インマヌエル盛岡キリスト教会の2021年04月11日(日)の礼拝メッセージをおつたえいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で48年目のご奉仕をしておられます。

説教題 『主イエスとの新たな出会い』 (國光勝美 牧師)
聖書箇所 新約聖書 第一ペテロ1:3~9
(この聖書個所を「聴くドラマ聖書」で聴くことができます)
1:3私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。 1:4また、朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これらは、あなたがたのために天に蓄えられています。 1:5あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです。 1:6そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが、1:7試練で試されたあなた方の信仰はは、火で精練されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現われるとき、称賛と光栄と誉れをもたらします。 1:8あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに踊っています。 1:9あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。
<お話し>
この朝は、主イエスとの新たな出会い、これをペテロという皆さんよくご存じの人物を一つの例として、イエス様との出会い、彼は何度も経験しているのですけれども、その出会いによってあつかわれ、その出会いによって彼が成長していく、そのところを見させていただきながら、主イエス・キリストとの新たな出会いをさせていただきたいとこのように願っているのでございます。
前回の復習は、このブログの4月4日の「きょうのことば」をご覧ください。

きょうは第一ペテロ1章8節にありますペテロに注目をして、彼のキリスト・イエスとの出会いをおさらいしていきたいとこのように思います。画面のペテロの像と「あなた方は」という第一ペテロ1章の8、9節、これを絶えず心に留めていただきたいと思うのです。
さて、ペテロが最初に救い主イエス様にお会いしたのは、どんなときだったのか。マタイ4章9節にもあります。ペテロが兄弟であるアンデレによってイエス様に初めてお会いしました。そして、アンデレに導かれて、このお方こそ私の生涯をかけて従うべきお方だと心を定めました。ほんとうに幸いなイエス様との出会いを彼は経験しておりました。
私たちは、どのような出会いをその生涯においてしたでしょう。
イエス様のもとにずっと使徒としていつも近くにいて、イエス様の御業、教え、これらのものを間近に、誰よりも近く知っているのがペテロでした。使徒たちでした。そして
イエス様の御働きがガリラヤ地方から始まって、だんだん大きくなって、人々に受け入れられるようになってきたとき、そこにはまたイエス様に対する反対勢力がどんどん増し加わってきました。
その時、イエス様は、活動を遠くの方、ピリポ・カイザリヤと言われる地方に移して、その途中で、非常に大切な問いかけをいたします。この問いかけにペテロが或いは弟子たちが何と答えるのか。多くの人々は、イエス様のことを、この方はエリヤのよみがえりではないかとか、或いは、バプテスマのヨハネのよみがえりではないだろうかとか、或いは預言者の一人ではないだろうか。人々はイエス様についてありとあらゆる噂をしていました。イエス様はそれをよくご存知で、そして、自分にいつも近くにいるお弟子さん、特にペテロに、「あなた方はわたしを誰と言うか」と問います。そのときペテロは、「あなたは生ける神の御子キリストです」、このように答えました。イエス様は、そうか、お弟子さんたちは自分が生ける神の子キリストであるということを知ったのだな。「このことをあなたに告げたのは誰でもない、天にいますわたしの父だ。それではわたしはあなたに言う。あなたはペテロだ」。イエス様はこういって、ペテロの信仰告白を受け入れなさったのであります。
私たちはイエス様と出会った時、このお方を誰と言うか。ペテロのように「あなたは生ける神の御子キリストです」と告白している人たちは、ほんとうに幸いであります。
そして、その信仰告白を導き出された後、イエス様は高い山に3人の弟子、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを引き連れて山に登られました。所謂姿変わりをされた場面です。ルカ9:28にも出ております。場所は特定されていないと言われていますけれども、多くの者たちは、それはヘルモン山ではないだろうかと言っております。いずれにせよ、イエス様はペテロに信仰告白を導き出された後、特に、中心となるお弟子さんたちを高い山に自分と一緒に連れていきました。これはペテロにとっても、非常に印象的なできごとであったようです。今日のテキストはペテロの第一の手紙。第一ペテロの1章8節でした。それよりも後の所にペテロの手紙第二があります。1章の16節から読んでみます。
1:16私たちはあなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、それは、巧みな作り話によったのではありません。私たちは、キリストの威光の目撃者として伝えたのです。
事実ですよ。そしてその後、
1:17この方が父なる神から誉れと栄光を受けられたとき、厳かな栄光の中から、このような御声がありました。「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」 1:18私たちは聖なる山で主とともにいたので、天からかかったこの御声を自分で聞きました。
ペテロは、天から、父なる神様が「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」という声がして、この声を私はほんとうに聞いたのだ。そして、この姿変わりをされたイエス様をほんとうに私は見たのだ。架空な作り話をしてあなたがたにこのように言っているのではない。私はこの事実を伝えているのだとペテロは言うのです。
マタイ17章5節
5「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け」という声がした。
このときのできごとを、マタイはこのように記しております。このようにしてペテロが何回も何回もイエス様と出会いを重ねていき、そのたびに彼はキリスト理解というものを深めていきました。
そのペテロが、いよいよイエス様が十字架につけられなさるとき、イエス様がピラトたちの前に引き出されようとするとき、大祭司の庭のところまでペテロは心配で心配でたまらず、人の流れと一緒についていく。これからどうなるだろうか。そのとき、焚火を囲んでいる人々がペテロに、「おや、あんたもあの男の仲間だね」。「いいや違う違う、おれはあんな男なんて知らない」とペテロ。「いいや、あんたはガリラヤなまりがある。あの男もガリラヤだ。あんたあの男の仲間だろう」。ペテロは「嘘なら呪われてもいい」と誓ってしまう。この言葉は非常に強いことばが使われているそうです。「嘘なら呪われてもいい、俺はあんな男知らない」。すると鶏が泣いた。そのときイエス様が振り返られて、目と目が合った。
これも彼には忘れられない一つのキリストとの出会いでした。ですから、聖書をご存知の方には、お分かりいただけると思いますが、イエス様がよみがえられた後、ガリラヤで漁師に戻っていたペテロたち、お弟子さんたちに、よみがえられたイエス様が現れなさいます。よみがえられたイエス様とお会いしたペテロに、イエス様は、「バルヨナ・シモン、あなたは私を愛しますか」尋ねます。「ええ愛しています」。「シモンわたしを愛しているか」。「ええ、ご存知でしょう」3度目イエス様は「シモン・ペテロあなたはわたしを愛しているか」。「はい」。
ペテロはこの時に、わたしはあの大祭司の庭で「俺はあんな男なんか知らない」と3回イエス様を否定したことが痛く胸に迫ったでしょう。イエス様はペテロに「わたしの羊を養え」。ペテロがガリラヤ湖で漁師に戻っていたとき、主は声をかけられた。これもイエス様の深い扱いですね。このようにペテロはほんとうに何回も何回もイエス様と意味のある出会いを経験しています。
最も大きな出会いは、いま復活をしてからガリラヤに戻ったときのお話しをしましたけれども、それより前の出来事ですけれども、イエス様が葬られた墓にいない、葬られたイエス様の亡骸がないということを女たちから聞いて、そんなバカなと墓に急いだペテロとヨハネ。絵画にも描かれていますが、これも大きな興味ある題材なんでしょう。不安そうな、恐らく、白いのがヨハネでしょうね。手前に描かれているのがペテロ、画家はそのように描いたのでしょう。墓に急ぐペテロとヨハネが描かれている。そして、このとき、ほんとうに復活されたイエス様の扱いを受けることになる。戸を閉じて、こんどこそ自分たちも殺されてシまう、十字架につけられてしまうと恐れおののいていたお弟子さんたちにイエス様は現れなさる。何回も何回もペテロはイエス様に出あっています。
私たちきょうのペテロの手紙第一の1章に戻りたいと思います。
1:8あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに踊っています。 1:9あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。
私たちはこのよみがえりのイエス様に出あっている。これはほんとうに大きな出会いです。罪を悔い改めて新しく生まれるという新生の恵みに与ったからです。
ちょっとだけ本筋からそれますが、私はこういう立場におりますので、色々なキリスト教に関わる本を読む機会があります。20年近く前でしょうか、本部の仕事が終わりまして、帰りの新幹線までちょっと時間がありましたものですから、八重洲口の方にある八重洲ブックセンターというところに大きな本屋があるものですから、そこで新幹線までの時間を調整しようと思い、たしか8階のキリスト教関係の本が置いてあるところに行きました。死海写本などを専門的に扱うような、なかなか手に入れるのが難しいような大きな本をそこで見たのです。そこでいわゆる神学学者と呼ばれる立場の方の分厚い本がありまして、これはちょっと手に入れておきたいなと。かなり分厚い本でしたけれども、その本を購入して読みました。そこでつくづく感じたのは、この大作を書かれた先生は、キリスト教のことをよくご存知で、そして特に聖書学者でいらしたものですから、日本で翻訳されているいろいろなものをぜんぶご存知で、その意味ですごいなと感じました。ただ、この先生は生まれ変わりを経験していないとわかりました。すごくよくキリスト教の聖書を知っている人だけれども、生まれ変わりを経験していない。。そのことを深く感じました。
どうしてこのことをお話ししたかと言うと、復活の事実、私たちはこれを事実とし、受け入れているのです。しかし、この事実とこれに自分が罪人であるということがほんとうに分かって、示されて、そして、わたしの身代わりとしてこのお方が、神の御子が十字架につけられなさったのだということを、ほんとうに信じて主よ有り難うございますと受け入れたときに、ほんとうに新生の恵みを体験するのです。これが生けるのぞみの根拠なのです。
「天に蓄えられている朽ちることのない汚れることも消えていくこともない資産」、
私たちは、それを自分のものとしているのです。ですから、今苦難があって、今試練があって、今迫害があったとしても、この生まれ変わりの経験を持っている、生ける望みを持っている私たちにとってそれは、やがて来るところ 賞賛、栄光、これに変わる。このことをほんとうにアーメンと頷くことができるのです。それは私たちが魂の救いを得ているという事なのです。キリストとイエス様と出会うとき、私たちは、ほんとうに天に蓄えある、栄光ある嗣業、これは私のものだ。何よりもこのようなものを愛して、私たちを救って下さったお方。このことを思うと、もう感謝と歓びが心から湧き上がってくる。これがクリスチャンです。
わたしも、ギリシャ語が分かれば分かった方がいいのだろうし、ヘブル語が分かれば分かった方がいいのだろうし、それは学者として、それに対してひがみで言ってるわけでも何でもない、そうじゃない。そんなものが何もわからなかったとしても、聖霊によって自分が教えられているものである。放蕩息子のようなものであるということが聖霊によって気づかされて、ああ、主よ、私は滅びゆく者です、ということを示されて悔い改めているとき、ああ主よありがとうございます。
「誰も聖霊に感じなければ、イエスを主と言うこと能わず」、これは本当です。ほんとうに神様の聖霊の恵みによって自分の罪が示され、聖霊によってキリストの十字架の意味が示される。そして、聖霊によってキリストの復活が示されて分かったとき、これはほんとうの生ける望みとなるのです。
これでお話を締めくくらせていただければと思いますけれども、このような準備をしながら、一つ思ったのです。
いま、ワクチン接種、何週間前でしょうか、私たち二人分、接種する通知が盛岡市から届きました。こちらが受けられる態勢にあっても、いかんせんまだ受ける時期も受ける場所も決まってないんだそうです。案内はされているのですけれども、ホームページは見るんですけれども、只今準備中ですとすこしも進んでいない。皆様方もおなじようなことを経験されたでしょう。一刻もはやく打ちたいと思うでしょう。そしてそれが大きい社会問題になっている。
ふと、世の中の人たちは朽ちる命においてさえ所謂、ビオス、ゾーエイといわれる命、永遠のいのちであるゾーエイと生物学的な命のビオス。やがては朽ちる生物学的な命の方にはこれだけ大きな関心をもっていながら、ゾーエイ、永遠のいのちということにたいしては無頓着です。しかし私たち思うのです。永遠のいのち、こんなにすばらしい魂の救いというものを約束されて受けている。ワクチンではありませんけれども、カルバリの丘のあの2000年の昔のあのイエス様の十字架を仰ぎ見る者は救われる。
或いは民数記にもありますが、モーセが荒野で蛇をあげたように。イスラエルの人々が毒を持っている蛇に次々と襲われて、滅んで行ってしまう。でもそのときにモーセが神様から示されて、この毒蛇と同じようなもの、青銅で作った蛇を旗ざおの上に高くあげなさい。それを見た者は誰でも癒えるから。その時、みんな見たかと言うと、見ていない人もいるわけですね。あんな迷信、信じられるか、しかし、ほんとうに苦しんでいるその人たちはモーセがあげた青銅の蛇を仰ぎ見ました。見た者はみな癒えたとあります。同じことです。そしてイエス様がニコデモに言ったのは同じです。モーセが荒野で蛇をあげたように、人の子もまたあげられるべし。そしてヨハネ3:16の有名なおことば「神は実にそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者がひとりとして滅びることなく永遠のいのちを持つためである」に続くわけです。それを見るとき、私たちにはすでに神様からこんなにすばらしいワクチンが提供されている。これを仰ぎ見た者は誰でも生きるとある。しかしこれを仰ぎ見る人がいない。聖霊に感じた人たちだけが、これを仰ぎ見ることができるのだな、このように思う事であります。
第一ペテロの1:8,9をご一緒にお読みいたしましょう。
1:8あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに踊っています。 1:9あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。
※音声データ、画像は教会からお借りしています。
⏰7時5分更新
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