« J-MERO & むさしの第31回コンサート(岩手県民会館中ホール) | トップページ | 210329 クラシック倶楽部を聴く 村治佳織 村治奏一 ギター・デュオ・リサイタル1 岡山県津山市公開リサイタル »

きょうのことば「香油を注ぐマリア」

インマヌエル盛岡キリスト教会202103月21()の礼拝メッセージをおつたえいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で48年目のご奉仕をしておられます。

Img153_20210214052501
説教題 『香油を注ぐマリア』  (國光勝美 牧師)
聖書箇所 新約聖書 ヨハネの福音書12章1~11
1さて、イエスは過越の祭りの六日前にベタニアに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。
2 人々はイエスのために、そこに夕食を用意した。マルタは給仕し、ラザロは、イエスとともに食卓に着いていた人たちの中にいた。
3 一方マリアは、純粋で非常に高価なナルドの香油1リトラ取って、イエスの足に塗り、自分の髪の毛でその足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。
4 弟子の一人で、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った。
5 「どうして、この香油を三百デナリで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」
6 彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼は盗人で、金入れを預かりながら、そこに入っているものを盗んでいたからであった。
7 イエスは言われた。「そのままにさせておきなさい。マリアは、わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのです。
8 貧しい人々は、いつもあなたがたと一緒にいますが、わたしはいつも一緒にいるわけではありません。」
9すると、大勢のユダヤ人の群衆が、そこにイエスがおられると知って、やって来た。イエスに会うためだけではなく、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロを見るためでもあった。
10 祭司長たちはラザロも殺そうと相談した。
11 彼のために多くのユダヤ人が去って行き、イエスを信じるようになったからである。

 

<お話し>

きょうはマリアの油注ぎというところに心を留めていきたいと願っています。
 聖書の中には、イエス様にナルドの香油を注いだ出来事は二つあることに気が付かれるでしょう。
 一つは、「罪深い女の油注ぎ」です。それからもう一つは、きょう主題として取り上げております「ベタニヤのマリアの油注ぎ」です。イエス様に香油を注いだご婦人は二人いるのです。油注ぎは全く別々の場所で、そして、別々のときに行われました。最初の「罪深い女の油注ぎ」は、イエス様がパリサイ人の家に招待されたときのことです。パリサイ人がイエス様を招待する、これにはイエス様を陥れてやろうという下心が見え見えです。決して善意で食事に招いたのではありません。その場所はガリラヤの方です。このパリサイ人の家の食事に招かれたイエス様のところに、一人の、聖書で言うとルカの福音書73650節ですけれども、「ある罪深い女が」、とあるのです。38節、「うしろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらイエスの足を涙でぬらし始め、髪の毛でぬぐい、その足に口づけして香油を塗った」。それを見ていたパリサイ人が、もしその男がメシヤだったなら、自分にこんなことをしているのが誰であるのかわかるはずだと苦々しい思いをもっていた。ここのところが今日の主題ではないので、ルカの7章にそういうできごとがあったということを覚えていただきたいと思います。もしこれにひとこと付け加えるとすれば、当時は、女性が公の場所で、プライベートではなくして髪の毛をほどくということは、淫らなことであり、女性はそういうことをするものではない。髪の毛は神様から与えられた女性にとっての光栄のしるしとされておりました。これはコリント人への手紙にも書いてありますけれども、それほどのことでした。だから女性は公の場で髪の毛をほどいて、しかもイエス様の足をぬぐうということは、パリサイ人にとっては、もうふしだらで、とんでもないと見られたに違いないのです。これが一つあります。 

 ところがきょう、私たちが心に留めたいのは、ベタニヤにおける、しかもこれはイエス様があと6日後に十字架にお架かりになる、最後のその十字架に近い1週間のこと。十字架が金曜日とすればちょうど1週間前の金曜日ぐらいでしょうか。イエス様は、このヨハネ12章にある油注ぎ。これが11章にあるマルタとマリアとラザロのできごとに続いて12章に書かれてあるので、私たち、ふつうに意識せずに読みますと、これはベタニヤのマリアの家における出来事であると思い込みやすいのですけれども、ちょっと注意してみましょう。それで、マタイの福音書26613節を読んでみてください。何が違っているのか、何が同じなのか。

6 さて、イエスがベタニヤで、ツァラアトに冒された人シモンの家におられると、
7 ある女の人が、非常に高価な香油の入った小さな壺を持って、みもとにやってきた。そして、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。
8 弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「何のために、こんな無駄なことをするのか。
9 この香油なら高く売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」
10 イエスはこれを知って彼らに言われた。「なぜこの人を困らせるのですか。わたしに良いことをしてくれました。
11 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいます。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではありません。

12 この人はこの香油をわたしのからだに注いで、わたしを埋葬する備えをしてくれたのです。
13 まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」
 

 このようにマタイの福音書では、ヨハネの12章に記されているマリアの油注ぎがベタニヤでのことであり、たしかに同じベタニヤでのことなのですけれども、このツァラアトと訳されている、これは重い皮膚病、昔の聖書ですとらい病と訳されていた重い病のことでありますが、「ツァラアトに冒された人シモンの家におられる」とありますので、正確にいうと、マリア、マルタ、ラザロの家ではなく、ツァラアトに冒された人シモンの家での出来事だということは心に留めておきたいと思うのです。 

それからもう一つ、今度はマルコの福音書1439節。

3 さて、イエスがベタニヤで、ツァラアトに冒された人シモンの家におられたときのことである。食事をしておられると、ある女の人が、純粋で非常に高価なナルドの油の入った小さな壺を持って来て、その壺を割り、イエスの頭に注いだ。
4 すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。「何のために、香油をこんなに無駄にしたのか。
5 この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」そうして、彼女を厳しく責めた。
6 すると、イエスは言われた。「彼女を、するままにさせておきなさい。なぜ困らせるのですか。わたしのために、良いことをしてくれたのです。
7 貧しい人々は、いつもあなたがたと一緒にいます。あなたがたは望むとき、いつでも彼らに良いことをしてあげられます。しかし、わたしは、いつもあなたがたと一緒にいるわけではありません。
8 彼女は、自分にできることをしたのです。埋葬に備えて、わたしのからだに、前もって香油を塗ってくれました。
9 まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」


20210323-183200

 ここにマタイ267
7 ある女の人が、非常に高価な香油の入った小さな壺を持って、みもとにやってきた。そして、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。
それからマルコ143
3 さて、イエスがベタニヤで、ツァラアトに冒された人シモンの家におられたときのことである。食事をしておられると、ある女の人が、純粋で非常に高価なナルドの油の入った小さな壺を持って来て、その壺を割り、イエスの頭に注いだ。
そして同じところ、ヨハネ123節のおことばが、
3 一方マリアは、純粋で非常に高価なナルドの香油1リトラ取って、イエスの足に塗り、自分の髪の毛でその足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。

この中でマルコマルコ143節には「その壺を割り」とあるのです。今回この説教の準備をさせていただきながら、使ったナルドの香油はどれぐらいの値あるものだろうかと資料を調べました。ナルドの香油、これがたいへん高価なもので300gが普通の人の1年間の給料とほぼ同じ値段です。この香油の油は長い間保存していると香りが逃げてしまう。そこで堅く焼き詰まった壺に入れて、これを開けたり閉めたりというようなことはしないそうです。蓋を密閉しておく。そして必要なときは使う分だけ取ってあとは残しておくというようなことはしない。それをぜんぶ注ぎだす、そういう用い方をする香油であると解説がありました。そうか、マリアは壺を割ってぜんぶを、自分の持っているすべてを惜しまずにイエス様の頭に注いだのだ。

20210323-183210

私はここにマリアの油注ぎの意味を改めて考えました。それは、愛する弟ラザロをかくも死からよみがえらせてくださったお方、そして、このお方にマリアは自分の持っている最高のものを砕いて、彼女は髪の毛を解いてイエス様の足を拭いた。先ほども申しました通り、昔、女性の髪の毛は神から与えられた冠である、彼女はそれを惜しみなくイエス様のもとに注ぎました。
 ところがどうでしょう。一方イスカリオテのユダは、なんでこんなもったいないことをするんだ。貧しい人たちに分け与えることができたじゃないか。ところがヨハネの方の記述を見ると、ユダはこっそりとイエス様から預かっていたお財布をごまかしていた。貧しい人たちにとほんとうは思ってはいない。マタイ、マルコを見ますと、ユダだけではない、他の弟子たちも同じように何人かがマリアの行動を咎めていることがわかります。

  ここで、私は、イスカリオテのユダについて、ホセア1112節に思い到ります。
文語訳 ユダは神と信ある聖者とに屬きみつかずみ漂蕩をれり

 この場合のユダというのはイスカリオテのユダのことをいってるのではない。イスラエルの部族であるユダ部族のことです。たまたま同じ名前です。ホセアはここで、ユダは神とその預言者とともにありながら、神と預言者にぴったりついてるのではない。だからイスカリオテのユダも、イエス様が良いお方だということはわかっている。だけれども、このお方にぜんぶを注ぎ出すことができない。「つきにつかずに揺蕩いおれり」だというこのホセアのことば、これがイスカリオテのユダのようです。そして気をつけませんと、これが私たちの心の在り方であることがある。ユダがほんとうに悪い人なら、さっさとイエス様のもとから離れてしまうはずです。しかしユダはぎりぎりのところまでイエス様について行きています。それが即ち「つきにつかずに揺蕩いおれり」なのです。そしてこのとき、ユダはこのマリアの行動を理解できなかった。神様への愛というものへの無知、無感覚。マリアのそれを浪費としか理解できなかった。このように見ることができます。そして、それに対してイエス様はどのような応答をなさったのでしょうか。

20210323-183221 

イエス様は、「マリアは、わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのです」

 あと1週間後、イエス様があの十字架の贖いを為し葬られるのだと、それをマリアはどうして気づいたのかわかりません。しかしイエス様に近くあって、イエス様のご様子を洞察力をもって見ながら、このお方にすべてをお捧げするのは今このときであると見抜いたのでしょう。イエス様はマリアの油注ぎを受けました。マリアの愛はすべてを注ぎきる愛でした。イエス様は次のように、この行為に最大の評価をくださっています。
9 まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。
 マリアは自分の持っているものすべてを惜しみなくお捧げしました。これこそイエス様に従う私たちの鏡です。あるべきものを、それをイエス様は受け入れて評価してくださいました。
 イエス様はこの朝、マリアの行いをとおして、私たちに、わたしはあなたのためにすべてを捧げました。さあ、あなたはどうですか。このマリアの行いをユダのように見る私であるのか、それとも、イエス様が評価してくださるような生き方あり方をする者でありましょうか。私たちへの語りかけとして、このメッセージを受け留めていただきたいと思っております。

 

※けさは5018字。音声データ、画像は教会からお借りしています。⏰6時20分更新

|

« J-MERO & むさしの第31回コンサート(岩手県民会館中ホール) | トップページ | 210329 クラシック倶楽部を聴く 村治佳織 村治奏一 ギター・デュオ・リサイタル1 岡山県津山市公開リサイタル »

教会」カテゴリの記事

コメント

コメントを書く



(ウェブ上には掲載しません)


コメントは記事投稿者が公開するまで表示されません。



« J-MERO & むさしの第31回コンサート(岩手県民会館中ホール) | トップページ | 210329 クラシック倶楽部を聴く 村治佳織 村治奏一 ギター・デュオ・リサイタル1 岡山県津山市公開リサイタル »