きょうのことば 『主は私の羊飼いー7』
インマヌエル盛岡キリスト教会の2021年1月31日の礼拝メッセージをおつたえいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で47年目のご奉仕をしておられます。
この日もズームでの礼拝。聖餐式が持たれましたが、ひろ子牧師が各家庭用に葡萄液を準備され、また各々がパンを準備して、聖別の祈りが為され、陪餐に与りました。
説教題 『主は私の羊飼いー7』 (國光勝美 牧師)
聖書引証 旧約聖書 詩篇23篇1~6節
ダビデの賛歌
1 主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。
2 主は私を緑の牧場に伏させ いこいのみぎわに伴われます。
3 主は私のたましいを生き返らせ 御名のゆえに 私を義の道に導かれます。
4 たとえ 死の陰の谷を歩むとしても 私はわざわいを恐れません。 あなたが ともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖 それが私の慰めです。
5 私の敵をよそに あなたは私の前に食卓を整え 頭に香油を注いでくださいます。 私の杯は あふれています。
6 まことに 私のいのちの日の限り いつくしみと恵みが 私を追って来るでしょう。 私はいつまでも 主の家に住まいます。
(前回の復習は割愛いたします)
題字を「至上の幸せ」とさせていただきました。左側にあるのは詩編23篇6節のおことばです。
6 まことに 私のいのちの日の限り いつくしみと恵みが 私を追って来るでしょう。 私はいつまでも 主の家に住まいます。
そして、「主の羊であることの幸い」を見ていただき、その下には1部がちょっと隠れておりますけれども、「主が与えられたいのち、その使命のある限り」とございます。
きょうは1月31日。で、きのう30日は、1年前にある姉妹が大手術をしたまさにその日でありました。そのことを思いますと格別にこの6節のおことば「6 まことに 私のいのちの日の限り いつくしみと恵みが 私を追って来るでしょう。 私はいつまでも 主の家に住まいます。」のなかで、この「いのちの日の限り」というおことばがとても心に響いてまいります。そのとき同じ病棟に親しかったT姉妹が入院をしておられました。T姉妹は2月7日、この次の日曜日に召されなさいました。同じ病を持っておられました。皆様方がどれほど祈ってくださったことか、それを知っていればいるほどに、私はこの「まことに 私のいのちの日の限り」ということばの意味を深く思わざるを得ません。
私たちは、自分のいのちが当たり前のように、
私たちは、今ある命を当たり前のように自分の命と考えております。しかし、よく落ち着いて考えてみますと、これは主から与えられた命なのです。誰も自分で自分の命を始めた人はいない。主に与えられた命。ですから私の命は主の御手のうちにあるのです。まさに主が与えてくださった命。そして、その「使命のある限り」というのが「私の命の日の限り」という意味ではないだろうか。このように思います。
人には「なぜ」ということがわからない。そういうことがいっぱいあります。T姉妹が5年間病と戦われて、その使命を終えられ主の御もとに帰っていかれました。「まことに 私のいのちの日の限り」、これはただ印刷された平凡な言葉なのではない、決してそうではない。まことの命、まことのいのちというものを考えさせられるのであります。
ここに「いつくしみと恵みの神」と記させていただきました。この「いつくしみ」という言葉ですけれども、これは他の聖書を引き比べますと「神様の満足」、これは、非常に良いという「神様の満足」を意味する言葉が使われています。
創世記の1章の天地創造をご覧ください。
1章4節「神は光を良しと見られた」。非常に良い、神様が満足されたというこの言葉が使われている。それから10節「神は乾いたところを地と名づけ、水の集まったところを海と名づけられた。神はそれを良しと見られた」。12節「地は植物を、すなわち、種のできる草を種類ごとに、また種の入った実を結ぶ木を種類ごとに生じさせた。神はそれを良しと見られた」。18節「また昼と夜を治めさせ、光と闇を分けるようにされた。神はそれを良し見られた」。21節「神は、海の巨獣と、水に群がりうごめくすべての生き物を種類ごとに、また翼のあるすべての鳥を種類ごとに創造された。神はそれを見て良しとされた」。25節「神は、地の獣を種類ごとに、家畜を種類ごとに、地面を這うすべてのものを種類ごとに造られた。神はそれを良しと見られた」。
つまり神様がご自分の主権のもとにお造りになられた被造物を、神様は、良しと見てくださった。
詩篇23篇6節をご覧ください。ここの「いつくしみ」ということばは、まさに神様が、「ああ、これであなたに非常に満足している、それをあなたの生涯に与える」という、このことばが使われているのです。
「憐れみ」ということばがあります。これは「ヘセド」ということばが使われていて、「主がイスラエルの民に対して忠実で、約束を誠実に守られる」。その神様の愛情を表すことばとして「恵み」ということばが用いられています。つまり「私のいのちの日の限り」神様は私たちを「良しと見られた」、そして非常に満足しておられた。まさに天地創造の時に神が良しと満足されたと同じように私たちのいのちを、いのちの日を「よし」と。そしてご自身の民に対して必ず忠実に約束を果たされる、その憐れみということばがここに用いられております。
私はこれを見たとき、詩篇の62篇11、12節を思い起こしました。
11神は一度告げられた。二度私はそれを聞いた。力は神のものであることを。12主よ 恵みもあなたのものです。あなたは その行いに応じて人に報いられます。
この62篇を、私が親しんでおります文語訳で恵みをお分かちしたいと思います。
11ちからは神にあり神ひとたび之をのたまへり われ二次(ふたたび)これをきけり 12ああ主よあはれみも亦なんぢにあり なんぢは人おのおのの作にしたがひて報をなしたまへばなり
すべてのものを無から生じられる力あるお方。「ああ主よあはれみも亦なんぢにあり」、ご自身の民に対して必ず忠実に約束を果たされるお方の愛情を示すおことばとして恵みがあります。これらの背景を心に留めながら、もういちど詩篇の23篇6節に返ってください。
6 まことに 私のいのちの日の限り いつくしみと恵みが 私を追って来るでしょう。
良しと見られ、そして忠実な約束、忠実な神様が、「私を追って来る」。これは注解書を見ると色々な意味があるようです。敵から追われる、敵が追いついてくるというようにこれが訳されている。そういう解釈も幾つかありますけれども、私が忘れることができないのは、これはちょうど人に影がいつでもあるように、つまり太陽に向かって私が立っている時、私の影は私の後ろの方に影がのびています。これは離すことができません。つまり神様を太陽として神様に向かって私たちが歩んでいる時、私たちの後ろには神様の恵みと憐れみと我に添い来たらん。影が本体と決して切り離すことができないように、神様の恵みと憐れみが、私たちは神様に向かっているときに影のように必ずついてくる。この太陽に向かって神様に向かっていれば影が延びるように、それを取り払おうと思っても、決して取り払うことができない。それが、神様の慈しみと恵みが私の生涯に追いかけてくるという事なのです。付きまとうというような訳がされていることがありますけれども、私たちには神が分かつことなく行くところ行くところについて行ってくれる。この表現がいちばんぴったりするように思います。
私はいつまでも 主の家に住まいます。
「わたしの命の日の限り」という地上におけるとき、それだけでなく、私はいつまでも世々かぎりなくこの神様の祝福の慈しみと憐れみの中に住む。ダビデは詩編23篇をこのように締めくくっております。私たちがどうかこの良き羊飼いの羊として、羊飼いの声を聞きながら、導かれることを喜びながら、このお方と共に歩ませていただきたいと存じます。
※データを教会からお借りし、起こして書式にし掲載しております。
⏰けさはPC操作の途中で「ワードにエラーが発生し、機能が正常に働いておりません」と出て冷や汗。しかしどうにか6時ジャスト更新です。
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