きょうのことば「もう一人の助け主」
インマヌエル盛岡キリスト教会の2021年04月18日(日)の礼拝メッセージをおつたえいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で48年目のご奉仕をしておられます。
説教題 『もう一人の助け主』 (國光勝美 牧師)
聖書箇所 新約聖書 ヨハネ伝14:16
そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、
その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。
<お話し>
きょうは、『もう一人の助け主』というテーマでメッセージを取り次がせていただきます。
ヨハネの福音書14章16節に目を向けましょう。イエス様のおことばです。
「そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、
その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます」。
この「わたし」というのは、イエス様ご自身です。そして、背景はきょう詳しくは省略しますけれども、いわゆるイエス様の最後の晩餐のときのおはなしです。「もう一人の助け主」を与えてくださる。イエス様がお父様にお願いすると。「その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます」。この「もう一人の助け主」とは、いつまでもあなた方とともにおられるお方。これは父なる神様と子なるキリスト、聖霊なる神様の三位一体に関わる大切な神様ご自身の私たちへの神様の御約束である、このように見ることができます。
ヨハネの福音書14章18節ご覧ください。
「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻ってきます」
イエス様は最後の晩餐のとき、お弟子さんたちが、どうもこのイエス様は、私たちの前から消えてしまわれるのではないだろうかという非常な不安、怖れがその場所にございました。その時にイエス様が、「だいじょうぶ、もう一人の助け主をあなたがたに与えるから。そして、わたしはあなたがたを捨てて、決して孤児にはしない。あなたがたのところに戻ってくる」と言われましたが、そのもう一人の助け主であるお方が聖霊というお方であります。
Other Himselfe(もう一人の彼自身)。つまりイエス様ご自身です。「もう一人の助け主」、即ち「もう一人のイエス様ご自身」を与えてくださる。
最後の晩餐の席でお弟子さんたちが非常な不安を覚えていたときに、「だいじょうぶ、わたしは去るけれども孤児にはしない。もういちど来る。そしてそのお方は、もう一人の私自身なのだ」。もう一人のキリストご自身。これが、このところに約束されているお方なのです。
マタイの福音書28章18~20節をご覧ください。
イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしは天においても地においても、すべての権威が与えられています。ですから、あなた方は行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」
もう一人の助け主、つまりイエス様ご自身が世の終わりまでいつもあなたがたとともにいますというお約束です。このイエス様のお約束、これほど確かなものはありません。
わたしはあなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます。
イエス様のお約束です。もう一人の助け主。いつまでもあなたがたとともにいるようにしてください。
どうでしょうか。このように、イエス様のお約束は、聖霊なる神様としてもう一人のご自身が、いつでもどんなときでも私たちと一緒にいてくださる。堅い約束を主はしてくださるのであります。もう一人のキリストご自身。
さて、これからのところが、実はきょうのメッセージの中心部分です。これを是非理解し、恵みの中に生きる者でありたいと思います。
イエス様がこのように助け主を与えるということは、逆に、あなたがたは何もできない者であるということです。
パウロはいっています。「わたしはほんとうに惨めな人間です。誰がこの死の体から私を救いだしてくれるでしょうか」と。ほんとうに自分ではどうすることもできない。敗北宣言をするということはほんとうに屈辱です。人としていちばん惨めです。ところが、実はこれこそ神様の知恵である。自分で何とかできると思っているうちは、助けなんか必要ないと思っているのです。でもいろいろなところを通りながら、もうほんとうに自分では自分をどうすることもできない。私はほんとうに惨めな無力な人間だ。この現実を、パウロのような思いを持って受け入れるとき、パラドックスのようですけれども、そこには次なる神様の展開があります。
ローマ人への手紙8章1、2節をご覧ください。
こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が罪と死の律法からあなたを解放したからです。
ここに高らかな勝利宣言があります。それはキリスト・イエスにあるもの、つまり、もう自分ではどうすることもできません。どうか私を憐れんでください。こういって、主の前に敗北宣言をするときに、そのあなたのためにキリストは十字架におつきになられたのです。この私の弱いあのことこのことのために、主は御救いを為してくださいました。
この図が、実は今日の一番のポイントであるように準備をさせていただきました。一生懸命に斯くありたいと願いながらも、よいことを願いながらもそれをすることができない自分、それにとことん気づいて、ああどうしてなんだろうかわたしは、と気づくとき、チャンスです。私は私を救うことなどとてもできません。わたしは滅んでしまいます。そのときに、そうだ、この私のためにイエス様が身代わりとして十字架の贖いをなして、新しいいのちを与えてくださった。このお方を信じる信仰によって生きればいいんだ。
イザヤ書63章9節。これも大切なきょうのおことばとして覚えていただきたいと思います。
彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、主の臨在の御使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって、主は彼らを贖い、昔からずっと彼らを背負い、担ってくださった。
私たちが苦しむとき、もう一人の主ご自身は私たちに深く同情し、主も同じように苦しみ、そしてこの「主の臨在の御使い」とありますけれども、これは「主の御顔」というように表すこともできます。これは主ご自身を表しているといってよろしいのです。もう一人の助けが彼らを救ったということができるのです。主イエス様は私たちとともにいつでも一緒にいてくださる。そしてその愛とあわれみによって主が彼を贖い、昔からずっと彼らを背負い担ってくださった。自分で何とかしなければと思ってもできない。ほんとうにくずおれてしまうような弱さ辛さを悲しさを思えば思うほど、もう一人の助け主が、私は知っているよ、あなたはわたしのもの、わたしはあなたを愛している。そしてそのお方は私たちが気づく前からずっと背負って私たちを担ってくださるお方なのです。立てないから、くずおれてしまうから、このお方にしっかりとよりすがるのです。
「われは幼子(おさなご)」という賛美歌があります。
1、われは幼子 われ主に縋(すが)らん
小さくあれど 信仰いだきて
たえず主イエスの手に依(よ)り縋らん
静けき昼も 風吹く夜も
2、などか怖(お)ずべき われ主に縋らん
神の御霊(みたま)の 導きあれば
たえず主イエスの手に依(よ)り縋らん
静けき昼も 風吹く夜も
3、晴れたる朝も われ主に縋らん
嵐の夜は 縋り祈りせん
たえず主イエスの手に依(よ)り縋らん
静けき昼も 風吹く夜も
4、息を引くとき われ主に縋らん
よし天地(あめつち)は 崩れ去るとも
たえず主イエスの手に依(よ)り縋らん
静けき昼も 風吹く夜も
彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、主の臨在の御使い(神ご自身)が彼らを救った。その愛とあわれみによって、主は彼らを贖い、昔からずっと彼らを背負い、担ってくださった。
もう一人の助け主、主は私たちに「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。(マタイ28:20)」と言われます。
私たちはこのイエス様のおことばを、アーメン、そのおことばは私にとって必要です。ほんとうに自分の弱さを認め、敗北宣言をし、そして、だからこそといって主を見あげるとき、「こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(ローマ8章1節)」と圧倒的な勝利の道が約束されているのであります。
※音声データ、画像は教会からお借りしています。
⏰6時01分更新
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