« 2021年2月 | トップページ | 2021年4月 »

2021年3月

210331 クラシック倶楽部を聴く ジャパンシリーズ Takemitsu Alon ~武満徹~没後25年

草月会館 イサム・ノグチの石庭に静かに響く武満徹の音楽「巡り」「海へ」など代表作から武満の愛したビートルズまでフルート工藤重典・ギター鈴木大介2021年収録 武満徹作曲「巡りーイサム・ノグチの追悼に」(フルート工藤重典)武満徹編曲「ギターのための12の歌」全曲・「ロンドンデリーの歌」「オーバー・ザ・レインボー」「サマータイム」「早春賦」「星の世界」「ミッシェル」「ヘイ・ジュード」「イエスタデイ」他(ギター鈴木大介)「海へ」(アルト・フルート工藤重典 ギター鈴木大介)2021年草月会館 花と水と石の広場「天国」(イサム・ノグチ作)で収録ー番組紹介よりー

Dsc06925-2 Dsc06930-2

コメント
工藤重典:武満さんが雄大な海を鯨のような頑健な身体を持って自由に泳ぎ回りたいんだと仰ってたように、時間とか空間とかいったものをすべて超えて解き放たれた命のありようというか、そういったものが非常に凝縮された音楽ですね。改めてその一つ一つの音楽が自分にどんなものをもたらしてくれるのかということを皆さんがとてもニュートラルな状態と言うか真摯な気持ちで接しておられるなというのは、コロナ禍になってからの自分の演奏体験を通じて強く感じるところです。
そうなってくるとこの起承転結というものがあるようなないような終わり方も、まあ、いわゆるブラボーって声がかけられない、ジャンと終わらない曖昧模糊とした終わり方の多い、武満さんの音楽というのは。すごくそれを目的として音楽を聴かないという状態においては真実の姿が皆さんに受け取ってもらえると思います。
鈴木大介:リズムとかそういうのもすごく複雑なんですけど、彼の書いている作品はだいたいすごく複雑ですね。だけどなんか、その中のこう僕らが探し求めているものがまた発見されるんじゃないかなあという気がするんです。考古学の  が一生懸命掘り起こして
何か見つけるみたいに、わかってんだけどまだ何にも出てこないなあみたいな感じで一所懸命やるでしょ、ああいう感じでこの作品を掘り下げて一生懸命えんそうしたり気持ちを入れて、ま、本番も重ねていくと、独特な精神性の違うもの、深いものというんですかね、出てくるような気がする。それが僕たちを支えるような気もして、これからたぶん、これからの時代、別な意味をもって接するということにだんだんなってくる。僕はそう思います。
鈴木大介:「ギターのための12の曲」、何でも書ける人だったですね、武満さんは。そういうのが一切ご自身のコンサートピースの中には顔を出さないんですけれども、非常にジャズでも何でも書けた。だからその割烹なり料亭をやってる世界的に有名な板前さんが、実は中華作ってもステーキ焼いても一流だみたいなはなしですね。そういうバラエティーに富んだ方なんですよ。12の歌というのは、ギタリストの荘村清さんのために武満さんがアレンジした12の世界中のポピュラーソングですね、とはいえ、世界中から集めたのに、なぜかビートルズが4曲も入っている。どんだけビートルズが好きなんだという、ほんとうにビートルズが好きでらした。一つひとつの曲に、その曲に対する思い入れとか愛情が感じられて、その一曲一曲のもとの世界観というか、原曲の世界観を大切に思ってらっしゃるんだなということがわかります。特にギターの曲は、武満さんの編曲作品もそうですけれども、オリジナル作品も非常にロマンティックな部分が強いのでそういった映画音楽の巨匠武満さん、そして、現代音楽の武満さん、前衛芸術の武満さんという色々なn武満さんがちょうどうまくバランスをよく顔をのぞかせている、武満さんの音楽の中でも最も、ある意味では武満さんらしい音楽がギターのための音楽だと思います。

 

曲目
「巡り」
 工藤重典フルート演奏。イサム・ノグチへの追悼曲
ギターのための12の曲
 すべて武満の編曲版。クラシックギターが「今日」とふれあい生きたものとなるなるようにとの願いがこもる。
1
、ロンドンデリーの歌 (アイルランド民謡)
2
、オーバー・ザ・レインボー (ハロルド・アーレン作曲)
3
、サマー・タイム (ジョージ・ガーシュイン作曲)
4
、早春賦 (中田章作曲)
5
、失われた恋 (ジョゼフ・コスマ作曲)
6
、星の世界 (チャールズ・C・コンヴァース作曲)
7
、シークレット・ラヴ (サミー・フェイン作曲)
8
、ヒア・ゼア・アンド・エヴリウェア(ジョン・レノン/ポール・マッカトニー作曲)
9
、ミッシェル(ジョン・レノン/ポール・マッカトニー作曲)
10
、ヘイ・ジュード(ジョン・レノン/ポール・マッカトニー作曲)
11
、イエスタディ(ジョン・レノン/ポール・マッカトニー作曲)
12
、インター・ナショナル(ピエール・ドジェイテール作曲)
海へ
 ギターとフルートのための曲。環境保護団体からのリクエストにより作曲。
1
The Night
2
Moby Dick 白鯨
 ハーマン・メルヴィルの小説「白鯨」に因む
3
Cope Cod 鱈岬
 アメリカのケープゴットに因む

🎵「巡り」輪廻転生を思い巡らしながら聴く。フルートがいつの間にか尺八に重なるのだけれども。魂が次の嵌りどころを求め揺らぎながら旅しているような。「ギターのための12の曲」、武満のうちにある音楽の蔵に広く深く網を差し掛け下ろしたときに、武満の感性に引っ掛かってきた曲が手繰り寄せられての12曲かと。編曲により穏やかな揺らめき懐かしさ、色彩感によってリニューアルされた感じが。この曲目の中でちょっと驚きだったのは「インターナショナル」。労働歌、革命歌の系列。この歌詞をたどって、武満の思いを知ろうとしてみた。

🎧名曲アルバム。プッチーニの歌劇「ジャンニ・スキッキ」から

Dsc06947-2 「フィレンツェは花咲く木のように」テノールは与儀巧
「わたしの父さん」砂川涼子。けさは砂川さんの優しいソプラノが心に染みて。

⛳ついでに今朝5時の自宅周辺の「月あかり」写真
Dsc06923

11時11分更新

| | コメント (0)

210330 クラシック倶楽部を聴く グザヴィエ・ド・メストレ(ハープ)ルセロ・テナ(カスタネット)テュオ

テナのカスタネットが奏でる歌をメストレのハープがやさしく包みこむ。スペインの音楽に新しい息吹を感じさせるデュオ。ふたりの放つ華やかな音が聴衆を引き込んでいく。 テナのカスタネットが奏でる歌をメストレのハープがやさしく包みこむ。スペインの音楽に新しい息吹を感じさせるデュオ。ふたりの放つ華やかな音が聴衆を引き込んでいく。【出演】グザヴィエ・ド・メストレ(ハープ)ルセロ・テナ(カスタネット)【曲目】古いソルチコ(グリーディ作曲)赤い塔(イサーク・アルベニス作曲)以上メストレ編曲 ハープ・ソナタニ長調(ソレール)ほか【収録】2019年10月8日 紀尾井ホールー番組紹介よりー

Dsc06875-2

グザヴィエ・ド・メストレ:フランス出身。9歳からハープを学び、16歳でパリ・ハープコンクールで優勝。1996年バイエルン放送交響楽団のソロ・ハープ奏者として入団。1998USA国際ハープコンクールで優勝したのちに、25歳の若さでウィーン・フィルハーモニー管弦楽団のソロ・ハープ奏者に就任。ソリストとしても世界各地で活躍。高い演奏技術が生む情感あふれる豊かな響きで聴衆を魅了。
ルセロ・テナ:メキシコ出身。舞踏家としてメキシコとスペインで活躍したのちに、カスタネット奏者として世界中で活動。カスタネットをオーケストラ曲のソロ楽器として演奏する独自のスタイルを生み出し、カスタネット・ソリストと呼ばれる。これまでのロンドン・フィルハーモニー管弦楽団、スペイン国立管弦楽団など多くのオーケストラと共演。世界各地で話題となる。

コメント(概要)
グザヴィエ・ド・メストレ:大好きなスペイン音楽を録音したいと思いました。ハープはスペイン音楽と相性の良い楽器です。旋律を奏でるハープはカスタネットと絶妙な対比を生み出します。カスタネットの躍動感と色彩が理想的なハープとのデユオとなります。ルセロと共演するのは心強いことです。彼女は曲を熟知しているので、頼りになる存在だとわかっていました。だからふたりで音楽を作るのは当然なことです。予想以上の成果がありました。
ルセロ・テナ:彼は古典的なギター曲をハープに編曲しています。それらはとてもすばらしいです。だから彼とデュオを結成しました。お互いにとてもうまくいっています。
グザヴィエ・ド・メストレ:ルセロのカスタネットはいろいろな音が出ます。打楽器ではなく歌うのです。今回は曲名がスペインの地方や町の名なので音楽で旅をしているようです。演奏会では皆さんをすばらしい旅に連れ出しスペインの情緒や風景を感じてもらいたいです。
ルセロ・テナ:彼と共演できるのは、光栄で嬉しいことです。
私は舞踊家としてさまざまなスペインのダンスを踊っていました。それはとてもよい時代で幸せでした。以前から私はカスタネットに愛着がありました。だから踊るのをやめてカスタネットに集中しました。今はカスタネットの演奏に幸せを感じています。

 

曲目
マテオ・アルベニス:ピアノ・ソナタ ニ長調 Op.13*
ヘスース・グリーディ:古いソルチコ
イサーク・アルベニス:12の性格的な小品集Op.92より 第12「赤い塔」*
イサーク・アルベニス:スペイン組曲第1 Op.47より
          第1「グラナダ」          
イサーク・アルベニス:スペイン組曲第2 Op.97より
          2「サラゴサ」
イサーク・アルベニス:スペイン組曲第1 Op.47より
          第5「アストゥリアス」*
アントニオ・ソレール:ハープ・ソナタ ニ長調*
エンリケ・グラナドス:スペイン舞曲集 Op.37より 第5「アンダルーサ」*
マヌエル・デ・ファリャ/マルセル・グランジャニー編:歌劇《はかなき人生》より スペイン舞曲第1*
*
はカスタネットとのデュオ

🎵スペイン音楽に通じるお二方の共演。カスタネットという楽器、実は楽器の仲間だとも思ってはいなかった。それがテナの経歴から、世界の名だたるオーケストラとの共演を果たしている。メストレが「テナとの共演は予想以上の成果をあげた」といっていたが、聴衆の反応という以上に音楽世界観が拡張されたといったことかと。はじめは何かそぐわない感じが。ソレールの「ハープ・ソナタ ニ長調」のあたりで、カスタネットが遠景として響くか、それとも近景のように、それも魂のどこからか湧き出るように響くのかを聴き分けようとしてみた。「古いソルチコ」や「サラゴサ」のハープのソロはギターでこの曲を聴くよりも優しく穏やかで深いのだが、これがカスタネットとのデュオとなると、カスタネットが有無をいわさぬ響き、ときとしては傍尺若無人に聴こえもする。カスタネットという楽器の自己主張の強さを知らされる。たぶん楽譜はなく即興演奏、あうんの呼吸での即興演奏であるかと思いながらソレールの「ハープ・ソナタ ニ長調」を聴いてみると、リズムの近似性からか、何か両者が風土に自然に相和している、互いの機微を掴み巧みな即興が繰り広げられていると。ハープ奏者が男性であることも意外だったけれども、異色のデユオ。一般の楽器からは作曲者により近づこう、或いは試行錯誤、幾多の研鑽の結果としての響きが感じられるが、カスタネットからは他の何ものにも左右されない動かざる確信、これぞわたしの魂と湧き上がるような情念も感じられる。それと同時にハープの繊細な部分にも繊細に寄り添える打ち方にも気づかされた。

🎧名曲アルバムは「時には母のない子のように」。アメリカ民謡。編曲、狭間美帆。
ソプラノ三理恵 ピアノ佐藤浩一 ベース 井上陽介
Dsc06911-2

南北戦争後に黒人たちの高等教育のためにフィスク大学が設立されたが、この拡充の資金のためにフィクス・ジュビリー・シンガーズが結成され賛美歌にアレンジされた黒人霊歌を携え全米を巡業。英女王に御前演奏も。これらの収益でホールが建てられた。

⛳黄砂の心配のもとで10時3分更新。

| | コメント (0)

210329 クラシック倶楽部を聴く 村治佳織 村治奏一 ギター・デュオ・リサイタル1 岡山県津山市公開リサイタル

日本を代表する姉弟ギター・デュオによる繊細な響き。映画音楽、懐かしい日本のメロディー、そしてギターの古典作品まで。岡山県津山市での公開収録の模様をご紹介。 【曲目】映画「戦場のメリークリスマス」からMerry Christmas Mr.Lawrence(坂本龍一作曲)、映画「ミッション」から「ガブリエルのオーボエ」(モリコーネ作曲)、映画「ひまわり」からテーマ曲「ひまわり」(マンシーニ作曲)、映画「プライドと偏見」から「夜明け」(マリアネッリ作曲)、ラプソディー・ジャパン(藤井眞吾作曲)ほか【収録】2020年12月11日 津山文化センター大ホール
Dsc06824-2

村治佳織は3歳でギターを始める。幼いころから数々のコンクールで優勝。15歳デビュー。高校卒業後パリのエコール・ノルマルに留学。現在は国内外のオーケストラト共演。弟の村治奏一も4歳でギターを始める。その後姉と同様に数々のコンクールで優勝。中学卒業後アメリカに渡り、マンハッタン音楽院で学ぶ。オーケストラとの共演で世界の舞台で活躍する一方、作曲家としても活躍。

コメント
佳織:津山は直接知っている人が誰もいないなと思ったんですけれどもすごくお世話になっている方が津山のご出身だと思ってご連絡したら、何とこの文化センターが建つ前の第一小学校ご卒業の方で、すごくご縁を感じました。
奏一:石垣だけが当時のままの状態で残ってるんですよね。あれを見ながら佳織さんと坂を上って来て、ちょうど鐘が鳴ってたんですけど、これから弾く鐘の情景の曲、その響きを再現出来たらなと聴いておりました。
やっぱり制限が掛かっていたなかで、ネットを通じてのコミュニケーションというのはあったんですけれども、やっぱりこういう場所に来るとそこで演奏を待っていてくださっているお客様もいて、やっぱりスタッフの方々もいらっしゃいますよね。これまで当たり前と思っていたことにもういちどそのすばらしさに気付くことができて、そこはやっぱり、今回ここに来て思わされたところですね。
佳織:ここにお住まいの方も刺激を受けて、私たちも。双方が刺激を受けて日常の生活に戻っていくというそのプロセスがほんとうに好きなので、今回もありがたいなと思っています。
映画音楽とクラシックと日本の曲というのを世界旅行でしていただけるようなプログラムになっているかなあと思います。
奏一:やはりクラシックギターそのものがまだ比較的新しい楽器で100年ぐらいしか経っていない。その中で色々な編曲作品を取り入れた作品なので、「ひまわり」にしてもギターの繊細さですとか一台でいろんな表現を重ねていくことができる良さ強みを、ギターの曲ではないんですが、強みを発揮できる作品だなあと、今回は取り入れてみました。
佳織:映画音楽は今から20年ぐらい前から取り入れ始めたジャンルなんですけれども。やはち、クラシックという柱があって、そのうえで音楽を表現するというのは、すごく音楽の豊かさを自分も感じられるし、お客様との距離も近づくような感じがあって、映画音楽ってシーンが明確にあるので、お客様の頭の中で浮かぶシーンと私たち演奏家が浮かべるシーンと一致する楽しさというのがあると思うんですよね。
きょう演奏する「ガブリエルのオーボエ」もあたたかい曲ですので心をこめて演奏します。
佳織:最後の曲「ラプソディー・ジャパン」、いろいろな曲がはいっているので、じっくりとお聴きいただけると思います。
奏一:「ラプソディー・ジャパン」、ラプソディというのは自由な組曲、狂詩曲というんですけども、日本の色々なメロディを使った組曲になってます。その中に「隅田川」がありますが、我々の地元、実は隅田川が流れてるので、何となく親近感が。で、その後、色々なメロディーもあります。
佳織:「ずいずいずっころばし」とかね。で、最後は「ふるさと」で終わります。今回も泊まっているホテルからちょうど川と山が見えて、「ふるさと」にぴったりな光景だなと思って、きょうはその津山の光景を思い出しながら、朝見た光景を思い出しながら最後を演奏できたらなと思っています。
色々な、ギターをかき鳴らす奏法も出てきますし、ハーモニスクという弦、高い音が出る奏法も出てきますし、たっぷりと、こうやはり自然に恵まれた場所にご縁があって生まれてきたんだなということを、是非皆さんにも実感していただける時間になったらいいなと思います。
奏一:僕らにとっての「ふるさと」というのは、こういうステージで演奏することでもありますから、またこうやって舞台で演奏できるというありがたみを感じながら。
佳織:そうですね。ステージもふるさとの一つと言えるかもしれませんね。 


曲目
☆対話風小二重奏曲 作品34 第2から ロンド (カルッリ作曲)
☆映画「ミッション」から「ガブリエルのオーボエ」(モリコーネ作曲)
☆映画「戦場のメリークリスマス」からMerry Christmas Mr.Lawrence(坂本龍一作曲)
☆映画「ひまわり」からテーマ曲「ひまわり」(マンシーニ作曲)
☆映画「プライドと偏見」から「夜明け」(マリアネッリ作曲)
☆ラプソディー・ジャパン(藤井眞吾作曲


🎵藤井眞吾の「ラプソディー・ジャパン」にこめられた日本の心の原風景。季節柄というのではないように思うが、この「さくら」が演奏の効果もあってかじわりと。「隅田川」細やかにきららかにちょっと逸脱して流れそうにも。「通りゃんせ」。時には現代感覚の旋律にものって。「かごめかごめ」。「浜辺のうた」。「ずいずいずっころばし」。もうふだんには滅多に思いだすこともないメロディーたち。ああ、まだ確かにちゃんとそこに居たのね、そんな感じで記憶から顔を出してくれる。そして311と切りはなしては思いだすことができない「ふるさと」。
 演奏するその土地を演奏者が散策し語る。その土地にも親しみが。

🎧名曲アルバム。ベルリオーズ「幻想交響曲」第一楽章。飯森&東京フィル

Dsc06829-2

⛳17時53分更新。

| | コメント (0)

きょうのことば「香油を注ぐマリア」

インマヌエル盛岡キリスト教会202103月21()の礼拝メッセージをおつたえいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で48年目のご奉仕をしておられます。

Img153_20210214052501
説教題 『香油を注ぐマリア』  (國光勝美 牧師)
聖書箇所 新約聖書 ヨハネの福音書12章1~11
1さて、イエスは過越の祭りの六日前にベタニアに来られた。そこには、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。
2 人々はイエスのために、そこに夕食を用意した。マルタは給仕し、ラザロは、イエスとともに食卓に着いていた人たちの中にいた。
3 一方マリアは、純粋で非常に高価なナルドの香油1リトラ取って、イエスの足に塗り、自分の髪の毛でその足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。
4 弟子の一人で、イエスを裏切ろうとしていたイスカリオテのユダが言った。
5 「どうして、この香油を三百デナリで売って、貧しい人々に施さなかったのか。」
6 彼がこう言ったのは、貧しい人々のことを心にかけていたからではなく、彼は盗人で、金入れを預かりながら、そこに入っているものを盗んでいたからであった。
7 イエスは言われた。「そのままにさせておきなさい。マリアは、わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのです。
8 貧しい人々は、いつもあなたがたと一緒にいますが、わたしはいつも一緒にいるわけではありません。」
9すると、大勢のユダヤ人の群衆が、そこにイエスがおられると知って、やって来た。イエスに会うためだけではなく、イエスが死人の中からよみがえらせたラザロを見るためでもあった。
10 祭司長たちはラザロも殺そうと相談した。
11 彼のために多くのユダヤ人が去って行き、イエスを信じるようになったからである。

 

<お話し>

きょうはマリアの油注ぎというところに心を留めていきたいと願っています。
 聖書の中には、イエス様にナルドの香油を注いだ出来事は二つあることに気が付かれるでしょう。
 一つは、「罪深い女の油注ぎ」です。それからもう一つは、きょう主題として取り上げております「ベタニヤのマリアの油注ぎ」です。イエス様に香油を注いだご婦人は二人いるのです。油注ぎは全く別々の場所で、そして、別々のときに行われました。最初の「罪深い女の油注ぎ」は、イエス様がパリサイ人の家に招待されたときのことです。パリサイ人がイエス様を招待する、これにはイエス様を陥れてやろうという下心が見え見えです。決して善意で食事に招いたのではありません。その場所はガリラヤの方です。このパリサイ人の家の食事に招かれたイエス様のところに、一人の、聖書で言うとルカの福音書73650節ですけれども、「ある罪深い女が」、とあるのです。38節、「うしろからイエスの足もとに近寄り、泣きながらイエスの足を涙でぬらし始め、髪の毛でぬぐい、その足に口づけして香油を塗った」。それを見ていたパリサイ人が、もしその男がメシヤだったなら、自分にこんなことをしているのが誰であるのかわかるはずだと苦々しい思いをもっていた。ここのところが今日の主題ではないので、ルカの7章にそういうできごとがあったということを覚えていただきたいと思います。もしこれにひとこと付け加えるとすれば、当時は、女性が公の場所で、プライベートではなくして髪の毛をほどくということは、淫らなことであり、女性はそういうことをするものではない。髪の毛は神様から与えられた女性にとっての光栄のしるしとされておりました。これはコリント人への手紙にも書いてありますけれども、それほどのことでした。だから女性は公の場で髪の毛をほどいて、しかもイエス様の足をぬぐうということは、パリサイ人にとっては、もうふしだらで、とんでもないと見られたに違いないのです。これが一つあります。 

 ところがきょう、私たちが心に留めたいのは、ベタニヤにおける、しかもこれはイエス様があと6日後に十字架にお架かりになる、最後のその十字架に近い1週間のこと。十字架が金曜日とすればちょうど1週間前の金曜日ぐらいでしょうか。イエス様は、このヨハネ12章にある油注ぎ。これが11章にあるマルタとマリアとラザロのできごとに続いて12章に書かれてあるので、私たち、ふつうに意識せずに読みますと、これはベタニヤのマリアの家における出来事であると思い込みやすいのですけれども、ちょっと注意してみましょう。それで、マタイの福音書26613節を読んでみてください。何が違っているのか、何が同じなのか。

6 さて、イエスがベタニヤで、ツァラアトに冒された人シモンの家におられると、
7 ある女の人が、非常に高価な香油の入った小さな壺を持って、みもとにやってきた。そして、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。
8 弟子たちはこれを見て、憤慨して言った。「何のために、こんな無駄なことをするのか。
9 この香油なら高く売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」
10 イエスはこれを知って彼らに言われた。「なぜこの人を困らせるのですか。わたしに良いことをしてくれました。
11 貧しい人々はいつもあなたがたと一緒にいます。しかし、わたしはいつも一緒にいるわけではありません。

12 この人はこの香油をわたしのからだに注いで、わたしを埋葬する備えをしてくれたのです。
13 まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、この福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」
 

 このようにマタイの福音書では、ヨハネの12章に記されているマリアの油注ぎがベタニヤでのことであり、たしかに同じベタニヤでのことなのですけれども、このツァラアトと訳されている、これは重い皮膚病、昔の聖書ですとらい病と訳されていた重い病のことでありますが、「ツァラアトに冒された人シモンの家におられる」とありますので、正確にいうと、マリア、マルタ、ラザロの家ではなく、ツァラアトに冒された人シモンの家での出来事だということは心に留めておきたいと思うのです。 

それからもう一つ、今度はマルコの福音書1439節。

3 さて、イエスがベタニヤで、ツァラアトに冒された人シモンの家におられたときのことである。食事をしておられると、ある女の人が、純粋で非常に高価なナルドの油の入った小さな壺を持って来て、その壺を割り、イエスの頭に注いだ。
4 すると、何人かの者が憤慨して互いに言った。「何のために、香油をこんなに無駄にしたのか。
5 この香油なら、三百デナリ以上に売れて、貧しい人たちに施しができたのに。」そうして、彼女を厳しく責めた。
6 すると、イエスは言われた。「彼女を、するままにさせておきなさい。なぜ困らせるのですか。わたしのために、良いことをしてくれたのです。
7 貧しい人々は、いつもあなたがたと一緒にいます。あなたがたは望むとき、いつでも彼らに良いことをしてあげられます。しかし、わたしは、いつもあなたがたと一緒にいるわけではありません。
8 彼女は、自分にできることをしたのです。埋葬に備えて、わたしのからだに、前もって香油を塗ってくれました。
9 まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。」


20210323-183200

 ここにマタイ267
7 ある女の人が、非常に高価な香油の入った小さな壺を持って、みもとにやってきた。そして、食卓に着いておられたイエスの頭に香油を注いだ。
それからマルコ143
3 さて、イエスがベタニヤで、ツァラアトに冒された人シモンの家におられたときのことである。食事をしておられると、ある女の人が、純粋で非常に高価なナルドの油の入った小さな壺を持って来て、その壺を割り、イエスの頭に注いだ。
そして同じところ、ヨハネ123節のおことばが、
3 一方マリアは、純粋で非常に高価なナルドの香油1リトラ取って、イエスの足に塗り、自分の髪の毛でその足をぬぐった。家は香油のかおりでいっぱいになった。

この中でマルコマルコ143節には「その壺を割り」とあるのです。今回この説教の準備をさせていただきながら、使ったナルドの香油はどれぐらいの値あるものだろうかと資料を調べました。ナルドの香油、これがたいへん高価なもので300gが普通の人の1年間の給料とほぼ同じ値段です。この香油の油は長い間保存していると香りが逃げてしまう。そこで堅く焼き詰まった壺に入れて、これを開けたり閉めたりというようなことはしないそうです。蓋を密閉しておく。そして必要なときは使う分だけ取ってあとは残しておくというようなことはしない。それをぜんぶ注ぎだす、そういう用い方をする香油であると解説がありました。そうか、マリアは壺を割ってぜんぶを、自分の持っているすべてを惜しまずにイエス様の頭に注いだのだ。

20210323-183210

私はここにマリアの油注ぎの意味を改めて考えました。それは、愛する弟ラザロをかくも死からよみがえらせてくださったお方、そして、このお方にマリアは自分の持っている最高のものを砕いて、彼女は髪の毛を解いてイエス様の足を拭いた。先ほども申しました通り、昔、女性の髪の毛は神から与えられた冠である、彼女はそれを惜しみなくイエス様のもとに注ぎました。
 ところがどうでしょう。一方イスカリオテのユダは、なんでこんなもったいないことをするんだ。貧しい人たちに分け与えることができたじゃないか。ところがヨハネの方の記述を見ると、ユダはこっそりとイエス様から預かっていたお財布をごまかしていた。貧しい人たちにとほんとうは思ってはいない。マタイ、マルコを見ますと、ユダだけではない、他の弟子たちも同じように何人かがマリアの行動を咎めていることがわかります。

  ここで、私は、イスカリオテのユダについて、ホセア1112節に思い到ります。
文語訳 ユダは神と信ある聖者とに屬きみつかずみ漂蕩をれり

 この場合のユダというのはイスカリオテのユダのことをいってるのではない。イスラエルの部族であるユダ部族のことです。たまたま同じ名前です。ホセアはここで、ユダは神とその預言者とともにありながら、神と預言者にぴったりついてるのではない。だからイスカリオテのユダも、イエス様が良いお方だということはわかっている。だけれども、このお方にぜんぶを注ぎ出すことができない。「つきにつかずに揺蕩いおれり」だというこのホセアのことば、これがイスカリオテのユダのようです。そして気をつけませんと、これが私たちの心の在り方であることがある。ユダがほんとうに悪い人なら、さっさとイエス様のもとから離れてしまうはずです。しかしユダはぎりぎりのところまでイエス様について行きています。それが即ち「つきにつかずに揺蕩いおれり」なのです。そしてこのとき、ユダはこのマリアの行動を理解できなかった。神様への愛というものへの無知、無感覚。マリアのそれを浪費としか理解できなかった。このように見ることができます。そして、それに対してイエス様はどのような応答をなさったのでしょうか。

20210323-183221 

イエス様は、「マリアは、わたしの葬りの日のために、それを取っておいたのです」

 あと1週間後、イエス様があの十字架の贖いを為し葬られるのだと、それをマリアはどうして気づいたのかわかりません。しかしイエス様に近くあって、イエス様のご様子を洞察力をもって見ながら、このお方にすべてをお捧げするのは今このときであると見抜いたのでしょう。イエス様はマリアの油注ぎを受けました。マリアの愛はすべてを注ぎきる愛でした。イエス様は次のように、この行為に最大の評価をくださっています。
9 まことに、あなたがたに言います。世界中どこでも、福音が宣べ伝えられるところでは、この人がしたことも、この人の記念として語られます。
 マリアは自分の持っているものすべてを惜しみなくお捧げしました。これこそイエス様に従う私たちの鏡です。あるべきものを、それをイエス様は受け入れて評価してくださいました。
 イエス様はこの朝、マリアの行いをとおして、私たちに、わたしはあなたのためにすべてを捧げました。さあ、あなたはどうですか。このマリアの行いをユダのように見る私であるのか、それとも、イエス様が評価してくださるような生き方あり方をする者でありましょうか。私たちへの語りかけとして、このメッセージを受け留めていただきたいと思っております。

 

※けさは5018字。音声データ、画像は教会からお借りしています。⏰6時20分更新

| | コメント (0)

J-MERO & むさしの第31回コンサート(岩手県民会館中ホール)

J-MERO、15分だけ。さわやかMay J.、入家レオにインタビュー。コロナで家族や友達とつながることができたと。

午後2時からむさしの会コンサートが岩手県民会館中ホールであった。
佐藤陽十さんのピアノ
 J.S.バッハ トッカータ嬰へ短調
 プロコフェィエフ ピアノ・ソナタ第8番「戦争ソナタ」
池田瑛香さんのソプラノ、齋藤誠二さんのピアノ
 木下牧子/やなせたかし 歌曲集「愛する歌」より3曲
 小林秀雄/峯陽  演奏会用アリア「すてきな春に」
 アルディーティ     キス
 ティリンデッリ     春よ
 フランケッティ     五月に
 ガスタルドン      禁じられた音楽
 クルティス       勿忘草
 ヴェルディ       オペラ「椿姫」
             「乾杯」
             ああ、そはかの人か~花から花へ~」
             「過ぎし日の」
輝いていました。若い方々がここまで頑張っていることに涙が。印刷機との接続の不具合でスキャンができず、画像を入れることができないのが残念。

受難週を控えている。

| | コメント (0)

210326 クラシック倶楽部を聴く ベスクラ公開 務川慧悟 ピアノ・リサイタル

務川慧悟は1993年愛知県出身。東京芸術大学1年生の時に日本コンクールで第一位。2019年のロン・ティボー・クレスパン国際コンクールで第2位に輝いた期待の若手ピアニスト。パリ国立高等音楽院で研鑽を積んだ、感性豊かな演奏をご紹介します。 【出演】務川慧悟(ピアノ)【曲目】前奏曲集 第2巻から抜粋(ドビュッシー作曲)、ピアノ・ソナタ第2番(ショパン作曲)、組曲「マ・メール・ロワ」から「妖精の園」(ラヴェル作曲/務川慧悟編曲)【収録】2021年2月13日 相生市文化会館 扶桑電通なぎさホールで収録―番組紹介よりー

Dsc06783-2

 

務川慧悟のコメント
Qコンクールでの入賞、フランスでの活躍は
ロン・ティボーはフランスでも特に権威のあるコンクールですし、フランスでの活躍の場が圧倒的に増えたことで、これは僕にとってとても嬉しいことなのですけれど、フランス人の聴衆を前に色々なリサイタルプログラムを披露する場が増えた。で、向こうの聴衆の方とコミュニケーションがとれる。また向こうのホールとかサロンのような場所で演奏する機会もとても増えたということで、向こうの形式でのコンサート経験を積むことによって自分の中でも演奏家として見えてくるものがあったりということが非常に大きかった。入賞してからここ1年ちょっとの間に、非常に大きな変化でした。


(最初にお送りするのは務川さんがフランスに留学して専門的に学んできたドビュッシーの作品、前奏曲集第二巻から5曲を選びました。)
Q前奏曲集第二巻の魅力は
ドビュッシーの前奏曲集一巻と二巻で全24曲ありますけど、一巻はほんとうにカラフルな色彩で描かれた光のある曲だと思ってるんですけれども、今回弾く二巻というのは、ちょっと水墨画のような、すこし光とか色彩を敢えて落とした中で描かれる世界というのが僕にとっては大変魅力的で昔から大好きな作品なんですけど、第6巻変わり者のラヴィーヌ将軍というのは、ラグタイムの形式を持った曲で非常にドビュッシーらしいユーモアのある作品で、前奏曲この第二集が非常に暗い色彩を持っている中にも幾つかこういったユーモアを交えた曲というのがあって、そこにどれも好きなきょくなんですけど、幾つか組み合わせを考えて、いちばん最後に、やっぱり曲中の中でも傑作といっていいであろう花火をもってきたという感じの構成になってます。

(なぎさホールのすぐそばの海岸を歩いて)
海好きですね。生まれたところも半島ですし、南仏とかで音楽の講習を受けたりして、海沿いで夏を過ごしたことも何度かあるんですけど、もともと海が好きですね。
Qショパンのピアノ・ソナタ第2番、想像を超えた魅力とは
(古典的な形式にとらわれない斬新な構成を持つ作品です)
パリに留学して1年目に先生の下で学んだ曲なんですけど、僕はわりと常々3番のソナタがとにかく大好きで、これもショパンの中で一つの到達点となる作品だとおもっているんですけど、そんなパリ留学のきっかけで2番を改めて勉強してみて、2番というのは、何というか、常人の理解の範疇を超えてしまったような天才的な作品だということに何年か前ぐらいに気付いたんですね。その3番というのがちゃんとした構成、どのような意図をもって作曲したかがある程度想像がつくのに対して、2番と言うのは、僕にはもうまったくどのような過程で作曲したのか想像がつかないくらい天才な作品で、この作品にここ最近また魅せられてまして、ここ何度か人前でも弾いたり今回もこのリサイタルで取り上げることにしました。

曲目
前奏曲集 第2巻から抜粋(ドビュッシー作曲)
 前奏曲集第二巻は1911年から1913年に作曲された12曲から成る。各曲のタイトルは楽譜の冒頭ではなく末尾の余白にひっそりと記された。
  第6巻 変わり者のラヴィーヌ将軍
  第5曲 ビスの成る荒地
  第9曲 ポクウィック卿をたたえて
  第11曲 交代する三度
  第12曲 花火

ピアノ・ソナタ第2番 変ロ短調 作品35(ショパン作曲)
アンコール 組曲「マ・メール・ロワ」から「妖精の園」(ラヴェル作曲/務川慧悟編曲)


🎵エネルギッシュ。第2番、この凡人などの一言もいうところではないのだ。そのことに納得。


🎧名曲アルバムはモーツァルトの「魔笛」序曲 飯森&東京フィル
モーツァルトとシカネーダーが、いったい何がウィーンっ子の心をとらえるのかを考え思い付いたのは、
「その土地の言葉で冒険劇を作る」ことだった。
Dsc06799-2

⛳音楽の朝練が、またも夜連となり、そして次は、これは恐ろしい。もうここまでかなと思うと、なぜか心魅かれる番組登場でここまでに至っているが。21時18分更新

| | コメント (0)

210325 クラシック倶楽部を聴く イリーナ・チュコフスカヤ

ロシアのピアニスト、イリーナ・チュコフスカヤがスクリャービンやチャイコフスキー、そしてショパンを演奏。旧ソ連時代のエピソードもインタビューで紹介する。 ロシアのピアニスト、イリーナ・チュコフスカヤは1980年ショパンコンクールに入賞しながらも旧ソビエト政府によって、その後10年近く外国での活動が禁止された。現在は国際的に、演奏活動と日本やロシアで教べんも執る。【曲目】ワルツ作品38(スクリャービン作曲)、ピアノ・ソナタ第3番(ショパン)、「くるみ割り人形」から(チャイコフスキー作曲)【収録】2021年2月21日愛知県立芸術大学室内楽ホール

Dsc06735-2

イリーナ・チュコフスカヤ
2019
年から愛知県立芸術大学客員教授。モスクワ音楽院で学び、1980年ショパン国際ピアノコンクール第6位。その後、旧ソ連政府より活動を制限され、1989年に渡米するまでは、ソビエト国内でのみ演奏活動を続ける。現在は世界各国で国際的な活動を続ける一方、モスクワ音楽院やグネーシー音楽大学でも教鞭を執る。1980年代のソ連の混迷はこちら

イリーナ・チュコフスカヤのコメント
ロシアの音楽には古い歴史はなくヨーロッパ音楽によって育まれました。ロシアの作曲家はヨーロッパ音楽を吸収し、育てられてきたのです。チャイコフスキーはメンデルスゾーンやマイアベーア、ベートーベンの影響を受け、スクリャービンはワーグナーの影響を受けました。チャイコフスキーが活躍した19世紀は、ロシア文化の黄金時代でした。有名ではない作曲家も大勢いて特別な土壌が生まれました。だからこそこのような音楽が生まれたのです。チャイコフスキーは皇帝から年に3000の銀貨を与えられました。皇帝自身が芸術を大変好み、協力していた時代だったのです。
Q1980
年ショパンコンクール入賞の影響は
当時ソビエト連邦共産党に入っていた人々は、外国への行き来が自由でしたが、私はコンクールの後、すぐモスクワに呼び戻されてしまいました。そのた音楽仲間にも会えず、プロモーターとも接触できませんでした。10年近くも外国に行くことができなかったのです。ずっと悔しい思いでいっぱいでした。
Q
ショパンのピアノ・ソナタ第3番について
この曲はコンクールで演奏しその後も何度も弾きましたが、さらにその後はしばらくの間は弾きませんでした。そして今やこの作品を再発見したのです。全く新しい作品のようにに思われたことに驚きました。明確には言えないのですが、ほんとうに興奮しました。この作品にスリルを感じるようになり、毎回の練習が楽しみとなりました。

 

🎵演奏家のさまざまな人生に心魅かれる。体制下の拘束に胸が痛む。

 

曲目
☆マズルカ Op.3―9
 (スクリャービン)
 ピアニストとして高く評価されていたスクリャービン(18721915)。初期のピアノ曲にはリストやショパンの影響がうかがわれる。
2つの詩曲 作品32  (スクリャービン)
 1903年に書かれたこの詩曲は、優美で幻想的な響きが印象的。
ワルツ 作品38 (スクリャービン)
 スクリャービン自身が大変好んでいたといわれる曲。ワルツだが自由に発展する幻想曲風な変奏曲となっている。
ピアノ・ソナタ第3番 ロ短調 作品58 (ショパン)
 即興性を重んじたショパンが生涯に残したピアノ・ソナタは全3曲と決して多くはないが、第3番は洗練された美しさとダイナミックな響きを持つ最高傑作である。
☆アンコール バレエ音楽「くるみ割り人形」から「パ・ド・ドゥ」(チャイコフスキー、ドゥボフ編曲)
 王子と金平糖の精による「パ・ド・ドゥ」は華やかな音楽で舞台をクライマックスへと盛り上げる。

 

🎧名曲アルバム。歌劇「ウェルテル」から前奏曲~「春風よ なぜ私を目ざますのか」
福井敬の切々たるテノール。現田&東京フィル
Dsc06757-2

⛳何とか7時5分とりあえず更新

| | コメント (0)

210324 クラシック倶楽部を聴く REICH85-加藤訓子 パーカッション

REICH85-加藤訓子

現代音楽の巨匠スティーヴ・ライヒの作品を、パーカッショニスト加藤訓子が「ライブソロ+多重録音」で表現。「ピアノ・フェイズ」ヴィブラフォン版世界初演に挑戦する。 パーカッションならではの表現を追求し、全てのパートを加藤訓子自身が演奏&録音。圧巻の演奏を披露する。スティーヴ・ライヒからのメッセージも必見【曲目】シックス・マリンバ・カウンターポイント、ピアノ・フェイズ[ヴィブラフォン版・放送による世界初演]、ニューヨーク・カウンターポイント、ヴァーモント・カウンターポイント(全てスティーヴ・ライヒ作曲、加藤訓子編曲)【収録】2021年2月NHK放送センター

―番組紹介よりー

Dsc06673-2

スティーブン・ライヒ(作曲家)
1936
年生まれ。ミニマルミュージックの先駆者として現代音楽に多大な影響を与える。
加藤訓子(パーカッショニスト)
愛知県豊橋市出身のパーカッショニスト。時習館高等学校を経て、桐朋学園大学研究科修了後に渡欧。蘭・ロッテルダム音楽院を首席で卒業。サイトウキネンオーケストラ、アンサンブル・イクトゥスなどへ参加後、ソロ活動を開始。2011年にスティーヴ・ライヒの代表作を打楽器へ編曲したソロ作『kuniko plays reich』が話題を呼び、2013年の『カントゥス』がMPCJ音楽賞最優秀録音賞を受賞。若手プロ育成を目的にアーティストインキュベーション・プロジェクトinc.を始動させる。2018年にダンスプロジェクト“DOPE”を始動。同年に『ドラミング』を発表。ダルムシュタッド国際現代音楽祭クラニヒシュタイン賞ほか受賞歴多数
今回はライヒの85歳を記念し、その作品を加藤訓子がアレンジ。


スティーブン・ライヒからのメッセージ
私は以前から東京を始め日本の各地で公演を行ってきました。1991年には私のアンサンブルを連れてBunkamura(東京)で、最近では2017年にも訪日し、ロンドンのコリン・カリー・グループと共演しました。何よりも日本にはすばらしいパーカショニスト加藤訓子がいます。また皆さんに直接お目にかかりたかったのですが東京は遠いですしこのような年齢でもあります。私の音楽を応援してくれていることに感謝しています。これからも楽しんでください。
加藤訓子のコメント
ピアノ・フェイズ、ずっとやってみたくて、ピアノフェイズはマリンバで弾いていいというバージョンがあるんですけど、私はどうしてもヴィブラフォンでやってみたかったので、それをずっと考えていて、ずっとこの場で作ってみれないかというのをもちろんライヒさんに相談して、ノンペダルでやるのか、それともペダおんなにルがぜんぶあったらそれは無理だろう。ただぜんぶノンペダルだと、それがいいかどうかはわからないという答えだったんですね。とにかくやっぱりデモをくれ、君が何を考えているのかそれを聞きたいからというので、私はもちろんノンペダルでやるつもりだったんですけれど、一生懸命やってお送りしたら、音がちょっとデッドすぎるということで、やっぱりペダルを使えと。ペダルを使うという事はずっと鳴りっぱなしにはできないので、こまめに切るか、やっぱりバイブってそんなに完成度が高い楽器ではないので、そのフェルトの具合をちゃんと万遍無く均等にするのはけっこう難しいんですね。オリジナルの、それをとにかく聴きなおして聴きなおして、だいじなのはやっぱりそのハーモニーというか、一つひとつのスタカートの後にこう響きが残っている、弦とその響きが余韻と言うか、それが必要だった、やっぱり言ってることが正しかったんだ、デッドの音じゃないんだというのがわかって、ペダルを踏み続けることを決意して、15分間ぐらいなんですけど、ずっと、挑戦しました。

 

曲目
全曲スティーブン・ライヒ/加藤訓子
シックス・マリンバ・カウンターポイント
☆ピアノ・フェイズ ヴィブラフォン版
☆ニューヨーク・カウンターポイント
☆ヴァーモント・カウンターポイント

🎵シックス・マリンバ・カウンターポイント、はじめは単調ともきこえるのだが、聴いていくうちに自由奔放というのではなく、たとえば解脱してからの自由とでもいったらいいのか、遮るものもなく何者にも捉われないこだわらない魂の自由が感じられた。6台のマリンバの多重録音、これが時として重厚なおとを響かせる1台とも錯覚させられるが、完璧な多重を成功させているところはすごいなと。
ピアノ・フェイズ ヴィブラフォン版、ずれが、逃れられない拘束感、出口のない閉塞感を思わせるのだが、そこには深刻さも悲壮感もない。その何某かのるつぼと感じられ、霊が不可思議に揺らいでくるような思いにもさせられる。
ニューヨーク・カウンターポイント、ニューヨークの街の映像が背景に流れている。これが映像を見ながら聴くと飄々と風の中をという感じもするのだが、後で聴きなおしたところが、クルマの車窓から風景をまなじりに流しているようでもあるのだが、見納め、聴いているうちに出て来た言葉は一つひとつを淡々と心に刻んでいくという音なのだ。これが当たっていようといまいと私はそう感じた。無意識の底に幾つもの場面を落とし込んでいく音。
ヴァーモント・カウンターポイント、これがまた前に演奏された曲にさらにピュアな明るさ遊び心を感じさせる。ハミングかスキップでもするような。人生肯定の響き。それこそ街中にカリヨンが一斉によき訪れを告げ知らせてでもいるような。
4
曲ともに作曲者の透徹した達観が聴こえた気が。

🎧名曲アルバム、ハイドンの「皇帝」
耳障りの良さ、中学生のときに、松本紫先生が「この曲には気品がある」と仰ったことを思いだす。
Dsc06691-2

⛳内容的に面白かったけさ、5時に聴くは聴いても、はてきょうは更新は無理かなと思っていたけれども、書き落し曲の解説も書かないでしまったけれども、ほんとうはこの曲の解説がおもしろいのだけれども。オンデマンドで配信はしてくれているようなので。何とか21時57分更新。

| | コメント (0)

210323 クラシック倶楽部を聴く 河合尚子 ピアノ・リサイタル

河村尚子は兵庫県出身。幼いころ家族でドイツへ渡り、以来ドイツを拠点としている。2006年ミュンヘン国際音楽コンクール第二位。翌年にはクララ・ハスキル・コンクールで優勝。以来、ヨーロッパやロシア、日本を中心にリサイタルを開き、ウィーン交響楽団、NHK交響楽団などさまざまなオーケストラと共演。2018年から4回にわたるベートーベンピアノソナタプロジェクトを開き、選んだ14曲のピアノ・ソナタを初期の作品から演奏してきた。今回のコンサートはこのプロジェクトの最後の演奏会、後期のピアノ・ソナタに挑んでいる。―番組紹介よりー

Dsc06645-2

河村尚子のコメント
Q
ベートーベンとは
とにかく熱い作曲家だなというのがありますね。一言いうだけではなくて、ふた言にも三言にも何でも繰り返して言う。言ってみたらしつこい、というのもあるんですけれども、でもそれがまた躍動感が満たされて、情熱的になったりリズミカルになったり、時にはやっぱり愛情がたくさん満たされたり、ほんとうに熱い作曲家ですね。
Q
後期のピアノ・ソナタについて
もちろん初期のソナタの中にも画期的なアイデアがあるんですけれども、それ以上に飛びぬけた時代を超えたアイデアが後期のソナタには見られるかなと思います。形式に縛られすぎず形式の中からまた新しい世界へと踏み出す彼のすがた。このふるい形式からどうやって次の世代に渡したらいいのか、そういうふうな彼の止まらない探求力、誰も止められなかったんだと思いますね、やはり。彼自身それだけの想像力があったので、やはりそういう新しいものについて探求するというのが最後の最後まで見られるかと思います。彼自身が、こういう音楽の在り方もあるんじゃないのと言っているような感じがありますよね。きちっと形式を守る部分とはじける部分とどっちもあって、でも人生の中でもそうやってきちっとする部分とはじける部分があるというのが、そのギャップがまた楽しいところなんじゃないかなと思いますし、だからほんとうに人生そのものを描いた、音楽にした人間なんじゃないかなと思います。

全曲ベートーベン作品
☆ピアノ・ソナタ 第31番 変イ長調 作品110
☆ピアノ・ソナタ 第32番 ハ短調 作品111
☆アンコール ピアノ・ソナタ 第30番 第一楽章

🎵はじめて第32番を聴いたときには、まるでこの時代の間隙に1900年代がタイムスリップしてきたような驚きを感じたことを思いだす。以前はジャズはあまり好きではなかった。それが奇妙なことにクラシック倶楽部を聴くうちにジャズの良さおもしろさに気付かされたのだ。

🎧名曲アルバム。リャルト・シュトラウス「ティル・オイルゲンシュピーゲルの愉快ないたずら」

Dsc06655-2

🎵リャルト・シュトラウスがこれを題材に作曲しているという事で、抱腹絶倒間違いなし、これで免疫力も高まること受け合い、しかも500年に耐えたものと期待して読んでみた。岩波文庫。阿部謹也訳
 驚いたというよりも醜悪といった感じを否めないところ多々。Dr.スランプに登場するウンチくんなら可愛くもあるけれど、このまさにウンチのこねまわしともいえる話は度肝をぬかれるレベル。これは500年前のトイレ感覚からも来ているのかもしれないとトイレの歴史(ドイツではなくパリのトイレだけれども)なぞもググってみたが、何となくわかったような気も。ただ食べ物に混ぜこねる、食べることまで出てくるのにはびっくり。皮なめしの話しもけっこう多い。皮をゆで上げるところをゆで過ぎにまかせて逃げ出すなど。生きた猫に兎の毛皮をすっぽりと着せて兎狩りに提供しニャーと泣かれてしまったり。学生と議論しとんちでやりこめたり。笑える内容もあるけれども、第31話にはなるほどこれはみなハメられるだろうなと思ったのは、鍛冶屋の髑髏(どくろ)を聖遺物と騙り、説教者になりすまして多額の献金をだまし取ったことだ。何と言って献金を呼びかけたか。よくもこんな悪知恵がという内容、長くなるので割愛。
 凡そ罪悪感というものがない。人情的にそこまではいくら何でもやりかねるというところまでもやるのだ。
 病気が重くなったオイルゲンシュピーゲルは第91話で罪の告白を勧められた時、自分の悪さはもう知らない者はいないので今更告白する必要はないというのだ。ただ後悔したのはやり残した三つの悪戯、悪戯を三つやり残したことを後悔しただけだった。
 ということで、なぜリャルト・シュトラウスがこれを取り上げたかが今一つ納得がいかなかった。しかし子供たちにとっては案外面白いのかもしれないし、国民性の違いで受け入れられ方にも違いがあるかもしれない。とりあえず短時間で思いめぐらしたのはこんなことであった。

⛳20時54分更新

| | コメント (0)

210322 クラシック俱楽部を聴く  小林愛実 ピアノ

3歳からピアノを始める。7歳でオーケストラと共演、9歳で国際デビュー。以降、カーネギーホールに4度出演するなど国際的に活躍している。桐朋女子高等学校音楽科を経て2013年からフィラデルフィアのカーティス音楽院に留学。2015年ショパン国際コンに出場、本選に進む【演奏】小林愛実(ピアノ)【曲目】前奏曲作品28、ポロネーズ 変イ長調 作品53「英雄」(以上、ショパン作曲)【収録】2021年2月8日 府中の森芸術劇場 ウィーンホールー番組紹介よりー

Dsc06620-2

小林愛実のコメント
Q24の前奏曲について
すごく調性というのって、カラーが強いんだなあって。たとえばハ長調といったら無限な可能性があったり真っ白でどこへでも行ける。それからはじまるんですけど、この曲は。わたしはアスドラが好きだから、アス・ドラ(As Dur=変イ長調)というのは愛に満ち溢れているような、ただただ愛してますと言ってるような感じ。エフ・ドラ(F Dur=ヘ長調)といったら、母性だったり、包まれるような温かさを感じたりとか、まあすべての調に愛があると思って、そういう私なりの見解です。私は17番が好きです。アスドラです。弾いてて幸せな気持ちになります。
Q
どんな演奏家を目指していますか
私はただ楽しく弾ければいいです。うわべで楽しい曲というのはたくさんあると思いますけど、ほんとうに音楽を楽しんで弾くというのは、相当の努力が必要だし、やっぱりそれがないと弾けないと思うから、楽しんで音楽というのは大変だなあと。たぶん私は18歳くらいでピアノをやめたかったから、ピアノ弾くのが楽しくなくなっちゃって、やめたくてしょうがなかったから。ほんとうに弾かなかった時期があって、それで、もう一回やってみようってなったタイプ、人間なので、だからそこ楽しく演奏するというのが自分の中で大きい。
Q
ショパンの音楽と自分
けっこう曲に思いを入れて描いて、それでもどこかにこう何か自分にしかわからない栄養部分がたくさんある人物。けっこう自分だけの感情を自分だけで解決したり、自分だけ知ってる感情というのが、それをけっこうピアノで音楽で表現したりするのが好きなので、100%はたぶん伝わらないけれども、受け取ってもらってというような、そういうのはすこし似てるのかな。言葉でいわなくていいから、そこは私は好きですね、音楽を表現する。言えないような感情をこの中に入れて弾くのが好きです。

🎵Jポップに登場する方々に雰囲気がちょっと似てらして。しかし演奏はまぎれもなくクラシック。アクティヴ。コメントに教えらえながら楽しんだ今朝。 

🎧名曲アルバムはチャベスの「シンフォニア・インディア」
Dsc06629-2

⛳とりあえず7時に一旦更新。8時40分再更新

| | コメント (0)

きょうのことば 「ラザロの復活」

インマヌエル盛岡キリスト教会202103月14()の礼拝メッセージをおつたえいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で47年目のご奉仕をしておられます。

Img153_20210214052501

説教題 『ラザロの復活』  (國光勝美 牧師)
聖書箇所 新約聖書 ヨハネの福音書11章1~46
11:1さて、ある人が病気にかかっていた。ベタニアのラザロである。ベタニアはマリアとその姉妹マルタの村であった。11:2このマリアは、主に香油を塗り、自分の髪で主の足をぬぐったマリアで、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。 11:3姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」 11:4これを聞いて、イエスは言われた。「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります。」11:5イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。

 11:6しかし、イエスは、ラザロが病んでいると聞いてからも、そのときいた場所に二日とどまられた。 11:7それからイエスは、「もう一度ユダヤに行こう」と弟子たちに言われた。 11:8弟子たちはイエスに言った。「先生。ついこの間ユダヤ人たちがあなたを石打ちにしようとしたのに、またそこにおいでになるのですか。」 11:9イエスは答えられた。「昼間は十二時間あるではありませんか。だれでも昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。 11:10しかし、夜歩けばつまずきます。その人のうちに光がないからです。」

11:11イエスはこのように話し、それから弟子たちに言われた。「わたしたちの友ラザロは眠ってしまいました。わたしは彼を起こしに行きます。」 11:12弟子たちはイエスに言った。「主よ。眠っているのなら、助かるでしょう。」 11:13イエスはラザロの死のことを言われたのだが、彼らは睡眠の意味での眠りを言われたものと思ったのである。 11:14そこで、イエスは弟子たちに、今度ははっきりと言われた。「ラザロは死にました。 11:15あなたがたのため、あなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。」 11:16そこで、デドモと呼ばれるトマスが仲間の弟子たちに言った。「私たちも行って、主と一緒に死のうではないか。」

11:17イエスがおいでになると、ラザロは墓の中に入れられて、すでに四日たっていた。 11:18ベタニヤはエルサレムに近く、十五スタディオンほど離れたところにあった。 11:19マルタとマリヤのところには、兄弟のことで慰めようと大勢のユダヤ人が来ていた。11:20マルタは、イエスが来られたと聞いて、出迎えに行った。マリアは家ですわっていた。 11:21マルタはイエスに言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。 11:22しかし、あなたが神にお求めになることは何でも、神があなたにお与えになることを、私は今でも知っています。」 11:23イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」 11:24マルタはイエスに言った。「終わりの日のよみがえりの時に、私の兄弟がよみがえることは知っています。」 11:25イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。 11:26また、生きていてわたしを信じる者は、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」 11:27彼女はイエスに言った。「はい、主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストであると信じております。」 11:28マルタはこう言ってから、帰って行って姉妹マリアを呼び、そっと伝えた。「先生がお見えになり、あなたを呼んでおられます。」11:29マリアはそれを聞くと、すぐに立ち上がって、イエスのところに行った。

11:30イエスはまだ村にはいらず、マルタが出迎えた場所におられた。 11:31マリアとともに家にいて、彼女を慰めていたユダヤ人たちは、マリアが急いで立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、ついて行った。
11:32マリアは、イエスのおられるところに来た。そしてイエスを見ると、足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」 11:33イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になった。そして、霊に憤りを覚え、心を騒がせて、11:34「彼をどこに置きましたか。」と言われた。彼らはイエスに「主よ。来てご覧ください。」と言った。 11:35イエスは涙を流された。 11:36ユダヤ人たちは言った。「ご覧なさい。どんなにラザロを愛しておられたことか。」 11:37しかし、彼らのうちのある者たちは、「見えない人の目を開けたこの方も、ラザロが死なないようにすることはできなかったのか。」と言った。

11:38イエスは再び心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓はほら穴で、石が置かれて塞がれていた。11:39イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだラザロの姉妹マルタは言った。「主よ。もう臭くなっています。四日になりますから。」 11:40イエスは彼女に言われた。「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。」 11:41そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて言われた。「父よ、わたしの願いを聞いてくださったことを感謝します。 11:42あなたはいつでもわたしの願いを聞いてくださると、わたしは知っておりましたが、周りにいる人たちのために、こう申し上げました。あなたがわたしを遣わされたことを、彼らが信じるようになるために。」 11:43そう言ってから、イエスは大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」 11:44すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたまま出て来た。彼の顔は布で包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」

11:45そこで、マリアのところに来ていて、イエスがなさったことを見たユダヤ人の多くが、イエスを信じた。 11:46しかし、何人かはパリサイ人たちのところへ行って、イエスがなさったことを伝えた。

 

 

<お話し>

前回はこのラザロの復活の中の1125わたしはよみがえりです。いのちです」とおっしゃるイエス様のおことばに最初に注目をいたしましたが、きょうは、その背景を、もうすこし詳しく扱わせていただきたいと思っております。

地図 11:新約の時代の聖地

地図の上の方にガリラヤ湖。そこからイエス様は十字架におつきになられるために、エリコを通り、エリコから山の道をのぼってベタニヤ、そして、下の方、死海の左にあるエルサレムにのぼられました。
 きょうのラザロのできごとは、実はこのベタニヤというところで行われた大きな出来事でありました。エルサレムとベタニヤ間は約数キロです。私たちの教会は大館町にありますが、そこから3キロというと盛岡駅辺りです。これがエルサレムとベタニヤの距離、これで距離感を掴んでいただけたでしょう。

 きょうお読みした中に、マルタ、マリアというおなじみの姉妹、それからラザロ。この家族が取り上げられております。両親は出て来ませんがたぶんもう亡くなって、この兄弟姉妹が心を合わせて生きていた。ベタニヤという町に暮らすマルタ、マリア、ラザロのこの家を、実はイエス様は大変愛されて、エルサレムで大きなことがある行き帰りにはしばしば立ち寄りおやすみになったところです。イエス様の御休みどころであった。イエス様がいらしたときに、姉のマルタは、さあ先生にこのお料理を作って、このお飲み物を差し上げてとかいがいしく立ち働いている。片や妹の方のマルタはイエス様の近くにあってお話しに耳を傾けているというルカ103842に愛すべきエピソードがあります。それから聖書の中で、ラザロといえば私たちはルカの福音書にある、ある金持ちとラザロというイエス様のお話しも思い起こされる。しかし、このラザロとは別のラザロです。

死んで4日経っているというこのラザロが、イエス様によってよみがえった。これは実に意味のある衝撃的なできごとだったのです。イエス様が死人をよみがえらせる。これにはラザロの他に2つの例があり、一つは、マルコ522にありますが、ヤイロの娘の蘇生。それからもう一つはナインのやもめの息子のよみがえりです。この二つとも実はエルサレムが南の方とすれば、ガリラヤの、つまりその国の中心からずっと離れたイエス様のガリラヤ地方における伝道活動で起きた。いわば国の北の隅の方の田舎で起きた出来事としか覚えられていない。ユダヤの国全体から見れば、まだまだイエス様の働きはそれほど全国的に知られていなかった。私たちは聖書に書いてあるからこそ大きなこととして見るのですが、イエス様のご奉仕、全体の位置づけから見ると、この二つの死人のよみがえりは大きいことではあるけれども、ユダヤの人々にとっては、それほど大きな位置づけではなかった。

 

しかしこれは違います。イエス様がガリラヤの方で大きなうねりをもって、もしかしたらこのお方がメシヤかもしれないという期待が高まってきている。またイエス様ご自身もわたしのときが近づいてきているという意識をもって十字架に向かおうとする。そして十字架にお架かりになるという大きなできごとはエルサレムです。そして、エルサレムから僅か3キロ、イエス様何回もそれまでエルサレムに年ごとの大きなお祭りですとか、そんなときに何回もエルサレムに行きましたけれども、今回は意味が違う。いよいよその時が来たというイエス様の御覚悟と共に人々がメシアを待望しているという時に、何と、中心地エルサレムから僅か3キロしか離れていないところで、そのラザロという人は、しかも死んで4日目です。臭くなっている。敢えて乱暴な言い方をするならば、北の方でこの男が死人をよみがえらせたというような話は聞くけれども、だけど、それは死んだばかりの、もしかしたら蘇生じゃないのか。そんな復活というようなことではないかもしれない。反対する側の人たちからすればいくらでもそういうことで対抗することができたはずなのです。ところが、今回は何と3キロしか離れていない中心地圏内のそこで、多くのユダヤ人たちがいるところで、しかも、臭くなっているだろう死人のよみがえりです。イエス様に敵対する人々がどう言い逃れすることもできないような中で、よみがえりの奇蹟は起こされた。ですからこういうことおわかりでしょう。

 

マルタとマリアがラザロが死の病に罹ってしまったことに気付く。さあ、これはいつもの病とは違う。これは死に至る重篤な病だという事に気が付いたときに、むしろマリアとマルタは希望を持った。だいじょうぶ、だいじょうぶ、あのお方さえいればだいじょうぶ。直ぐにイエス様を呼びに行かせたのです。その時に彼女たちはだいじょうぶ、あのお方さえ来てくださればだいじょうぶ。だからマルタが言いました。ラザロが亡くなってから。それからマリアも同じことを言っています。「もしあなたがいらっしゃったのならば」。これはもう二人の偽らざる気持ちなのです。ところがどうしたことか、第一報を受けたはずのイエス様が、それから2日もそこに留まり、すぐには行動しなかった。
 人々が訊くと、「ラザロは眠っているんだ。さあぼつぼつ起こしに行こうかね」。弟子たちは意味がよく分かりませんから、そうか、マリアとマルタは深刻そうだったが、そうか、そんな大した病気じゃなかったんだと弟子たちが言い聞かせている。その弟子たちに教えるようにイエス様は、「ラザロは死んだんだ。私はそれをよみがえらすためにこれからいくのだ」。弟子たちもラザロの成り行きには非常に大きな意味があるのだとこれを受け留めたに違いありません。

20210315-160421

イエス様は、この病は「神の栄光があらわれるためです」と。「神の栄光」とヨハネの福音書を記したヨハネが使っているこのことばは、必ずイエス様の十字架と復活という贖いのできごとと密接な関係があって、これを神の栄光があらわれるためだとあらわしているのです。そして、このラザロの復活のところ、ヨハネの11章の4546節をご覧ください。4546節の直前にラザロの復活のできごとが記されておりますが。

 11:45そこで、マリアのところに来ていて、イエスがなさったことを見たユダヤ人の多くが、イエスを信じた。

つまり、このラザロの復活ということが、イエス様こそまことの待ち望んでいる救い主なのだ、メシアなのだと告白する人たちが多く現れた。ところがそのすぐ後に46

 11:46しかし、何人かはパリサイ人たちのところへ行って、イエスがなさったことを伝えた。

 しかし何人かはパリサイ人たちのところ、つまり敵側、イエス様をいつも敵対しているパリサイ人たちのところへ行ってイエス様がこんなことをしたんですよ、と伝えたのです。

 

47節以降には、きょうは触れませんでしたけれども、これを聞いた当時の政治、宗教、権力者たちの慌てぶり、俺たちはなんということをしているんだ。このままだと大変なことになるぞ。この国は失われてしまう。そして、この大混乱。そのときに、49節、大祭司のカヤパが言うわけです。「あなた方は何も分かっていない。50節、「一人の人が民に代わって死んで、国民全体が滅びないで済む方が、自分たちにとって得策だということを、考えてもいない」、つまり、あいつを殺してしまえばいいんだ。そうじゃないか、あいつを生かして国全体が滅んでしまうよりも、あいつを殺して生き延びた方がいいだろう、これがカヤパのまさに心の底から出てきた人間的な知恵の言葉です。不思議なことです。この悪魔的な、この方がいいんじゃないか、あいつを殺してしまった方がいいんじゃないか、あいつを殺して、我々が生きた方がいいんじゃないか。ある意味そのまま神様が恵みの事葉として取り替えてくださった。そう、ひとりの正しい人が我らのために死んで、そのことのために我らが生きた方がいいではないかという、先ほどは悪魔的なカヤパの言葉でしたけれども、福音というのは、まさに、カヤパが言ったそのことばを、裏がえすように真理を敵の言葉を通して表してくださった。一人のお方の死んで葬られなさる方が我らのために得策などという言葉は使いたくありませんが、まさにヨハネ316神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちをもつためである」。これこそが福音なのです。これこそ神の栄光があらわれることなのです。ですからラザロの復活の方がある意味イエス様の十字架刑に向かう最終幕が切られている。いよいよここから十字架が始まるといって過言ではない。だからこそ、ヨハネの12章をご覧ください。イエス様が過越しの三日前にベタニヤに来られた。そこにはイエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。で、2節には人々はイエスのために夕食を用意した。マルタが夕食を用意した。マルタが給仕をし、ラザロがイエスと共に食卓に着いていた。一方マグダラのマリアは純粋で非常に高価なナルドの香油を取ってイエス様の足に塗り自分の髪でイエス様の足をぬぐった。

何でそんなもったいないことをするんだ。貧しい者にそれを売って分けた方が良かったじゃないかと言ったのはイスカリオテのユダ。イエス様は、彼女は自分の最も良いものをもって、私の葬りの備えをしてくれたのだと仰います。

 

このラザロの復活のできごとが、イエス様の十字架に向かう贖いの大きな大きな一つのステップであったという事を、心に留めさせていただきたいのです。ラザロの復活、これが神の栄光のあらわれである。つまりイエス様の十字架と復活という決定的な影響を与えたできごとであったということを、きょう心に留めさせていただきましょう。

20210315-160443

そして「11:35イエスは涙を流された。」この部分に、心を留めさせていただきましょう。イエス様は、マルタ、マリアたち、私たちの事をよくご存知で、私たちの事をご存知で主は涙を流された。しかし、イエス様が涙を流された、或いは霊に憤りを感じられたというところを見るとき、これが、死というものが生というもののもたらす帰結であった。それに対してイエス様は、ほんとうに涙を流された。

死別という事を人間にもたらされた、また盲人の眼を開けたものにして彼を死なせずにおくことができなかったのかというような、或いは、ラザロの復活を信じたとしても、信じようとしない人間のもつ不信仰。ヨハネの11章のところに、例えば33節イエス様は、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊に憤りを覚え、心の動揺を感じて、とあります。ギリシャ語では、このときに使われるているイエス様の心の「憤り」は一般に言われるいきどおりよりも、はるかに強い、もう心の底から何ということだ。それほどにイエス様はラザロの死に対して涙を流し、私たちと共に、そして人間のもたらした死の帰結である死、そして不信仰。さあ、もし信じるならあなたは神の栄光を見るといったではないか。イエス様は仰います。もし信じるなら神の栄光を見ると。あなたに言ったではありませんか。これが、きょう、イエス様が私たちに語りかけてくださることばです。どうぞ神の栄光をしっかりと心に受けさせていただく、罪、不信仰ではなく、主よ信じます。こう告白させていただきましょう。

20210315-160319

※音声データ、画像は教会からお借りしています。
⏰誤記などお気づきの点がございましたならお教えください。19時32分更新

 

| | コメント (0)

おしらせ

ブログ更新はしばらく遅れます。
何ができようと、何ができまいと、いかに不出来でも
「神は愛なり」

7時11分

| | コメント (0)

雑感

 けさは6時5分起床。ということはもうJ-MEROは終わってしまっている。一呼吸おいてTVを見ると、これがチリのパナラル天文台が出ている。カメラに撮ろうとしたところがチップがまだパソコンの中。取り出してからでは間に合わない。写真は諦めて目を凝らす。すばらしい。後でググってみると解説から動画までが詳しく出ている。
 こういった天文系をメディアを通して観るたびに、以前は何と不思議な世界だろうと吸い込まれるような思いだった。しかし近頃では、天体は天体としてそこに在るものとして存在している。それを天体望遠鏡を設置し、或いは、望遠鏡を手に眺める人々、人間の方に不思議を覚えるようになっている。人間を創造したのはやはり神だろうと思い到る。そして難民の群れ、子どもの飢餓、いまだ戦火にあるその他多くの悲惨な姿に思いが到り、神が創造したヒトがなぜ? となり、「貧困放置は社会の虐待だ」とある書籍を思いだし、また環境問題ではある程度歩み寄るものの、国益をめぐる熾烈なバトルが絶えず展開されている様が過る。そのとき「神は愛なり」という聖書のことばが浮かんだ。自らに愛の足りなさを自覚しつつも何か感動。神の愛、それはキリストに成就されたもの。そうであったと今更ながらに。

BSの「コズミック・フロント」から

Dsc06271-2

 

⛳10時06分更新

| | コメント (0)

210319 クラシック倶楽部を聴く 小林美恵 バイオリン・リサイタル

1967年生まれ。東京芸術大学を首席で卒業。88年シュポア国際コン第2位。90年ロン・ティボー国際コンバイオリン部門で日本人として初めて優勝。各地の音楽祭にも出演し、国内外の楽団と共演、室内楽でも活躍。【演奏】小林美恵(バイオリン)上田晴子(ピアノ)【曲目】今回はウィーンで活躍した作曲家の作品で構成されている。バイオリンとピアノのためのソナチネ第1番ニ長調(シューベルト)幻想曲 作品47(シェーンベルク)ウィーン狂詩曲風幻想曲(クライスラー)ほか【収録】2021年2月26日ハクジュホールー番組紹介よりー

Dsc06557-2

小林美恵のコメント
Q
ウィーンの魅力は
なぜか私はウーィンに行くと、日本にいるのとあまり変わらないような感じがしまして、たとえばそれがパリですとかイタリヤだとちょっと身構えちゃうんですけど、ウィーンはなぜかわからないんですけど、こうそのまま受け入れてもらえるような気がしていまして、街を歩いてますとほんとうにそこに作曲家がすんでいたという息吹みたいなものが感じられる街だなあと。そこの角を曲がればモーツァルトが出てきそうだなみたいなとても不思議な感覚を覚えます。
Q
バイオリンとピアノのためのソナチネ第1番ニ長調(シューベルト)について
ほんとうにシンプルで美しい曲です。私も大好きな曲なんですけれども、こう弾いてますと、シューベルトの後を追いながら、この世の中ではない違う世界に連れて行ってもらえるような感じがするんです。だけど最後の小説のチャンチャンでまた現実に戻ってしまうというとても不思議な曲です。
Q
共演者の上田春子について
上田春子さんとは大学生か卒業するころに知り合って、それ以後機会があるたびに共演させていただいていますが、何と言っても彼女のその譜面を深く読む力がほんとうに尊敬しています。そして神がかってるとしか思えないバランス感覚と包容力。なので私がほんとうに自由に演奏できるピアニストです。彼女と音での対話をしておりますと、自分でも気づかなかったものを引き出してもらえるので、毎回舞台が幸せなんです。

 

曲目
バイオリンとピアノのためのソナチネ第1番ニ長調(シューベルト)
 シューベルト19歳のときの作品。作曲家の死から8年後に出版。家族や友人、アマチュアの音楽家と開いた家庭音楽会のために作曲。
幻想曲 作品47シェーンベルク
 アメリカに亡命したウィーン生まれの作曲家アルノルト・シェーンベルクの最後の器楽作品。バイオリンのパートがピアノ伴奏に先駆けて作曲され、1951年作曲家76歳の誕生日に初演された。
ウィーン狂詩曲風幻想曲(クライスラー)
 ウィーン出身のバイオリニスト、クライスラーの作品。小品のなかでも例外的に演奏時間が長い。アメリカに移住した作曲家がドイツに併合された故国への悲劇的な郷愁をウィーン風の旋律に込めて書き上げた。
アダージェット(マーラー)
 ウィーンで活躍したマーラーが1901年から翌年にかけて書き上げた第5交響曲第4楽章の編曲版。映画「ベニスに死す」でも有名で妻アルマへの愛を描いた作品といわれている。
☆アンコール 愛の悲しみ(クライスラー)

🎵今回のプログラムの中では、シェーンベルクの「幻想曲作品47」だけは所謂ウィーン気質に遠い感じなのだが。狂気か凶器かとさえ感じられる激しく鋭い突っ込みに始まるこの曲。ウィーンに生まれたとはいえ、1934年にアメリカに帰化してからはアメリカの習慣を尊重したというけれども、その影響がこのような斬新さを創出したものだろうか。
「バイオリンとピアノのためのソナチネ第1番ニ長調」(シューベルト)、夢見るように歌い語る旋律。
「ウィーン狂詩曲風幻想曲(クライスラー)」、「愛の悲しみ」のような甘さがないけれども、解説にあったように憂愁を帯びている。故国を思う切なさなのか。
「アダージェット」、解説にあるように、すぐにマーラーの視線の先にあるアルマが浮かんだ。マーラーかグローピウスかに揺れるアルマに揺れて、マーラーはフロイトの診察を受けることにもなった。それでもこのアルマの一断面はこの曲に美しく描かれてのこる。
ウィーンにはやはり音楽家たちの魂、気配がそちこちに漂っているような。もう行くことはないけれども、しかし想像するウィーンもまた楽しく美しいということもあるだろう。

🎧名曲アルバム。エイク作曲「涙のパヴァーヌ」。エイクも異色の作曲家。およそ430年前に生まれ。生まれつき視力がなかった。オランダのユトレヒトで活躍。街中のカリヨンの監督を任され、ユトレヒトの音楽界の指導者となる。カリヨンとリコーダーの名手。当時の流行曲を集めまとめあげた。「涙のパヴァーヌ」は「笛の楽園」の中の一曲。エイクが亡くなったときには、街中のカリヨンが鳴り続けたという。想像するだに胸が熱くなる。

Dsc06578-2

⛳春の光があふれている。白鳥は大方帰ってしまったようだ。いま耳の奥に微かに聴こえたような気がしたのは、まさか宙に鳴き声の残響が残っていたとも思えない。
クラシック倶楽部はオンデマンドで配信中。9時23分更新

| | コメント (0)

210318 クラシック倶楽部を聴く 佐藤晴真 チェロ・リサイタル

佐藤晴真は1998年生まれ。6歳からチェロを始める。2021年3月18日14年日本音楽コンクール第1位、18年ルトスワフスキ国際コン第1位、19年ミュンヘン国際音楽コンで日本人として初めて優勝。国内外の楽団と共演を重ね音楽祭にも出演。東京藝大入学後ドイツにわたりベルリン芸術大学で研鑽を積んでいる。【演奏】佐藤晴真(チェロ)。大伏啓太(ピアノ)は福島県出身。東京芸術大学、同大学院修士課程修了。国内外のコンクールに入賞。世界各地に招かれ演奏。後進の指導に当たる。【曲目】文楽(黛敏郎)、チェロ・ソナタ ハ長調 作品65(ブリテン)ほか【収録】2021年2月19日 武蔵野市民文化会館小ホールー番組紹介よりー

Dsc06489-2  

佐藤晴真のコメント
Q今回のプログラムについて
 バロックから現代音楽まで色んな曲を繋げながら織り交ぜたら面白いかなと思って今回色んな曲に挑戦しました。音色の違いを気を付けて、自分なりに解釈したうえで、色んな色の違いを出したつもりなので、そこを色んな色を味わっていただければなと思います。
Q
バッハの無伴奏チェロ組曲について
 僕の師匠が、バッハはシンプルに見えますけども、演奏家として色んな技術がたくさん詰め込まれているから、バッハを練習しとけば間違いないという教えをいただいていたので、バッハはなるべく本番で弾く、その予定がなかったとしても、練習はしたいなと心がけてますね。日々新しい発見が勿論あるので、音楽の流れとか、頭の中でイメージするだけでもどんどんインスピレーションが湧いてくるので、そこがほんとうに奥が深い作品だなと。
Q
チェロの音色について
 僕の声の声域自体がチェロと完全に、いちばん下の音が完全に一緒なんで、チェロを弾くイコール自分の声で歌っているようなリンクするところがありますね。
Q
ブリテンのチェロ・ソナタについて
 勿論、ブリテンが生きた時代を僕は生きていないので、想像だけでしかわからないんですけれども、ブリテンの生きていた時代の戦争の悲しさとか酷さを音から、楽譜からでも伝わってくるものがあるので、それを解釈して表現、どう音に変換できるかにいちばん気を付けてますね。
 昨年はいろんなことが起きましたけども、僕はここで音楽を止めたらとにかくダメだなと思って、あまり音楽を絶やさないように自分の中では課してたんですけども、本番という、コンサートという、あとホッとする場がなくなったことで、色んな目標が失われた時期はあったんですけども、自分の音楽とかいろんな音楽を聴いて、癒されたり勇気をあげられたりできる可能性は自分の中にも皆さんの中にもあるので、僕は絶対に音楽は止めたらいけないなと以前のように会場でお会いできることを夢見て僕も頑張っていきたいなとおもっています。

曲目
無伴奏チェロ組曲第1番 ト長調 BWV1007 (バッハ)
BUNRAKU (黛敏郎)
 1960年大原美術館開館30周年記念演奏会のために作曲された。人形浄瑠璃をモチーフに書かれ、近代技法を駆使しながら三味線や鼓、太夫の語りなどをチェロで表現。
チェロ・ソナタ ハ長調 作品65 (ブリテン)
 イギリスの作曲家ブリテンが1961年作曲。名チェリスト、ロストロポーヴィッチが委嘱し初演。平和主義者として知られるブリテンは同年第二次世界大戦を題材にした「戦争レクイェム」も書き上げている。

🎵今回のカメラワーク、立体的に映し出してくれている。奏者への期待感からか。
「無伴奏チェロ組曲第1番」、感情に有無をいわさずさらい音に同化させるというか、溶け込ませるというか引き連れるところ、すごいなと。声域が同じと語っていたが、弦の響きに声には出さないその声の重複、唱和が聴こえた気が。
BUNRAKU」、この曲を琵琶で演奏したらどうだろうかとも思った。唸り、地鳴りとも思われる旋律はやはりこのチェロでなくてはならないだろうか。幽玄。名状し難い何らかの引力が、影を曳く人影を自在に動かしているとも感じられる世界。
 ブリテンの「チェロ・ソナタ」、ピアノが非常に効果的。平和への希求がチェロ旋律に込められているような。緊迫の楽劇といった感じが。

🎧名曲アルバム。青森県民謡「津軽じょんから節」唄 松田隆行、津軽三味線 澤田勝秋 澤田社中。

Dsc06500-2

⛳いい日より。花粉の飛散が悲惨となりそうな気配。13時28分更新

| | コメント (0)

210317 クラシック倶楽部を聴く LEO 箏 リサイタル

1998年横浜市出身。9歳の時に箏と出会い、箏曲家のカーティス・パターソンや沢井一恵に師事。14歳で全国小中学生箏曲コンクールでグランプリ16歳で「くまもと全国邦楽コンクール」(若手邦楽演奏家の登竜門)コンクール最優秀賞・文部科学大臣賞受賞。時代やジャンルを超えて筝の魅力を発信している。東京フィルハーモニー交響楽団、京都市交響楽団と共演。【演奏】LEO(今野玲央)【曲目】みだれ(八橋検校)、無伴奏バイオリン・パルティータ第2番からアルマンド(バッハ)ほか【収録】2021年2月25日ハクジュホールー
Dsc06408-2

LEO(今野玲央)のコメント
Q箏の魅力について
ほんとうに原始的な楽器でして、薪に弦を張って、「柱」と書いて「じ」と読むんですけれども、コマのようなものを立てて、ピッチを取る。ほんとうに原始的な造り、しかも素材も何百年も前から変わっていない。そんな中で弾いているうちに調弦がずれてきたり、ちょっと爪、ピックですね、ずらしただけで音色が悪くなってしまったり、楽器のコンディションも途中ずっと自分で調整しながら弾くんですね。このすべてを操っているということが、この楽器の特徴でもありますし、難しくも面白く感じているところですね。その和楽器と言うのは一つ一つの音のパワーが凄いんですね。一音入魂ということばもありますけれども、この一つ音を鳴らしただけで何かを伝える。古典の音楽なんかは音数が少なくて、音のないところにまでメッセージをこめるような曲が多くて、この音の情報量のおおさというか、その音の力強さでどんなジャンルの音楽にこの楽器がはいっても、ちゃんと意味のある表現ができるんじゃないかなと僕は考えてます。
Q
箏の魅力を多くの人に届けたい
僕の夢としては、一つは、この楽器をより普及させたいなということがやはり一番大きな目標としてありまして、昔、50年程前でしたらお箏の教室が近所にあって、色んな所のお子さんが箏に触れていた時代があったんですけど、いまはやはりそこまでポピュラーではなくなってしまった。やはり今の時代に合わせた音楽と言うのが、この楽器はすこし発展が遅れてしまったのかなと思っておりまして、ピアノとかだったらどんなジャンルにも使われる。この楽器もそれだけの力があると僕は信じている。僕の活動としてはオーケストラをはじめとして、色々な西洋楽器とのコラボだったり、ほんとうにクラシックに止まらず、色んなジャンルの中にこの楽器を持ち出して僕が演奏することで、より広くこの楽器の魅力を知ってもらって、これからのお箏の新しい表現と言うものを追求していきたいなと思っております。

 

曲目
すばるの七ツ 作品78 (吉松隆)
みだれ  (八橋検校)
無伴奏バイオリン・パルティータ 第2番
 ニ短調 BWV1004からアルマンド
  (バッハ)
ドリーム (ジョン・ケージ)
  (沢井忠夫)
さくら替手五段 (半田弘)

🎵「すばるの七ツ」、これは吉松隆の作曲。吉松隆は「1981年に「朱鷺によせる哀歌」でデビュー。以後、現代のクラシック系音楽創作界(いわゆる「現代音楽」)の非音楽的な傾向に異を唱え、調性やメロディを全面的に復活させた独自かつ異端の路線を貫き、作曲活動を展開する。」とホームページにある。これには共感するところがある。型を破ろう、既成を破壊しようとの曲には意外性や、ある時には奇異な独創性、次にはどんなふうにやってくれるかと一種怖いもの見たさに通じる期待感がある。あるときには感心もし、独自性を賞賛する想いにもなることもあるけれども、その後に、ああ、あの曲をもういちど聴いてみたいという思いになることがない。振り向いてみたときに、それはそれで遠い彼方のある一時点に音の輪郭を際立たせて確かな明確な型を持って一つの存在としてある。そういう感じなのだ。しかし、そういう改革が後の作曲に影響力を持ち、なにがしかの普遍的な楽曲をもたらすということはあるのかもしれない。
 「すばるの七ツ」を聴いて、平安のドラマ背景が彷彿とし、しかしちょっと言いかねる、言ってしまってよいものかと戸惑っていたが、吉松が「平清盛」も手がけていると、実際に放映されているときには気づきもしなかったのだが、それを知り、あながち違ってはいないなと。鳥が聴こえると言いかけて、また「鳥か」、自分の想像力が乏しいのではないかと思っていたところが、これまた<鳥のシリーズ>も。自分の思うところを思うがままに言えばよい。そう思わせられた。
「みだれ」の八橋検校、彼の「六段の調べ」には音階、間の取り方をも含めて格調の高さを感じるのだけれども、この「乱」にも。
「アルマンド」、これには落涙。何度かコマを調整しながら弾いていたけれども、この演奏自体がバッハに通じると思わせられた瞬間。
「ドリーム」、「単旋律が白昼夢のよう」と番組の解説にあったが、琴で演奏しているとは思えない東南アジア、或いはインドあたりの楽器だろうかとも思わせる響き。
「楽」、沢井忠夫1988年作曲。1無窮動。湧きに沸く華麗、流麗。解説のように「心の高ぶり」。2変奏曲。さざ波に追懐、にれ食み、追憶。3輪舞
「さくら替手」無心に聴くに心に染み、すでに沁みこんでいる。これもまた華麗な音の渦、箏の波間に。

🎧
名曲アルバムは「時には母のない子のように」

Dsc06444-2

フィスク・ジュビリー・シンガーズ。黒人のための学校のための資金集めで全米を回る。
 

⛳ここ5年間クラシック倶楽部を欠かさずに聴き続けてきたが、箏の取り上げは記憶にはない。LEO,番組予告で知り、昨日ユーチューブをググると「春の海」があり、宮城道雄のことなどを思いだしながら、名曲であると感慨深く聴いた。そしてけさ、洋楽にも難なく溶け込んだというよりも透過性をもってさまざまなジャンルとの融和、調和を具現させているという感じが。箏の可能性の幅を知らされた。
夕日は眩しく傾きかけ16時22分更新。

 

 

| | コメント (0)

210317 クラシック倶楽部を聴く 「ザルツブルク音楽祭 2020」アンドラーシュ・シフ

2020年の「ザルツブルク音楽祭」から卓越した技術と豊かな音楽性を兼ね備えたピアニストとして聴衆を魅了し続ける世界的ピアニスト アンドラーシュ・シフがシューベルトとヤナーチェクの作品に取り組んだ2020年の「ザルツブルク音楽祭」のコンサートからお送りする。出演:アンドラーシュ・シフ(ピアノ) 曲目:4つの即興曲 D.935(シューベルト作曲)、霧の中(ヤナーチェク作曲) 〈2020年8月25日 ザルツブルク モーツァルト劇場〉ー番組紹介よりー

曲目
4つの即興曲 D.935 (シューベルト)
霧の中 (ヤナーチェク)

モーツァルトの生誕地オーストリアのザルツブルクで毎年夏に開催されるザルツブルク音楽祭。一か月以上に及ぶ期間に演劇、オペラ、バレエ、種々のコンサートを含む数多くのプログラムが提供され規模、内容ともに世界有数の音楽祭として知られる。1920(大正9)年に第一回が開催されたのち、偉大な音楽家たちの導きで伝統を積み重ねてきた音楽祭が2020年創立100年を迎える。新型コロナウィルスの感染拡大を受けて一時開催が危ぶまれたが規模を縮小しさまざまな感染防止対策をとったうえで81日から30日間、110公演が行われる。
音楽祭の後半、ステージに登場したのは、世界的ピアニストのアンドラーシュ・シフ。アンドラーシュ・シフは1953年ハンガリーのブダペスト生まれ。バッハからブラームスまでのドイツ音楽のレパートリーを中心とし卓越した技術と音楽性を兼ね備える。

🎵ザルツブルク音楽祭は1920年から100年の歴史をもつ。100年前の日本()というと、音楽では軍楽隊や帝室雅楽部が西洋音楽の習得も課せられて頑張っていた。ヨーロッパに比肩しうるアンサンブルもない時代。この圧倒的な落差。アンドラーシュ・シフの演奏、研ぎ澄まされ澄んだ音にも、流麗なところにも、清新さなどのすべてに明晰さが感じられた。

🎧名曲アルバムはベルリオーズの「幻想交響曲 第一楽章」
マーラーと共に当時の音楽評論家に物議をかもしたベルリオーズの生家、フランス南東部の田舎町ラ・コート・サンタンドレにある生家、また愛用したと伝えられるギターと指揮棒。当時この町にはピアノが1台もなく縦笛とギターで作曲したという。たしか10歳から。この少年が後に後に、ここからはアンリルイ・ド・ラ・グランジュの著書からの引用だけれども、「はじめて交響曲の扉をカリカチュアに、そして大衆音楽に、それまで絵画と文学にのみ出番があった「醜悪さ」に開」くことになる。伝統的な美の拒否、破壊なのだ。と、ここまで書いて、何だか面白そうと追跡し時間を費やしてみて、あらら、これは自分のやることではなかったかもと突き当り、しかし興味深い音楽史の一つのプロセスを垣間見た思いになった。もしかこのことは一度書いたことがあったかもしれない。
Dsc06393-2

 

⛳けさは、先ずは「土の器」の温存を図らねばと早朝TVは止そうと番組予告も見ずにいたが、習慣でつい起きだしスイッチオン。それがザルツブルク。何か得した気分に。それが次いで名曲アルバムでベルリオーズの故郷を映像でたどることができラッキーだった。恋によりたくさんの作曲をし、18歳でパリに出てからは激しい恋をし、それが「幻想交響曲」になったとか。たしかフロイトが芸術は「性」からと言っていた気がするけれども、宗教曲などはこの範疇であるものとないものとがあり、特にも偉大な宗教曲は神への愛であると思っているけれども。世の中フロイトばかりでは測れないことも多々。いまはそれがすこしぼやけた時代になっているのでは。もっとも詳しく根拠を挙げよと言われるとそこまでの学びもしてはいない、それどころか音楽の入り口でいまだ足踏みをしている自分である。
あすは筝曲、ひび割れそうな土の器の罅に不安をかこち乍らまた起きだすかもしれない。
この時間で散歩でもした方が健康には良かったかなと思いつつ16時更新。

| | コメント (0)

210315 クラシック倶楽部を聴く 米元響子 バイオリン・リサイタル

1997年パガニーニ国際コンで史上最年少13歳で入賞後、日本音楽コンクールで第2位、モスクワ・パガニーニ国際コンで優勝。現在、オランダで後進の指導にもあたる。【演奏】米元響子(バイオリン)大須賀恵理(ピアノ)【曲目】バイオリン・ソナタK.296(モーツァルト)バイオリン・ソナタ(ドビュッシー)ワルツ形式の練習曲による奇想曲(サン・サーンス/イザイ)ほか【収録】2021年2月3日 ハクジュホールー番組紹介よりー 

大須賀恵理:国内外で著名な演奏家と共演。教育者としても活躍。米元響子も幼いころから指導を受ける。

コメント
Q大須賀恵理について
米元響子:とっても明るくて優しい先生です。私はワルツの曲を一緒に演奏したんですけれども、そのときにワルツのスィングがとても特徴があって、私はそれでとても弾きやすかった覚えがあります。
Q再びの共演について
米元響子:やはり昔は何というんでしょうか、きょう演奏するようなソナタだったりというのは、まだ知らない時だったので、今回、ソナタを一緒に作り上げていく音楽をプログラムを組み立てる時点から一緒にお話合いできるのが嬉しい、時が経ったなあと実感しました。

曲目
バイオリン・ソナタK.296(モーツァルト)
1778
年母親と訪れたマンハイムで書き上げる。宿を提供した家の娘でピアノの生徒のテレーゼ・ピエロンに献呈されている。
この曲は出発前の3月11日に、世話になったマンハイム宮廷顧問官ゼラリウスの養女ピエロン嬢のために書かれた。
転載:美しいマンハイムの少女のための曲は、挿入された緩徐楽章アンダンテ・ソステヌートのなかに、
ヨーハン・クリスティアーンへの最も強い回想を含んでいる。 それは器楽のアリエッタで、その主題と伴奏の仕方はほとんどそっくりロンドンの楽匠のアリア(『甘いそよ風』Dolci aurette)から取られている。
バイオリン・ソナタ(ドビュッシー)
バイオリンの名手ガストン・ブーレの助言を得て書き上げた晩年の傑作。この曲の初演が、ドビュッシーが公の前に姿を現した最後の機会となった。
ワルツ形式の練習曲による奇想曲 作品52 第6(サン・サーンス/イザイ)
高度な技巧を要する華麗なワルツはバイオリン曲としても人気を集めている。
☆アンコール 子どもの夢(イザイ)
☆アンコール 愛の悲しみ(クライスラー)

 

🎵モーツァルトが父のレオポルドがいかに怒ろうともマンハイムを動きたくなかった理由に思いが。2曲目、ドビュシーにさまざまな陰影ある風景。3曲目、息をのむハイテク。

🎧名曲アルバムは小山実稚恵のピアノでグリーグの抒情小曲集から2曲「孤独なさすらい人」「春に寄す」。
Dsc06371-2


⛳ちょっと体調を崩し、ゆったりゆったりに切り替える。庄司紗矢香、書かないでしまったけれども、やはり素晴らしかった。脚の調子は回復したかしら。
「(ブログ更新を)もうやめなさい」という声がどこからか聞こえたような。自分の内側からかもしれない。17時44分更新




| | コメント (0)

きょうのことば 「生と死に向き合う主」

インマヌエル盛岡キリスト教会202103月07()の礼拝メッセージをおつたえいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で47年目のご奉仕をしておられます。

Img153_20210214052501

説教題 『生と死に向き合う主』  (國光勝美 牧師)
聖書引証 新約聖書 ヨハネの福音書112526
11:25イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。
11:26また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」

<おはなし> 

背景になっておりますのは、ラザロの復活というところでありますが、きょうは聖書朗読として、ヨハネの福音書112526節です。
 「死に向き合う主」と題し、ヨハネの福音書112526節をベースにと導かれています。
 このところは、イエス様が生と死ということに真正面に向き合って語っておられるところです。きょう私はこのおことばと真正面に向き合ってみたい。それが一か月後に主イエス様のイースターを迎え、その前に主の十字架の意味を深く心に留めるその手段になると、このところを導かれているのです。
 「あなたはこのことを信じますか」とイエス様は言われた。つまり、一般論でイエス様は神の御子である。神ご自身でいらっしゃる。そして、十字架で死んで三日目によみがえった、復活された。たしかにキリスト教という宗教ではこういうふうに言うよな、と多くの人たちはお思いになるだろうと思いますし、私は自分自身信仰に導かれた前後を振り返りますと、やはり同じことを思いました。東京におりまして、学生時代ですから、私はラジオで聴く以外、勿論食堂ではテレビを見ましたけれども、自分の部屋ではテレビはありませんでしたので、ラジオが楽しみでした。そんな東京のラジオ放送で、「世の光」という番組がありまして、別にクリスチャンになることを目指して聴いているんじゃないのですけれども、たまたまどうも私が聴いた日がイースターの日だったようなんです。羽鳥明という先生が出ておられました。そして「きょうはイエス様が復活をなさっているんです」。私はこれを聴いて「これがキリスト教というやつだ」と思ったことを今でも思い出します。ですから多くの人たちももそう思うだろうなということはよく分かります。
 かしここに、イエス様が、彼女に言われた。「あなたはこのことを信じますか」。キリスト教というものを、ただ十字架と復活を説く教えだと知っているのではなくして、「なたはこのことを信じますか」。これがきょうのポイントなんです。
 イエス様はこのところではっきりと「いのち」、生ということに向き合っています。そして聖書の中でこのいのち、日本語では命ということば一つしかないのですけれども、聖書で語られているギリシャで語られているこのいのちという言葉が二つの言葉によって表されております。一つはビオス、一つはゾーエーということばです。
 ビオスというのは食糧増産の必要からバイオ化学の分野で最近特に注目されております。ビオスはバイオという言葉のルーツになっている。これは自然界における命。私たちもその意味において、ビオスの命に生きている。最近は雪も解けて木々の命、緑を目の当たりにしますけれども、自然界の命、また微生物をも含めて、言わんとするところはそれがビオスということばの意味する命です。
 しかし、ゾーエイという言葉、これは人間だけが意識できる、人格的ないのち。或いは私はここに、霊的な、霊というと幽霊の霊がすぐ想い浮かぶかもしれませんので、敢えて誤解を受けないために霊的ないのちと申します。むしろ、こちらが私の伝えたい「いのち」です。自然的な命に対して人格的命な「いのち」というものです。
 イエス様が言われた「わたしを信じる者は永遠に生きます」、これはまさしくそうでして、ヨハネの福音書にある「1126また、生きていてわたしを信じる者はみな、永遠に決して死ぬことがありません」、ここでいう「いのち」はゾーエイであり、決してビオスの言葉ではないことに注目をしていただけるでしょう。

「いのち」っていったい何でしょうか。 

今から20年も前の話しです。牧師、クリスチャンたちの修養会が錦秋湖でありました。そこである先生が講師としてお話し下さった。その先生の教会に日本の生物学の最先端を研究している科学者がおられたそうです。その先生が牧師としてのお話しをされた後、会衆席におられた科学者の方が仰ったそうです。「細胞が生きているということはその細胞が分裂して増えていくこと。その分裂のときに、細胞どうしが交わり、その交わりをして増えていく。ところが、細胞が死ぬということは、今まで当たり前のように交わり増殖していたものが交わりがなくなった時に、死ぬという現象が生物学上起きるのです」。きょうの先生のお話しは、交わりが途絶えたときに死がやってくる。ほんとうにそうだと分かりました。これは人格的な死にも全く当てはまります。たとえば人と人との交わり、これがないと、人格的にはオーバーに言うと死んでいる状態といえるでしょうか。交わりがない。家庭の中に交わりがなくなってしまうとそれは死の状態といえるでしょうか。人格と人格があるときに、朝起きたときに「おはよう」というひとことで、そこで交わりが始まります。当たり前のように挨拶を交わす。言葉を交わす。また会社にあっても同僚の人、色々な関係の中で、交わりがうまくいっていると生き生きしていますけれども、しかしそこに何らかの障害があって交わりが途絶えてしまうと、それは人格的に死んだ状態、辛い状態になります。極端な例を申しますと、きょうも誰も自分を訪ねてきてくれなかった。今日も誰とも話すことができない孤独の中で死を選んでしまう人もあることです。交わりが断絶する。自然界でそれを死と言うならば、細胞の増殖が交わりを絶たれたことによって死という現象をもたらすとするならば、私たち、人格的な存在、それを私は敢えてこの時には人格的と言いましたが、ほんとうに申し上げたいことは、霊的な死に至るという事なのです。私たちは、まことの命の根源でらっしゃる神ご自信、神ご自身こそいのちのいのちなるお方です。そのお方と交わっているのならば、ほんとうに豊かな喜びと愛に満ちた交わりの中に、エデンがそうであったように、豊かな交わりを楽しむことができます。しかし、神様との交わりがなくなってしまったとき、それは、人間が霊的な死を迎えたときということができるでしょう。

私たちは創世記の1章、2章とか3章とか、これはヘブルの神話だというように理解する人たちもいらっしゃいますけれども、そうではない、まさに、神様は私たちに教えて下さっている。私たち人間、そして私たちを取り巻く世界はどういうものなのか。神様との交わりにあったとき、自然界は見事な調和の中にありました、しかし、人間が神から離れてしまったとき、地はそのゆえに呪われたとあります。自然界が混乱してしまいました。そして人間が神から離れてしまったときに、人格的な破たんが、ここで霊的な破たんと言ったらいいでしょう。
 「どうして私に神様が禁じていた木の実をたべたのか」。「だって、あなたが私の脇にそれを置いてくださった」。「あなたが置いてくださったエバが、私をそそのかしたんです」。エバは言います「だって私じゃない。あの蛇が、サタンが私をそそのかした」。互いの責任転嫁。「私が神様の戒めを破ってしまった。おもうようにやってしまった」と、自分が申し訳ないと思えばいいのですけども言い訳をし、責任転嫁する。人間が罪を犯した一番の最初は「だってあの人が、だってこうだったから」と決して自分の非を認めようとしない。そしてそこからやってくるのは憎しみ。破綻と言えばカインとアベルのできごと。それから派生してまいりますが、妬みによって兄は弟を殺してしまうというできごとなどなど。謂わんとしていることは、神との交わりが絶たれたときにそこに人格的な霊的な破たんがあり、これを死というのです。自然界にもその罪が及び、罪のゆえに地は祝福されておらず、荊を生じるようになる。自然界におけるさまざまな混乱というもの。私たちは他の一般的な人たちのように、神話と片付けてしまうのではなくして、そこに人間の罪というものが及ぼした世界的な宇宙的な混乱、破綻、というものを見るのです。
 そのとき、主イエス様は生と死に真正面に向き合ってくださったお方です。
ヨハネの福音書316
神は、実に、そのひとりごをお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」

神から離れて死んでしまったゾーエイのいのちに、イエス様は言われます「わたしがよみがえりです。わたしは命です。私を信じる者は死んでも生きるのです」。主イエス様は、私たち人間にさあ、神様との断絶を、そのあなたの罪をわたしが一心に身代わりとして負いました。神様がその背負った罪を罰せられる、これであなたの犯した罪は100%、いや十二分に赦されている。私はその罪の贖いを成し遂げました。

最期にはその父なる神の御顔を覆ったかの如く地が暗くなるまでとありますが、この方は、私たちを生かすために、主の神の交わりをほんとうに絶って、いちばん低いところまで落ちてくださった。だから、地獄の叫びというものがあるかどうか、ふと思うのですが、もし、この私たちが理解する中で地獄の底からの叫びが聞こえてくるとすれば、十字架のところでイエス様が「わが神わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」。というあのことばこそ、地獄の底からの神の交わりが絶たれて永遠の滅びに行ってしまったものが、それまで一度も交わりから絶たれたことのないお方が、神の愛の豊かな交わりの中に生きておられたお方が、その交わりを私たちのために絶たれて、地獄の底から神わが神、どうして私をお見捨てになったのですかと、叫ばれた。それこそ父なる神様の御心だったのです。御子が苦しむことを神様は為し、それによって、罪ある私たちを赦免された。よしとされた。そうかわかった。父なる神様が、御子イエスのそれに免じて、人々の罪を赦そう。そう言われるのです。

イエス様はそのことを成してくださった。ラザロのよみがえりのときには、まだイエス様は十字架についておられなかったし、まだ復活していませんでした。しかし、今私たちは知っています。イエス様の十字架も復活も知っていてそのお方が私たちをさあ私は生と死にとことんあなた方のために向き合った者だよ。そのお方が、彼女に言われました。「わたしがよみがえりです。わたしはいのちです。私を信じる者は死んでも生きるのです。また生きていて私を信じる者はみな永遠に決してしぬことがありません」。イエス様はこの朝、マルタに、あなたに問うておられます。
「あなたはこのことを信じますか」。一般論としてではなく、あなたは確信しますか。

このように主イエス様を信じるとき、このお方のいのちが私のものになることを経験していくでしょう。どうぞこのゾーエイのいのちが私たちの心の内にいよいよ力強く脈打っていくことができますように。

わたしがよみがえりです。わたしは命です。私を信じる者は死んでも生きるのです。また生きていて私を信じる者はみな永遠に決してしぬことがありません。

20210307-162715

20210307-162528

20210307-162806

20210307-162844

 

 

まもなく次のズーム礼拝が始まります。10時更新。⏰

 

| | コメント (0)

J-MERO など 

 力あるアーティスト、ミュージシャンたちが被災地に心を寄せてくれるのは、ほんとうに頼もしいと今回の3・11の10周年にも思わせられていたが、けさのJ-MERO、いつものさわやかMay J.の司会でゲストはももいろクローバーZ。被災地、格別に浪江町に思いを寄せているグループだ。
 メンバーは、自分に被災地訪問が務まるのかという不安、しかし、こんな小さな私でも歌で力になれれば。浪江町についてまったく知らなかったが実際にライブを行い、逆に元気と勇気をいただいた。小学校1年生、3年生で震災をTVで見ていただけだったのが現地に足を運び被災の跡を実際に見聞きし多くの事を知った。行くたびに行事などに参加し浪江町が大好きになっている、などと語る。

 「頑張ろう」という言葉を使わずに伝えられるメッセージをと「なみえのわ」を披露してくれた浪江発女子組合からその詞を抜粋してみる。

たとえ何百キロはなれていても
わすれることはない(あの景色を)
涙はいつか(涙はいつか)
太陽が乾かし輝く海に帰る

太陽がある限り明日へ歩いて行ける
空も(海も)君が(いつも)迷わぬように澄み渡る
大丈夫見上げれば
きっと道は続いていく
どんな(どんな)ときにも駆けだしてく未来へ
時が巡るたびに見つけてゆく
負けないで手をつなぎ
ナミエのわ(〇)ひろげよう


⛳10時49分更新

 

 

 
 

 

| | コメント (0)

210312 クラシック倶楽部を聴く 庄司紗矢香&ヴィキンガー・オラフソン テュオリサイタルⅠ

庄司紗矢香&ヴィキンガー・オラフソン テュオリサイタルⅠ

世界的バイオリニスト庄司紗矢香とアイスランドの精鋭ピアニスト、オラフソンバッハとブラームスの名曲を現代屈指の実力派二人が全力で奏でる!注目の2020年浜松公演 バイオリン・ソナタ ヘ短調 BWV1018(バッハ)、バイオリン・ソナタ 第2番 イ長調作品100(ブラームス)、シチリア舞曲(パラディス)庄司紗矢香(バイオリン)ヴィキンガー・オラフソン(ピアノ)2020年12月15日浜松アクトシティ中ホール(静岡県浜松市)ー番組紹介よりー

Dsc06311-2  

庄司紗矢香は1999年にパガニーニ国際バイオリンコンクールで最年少、及び日本人として初めて入賞。
ヴィキンガー・オラフソンは1984年アイスランドに生まれる。ジュリアード音楽院卒。レイキャビック・ミッドサマー音楽会の芸術監督。コンテンポラリーアーティストとの共演。TV番組制作などに携わる。

コメント
Q
共演者について
庄司紗矢香2013年のノルウェーの音楽祭で初めて共演をしまして、その後何度かヨーロッパで共演する機会がありました。
ヴィキンガー・オラフソン:初めて共演した時、紗矢香が理想を追求する人だとわかりました。それは演奏するために最も重要なことで、演奏家は作曲家の理想に近づくようにベストを尽くすべきです。紗矢香はどの作品も自分の理想に忠実に演奏しています。
庄司紗矢香:音楽美をとても追及する心、そして音楽の一つひとつの意味を考え、またそこに妥協を許さない音楽的信念を持ったアーティストであるということ、またコミュニケーションに非常に長けたアーティストだと思ってます。それは必ずしもリハーサルで決めたことではなくても、そこに意味を見出すという事に重きを置いてますので、そういう意味で、私の信じるところと重なるかと思います。
Q2020
年コロナ禍での音楽活動
庄司紗矢香:私たち音楽家というのは、お医者さんのように治療したり守ったりできないですけど、音楽を届けてお互いに支えていく、そして心をつないでいくことができるのではないかと思っています。夏すこしヨーロパでも演奏会が復活した時期がありまして、演奏会にいらした方たちに生きていてよかったとコメントをいただくことが増えまして、そうしたときにやはり音楽の大切さというのがほとんど初めて実感できたというか、音楽をやっていてよかったと思えたときでもありました。
ヴィキンガー・オラフソン:ベルリンで演奏した1030日に発表がありました。感染症拡大防止のためドイツ国内での演奏が無期限で中止となったのです。その日コンツェルトハウスでモーツァルトの協奏曲を演奏しました。演奏会が終わっても聴衆はホールを出ようとせず拍手をし続けていました。美しくも悲しい光景でした。音楽を聴く機会が再び戻ってくるか誰にも分からないのですから。しかし同時に音楽は人々にとって大切な存在だとわかり、楽観的な気持ちになりました。新型コロナウィルスが収束した後も音楽と芸術は欠くことができない存在だと信じていきたいです。

曲目
☆ヴァイオリン・ソナタ 第5番 ヘ短調 BWV1018  J.S.バッハ
バッハがケーテン宮廷楽長を務めていた1720年前後に作曲された6つのチェンバロとバイオリンのためのソナタ。今回ピアノとバイオリンで演奏される第5番は4つの楽章すべてが短調で作曲された名作。
尚、今回の公演で庄司紗矢香は脚の不調のため座って演奏した。
☆ヴァイオリン・ソナタ 第2番 イ長調 Op.100 ブラームス
 ブラームスが完成させたバイオリン・ソナタは3曲あるが、第2番は1886年夏、スイスのトゥーン湖で作曲された。第一楽章には「早く来い」「調べのように私を」という歌曲の旋律が引用されたバイオリンの名曲。
☆アンコール シチリア舞曲 パラディス

 

🎧名曲アルバム。モーツァルト 歌劇「魔笛」序曲。飯森&東京フィル
「魔笛」の上演回数は3か月で80回を超え空前の大ヒット。その熱狂の中でモーツァルとはこの世を去る。モーツァルトは死の床にあっても魔笛の旋律を口ずさんでいたという。作曲家冥利に尽きる最期とは思うのだけれども。

シカネーダが造ったアン・デア・ウィーン劇場の緞帳の一部
Dsc06344-2

⛳最近、キーの押し間違いが多々ある。一旦記事を消失。それに備えて先ずはワードの方に制作し、こちらに転記しているけれども。記事消失と一緒に感想もどこかへ飛んでしまったのだけれども、しかし、これだけの番組解説の後で、口をさしはさむ隙はないのも事実。
10時2分更新



| | コメント (0)

210311 クラシック倶楽部を聴く エール弦楽四重奏団 躍動のアンサンブル

メンバー4人が内外の著名なコンクールで上位入賞歴をもち、それぞれソロ活動も行う。2011年高校生の時に結成された、現在最も期待を集める若手アンサンブルの一つ。 メンバー4人が国内外の著名なコンクールに上位入賞歴をもち、それぞれがソロ活動も行う。2011年高校生の時に結成され、現在最も期待を集める若手アンサンブルの一つ【演奏】山根一仁(バイオリン)毛利文香(バイオリン)田原綾子(ビオラ)上野通明(チェロ)【曲目】弦楽四重奏曲D.810「死と乙女」(シューベルト)、弦楽四重奏曲 作品10から(ドビュッシー)【収録】2021年2月19日 紀尾井ホール(東京)ー番組紹介よりー

Dsc06286-2  

エール弦楽四重奏団は、高校時代に桐朋学園で出会った4人が2011年に結成。エールはフランス語で「翼」を表し、大きく羽ばたいていけるようにという願いをもとに名付けられた。ふだんは、それぞれがソリストとして海外を拠点に活動している。不定期に集まって演奏している。2021年で結成10周年を迎えた。
バイオリン 山根一仁
バイオリン 毛利文香
ビオラ   田原綾子
チェロ   上野道明

Q4人にとってエール弦楽四重奏団とは
山根一仁:久しぶりに今回このメンバーで弾いてるんですけど、リハーサルのときとかもやっぱり室内楽っていいなと思う瞬間がたくさんあったし、音楽家としても友達としてもすごく尊敬できて、楽しい仲間なので、そういった仲間と室内楽ができる自分、それが幸せでした。
田原綾子:よく話すのは、コノカルテットはエール弦楽四重奏団という名前はついているけれども感覚的にはファミリーみたいだよねとよく言ってます。
毛利文香:カルテットとして、常設のカルテットみたいにすごく頻繁に一緒に弾いているというわけではなくして、やっぱりそれぞれの勉強、ソロだったり別の室内楽やったりとか、そういうのをしながらたまに集まってカルテットを弾く感じなので、ちょうどいい頻度で演奏のために集まれてるのかなと、私自身はそういう感じがしてます。
上野道明:みんなそれぞれ違うところにいて違う場所で違う先生について、違う音楽のしゃべり方などを身につけてるから、久しぶりに集まったときは正直同じ音楽を作るのに楽ではない。みんなけっこう別の感じだから。だけどそんな中でお互いその違いを楽しみながらというか、その違いに影響を受けて刺激し合いながら作れるのがすごいいいと思います。

今回みんながそろったのは3年ぶりで、集まると昨日も会ったみたいなテンションでまた合わせの日々が始まるという感じなそうです。

 

曲目
弦楽四重奏曲ニ短調「死と乙女」D.810  シューベルト
 シューベルト自身が作曲した歌曲「死と乙女」の旋律を第2楽章の主題に用いていることから同じ名前で呼ばれている。当時シューベルトは病に侵されており、死を感じていた心境を表現したとも言われている。
弦楽四重奏曲ト短調 作品10 第1、4楽章 ドビュッシー
 当時は否定的な意見が多かったが、作曲家デュカスは自由ながらも明確な構成と大胆な和声を絶賛した。己の独立性を確立した第一歩となる。

ここからはネットからの引用です。
ドビュッシーは古い教会旋法などを活用することで、今までの誰もが気づかなかった繊細で茫漠とした響きを音楽の中に導入したのです。
当然の事ながらそれらの響きは当時の聴衆にとっては「不協和音」の一種として受け取られたはずです。
ですから、この作品が発表されたときの聴衆の反応は極めて冷淡だったと伝えられています。
しかし、多くが冷淡な態度を取る中で、この作品に新しい時代の到来を見いだした人もいました。「魔法使いの弟子」で有名なポール・デュカスもそんな一人で、彼は「ハーモニー自体も非常に大胆であるがいささかも耳障りではない。こうした不協和音は不快どころか全体の複雑な流れの中では協和音よりもかえって調和しているほどだ。」
「こうした不協和音は不快どころか全体の複雑な流れの中では協和音よりもかえって調和しているほどだ。」という言葉は、この作品の本質をもっとも見事に言い当てています。

🎵「死と乙女」、急こう配をすべり下りるようなところでの小気味よさ。シューベルトは死を見晴るかしながら、出来上がっていく楽曲にはほくそ笑み、こうだ、これでいい!と芸術的な満足にも浸っていたのでは。今回結成10周年のエール。3年ぶりに整合性を模索しての演奏は若さがあり明日を期待させてくれた。

🎧名曲アルバム。カルロス・チャベスの交響曲第2番「シンフォニア・インディア」
Dsc06299-2
一つの民族性を学ぶとき、その部外者の学びはどこまでも本質に届くことは難しいのではないかと言う気が。その点、研究し知悉した作曲家であるかと。
⛳きょうは東日本大震災の10周年。身近にあるお嬢さんを失くされた方の深い悲しみは傍で見ているだけでも涙に胸が刺されおろおろしてしまう。それでもまだまだこの方の悲しみの深さを知っている自分ではないと自覚。当事者のみが知る奥深くにいまだに生生としている深い傷の前には言葉を尽くせそうにはないことを思う。
10時20分更新。


 

 

| | コメント (0)

210310 クラシック倶楽部を聴く ベルチャ四重奏団

ダイナミックで自由な音楽解釈が高く評価されているベルチャ四重奏団。メンデルスゾーンの第6番ほか、作曲家の最後の弦楽四重奏曲を集めたコンサートからお送りする。【出演】ベルチャ四重奏団(バイオリン:コリーナ・ベルチャ、アクセル・シャハー、ビオラ:クシシュトフ・ホジェルスキー、チェロ:アントワーヌ・レデルラン)【曲目】弦楽四重奏曲第6番(メンデルスゾーン作曲)ほか【収録】2019年2月1日 紀尾井ホールー番組紹介よりー

ベルチャ四重奏団
1994年英国王立音楽大学の4人によって結成される。1999年大阪国際室内楽コンクール、ボルドー国際弦楽四重奏コンクールで優勝。以来確実にキャリアを重ね、確かなテクニックと情熱的な演奏で現代最高峰の弦楽四重奏の一つと評されている。

Dsc06243-2


コリーナ・ベルチャ:バイオリン ルーマニア出身
クシシュトフ・ホジェルスキー:ビオラ ポーランド出身
アクセル・シャハー:バイオリン後から加わったフランス出身
アントワーヌ・レデルラン :チェロ フランス出身

コメント
アントワーヌ・レデルラン
:コリーナとクシシュトフと四重奏をはじめた当初、「音楽文化」の違いを痛感しました。練習で注目するポイントがまったく違った。フランスでは技術的なことや音程が議論されますが、彼らにはすべての音に意味を感じさせることの方が重要だった。弦楽四重奏とは結婚生活のようなものです。お互いの隔たりを縮める努力によってすばらしい生活を送ることができるでしょう。
アクセル・シャハー:私は後から加わったので、音作りのやり方を観察する必要がありました。どのような曲にも新しい命を吹き込もうとしていました。「ここは適当に」という手抜きが一切ない。小さな部分にも何か面白いことを見つけそこで感じたことを聴衆と分かち合うのです。異なる解釈もありますが、私たちは自分たちの視点を紹介するだけです。
コリーナ・ベルチャ:常に「すり合わせ」が必要ですね。テクニックも違うし、ビブラートのかけ方も違う。アンサンブルとして目指しているのは、一つの楽器としての「響き」です。そのうえで各自の個性は大切に。会話と同じです。弦楽四重奏は4つの楽器の会話なのです。
今回は偉大な作曲家の最後の作品を集めたプログラムをつくりました。年月を経て作風が変化していく作曲家が、その人生の最後にたどり着いた形です。彼らの晩年の作品を並べたら面白いのではないかと考えました。
クシシュトフ・ホジェルスキー:そもそも弦楽四重奏というのは、西洋音楽が生んだ最高の芸術ですからね。毎晩名曲ばかり演奏させてもらってます。音楽家としてこれ以上幸せな生活はありません。

 

曲目
☆弦楽四重奏曲 変ロ長調 K.589 から モーツァルト
 モーツァルトの弦楽四重奏 の最後を飾る「プロシヤ王セット」の第二曲に当たる。チェロをたしなみ音楽を愛したプロイセン王フリードリヒ・ウィルヘルム二世の依頼で書かれた。王がこの曲を演奏することに配慮し、チェロが随所で活躍するのが特徴。
☆弦楽四重奏曲 第6番 ヘ短調 作品80  メンデルスゾーン
 1847年に作曲されたメンデルスゾーンの最後の弦楽四重奏曲。この曲に取り掛かる直前にともに音楽の道を歩んだ最愛の姉ファニーを失くしている。悲しみの中でこの曲を書き上げた2か月後彼自身も姉の後を追いように亡くなった。 

🎵はじめの数小節を聴いただけで、最後のブラボーが聴こえたような。互いが互いの音と音楽を熟知しており、それが互いの細胞の成分ともなっているのではと思うほど。愁嘆も悲しみも美しさと浄化。特にメンデルスゾーンの方でダイナミックにして情熱的と納得。斬新な切り口。これは最後まで迫り徹頭徹尾聴かせるのか、そしてそれは当たっていた。緊迫感が注意力を逸らせない。寂しげな影が移ろう。これがあの「ホ短調」を作曲した彼なのか。第2楽章での煩悶。第3楽章で魂の居場所を求め探り出したか。第4楽章、情動の緩急の巧みさ。1楽章がここで尚深まり行く感じが。おさまりのつかぬ索漠に敢えて折り合い整合性をつけるかに弦が融和し一つのマッスとなって落着。実にすばらしい演奏だった。

 

🎧名曲アルバム。遠藤真理のチェロ、上原彩子のピアノでラフマニノフの「チェロ・ソナタ」。叔母のイワノフカの邸宅、1901年には「チェロ・ソナタ」はこの屋敷で。「ピアノ協奏曲第2番」もここでであったか。作曲を育んだこの屋敷も土地もロシア革命で没収される。どのようなルートでアメリカに渡ったのであったか。二度とロシアには帰れなかったというこのドラマ。

⛳写真は、ブログ容量の関係で、後日には消えます。
きょうもいい天気。8時24分更新。

| | コメント (0)

210309 クラシック倶楽部を聴く 青木尚佳 バイオリン・リサイタル

若手の新星・青木尚佳、そしてバイエルン放送交響楽団で首席奏者を務め、現在は世界各地で活躍するウェン・シン・ヤン。個性際立つふたりによる二重奏の世界をお送りする。【出演】青木尚佳(バイオリン)、ウェン・シン・ヤン(チェロ)【曲目】八つの小品 作品39から(グリエール作曲)、バイオリンとチェロのための二重奏曲 作品7(コダーイ作曲) ほか【収録】2018年12月4日 武蔵野市民文化会館小ホールー番組紹介よりー

 

青木尚佳(ヴァイオリン)
ロイヤルアルバートホール、ウィグモアホール、カドガンホールなどで演奏、チャールズ皇太子よりタゴール・ゴールドメダルを授与された才媛。
ウェン・シン・ヤン(チェロ)
ジュネーヴ国際に優勝し、C.デイヴィス、サヴァリッシュ、マゼールなど世界の巨匠たちと共演してきた名手。

プログラム
4つの二重奏曲(8つの小品Op.39より) グリエール
☆無伴奏ヴァイオリン・ソナタ第4番 ホ短調 Op.27-4(ヴァイオリン・ソロ)  イザイ 
☆ヴァイオリンとチェロのための二重奏曲 Op.7 コダーイ

青木尚佳のコメント:ウェン・シン・ヤンの魅力は、ものすごく深い音を出される方で、支えてくれるというのがいちばん大きいですね。すごいコンスタブルだと言って下さるんですけれども、私の方がすごく頼りにしている部分もありますけれども、対等に音楽を奏でてくださっているというところが一番の魅力かなあと思います。
ウェン・シン・ヤンのコメント:尚佳は技術があり自然な音楽性を持つ。自由さが備わっている。

 

🎵バイオリンとチェロの二重奏曲は沢山あるだろうと思っていたところ、これが意外に少ないのだという。その中からの選曲がグリエールの「二重奏曲 作品39」。第45曲がちょうどバイオリン描く細い川とチェロが描く幅広の川が地の上を交差し、くっきりと跡を記しながら歌い流れ下るような映像が想像せられる。7のスケルツォの躍動感に遠景に見えていた川が近景と迫り、あがる飛沫に砕け遊ぶ。
イザイの「無伴奏ソナタ第4番」。おもしろいのは1924に全6曲が完成するのだが、それぞれが偉大なバイオリニストに捧げられているところ。因みにこの4番はフリッツ・クライスラーに献呈されている。イザイも光と影の作曲家。この第4番の第3楽章では、これもあるか、そこにもある、おお、むこうにも、スポットライトが隠れた存在を照射し、存在をくっきりと浮かび上がらせていくのだ。さて、献呈された名だたるバイオリニストとは、と見ると、第1番はヨーゼフ・シゲティに。第2番はジャック・ティボーに。第3番はジョルジェ・エネスクに。第4番はもちろんフリッツ・クライスラーに。第5番はマチュー・クリック・ボームに。第6番はマヌエル・キロガに。すべて7~12分前後の曲。イザイが曲を献呈したがゆえにその後までも名をのこすことになったバイオリニストが何人かはいるだろうという側面があるかないかを知るには、その演奏を聴いてみるほかはないのだが。ここで思うのはイザイのために献呈された作品はあるのだろうか。デュメイ、カプソン、パパヴラミといった大物たち。エリザベート音楽院やエリザベート国際コンクールから排出された人々による作品があるようだ。こうして辿るときりもないのでこの辺で。
コダーイ「二重奏曲 作品7」。コダーイは民俗音楽の研究者。どこを取っても聴くたびに新鮮。影響の大きい曲はたとえ繊細な旋律にさえも、その内にもどこか骨太な感じが聴こえるのだ。このお二人の「二重奏曲 作品7」は絶品。民俗音楽的な響きを醸しながら異次元の音を探りだし、にれ食んでいるかに始まり民俗色を土台に、そこを一つ超えた響きをテクニックを駆使しながら展開させていく。言語が音楽をダメにしたと誰かが言っていたが、このところのすばらしさを言語化しかねて焦りを覚えている自分がある。そんなときは「素晴らしかった」というこの一言に集約する。

 

🎧名曲アルバム。青森県民謡「津軽じょんがら節」
【唄】松田隆行,【津軽三味線】澤田勝秋,澤田社中 ~青森県弘前市、五所川原市~【唄】松田隆行,【津軽三味線】澤田勝秋,澤田社中 ~青森県弘前市、五所川原市~  

津軽三味線の始祖は仁太坊という方なようだ。澤田社中の演奏を聴いていてつながったのが高橋竹山。竹山が鳴りだすのだ。竹山は5歳の時麻疹がもとで失明。7歳で父を、16歳で母を失う。13歳で三味線の師匠につき、18歳で門付けをして歩き、19歳で三味線の師匠となる。竹山は門付けや民謡の伴奏者としての時期が長かった。彼は蔑まれて屈辱というものが骨の髄に染みている。この境涯にある人々は金が入ると酒を飲み博打をし女を買い身を持ち崩す者が多かった中で、しかし、竹山はそういう人々とははっきりと一線を画した。たとえ嫌がらせを受け悪口を言われても。
 竹山は29歳でやはり眼の不自由な29歳の亀田ナヨと結婚。ナヨはイタコを職業に竹山を支えた。1950年津軽民謡の大家竹雲と勤労者音楽協議会のコンサートに招かれ、プログラムにはなかったが、請われて3曲三味線を独奏。この後、独奏者としての道を歩む。彼はこれまでの民謡興行などで知った客とは全く違った聴き手がいたことに目覚める。ここから竹山の猛烈な勉強が始まる。彼の才能を認め協力を惜しまなかったのが佐藤貞樹。青森県に生まれ、青森芸術術鑑賞会の事務局長などを歴任した方だ。佐藤はアジアの民族音楽、南米もの、スペインのフラメンコギター、バッハ、モーツァルト、ジャズ、ゴスペル等などを竹山に届ける。そして日本中に知られるようになり、77歳でニューヨークを皮切りに7都市で本格的なツァーを行うところまでものぼり詰めている。
 以上は、佐藤貞樹著「高橋竹山に聴くー津軽から世界へ」(津軽書房刊)からの抜き書きです。このような人材が報われることの嬉しさもあり、筆記してみました。あとは著書をご覧ください。

⛳9時56分 更新

 

| | コメント (0)

210308 クラシック倶楽部を聴く クァルテット・エクセルシオ ベートーベンを奏でる

「弦楽四重奏曲作品59「ラズモフスキー」第1番ヘ長調」ベートーベン:作曲,(弦楽四重奏)クァルテット・エクセルシオほか 「弦楽四重奏曲作品130から第5楽章」ベートーベン:作曲,(弦楽四重奏)クァルテット・エクセルシオ ~2021年1月15日めぐろパーシモンホール大ホール(東京)で収録―番組紹介よりー

クァルテット・エクセルシオ
第一バイオリン 西野ゆか
第二バイオリン 北見春菜
ビオラ   吉田有紀子
チェロ   大友 肇

1994年桐朋学園在学中に結成。国内外の数々のコンクールで受賞。日本では数少ない常設の四重奏団として四半世紀を超えて第一線で活躍し続けている。

コメント
西野ゆか
:弦楽四重奏、最初の頃は、こうやって練習してきたものを温めたものをコンサートでみんなに聞いてもらうという意識が強かったと思うんですけど、これだけ何度も弾いてまた今後も弾くチャンスがあることが、自分たちの中にあって、あのときはこんな考えでこんなふうに演奏してきたけど、今はまた違ったり、未来もまた新しいアイデアが生まれると思うし、また違った意味での楽しみが今はできていると思います。
吉田有紀子:もうとにかく作品がすばらしいというところが第一にありますし、ハーモニーの美しさというのが神がかったような感じがあるので、もう特別な存在ですね。
大友 肇:ベートーベンって、たしかにメロディーとかメロディーラインあるんですけれども、役割がメロディーと伴奏というそういう分け方じゃない。ほんとうにもう4人が音楽の主導を持っている。そういう存在が絡み合って何かもう一つの世界を作るという、そういうところが最大の魅力じゃないかなと思います。
北見春菜:「ラズモフスキー」第一番は、初期の作品6曲と比べて、壮大なスケールというか演奏時間も長いですし、技術的にもけっこう演奏するのが難しい作品ではあるんですけれども、特に2楽章とかもすごくリズミックですし、強弱のコントラストもすごくあったり、たぶん聴いていても面白いと思うんですけど、視覚的に見ていてもすごく面白いのでがないかなと思います。4楽章は4楽章ですごく明るくて軽快な雰囲気なんですけれども、今けっこう世の中は暗いニュースが多いんですけれども、この曲を聴いていただいたらみなさんハッピーな気持ちになっていただけるんじゃないかなと思います。

曲目
弦楽四重奏曲 作品59「ラズモフスキー」第一番 ベートーベン
 ベートーベンはウィーン駐在ロシア大使ラズモフスキー伯爵の依頼を受けて3曲の弦楽四重奏曲を作曲した。ベートーベン中期の代表作に数えられ、初期の弦楽四重奏曲とは一線を画する独創性と豊かな楽想を持つ。
弦楽四重奏曲 作品130から 第5楽章      ベートーベン
 1825年に出版されたベートーベン後期の弦楽四重奏曲。全体は6つの楽章からなる。美しい旋律を持つ第5楽章「カヴァティーナ」は、作曲者自身もその出来栄えに満足したといわれる。

🎵今回の曲は暗闇を超えて光にといった根底の苦悩から発しているのではないなと。ラズモフスキー、2楽章で何かドラマがはじまりそうな気配も感じさせるけれどもそこには平明な幸せな気分も感じられる。3楽章は穏やかな空気に穏やかな会話が美しく流れ時としてさざめくような哄笑が聴こえる。このような曲調というのは自らが安定、充実しているときに浮かぶものなのかもしれない。「作品130 第5楽章」、夢うつつに心地よく流れているような。コメントで吉田さんが「神がかったような」と仰っていたが、質問内容を見落としたのだけれども、この第5楽章について仰ったものかと。

🎧名曲アルバム。プッチーニの歌劇「ジャンニ・スキッキ」から「フィレンツェは花咲く木のように」テノール与儀巧。「私の父さん」ソプラノ砂川涼子。飯森&東京フィル。
Dsc06178-2
フィレンツェのヴェッキォ橋。プッチーニは18世紀から続く宗教音楽家の家系だったようだ。


⛳けさは薄曇り。ここの5時の外気温は-3度。
きょうは、おととい買った本でもゆっくりと開いて楽しもう。さてどんな面々がどんな表情で登場するやら。
9
38分、辛うじて更新。

| | コメント (0)

きょうのことば 『神の喜ばれること』

インマヌエル盛岡キリスト教会20210228()の礼拝メッセージをおつたえいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で47年目のご奉仕をしておられます。
Img153_20210214052501

説教題 『神の喜ばれること』  (國光勝美 牧師)
聖書引証 新約聖書 ヘブル人への手紙1116

1 さて、信仰は、望んでいることを保障し、目に見えないものを確信させるものです。
2 昔の人たちは、この信仰によって称賛されました。
3 信仰によって、私たちは、この世界が神のことばで造られたことを悟り、その結果、見えるものが、目に見えるものからできたのではないことを悟ります。
4 信仰によって、アベルはカインよりもすぐれたいけにえを神に献げ、そのいけにえによって、彼が正しい人であることが証しされました。神が、彼のささげ物を良いささげ物だと証ししてくださったからです。彼は死にましたが、その信仰によって今もなお語っています。
5 信仰によって、エノクは死を見ることがないように移されました。神が彼を移されたので、いなくなりました。彼が神に喜ばれていたことは、移される前から証しされていたのです。
6 信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。

<おはなし> 

 きょうは「神の喜ばれること」、この説教題に導かれております。3月末には受難週を迎え、4月早々にイースターを迎えます。世界中のクリスチャンたちにとって、今年はこの3月がイエス様の十字架を思いめぐらすよいときであります。


 私がイエス様の十字架の贖いの恵みを個人的に深く知らせていただいたのが、ヨハネの福音書1419節「我生くれば汝らも生くべければなり」。ほんとうに主はご自身がよみがえってくださり、その証しとして、ラザロを復活させてくださった。「死んで4日も経っている」というと、「もし信じるなら神の栄光を見るとわたしは言ったではないか」と語られたイエス様。このような思いめぐらしの中に、そうだ、神様が喜ばれることは、「もし信じるなら神の栄光を見る」という信仰なのだ。この十字架の贖いの、そして復活の主イエス様を信じる、この神に喜ばれる信仰というものを心に留めさせていただこう。このように導かれていったのはヘブルの11章のおことばであり、きょうのおことばにたどり着いたというプロセスを今ご紹介いたします。そんな思いめぐらしの中で、「神の喜ばれること」、これを2月最後の聖日、この日に心に刻ませていただきましょう。

「聞き従う心」、これを神様は喜ばれる。それから、「悔い改める心」、これも神様は喜ばれる。そして、神様が喜ばれるのは「信仰、信頼の決断」です。

20210228-210744
 

 まず最初に「聞き従う心」。
第一サムエル1522
22
サムエルは言った。「主は、全焼のささげ物やいけにえを、主の御声に聞き従うことほどに 喜ばれるだろうか。見よ。聞き従うことは、いけにえにまさり、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる」
 きょうのメッセージで最初に申し上げたいことは、聞き従うこと。これはいけにえに勝る。そして、耳を傾けることは雄羊の脂肪に勝る。
 神様をお喜びさせるために、私たちは、旧約の時代の宗教的なならわしでいうならば、最上のいけにえを神様の前にお捧げすることであると考えます。神様に最上のいけにえを捧げる。誰でも、立ち止まっていよいよ神様の喜ばれることを思うなら、それは、神様の御心を聞いてそして従うことです。ならば、私たちがこの1週間を振り返って、果たして神様のお声をどれだけ聞いたかどうか。そして耳を傾けてそれに従っただろうか。このことを自問自答させられたのであります。
 ここにミカ書678
7
主は幾千の雄羊、幾万の油を喜ばれるだろうか。私の背きために、私のたましいの罪のために、胎の実を献げるべきだろうか。
8
主はあなたに告げられた。人よ、何が良いことなのか、主があなたに何を求めておられるのかを。それは、ただ公正を行い、誠実を愛し、へりくだって、あなたの神とともに歩むことではないか
 
いちばん良いささげものを持って行けば喜ばれるのか、ならば、イサクのように長子をささげたならどうだろうか、8節にその答えがあります。「どんなすばらしいいけにえを持ってきたとしても、そんなことではない。私が耳を傾けて神様のお声を聞いてそして神様が願っておられるそれに聞き従っていくことが、これこそが神様のいちばん求めておられることではないのか」。ミカという旧約の預言者はこう述べております。

 私がこのおことばを思いだすのは、アメリカの大統領が就任するときに、聖書に手を置いて宣誓をいたします。敬虔なクリスチャンとして今でも尊敬を受けているジミー・カーターという大統領がおりました。彼がクリスチャンとして誠心誠意の証し、聖書に手を置いて宣誓する。そのときにこのみことばを引用したのです。神様が一国のリーダーとして私に求めているのは、ほんとうに遜って神と共に歩むことであると。
 このおことばをこころに留めながら、「おはなしください。しもべは聞いております」。神様が自分に何をお語りになるかをしっかりと心に留めて、そしてその声に聞き従うという歩み、これがきょうの第一番目のポイントです。神の喜ばれることは、私たちが神様のお声を聞き、そしてへりくだって、あなたの神とともに歩むこと、これこそ神が喜ばれることである。

20210228-210717

 

さて、もう一つのポイント、これは、悔い改めることであります。詩篇511617節をお開き下さい。
16
まことに 私が供えても あなたはいけにえを喜ばれず 全焼のささげものを喜ばれません。17 神へのいけにえは 砕かれた霊。打たれ 砕かれた心。神よ あなたはそれを蔑まれません。

 ダビデはすばらしい王様でありました。しかし彼も大きな弱さとそれゆえの罪を犯してしまいました。彼は自分の犯した過ちを指摘してきた預言者ナタンを、即刻クビにすることもできた権力者です。しかし、ダビデは預言者ナタンを通して指摘された自分のありよう、生き方、失敗、それをしっかりと受け止めました。彼は、ほんとうに砕かれたのです。「打たれ砕かれた心」とあります。私たちの心の中には、砕かれることを拒み反発したくなる思いがあります。そんなこと言ったって! あるときには逆上して、そういうお前はどうなんだ! と言い放つことさえあります。人間は、人間はというよりも、自分自身のこれまでの心のありようを見たときに、ああ、ほんとうにそうだ。他人の目のチリは見えても自分の目にあるハリには気がつかない。しかし、ああ、主よ、私こそまさにナタンが指摘した貪欲で傲慢なその男です。ダビデはその自分の至らなさを指摘されたときに、ほんとうに心から砕かれた歩み方をしました。そうです。神様が最もお喜びになる私たちのあり方、それはいつでも砕かれて主の前に聞くことのできる心のありようであること。この姿勢となることは神様がお喜びになる大切な要素です。これを2番目に心に留めさせていただきました。

20210228-210611116

1番目に聞き従う心、そして、2番目に悔い改める心、そして、3番目は、信仰と決断です。

きょうのヘブル人への手紙11章をお開き下さい。この6節に焦点を合わせてみます。
6
信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。

 神に喜ばれるには、「神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださること」を信じて、それを行動に移すこと。いちばん最初に序説でお話しさせていただきました。ラザロがすでに死んで墓に葬られて4日も経っている。すでに腐敗している。そのラザロの墓に向かって主イエス様は「ラザロよ出で来たれ」と仰いました。「われ活くれば汝も活くべければなり。一般論としてそれを信じて、それを、主よそうですその通りですとこれを自らに当てはめる、これを神様は何よりも喜ばれる。「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません」。

 この前ご紹介した田部井淳子さんですが、日本を代表する登山家です。彼女が「厳冬期3月」と言ってましたが、谷川岳の一の倉沢、凹状岸壁に挑戦したそうです。エベレストも制覇し、女性で初めて世界の7つの大陸の最高峰にも登ったもうとんでもないこの彼女が、いちばん辛かった思い出は何であったか。あの厳冬期の谷川岳の凹状岸壁を登ったときだった。そのとき、トップを登った人は一流の男性クライマーで、そのところをクリアしました。3人で登って2番目は田部井さん。この田部井さんという方、女性は男性よりふつう小柄なのですが、女性の中でも小柄な方なんです。この田部井さんが2番目。そして田部井さんの下、しんがりは、たくましい若い力のある男性でした。トップがその凹状岸壁をみごとに登って、さあ、次に田部井さんが続いて登ろうとする。それが、先頭のクライマーが引っ掛けた引っ掛かりにどうしても手も足も届かない。体格的に言って。どうすることもできない。進退きわまってしまった。向こう側に倒れている壁なら急であってものぼれるのでしょうけれども、90度よりも自分の方に反り返ってくる。オーバーハンギングでまさに自分の方に倒れてきているその壁の上の方に行かなければならない。彼女は葛藤します。先が見えないということがどんなに心細いか。先頭がたしかに先に登っていて、「大丈夫だ、さあ、ここにいる大丈夫だ。ちゃんとロープは確保してあるから」と田部井さんに促している。手がかり足がかりはないわけです。「いいから上に飛びあがれ、ロープを掴め」。見えないところを。まさにヘブルのおことば、111
1
さて、信仰は、望んでいることを保障し、目に見えないものを確信させるものです。
 先に行った人が、「大丈夫だ俺がちゃんとロープを張ってあるから、見えなくてもいいから上に飛びあがれ、必ず掴むことができるから」。彼女は思い切ってジャンプしました。そして、ようやく足がかり、手がかりを得て凹状岸壁を乗り越えることができた。結局、とりつくのに時間がかかり遅くなってしまい、もうそこで一夜明かさなければならなくなります。アイゼンの先を二つ何とか岸壁に足を置くスペースがあったそうですけれども、そこで一夜明かさなければならなかった。そのことをも含めて、いちばん辛かった経験だった。思い切って飛び上がってしがみつく、これは信仰と同じだと思いました。私たちはイエス様を見たことがありません。だけれども、私たちはザイルのトップを行った男が、大丈夫だ、俺はもうここに来ているから、ロープを張ってるから、それはイエス様です。イエス様がもう先にちゃんと贖いを成し遂げて「大丈夫だ、「われ活くれば汝も活くべければなり 」。わたしはもうこのように死んでよみがえってるんだから、だいじょうぶ。信じて飛びついてこい」。大丈夫だとわかっていることと、実際に飛びあがることこととはまた別なことなのです。だけれども、「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません」。大丈夫だと信じてそこに思い切ってばっと飛び込む。それをすること。一般論としてイエス様の十字架と、一般論としてイエス様のよみがえりと復活を信じているクリスチャンはいっぱいいるでしょう。けれども、田部井さんではありませんけれども、ほんとうにお願いねと信じて、ぽんと飛び上がって握りしめるというその行動こそ「信仰がなければ、神に喜ばれることはできません」というこの6節のおことばではないでしょうか。

6 信仰がなければ、神に喜ばれることはできません。神に近づく者は、神がおられることと、神がご自分を求める者には報いてくださる方であることを、信じなければならないのです。

 ほんとうにイエス様が復活し、よみがえってくださった。主よどうぞ宜しくお願いしますと、ご自分を求める者には必ず報いてくださるお方を信じて思い切って飛び込む。これこそ神がお喜びになることです。

 一つ、聞き従うこと、二つ目、神様のお声にほんとうに砕かれること。そして三つ目に、ほんとうに神様のおことばを信じて飛び込むこと。どうか私たちもしっかりと、みことばに私たちのアイゼンを食い込ませて、このみことばをしっかり握って、神に喜ばれる生き方をさせていただこうではありませんか。

※音声データ、画像は教会からお借りしています。
⏰眩い朝の光を受けながら6時44分更新

 

 

 

| | コメント (0)

雑感

 土曜は何かゆったり。けさは6時5分起床。毎日22時前後には休むのだけれども。生活に関して書くことは滅多にない。有名人であれば読む方にはちょっとしたことも面白いかもしれない。けれども凡人の暮らしのどこが面白かろう。ほとんど毎日、同じようなパターンの繰り返し。きょう珍しくそれを記してみると、家事、ぼちぼちと読書、説教の起こし、散歩がてらに最寄りの書店、古書店、スーパーマーケットへ。1時間で帰宅。
珍しく音楽を聴かない一日だった。

 ミケランジェロが自ら引いた図面によるサンピエトロ大聖堂ドーム。ミケランジェロは72歳でこの仕事を無償で引き受けている。ついつい見てしまった「バチカン秘密の宮殿」。ミケランジェロの生き生きと隆々とした絵画、またそこに描き込まれた怨嗟にも驚く。

 どうもこのTVの背景に流れる音楽だけは聴いていたことになるようだ。

| | コメント (0)

210305 クラシック倶楽部を聴く 波多野睦美 メゾ・ソプラノ リサイタル

波多野睦美が続けてきた「歌曲の変容シリーズ」の第13回。波多野睦美とピアニストのジュリア・スー、コンテンポラリー・ダンスの辻田暁の3人が18世紀後半から19世紀にかけて活躍した作曲家たちをそれぞれのフィールドで描く。【収録】2019年11月12日 王子ホール(東京)ー番組紹介よりー

 

波多野睦美(メゾ・ソプラノ)
ロンドンのトリニティー音楽大学で声楽を学ぶ。シェークスピア時代のリュート歌曲でデビュー。知られざる歌曲の魅力を紹介し話題となり高く評価される。バッハ、ヘンデルの宗教音楽やオラトリオでソリストとして活躍しオペラでは深い表現力で注目される。現代音楽にも積極的に取り組み、多くの作曲家から厚い信頼を得ている。
ジュリア・スー(ピアノ)
台湾出身。イギリスのロイヤルアカデミーでマスターデユプロマ、ハノーヴァーの音楽演劇大学でソロ演奏家デュプロマを習得。ダンサーや声楽家と共演するなど多方面にわたり活躍。
辻田暁(コンテンポラリー・ダンス)
滋賀県出身。6歳よりクラシックバレエをはじめ、桜美林大学でコンテンポラリーダンスに出会い、木佐貫邦子に師事。これまでに浜口彩子・楠原竜也(APE)・山下残などの作品に出演。また、手塚夏子キュレーターLabo20#21にてソロ作品を発表。

 

波多野睦美のコメンント
Q
歌詞を翻訳する楽しみについて
もうとにかく歌曲が好きで、歌曲の中でも大きな歌曲よりも小さい歌曲が好きなんですね。すばらしい作曲家が詩に反応したときの一つひとつの詩に対する反応というのが小さな歌曲の中にはよりそれが味わえるかなという思いがいつもします。作曲家が感じたことばが音楽になっているわけですよね。だからそこを歌って体に通した後で、何言ってるんだろう、このいいところはって、でし、という単語であったとしてもその前後の状況でその照り返しが違ってきますよね。それをもう一回辞書を調べてみたりすると、え、こんな意味もあったからこうなってるのかなと。作曲家が感じた詩を訳すのが好きなんだと思います。

曲目

「寂しい森の中で K.308」モット:作詞、モーツァルト:作曲
「クロエに K.524」ヤコービ:作詞、モーツァルト:作曲
「ルイゼがつれない恋人の手紙を焼いた時 K.520」バウムベルク:作詞、モーツァルト:作曲
「すみれ K.476」ゲーテ:作詞、モーツァルト:作曲
「アデライーデ 作品46」マティソン:作詞、ベートーベン:作曲
「ピアノ・ソナタ 第14番 嬰ハ短調 作品272「月光」から 第1楽章」ベートーベン:作曲
(ピアノ)ジュリア・スー、(ダンス)辻田暁
「夜の曲 作品362」マイアフォーハー:作詞、シューベルト:作曲
「歌曲集「冬の旅」 作品89から 第5曲「ぼだい樹」」ミュラー:作詞、シューベルト:作曲
「歌曲集「冬の旅」 作品89から 第17曲「村で」」ミュラー:作詞、シューベルト:作曲
「魔王 作品1」ゲーテ:作詞、シューベルト:作曲
(メゾ・ソプラノ)波多野睦美、(ピアノ)ジュリア・スー、(ダンス)辻田暁
「夕暮れの情緒 K.523」カンペ:作詞、モーツァルト:作曲

🎵前半、恋の歌が多いのだが、熱を帯びた感じ、切ない思いといったところを詞と歌で切々と。ゲーテの「すみれ」だけが花の姿に似つかわしくない無惨さもちょっと。「アデライーデ」。ベートーベンがこの曲をマティスに献呈している。自然の中でほめたたえられる愛しい幻、影ともいえるだろうが次のフレーズ「灰になった心臓から咲く花」には!
後半はダンスとのコラボ。辻田暁のコンテンポラリーダンス。ベートーベンの「月光」に合わせて。激しい、或いは強い感情表現はダンスでは比較的表現しやすいのではないかと推察するが、この曲のように深い奥行と憂いを湛えた緩やかな旋律をからだを用いて表現するのは並大抵のことではないだろう。主に肩から指先までをしなやかに使って、闇の中に息を吹き返すようにゆっくりと動きだし、ゆったりとしたときの空気の流れに逆らわず魂を漂わせる。月が照らすほの暗い夜の愁嘆、息遣いが伝わってきた。楽器、声楽でもよく思うのだが、小さく低く抑揚のない旋律をいかに単調さを曳くことなく奥深く緻密にしかも豊かに芸術的に表現するか、そこが生きるか死ぬかの分かれ目と感じることがよくあるけれども、この「月光」のダンスでの表現はそれをクリアした域と思われた。
シューベルトの「夜の曲」、老境の達観した心境。

ひとりの老人が竪琴を手に進む
そして森に向かって歌い始める
「清らかな夜よ もうすぐすべてが終わる 
私はもうすぐ永い眠りにつく
緑の木々がさざめく
すべての苦しみから解放されるのだ」
緑の木々がさざめく
「眠りなさい安らかに 良き老人よ」
死が彼に向って身をかがめた
(ところどころを抜粋)


次はシューベルトの「冬の旅」。第5「菩提樹」。うれしいときも悲しいときも寄り添ってくれる菩提樹。これもどう訳されているのか。

泉のそば 門のところに
立っている1本の菩提樹
その木陰で夢を見た
たくさんの甘い夢を
幹に刻んだ
たくさんの愛の言葉
嬉しいときも悲しいときも
樹のもとへ行った
今日もまた 旅だ

樹の前を通った真夜中
暗闇の中でも
この目を閉じた
すると梢がざわめいた
呼びかけるように
ここへおいで 友よ
きみの安らぎがあるのはここだ

冷たい風が吹きつける
真正面からこの顔へ
帽子が頭から飛んでいった
振り返らなかった

 もとはミューラーの詩。当初は暗さに驚かれたという経緯もあるようだが。多くのことばを書き付けられる菩提樹。いいときも悲しいときも苦しいときも不遇のときも、言葉を書き付けられる樹木。
 前半とは違った人生の味わいの後半。
シューベルト「魔王」。モーツァルト「夕暮れの情緒」、このときモーツァルトの父が病に伏していたとか。歌われる人生の終末。
 波多野の訳詞でじっくりとリートの数々を聴くことができた。

🎧名曲アルバム。グリーグ「孤独なさすらい人」「春に寄す」
小山実稚恵さんのピアノ。フィヨルドの厳しくもあたたかな春の自然とロフトフース村にあるグリーグの作曲小屋訪問。この土地名も記憶に留められるかどうか、しかし現地では丁寧にいたるところに標識が設けられるなどしているのだろう。
Dsc06147-2

⛳音楽のいわば朝練のメモ書きも、先ずは途中で一旦休んで、という怠け心が芽吹いたときから、ほんとうに遅れるようになってしまった。朝食を出して、コーヒーを飲んで、の次に掃除機もかけて、洗濯もして、が挟まるようになり、次は何が入ってくるのやら。生涯学習の道は平たんではない。
クラシック倶楽部の最中に「4時28分ごろ南太平洋に地震。太平洋広域に津波の発生の可能性が高い」とニュース速報。暗たんとした思いに。
まだ7時のニュース以降を見ていないが、どうなったものか。
それにしても今そとは春の陽気が。11時9分更新





| | コメント (0)

210304 クラシック倶楽部を聴く 清水華澄 メゾ・ソプラノ リサイタル

「未来の自分へ」と銘打たれた清水華澄の初リサイタルから。「さすらう若者の歌」「臨死船」と、人生や未来に正面から向き合った意欲的なプログラムを聴く。【出演】清水華澄(メゾ・ソプラノ)/鈴木広志(サクソフォーン)/越知晴子(ピアノ)【曲目】さすらう若者の歌(マーラー)/「エディプス王」から(ストラヴィンスキー)/臨死船(詩:谷川俊太郎 根本卓也作曲)ほか【収録】2018年6月26日 紀尾井ホールー番組紹介よりー

清水華澄(メゾ・ソプラノ)
静岡県生まれ。国立音楽大学大学院修了。イタリアボローニャ留学を経てオペラの舞あたし台を中心に精力的に活動。この度は自身初のリサイタルを行う。
越知晴子(ピアノ)
ミュンヘン国立大学の大学院を修了。ソリスト、また歌の伴奏で高い評価を受ける。
鈴木広志(サクソフォーン)
東京芸術大学で学んだのち、演奏家、作曲家、プロデューサーとして活躍。


 清水華澄のコメント
毎日が当たり前のように訪れるのは奇跡だと思い始めているんです。だんだん大人になって色々なことを経験していくうちに明日が無事に来るというのはほんとうに奇蹟なんだなと思うようになって、さらに感謝の言葉は必ず伝えるということを心がけるようにしています。音楽を心から楽しめる時間を必ず持つようにしている。どうしても仕事にしてしまうと違う感情も芽生えてしまうと思うので、オーケストラの演奏会とかに足を運んでそこで音楽を思い切り浴びて、あとそこでプレイしている皆さんに心から尊敬する気持ちを忘れないようにしています。
「臨死船」については、私と根本さんは新国立劇場の音楽スタッフさんに入ってらして、私が歌手で、根本さんがプロンプターだったり、そのときにちょろっと発音を指導してくださるときもあるんですね。で、根本さんにぜったいディキション習いたかった。ラテン語もそうなんです。そこでその話を根本さんに相談したら、じゃ僕の曲を歌ってもらえますかと仰ってくださって、根本さんが作曲家でもあるのをそこではじめて知って、彼の作品を集めたCDをいただいて、そこで聴いたら、そのときに私の気持ちと谷川さんの詩が合ったので不思議で、是非これを歌わせて欲しいとお願いしたのが始まりです。

曲目
「さすらう若人の歌」グスタフ・マーラー。詩の訳は喜多尾道冬。1さすらう若者の歌2朝の野辺を歩けば3燃えるような短剣で4彼女の青い目が。
『エディプス王』より「恥と思わぬか、王子たち」ストラヴィンスキー
詞の訳は浅沼圭司 因みに浅沼氏は岩手県盛岡市生まれ
カンタータ『臨死船RINSHISEN* 谷川俊太郎 詩/根本卓也 曲
アンコール 「うたうだけ」 谷川俊太郎 詩  武満徹 曲

 

🎵「さすらう若人の歌」、きのうきょうの起きがけになぜかこの歌が頭の中で流れていた。けっこう取り上げられることが多い。マーラーの実体験を詞に曲にしたものだけに、その真実味に惹かれるのだろう。3の燃えるような短剣で、は劇的。抉られるような苦悩、苦悩で自らを苛む。最後に癒されるのが、これがぼだい樹の樹下。菩提樹の下でぐっすりと眠り、たぶん目覚めたときに光の中に菩提樹の花が白く降り注いでいたというのだろう。

その光景にこの世の苦しみを忘れた
すべては昔のように
すべてはすてきだった!
すべて すべて!
愛も悲しみも
またこの世も
また夢も


と癒され昇華された心境となるのだけれども。


「臨死船」、現代の特異なテーマを曲に。サクソフォーンが様々な状況にある人の影、声の影のまたは魂のかもしれないが、その揺らぎのような効果が。曖昧模糊とした感覚も引き連れ独特な空間に浮遊し或いは、漕ぎゆく。「手を握ると手ごたえがない。そのかわりに気持ちが手に取るようにわかる」。「死んだ後に残るものは」。「体だけじゃなく魂もあると思った」。「音楽を頼りに歩いてゆくしかない」と終わる。

バス、バリトンのアリアでは、「はい、慎んで拝聴いたしました。すごかったです」という感じだった。曲の内容も安閑とは聴けない内容が多かったこともあるけれども。今回のメゾ・ソプラノはちょっと肩の力を抜いて楽しめた。

🎧名曲アルバムは「ティル・オイレンシュピーゲルの愉快な悪戯」リヒャルト・シュトラウス
ティル・オイレンシュピーゲルは14世紀ドイツ北西部を放浪し悪戯、悪事の限りを尽くした人物。それがいまだに子どもたちにも大人気。最後は絞首刑に。ドイツ北部の町メルンの聖ニコライ教会に墓標もあるようだ。こうして書くところを見ると、どうも私もティルがどんな悪戯をしたものかをもっと詳しく知りたい野次馬根性がいまだに捨てられない一人なのだ。
Dsc06054-2

で、岩波文庫版はこちら

⛳9時03分更新。

 

| | コメント (0)

210303 クラシック倶楽部を聴く 笛田博昭 テノール・リサイタル

日本を代表するテノール・笛田博昭が、オペラ・アリア、歌曲の伴奏者として一流歌手から絶大な信頼を寄せられているスカレーラとベッリーニ、マスネなどの名曲の数々を熱演【出演】笛田博昭(テノール)ヴィンチェンツォ・スカレーラ(ピアノ)【曲目】マリンコニーア(ベッリーニ作曲)、オシアンの歌「春風よ、なぜ私を目ざますのか」(マスネ作曲)ほか【収録】2019年6月9日 テアトロ・ジーリオ・ショウワー番組紹介よりー

 

笛田博昭(テノール)
名古屋芸術大学音楽学部声楽科を首席で卒業。同大学院修了後ミラノで学ぶ。2012年フェッラーラ国際コンクールで優勝。歌劇「トロヴァトーレ」マンリーコ役でイタリアデヴュー。「アイーダ」「マクベス」「運命の力」など多くのオペラ作品に主要な役で出演を重ねている。
ヴィンチェンツォ・スカレーラ(ピアノ)
アメリカ ニュージャジー州出身。マンハッタン音楽学校で学び、ピアノ演奏の学位習得。1980年ミラノ・スカラ座の副指揮者兼リハーサルピアニストに就任。カルロ・ベルゴンツィ、ホセ・カレーラスなど世界一流の歌手の伴奏を務め、芸術性の高い演奏は「名手スカレーラ」と評されている。

笛田博昭・スカレーラのコメント
Q
今回のプログラムについて
あまり日本で歌われないというか、みんながやるようなプログラムではないものをやりたかったと。「アマランタ」は初めて。やってすごく大好きになりました。やればやるほど歌えば歌うほど、どんどん掘り下げられる。歌曲はそんなにたくさん勉強してこなかったので、勉強する作業が、歌うってことが僕は声を出すことにすごくとらわれていたわけですよ、アクート、高い声を出すのにはそこに集中しなければいけないし、けれどもそうするとドラマが見えてこない。「アマランタ」を勉強していてあるとき、オペラ歌手というのは役者以上に芝居ができなければ成立しないのだとすごく思った。訳者みたいにオペラの人は、もちろん歌いながらなので動いて表現するよりも言葉のニュアンスとか、動かないでそのドラマを再現するという意味では、ものすごく芝居心とかが必要だなとよくわかりました。
Q
スカレーラについて
笛田博昭:僕はフランス歌曲とかぜんぜん歌ったことがないし、フランスものをほとんどやったことがなかった。だからスカレーラに教えてもらいました。
スカレーラ:私がそうだと言っているわけではありませんが、理想的な伴奏者というのは歌手の息が続かないなどトラブルが起きたとき助けられる人です。リハーサルからやり方を変えて演奏を音楽的に成り立たせるのです。
Q
今回初挑戦するマスネの歌曲について
スカレーラ:: フランス語のマスネのアリアは私のアイデアでした。彼の声に合っていると思ったのです。ベッリーニの歌曲からイタリア歌劇のアリアへの橋渡しになると思いました。

曲目

フィッリデの悲しげな姿よ」ベッリーニ:作曲
ベッリーニの若き日の恋から生まれたといわれる作品。今は亡き恋人に変わらぬ愛を歌いかける。
マリンコニーア」ピンデモンテ:作詞、ベッリーニ:作曲
「マリンコニーア」はイタリア語で「憂愁」「哀しげ」の意味。恋人をニンフ(妖精)に例え、「憂愁」にひそむ甘美を歌う。
お行き、幸せなバラよ」ベッリーニ:作曲
6つのアリエッタ」の第2曲。ベッリーニらしい旋律美にあふれた作品。
アマランタの4つの歌」ダンヌンツィオ:作詞、トスティ:作曲
トスティの生涯の友人で詩人・劇作家のダンヌンツィオと意見を交わしながら作曲した歌曲集。
あなたの青い目を開け」ロビケ:作詞、マスネ:作曲
マスネが母校パリ音楽院の作曲家教授に就任した1879年の作品。歌曲集『愛の詩』の第3曲。
エレジー」ガレ:作詞、マスネ:作曲
ピアノ独奏だった曲にガレが詩をつけた作品。フランス歌曲の名作の一つとして広く愛唱されている。
「歌劇「ウェルテル」からオシアンの歌「春風よ、なぜ私を目ざますのか」」マスネ:作曲
若き詩人ウェルテルが人妻シャルロッテへの思いを、伝説の詩人オシアンの詩に託して歌う甘美なアリア。
タイスの瞑想曲」マスネ:作曲   ピアノ独奏
「歌劇「運命の力」から「この世は地獄」「天使のようなレオノーラよ」」ヴェルディ:作曲
アルヴァーロが不幸な生い立ちを振り返り、レオノーラへの愛と絶望を情熱的に歌うアリア。

訳は河野典子

🎵きのうはバリトンできょうはテノール。声のバリエーションをまた物語を聴くならオペラ全体ということなのだろうけれど、この短い時間帯にこれだけの解説、それに知っている断片と想像力で類推しながら理解の助けとしている。
 「アマランタの4つの歌」は1そっとしておいて2暁は光と影を分け3虚しく祈り4賢者の言葉よ、何を語っているのか。ガレの「エレジー」春はもう戻っては来ないと切々。ヴェルディ「運命の力」、王座を夢見た者は皆斧で殺され、その血筋にあることにふるえながら不運に掴まれた慟哭が真に迫り地を圧するの感。

🎧名曲アルバムはハイドンの弦楽四重奏曲「皇帝」。演奏クァルテット・エクセルシオ
Dsc06029-2
ハイドンが最晩年に日課のように弾いたこの曲。果たして今聴いている曲の中で自分の最晩年に毎日でも聞きたい音楽はどれに、何になるのだろうか。
⛳メモ書きとして、9時18分更新。

 

| | コメント (0)

210302 クラシック倶楽部を聴く 大西宇宙(おおにしたかおき)バリトン

シカゴ・リリック・オペラの所属歌手として活躍しヨーロッパではウィーン交響楽団、ニュルンベルク交響楽団やミュンヘン放送響などと共演。各地の音楽祭にも出演している。【演奏】大西宇宙(バリトン)村上寿昭(ピアノ)【曲目】ドゥルシネア姫に心を寄せるドン・キホーテ(ラヴェル)歌劇「スペードの女王」から「あなたを愛しています」(チャイコフスキー)ほか【収録】2021年1月26日すみだトリフォニー小ホールー番組紹介よりー 

大西宇宙(おおにしたかおき)バリトン
武蔵野音楽大学、同大学院を修了後、ニューヨークのジュリアード音楽院留学。音楽院時代から多くのオペラ公演の主要キャストに選ばれ舞台にあがる。2015年シカゴ・リリック・オペラの所属歌手となり、さまざまな公演に出演。日本では2019年にセイジ・オザワ松本フェスティバル、エフゲーニ・オネーギンで代役を務め話題を集める。
村上寿昭 ピアノ
桐朋学園大学で指揮を学び、オーストリアのリンツ、ドイツのハノーヴァーの歌劇場に在籍し数多くのバレエやオペラを指揮。現在は活動の中心を日本に定め、室内楽や歌曲の演奏などピアニストとしても活躍。

大西宇宙のコメント
Q
今回のプログラムについて
イタリア語、ドイツ語、フランス語、ロシア語、各国語にわたってこのリサイタルを回していただいたんですけど、それぞれ言葉によってキャラクターも全然違うし、バリトンという声種そのものがいろんな顔と性格があるという事で、今回それを楽しんでいただければと思ってこういうプログラムにしてみました。
Q
「さすらう若者」について
マーラーは最初ピアノ伴奏で作って、オーケストラを想定して作っていて実際に自分でもオーケストラで最後のバージョンを書いたと思うんですが、すごく交響曲に近いというか、交響曲のいちばんの下地になった歌曲なんですけど、ものすごくスケールの大きい作品になってます。オーケストレーションの鮮やかさ、そこにこの歌が乗るという何とも魔法がかったというか、そういう音楽の持ち主だと思います。すごくそういうマーラーの歌の世界をどんどん自分の中でも広げていきたいなといつも思ってます。私もアメリカの音楽院時代ですとかシカゴにいた時代から、すごくドイツリートを大事にしてきて、やはりこう一つの音楽的な表現の基礎となるような礎となるようなレパートリーだと思うので、これからも大事に歌って行きたいと思っています。
Q
バリトンという声について
男性のふつうの地声に近い声種だと思う。ちょうど真ん中ぐらい。だからいちばんハートが素直に出る声種なんじゃないかなと思いますけれども、そこの間で揺れ動く心情を歌ったりダークな面、暗い面を歌ったりとか或いはスケルツォな、おどけたような役もやったりするわけで、その物語の中でも複雑な役が多いというか、名脇役みたいなキャラクターがよく出るキャラクターで、たまにやっぱり自分の中にまったくないキャラクターをやらなければいけないときもあるので、そういうときはやはり、作品をしっかり読み込んで、想像力で補う事をしていかないといけないかなと思います。自分だったらこの立場に置かれたときにどうするか。で、もし必要だったらその時、当時の時代背景はどうだったのか、この人はどういう信条を持っていて、どういう暮らしをしててとか、そういうところに、分かるところはちゃんと情報を得て、分からないところは想像深める。音楽家の人生ってたぶんすごく長距離のキャリアだと思うんですね。やはり長く歌って行くというのが大事で、目の前の事だけを見るんじゃなくてこう常に先を見据えながら自分の心に正直な歌を常に歌える人でありたいと思っています。

曲目

ドゥルシネア姫に心を寄せるドン・キホーテ(ポール・モラン作詞/ラヴェル)
訳 大西和子
バス歌手シャリアピン主演の映画「ドン・キホーテ」のために書かれたが、映画では用いられず歌曲として残った。スペインの作家セルバンテスの小説を題材にしたポール・モランの詩による3つの曲から成る。
さすらう若者の歌(マーラー作詞、作曲)
訳 西原稔
20
代半ばのマーラーが自分の体験をもとに書いた4つの曲からなる歌曲集。
当時勤めていた歌劇場の歌手ヨハンナ・リヒターへの報われぬ愛がきっかけとなって生まれた。
歌劇「フィガロの結婚」から「もうあんたの勝ちだと言ったな」(モーツァルト)
アルマヴィーバ伯爵の召使フィガロとスザンナ二人の結婚式に起こる騒動を描いたオペラ。スザンナを口説く伯爵だが彼女の言葉に「騙されているのでは?」と疑念を抱きいきまいて歌う。
歌劇「ランメルモールのルチア」から「激しい苦しみ」(ドニゼッティ)
訳 小畑恒夫
17
世紀のスコットランドを舞台に恋人がいながら政略結婚をさせられるルチアの悲劇を描いたオペラ。ルチアの兄エンリーコは仇敵エドガルドに心を奪われていると知り、怒りに燃えて歌う。
☆歌劇「ドン・カルロス」から「私ですカルロス~わが生涯最高の日です~ロドリーゴの死「終わりの日が来ました」(ヴェルディ)
訳 岡本和子
舞台は16世紀のスペイン 実在の人物をモデルに歴史に翻弄される人々の愛と葛藤を描いたオペラ。反逆の罪で捕えられたスペインの王子ドン・カルロス 親友ロドリーゴは彼の身代わりとなり未来を託し死んでいく。
歌劇「スペードの女王」から「あなたを愛しています」(チャイコフスキー)
訳 小林久枝
野心家の青年士官ゲルマンと伯爵令嬢リーザの身分違いの恋を成就させようとするゲルマンは賭博に身を滅ぼしていく。第2幕舞踏会にやってきたリーザと婚約者のエレッキー侯爵 侯爵はリーザに対する深い愛を歌いあげる。

 

🎵これ以上何を書くことがあるだろう。とにかくすごい! どなたかが言っていたが声は最も簡単な楽器と。しかしその研鑽は並大抵ではなさそうであり、その表現の豊かさ多様さはどの楽器にも及ばないものがあるのでは。生まれながらにしてこんな楽器を内蔵して生まれることができた驚き。

 

🎧名曲アルバム。「歌劇ウェルテルから 前奏曲~春風よ なぜわたしを目ざますのか」(テノール)福井敬,(管弦楽)東京フィルハーモニー交響楽団,(指揮)現田茂夫
Dsc05965-2

⛳7時のニュースは続々ワクチン入荷と管理事故。それから食事タイム。田中陽希さんの映像を見ながら、陽希さんが雪穴を掘って宿泊するとき、雪庇をゆくとき、いったい撮影班は山岳カメラマンといった方々であるのか、何人いてどのように行動しているのかとむしろ陽希さん付きのスタッフの動きが気になった。どう急いでも9時33分の更新。

 

| | コメント (0)

210301 クラシック倶楽部を聴く 上野星矢 フルート・リサイタル

上野星矢さん(フルート)
東京都出身。小学校4年生でフルートを始め、全日本学生音楽コンクール全国大会中学生の部、高校生の部など、国内の主要コンクールの数々で優勝を果たす。2008年、東京藝術大学音楽学部フルート専攻入学。同年、第8回ジャン=ピエール・ランパル国際フルートコンクール優勝。2009年よりパリに留学し、パリ国立高等音楽院に審査員満場一致で入学。2012年同校を首席で卒業。
岡田奏さん(ピアノ)
2013年第8回プーランク国際ピアノコンクール第一位。パリ国立高等音楽院ピアノ科・室内楽科を最優秀で終了。

 

曲目
☆パンの笛(ドビュッシー作曲)
 
 パンの笛はギリシャ神話の精霊の名を取って「シランクス」とも呼ばれる。揺れ動く   神秘的な響きは同時代の作曲家に大きな影響を与えた。
☆カルメン・ファンタジー(ビゼー作曲/上野星矢・内門卓也編曲)
 歌劇「カルメン」の名旋律で構成された幻想曲。上野星矢自身が編曲に携わった。フルートの多彩な音色とテクニックが随所に散りばめられている。
☆春よ、来い(松任谷由実作曲・上野星矢・内門卓也編曲)
REGRETS AND RESOLUTIONS-後悔と決断-(ショッカー作曲)
☆フルート・ソナタ ニ長調 作品94(プロコフィエフ作曲)

 

🎵「パンの笛」、ドビュッシーは従来を破壊し、新たなる構築であるらしい。それが最先端、前衛といわれるようだけれども。旋律が霊妙に曳かれ曳かれする。繊細でピュアな響き。「カルメン・ファンタジー」、ピアノの方の編曲が流麗に、優雅に仕立て直されたという感じが。「春よ来い」、これはアンコール用としてえんそうするなど、上野さんが気に入っている曲らしい。ショッカーはフルーティストであると同時に200曲にも及ぶフルート曲を作曲しているとか。「フルート・ソナタ」、この曲の持つ美しさが繊細な緻密なところまでこの演奏で具現。

🎧名曲アルバム。 エイクの「涙のパヴァーヌ」

 

⛳この朝は少々忙しく、実は一旦書いた記事を誤操作で消失と不本意なことに。書き直しが間に合わないまま、よい演奏を惜しみつつ中途のまま14時41分更新。

| | コメント (0)

« 2021年2月 | トップページ | 2021年4月 »