インマヌエル盛岡キリスト教会の2021年03月14日(日)の礼拝メッセージをおつたえいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で47年目のご奉仕をしておられます。

説教題 『ラザロの復活』 (國光勝美 牧師)
聖書箇所 新約聖書 ヨハネの福音書11章1~46節
11:1さて、ある人が病気にかかっていた。ベタニアのラザロである。ベタニアはマリアとその姉妹マルタの村であった。11:2このマリアは、主に香油を塗り、自分の髪で主の足をぬぐったマリアで、彼女の兄弟ラザロが病んでいたのである。 11:3姉妹たちは、イエスのところに使いを送って、言った。「主よ。ご覧ください。あなたが愛しておられる者が病気です。」 11:4これを聞いて、イエスは言われた。「この病気は死で終わるものではなく、神の栄光のためのものです。それによって神の子が栄光を受けることになります。」11:5イエスはマルタとその姉妹とラザロとを愛しておられた。
11:6しかし、イエスは、ラザロが病んでいると聞いてからも、そのときいた場所に二日とどまられた。 11:7それからイエスは、「もう一度ユダヤに行こう」と弟子たちに言われた。 11:8弟子たちはイエスに言った。「先生。ついこの間ユダヤ人たちがあなたを石打ちにしようとしたのに、またそこにおいでになるのですか。」 11:9イエスは答えられた。「昼間は十二時間あるではありませんか。だれでも昼間歩けば、つまずくことはありません。この世の光を見ているからです。 11:10しかし、夜歩けばつまずきます。その人のうちに光がないからです。」
11:11イエスはこのように話し、それから弟子たちに言われた。「わたしたちの友ラザロは眠ってしまいました。わたしは彼を起こしに行きます。」 11:12弟子たちはイエスに言った。「主よ。眠っているのなら、助かるでしょう。」 11:13イエスはラザロの死のことを言われたのだが、彼らは睡眠の意味での眠りを言われたものと思ったのである。 11:14そこで、イエスは弟子たちに、今度ははっきりと言われた。「ラザロは死にました。 11:15あなたがたのため、あなたがたが信じるためには、わたしがその場に居合わせなかったことを喜んでいます。さあ、彼のところへ行きましょう。」 11:16そこで、デドモと呼ばれるトマスが仲間の弟子たちに言った。「私たちも行って、主と一緒に死のうではないか。」
11:17イエスがおいでになると、ラザロは墓の中に入れられて、すでに四日たっていた。 11:18ベタニヤはエルサレムに近く、十五スタディオンほど離れたところにあった。 11:19マルタとマリヤのところには、兄弟のことで慰めようと大勢のユダヤ人が来ていた。11:20マルタは、イエスが来られたと聞いて、出迎えに行った。マリアは家ですわっていた。 11:21マルタはイエスに言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。 11:22しかし、あなたが神にお求めになることは何でも、神があなたにお与えになることを、私は今でも知っています。」 11:23イエスは彼女に言われた。「あなたの兄弟はよみがえります。」 11:24マルタはイエスに言った。「終わりの日のよみがえりの時に、私の兄弟がよみがえることは知っています。」 11:25イエスは彼女に言われた。「わたしはよみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は死んでも生きるのです。 11:26また、生きていてわたしを信じる者は、永遠に決して死ぬことがありません。あなたは、このことを信じますか。」 11:27彼女はイエスに言った。「はい、主よ。私は、あなたが世に来られる神の子キリストであると信じております。」 11:28マルタはこう言ってから、帰って行って姉妹マリアを呼び、そっと伝えた。「先生がお見えになり、あなたを呼んでおられます。」11:29マリアはそれを聞くと、すぐに立ち上がって、イエスのところに行った。
11:30イエスはまだ村にはいらず、マルタが出迎えた場所におられた。 11:31マリアとともに家にいて、彼女を慰めていたユダヤ人たちは、マリアが急いで立ち上がって出て行くのを見て、墓に泣きに行くのだろうと思い、ついて行った。
11:32マリアは、イエスのおられるところに来た。そしてイエスを見ると、足もとにひれ伏して言った。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。」 11:33イエスは、彼女が泣き、一緒に来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になった。そして、霊に憤りを覚え、心を騒がせて、11:34「彼をどこに置きましたか。」と言われた。彼らはイエスに「主よ。来てご覧ください。」と言った。 11:35イエスは涙を流された。 11:36ユダヤ人たちは言った。「ご覧なさい。どんなにラザロを愛しておられたことか。」 11:37しかし、彼らのうちのある者たちは、「見えない人の目を開けたこの方も、ラザロが死なないようにすることはできなかったのか。」と言った。
11:38イエスは再び心のうちに憤りを覚えながら、墓に来られた。墓はほら穴で、石が置かれて塞がれていた。11:39イエスは言われた。「その石を取りのけなさい。」死んだラザロの姉妹マルタは言った。「主よ。もう臭くなっています。四日になりますから。」 11:40イエスは彼女に言われた。「信じるなら神の栄光を見る、とあなたに言ったではありませんか。」 11:41そこで、彼らは石を取りのけた。イエスは目を上げて言われた。「父よ、わたしの願いを聞いてくださったことを感謝します。 11:42あなたはいつでもわたしの願いを聞いてくださると、わたしは知っておりましたが、周りにいる人たちのために、こう申し上げました。あなたがわたしを遣わされたことを、彼らが信じるようになるために。」 11:43そう言ってから、イエスは大声で叫ばれた。「ラザロよ。出て来なさい。」 11:44すると、死んでいた人が、手と足を長い布で巻かれたまま出て来た。彼の顔は布で包まれていた。イエスは彼らに言われた。「ほどいてやって、帰らせなさい。」
11:45そこで、マリアのところに来ていて、イエスがなさったことを見たユダヤ人の多くが、イエスを信じた。 11:46しかし、何人かはパリサイ人たちのところへ行って、イエスがなさったことを伝えた。
<お話し>
前回はこのラザロの復活の中の11:25「わたしはよみがえりです。いのちです」とおっしゃるイエス様のおことばに最初に注目をいたしましたが、きょうは、その背景を、もうすこし詳しく扱わせていただきたいと思っております。

地図の上の方にガリラヤ湖。そこからイエス様は十字架におつきになられるために、エリコを通り、エリコから山の道をのぼってベタニヤ、そして、下の方、死海の左にあるエルサレムにのぼられました。
きょうのラザロのできごとは、実はこのベタニヤというところで行われた大きな出来事でありました。エルサレムとベタニヤ間は約数キロです。私たちの教会は大館町にありますが、そこから3キロというと盛岡駅辺りです。これがエルサレムとベタニヤの距離、これで距離感を掴んでいただけたでしょう。
きょうお読みした中に、マルタ、マリアというおなじみの姉妹、それからラザロ。この家族が取り上げられております。両親は出て来ませんがたぶんもう亡くなって、この兄弟姉妹が心を合わせて生きていた。ベタニヤという町に暮らすマルタ、マリア、ラザロのこの家を、実はイエス様は大変愛されて、エルサレムで大きなことがある行き帰りにはしばしば立ち寄りおやすみになったところです。イエス様の御休みどころであった。イエス様がいらしたときに、姉のマルタは、さあ先生にこのお料理を作って、このお飲み物を差し上げてとかいがいしく立ち働いている。片や妹の方のマルタはイエス様の近くにあってお話しに耳を傾けているというルカ10:38~42に愛すべきエピソードがあります。それから聖書の中で、ラザロといえば私たちはルカの福音書にある、ある金持ちとラザロというイエス様のお話しも思い起こされる。しかし、このラザロとは別のラザロです。
死んで4日経っているというこのラザロが、イエス様によってよみがえった。これは実に意味のある衝撃的なできごとだったのです。イエス様が死人をよみがえらせる。これにはラザロの他に2つの例があり、一つは、マルコ5:22にありますが、ヤイロの娘の蘇生。それからもう一つはナインのやもめの息子のよみがえりです。この二つとも実はエルサレムが南の方とすれば、ガリラヤの、つまりその国の中心からずっと離れたイエス様のガリラヤ地方における伝道活動で起きた。いわば国の北の隅の方の田舎で起きた出来事としか覚えられていない。ユダヤの国全体から見れば、まだまだイエス様の働きはそれほど全国的に知られていなかった。私たちは聖書に書いてあるからこそ大きなこととして見るのですが、イエス様のご奉仕、全体の位置づけから見ると、この二つの死人のよみがえりは大きいことではあるけれども、ユダヤの人々にとっては、それほど大きな位置づけではなかった。
しかしこれは違います。イエス様がガリラヤの方で大きなうねりをもって、もしかしたらこのお方がメシヤかもしれないという期待が高まってきている。またイエス様ご自身もわたしのときが近づいてきているという意識をもって十字架に向かおうとする。そして十字架にお架かりになるという大きなできごとはエルサレムです。そして、エルサレムから僅か3キロ、イエス様何回もそれまでエルサレムに年ごとの大きなお祭りですとか、そんなときに何回もエルサレムに行きましたけれども、今回は意味が違う。いよいよその時が来たというイエス様の御覚悟と共に人々がメシアを待望しているという時に、何と、中心地エルサレムから僅か3キロしか離れていないところで、そのラザロという人は、しかも死んで4日目です。臭くなっている。敢えて乱暴な言い方をするならば、北の方でこの男が死人をよみがえらせたというような話は聞くけれども、だけど、それは死んだばかりの、もしかしたら蘇生じゃないのか。そんな復活というようなことではないかもしれない。反対する側の人たちからすればいくらでもそういうことで対抗することができたはずなのです。ところが、今回は何と3キロしか離れていない中心地圏内のそこで、多くのユダヤ人たちがいるところで、しかも、臭くなっているだろう死人のよみがえりです。イエス様に敵対する人々がどう言い逃れすることもできないような中で、よみがえりの奇蹟は起こされた。ですからこういうことおわかりでしょう。
マルタとマリアがラザロが死の病に罹ってしまったことに気付く。さあ、これはいつもの病とは違う。これは死に至る重篤な病だという事に気が付いたときに、むしろマリアとマルタは希望を持った。だいじょうぶ、だいじょうぶ、あのお方さえいればだいじょうぶ。直ぐにイエス様を呼びに行かせたのです。その時に彼女たちはだいじょうぶ、あのお方さえ来てくださればだいじょうぶ。だからマルタが言いました。ラザロが亡くなってから。それからマリアも同じことを言っています。「もしあなたがいらっしゃったのならば」。これはもう二人の偽らざる気持ちなのです。ところがどうしたことか、第一報を受けたはずのイエス様が、それから2日もそこに留まり、すぐには行動しなかった。
人々が訊くと、「ラザロは眠っているんだ。さあぼつぼつ起こしに行こうかね」。弟子たちは意味がよく分かりませんから、そうか、マリアとマルタは深刻そうだったが、そうか、そんな大した病気じゃなかったんだと弟子たちが言い聞かせている。その弟子たちに教えるようにイエス様は、「ラザロは死んだんだ。私はそれをよみがえらすためにこれからいくのだ」。弟子たちもラザロの成り行きには非常に大きな意味があるのだとこれを受け留めたに違いありません。

イエス様は、この病は「神の栄光があらわれるためです」と。「神の栄光」とヨハネの福音書を記したヨハネが使っているこのことばは、必ずイエス様の十字架と復活という贖いのできごとと密接な関係があって、これを神の栄光があらわれるためだとあらわしているのです。そして、このラザロの復活のところ、ヨハネの11章の45、46節をご覧ください。45、46節の直前にラザロの復活のできごとが記されておりますが。
11:45そこで、マリアのところに来ていて、イエスがなさったことを見たユダヤ人の多くが、イエスを信じた。
つまり、このラザロの復活ということが、イエス様こそまことの待ち望んでいる救い主なのだ、メシアなのだと告白する人たちが多く現れた。ところがそのすぐ後に46節
11:46しかし、何人かはパリサイ人たちのところへ行って、イエスがなさったことを伝えた。
しかし何人かはパリサイ人たちのところ、つまり敵側、イエス様をいつも敵対しているパリサイ人たちのところへ行ってイエス様がこんなことをしたんですよ、と伝えたのです。
47節以降には、きょうは触れませんでしたけれども、これを聞いた当時の政治、宗教、権力者たちの慌てぶり、俺たちはなんということをしているんだ。このままだと大変なことになるぞ。この国は失われてしまう。そして、この大混乱。そのときに、49節、大祭司のカヤパが言うわけです。「あなた方は何も分かっていない。50節、「一人の人が民に代わって死んで、国民全体が滅びないで済む方が、自分たちにとって得策だということを、考えてもいない」、つまり、あいつを殺してしまえばいいんだ。そうじゃないか、あいつを生かして国全体が滅んでしまうよりも、あいつを殺して生き延びた方がいいだろう、これがカヤパのまさに心の底から出てきた人間的な知恵の言葉です。不思議なことです。この悪魔的な、この方がいいんじゃないか、あいつを殺してしまった方がいいんじゃないか、あいつを殺して、我々が生きた方がいいんじゃないか。ある意味そのまま神様が恵みの事葉として取り替えてくださった。そう、ひとりの正しい人が我らのために死んで、そのことのために我らが生きた方がいいではないかという、先ほどは悪魔的なカヤパの言葉でしたけれども、福音というのは、まさに、カヤパが言ったそのことばを、裏がえすように真理を敵の言葉を通して表してくださった。一人のお方の死んで葬られなさる方が我らのために得策などという言葉は使いたくありませんが、まさにヨハネ3:16「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに世を愛された。それは御子を信じる者が、一人として滅びることなく、永遠のいのちをもつためである」。これこそが福音なのです。これこそ神の栄光があらわれることなのです。ですからラザロの復活の方がある意味イエス様の十字架刑に向かう最終幕が切られている。いよいよここから十字架が始まるといって過言ではない。だからこそ、ヨハネの12章をご覧ください。イエス様が過越しの三日前にベタニヤに来られた。そこにはイエスが死人の中からよみがえらせたラザロがいた。で、2節には人々はイエスのために夕食を用意した。マルタが夕食を用意した。マルタが給仕をし、ラザロがイエスと共に食卓に着いていた。一方マグダラのマリアは純粋で非常に高価なナルドの香油を取ってイエス様の足に塗り自分の髪でイエス様の足をぬぐった。
何でそんなもったいないことをするんだ。貧しい者にそれを売って分けた方が良かったじゃないかと言ったのはイスカリオテのユダ。イエス様は、彼女は自分の最も良いものをもって、私の葬りの備えをしてくれたのだと仰います。
このラザロの復活のできごとが、イエス様の十字架に向かう贖いの大きな大きな一つのステップであったという事を、心に留めさせていただきたいのです。ラザロの復活、これが神の栄光のあらわれである。つまりイエス様の十字架と復活という決定的な影響を与えたできごとであったということを、きょう心に留めさせていただきましょう。

そして「11:35イエスは涙を流された。」この部分に、心を留めさせていただきましょう。イエス様は、マルタ、マリアたち、私たちの事をよくご存知で、私たちの事をご存知で主は涙を流された。しかし、イエス様が涙を流された、或いは霊に憤りを感じられたというところを見るとき、これが、死というものが生というもののもたらす帰結であった。それに対してイエス様は、ほんとうに涙を流された。
死別という事を人間にもたらされた、また盲人の眼を開けたものにして彼を死なせずにおくことができなかったのかというような、或いは、ラザロの復活を信じたとしても、信じようとしない人間のもつ不信仰。ヨハネの11章のところに、例えば33節イエス様は、彼女が泣き、彼女といっしょに来たユダヤ人たちも泣いているのをご覧になると、霊に憤りを覚え、心の動揺を感じて、とあります。ギリシャ語では、このときに使われるているイエス様の心の「憤り」は一般に言われるいきどおりよりも、はるかに強い、もう心の底から何ということだ。それほどにイエス様はラザロの死に対して涙を流し、私たちと共に、そして人間のもたらした死の帰結である死、そして不信仰。さあ、もし信じるならあなたは神の栄光を見るといったではないか。イエス様は仰います。もし信じるなら神の栄光を見ると。あなたに言ったではありませんか。これが、きょう、イエス様が私たちに語りかけてくださることばです。どうぞ神の栄光をしっかりと心に受けさせていただく、罪、不信仰ではなく、主よ信じます。こう告白させていただきましょう。

※音声データ、画像は教会からお借りしています。
⏰誤記などお気づきの点がございましたならお教えください。19時32分更新
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