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2021年4月

210430 クラシック倶楽部を聴く 無言館 Ⅱ

戦後75年を前に、戦没画学生の作品を集めた無言館で奏でる、平和への祈り捕虜収容所でメシアンが作曲した名作「世の終わりのための四重奏曲」ディルク・アルトマン(クラリネット)白井圭(バイオリン)横坂源(チェロ)岡本麻子(ピアノ)出征直前、画学生たちが最後に遺した作品を前に、今を生きる演奏家たちがその思いを引き継ぎ、音楽で祈りを捧げる2019年9月長野県上田市での4K収録番組紹介よりー

 

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1985年京都賞受賞のときも妻のイヴォンヌ・ロリオとともに来日。親日家としても知られる。

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「世の終わりのための四重奏曲」 メシアン作曲
1940年にオリヴィエ・メシアンが作曲した四重奏曲。第二次世界大戦でドイツ軍の捕虜となり、ゲルリッツにあったStalag VIII-A(第8A捕虜収容所)に収容されていたときに作曲された。曲想は『ヨハネの黙示録10章に基づく。


1. 水晶の典礼
移調の限られた旋法とリズム・セリーによって異なる周期の時間を重ね合わせ、ピアノによる透明な水晶の和音とチェロによる高音のグリッサンドとが多次元的に層をなし、その朝靄の中にヴァイオリンによるクロウタドリクラリネットによるナイチンゲールが即興的に囀る。それらが光の中で高揚の頂点を迎えた後、静寂の中に前奏曲としての役割を終える。
2、世の終わりを告げる天使のためのヴォカリーズ
ABaの3部形式で構成され、A部分は御使いの強い力を喚起させる強固な表現を持つ。減8度音程、増8度音程や7度音程などを骨格に組み込んだ大胆でリズム的な和音がピアノによって担当されるが、その畏怖の中にヴァイオリンとチェロがユニゾンで世の終わりの切迫感を表現し、クラリネットは鳥の囀りを繰り返す。A部分の結尾部は、移調の限られた旋法2番を上行する弦によるユニゾンの後、恐怖を煽るトリルがヴァイオリン、チェロ、クラリネットと階梯導入され、ピアノは上行する複調和音のアルペジオの後、下行する和音で閉じられる。中間のB部分は天使のヴォカリーズに該当し、弦による美しいユニゾンの上を、メシアン自身が「ブルー=オレンジ」と表現した和音が水の滝を穏やかに落とし、遥か彼方のカリヨンの響きでそれを包む。最後のa部分は、A部分の結尾部を反行型にしたもので、移調の限られた旋法2番を下行する弦によるユニゾンの後、恐怖を煽るトリルがチェロ、ヴァイオリン、クラリネットと階梯導入され、ピアノは下行する複調和音のアルペジオの後、上行する和音で閉じられる。
3、鳥たちの深淵
鳥の歌を使用したクラリネットの独奏曲で、有効に使った休符の中に満ちた深い精神的な空間と、長く引き伸ばされたクレッシェンドはクラリネットの表現力を充分に生かしており、単独に抜粋されてアンコールなどの演奏会で演奏されることもある。
4、間奏曲
ヴァイオリン、クラリネット、チェロの三重奏。ユニゾンで協調する部分と、アンサンブル的に掛け合う部分とが効果的に構成されている。3者が模倣を引き継いだり、2者と1者とが呼応したり、短い中に三重奏の様々な姿が凝集されている。全体を通して4分の2拍子で書かれている。
5、イエスの永遠性への賛歌
チェロとピアノの二重奏。1937年オンド・マルトノの六重奏のために作曲した組曲「美しき水の祭典」からの一曲を引用して編曲されている。全長転位音ともみなされる解決されない非和声音が曲の推進力を強く保ち、高らかに賛美を歌った後、永遠の彼方へと消えていく。
6、7つのトランペットのための狂乱の踊り
ユニゾンに終始する。変型された4分の4拍子とも見なされ、そこに付加リズムを含んで拡大・縮小される。即興的に主題が拡大され、それが大規模な姿を呈した絶頂の後、非可逆リズムによって神の奥義の成就を象徴する。初演時のタイトルは「ファンファーレ」であった。
7、世の終わりを告げる天使のための虹の混乱
ピアノの伴奏に乗ってチェロが息の長い旋律を歌うが、ヴァイオリン、ピアノが入った激しいアンサンブルにより中断される。その後はクラリネットが旋律を歌ったのち激しいアンサンブルが再現され、ピアノを中心とした色彩豊かな部分が続いた後に、激しいアンサンブルにより締めくくられる。
8、イエスの不滅性への賛歌
ヴァイオリンとピアノの二重奏。1930年にオルガンのために作曲した「二枚折絵」の第二部(後にこの部分に"Le Paradis「天国」"と副題を付けている)から編曲されている。メシアンらしい、天国的な遅さの中に、じっくりと賛歌が歌われる。初演時のタイトルは「イエスの永遠性への第二讃歌」であった。
                           (番組でも適切な曲の解説があったが、上記はWikipedia から)

🎵ゲルリッツの収容所に関してよくわからないけれども、と書いたところが、「調べてみれば」と内なる声。ググると著作物も芋づる式に。比較的ゆるかった収容所とはいうものの、何処からともなく告げ知らされるユダヤの人たちの命運を知る中で、メシアンの頭脳、心ではこれほどの創造の営みがあったことに感動、落涙。前回聴いたときは画学生の想いに胸が詰まったが、今回はこの作品の不可思議さ、いかなるところにあっても創造の泉はそこにある、そう思わせられた。

 

🎧名曲アルバムは宮城道雄の「春の海」
⛳ひびが入ったかのカメラで、不思議にこれと思った場面だけは録ることができた。12時6分更新。昼のニュースを聞きながら。


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210429 クラシック倶楽部を聴く 

戦没画学生の作品を集めた無言館での平和への祈り戦争に触発されて作曲されたクラム作曲「ブラック・エンジェルズ」、ビーバー作曲「パッサカリア」、バーバー作曲 弦楽四重奏曲川又明日香、瀧村依里(バイオリン)正田響子(ビオラ)髙木慶太(チェロ)白井圭(バイオリン)出征直前、画学生たちが最後に遺した作品を前に、今を生きる演奏家たちがその思いを引き継ぎ、音楽で祈りを捧げる長野県上田市番組紹介よりー

曲目
ブラック・エンジェルズ~暗黒界からの13のイメージ~」ジョージ・クラム:作曲
(バイオリン)川又明日香、(バイオリン)瀧村依里、(ビオラ)正田響子、(チェロ)高木慶太
パッサカリア」ハインリヒ・ビーバー:作曲
(バイオリン)白井 圭
弦楽四重奏曲 作品11」サミュエル・バーバー:作曲
(バイオリン)川又明日香、(バイオリン)瀧村依里、(ビオラ)正田響子、(チェロ)高木慶太

🎵ジョージ・クラムの「ブラック・エンジェルズ」に関しては参考になるを繋いでおく。この曲は当初第二次世界大戦後かに作曲されたのかと思っていたところ、ベトナム戦争のころとあった。ほとんど恐怖映画の音響とあるが、一部をお借りし転載すると
『ブラック・エンジェルズ』はヴェトナム戦争で疲弊し、悲しみと苛立ちを抱える人々に受け入れられた。この作品に込められたメッセージは深い。最初は音響効果に耳を奪われるが、何度か聴いているうちに13のイメージが描き出すストーリーが見えてくる。凶兆、混乱、苦痛、涙、空虚、そして祈り......。これは寓話である。外観は革新的で、歪んでいて、まがまがしいのに、聴いた後は聖なる音楽にふれたような感触が残る。奇怪な音響がひしめきながらも、散漫な感じがしない。これはクラムの数霊術的計算のなせるわざなのか、古典引用の絶妙なバランス感覚のおかげなのか。
 若い奏者のお一人おひとりが、戦没画学生の無念を受け留められての悲壮感極まる演奏だった。

ビーバーの「パッサカリア」演奏のときに紹介された中村萬平の出征数日前の身ごもっている妻の絵や伊澤洋の理想とする家族団らんの絵。日高安典があと5分あと10分この絵を描いていたいという言葉。片岡進の彫刻だろうか、この像だけを自分だと思ってほしいと彫られた頭像が胸を打った。

バーバーの「弦楽四重奏曲 作品11」が胸に沁みた。ケネディの葬儀で使用されてから有名になったが、バーバー自身は葬儀用に作ったのではないと不満だったらしい。しかし、この曲も静かな光に展示されたている絵画を照らし出すように響き、一層青年たちの無念さを感じながら、こうして切羽詰まった時空からは遠く過ごし、遊んではいなかったものの、神からの賜物をおろそかにし、重きを置かず、その時々の事情によって放り出し、大切にしていない自分のあり様がさらけ出された気がした。黙して語る作品群をきょうの、といってもこれも再放送であるのだが、再び、戦争に散った作家たちを惜しみ、また自分をも惜しむ心境となった。

そして戦没画学生の想いが史実と絵画を通し鳩尾に食い込んだ。ジョージ・クラムのこの曲は、閉じ込められた慟哭、嗚咽を魂の陰をなぞるに音で象っていく。ふっと読経に通じるものも覚えた。思えば兵士たちの昼夜を問わないうち続く行軍の耳を覆っていたものはわきあがるような虫の音だっただろう。それがさまざまな状況によって、大方は弱っていくに従い、金属的に、或いは涼やかに、泣くようにも聞こえただろう。それを弦楽器の他に、変化をつけた水の量を入れたグラスを、ドラムを、弓で擦る、或いは、人差し指、中指にはめた指輪で弦を微かに震わせる、ガラスの棒で弦を擦るといった実験的な音にも感じられた。作曲者の譜面などの資料、解説も迫るものがある。
 傷病兵をタンカーに密林を行軍する実録フィルム、お盆に無言館を訪れる人々が筆を供えるさま、何よりも遺された作品の数々に、自分はこのように生き長らえながら、この画学生たちが造りたかった、描きたかった想いの1千分の1も生きてはいないあり様に対する問いかけに、ビーバー、バーバーの旋律も手伝い見直しを迫られた。
死を覚悟したとき、人は何を想い、何をのこすのか……
 以前に聴いたときの感想をほとんどそのまま繰り返してみた。

🎧名曲アルバムはシモンスの「南京豆売り」
「南京豆売り」(トランペット)エリック宮城,(管弦楽)東京フィルハーモニー交響楽団,(指揮)増井信貴 ~キューバ・ハバナ~

⛳カメラ不調。ちょっと寂しいけれど写真無し更新。16時17分。

 

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210428 クラシック倶楽部を聴く デジタルアート&三浦文彰のバイオリン

来場者100万人突破という東京の新名所「チームラボ・ボーダレス」を舞台に、バイオリンの俊英・三浦文彰がデジタルアート作品とコラボを実現!クライスラー作曲「愛の喜び」ユン・イサン作曲「大王の主題」パガニーニ作曲「『ネル・コル・ピウ』による変奏曲」モーツァルト作曲「バイオリン・ソナタ変ロ長調K.454」服部隆之作曲「大河ドラマ『真田丸』メインテーマ」ピアノ・江口玲番組紹介よりー

 

三浦文彰
2009
年世界最難関ともいわれるハノーファー国際コンクールにおいて、史上最年少の16歳で優勝。国際的に脚光を浴びる。東京都出身。両親ともにヴァイオリニストの音楽一家に生まれ、3歳よりヴァイオリンを始める。

三浦文彰のコメント
Q
デジタルアートの中で演奏して
こんな空間で演奏するってまずないので、僕の中ではクラシック音楽というのはやはり国も何も関係なく人々が常に人生の中であるものなので、こういう場所で演奏するというのは楽しかったです。
Q今回の選曲について
まったく違った時代の作品たちを、バランスをすこし考えながら作ってみました。パガニーニの「ネル・コル・ピウ」はもう僕が10代の頃からよく演奏していて、パガニーニの書いた作品の中では最も難曲と言われているとてもチャレンジングな作品なので、それこそこのような空間で演奏できるというのは面白いんじゃないかなと思ったので、自分自身で楽しみながら演奏できればいいかなと思います。
Q
今後の展望
音楽というのは、、人生にいろんな彩をくれるものだと思っていて、クラシック音楽の魅力というかそれを僕らの世代にももっと知っていただいたらいいかなとおもっているので、もっと身近に楽しめる機会というものを作っていけたらいいなと思うので、僕もそれに熱を入れてやっていきたいなと思っています。

曲目
「愛の喜び」クライスラー:作曲
「大王の主題」ユン・イサン:作曲
「「ネル・コル・ピウ」による変奏曲」パガニーニ:作曲
「バイオリン・ソナタ 変ロ長調 K.454」モーツァルト:作曲
「大河ドラマ「真田丸」メインテーマ(ピアノ伴奏版)」服部隆之:作曲

 

🎵とにかくあの真田丸のテーマが流れたときの鮮烈な驚きは今もって忘れられない。奏者が字幕に現われるのを息をつめて待った。それが三浦だった。その三浦とデジタルアートとのコラボなのだ。チームラボ・ボーダレスは作品に触れながらさ迷い歩く。作品が自ら動きだし、人と触れ合い、しだいに人との垣根が消えてゆくという、それも現実にあったかなかったかの感覚がのこるのでは、いちど行ってみたいと思いつつ出かけることが危惧され、いまだ叶わずにいる。1万平方に無数のデジタルアートがあるらしい。

白づくめ衣装で、クライスラー作曲「愛の喜び」に始まり、花と人の森でユン・イサン作曲「大王の主題」。次には黒づくめの衣装でランプの森でパガニーニ作曲「『ネル・コル・ピウ』による変奏曲」。三浦はパガニーニを10代から弾いているという。今回、全く時代の違った曲をバランスよく選曲したという。パガニーニ、あらゆる奏法のオンパレードなのだが、これがちょうど今のポップス界の若者たちのパフォーマンスの機敏さを感じさせる。ユン・イサン、パガニーニと、表現が適切かはわからないが、切り取られた音の表面に凸凹がない、三浦が翳す弓の空間には、実に見事で颯爽とした一面が有無を言わさず君臨しているとさえ思われることが。モーツァルト作曲「バイオリン・ソナタ変ロ長調K.454」、では奏者のまた別側面の感性が。穏やかで叙情的、それこそ「人のため岩に憑依する滝」に流れる水が己の行方を問うているかなのだ。服部隆之作曲「大河ドラマ『真田丸』メインテーマ」。意表を憑く冒頭のフレーズには靄がかった脳内もスッキリ。鮮烈! 切れ味に心ざわめく。

 

🎧名曲アルバム。バルトークの「弦楽四重奏曲第一番」クァルテット・エクセルシオ

⛳ブログ更新した直後からカードの写真は消しているのだが、誤って今朝はまだ載せないうちに消してしまった。けっこういい場面を押さえたつもりが残念。前に書いたものに三浦さんのコメントを足して更新。8時42分。

 

 

 

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210427 クラシック倶楽部を聴く ピアニスト高橋アキが、つるの剛士と初のコラボ―レーション

「現代音楽の演奏家として活躍するピアニスト高橋アキが、つるの剛士と初のコラボレーション! 曲目「ぞうのババール」(プーランク)ほか」(番組紹介から)北九州市響ホール 収録。

北九州市、人口90万、旧門司税関、旧大阪商船、羊群原、千仏鍾乳洞、360度のパノラマをもち、日本三大夜景に入る皿盆山のふもとにあるのが響ホール

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高橋アキさんは東京芸術大学在学中、武満徹作品を演奏しデビュー。1975年からエリック・サティー全曲演奏会を12回にわたり開催。楽譜の校訂を手掛け、サティ―ピアノ全集を出版するなど、日本で巻き起こったサティーブームの一翼を担う。これまで数々の賞を受賞。多くの作品の初演を行うなど、現代曲のスペシャリストとして国際的な活躍を続けている。

高橋アキのコメント
ピアノって弦楽器なんですよね。結構皆さんここだけ考えて鍵盤で弾くけど、ほんとは弦をいかに鳴らすか響かせるかみたいなそういうことけっこう大事に考えてやってますけど、それで響きが色んなふうに変わるのがおもしろい。だから本当はポンと鳴らしたら減衰しちゃうんですよね。なくなるけど、それを錯覚をさせるみたいなメロディーがゆっくりと流れてく、そういう流れみたいなのを作るのもけっこう技術要りますよね。ポンポンと言うんじゃなくて(味のある)ぽんぽんとかなんとか、ほんとは減衰してんだけど、それがつながって聴こえるというそういう錯覚ですけれども、やっぱりメロディーの歌い方とか、それからここから歌が出てくるというのがおもしろいんですよね。どういう音を自分が求めてるかをここに出す。それがやっぱり技術。だから技術で指がはやく回るとか強い音が出せるだけじゃなくて、自分のイメージをいかにここから出すかということが、ほんとうはいちばん大事な技術ですよね。

つるの剛士さんは音楽活動のほか、読み聞かせや、「将棋・釣り・楽器、サーフィン・野菜作りなど趣味も幅広く、好きになったらとことんやらなければ気が済まない多彩な才能の持ち主。二男三女の父親」(オフィシャルサイトから)。音楽ヒットはいわずもがな、野菜作りというところに筆者は共感を示す。中学校の時は音楽部の、吹奏楽部であったか、何れホルンを担当し部長でもあったとか。

ジムノペディ第一番  サティー
☆ハイパービートルズから
   「ゴールデン・スランパー」レノン&マッカートニー 、三輪眞弘編曲
   「レット・イット・ビー~アジア旅行 レノン&マッカートニー、三輪眞弘編曲
ぞうのババール   プーランク作曲
 ジャン・ド・ブリュノフ作、矢川澄子訳

🎵サティの「ジムノペディ第1番」、ジムノペデイの曲名は「古代ギリシアのアポロンやバッカスなどの神々を全裸で踊り讃える祭典に由来している」という。1888年、サティがパリ音楽院在学中に作曲。同じくサティの「グノシェンヌ第5番」、5番には全7曲あり、東洋的な色合いであると。ゆったりとした雲の移ろいを庭の椅子からでも見上げあじわっているような。ビートルズが好きだった武満の編曲。「ハイパービートルズ ゴールデン・スランバー」「ハイパービートルズ レット・イット・ビー~アジア旅行~」、三輪眞弘編曲、この方はコンピューター音楽で知られる方。
プーランクが
1945年に作曲したピアノと語り手のための音楽物語が「像のババール」。フランス人絵本作家ジャン・ド・ブリュノフ作。彼はプーランクと親交があったとか。翻訳が矢川澄子。お母さんと楽しく散歩していた象がお母さんを撃たれ失くして、くたくたになって街へ。そこで何でも買ってくれるお金持ちのおばあさんとの出会いからババールの人生はがらりと変わる。デパートのエレベーターが気に入る。この場面には、高橋が相応しい曲をプーランクの曲の中から見つけだしたのだとか。ここにエレベーターボーイのババールを叱る台詞が北九州弁だと思うが方言で入るところが面白い。服も新調しおばあさんの家で暮らす。大学の教授が教育まで受けさせにやってくる。満ち足りた頃の森でのいとこやサルたちとの楽しい暮らしを思い出す。そこで森に帰っていくと思いきや、ババールはそこで一緒に帰るかと思いきや、こんどはおばあさんが二匹にも服を買ってやり、喫茶店でケーキをごちそう。二匹のお母さんが迎えに来たところで、やっと帰郷の荷造りとなり車で帰還。その日象の王様が毒きのこにあたって急死。ババールをコルネリウスが王に推薦。ババールは教養も修め立派になっていたので相応しいとおもったのだろう。結婚式と戴冠式が同時にもたれパーティーではオーケストラとダンス。ババールはセレストを王妃にし王となる。ここで筆者の脳裏に「勝ちます」という声がなぜか聞え、ババールの声に重なった。どこかにもう一人の、いやもう一匹のババールがいて凱歌をあげたような。ババールとセレストは幸せいっぱい。この日の思い出はみんなの胸に楽しく残るだろう。ピアノの響きと共にと付け加えておこう。

🎧名曲アルバムは大友&N響でグロフェ作曲、組曲「大峡谷」から「日の出」
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⛳やっと21時5分更新

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210426 クラシック倶楽部を聴く 三村奈々恵 マリンバ・リサイタル

クラシックからポップス、民族音楽まで幅広いジャンルで活躍するマリンバ奏者、三村奈々恵。ニューヨーク・カーネギーホールでのデビューリサイタル以来、欧米やアジア、中南米など20におよぶ国々で演奏活動を行ってきた。演奏も録音もされずに埋もれていたという吉松隆の幻の作品「バードスケイプ」、そして原譜に立ち返って編曲したというバッハ「シャコンヌ」ほか、三村奈々恵による変幻自在なマリンバの世界をお送りする。―番組紹介よりー

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三村奈々恵は国立音楽大学を卒業後、アメリカへ渡りボストン音楽院で学ぶ。1999年に若手音楽家の登竜門ニューヨークのコンサート・アーティスト・ギルド・コンベクションョンで最高位を受賞。その後カーネギーホールでのリサイタルをきっかけに世界的に知られるようになる。欧米やアジア、中南米など各地でコンサートを開き、国際コンクールの審査員を務める。マリンバのオリジナル作品を演奏するばかりでなく、他の楽器の曲をマリンバ用に編曲することにも力を入れている。そこにはマリンバに対するさまざまな想いがありました。

三村奈々恵のコメント
なぜ私のレパートリーが編曲が多いかというと、やはり、このコンサート・マリンバのためにはじめて楽曲が書かれたのが1950年以降です。だからクラシック音楽の分野ではピアノや弦楽器に比べると圧倒的にマリンバのために書かれた曲が少なくて、また、1950年以降なので、すべて現代音楽という分野に入ってしまいます。なので、私はバロック音楽も好きですし、そのクラシック以外のラテンっぽい音楽だったり、ジャズっぽい音楽だったりも好きなので、そういう自分の好きな曲を入れ込むとどうしても半分オリジナル、半分は編曲という構成になってしまいます。編曲する上において、自分でも常に奏法と言うのが、新しい奏法を研究してたり、生まれてくる。こういう音が欲しいなというときに新しいテクニックが出て来たりするので、そういうものを、あ、マリンバってこういうこともできるんだといのを、現代生きていらっしゃる作曲家の方に見て頂いて、マリンバのために新曲をどんどん書いていただきたいという思いがあります。
マレットはもう数えたことはないんですけれども、たぶん家には数百本あると思います。一つのコンサートでも、一曲一曲変えるので、一つのコンサートで30本から50本は普通に使います。じゃなんでそんなにたくさんのマレットが必要なのかといいますと、一本一本すべて出る音色が違うんですね。それは重さだったり中に入っている素材だったり巻いてある毛糸の種類、綿とかウールによってもまったく出る音が違ってきます。毛糸を巻いていないゴムのマレットも持って来たんですけれども、ちょっと音の違いを出してみます。これは大きくて重くて低音に適しています。やわらかい音がします。これをゴムのマレットでたたいてみると、(固めの音)。また硬いマレット、毛糸を巻いてある硬いマレットでたたいてみると全然違うんですよね。この低音に向いているマレットでたとえば高音をたたくと、マレットの重みに鍵盤が負けてしまって音がでない。この硬いのを使うと音が出るんです。だいたい4本持つんですけれども、4本ばらばらのマレットを持ったり、上3本同じでベースだけ変えたり、トップ中2本だけ変えたりとかさまざまな組み合わせて、とにかく曲に合わせてマレットは選んでいます。

曲目
「「フロム・マイ・リトル・アイランド」から「賛美歌」「ダンス・オブ・パッション」「フォークソング」」ロバート・アルドリッジ:作曲、ナンシー・ゼルツマン:編曲
「バードスケイプ 作品20」吉松隆:作曲
「ブエノスアイレスの春」ピアソラ:作曲、三村奈々恵:編曲
「トッカータ」アンナ・イグナトヴィチ・グリンスカ:作曲
「シャコンヌ」バッハ:作曲、三村奈々恵:編曲
「変奏曲「謎」作品36から「ニムロッド」」エルガー:作曲、三村奈々恵:編曲

🎵バッハがきっかけで音楽の道にはいったという三村。演奏ぜんたいにそれが感じられる。シャコンヌの編曲は三村が原点に立ち返っての仕事であるようだ。打楽器でこんなに深く聴かせられるものかと驚く、と書いてみて、驚くは適切ではないなと。目が見開かれると言った方が適切であるようだ。マリンバのために曲が書かれるようになったのは1950年以降で、クラシックの多くが編曲を要する。楽器の性格上もそうなるのだろう。演奏でこういう音が欲しいなと模索する中で新しい奏法が産み出されるのだという。ゴム、布、毛糸などの様々な素材のマレットを数百本所有しているようだが、一つのコンサートで使うのは3050本を曲に合わせて選んでいる。冒頭の「フロム・マイ・リトル・アイランド」、これは1988にできたマリンバのための作品で、「賛美歌」の静謐な中に奥行きのある響きに魅せられた。「ダンス・オブ・パッション」、水滴が幾とおりもの色彩を帯びてダンスのリズムさながら滴り落ちる様が浮かんだ。マレットの一音一音が感性に優しく落ちる。吉松隆の「バードスケイプ 作品20」、マリンバのための作品だが、長く知られずにいたのを2016年に三村が着目し光を当てる。森の生き物たちの息遣い、鳥が飛び立ったあとの木の葉の微妙な揺れ、陰影までが聴こえる。写真にある、見慣れない生き物、森の音を具現するための鳴り物、これが吉松の音の追求から作り出されたものか、或いは、三村がこの曲の細部のことごとくを描き出すために三村によって考案されたものかは分からないが、思えば10個ほど並んだこの仕掛けが、単純なようで緻密なものすごい仕掛けと思われてくる。「トッカータ」の高音域はピアノのようでもあり、低音域に移ってまた馥郁とした響きがひろがっていく。マリンバの可能性を知らされた。「シャコンヌ」、水底から気泡のように立ち上ってくる、それが時間の観念と相まって埋めがたい音の間隙を埋めてくれていたという感じが。この辺りに至って音の追求の並々ならぬ一途さ、熱心、好奇心、追及心に思わず落涙。

🎧名曲アルバム。オネゲルの「パシフィック21」
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⛳次の段取りが急がれる。きょうはガラス拭き。8時開始予定。それがもう時間が過ぎている。頑張って硝子のくもりを拭きとり、ついでに自分の曇りも拭き取りたいもの。汗は余計なものを一緒に流し去ってくれるといえば月並みで、これは幻想かといえばすこし面白みも出るだろうか。三村の「ニムロッド」の静寂に浸潤していくような響きをイヤホンで耳にしながら。8時22分更新。

 

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きょうのことば「もう一人の助け主」

インマヌエル盛岡キリスト教会20210418日()の礼拝メッセージをおつたえいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で48年目のご奉仕をしておられます。

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説教題 『もう一人の助け主』  (國光勝美 牧師)
聖書箇所 新約聖書 ヨハネ伝1416
そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、
その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます。

<お話し>

きょうは、『もう一人の助け主』というテーマでメッセージを取り次がせていただきます。

ヨハネの福音書1416節に目を向けましょう。イエス様のおことばです。
そしてわたしが父にお願いすると、父はもう一人の助け主をお与えくださり、
その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます」。
 この「わたし」というのは、イエス様ご自身です。そして、背景はきょう詳しくは省略しますけれども、いわゆるイエス様の最後の晩餐のときのおはなしです。「もう一人の助け主」を与えてくださる。イエス様がお父様にお願いすると。「その助け主がいつまでも、あなたがたとともにいるようにしてくださいます」。この「もう一人の助け主」とは、いつまでもあなた方とともにおられるお方。これは父なる神様と子なるキリスト、聖霊なる神様の三位一体に関わる大切な神様ご自身の私たちへの神様の御約束である、このように見ることができます。

 ヨハネの福音書1418節ご覧ください。
わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻ってきます
 イエス様は最後の晩餐のとき、お弟子さんたちが、どうもこのイエス様は、私たちの前から消えてしまわれるのではないだろうかという非常な不安、怖れがその場所にございました。その時にイエス様が、「だいじょうぶ、もう一人の助け主をあなたがたに与えるから。そして、わたしはあなたがたを捨てて、決して孤児にはしない。あなたがたのところに戻ってくる」と言われましたが、そのもう一人の助け主であるお方が聖霊というお方であります。

 Other Himselfe(もう一人の彼自身)。つまりイエス様ご自身です。「もう一人の助け主」、即ち「もう一人のイエス様ご自身」を与えてくださる。
 最後の晩餐の席でお弟子さんたちが非常な不安を覚えていたときに、「だいじょうぶ、わたしは去るけれども孤児にはしない。もういちど来る。そしてそのお方は、もう一人の私自身なのだ」。もう一人のキリストご自身。これが、このところに約束されているお方なのです。


 マタイの福音書281820節をご覧ください。
イエスは近づいて来て、彼らにこう言われた。「わたしは天においても地においても、すべての権威が与えられています。ですから、あなた方は行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい。父、子、聖霊の名において彼らにバプテスマを授け、わたしがあなたがたに命じておいた、すべてのことを守るように教えなさい。見よ。わたしは世の終わりまで、いつもあなたがたとともにいます。」
 もう一人の助け主、つまりイエス様ご自身が世の終わりまでいつもあなたがたとともにいますというお約束です。このイエス様のお約束、これほど確かなものはありません。

わたしはあなたがたを捨てて孤児にはしません。あなたがたのところに戻って来ます。
 
イエス様のお約束です。もう一人の助け主。いつまでもあなたがたとともにいるようにしてください。
 どうでしょうか。このように、イエス様のお約束は、聖霊なる神様としてもう一人のご自身が、いつでもどんなときでも私たちと一緒にいてくださる。堅い約束を主はしてくださるのであります。もう一人のキリストご自身。


 さて、これからのところが、実はきょうのメッセージの中心部分です。これを是非理解し、恵みの中に生きる者でありたいと思います。
 イエス様がこのように助け主を与えるということは、逆に、あなたがたは何もできない者であるということです。
 パウロはいっています。「わたしはほんとうに惨めな人間です。誰がこの死の体から私を救いだしてくれるでしょうか」と。ほんとうに自分ではどうすることもできない。敗北宣言をするということはほんとうに屈辱です。人としていちばん惨めです。ところが、実はこれこそ神様の知恵である。自分で何とかできると思っているうちは、助けなんか必要ないと思っているのです。でもいろいろなところを通りながら、もうほんとうに自分では自分をどうすることもできない。私はほんとうに惨めな無力な人間だ。この現実を、パウロのような思いを持って受け入れるとき、パラドックスのようですけれども、そこには次なる神様の展開があります。


 ローマ人への手紙8章12節をご覧ください。
こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。なぜなら、キリスト・イエスにあるいのちの御霊の律法が罪と死の律法からあなたを解放したからです。
 ここに高らかな勝利宣言があります。それはキリスト・イエスにあるもの、つまり、もう自分ではどうすることもできません。どうか私を憐れんでください。こういって、主の前に敗北宣言をするときに、そのあなたのためにキリストは十字架におつきになられたのです。この私の弱いあのことこのことのために、主は御救いを為してくださいました。

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 この図が、実は今日の一番のポイントであるように準備をさせていただきました。一生懸命に斯くありたいと願いながらも、よいことを願いながらもそれをすることができない自分、それにとことん気づいて、ああどうしてなんだろうかわたしは、と気づくとき、チャンスです。私は私を救うことなどとてもできません。わたしは滅んでしまいます。そのときに、そうだ、この私のためにイエス様が身代わりとして十字架の贖いをなして、新しいいのちを与えてくださった。このお方を信じる信仰によって生きればいいんだ。

 イザヤ書639節。これも大切なきょうのおことばとして覚えていただきたいと思います。
彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、主の臨在の御使いが彼らを救った。その愛とあわれみによって、主は彼らを贖い、昔からずっと彼らを背負い、担ってくださった。
 私たちが苦しむとき、もう一人の主ご自身は私たちに深く同情し、主も同じように苦しみ、そしてこの「主の臨在の御使い」とありますけれども、これは「主の御顔」というように表すこともできます。これは主ご自身を表しているといってよろしいのです。もう一人の助けが彼らを救ったということができるのです。主イエス様は私たちとともにいつでも一緒にいてくださる。そしてその愛とあわれみによって主が彼を贖い、昔からずっと彼らを背負い担ってくださった。自分で何とかしなければと思ってもできない。ほんとうにくずおれてしまうような弱さ辛さを悲しさを思えば思うほど、もう一人の助け主が、私は知っているよ、あなたはわたしのもの、わたしはあなたを愛している。そしてそのお方は私たちが気づく前からずっと背負って私たちを担ってくださるお方なのです。立てないから、くずおれてしまうから、このお方にしっかりとよりすがるのです。

「われは幼子(おさなご)」という賛美歌があります。

1、われは幼子 われ主に縋(すが)らん
小さくあれど 信仰いだきて
たえず主イエスの手に依(よ)り縋らん
静けき昼も 風吹く夜も

  2、などか怖(お)ずべき われ主に縋らん
神の御霊(みたま)の 導きあれば
たえず主イエスの手に依(よ)り縋らん
静けき昼も 風吹く夜も

3、晴れたる朝も われ主に縋らん
嵐の夜は 縋り祈りせん
たえず主イエスの手に依(よ)り縋らん
静けき昼も 風吹く夜も

4、息を引くとき われ主に縋らん
よし天地(あめつち)は 崩れ去るとも
たえず主イエスの手に依(よ)り縋らん
静けき昼も 風吹く夜も

 

彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、主の臨在の御使い(神ご自身)が彼らを救った。その愛とあわれみによって、主は彼らを贖い、昔からずっと彼らを背負い、担ってくださった。

もう一人の助け主、主は私たちに「見よわたしは世の終わりまでいつもあなたがたとともにいます(マタイ28:20)」と言われます。

私たちはこのイエス様のおことばを、アーメン、そのおことばは私にとって必要です。ほんとうに自分の弱さを認め、敗北宣言をし、そして、だからこそといって主を見あげるとき、「こういうわけで、今や、キリスト・イエスにある者が罪に定められることは決してありません。(ローマ8章1)」と圧倒的な勝利の道が約束されているのであります。

※音声データ、画像は教会からお借りしています。
⏰6時01分更新

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J--MERO ざっと

J--MERO

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SCANDAL 楽曲制作について。個人的にはなかなかできなくなったというか、なかなかうまく言葉だったりメロディーだったり、形にすることができない時期でもあって、ちょっとずつメンタル的にも復活してきたなと思うところで楽曲づくりを始めてという感じの1年だったんで、でもマイペースにできたというふうにポジティブに捉えてやりました。
それぞれ宅録で音源を作ったりとか、ぜんぶ変わりましたね。
そのときにできる最善を尽くしながらそこで新しいチャレンジみたいなものも新たに閃けたらいいなと思うし、その時に起こる出来事に対して新しいアイデアをどんどん思いつけたらなあと思って、そういう色んなことに挑戦していける自分たちでありたいなあと思います。
BALLISTIK BOYZ from EXILE TRIBE
 楽曲制作、アクロバット的パフォーマンス、各国の言語習得に余念がない。

     ☆  ☆  ☆

 つい更新を忘れてしまうところだった。一段落して一休みするうちに、ついつい一日がもうすっかり終わった気分になってしまっている。
月曜日からのクラシック倶楽部の前後、他チャンネルで、なるほどと思ったことを一つ。途中からだけれども。あ、これは録っておいた方がいいと気付くのが遅かった。音楽のことではない。

「まず環境危機を克服するためには、経済成長のための競争を止め、経済そのものをスローダウンする必要がある。それが脱成長です。けれどもそれだけでは不十分でしょう。平等な社会のためには今ある富をシェアする社会へと転換しなくてはなりません。そのカギとなるのがコモンです。資本主義では利潤獲得のために地球上のあらゆるものが商品化されています。けれども商品にはお金を持っている人しかアクセスできないため、商品が増えるほど人々の生活は不安定になっていきます。しかし水や電力、住居、医療、教育などは、誰もがそれなしに生きていけないものは商品化すべきではない。社会的に共有され管理されるべきでしょう。それがコモン=公共財という考え方です。そしてこのコモン型社会こそマルクスの考えたコミュニズムなのです。ここで重視されるのは市民たちが自らの手で民主的に管理すること。コモンとはアメリカ型の〇〇主義ともソ連型の社会主義ともどちらとも違う第3の道といっていいかもしれません。コモンを増やすことで経済格差を是正し、生活に必要なものを無償に提供することで人々を絶えざるプレッシャーから解放することができます。労働時間の短縮はマルクスが最も重視していた社会改革の一つでした。環境問題という観点からも不要な労働を減らすことは望ましいでしょう。地球の限界を前にして、更なる経済成長のための競争を煽り、強者による富の独占を正当化する資本主義システムは、もはや時代遅れではないでしょうか。事実ワクチンを先進国が独占してもパンデミックは終わりません。同様に気候変動対策のリソースも、先進国が独占していては、世界全体の脱炭素化は不可能で、気候危機はむしろ深まっていきます。今必要なのは、できるだけ多くの富をコモンとしてみんなでシェアし、一緒にスローダウンしていく脱成長コミュニズムへの大転換なのです」。(大阪市立大学准教授 斎藤幸平)

🎵気候変動サミットの温室効果ガスの削減で「これまでの目標を7割以上引き上げる」なのだが、その前に「気候変動への対応は、経済の制約ではありません。むしろわが国、そして、世界経済を長期にわたり力強く成長させる原動力になります」と菅総理。斎藤VS菅と思ったわけでもないけれども、思わず逡巡。

⛳遅らせついでに遅くなり、やっと21時36分更新



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210423 クラシック倶楽部を聴く 田部京子 ピアノ・リサイタル

17歳での日本音楽コンクール第1位をはじめ、数々のコンクールで上位入賞を果たしてきた田部京子。今回はシューベルトを軸にしたシリーズからシューマンとブラームスを放送番組紹介よりー
田部京子 ピアノ・リサイタル。191212日 浜離宮朝日ホール

田部京子は北海道出身。東京芸術大学、ベルリン芸術大学及び大学院で学ぶ。フランスのエピナル国際コンクールでの優勝、ミュンヘン国際音楽コンクールでは第3位。国内外でリサイタル。バイエルン放送交響楽団、モスクワフィルハーモニー管弦楽団などと共演。

田部京子のコメント
オーケストラの指揮者と一手に引き受けて一人何役もやっているような作品であったり、伴奏者が一人で独り占めしたりとかいろんなパターンがありますけれども、こういうことを味わえるのはやはりピアノしかないと思うんですね。10本の指を駆使して色んな声部を操って組み合わせて弾いてるわけなので、いつそのどのパートでどういうタイミングでどういう音がほしいかというのは、ものすごい多彩なバリエーションがあるわけなんで、そこを一人で追及していくというか、可能性が無限にあるところをどこまで追求していけるかなあというところがピアの魅力だなあという風に、どんなに時間があっても足りないなあと思うんですけれども、最近はそういうところが魅力かなというふうに感じております。
あとは管楽器、弦楽器と、私はすごく憧れがあるんですけれども、違うのは、打鍵したあとに音が減衰していってしまうということがありますね。そこの減衰が、減衰こそがピアノの美しさ、魅力の一つであるので、そこをいかに減衰を感じながらピアノで歌わせるかというところが、いちばん私にとっては大切なところなんですね。
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曲目
☆「「こどもの情景 作品15」から「知らない国々」「トロイメライ」「炉ばたで」「詩人のお話」」シューマン:作曲
ピアノ・ソナタ 第3 ヘ短調 作品5」ブラームス:作曲

🎵20年1月に聴いたときには、ブラームスのピアノ・ソナタとはほんとうのところ相性がいまいち、と書いていたようだ。先回、今回と、田部のコメント、ピアノの音の減衰、これをいかに美しく弾くか、そこに導かれて聴くシューマン、ブラームスはまたもう一つの曲の顔に出あわせてくれた。ピアノの欠点としか捉えられなかった音の減衰いうものへの意識が変えられた。シューマンが周りの気配のようにそこにあってくれた。ブラームス、3番はやはり大曲であるなと。ブラームスが20歳代で作曲した三つのピアノ・ソナタのなかでは別格の質量とも感じられた。音の連鎖も瑞々しく聴くことができた。第5楽章、聴く者を道連れにそれこそ彼が求めた見出したフレーズで見得をきるような響きが。この楽章のアレグロ・モデラート・マ・ルバートを再現しながらまた書いている。

🎧名曲アルバムは砂川涼子のソプラノでベルリーニの「おおいくたびか」。何度聴いてもこの声があたたかくてやさしくて。
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⛳5時に音楽を聴き、いつしか朝食は6時代となり、8時22分の更新。雲一つなく土手の眩しい緑。時は足早。

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210422 クラシック倶楽部を聴く 小菅優 ピアノ・リサイタル

9歳でデビュー。2005年にはカーネギー・ホールで、2006年にはザルツブルク音楽祭でリサイタル・デビューを行う。ベルリン交響楽団、シュッツガルト交響楽団など多くのオーケストラト共演。高度なテクニックと美しい音色、深い楽曲解釈と優れた音楽性で注目され、世界の殿堂で活躍を続ける小菅の「今」を聞く。―番組紹介よりー

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小菅優のコメント
「風」というのは目に見えないもの。空気、それから語源などをさぐっていくと命とか魂とかいうふうにどんどん連想される幻想であって、すごく想像力が掻き立てられるところですね。「風」は今までやってきた  のなかで一番前向きで一番ミステリアスで不可思議な世界。それでいて、奮い起こしてくれる強さもあって、すごく私は一番感性を揺すぶられるようなエレメントだと思います。
ベートーベンはずっと取り組んできた作曲家で、今回は「テンペスト」なんですが、すごく対話は激しい対話が  でしょうか、「嵐」といっても心の嵐、ほんとうにベートーベンがハイリゲンシュタットの遺書を書いて、その後に、やっぱり芸術を絶対に残していかなければいけないという使命感も感じるほんとうに画期的な作品だと思います。

曲目
「クラヴサン曲集 第1巻 第3組曲から「かっこう」ダカン:作曲
「カラヴィンカ」西村朗:作曲
西村朗は2006年にザルツブルク音楽祭で行われた小菅優のリサイタルのためにこの作品を書いた。カラヴィンカは極楽に住む人間の顔を持つ鳥。美しい声で人の魂を救済するといわれている。
ピアノ・ソナタ 第17 ニ短調 作品312」ベートーベン:作曲
ベートーベンは1802年にこのソナタを作曲した。当時の彼は難聴が悪化し自殺を考えるほど思い詰めていた。彼がこの作品の真意について秘書に、「シェークスピアの嵐を読めばわかる」と語った逸話から、嵐を意味する「テンペスト」という名で知られている。
「前奏曲集 第1巻から「沈める寺」」ドビュッシー:作曲
ドビュッシーは1909年から13年にかけて自身のピアノ曲の集大成とされる2つの前奏曲を書いた。「沈める寺」はブルターニュ地方の伝説をもとに作曲された。伝説都市イスの海底に沈んだ寺院が水上に姿を現し、聖歌や鐘の音を響かせてはまた沈む様子を表現している。
「前奏曲集 第2巻から「霧」」ドビュッシー:作曲

🎵「かっこう」。鳥、かっこう、聴いているうちに、カッコウってどんな鳥? 小菅を聴いていると曲をよく理解したいというに優って、小菅の指が紡ぎ出す鳥を訊ねてみたくなるのだ。「カラヴィンカ」、実に印象的。透徹した、鉱物的な響きに目が醒める想い。小菅の10指に潜む鳥は飄然と翻って美しさで辺りをざわめかせる。周りの気配を察知し見抜き、玄妙に姿を垣間見せる。以前、小菅が打ち出す音をインド、東南アジアの打楽器に探したことが思い出される。自分の宗教土壌とは異なるが、魂を訪ねあるく、何か巡礼的な感じもする魅力的な旋律、靄がかるところも明瞭に聴かせる小菅のハイテクニック。「ピアノ・ソナタ 第17番」即ち「テンペスト」。これはもうハイリゲンシュタットのあと、しかし芸術はのこしていかなければならないとの思いと小菅。激しい対話、心の嵐、これはシェークスピアの「嵐」でもあると。鮮烈な演奏途上に第3楽章の魂を震わせる優しさには落涙。すばらしいベートーベン演奏にはベートーベンが現われると私は思っているが、この演奏にもあの面影が。現実はこうだが、しかしこうあらねばならないとつたわってくる。「沈める寺」、ブルターニュの伝説から。「霧」、小菅の真骨頂、繊細な色彩感が響く。

 

🎧名曲アルバムはスクリャービンの「炎に向かって」。スクリャービン、自らの音楽が啓示をもたらし人類を改革すると考えていたようだ。

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⛳けさのピアノ、ぎゅっと絞った果樹のよう。聴く者を新鮮な気持ちにしてくれた。7時57分更新


 

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210421 クラシック倶楽部を聴く ニコラ・アンゲリッシュ ピアノ・リサイタル

米で生まれ仏で学んだアンゲリッシュ。来日の回数は多いものの、オーケストラとの共演がメインで本格的なソロ演奏会は今回がほぼ初めて。卓越したピアニズムを聴く。【曲目】「きたれ、異教徒の救い主よ」BWV659(バッハ作曲ブゾーニ編曲)、クライスレリアーナ 作品16(シューマン作曲)ほか【演奏】ニコラ・アンゲリッシュ(ピアノ)【収録】2019年10月15日 紀尾井ホール―番組紹介よりー

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ニコラ・アンゲリシュ
1970
年アメリカ生まれ。13歳でパリ国立高等音楽院に入学し、アルド・チッコリーニ、イヴォンヌ・ロリオ、ミシェル・ベロフ、マリー=フランソワーズ・ビュケに師事した。ピアノと室内楽で1等賞を授与され、同音楽院を卒業。
 アメリカのジーナ・バッカウアー国際ピアノ・コンクールで第1位(1994年)に輝く。ソリストとして世界の舞台で活躍するばかりでなく、マルタ・アルゲリッチをはじめ、ルノー・カプソン、ゴーティエ・カプソンなど著名な音楽家たちから篤い信頼を得て共演を重ねている。

ニコラ・アンゲリッシュのコメント
Q日本について
学生時代に日本人の友人がたくさん出来て、日本に興味を持つようになりました。日本の人々は音楽や芸術に対して素直な愛情と敬意を持っていますね。すばらしいことです。そのような人はどこの国にもいますが、日本は特別ではないでしょうか。あらゆるものを敬う精神が根付いているこの国が好きです。
Q
プログラムについて
プログラムを考えるときには、「音楽の旅路」のようなものを念頭に置いています。感情的、精神的な旅路で、作品の再発見にもつながります。調和を持ちながら異なる世界観を持つ作品を並べるように工夫を凝らしています。きょう演奏する曲はどれも近年弾き込んでいる大好きな作品です。
Q
クライスレリアーナについて
シューマンは常に画期的な試みに挑戦しました。この曲も従来の音楽の枠を超越しています。それぞれの曲の調性の選び方も独特です。激しさと親密性、内面的な性格が混在していて情熱的であり、いかにもロマン派らしい曲ですね。シューマンの音楽はロマン派という時代を体現していると言っても過言ではないでしょう。 

曲目
「コラール前奏曲「きたれ、異教徒の救い主よ」BWV659バッハ:作曲、ブゾーニ:編曲

厳かな低音と装飾的に歌う旋律の特徴が際立つ。ブゾーニの編曲は多くのピアニストに愛されている。
「クライスレリアーナ 作品16シューマン:作曲
シューマンはクララとの結婚を反対されていた時期に苦しい思いを綴るかのようにピアノ曲を次々に書いた。「クライスレリアーナ」もそういった時期の作品。題名はE.T.A.ホフマンの著作に由来している。ダイナミックであり、変化に富んだ8曲で構成されたシューマンのピアノ作品の傑作の一つ。
☆「こどもの情景 作品15 から「知らない国々」」シューマン:作曲

🎵20194月に来日したマルタ・アルゲリッチがアンゲリッシュを語るに、「ニコラのことは何年も前、彼が若い時からよく知っていてよく共演もしています。しかし、間もなく50歳を迎える彼が日本であまり知られていないなんて、信じられないわ!だってニコラは私がサポートなんてする必要はまったくなく、ヨーロッパでは素晴らしいキャリアを積んで充実した活動をしているのに。彼は真摯で謙虚。インテリジェントで本当に素晴らしい音楽を聴かせてくれます。彼に『スター』という感覚はないかもしれないけれど、音楽家としてこういう態度はとても大事だし、ニコラのようなピアニストにこそ人々の関心が強まることを望んでいます」。

その信じられない一人がこのブログの管理人だったのだニコラ・アンゲリッシュ。「クライスレリアーナ 作品16」、1,3,5,7曲と興味深く。解説をのみ込むにはあと何回か聴く必要がありそうだ。心の奥で誰かが、それはおそらくは自分だろうけれども、「笑います」と言っている。けさは感想を書いても、その感想を後で読んで「笑います」「笑えます」「笑いましょう」となりそうなので、一曲だけを然るべき先につないで終わりに。(苦笑)

 

🎧名曲アルバムは、バッハの「コーヒー・カンタータ」(ソプラノ)澤江衣里,(管弦楽)バッハ・コレギウム・ジャパン,(指揮)鈴木優人


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詩人ピカンダーはコーヒー好きな女性たちの声を代弁する詩を発表。バッハはこの詩に曲をつけカンタータに仕上げる。

⛳眩い日差し。暑くなりそう。7時42分更新

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210420 クラシック倶楽部を聴く  フレディ・ケンプ ピアノ公演

ピアニスト、フレディ・ケンプの来日公演から。チャイコフスキー国際コンクールで聴衆の圧倒的な支持を得た演奏家が挑む、オール・ショパン・プログラム。―番組紹介よりー

フレディ・ケンプ
1977
年ロンドン生まれ。ドイツ人の父と日本人の母のもと、ロンドンで育ち、幼くしてピアノの才能を開花させる。8歳でイギリスの名門ロイヤル・フィルハーモニー管弦楽団と共演。1998年チャイコフスキーコンクール第3位など著名なコンクールでも入賞を重ね、世界各地のオーケストラトと共演をかさねる。年間100回ものコンサートを今でも精力的にこなし実力派ピアニストとして着実な歩みを続けている。
今回はフレディ・ケンプにとって重要なレパートリーであるショパンの作品ばかりを集めたリサイタルとなった。
フレディ・ケンプのコメント
ショパンとの出会い
教えてくれたのは母が最初だったと思います。ピアノを始めたのもクリスマスプレゼントに何が欲しいかと聞かれたときからでした。両親と一緒におもちゃ屋さんに行っていろいろと見ていたのですが、棚の上に値段の高そうなものがありました。中身も分からずあれが欲しいとねだったんです。「他のおもちゃはなしよ」と両親に言われて買ってもらったのが小さなキーボードでした。付録の楽譜はすぐに最後まで弾いてしまって母に違う楽譜が欲しいとねだりました。そこで母が弾いてくれた曲がショパンでした。若い時に覚えたのでしょうか。とにかく衝撃でした。初めてショパンを聴いてすてきな音楽だったことを覚えています。それからはピアニストとして、ショパンが重要なウェイトを占めています。
ショパンを演奏するということ
年齢を重ねるにつれいろいろな経験をして人間として成長します。それが自然と音楽にも反映されます。
私の場合はショパンに限らず、これまでの常識を打ち破る解釈であっても、自分の試みに意味があると思える場合には、そのまま演奏してしまうことがほとんどです。音楽に対して真摯に取り組んでいれば突き進んでも構わないと思っています。そんな私の思いが聴衆に伝わることを願っています。
演奏会にショパンを選んだ理由
ちょっと遊び半分で考えたのが今回の選曲のコンセプトです。私の好きな曲ばかりをショパンのソナタのように並べて演奏することにしました。ショパンのソナタを考えると第一楽章はバラードに少し似ています。第2楽章はスケルツォ、また第3楽章はノクターンのようです。最終楽章にはポロネーズを書いていてくれたならばおもしろいと思っていました。
今回の演奏で目指すショパンの音色とは
バラエティに富んでいるところがいちばんの難しさかもしれません。ショパンが実際に書いたソナタでも同じです。バラードの長いフレージング、スケルツォの軽やかさ、まったく対照的です。そのあとノクターンがあり、ショパン独特のポロネーズと続きます。ショパンの場合、それぞれの曲に合った音を探るのに常に苦労しています。ショパンの音色は実際に演奏すると表現がより自由なことがわかります。こうしたホールで演奏することも念頭に置かなくてはなりません。フォルテシモと書かれていてもよく分からないことがあります。でもある時、ショパンが演奏したピアノを弾くチャンスがありました。現代のピアノとはまったく違うもので、それを弾いたあと、ショパンの意図がより明確になりました。スコアに書かれてある指示のほんとうの意味が分かってきたのです。

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 曲目 オールショパン

「アンダンテ・スピアナートと華麗な大ポロネーズ 変ホ長調 作品22
「バラード 第4番 ヘ短調 作品52
「スケルツォ 第4番 ホ長調 作品54
「ノクターン ロ長調 作品62 1
「ポロネーズ 変イ長調 「英雄」 作品53

🎵ショパンの作曲当時のピアノの性能を分かっていなければ本当の譜読みには届かないという点、プログラム構成をおもしろく。曳く余韻、感情を削ぎぎみな演奏部分がなにか演奏者らしいという感じが。建物の壁や草地に影を投じる梢の葉の揺らぎを聴いた気がして。

ウェブ上にあったある評論ではケンプは「穏やかな流麗さ、長いフレーズをゆったり歌わせる、弱音を自然に響かせる、静謐な音色で余韻を楽しませる」、などなどいわれているけれども、この回では、「アンダンテ・スピアナートと華麗な大ポロネーズ」が何といってもいちばん。 聴く側の心境に聴こうという積極的な態勢があれば、よい演奏は必ず映像的なイメージをくれる。瑞々しさと躍動感、華麗さに加え、波間に飛び跳ねる魚の群れ、青く銀色に跳ねる魚たちが波間に漂いながら、しかし、勢いと素早さ、鋭さをみせて跳ねる、そんな光景がふと浮かんだ。動き、色彩が湧きあがり、沸き立つところはケンプの巧みな技巧によると。これはすばらしかった。それと「英雄」、はじめはちょっと弾き急ぎ過ぎてはいないかとも感じられたが、克明な打鍵に引き連れられ一連に納得しつつ聴き終える。
 父はドイツ人、あのケンプの血筋にあたっているらしい。そうと知って、そういえばあのケンプが1枚ぐらいはあったはずとディスクを取り出そうとしたときにはたと思った。大ケンプをいちいち引き合いに出されたら一体どんな思いがするだろうか。こうしてどちらも国際舞台で活躍するからには、どちらも大ケンプに違いないのだ。比較するなどおこがましい、しかも素人の分際で。分限を弁えよ、そんな気もしたのと、それだけ悠長な時間もなくなり、ここまでとなった。

🎧けさの名曲アルバムはチェロ横坂源、渡邊&N響の演奏でエルガーの「チェロ協奏曲」。初演はジャクリーヌ・デュ・プレでチェリスト人生で、彼女はこの曲を得意とした。

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⛳素人三昧、きょうは前回にちょっと書き足して、13時59分更新

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210419 クラシック倶楽部を聴く ザルツブルク音楽祭 アンドラーシュ・シフ ピアノ・リサイタルⅡ

2020年の「ザルツブルク音楽祭」から、世界的ピアニストのアンドラーシュ・シフがシューベルトとヤナーチェクの作品に取り組んだソロ・コンサートの続編をお送りする。 出演:アンドラーシュ・シフ(ピアノ) 〈2020年8月25日 ザルツブルク モーツァルト劇場〉

モーツァルトの生誕地オーストリアのザルツブルクで毎年夏に開催されるザルツブルク音楽祭。一か月以上に及ぶ期間に演劇、オペラ、バレエ、種々のコンサートを含む数多くのプログラムが提供され規模、内容ともに世界有数の音楽祭として知られる。1920(大正9)年に第一回が開催されたのち、偉大な音楽家たちの導きで伝統を積み重ねてきた音楽祭が2020年創立100年を迎える。新型コロナウィルスの感染拡大を受けて一時開催が危ぶまれたが規模を縮小しさまざまな感染防止対策をとったうえで81日から30日間、110公演が行われた。
音楽祭の後半、ステージに登場したのは、世界的ピアニストのアンドラーシュ・シフ。アンドラーシュ・シフは1953年ハンガリーのブダペスト生まれ。バッハからブラームスまでのドイツ音楽のレパートリーを中心とし卓越した技術と音楽性を兼ね備える。

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曲目
☆1905年10月1日(ヤナーチェク作曲)
☆ピアノ・ソナタ ハ長調 D.840(シューベルト作曲)
☆4つの即興曲 D.899から第3番 変ト長調(シューベルト作曲)
☆楽興の時 D.780から第3番 ヘ短調(シューベルト作曲)
☆「草が茂る小道を通って」から おやすみ(ヤナーチェク作曲)

🎵ザルツブルク音楽祭は1920年から100年の歴史をもつ。100年前の日本というと、音楽では軍楽隊や帝室雅楽部が西洋音楽の習得も課せられて頑張っていた。日本にはまだヨーロッパに比肩しうるアンサンブルもない時代からの音楽祭だ。

「1905年10月1日」、珍しく日付が題名に。1905年に作曲されたはずが、出版が随分と遅れた理由は何だろう。この曲のエピソードがあった。怒りが作曲の引き金となっている。第一楽章が「予感」、第二楽章が「死」。第三楽章はエピソードにある通り。ユーチューブにも音源があるけれども、それこそモノク動画を見ているような感じも。怒りに煽られるというところは抑制的であり、「死」の方では断固とした事実の提示とも受け止めた。
「草が茂る小道を通って」、この全体をちょっと、
全曲を通じて、拍子速度の頻繁な変更が目立ち、ポリリズムも多用されている。拍子の表示や小節線の扱いなど、記譜法も興味深い。ヤナーチェクの生前に発表された曲集なので、作曲者によってすべての小品に詩的な題名が添えられている。終曲の題名にあるフクロウは、モラヴィアではの象徴であるという。

🎧名曲アルバムはブラームスの大学祝典序曲。

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イギイスの大学からの博士号は船旅を嫌ってお断り。ブレスラウ大学からの博士号は喜んで証書を受ける。こちらは列車の旅に。

⛳12時25分更新。きょうの昼はスパゲティ。

 

 

 

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きょうのことば「主イエス・キリストとの新たな出会い」

インマヌエル盛岡キリスト教会20210411()の礼拝メッセージをおつたえいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で48年目のご奉仕をしておられます。

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説教題 『主イエスとの新たな出会い』  (國光勝美 牧師)
聖書箇所 新約聖書 第一ペテロ1:39

(この聖書個所を「聴くドラマ聖書」で聴くことができます)
1:3私たちの主イエス・キリストの父なる神がほめたたえられますように。神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせ、生ける望みを持たせてくださいました。 1:4また、朽ちることも、汚れることも、消えて行くこともない資産を受け継ぐようにしてくださいました。これらは、あなたがたのために天に蓄えられています。 1:5あなたがたは、信仰により、神の御力によって守られており、終わりのときに現わされるように用意されている救いをいただくのです。 1:6そういうわけで、あなたがたは大いに喜んでいます。今しばらくの間、様々な試練の中で悲しまなければならないのですが、1:7試練で試されたあなた方の信仰はは、火で精練されてもなお朽ちていく金よりも高価であり、イエス・キリストが現われるとき、称賛と光栄と誉れをもたらします。 1:8あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに踊っています。 1:9あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。

<お話し>

 この朝は、主イエスとの新たな出会い、これをペテロという皆さんよくご存じの人物を一つの例として、イエス様との出会い、彼は何度も経験しているのですけれども、その出会いによってあつかわれ、その出会いによって彼が成長していく、そのところを見させていただきながら、主イエス・キリストとの新たな出会いをさせていただきたいとこのように願っているのでございます。

 

 前回の復習は、このブログの44日の「きょうのことば」をご覧ください。

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きょうは第一ペテロ18節にありますペテロに注目をして、彼のキリスト・イエスとの出会いをおさらいしていきたいとこのように思います。画面のペテロの像と「あなた方は」という第一ペテロ1章の8、9節、これを絶えず心に留めていただきたいと思うのです。

さて、ペテロが最初に救い主イエス様にお会いしたのは、どんなときだったのか。マタイ4章9節にもあります。ペテロが兄弟であるアンデレによってイエス様に初めてお会いしました。そして、アンデレに導かれて、このお方こそ私の生涯をかけて従うべきお方だと心を定めました。ほんとうに幸いなイエス様との出会いを彼は経験しておりました。

私たちは、どのような出会いをその生涯においてしたでしょう。
イエス様のもとにずっと使徒としていつも近くにいて、イエス様の御業、教え、これらのものを間近に、誰よりも近く知っているのがペテロでした。使徒たちでした。そして

イエス様の御働きがガリラヤ地方から始まって、だんだん大きくなって、人々に受け入れられるようになってきたとき、そこにはまたイエス様に対する反対勢力がどんどん増し加わってきました。

その時、イエス様は、活動を遠くの方、ピリポ・カイザリヤと言われる地方に移して、その途中で、非常に大切な問いかけをいたします。この問いかけにペテロが或いは弟子たちが何と答えるのか。多くの人々は、イエス様のことを、この方はエリヤのよみがえりではないかとか、或いは、バプテスマのヨハネのよみがえりではないだろうかとか、或いは預言者の一人ではないだろうか。人々はイエス様についてありとあらゆる噂をしていました。イエス様はそれをよくご存知で、そして、自分にいつも近くにいるお弟子さん、特にペテロに、「あなた方はわたしを誰と言うか」と問います。そのときペテロは、「あなたは生ける神の御子キリストです」、このように答えました。イエス様は、そうか、お弟子さんたちは自分が生ける神の子キリストであるということを知ったのだな。「このことをあなたに告げたのは誰でもない、天にいますわたしの父だ。それではわたしはあなたに言う。あなたはペテロだ」。イエス様はこういって、ペテロの信仰告白を受け入れなさったのであります。

私たちはイエス様と出会った時、このお方を誰と言うか。ペテロのように「あなたは生ける神の御子キリストです」と告白している人たちは、ほんとうに幸いであります。 

そして、その信仰告白を導き出された後、イエス様は高い山に3人の弟子、ペテロ、ヤコブ、ヨハネを引き連れて山に登られました。所謂姿変わりをされた場面です。ルカ928にも出ております。場所は特定されていないと言われていますけれども、多くの者たちは、それはヘルモン山ではないだろうかと言っております。いずれにせよ、イエス様はペテロに信仰告白を導き出された後、特に、中心となるお弟子さんたちを高い山に自分と一緒に連れていきました。これはペテロにとっても、非常に印象的なできごとであったようです。今日のテキストはペテロの第一の手紙。第一ペテロの18節でした。それよりも後の所にペテロの手紙第二があります。1章の16節から読んでみます。

1:16私たちはあなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨とを知らせましたが、それは、巧みな作り話によったのではありません。私たちは、キリストの威光の目撃者として伝えたのです。

事実ですよ。そしてその後、

 1:17この方が父なる神から誉れと栄光を受けられたとき、厳かな栄光の中から、このような御声がありました。「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」 1:18私たちは聖なる山で主とともにいたので、天からかかったこの御声を自分で聞きました。

ペテロは、天から、父なる神様が「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」という声がして、この声を私はほんとうに聞いたのだ。そして、この姿変わりをされたイエス様をほんとうに私は見たのだ。架空な作り話をしてあなたがたにこのように言っているのではない。私はこの事実を伝えているのだとペテロは言うのです。

マタイ175

5「これはわたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ。彼の言うことを聞け」という声がした。

このときのできごとを、マタイはこのように記しております。このようにしてペテロが何回も何回もイエス様と出会いを重ねていき、そのたびに彼はキリスト理解というものを深めていきました。

そのペテロが、いよいよイエス様が十字架につけられなさるとき、イエス様がピラトたちの前に引き出されようとするとき、大祭司の庭のところまでペテロは心配で心配でたまらず、人の流れと一緒についていく。これからどうなるだろうか。そのとき、焚火を囲んでいる人々がペテロに、「おや、あんたもあの男の仲間だね」。「いいや違う違う、おれはあんな男なんて知らない」とペテロ。「いいや、あんたはガリラヤなまりがある。あの男もガリラヤだ。あんたあの男の仲間だろう」。ペテロは「嘘なら呪われてもいい」と誓ってしまう。この言葉は非常に強いことばが使われているそうです。「嘘なら呪われてもいい、俺はあんな男知らない」。すると鶏が泣いた。そのときイエス様が振り返られて、目と目が合った。

これも彼には忘れられない一つのキリストとの出会いでした。ですから、聖書をご存知の方には、お分かりいただけると思いますが、イエス様がよみがえられた後、ガリラヤで漁師に戻っていたペテロたち、お弟子さんたちに、よみがえられたイエス様が現れなさいます。よみがえられたイエス様とお会いしたペテロに、イエス様は、「バルヨナ・シモン、あなたは私を愛しますか」尋ねます。「ええ愛しています」。「シモンわたしを愛しているか」。「ええ、ご存知でしょう」3度目イエス様は「シモン・ペテロあなたはわたしを愛しているか」。「はい」。
ペテロはこの時に、わたしはあの大祭司の庭で「俺はあんな男なんか知らない」と3回イエス様を否定したことが痛く胸に迫ったでしょう。イエス様はペテロに「わたしの羊を養え」。ペテロがガリラヤ湖で漁師に戻っていたとき、主は声をかけられた。これもイエス様の深い扱いですね。このようにペテロはほんとうに何回も何回もイエス様と意味のある出会いを経験しています。

最も大きな出会いは、いま復活をしてからガリラヤに戻ったときのお話しをしましたけれども、それより前の出来事ですけれども、イエス様が葬られた墓にいない、葬られたイエス様の亡骸がないということを女たちから聞いて、そんなバカなと墓に急いだペテロとヨハネ。絵画にも描かれていますが、これも大きな興味ある題材なんでしょう。不安そうな、恐らく、白いのがヨハネでしょうね。手前に描かれているのがペテロ、画家はそのように描いたのでしょう。墓に急ぐペテロとヨハネが描かれている。そして、このとき、ほんとうに復活されたイエス様の扱いを受けることになる。戸を閉じて、こんどこそ自分たちも殺されてシまう、十字架につけられてしまうと恐れおののいていたお弟子さんたちにイエス様は現れなさる。何回も何回もペテロはイエス様に出あっています。

私たちきょうのペテロの手紙第一の1章に戻りたいと思います。


1:8
あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに踊っています。 1:9あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。

 私たちはこのよみがえりのイエス様に出あっている。これはほんとうに大きな出会いです。罪を悔い改めて新しく生まれるという新生の恵みに与ったからです。 

ちょっとだけ本筋からそれますが、私はこういう立場におりますので、色々なキリスト教に関わる本を読む機会があります。20年近く前でしょうか、本部の仕事が終わりまして、帰りの新幹線までちょっと時間がありましたものですから、八重洲口の方にある八重洲ブックセンターというところに大きな本屋があるものですから、そこで新幹線までの時間を調整しようと思い、たしか8階のキリスト教関係の本が置いてあるところに行きました。死海写本などを専門的に扱うような、なかなか手に入れるのが難しいような大きな本をそこで見たのです。そこでいわゆる神学学者と呼ばれる立場の方の分厚い本がありまして、これはちょっと手に入れておきたいなと。かなり分厚い本でしたけれども、その本を購入して読みました。そこでつくづく感じたのは、この大作を書かれた先生は、キリスト教のことをよくご存知で、そして特に聖書学者でいらしたものですから、日本で翻訳されているいろいろなものをぜんぶご存知で、その意味ですごいなと感じました。ただ、この先生は生まれ変わりを経験していないとわかりました。すごくよくキリスト教の聖書を知っている人だけれども、生まれ変わりを経験していない。。そのことを深く感じました。

どうしてこのことをお話ししたかと言うと、復活の事実、私たちはこれを事実とし、受け入れているのです。しかし、この事実とこれに自分が罪人であるということがほんとうに分かって、示されて、そして、わたしの身代わりとしてこのお方が、神の御子が十字架につけられなさったのだということを、ほんとうに信じて主よ有り難うございますと受け入れたときに、ほんとうに新生の恵みを体験するのです。これが生けるのぞみの根拠なのです。

「天に蓄えられている朽ちることのない汚れることも消えていくこともない資産」、

私たちは、それを自分のものとしているのです。ですから、今苦難があって、今試練があって、今迫害があったとしても、この生まれ変わりの経験を持っている、生ける望みを持っている私たちにとってそれは、やがて来るところ 賞賛、栄光、これに変わる。このことをほんとうにアーメンと頷くことができるのです。それは私たちが魂の救いを得ているという事なのです。キリストとイエス様と出会うとき、私たちは、ほんとうに天に蓄えある、栄光ある嗣業、これは私のものだ。何よりもこのようなものを愛して、私たちを救って下さったお方。このことを思うと、もう感謝と歓びが心から湧き上がってくる。これがクリスチャンです。

わたしも、ギリシャ語が分かれば分かった方がいいのだろうし、ヘブル語が分かれば分かった方がいいのだろうし、それは学者として、それに対してひがみで言ってるわけでも何でもない、そうじゃない。そんなものが何もわからなかったとしても、聖霊によって自分が教えられているものである。放蕩息子のようなものであるということが聖霊によって気づかされて、ああ、主よ、私は滅びゆく者です、ということを示されて悔い改めているとき、ああ主よありがとうございます。

「誰も聖霊に感じなければ、イエスを主と言うこと能わず」、これは本当です。ほんとうに神様の聖霊の恵みによって自分の罪が示され、聖霊によってキリストの十字架の意味が示される。そして、聖霊によってキリストの復活が示されて分かったとき、これはほんとうの生ける望みとなるのです。

 

これでお話を締めくくらせていただければと思いますけれども、このような準備をしながら、一つ思ったのです。

いま、ワクチン接種、何週間前でしょうか、私たち二人分、接種する通知が盛岡市から届きました。こちらが受けられる態勢にあっても、いかんせんまだ受ける時期も受ける場所も決まってないんだそうです。案内はされているのですけれども、ホームページは見るんですけれども、只今準備中ですとすこしも進んでいない。皆様方もおなじようなことを経験されたでしょう。一刻もはやく打ちたいと思うでしょう。そしてそれが大きい社会問題になっている。

ふと、世の中の人たちは朽ちる命においてさえ所謂、ビオス、ゾーエイといわれる命、永遠のいのちであるゾーエイと生物学的な命のビオス。やがては朽ちる生物学的な命の方にはこれだけ大きな関心をもっていながら、ゾーエイ、永遠のいのちということにたいしては無頓着です。しかし私たち思うのです。永遠のいのち、こんなにすばらしい魂の救いというものを約束されて受けている。ワクチンではありませんけれども、カルバリの丘のあの2000年の昔のあのイエス様の十字架を仰ぎ見る者は救われる。

或いは民数記にもありますが、モーセが荒野で蛇をあげたように。イスラエルの人々が毒を持っている蛇に次々と襲われて、滅んで行ってしまう。でもそのときにモーセが神様から示されて、この毒蛇と同じようなもの、青銅で作った蛇を旗ざおの上に高くあげなさい。それを見た者は誰でも癒えるから。その時、みんな見たかと言うと、見ていない人もいるわけですね。あんな迷信、信じられるか、しかし、ほんとうに苦しんでいるその人たちはモーセがあげた青銅の蛇を仰ぎ見ました。見た者はみな癒えたとあります。同じことです。そしてイエス様がニコデモに言ったのは同じです。モーセが荒野で蛇をあげたように、人の子もまたあげられるべし。そしてヨハネ316の有名なおことば「神は実にそのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者がひとりとして滅びることなく永遠のいのちを持つためである」に続くわけです。それを見るとき、私たちにはすでに神様からこんなにすばらしいワクチンが提供されている。これを仰ぎ見た者は誰でも生きるとある。しかしこれを仰ぎ見る人がいない。聖霊に感じた人たちだけが、これを仰ぎ見ることができるのだな、このように思う事であります。

第一ペテロの1:89をご一緒にお読みいたしましょう。

1:8あなたがたはイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに踊っています。 1:9あなたがたが、信仰の結果であるたましいの救いを得ているからです。

音声データ、画像は教会からお借りしています。

⏰7時5分更新

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雑感

J-MEROはゲストCrystal Kay、吉澤嘉代子

May J.が吉澤に「作詞作曲はいつもどのようにして行われているのですか」と質問。吉澤、「タイトルを先に決めて、そのタイトルに見合う物語りとか詩人口上というのを設定しながら書いていくことが多い。自分でない誰かになりたいという変身願望みたいなところから曲をつくっている癖がありまして、なので自分から遠い肩書とか年齢とか、住んでいる土地とか、自分から遠い主人公というのをイメージして創っていったりします」。

リバイバル曲に挑むCrystal Kayと、吉澤嘉代子の曲を一通り聴く。

書くことに何某かの義務感がないと、次第に緩慢になってくる。今思うと、さして内容がなくとも、とにかく朝7時までには更新だ! と続けていた時期があったが、これを何年か続けられたことに驚く。きょうはゆっくり、ゆったりするうちに今時間に。あすの説教の更新の準備で終わりそう。

更新のための更新は22時。

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210416 クラシック倶楽部を聴く スウェーデン放送合唱団 演奏会 

世界屈指のコーラス、スウェーデン放送合唱団。1925年創立、52年からは合唱の神様とも呼ばれるエリック・エリクソンが音楽監督に就任、飛躍的に成長、世界の合唱ファンを虜に。オーケストラの指揮者としても名高いペーター・ダイクストラが200718年まで音楽監督を担当。その後は音楽監督を置かずに活動している。スウェーデンの音楽を世界に広めたとして2011年にスウェーデン政府より特別名誉賞を授与される。―番組紹介よりー

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ダイクストラのコメント
Q
詩篇交響曲(4手ピアノ版に関して)
ストラヴィンスキーの詩篇交響曲といえば、管弦楽版でおなじみでしょう。管楽器、低音弦楽器、2台のピアノ、ハープ、そして大人数の合唱です。ピアノ伴奏版で興味深いのは全く別物であり 1930年代にショスタコーヴィチによって編曲されたという事です。当然、ピアノ伴奏という部分が大きく違うのですが、合唱を違った方法で際立たせるという点も特徴です。大編成の器楽群に覆われないため、歌詞が私たちによりよく届きます。だから全く違った聴こえ方をすると思います。もう一つこの版でよいことは、大編成のオーケストラでの演奏ではないため、小規模な合唱で演奏できることです。だからショスタコーヴィチが作ったこのピアノ版のおかげで、より多くの歌い手に歌われるようになり、演奏会で取り上げられる機会も増えたのです。
Q
サンドストレムはスウェーデンの合唱の伝統を受け継ぐ最も重要な作曲家の一人です。そして以前。「いつもスウェーデン放送合唱団の音を意識しながら作曲している」と彼から聞きました。この合唱団の音は彼にとって理想的なんです。私は彼を新ロマン派的な作曲家と見ています。彼の曲は和声的であり、同時に歌詞にも非常に忠実です。しかし彼は美しい音楽を作ることを問題とせず、彼自身の心から私たちの心に届く音楽を作るのです。それはとても表現豊かで感動的、超絶技巧的でさえあります。例えば今日演奏する「歌え 主のみ前に新しい歌を」がそうですが、極めて鮮烈で且つ難しい曲です。しかしこの合唱団も、この音楽で超絶技巧を発揮するんです。先ほども触れましたが、彼はこの合唱団の真骨頂をよく知っていました。そのことがこの曲でよくわかりますよ。

☆「それは…の息子であったペルト:作曲  訳:今谷和徳
3つの聖歌」シュニトケ:作曲  訳:中田朱美
詩編交響曲」ストラヴィンスキー:作曲、ショスタコーヴィチ:編曲 訳:今谷和徳
(ピアノ)ヨハン・ウッレン、(ピアノ)マグヌス・ショルド
「モテット「歌え 主のみ前に新しい歌を」」サンドストレム:作曲 訳:樋口隆一
 この曲はヨハン・グラマン作のコラールの1節を引用したバッハのモテットBWV225の歌詞に基づき作曲された。
☆「乙女は踊りの輪に入る」スウェーデン民謡:作曲、アルヴェ:編曲 訳:濱田吾愛

🎵この合唱団のハーモニーについてのコメントを録り落としてしまったが、音が溶けあい完全に一つの音に、目指すところの表現が声の一体化によって作曲家の意図するところを具現しているということかと聞いた。
「それは…の息子であった」、歌詞から内容はマタイ伝1章のキリストの系図。初めて聖書を読む方が、延々と続く名前の羅列に読み飛ばしそうな箇所、退屈極まりないところが、このようにていねいに作曲されて、それも意味深い音でといったらいいだろうか、それが驚き。
「3つの聖歌」、マリアの受胎、讃美。罪びとの我を赦し給え。主の祈りの内容とからなる。
サンドストレムのモテット、解説だけを読むとバッハの亜流かと思ってしまうが某ページには「バッハ作品とは一線を画した独創的なモテット」とある。サンドストレム、2019に亡くなっている。このコンサートの前であったか後であったか確かめようとしたのだが。訳は樋口隆一、バッハ研究の大家であるようだ。
ストラヴィンスキー:作曲、ショスタコーヴィチ:編曲「詩編交響曲」、今回、実はこの曲がいちばんおもしろかった。第二楽章ピアノ伴奏、一音一音がピュアな滴のしたたりのようにも。ストラヴィンスキーがこんな曲を! だけどどこがストラヴィンスキー的? と思ったところで第3楽章。ピアノにそれが顕著に表れ合唱にも。この曲でこれまで抱いていたストラビンスキーへの意識に1+。弦や楽器、シンバル、とにかくすべてを用いて主をほめたたえよと歌う。ストラヴィンスキーが弾圧に遭い帰れなくなっているときに、敢えてこの詩篇を選び作曲したところに意味の深さとこの曲の真価が。
ペルトの「それはの息子であった」、に書き加えるのだが、思えばキリストの系図には庶民から王、そして卑しい職業とされていた人々までが入っている。いまだ全部の人物をしってはいないけれども、これもまた実に意味深いことであると思う。これを学んだ後では、この曲をより一層理解できるのだろう。
「乙女は踊りの輪に入る」、ユーモラスな曲。
きょうは聞き返しているゆとりがなかったけれども明日にでも、もういちど聴いてみよう。

🎧名曲アルバムは群馬県民謡「草津節」この湯で治らないのは恋の病だけなそう。Dsc07658-2

 

この民謡の俗歌が300以上あるとか。

 

⛳きょうは買い物の頼まれごとやら検診やら、これは更新しかねるかと思ったけれども、スウェーデンの合唱のすばらしさがパソコンに向かわせた。どうもこの分の体力はのこっていたらしい。
21じ32分更新

 

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210415 クラシック倶楽部を聴く 小林沙羅&山本耕平 デュオ・リサイタル 福島県棚倉町 公開収録

【出演】(ソプラノ)小林沙羅,(テノール)山本耕平,(ピアノ)河原忠之。「この道」北原白秋:作詞,山田耕筰:作曲,(ソプラノ)小林沙羅,(ピアノ)河原忠之ほか。~2020125棚倉町文化センター倉美館~―番組紹介よりー

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コメント(抜粋)
河原忠之
:日本全国回らさしているんですけれども、ここ(棚倉町)は初めてで、クルマで来るときも、田園風景のきれいさが心に染みわたってきて、やっぱり、着いて先ずびっくりして、日本のすごく田舎、いい意味での田舎の中にいきなりギリシャ神殿が建ってるようなとこで、ああ、とびっくりしてしまいました。なぜかこの道が流れてて、この道、この道といい感じでしたね。
小林沙羅:やっぱり海外に住んでた時期なんかに、日本の歌を歌ったり聴いたりすると、ああ、やっぱり日本人なんだな私、と思う時がすごくあって、だから今もとっても大事に歌っていて、だから日本の歌曲はどうしても入れたかったので、耕平さんと相談して、有名な曲と、有名じゃないけど素敵な曲というのをお互い一曲づつだして。耕平さんのもわりと新作。
山本耕平:そうですね。泉谷閑示さんの4拍子なんていうのはたぶん恐らく演奏される回数もたぶん初めてに近いもので、恐らく放送されるのは間違いなく初めてだと思うんですが、とってもいい曲で、やっぱり名曲との知られている曲とこれから生まれてきているもの、その両方が今回入れられているのがすごく嬉しくおもっています。日本語、美しいですよね。すくない言葉でほんとうに行間をたくさんふくらませてくれる力があるので、そのコンテキストていうのはやっぱりテキストだけでなくて作曲者がどう解釈するかというのは音にいっぱい書いてあるんですよね。そこがまたいいですよ、河原先生がもう、
河原忠之:舞台の発語法というものもあるくらいで、こうやってネイティブな私たちが日本語をしゃべるのと日本歌曲を歌うのって違うところがあるんですね。だから日本歌曲をうたうときには、ちょっと外国の言葉みたいにして発語しないと届かないというところがあるんですけれど、そのお二人の日本語の美しさというものがつたわれば、で、傍で見ると、あ、こんなふうにしているんだなあって、ふだんはふつうにしゃべってるのに、あ、歌うときにはこうやってるんだということをご覧いただければなあと思います。1228

曲目
「この道」北原白秋:作詞、山田耕筰:作曲
(ソプラノ)小林沙羅
「くちなし」高野喜久雄:作詞、高田三郎:作曲
(テノール)山本耕平、(ピアノ)河原忠之
「或る夜のこころ」高村光太郎:作詞、中村裕美:作曲
(ソプラノ)小林沙羅、(ピアノ)河原忠之
「四行詩」中原中也:作詞、泉谷閑示:作曲
(テノール)山本耕平、(ピアノ)河原忠之
「小さな空」武満徹:作詞、武満徹:作曲
(ソプラノ)小林沙羅、(テノール)山本耕平、(ピアノ)河原忠之
「喜歌劇ほほえみの国からきみはわが心のすべて」レハール:作曲
(テノール)山本耕平、(ピアノ)河原忠之
「喜歌劇チャールダーシュ姫からハイヤ!山こそわが故郷」カールマーン:作曲
(ソプラノ)小林沙羅、(ピアノ)河原忠之
「歌劇椿姫から燃える心を」ヴェルディ:作曲
(テノール)山本耕平、(ピアノ)河原忠之
「歌劇椿姫からさようなら 過ぎ去った日よ」ヴェルディ:作曲
(ソプラノ)小林沙羅、(ピアノ)山本耕平
「歌劇椿姫からパリを離れて」ヴェルディ:作曲
(ソプラノ)小林沙羅、(テノール)山本耕平、(ピアノ)河原忠之
「歌劇椿姫から乾杯の歌友よ さあ飲みあかそう」ヴェルディ:作曲
(ソプラノ)小林沙羅、(テノール)山本耕平、(ピアノ)河原忠之
Con Te Partiro Time to say goodbye」クアラントット:作詞、サルトール:作曲
(ソプラノ)小林沙羅、(テノール)山本耕平、(ピアノ)河原忠之

🎵河原先生の日本語で日本歌曲を歌うときの技術については、そこに一ひねりがあったかと。今回一通り聴いていて、やはり日本歌曲を聴くだけではその一人の演奏家の声の値、声の持つ質、技術、力のすべてはわからないなと。オペラを歌ったところで、そこに全表現が開陳されるといった感じを持った。
300曲を超えるバイオリン協奏曲を書いたヴィヴァルディにして、死後は次第に忘れられ、「四季」が日の目を見たのは20世紀に入ってからというこの一つをとっても、演奏される機会の少ない曲を取り上げてもらえることが、どれだけ有難いことかがわかる。
華やぎも声質にならぶ一つの大きな魅力なのかもしれない。

 

🎧名曲アルバムはヴィヴァルディの「四季」から「春」
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⛳あれやこれや慌ただしい中にも13時23分 更新。

 

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210414 クラシック倶楽部を聴く 宮里直樹 テノール・リサイタル

宮里直樹 情熱のベルカント

幼いころからバイオリンを学び、高校3年生で声楽に転向。東京藝術大学および同大学院で学ぶ。その後ウィーン、ミラノへ留学。オペラ出演を中心に、演奏会でもN響をはじめ主要オケとの共演多数【出演】宮里直樹(テノール)河原忠之(ピアノ)【曲目】オー・ソレ・ミオ(ディ・カプア)歌劇「ファウスト」から「この清らかなすまい」(グノー)ほか【収録】2020年8月19日 武蔵野音楽大学 ブラームスホール―番組紹介よりー
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宮里直樹
バイオリニストの両親のもと、幼いころからバイオリンを演奏。高校3年のとき声楽に転向。東京芸術大学、同大学院で学び、その後、ウィーン、ミラノへ留学。現在はオペラ歌手として多彩な役柄をこなし、ウィーンの楽友協会でのコンサートにソリストとして招待されるなど、国内外で活躍。
河原忠之
国立音楽大学、同大学院で学んだ後イタリアへわたり、バリトンのアルド・フロッティのピアニストなどを務める。帰国後さまざまな歌手と共演。また4人の男性オペラ歌手とのユニット、エルデーブのピアニストとしても活動。その他、指揮活動や公演の企画、プロデュースも手掛ける。

 宮里のコメント
僕は高校の3年生の夏までバイオリン科で受験しようとやってたんですけど、3つ離れた妹がいて、妹がミュージカルの方に行きたいとなって中学3年のときに歌の先生についたんです。その先生の歌のレッスンのときに、僕がたまたまピアノの伴奏でついていって妹のピアノ伴奏をしたんですけど、そのとき先生から「お兄ちゃんは歌やらないの」というはなしになって、「やらないです」とこたえたんですけど、「ちょっと歌ってみて」。そのとき、なんで先生がそういったのか僕にはわからないんですけど、でも一曲歌った。知ってる曲もあったので。そしたら是非歌に来いとなって、プロの方がそう言ってくださるなら何かあるのかもしれないと、こわごわと何も知らないまま歌を、じゃちょっとやってみますという感じで受験をしたんです。知らない曲ばかりで作曲家もぼくが弦楽器でやってた作曲家と全然違っててドニゼッティなんて出てこなかった。僕の辞書にはなかったから。すごく不安だったし、これからぜんぶ新しいことやるんだなと思ってたんですけど。歌える曲が増えて来たなと思って。それからちょっと勉強するようになって、「あ、歌好きかも」と。

ナポリ民謡へのおもいは:どうしてもテノール歌手が歌うナポレッターナとナポリ民謡とそのほんとうにナポリの人たちが歌うナポリ民謡とちょっと違うんですよね。僕らお客さんに聴かせなきゃならんからどうしても声大きく出さなきゃいけないというとこがあるけれども、でも彼らはほんとうはやっぱりギター片手で、吟遊詩人じゃないですけども、(ここでオーソレミオの一か節をネイティブ風に歌って)こういう感じで歌うんですよ。でも僕たちはこうして声を張って歌わなきゃいけない、そこのところのギャップを埋めたいなと思うんですけど、なかなか難しいとこがあって、ただそのやっぱり彼らの持前のエネルギーだとか明るさだったりとか、やっぱり人を好きになるという気持ちはやっぱり日本人とはパワーが違うので、そういうところに太陽だったりとか海だったりとかそれを形容できるだけの力を彼らはその愛というものに対して持っているんだなというのはすごく肌で感じて、それが音楽に表れてて、それがああいう明るい音楽だったりとかまた悲しい音楽だったりとかできるんだなと。テノール歌手である僕がこの曲をどういうふうに処理するのか、ひとりの芸術家としてこの曲をつくったときにどういうふうに歌うのかというところを聴いていただけたら嬉しい。

僕はコンクールをガルダ湖というところで受けたんですけど、そこの景色はほんとうに素晴らしくて、たとえば「愛の妙薬」一応あれはスペインのとあるバスク地方とかどこにでもあるような町という感じの設定でやってますけど、ほんとうに窓をぱっと開けた瞬間にこういうことかという、窓から見える景色だったりとか、外を見る景色だったり、または海だったり湖だったりを見たときに、ああこういうことか、太陽がこういうふうに光っているんだという、そこはもう全然空気感も違うし、感じる太陽の熱も全然違ったし、勿論湿度も違うし、色んな意味で違いましたね。イタリア語の発音だったりとか、空気感だったりとか、食べ物もそうだし、彼らの生き方だったり、性格だったり、やはり日本人とはかけ離れてて。簡単に電車もストライキするし、いろんな意味で悪い面もたくさんあったし、でもいい面では仲良くなったりするとすごく仲良くなって本当に兄弟のように家族のように接してくれたというのもあるし、そういうところから言葉だったり音楽だったりとか生まれてきたんだろうなというのはすごく肌で感じました。

もちろん言葉は勉強して、そのときのシーンを勉強して、役作りをしていく中で、やはりそのキャラクターがやらないであろうことはなるべくやらないというのはあるし、あとは、いちばん僕がだいじにしていることは、重要なのは歌ではなくてやはり音楽であって、その音楽を壊すやりかたというのはしたくないなと。やはり音楽の上に言葉があってと、そうでありたいなと自分の中で思っているので、ここ、きついから早めにいきたいな、とかそういうことはしたくないなと。なるべく自分の中でちゃんと作った地図をもとに歌いたいなというのがありますね。

 

曲目
「オー・ソレ・ミオ」
カプロ:作詞、ディ・カプア:作曲
「マリウ 愛の言葉を」ネーリ:作詞、ビクシオ:作曲
「とても君を愛してる」フルノ:作詞、デ・クルティス:作曲
「つれない心」コルディフェッロ:作詞、カルディッロ:作曲
「歌劇「愛の妙薬」から「人知れぬ涙」」ドニゼッティ:作曲  字幕 広塚よう子
「歌劇「連隊の娘」から「ああ友よ、なんと楽しい日」」ドニゼッティ:作曲 字幕 岡本和子
「歌劇「マノン・レスコー」から間奏曲」プッチーニ:作曲
(ピアノ)河原忠之の独奏 
「歌劇「リゴレット」から「あれかこれか」」ヴェルディ:作曲
「歌劇「リゴレット」から女心の歌「風の中の羽のように」」ヴェルディ:作曲
「歌劇「ファウスト」から「この清らかなすまい」」グノー:作曲  字幕 岡本和子
「歌劇「エフゲーニ・オネーギン」から「青春の日は遠く過ぎ去り」」チャイコフスキー:作曲 字幕 伊東一郎

🎵きょうの宮里さんのコメント、様々なことに気付かせてくれた。オー・ソレミオの一か節をその土地の人たちの自然な感じでネイティブに歌ってくれただけで、むこうの空気感が流れ込んできた。いかにオペラ歌手たちがそれこそ張って歌っているものかがくっきりとした。このギャップを埋めたいという。最初に聴いたときから何か一味違ったものが感じられたけれども、それを感じ取っていたのかもしれない。自分の感覚に「かもしれない」はないだろうとも思うのだが、どうしてそう聴こえるかがわからないときには、かもしれないというほかはない。ただ聴き進むうちに、この歌にまさしくコメントにあるような日本の風土、習慣、空気感とは違ったエネルギーが聴こえている。ほんとうにこれが向こうでの研鑽の結果なのだろう。
 それにしても無観客での演奏は、殊にもこういった歌曲の場合には、宇宙空間の只中で歌っているような感覚かもしれないなと。収録スタッフの反応以外に眼前には反応がないわけで、つくづく、演奏者は観客と共にあるべきものと思わせられる。

 

🎧名曲アルバム。🎵日本の至宝と私は思っているが、宮城道雄の「春の海」。バイオリンはN響コンマス篠崎さん。

箏は砂崎知子さん。

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⛳とりあえず7時4分更新。

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210413 クラシック倶楽部を聴く ドミートリ・コルチャック テノール・リサイタル

ロシア生まれのテノール、ドミートリ・コルチャック。ロシア語のオペラや歌曲、そしてロッシーニで評価の高いコルチャックの歌唱をお送りする。2018月3月に収録。―番組紹介よりー

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ドミートリ・コルチャック :ロシア出身。声楽と指揮法を学ぶ。2004年フランシスコ・ヴィニャス国際声楽コンクール優勝。同年プラシド・ドミンゴ国際オペラ声楽コンクールで受賞。以来、名だたる世界各地の歌劇場で活躍。近年は指揮者としても活動。

(ピアノ)浅野菜生子:桐朋学園大学でピアノと声楽の伴奏法を学ぶ。国内外の声楽家から信頼され共演を重ねている。

ドミートリ・コルチャック コメント
Qオペラとリサイタルの違い
 今回はロマンスというテーマでプログラムを組みましたが、このようによく響くホールでの演奏会でピアノ伴奏で歌う場合オペラのやり方は通用しません。声とピアノが一体となって音楽を作り出さなければなりません。ピアノの役割は管弦楽よりも大きく繊細で技術的に難しいだけではなく、作品の世界観を描き出さなければならないのです。ピアノの伴奏で歌うのは、管弦楽の伴奏で歌うよりもはるかに難しいのです。

Qレパートリーの変化について
歌手は誰でも年月を経るにつれてレパートリーを変えていかねばなりません。アルマヴィーヴァ伯爵を20歳で歌ったテノールが50歳でも同じというわけにはいかないでしょう。マヴィーヴァ伯爵もロマン派の主人公も似合わず、もっと男らしく重みのある役を演じると思います。声の質も変わりますし。わたしも最近レパートリーを変えました。2年前の来日公演は歌劇「ウェルテル」でしたが、今回は「ホフマン物語」に出演しました。道を模索するうちに出会ったのがフランスの作品で、「トメオとジュリエット」や「ファウスト」などフランスのレパートリーも増やしています。

テーマはロマンス。演奏会の前半はコルチャックの故郷ロシアの歌曲とオペラ・アリアの演奏。前半の訳は伊東一郎。後半はイタリアのロッシーニ、ドニゼッティからとフランスのグノー、マスネの歌曲から。後半の訳は多田茂史。

曲目
「私は嘆く」レールモントフ:作詞、ダルゴムイシスキー:作曲
「歌劇「ラファエロ」から 舞台裏からの歌手の歌「情熱と喜びに心は震え」」アレンスキー:作曲
「歌劇「エフゲーニ・オネーギン」から 青春の日は遠く過ぎ去り」チャイコフスキー:作曲
「歌うな、美しい人よ 作品44」プーシキン:作詞、ラフマニノフ:作曲                 

         
「「音楽の夜会」から第1「約束」メタスタジオ:作詞、ロッシーニ:作曲
「「音楽の夜会」から第8曲「踊り」ペポリ:作詞、ロッシーニ:作曲
「歌劇「オテロ」から ああ、どうして分かってくれないのですか」ロッシーニ:作曲
「歌劇「愛の妙薬」から 抜粋」ドニゼッティ:作曲 浅野菜生子のピアノ独奏
☆「歌劇「愛の妙薬」から 人知れぬ涙」ドニゼッティ:作曲
「歌劇「ロメオとジュリエット」から「 目覚めよ、きみ」グノー:作曲
「歌劇「ウェルテル」から オシアンの歌「春風よ、なぜ私を目ざますのか」」マスネ:作曲

🎵
歌劇の歌いあげ、歌いこみ、磨き上げに次元の格差を感じる。直截な歌劇の歌詞からは、驚天動地の人間世界を知らされることも多々。チャイコフスキー、ロッシーニの曲と歌詞ともに興味深かった。「音楽の夜会」、特にも「踊り」、どんなにテンポがはやくとも、ことばの隅々までを過不足なく伝えるという歌唱技術に感嘆。「はやくはやく浮かれ出そう」と踊り狂ってはいるのだが奏者の音の支配が行き届いており、音が滑ったり曖昧であったりするところがない。「目覚めよ、きみ」の歌詞「純粋にして魅惑の天体」の透過されていくような声質を印象深く。ロッシーニでは奏者がまとっている歌劇のドラマ世界、雰囲気がこのステージに、歌唱を通して持ち込まれて知らされるという感じが。「春風よ、なぜ私を目ざますのか」、歌唱が現実世界からついと抜き出てガラスのような澄明さが震えるところに感銘。リリックで艶やかな声といわれるのはまさしくここなのだと得心。

 

🎧名曲アルバム。シモンスの「南京豆売り」。栗山和樹編曲。

Dsc07492-2 キューバのユーモラスな南京豆売りの声に作曲したとか。トランペットのエリック宮城、この方、ハワイの日系3世。ハイノート・ヒッター(非常に高い音域を正確に演奏すること)としても知られているとwikipediaにあった。昭和音楽大学ポピュラー音楽コーストランペット講師であり国立音楽大学洗足学園音楽大学大阪芸術大学においていずれも客員教授。

⛳N響の次の指揮者がファビオ・ルイージに決まった。ルイージのベートーベンの交響曲7番の紹介も嬉しかった。22年9月から。
交響曲は事欠かないだけのディスク在庫があるためにTVで見ることはすくないけれども。他にも良い音楽番組はたくさんあるのだけれども、このクラシック倶楽部から軸足を動かさずにいたほうが何かいいのではないか、軸足を一定にしておいた方が学びやすい、といったところで、学ぶというほどの事はしていないのだけれども、素人にもさまざま理解しやすいと言った方がいいだろうか、そんなふうに思っている。
いま外には春の嵐か、けっこう強い風が吹いている。強風注意報も出ている。近くの木々が間断なく揺れている。
9時50分更新

 

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210412 クラシック倶楽部を聴く  ぺトラ・ラング ソプラノ・リサイタル

東京・春・音楽祭2018から
バイロイトやルツェルンなどの音楽祭の常連で特にワーグナーのオペラで存在感を放つぺトラ・ラングの歌曲リサイタル。「声楽の勉強を始めた頃からずっと歌曲を歌い続けてきました。オペラでは特定の人物を演じなくてはなりませんが、歌曲では自分の個性をより多く表現に盛り込むことができるのです」と語るラングのドイツ・リートをお送りする。共演はラングが全幅の信頼を寄せるピアニスト、アドリアン・バイアヌ。―番組紹介よりー

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 ぺトラ・ラング
ドイツのフランクフルト出身。ワーグナーのオペラ作品でメゾ・ソプラノとして才能を開花させる。パルジュパルのクンデュルをはじめ、世界有数の歌劇場でさまざまな役を演じる。2012年からはソプラノとして活動を始め、ジュネーブ大劇場で行われたニーベルングの指輪ではビュルンヒルベを演じ脚光を浴びる。今回はドイツ語の詩による歌曲のリサイタル。歌の内容を深く洞察する豊かな感性は歌曲の世界でも高く評価される。
アドリアン・バイアヌ
ミュンヘン出身。ミュンヘン音楽演劇大学でピアノを学ぶ。声楽のコーチや歌曲のピアニストとして活動。ぺトラ・ラングとは2007年から共演。

ぺトラ・ラングのコメント
歌曲は若いころから歌っていました。デビューした後もオペラ歌手になるかどうか悩み、歌曲の声楽家になることも考えていたので、デビュー以来多くの歌曲を歌い続けています。オペラより自分の個性を表現できる「歌曲」を大切にしています。オペラでは役柄を演じなければならない……しかし私自身はオルトルートではないのです。その「役柄」を表現するために演じていますが。歌曲を歌う楽しさとは、ひとりでさまざまな人物を表現できることです。体を使った演技ではなく声と表情だけでひとつの曲を聴衆に伝えるのは大きな魅力です。歌曲のリサイタルでは、オペラのように衣装や小道具の演出もないですからね。

曲目
セレナード        作品106 第1  ブラームス
ふたりはさまよい歩き 作品96 第2 ブラームス
愛のまこと        作品   第1   ブラームス
傷ついた心        作品59 第7   ブラームス
永遠の愛         作品43 第1    ブラームス
リュッケルトの詩による五つの歌  マーラー
悲しみの賛歌       作品15 第3 R.シュトラウス
心安らかに        作品39 第4 R.シュトラウス

なつかしいおもかげ   作品48 第1 R.シュトラウス
ふたりの恋をなぜかくすのか 作品19 第4 R.シュトラウス
                       訳は広瀬大介  

🎵前回聴いたときには、今思うとけっこうアバウトに聴いてしまったことを今回じっくりと聴いて知らされる。
マーラーが190102年にかけてリュッケルトの詩に基づいて作曲したというこの5つの歌曲は次の通り、

 1、菩提樹のかぐわしさ
 2、美しさを愛するのか
 3、私の歌をのぞき見しないで
 4、真夜中に
 5、私はこの世に忘れられ

このうち、「真夜中に」「私はこの世に忘れられ」をすこし注意深く聴いてみる。この辺りにぺトラ・ラングの曲の理解の奥深さが表れているように思った。殊にも上り詰めていくような旋律はなくむしろある意味穏当な、といっても平凡なという意味ではないけれども、沈潜する心の内が歌われており、こういった歌唱は難しいものではないかと思う。
「私はこの世に忘れられ」の詩、これもググってみると訳詞が幾とおりかあり、それぞれに若干ニュアンスが違っているのだけれども。

私はこの世に忘れられ
永きにわたりこの世を無駄に過ごし
この身は長く受け入れられず
死んだとでも思われたか
それはまったく構わない
死んだと思われようとも
そうでないとも言えぬから
まったくこの世では死んだも同然
世の騒がしさから見放され
静かな地で安息を得る
ただ独り天に在りて
わが愛に
わが愛に
わが歌に生きている

 往年の華やかさから身を引いた歌手か俳優か、或いは、とにかく社会の第一線で活躍した方々の晩年に通じる心境のみならず、凡人筆者が、誰もが通る人生の一場面、通過点とも捉えられ、それを憂いあるソプラノで満たしてくれたペトラ・ラング。誰もが忍耐を強いられるその時を迎えたときには、この歌をも思いだそう。

🎧名曲アルバム。バルトークの「弦楽四重奏曲 第一番」クァルッテット・エクセルシオの演奏。18歳で故郷を出てブタペストに移住。この曲は母校王立音楽院の教授を務めていた27歳のときの作品。生涯にわたり民俗音楽の研究に没頭。
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第一番のシャープな切れ味が、春霞のもやい頭を一刀両断にしてくれる小気味よさ。

⛳きょうで一気にそちこちの桜がわくわくと、わんわんと、限りもなく膨満し、山を、地を押し包もうとの気配。大方の病にも、しょぼくれる弱気にも、一時のカンフル剤を撒き散らす。
9時49分更新

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きょうのことば「そして私にも……」ーイースター講壇ー

インマヌエル盛岡キリスト教会20210404()のイースター礼拝メッセージをおつたえいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で48年目のご奉仕をしておられます。
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説教題 『そして私にも……』―イースター講壇―  (國光勝美 牧師)
聖書箇所 新約聖書 第一コリント15111
(
この聖書個所を「聴くドラマ聖書」で聴くことができます)
1 兄弟たち。私があなたがたに宣べ伝えた福音を、改めて知らせます。あなたがたはその福音を受け入れ、その福音によって立っているのです。
2私がどのようなことばで福音を伝えたか、あなたがたがしっかり覚えているなら、この福音によって救われます。そうでなければ、あなたがたが信じたことは無駄になってしまいます。
3 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
4 また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、
5 また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。
6 その後、キリストは五百人以上の兄弟たちに同時に現れました。その中にはすでに眠った人も何人かいますが、大多数は今なお生き残っています。
7 その後、キリストはヤコブに現れ、それからすべての使徒たちに現れました。
8 そして最後に、月足らずで生まれた者のような私にも現れてくださいました。
9 私は使徒の中では最も小さい者であり、神の教会を迫害したのですから、使徒と呼ばれるに値しない者です。
10 ところが、神の恵みによって、私は今の私になりました。そして、私に対するこの神の恵みは無駄にはならず、私はほかのすべての使徒たちよりも多く働きました。働いたのは私ではなく、私とともにあった神の恵みなのですが。
11 とにかく、私にせよ、ほかの人たちにせよ、私たちはこのように宣べ伝えているのであり、あなたがたはこのように信じたのです。

 

<お話し>
『そして私にも……』これはことしのイースター礼拝のために与えられた御聖言(みことば)であります。

 前回、受難週を控えております聖日に、「イエス様の十字架上の七つのことば」をともに味わいました。
1
「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです。」(ルカ23:34)
2、「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」(ルカ233943)
3、イエスは、母とそばに立っている愛する弟子を見て、母に「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」と言われた。それから、その弟子に「ご覧なさい。あなたの母です」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分のところに引き取った。(ヨハネ192627)
4
「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 (マタイ2746)
5
「わたしは渇く」(ヨハネ1928
6、「完了した」(ヨハネ19:30)
7、「父よ、わたしの霊をあなたの御手に委ねます。」こういって息を引き取られた。 (ルカ2346)

そして、
 ツィンツェンドルフという青年がジュッセルドルフの美術館で、「エッケ・ホモ(この人を見よ)」という絵画の題字の下に記されている「我は凡て此等の事を汝の爲になせり。汝は我が爲に何をなせしや」を読み、自分の全生涯を神に捧げようと決意したこと。ちょうどベタニヤにおられたイエス様に、マリアが葬りの備えのための香油を割って注いだように、私たちも、このお方の前に真実をお捧したく願ったことであります。

 

 ☆  ☆

 さて、きょうはイースター。主の復活を記念する日であります。

 世の中の人たちがいかにも宗教らしいと見ている、かつては私もその一人でしたが。
しかし、私たちの信じている福音とは何なのか。きょうの聖書個所として第一コリント15章を挙げましたけれども、私たちの依って持って立っている福音は何なのかを確認させていただこうではありませんか。

第一コリント15
3 私があなたがたに最も大切なこととして伝えたのは、私も受けたことであって、次のことです。キリストは、聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、
4 また、葬られたこと、また、聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと、
5 また、ケファに現れ、それから十二弟子に現れたことです。

「聖書に書いてあるとおりに」とあり、そして、「この福音によって救われます」、とある。それは、その事実に信仰を結びつける、その結果として喜び、平安、確信、これらのことが与えられることをこれから確認したいと思うのです。ですので私はこの列車名を「福音号」というように名付けました。そして、この列車の行き先はパラダイスです。

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 あの十字架上のイエス様のおことばがございます。そして、イエス様の十字架の両隣に架けられた犯罪人がいましたが、その一人がイエス様を信じ、「このお方は何も悪いことはしていない。私たちは犯した罪のゆえに当然の報いを受けている。主よ、御国に入り給うとき、われを覚えたまえ」とイエス様を仰ぎ請い願いました。イエス様はそれにこたえ、「きょうあなたはわたしと一緒にパラダイスにいます」と言われました。私たちはこの福音によって、このキリストの十字架と復活という事実、それに信仰をしっかりと結びつけて、それから、期待、平安、感謝、喜びというこの福音号に乗って天国へと進みゆきたく願うことであります。

 「キリストは聖書に書いてあるとおりに、私たちの罪のために死なれたこと、また、葬られたこと、また聖書に書いてあるとおりに、三日目によみがえられたこと」。福音はこの事実に立脚しています。これに私たちは信仰を働かせます。「私があなた方に宣べた福音を改めて知らせませ、あなた方はその福音を受け入れ、その福音によって立っているのです。わたしがどのようなことばで福音を伝えたか、あなた方はしっかり覚えているなら、この福音によって救われます。そうでなければあなた方が信じたことは無駄になってしまいます。とにかく、私たちにせよ、他の人たちにせよ、私たちはこのように宣べ伝えているのであり、あなた方はこのように信じたのです」。

 私たちはいま、この2000年前から語り伝えられている福音というものをしっかりと捉えてさえいるならば、私たちの持っている福音号は過つことなく天国へ、パラダイスへと導いてくれます。

 イエス様は「ケファに現れ」という、このケファはペテロのことです。「ケファに現れ、それから12弟子に現れました」。

ペテロはこの事実を第二ペテロ116
私たちはあなたがたに、私たちの主イエス・キリストの力と来臨を知らせましたが、それは巧みな作り話によったのではありません。私たちはキリストの威光の目撃者として伝えたのです。

 あのイエス様が十字架に引かれていくときに、怖れをなして隠れて或いは、その前にイエス様を裏切ってしまった、そのような弱い、そのようなペテロが、主の復活の後にローマの迫害の只中に、この事実を否定することはできない。わたしはほんとうにキリストの復活に出会ったのだと果敢にイエス様を宣べ伝えるようになりました。この復活のできごと、ペテロの復活の力に、それと合わせたいと思います。そしてペテロは第一ペテロの1章5節
あなた方は、信仰により、神の御力によって守られており、終わりの時に現わされるように用意されている救いをいただくのです。
しっかりとペテロは私たちにこのような信仰をもつように証しをしています。そして感情でいうのならば、第一ペテロの18
あなた方はイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、ことばに尽くせない、栄えに満ちた喜びに踊っています。
このようなすばらしい喜び。ペテロはこの復活の証人として、そしてこのイエス・キリストを救い主として信じ、このお方こそ神の御子であると信じ、そして罪の赦しを信じ喜びにあふれている。これがペテロです。

 それでは、パウロはいったいどうだったでしょうか。このコリントの手紙を書いたパウロです。パウロは、
8 そして最後に、月足らずで生まれた者のような私にも現れてくださいました。
 彼は以前、クリスチャンを、ふとどきな人々を惑わす教えをしているこの道の者、邪教を信じる者たちと思い込み、クリスチャン迫害のためにダマスコへの道を急いでおりましたときに、彼は、復活のイエス様にお会いしたのです。イエス様が現れてくださったのです。
「サウロ、サウロ、なぜわたしを迫害するのか。とげの付いた棒を蹴るのは、あなたには痛い」

 パウロは、この方はほんとうによみがえって、迫害者である私にも現れてくださったと言います。彼が「主よ、あなたはどなたですか」というと、答えがあった。
「わたしは、あなたが迫害しているイエスである」

 パウロにしても、また先のペテロにしても、この復活の事実、或いはヨハネも
「1私たちが聞いたもの、自分の目で見たもの、じっと見つめ、自分の手でさわったもの、すなわち、いのちのことばについて……2証しして、あなたがたに伝えます」(第一ヨハネ1:1,2)」。
 このように、みんなこのイエス・キリストの十字架と復活の事実に基づき語っています。

第一コリントの121節でパウロは、
神の知恵により、この世は自分の知恵によって神を知ることがありませんでした。それゆえ神は、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。
 
信じる。信じる者をお救いになる。これが神様の救いの道です。ここに神の知恵が表れています。神なんかいらないといって神のもとから去っていった私たち、傲慢なその人間がいちばんやりたくない、それは、私は自分で自分を救うことができません。助けていただく以外にありません。神様が備えってくださった十字架の救い。これにすがる以外にありません。これほど人間をへりくだらせる救いの道はまさに神の知恵です。もっとも傲慢であるがゆえに、罪を犯してしまった人間が、最も謙遜になって、あなたにお頼りする以外にはありませんといって信ずる。神様はそう信ずるものをよしとされました。

 それゆえ神は、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救うことにされたのです。(第一コリント1:21)
 人のわざではない。良きわざによって救われるのではない。イエス・キリストの十字架の贖いは私の爲であったということを、へりくだって信じる。パウロはそれをした人物です。「月足らずで生まれたようなわたしのようなものに、神様は憐れみをかけてくださいました。キリスト・イエスは罪びとを救うためにこの世にこられたということばは真実でありそのまま受け入れるに値するものです。わたしはその罪びとの頭です。こんな私が救いに与ったのです」。あふれ出る喜び、感謝がパウロの書簡には迸り出ています。

 私たちはどうでしょうか。
 「キリスト・イエスは罪びとを救うために世に来られたということばは真実であり、そのまま受け入れるに値するものです。私はその罪びとの頭です」。このことばを私たちは受け入れます。そして、
神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである。(ヨハネ3:16)
ここに福音があるのです。そして私たちは最後に、ペテロと共に
あなた方はイエス・キリストを見たことはないけれども愛しており、今見てはいないけれども信じており、言葉に尽くせない栄に満ちた喜びに踊っています。
 まさしく、それをわたしの爲であるというように信じたとき、救いの感謝の歌が、ファニー・クロビーではありませんが、チャールズ・ウェスレーではありませんが、心の中に湧き出る喜びを経験することであります。

☆この後、聖餐式に与り、
また教会の皆様方で墓参がありました。写真は教会墓地です。

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⏰6時25分更新

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音楽雑感

けさのJ-MERO、爽やかMay J.の司会でゲストはジャニーズWEST7人のグループ。インタビューの一つは、やはりコロナによる音楽活動の制限による影響について。中止、廃止に追い込まれた中で、グループ内での話し合いが多くなったとか。ネットを通しての活動に。応援ソング的な軸を移さず、クリエイティブさを広げられたよう。もともと明るく楽しく聴いている人も盛り上がることを軸においてたグループだけれども、メッセージを届けるとか歌詞にも注目するようになった気がすると。新曲「パラダイス」では子どもなんだけれどもあがいてるところをと。
楽曲制作についてはカミジョウは「ざっくり言うと降りて来て作る感じ。いいなと思ったメロディーラインがパーンと出て来て、家に帰ってギターでコード探して、そこからパソコンに、ドラムは打ち込みで入れてギターとベースは聴いて入れて歌のラインをピアノで打っていって、仮歌入れて、はいどうぞという感じかな。家でぜんぶできるようになっている。思いついたボイスメモを取って、あとはピアノで弾き語ったりギターでやったりとかかなあ」。ナオキは、「作詞は降りて来たということはなく、絞って絞って1滴落ちるかどうかで頑張った」。
以上、ざっくりと。


「美の壺」でジャズとギターを取り上げていたことに驚き。
山下洋輔の「ピアノ炎上2008」のピアノ炎上シーン、後でユーチューブをググると出ていた。驚天動地とまではならない。思いつきうるかなと。しかしショッキングではある。「GUGAN」。もうハチャメチャか、それがけっこう聴かせる。山下をwikipediaで見ると、ひじ奏法は1942年生まれの御歳の今に始まった事ではないようだ。時間的にもうこんなことを書いている場合ではないのだが、何れ、今もって実に熱い。自由に何でも。トランペットかどの吹奏楽器であるか、唇なんか切れたっていいと。これは音楽上のこと。
ギターに関しては、写真撮ればよかったかなとも思ったが。何しろ後で調べるとなると、1項目もユルクナイ。ピックなしで弾く奏法のウェス・モンゴメリーのギター。アメリカのジャズ・ギタリスト。オクターブ奏法で一世を風靡した。すばらしいギターは数々あるもの。
 とこの辺りでどんと・晴れ。

⛳花粉症の薬のせいか、睡眠時間は足りているはずが、一日中、眠くてどうしようもなかったが、ジャズをググっているうちにやっと目が醒めたようだ。スギ花粉も桜咲くまで。あともう一息。
21時36分更新

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210409 クラシック倶楽部を聴く ビオラスペース 

ヴィオラスペース2019 ヴィオラで巡る音楽の旅

 

28回を迎えたビオラの祭典。世界各地からビオラの名手が集まり、将来を嘱望される日本の若手奏者たちと競演を繰り広げる。ビオラ・ファンならずとも必見のコンサート。【出演】アントワン・タメスティ(指揮/ビオラ)今井信子、佐々木亮、(以上ビオラ)ガース・ノックス(ヴィオラ・ダモーレ)三浦一馬(バンドネオン)ほか【曲目】「ストレンジャー」(ノックス作曲)【収録】2019年6月5日上野学園石橋メモリアルホール―番組紹介よりー
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ビオラスペースは世界的なビオラ奏者今井信子が中心となって1992年から毎年開催されているビオラの祭典。国内外のビオラ奏者によるガラ・コンサートや若手演奏家のための公開マスタークラスを行っている。今回はビオラで巡る音楽の旅というテーマでアイルランドやオーストラリアや日本など世界各地の作品が演奏された。プログラミング・ディレクターを務めるのは、2004年にミュンヘン国際コンクールを制したビオラ奏者アントワン・タメスティ。

アントワン・タメスティのコメント
選曲が終わってからつくづくおもいました。「ほんとうに色々なスタイルの曲が集まったな」と。ブレット・ディーンの曲はとても緻密で、無調音楽などの流れを組んでいるのですが、ベートーベンの引用もあってすごく面白い。西村朗の曲は現代音楽ですが、誰もが知る古謡「さくら」を引用しています。一見難しそうな現代曲が並んでいますが、決してそうではありません。「ストレンジャー」について、これはヴィオラとヴィオラ・ダモーレ奏者のガース・ノックスと話し合って生まれた作品です。彼の曲には即興演奏が求められる部分があります。そこでは自由な演奏ができます。彼は舞台空間を利用するのも大好きです。舞台の中央の位置だけでなく様々な位置から響きを探りながら曲を書きます。演奏者が舞台上で動くことで、聴き手も旅をしているような感覚になるでしょう。そして今までにない新しい響きを楽しむことができるのです。
「テスタメント」について、これはベルリン・フィルのビオラ奏者だったブレット・ディーンが同僚たちのために書いた曲です。現代音楽的な響きの曲で、12人のビオラ奏者とのやりとりが面白い。主導権を握る奏者が目まぐるしく変わって、音が縦横無尽に駆け回るようです。とても刺激的で魅力的な作品です。
現代音楽的な響きの曲で、12人のヴィオラ奏者とのやりとりがおもしろい。主導権を握る奏者が目まぐるしく変わって音が縦横無尽に  ようです。

曲目
「ストレンジャー」ガース・ノックス:作曲
(ビオラ)アントワン・タメスティ、(ヴィオラ・ダモーレ)ガース・ノックス
アイルランドの盲目のハープ奏者が残した「負傷した軽騎兵」という曲をもとに書かれた作品。幾多の戦いから生還した老兵士が、故郷で「見知らぬ人」として疎外される姿が描かれている。
ヴィオラ・ダモーレは、17世紀に生まれた弦楽器。演奏用の弦の下に張られた共鳴用の弦が、独特な残響を生み出している。
8つのヴィオラのための<桜>」西村朗:作曲
(ビオラ)今井信子、(ビオラ)ルオシャ・ファン、(ビオラ)井上祐吾、(ビオラ)セジュン・キム、(ビオラ)大島亮、(ビオラ)辻菜々子、(ビオラ)井上典子、(ビオラ)佐々木亮
今井信子を中心としたビオラグループ「ヴォワラ・ヴィオラ!」の委嘱で書かれた作品。東日本大震災のあと、桜花のうつろいから受けた作曲者の内的な心象風景が描かれている。
「ル・グラン・タンゴ」ピアソラ:作曲
(ビオラ)佐々木亮、(チェロ)江口友理香、(バンドネオン)三浦一馬
1982
年タンゴの巨匠ピアソラが、世界的チェロ奏者ロストロポーヴィッチのために書いた作品。原曲はピアノとチェロのための作品だが、今回はバンドネオン奏者の三浦一馬の編曲で演奏された。
「テスタメント」ブレット・ディーン:作曲
(指揮)アントワン・タメスティ、佐々木亮、塩加井ななみ、藤原右京、石渡彩馨、本田梨紗、貝森萌、蕨春菜、布施海里、佐藤友希乃、島英恵、大島愛華、大畑祐季乃
ベートーベンの有名なハイリゲンシュタットの遺書にちなんだ作品。12人の奏者は通常の弓と松ヤニを塗らない弓を持ち替えて演奏する。不確かにぼやかされたビオラの音は、悪化する耳の病を示唆している。また同時期に作曲された弦楽四重奏曲ラズモフスキー第1番が引用されている。

🎵「ストレンジャー」、ステージの両端に距離を置いての演奏。遠隔で語りかける魂に呼応する。諦念をもらして曲が鳴りを潜める。「桜」、幽玄にたわわに、そしてどこか凄まじい感じも。被災直後の光景が累々と。それでも傍らに咲く桜。「ル・グラン・タンゴ」、穏やかなリズムにも籠る熱さ。「テスタメント」、このような状況に、甘やかな香りがふと鼻をつくような旋律も。聞こえなくなっていく状況を音で表現するという、どこかパラドックス的。ベートーベンのその時の心境、それがなぜか凹凸の面、歪んだ面、映っているさらにその奥に映りこんでいる面、とにかくさまざまなカーブのある鏡に映し出されているような感じもして聴いた。このときが日本初演であったとか。

🎧名曲アルバムはグロフェの組曲「大峡谷」から「日の出」。大友直人&N響。
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🎵とにかく10年がかりで、この巨大スケールのグランド・キャニオンを作曲。どんな楽器をもってしても、パイプオルガンを入れても、管総動員、全打楽器の連打を入れてさえ間に合わないと思われるこのスケールを作曲しようとした人物がいたことに驚き。

⛳けさは5時過ぎに雪が舞い始め、6時までには咲いた桃やら開きかけた桜、青々としかけた土手、屋根屋根を白一色に。そして瞬く間に消えたはずが、17時のいま、また細かに吹雪だしている。
17時05分更新

 

 

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210408 クラシック倶楽部を聴く キアロスクーロ四重奏団

名手アリーナ・イブラギモヴァが率いるカルテット、キアロスクーロ四重奏団。チェロ以外の三人が立って演奏する独特なスタイルによる、しなやかなアンサンブルをおおくりする。【曲目】弦楽四重奏曲ト長調作品18第2(ベートーベン作曲)、弦楽四重奏曲第1番変ホ長調作品12(メンデルスゾーン作曲)【収録】2019年4月23日 王子ホール(東京都中央区)―番組紹介よりー

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キアロスクーロ弦楽四重奏団は、ロンドンで学んだ弦楽器奏者により2005年に結成。メンバーは
アリーナ・イブラギモヴァ:ヴァイオリン
パブロ・ヘルナン・ベネディ:ヴァイオリン
エミリエ・ヘルンルント:ヴィオラ
クラーレ・ティリオン:チェロ

ガット弦を使い、立奏で行われるアンサンブルは、しなやかでダイナミック。彼らの演奏はヨーロッパの聴衆に高く評価されている。エディンバラ国際音楽祭をはじめ、ヨーロッパの音楽祭に数多く出演。また録音も意欲的に行っている。

 

コメント
クラーレ・ティリオン
:カルテットの「キアロスクーロ」とは、絵画の技法において光と影を意味します。この名にしたのはロジャー・ノリントンのおかげです。私たちがロンドンで学んでいたころ彼に会いました。指導を受けていた時に「もっと違いをはっきりと! キアロスクーロのように!」と言われたのです。音楽は緊張と緩和の対比なので、その名は最適です。全員が気に入っています。
アリーナ・イブラギモヴァ:色彩の違い、強弱、緊張と和み…など。多くの意味を持つことがすばらしいと思います。
パブロ・ヘルナン・ベネディ:キアロスクーロの演奏形態立奏については、立奏は自由になれます。私たちに新たな交流の方法をもたらしました。いつでも動けます。座って練習していても立つだけで音がより心地よく響きます。
エミリエ・ヘルンルント:ガット弦を使い、少し低い音程で演奏します。おすすめはしませんが…その音色に魅了されました。純粋で美しい音、無機質な音、野性的な音も出せるので、皆その音が気に入っています。
アリーナ・イブラギモヴァ:この奏法はキアロスクーロ(光と影)の方針を発展させます。私たちは光と影の境界を広げようとしているのです。

曲目
弦楽四重奏曲 ト長調 作品18 第2 ベートーベン
 ベートーベンの作品186曲の弦楽四重奏曲で構成されている。1799年に完成。優雅な香りが漂う。主題が挨拶を交わしているように感じられるところから、「挨拶四重協奏曲」と呼ばれることもある。
弦楽四重奏曲第一番 変ホ長調 作品12 メンデルスゾーン
 メンデルスゾーンは1829年にこの曲を20歳で作曲。ベートーベンの影響を強く受けているが、メンデルスゾーンらしい端正なハーモニーも表れている。

 

🎵光と影を弦で描出するためにさまざまな工夫が為されているようだ。
2005
年の結成。「並外れたユニークな音色だけでなくアンサンブルに知性ある姿を兼ね備え」とユーラシックには出ている。この知性が曲を凌駕したというほどではないが、この知性支配とまでは言い難いかもしれないが、何か、曲そのものを超えていたという感じが。ただし、これがベートーベンの曲も多分に実験的であると感じられたままに聴いているわけで、そこに整合性を聴き分けられなかったのは、それこそ筆者の側の感性の乏しさであることも多分にあるかもしれず、モノ申した分を引っ込め引き下がれとなっても、直感を押し通すだけの迫力と論拠を持ち合わせてもいない。
メンデルスゾーンの終楽章の巧みさ見事さをこの曲でも見せつけられたというか、いよいよ認識を強くしたというか。終楽章が受けた多くの影響の集大成、大団円と感じられた。

🎧名曲アルバムはオネゲルの「パシフィック231
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機関車の名前をそのまま曲名に。鉄道マニアを沸かせそうな映像と音楽。この時代の産業の動力の力強さが。

⛳4時代のさやかな三日月が消えゆくさまを惜しみ曙光を迎え、きょうの一日は果たして動き出しているかも捉え難いまま8時3分の更新




 

 

 

 

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東京・春・音楽祭2019 ヴェリタス弦楽四重奏団 演奏会

アメリカ、イギリス、日本と世界各地のオーケストラを拠点にもつ4人が集ったヴェリタス弦楽四重奏団。新世代の演奏家による四重奏をお送りする。【出演】ヴェリタス弦楽四重奏団(バイオリン:岩崎潤、島田真千子 ビオラ:小倉幸子 チェロ:工藤すみれ)【曲目】弦楽四重奏曲第2番「カンパニー」(グラス作曲)弦楽四重奏曲ヘ長調(ラヴェル作曲)ほか【収録】2019年3月27日 上野学園 石橋メモリアルホールー番組紹介よりー

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コメント
Q
このアンサンブルについて
小倉:昔いろいろなカルテットをやっていたんですけれども、すばらしいソリストとしても活躍してらっしゃるような方々とやるというのは、すごく刺激になりましたよね。最初の音を聴いてびっくりしました。
工藤:楽しかった。私がはしゃいでいる写真ばっかりで、ほんとうに楽しかったんだなあと。
岩崎:カルテットでは誰もがアイデアを出し合い、またそれに喜んで応じます。私たちはソリストでもありますが、その4人の音が一つのまとまりになります。それが室内楽の醍醐味です。
Qラヴェルの弦楽四重奏曲について
島田:今回メインにしたラヴェルというのは、私たちは一番最初にメインに選んだ作品なんですね。4年経って、この前ナッシュビルでリハーサルしたんですけども、ぜんぜん4年前と違う音が鳴ったから、それは私たちのそれぞれの4年間の成長。
工藤:一回終わったらそれで終わりじゃないから。
島田:なんかすごくまた違うものができてたから、そうやって時間をかけてレパートリーを作っていくというのがいいのかなと思ってました。

 

曲目
☆弦楽四重奏曲 第7番 嬰ヘ短調 作品108作曲
妻ニーナに捧げた作品。ショスタコーヴィッチ自身この曲を愛してやまなかったという。
☆弦楽四重奏曲 第2番 「カンパニー」 フィリップ・グラス作曲
グラス自身が参加していた演劇集団「マブー・マインズ」の舞台「カンパニー」のために幕間曲を書いた。後に演奏会用の曲として独立させた。
☆弦楽四重奏曲 ヘ長調 ラヴェル作曲

 

🎵ショスタコーヴィッチ、けさは抵抗感なく。曲への抵抗感がいつしか消えた曲の中身が、けっこう問いかけや抵抗も感じられ、いまの自分を知らされたかのような。不可解とも聴こえる響きがこの曲の魅力と素直に耳を傾けるいま。
 ラヴェルの第一楽章、これを解説なしに聴いたらドビュッシーだと思ってしまいそう。wikipediaからの転載が多くてちょっと、なのだが、「ドビュッシーはラヴェルのこの作品に熱狂的な賛辞を送って、ラヴェルに終楽章を改訂せぬように説得し、次のように進言した。「音楽の神々の名とわが名にかけて、あなたの四重奏曲を一音符たりともいじってはいけません。」。しかしながらラヴェルは、出版にあたって作品全体を改訂して、より構築感が高まるようにした。弦楽四重奏曲はこの時代には難しいとされたジャンルであり、作曲家が成熟期を迎えるまでにこれを手懸けることは、まず滅多にないほどである。だが、当時まだ27歳のラヴェルはその作曲に挑んで、この楽種の傑作を示したのであった。」
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楽章からは趣が変わり、4楽章でけっこう熱っぽく激しく、ラベルの感じが。

 

🎧名曲アルバム。歌劇「カプレーティとモンテッキ」から「おおいくたびか」ベルリーニ作曲
ソプラノ砂川涼子。現田&東京フィル
このソプラノ、願いと悲哀、憂いとひたすらさとが。

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⛳10時12分更新

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210406 クラシック倶楽部を聴く チャイコフスキー国際コンクール チェロ:サンティアゴ・カニョン・ヴァレンシア、ピアノ:ドミートリー・シシキン

2019年第16回チャイコフスキー国際コンクールの上位入賞者たちが来日、華麗な演奏を繰り広げた。その中から今回はガラ・コンサートⅡ「ロココ風の主題による変奏曲イ長調作品33」チャイコフスキー:作曲,(チェロ)サンティアゴ・カニョン・ヴァレンシア(ピアノ)。ドミートリー・シシキン「ピアノ協奏曲第一番 変ロ短調 作品23から」チャイコフスキー:作曲(管弦楽)東京交響楽団,(指揮)飯森範親ほか【収録】2019年10月 東京芸術劇場で収録ー番組紹介よりー

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チェロ部門第2
サンティアゴ・カニョン・ヴァレンシアのコメント

チャイコフスキー国際コンクールのようにレベルの高いコンクールには、良い結果が出ると信じて出場するべきです。もちろん謙虚な気持ちも必要ですが、何かを達成しようという強い気持ちも欠かせません。必ず優勝するというよりも、うまくいくはずだと信じる気持ちです。私はチェロを始めて以来、ソリストになることを目標としてきました。今後もずっとソリストとして活動していけたらと思っています。夢はソリストとして世界中で演奏すること。それは他の仕事では得ることのできない機会を与えてくれるはずです。

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ピアノ部門第2
ドミートリー・シシキンのコメント
コンクールは大きな舞台に立ち、耳の肥えた聴衆の前で演奏する貴重な機会です。会場のモスクワ音楽院は私の母校で、ホールにはよい思い出がいっぱいありますし、舞台から大きなパワーをもらいました。チャイコフスキーの音楽の魅力は、湖や森や山並みなど、雄大なロシアの魂を感じさせるところにあります。チャイコフスキーの音楽には、ロシアの人々の心にある豊かな情感が込められています。その情感が私を魅了するのです。これからもさまざまな場所で演奏を続けて、聴衆も自分自身も喜ばせることができたら嬉しいです。音楽という世界共通の言語で人々と繋がっていけたらと思います。
 

🎵けさの感動は観客の拍手。1位は2位、2位は1位と言いたくなるようなそんな心境にさせられた。

🎧名曲アルバム。スクリャービンの「炎に向かって」
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ピアノ:川上昌裕
この曲は1914年第一次世界大戦の直前に書かれた。部屋に灯った小さな炎が次第に明るさを増し、世界が白熱光に包まれるというビジョンを描いているという。晩年は音楽と色彩の融合を試みようとしたという解説。

⛳けさは久しぶりに曙光が眩しかった。時間の経過で感動が色あせないうちにと思いつつも、スローなテンポとなっている。ひと月前に血圧が170近く、脈拍が115となった一瞬があり、もはやここまでかなとも思いその後の経過を見ていたが、その後2週間は血圧はだいたい120前後。脈拍数も60前後と落ち着いている。土の器も用い方次第であるらしい。「線路は続くよ」が超スローテンポで脳裡を通過中。10時6分更新。

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チャイコフスキー国際コンクール ガラコンサート バイオリン セルゲイ・ドガージン 

2019年第16回チャイコフスキー国際コンクールの上位入賞者たちが来日、華麗な演奏を繰り広げた。その中から今回はガラコンサート1としてバイオリンのセルゲイ・ドガージンの演奏を放送する【曲目】歌劇「エフゲーニ・オネーギン」から ポロネーズ、バイオリン協奏曲(以上、チャイコフスキー作曲)他【演奏】セルゲイ・ドガージン(バイオリン)、東京交響楽団(管弦楽)、飯森範親(指揮)【収録】2019年10月8日 東京芸術劇場で収録ー番組紹介よりー

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曲目
チャイコフスキー作曲 歌劇「エフゲーニ・オネーギン」からポロネーズ
チャイコフスキー作曲 バイオリン協奏曲 ニ長調 作品35
アンコール パガニーニ作曲 「ネル・コル・ピウ」による変奏曲

セルゲイ・ドガージンのコメント
今回のコンクールは、私にとってとても大きな意味を持っていました。このコンクールに、8年ぶり、二度目の参加を決めた理由は、前回最高位(1位なしの2)を受賞して、演奏家としての大きな扉が開かれましたが、それでもやはり1位と2位の差を痛感していたからです。実力が発揮できなかった場合、出場しなかった方が良かったということにもなりかねませんでした。しかしこの8年間で、私は大きな成長を遂げることができ、成果につながりました。
Q
チャイコフスキーのバイオリン協奏曲について
ロシアのどの作曲家にも共通することですが、チャイコフスキーの音楽には誠実さややさしさがあります。その美しいメロディーや   はロシア国外でも愛されています。しかし、この協奏曲を演奏することは、とても難しいのです。しっかりとしたテクニックなしにはそもそも弾き通すことすらできません。当初この協奏曲はバイオリンの名手レオポルド・アウアーに献呈されました。この曲の楽譜を見たアウアーは、演奏不可能だと言いました。確かにこの曲は、バイオリンという楽器ができる範囲を超えているところがあります。この協奏曲には技術だけではなく体力も要求されます。しかし最も重要なことは、この難曲を弾きながら音楽に感情的な表現を盛り込むことです。チャイコフスキーが多用する繰り返しに表現の変化をつけることで、聴衆を魅了することができるのです。

🎵ドガージン、最高位から8年。1位までの思い、それを念頭に聴くうちに第一楽章の終わりには涙が。アンコールの「ネル・コル・ピウ」、技術の高さを再確認させられた。

🎧名曲アルバム。バッハの「コーヒー・カンタータ」
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コーヒー愛好家であったバッハ。
ライプツィヒ最古のカフェは1711年創業のカフェ・バウム。バッハがきたかどうかは聞き落してしまった。トーマス教会の近くでもあるし来ていたのかなと思ってしまうが、もしかすればカフェで飲むということはしなかったのかもしれないし。わからない。ロベルト・シューマンはこの店には毎夜来ていたらしいけれども。
それにしてもいつも思うのだが、名曲アルバム、たった5分にこれだけの内容が盛り込まれていることに感服。

⛳コーヒーカンタータにつられコーヒーで一服するうちに、「あとで書こう」が今時間に。音楽の朝練がいつの間にやら生涯学習と形を変えたようだ。18時22分更新。

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きょうのことば「十字架上の七つのことば」

イースターおめでとうございます!

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     ☆  ☆  ☆

(このブログはメッセージを1週間遅れで載せておりますので、イースターメッセージは来週になります。)
インマヌエル盛岡キリスト教会202103月28()の礼拝メッセージをおつたえいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で48年目のご奉仕をしておられます。
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説教題 『十字架上の七つのことば』  (國光勝美 牧師)
聖書箇所 新約聖書 マタイの福音書273261節
(
この聖書個所を「聴くドラマ聖書」で聴くことができます)
27:32兵士たちが出て行くと、シモンという名のクレネ人に出会った。彼らはこの人に、イエスの十字架を無理やり背負わせた。

27:33ゴルゴタと呼ばれている場所、すなわち「どくろの場所」に来ると、 27:34彼らはイエスに、苦みを混ぜたぶどう酒を飲ませようとした。イエスはそれをなめただけで、飲もうとはされなかった。
 27:35彼らはイエスを十字架につけてから、くじを引いてその衣を分けた。 27:36それから腰をおろし、そこでイエスを見張っていた。 27:37彼らは、「これはユダヤ人の王イエスである」と書かれた罪状書きをイエスの頭の上に掲げた。
 27:38そのとき、イエスと一緒に二人の強盗が、一人は右に、一人は左に、十字架につけられていた。 27:39通りすがりの人たちは、頭を振りながらイエスをののしった。 27:40「神殿を壊して三日で建てる人よ。もし、おまえが神の子なら自分を救ってみろ。そして十字架から降りて来い。」 27:41同じように祭司長たちも、律法学者たち、長老たちと一緒にイエスを嘲って言った。 27:42「他人を救ったが、自分は救えない。彼はイスラエルの王だ。今、十字架から降りてもらおう。そうすれば信じよう。 27:43彼は神に拠り頼んでいる。神のお気に入りなら、いま救い出してもらえ。『わたしは神の子だ』と言っているのだから。」 27:44イエスと一緒に十字架につけられた強盗たちも、同じようにイエスをののしった。

27:45さて、十二時から午後三時まで闇が全地をおおった。27:46三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 27:47そこに立っていた人たちの何人かが、これを聞いて言った。「この人はエリヤを呼んでいる。」27:48そのうちの一人がすぐに駆け寄り、海綿を取ってそれに酸いぶどう酒を含ませ、葦の棒につけてイエスに飲ませようとした。 27:49ほかの者たちは「待て。エリヤが救いに来るか見てみよう」と言った。 27:50しかし、イエスは再び大声で叫んで霊を渡された。 27:51すると見よ。神殿の幕が上から下まで真二つに裂けた。地が揺れ動き、岩が裂け、 27:52墓が開いて、眠りについていた多くの聖なる人々のからだが生き返った。 27:53彼らはイエスの復活の後で、墓から出て来て聖なる都に入り、多くの人に現われた。 27:54百人隊長や一緒にイエスを見張っていた者たちは、地震やいろいろな出来事を見て、非常に恐れて言った。「この方は本当に神の子であった。」 27:55また、そこには大勢の女たちがいて、遠くから見ていた。ガリラヤからイエスについて来て仕えていた人たちである。27:56その中にはマグダラのマリア、ヤコブとヨセフの母マリア、ゼベダイの子たちの母がいた。

27:57夕方になり、アリマタヤ出身で金持ちの、ヨセフという名の人が来た。彼自身もイエスの弟子になっていた。 27:58この人がピラトのところに行って、イエスのからだの下げ渡しを願い出でた。そこでピラトは渡すように命じた。 27:59ヨセフはからだを受け取ると、きれいな亜麻布に包み、 27:60岩を掘って造った自分の新しい墓に納めた。そして墓の入口に大きな石を転がしておいて、立ち去った。27:61マグダラのマリアともう一人のマリアはそこにいて、墓の方を向いて座っていた。

<お話し>

 先週にお話ししましたマリアの油注ぎ、彼女は非常に高価なナルドの香油を割って砕いてイエス様の御足に塗り、髪の毛でぬぐいました。これをイスカリオテのユダは、「何てもったいないことをするんだ」と言いましたけれども、イエス様は、私たちのために尊い命を十字架の上で身代わりとして捧げてくださった、それに対して、そこに何の浪費があるでしょうか。「マリアはわたしの葬りの日のためにそれを取っておいたのです」とイエス様は最高の評価をしてくださいました。
 私は今日みなさんとご一緒に、七つの十字架上のことばを取り上げながら、今日のメッセージの締めくくりには、イエス様のマリアに対するような応答をさせていただくのが、いちばんのメッセージではないだろうかと、このように導かれております。このマリアの行動は、聖潔(きよめ)であり献身であるということ、これを今日のメッセージの結論として最初ご紹介させていただきます。


 いまは受難週という時期でもあります。手元にある資料を幾つか参考にしながら、十字架につかれるまえのイエス様のみ足の跡を簡単に振り返ってみたいと思います。
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  • ①がゲッセマネの園です。そこから赤い線がスタートしております。これに添ってご案内をしていきます。
    ユダがイエスを捕らえさせるために、一団の兵士をゲッセマネに連れて行った。ユダは自分が口づけをする相手がイエス様であることをあらかじめ兵士に伝えておきました。そして捕まえられたイエス様は最初に②にある大祭司アンナスのもとに送られます。アンナスはそのときにピラトの下にイエス様を訴えます。しかし、ピラトはこの面倒な裁きにあまり積極的に関わりたくないという思いもあり、そうだ、ここにヘロデ・アンティパスがいるなと気が付きまして、④にいるヘロデ・アンティパスのところにイエス様を送るわけです。するとヘロデはこの奇蹟を行う人物に非常に関心があって、俺の前で奇蹟を行ってみろと迫りますが、イエス様はひとこともお語りにならず応じませんでした。そしてさんざんイエス様を嘲ったあげく、ヘロデ・アンティパスは、もういちどピラトの下にイエス様を送り返します。これが⑤であります。そしてピラトは、私には総督として恩赦を与える権限がある。いったいこの十字架にイエス様をつけたいのか、恩赦を与えることもできるがと言うと、人々はイエスを十字架につけろ、バラバを赦せ。こういってバラバに恩赦を与えます。ピラトはみんなの前で、「この責任は俺にはない」と手を洗って引き返します。そしてついにこの十字架の場所⑥番、これがゴルゴダの丘と呼ばれているところ、今日主題となる十字架の場所でございます。

 この成り行きが、一つの豆知識のようにどこかにチャートが入っていると理解しやすいかもしれません。

 

さてイエス様は十字架上で七つのおことばを仰いました。

1、そのとき、イエスはこう言われた。
「父よ、彼らをお赦しください。彼らは、自分が何をしているのかが分かっていないのです」
彼らはイエスの衣を分けるために、くじを引いた。ルカ2334

 このイエス様のおことば。
「天のお父様、どうかこんな無慈悲なイルリーガル(不法)な、こんな暴挙をしている。しかし、どうぞ彼らを赦してください」
 これがイエス様の第一番目の叫びです。私たちのこれまでの犯してきた罪がどんなものであったとしても、このイエス様の第一番目のおことば。イエス様は私たちのすべてをお赦し下さる。

2、ゴルゴダには3本の十字架が立てられました。
 十字架にかけられていた犯罪人の一人は、イエスをののしり、「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」と言った。すると、もう一人が彼をたしなめて言った。「おまえは神を恐れないのか。おまえも同じ刑罰を受けているではないか。おれたちは自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」そして言った。「あなたが御国に入られるときには、私を思いだしてください」

イエスは彼に言われた。「まことに、あなたに言います。あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」(ルカ233943)

 イエス様を挟んで右と左に犯罪人が付けられております。そのうちの一人はイエス様に対して悪口雑言を言う。
「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」
しかしもう一人の方は、いちばん近いところでイエス様の十字架を見た。そして言います。
「おれたちは自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だがこの方は、悪いことを何もしていない。」「あなたが御国に入られるときには、私を思いだしてください」
 彼はイエス様をみたとき、いちばん近くでご人格に触れた時、ほんとうの意味の悔い改め、信仰を持ったのです。イエス様の十字架に向き合う時、一人は徹底的にイエス様の十字架に背いていきます。しかしもう一人は、この十字架を自分のものとしてしっかりと受け留めて信仰を持ちます。彼は洗礼を受けていません。何の意味があるでしょう。彼は心底神様の前に主よ御国に入り給う時我を覚えたまえとイエス様に対する信仰を告白したときに、イエス様ははっきりと、まことにあなたに言います。「あなたは今日、わたしとともにパラダイスにいます」。いる場所がどこであろうと、明確にイエス様を信じた者は、主と一緒にパラダイスにいる。御国に入ることができるという、その保証を私たちは持つことができます。

3、
イエスは、母とそばに立っている愛する弟子を見て、母に「女の方、ご覧なさい。あなたの息子です」と言われた。それから、その弟子に「ご覧なさい。あなたの母です」と言われた。その時から、この弟子は彼女を自分のところに引き取った。ヨハネ192627

 愛する弟子とはヨハネをさして言っているようですね。そして、ヨハネには、マリアを「ご覧なさい。あなたの母です」と言われた。
この時から、この弟子、ヨハネ伝を書いたヨハネは、マリアをイエス様の母マリアを自分のところに引き取った。十字架での贖罪という使命の真只中にありますイエス様です。人としてのイエス様でありながら、ここでお母さんと呼んでいないのです。「女の方」、これを皆さん方はどう思われるでしょうか。

 私が今ここにいるのは、あなたの子どもとしてではない、贖いを為すもの、人々の罪を贖うものとして私はこのように十字架に架かっている。だから私はお母さんの下で育てられたイエスという立場を超えて、「女の方」とマリアを呼ばれた。ここに何とも言えないイエス様の使命に対する思いとともに、この自分の母マリアをヨハネに託すという配慮がある。そこを確認させてください。

 

4、
 三時ごろ、イエスは大声で叫ばれた。「エリ、エリ、レマ、サバクタニ。」これは、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という意味である。 (マタイ2746)

 それまで、イエス様は自分の愛する父なる神様との交わりを一瞬たりとも途絶えさせたことはなかったお方です。それが父なる神様と御子イエス様の関係だったのです。しかし、イエス様が本当に私たちの罪そのものとなられ、神の裁きを一身に受けられた時、神の御子であるお方が、私たちの罪そのものとなってくださったそのときに、このお方から発せられたおことばは、「我が神」でした。お父様と子なるイエス様との関りを超えて、私たちの罪そのものとなられたお方が叫ばれた。この周囲が暗くなったというのは、それまで途絶えたことがなかったイエス様と父なる神様との間の交わりが切れて、ほんとうに暗闇、私はこれをまさに地獄の暗闇だと思うのです。この地獄の暗闇の中から、「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」と地獄の叫びをされた。ほんとにこれが罪のあるがままの私たちが受けねばならないほんとうの姿だったのです。

5、
「わたしは渇く」 (ヨハネ1928)

 私はお救いに与って間もなく丸の内の講壇に仕えておりましたとき、初めての受難週を迎えたときのメッセージが忘れられません。そのとき講壇から語られたのは、「人の苦痛の中で渇きほど苦痛の激しいものはない」ということでした。イエス様が「われ渇く」と仰ったとき、ほんとうの苦痛の頂点におられた。忘れられません。主は私たちのすべての一番の辛さ痛さ苦さ、それを味わってくださった。

6、
「イエスは酸い葡萄酒を受けられると、完了した」と言われた。そして霊をお渡しになった。(ヨハネ1930)

 「完了した」、父の御旨を行うその使命をわたしはすこしも余すことなく完了した、主はこう言われました。そしてこんどはどうですか。イエス様は「父よ」とお呼びになってるのです。お父さん、果たしましたよ。私の試練を果たしました。「父よ」とイエス様はもういちど、お父様との関係を回復されている。

7、
「父よ、わたしの霊をあなたの御手に委ねます。」こういって息を引き取られた。 (ルカ2346)

「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネ316)

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「エッケ・ホモ(この人を視よ」。こう画題に記されているようです。私たちのメソジストの流れのジョン・ウェスレーに非常に大きな影響を与えたツィンツェンドルフという人物がおりました。この人物がジュッセルドルフという街の美術館に行きましたときに、エッケ・ホモと題されている絵を見たのです。「エッケ・ホモ(この人を視よ)」という画題の下に「我は凡て此等の事を汝の爲になせり。汝は我が爲に何をなせしや」と記されていた。この前にたたずんだツィンツェンドルフは、生涯を神に捧げることを決意し、モラービアン派というキリストの仲間たちを作っていきました。このモラービアン派の人々との接触がジョン・ウェスレーに非常に大きな影響を与えたと言われています。

 私は今日のメッセージの終わりに、マリアの油注ぎのことを申し上げました。高価な香油を割ってイエス様の足に注いで髪の毛でぬぐった。ユダが何というもったいないことを、とこれを咎めたとき、イエス様は「この女の為すに任せなさい私の葬りの備えを彼女はしているのです」。為すに任せなさい。「この女のしたことは、この福音が語られるすべてのところで語られる」、こうイエス様は仰いました。私たちこのイエス様の十字架の前にツィンツェンドルフではありませんが、もう一たび身も心も、この問いかけ「我は凡て此等の事を汝の爲になせり。汝我が爲に何をなせしや」に、私たちのすべてをもって、あのベタニヤのマリアのように主にすべてをお捧げし、応答させていただきたいと願うことであります。

 

※画像、音声データは教会からお借りしています。イースターカードは國光先生のご息女A姉が作成してくださいました。
⏰6時更新

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あすはイースター

 あすはイースター。土曜日はいちばん忙しい。日曜の説教掲載のための準備がある。週のはじめに始めても途中他のことに時間を割くと終盤、つま土曜日が忙しくなる。特別な理由、たとえば何かの学び会などがない限りは決まって土曜在宅はそこに理由がある。誰に頼まれているのでもない。自主的に行っているので、いつやめてもどこからも咎められることはないのだが、体力、気力があるうちは続けようと思っている。ピンチヒッターはいない。

 けさのJ-MERO、浪江町で月に1回であったか活動するグループが紹介されていた。立ち上げは佐々木さんであったかと思う。厳しさが増す世の中で賑々しく明るさを振りまいてくれる存在もまた有難い。

⛳20時47分更新

 

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210402 クラシック倶楽部を聴く 音楽は翼に乗って 宮田大(チェロ)×大萩康司(ギター)

人気のチェロ奏者・宮田大とギター奏者・大萩康司が、本物の飛行機の前で演奏!所沢航空発祥記念館で収録映画「紅の豚」から「マルコとジーナのテーマ」(久石譲)ほか ー番組紹介よりー

コメント
大萩康司:はじめて日本でどんな飛行機とか、歴史をさかのぼってきている飛行機の前で演奏するということ自体に、飛行機ってこう常に動いているものなんですけど、そこの中でぴたっと止まって演奏することに不思議な感覚がありました。
宮田大:小学校6年生まで私の夢は小学校のパイロットになることだったですね。こういった形でパイロットとしての夢というのが叶ったのかなあというのはありましたね。
飛行機も色んなサイズ、色合いがあるんですけども、弦楽器もたくさん色んな種類があったりして、そこから生まれる音色とか違うんですけども、言い過ぎになっちゃうかもしれないんですけども、飛行機と対話しているような刺激をもらいながら音楽を作っていったという感じがしますね。
宮田大:もしかしたら映像観てるとお互い顔を合わせているシーンがないかもしれないけれども、もうほんとに視界の中に入っていて、もう一つのボックスの中に二人で居て、そこで音楽を聴きながら共有しているというか。
大萩康司:相手のことを見ていなくともその空気で読み取れたりする瞬間が少しづつ増えて来て、それがとにかく最近とても楽しくなってます。
宮田大:今回いちばん大好きな大萩さんと共演させて頂いて光栄なんですけれども、やはり二人で共演するときのいちばん心がけているというか、とても自分の中で楽しみなことというのが一期一会の音楽というか、パイロットとかもたとえばその場所にいてお客さんを運んだりしているけれども、そこでお客さんとはさよならしてしまうけれども、何かしらそこに思いでとか匂いだったり、いろんなことが残ると思うんですけど、音楽のときも一期一会の世界でふたりで今日はデュエットができたのかなと思いました。

「映画「ロシュフォールの恋人たち」から「キャラバンの到着」」ミシェル・ルグラン:作曲、角田 隆太:編曲
「翼」武満 徹:作曲、福田 進一:編曲
「ギターとチェロのためのソナタ」ハダメス・ニャタリ:作曲
「ブエノスアイレスの秋」アストル・ピアソラ:作曲、角田 隆太:編曲
「ブエノスアイレスの冬」アストル・ピアソラ:作曲、角田 隆太:編曲
「天の三羽の美しい鳥」モーリス・ラヴェル:作曲、大萩 康司:編曲
 (ギター独奏)
「鳥の歌」カタルーニャ民謡:作曲、パブロ・カザルス:編曲
(チェロ独奏)
「オブリヴィオン」アストル・ピアソラ:作曲、つのだ たかし:編曲

🎵所沢航空発祥記念館での収録。新型コロナで記念館が3月いっぱい休館にはいるまえの2月に収録したようだ。大萩と宮田の展示飛行機の初試乗体験も交えて。航空機とギター&チェロ、その狙いは。先ずは日本初のアンリ・フォルマンの展示を背景に「キャラバンの到着」、到着したキャラバンの期待の興奮とざわめき。これが飛び立つ直前のそれに通じるものがあるのか。大萩は飛行機の動きを想像しての事か、その前に静止して演奏する不思議な感覚を語り、宮田は小6まではパイロットになりたかったと。「マルコとジーナ」でゆうゆうと空を飛ぶ。このお二人、演奏中に顔を合わせることはないが、音と雰囲気で互いを確認し合っているのだなとコメントから類推。武満も空となれば翼で心を解放。物思いも載せて楽曲ヒコーキ。白い機体にオレンジの尾翼、胴体にはびしっと横線もようの856を背景にハダメス・ニャタリ。タンゴのエッセンス詰まる「ブエノスアイレスの秋・冬」この背景もアンリ・フォルマン。いつになく心に沁みる「鳥の歌」。「オブリヴィオン」とは「忘却」を意味するとか。
 音楽家が教会や宮廷に招かれるとそれ相応に能力を、創造意欲をかきたてられるものらしいけれども、こういった設定もまた凡人には及ばない何等かを演奏に付加するものかもしれない。航空機発達の時間空間をギターとチェロの響きで悠々と飛びかけた感じが。
 「昔ね、YS11 にのったとき、もう揺れて揺れて怖かった。遺書を書いた方がいいかもと思ったって、恐怖でそんな気持ちのゆとりなんか持てないのよね」。つい最近知人からこんなはなしを聞き、それがまだ記憶に新しいうちにまたこの所沢での収録を。戦争となって飛躍的に技術進歩を遂げた航空機。現在の性能のすばらしさは! といっても乗る機会はない。しかし心の翼、これがあることは飛行技術に優るといえるとよいのだが。
 とにかく気軽な気持ちで、それが、途中ハダメス・ニャタリの曲から気分をがらりと切り替えてみた。曲を聞きながらダンスの振り付け、それは何も私が独自に考え出したものではないが、すでに作り出されたさまざまなタンゴのパターンを思い描きながら聴いて楽しんだ。作曲者自身の土台が深刻めいたところはなく、自由に駆け抜け滑り行く、先に障害物があってそれを回避するために瞬時模索する、そういった曲の感じなのだ。「ブエノスアイレスの秋、冬」でも、ピアソラ独自のタンゴのエッセンスを醸しながら女性の脚がフロアーにのびやかに弧を描くさまを想像し、楽しさが倍加。
 そしてカザルス:編曲の「鳥の歌」、国連本部で演奏された、ピースピースを知らずとも、実にすばらしい演奏。今回も格別に余韻までがまだ胸中にのこる。

 

🎧名曲アルバムはエルガーの「チェロ協奏曲」ジャクリーヌ・デュ・プレがウィグモア・ホールで初演。このチェリストの成り行きもドラマティック。世界的な名声、世界的な名器を2度までも手にしている。バレンボイムと結婚。26歳で発病。41歳で死去。演奏できなかった発病から死までのあいだ、どんな思いで過ごしたであろうか。


⛳写真を載せたかったが、カメラにカードの装填を忘れ気づいたときは名曲アルバムも過ぎていた。どうもカメラの警告を見逃したらしい。続く番組は、空紀行でキリシタン弾圧と五島が紹介されていた。この映像、たとえ現地にいったとしても、このようなパノラマで見ることはできないわけで、素晴らしいと思いながらシャッターを。きれいに撮れてはいないけれども。
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思えばきょうは受難週、イエス・キリストが十字架に架けられた金曜日にあたる。十字架はゴルゴダの丘に3本立てたれた。イエス様の右と左の十字架に架けられたのはどちらも犯罪人だった。そのうちの一人はイエスをののしりいった「おまえはキリストではないか。自分とおれたちを救え」。そしてもう一人の犯罪人はいった「おれたちは自分のしたことの報いを受けているのだから当たり前だ。だが、この方は、わるいことを何もしていない」。そして「イエス様、あなたが御国に入られるときには、私を思いだしてください」というとイエスは彼に「あなたは今日私とともにパラダイスにいます」と約束された。

14時58分更新

 

 

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210401 クラシック倶楽部を聴く パク・キュヒ ラテンの風 ~古民家に響くギターの調べ~

韓国と日本で育ち横浜に住んでいた3歳の時にギターを始める。東京音楽大学を経て、ウィーンとスペインで学ぶ。数多くの国際コンクールで優勝。日本と韓国を拠点に国際的に活躍するギタリスト、パク・キュヒのリサイタル江戸~明治時代に建てられ横浜市の文化財として保存・公開されている、みその公園にある古民家「横溝屋敷」から。201811月収録スペイン&中南米ギター音楽の傑作によるスペシャル・コンサートソナタ(スカルラッティ作曲)ワルツ第3番(バリオス作曲)ソナタ(ヒナステラ作曲)カタルーニャ奇想曲(アルベニス作曲)練習曲(ソル作曲)旅人のソナタ(ブローウェル作曲)ほかジャパンシリーズ ー番組紹介よりー

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パク・キュヒのコメント
 まず最初にお話しいただいたときに、古い民家で撮影するということを聞いて、そもそも野外で演奏したことがあまりなかったので、どういう響きになるかすごく楽しみにしていました。いつもコンサートの前はコンサートホールで演奏するということをイメージしながら練習してるんですけれども、今回来る前まであまりイメージが湧かなくてそういった部分がちょっと心配だったんですけれども、お家で  弾くような感じかなというイメージが湧いたので、そういう感じで演奏できたかなと思っています。
 ヒナステラの「ソナタ」は、アルゼンチンのリズムを使った曲になっています。マランボというのはアルゼンチンの男性が踊るリズムのことで、すごく男性的なかっこ良さを表しています。この曲の聞きどころは、特殊奏法がけっこうある。たとえばギターを弾くだけでなく、板や弦をたたいたり、弦をはじくという奏法が駆使されている楽しい曲かなと。特に4楽章では日本人ギタリストが名付けた奏法があるんですけれども、「猫パンチ」という奏法がはいっていまして、これは猫のように指を丸めて一回たたきます。たたいてラスケアードという一気に弦をはじくという奏法なんですね。これが合わさってリズムを表す、そういう奏法になっています。そこを聴いていただけたらと思います。
 ブローウェル「旅人のソナタ」はこの曲はブラジルの巨匠のオダイル・アサドさんに献呈された曲です。彼がブラジルの方なので、ブラジルをイメージして旅をするような形で、4楽章になっている曲です。スペインに留学していた頃にオダイルさんにレッスンを受ける機会があって、特徴としてはオダイルさんの人柄にすごく似ているかなという感じがしました。彼の言葉でいちばん記憶に残っているのは「この曲はロックン・ロールだ」。オダイルさんはとてもワイルドな方で自由な方なんですね。それがこの音楽にまさに入っていて、その自由さそしてワイルドな感情をもって演奏することを心がけています。

 曲目
「ソナタ ト長調 K.391」スカルラッティ:作曲
☆「アランブラ宮殿の思い出」タレガ作曲
「フリア・フロリダ(舟歌)」バリオス:作曲
「ワルツ 作品8 3」バリオス:作曲
「ワルツ 作品8 4」バリオス:作曲
「ソナタ 作品47ヒナステラ:作曲
「カタルーニャ奇想曲」アルベニス:作曲
「練習曲 ホ短調 作品6 11」ソル:作曲
「旅人のソナタ」ブローウェル:作曲
「愛のロマンス」作者不詳:作曲

 🎵1896年に建てられたという横溝屋敷。横浜にこのような豪農が存在したことの驚き。
この放送を聴くのは3回目。よいものは何度でも。ヒナステラの「ソナタ 作品47」、ブローウェル「旅人のソナタ」、解説を踏まえて興味深く。「アランブラ宮殿の思い出」、「愛のロマンス」、この二つの曲は、ほかにどんな曲があろうとも、他を良い意味で駆逐してしまう。
カメラワークのすばらしさ、演奏のすばらしさは前にも書いたけれども、ギターのラテンの響きが時を超えて16世紀の古民家に届きそこで鳴り、同時にいまのこの古民家のたたずまいに響いているかの不思議さ。

🎧名曲アルバムはブラームスの「大学祝典序曲」。田中良和&東京フィル
ブラームスは列車の旅が好き。
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⛳きのう神奈川の友人から届いた写メールは
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間もなく岩手も満開にと思い、窓外を見やるとこの陽気、きょう咲く桜もあるだろう。

10時56分更新

 

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