマシーンという機能を使いますと、そのたとえば昨日の12時まで、そこまで私のパソコンを戻してくれというと、一応時間はかかりますけれども戻してくれます。ただ自分ではなかなか難しいものですから、私はそういう時には電話サポートに電話しまして、タイムマシーンを使いたいんだけれどもどうしたらいいだろうかと相談する。で、言われる通りにする。いつかもそういうトラブルを生じまして、タイムマシーンで戻してくださいというと、数時間かかりましたけれども戻りました。ああよかったとほっとしました。

 このように人間が作ったパソコンでさえそうです。まして神様は私たちの一切のことを何年何月何日、そこまで遡ってくださいます。それはできるのです。その意味で、私たちの生涯はぜんぶ記録されている。そしてサタンは私たちのそれを見て、どうだ、この死の体から救い出してもらえるのか。お前は有罪だ。これを言われたのなら、私たちは敗北宣言をする以外にありません。そして、サタンは神様のことばをもって私たちを断罪します。申命記の2815をお読みしますと

しかし、もしあなたの神、主の御声に聞き従わず、私が今日あなたに命じる、主のすべての命令と掟を守り行わないなら、次のすべての呪いがあなたに臨み、あなたをとらえる。

 つまり、神様の命令に、掟に一つでも背いているのならば、あなたは有罪だ、こういうことであります。これがサタンの為すわざであります。私たちは、罪の拘束にある律法の呪いの中に私たちはあり続けるのです。そして、サタンの言っていることは、事実なのです。そのときに、罪のないお方が私たちが受けなければならない裁きを十字架の上で受けてくださった。私たちの罪、きよい神様の律法を行う事のできない私たち、そのゆえに神様から離れてしまっている死にある私たち。イエス・キリストは、神が私たちを愛して下さるその愛のゆえに、この神様の裁き、呪いをぜんぶその身に受けてくださったのです。余すところなく、このお方は、サタンが私たちをあげつらって、この男は有罪だと訴える時、神様は、そうだ、お前の言うとおりだ。だから私は一人子、キリストに、そのあなたの代わりに、ぜんぶ十字架の上で呪いを受けさせた。

 キリストの十字架は私たちの罪そのものであります。そしてこのお方は、誰でも自分の罪の身代わりであるこの神の御子イエス様の十字架の贖いを、そうです、この十字架はわたしのものですと信じたとき、キリストの十字架に免じて、無罪になる。キリストが神の律法をことごとく行ってくださった。そして、永遠のいのちを主は証ししてくださった。

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 パウロはこのことを知ったのです。キリストのゆえに神に感謝します。ただに罪にある者が無罪になったという消極的な無罪判決というだけではない、むしろあなたはきよいと言ってくださる。
 私はひろ子先生と家拝をしているんです。一か月ほどまえのことでしたけれども、デーーリーライトに雅歌が出てきたことがありました。
「あなたは美しい」とありました。ここでいうと汚れたものの汚れをきよくしてくださったというだけでなくして、ほんとうにあなたは麗しいといって、きよいものとしてくださる。そうか、ただただ汚れていた者を、どうぞここに入って招いて、汚れていた着物を脱がせて、そういうようなものを洗ってくれるだけじゃなく、むしろ積極的に、あなたはきよいと言ってくださる。愛の完全です。全き愛。人にはそう簡単には持ち得ません。しかしイエス様はその愛の律法の完成者です。キリストの愛、わたしたちの内にも満たしてくださる。そして、死の呪いを永遠のいのちと変えて神との交わりの中に私たちを置いてくださる。すばらしいことです。この真理の御霊は。

 サタンは私たちを断罪しますけれども、御霊は私の栄光を現わされます。わたしのものを受けてあなた方に伝えてくださるのです。ご聖霊様は私たちにイエス・キリストの十字架の栄光をあらわしてくださる。そして私たちの罪の身代わりとしてぜんぶを成し遂げてくださった神の愛のみわざを信じてくださる、これが真理の御霊なのです。

 もう一度言います。サタンは私たちの真実のすがたを告発します。それは私たちを滅びに追いやるためです。しかし、同じ私たちのありのままの姿を示してくださるお方は、それとともに、だからキリストの十字架があるのですといって、キリストの栄光を現わしてくださる。

第一コリント1:30
あなた方は神によってキリスト・イエスのうちにあります。キリストは私たちにとって神からの知恵、即ち、義と、聖と、贖いになられました。

 私たちは、イエス・キリストの十字架を信仰によって受け入れたとき、このような驚くべき御救いの中に入れられているのです。何と感謝なことでありましょうか。

 

※音声データ、画像は教会からお借りしています。
⏰現在異音はしておらず、パソコンダウンから幾分猶予が与えられたかで、14時28分更新


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雑感

 今しがたパソコンが異音を発声。これで2度目。思った機能が稼働しない。もはやこれまでと思うも、待てよ! 強引に一旦電源を切って入れ直してみたところ、一応は元通りに回復。これがいつまでもつやらなのだが。

 忘れかけていた更新。フェイスブックでの五月のスタートは弾んで切ったものの、午前中の地震。5強のと書くうちに、またもや異音がし始めている。というわけで、無意味な数行の羅列となりましたが、ここで切ります。

 

⛳22時33分更新

 

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