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きょうのことば 『わたしの羊はわたしの声を聞く』

インマヌエル盛岡キリスト教会20210214()の礼拝メッセージをおつたえいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で48年目のご奉仕をしておられます。

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説教題 『わたしの羊はわたしの声を聞く』  (國光勝美 牧師)

聖書引証 新約聖書 ヨハネの福音書102230
10:22そのころ、エルサレムで宮きよめの祭りがあった。 10:23時は冬であった。イエスは宮の中で、ソロモンの回廊を歩いておられた。 10:24ユダヤ人たちは、イエスを取り囲んで言った。「あなたは、いつまで私たちに気をもませるのですか。あなたがキリストなら、はっきりと言ってください。」 10:25イエスは彼らに答えられた。「わたしは話したのに、あなたがたは信じません。わたしが父の名によって行なうわざが、わたしについて証ししているのに、 10:26あなたがたは信じません。あなたがたがわたしの羊の群れに属していないからです。 10:27わたしの羊たちはわたしの声を聞き分けます。わたしもその羊たちを知っており、彼らはわたしについて来ます。 10:28わたしは彼らに永遠のいのちを与えます。彼らは永遠に、決して滅びることがなく、また、だれもわたしの手から奪い去りはしません。10:29わたしの父がわたしに与えてくださった者は、すべてにまさって大切です。だれも彼らを、父の手から奪い去ることはできません。 10:30わたしと父とは一つです。」 10:31ユダヤ人たちは、イエスを石打ちにしようとして、再び石を取り上げた。

(前回の復習は割愛いたします)

きょうは『わたしの羊はわたしの声を聞く』 、このテーマでみことばを取り継がせていただきます。

 詩篇23篇が神様が私たちの群れを導いてくださるお約束のみことばであると捉え、23篇を学びつつ、良き羊飼いでいらっしゃる主イエス様、そして、そのよき羊飼いでらっしゃるイエス様に導かれているその私たち羊のあり方、これをヨハネの福音書からいま学んでおります。

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わたしは良い牧者です。よい牧者は羊のためにいのちを捨てます。

 これがよき牧者である主イエス様、そして十字架の救いであると私たちは知っております。そしてこのお方の門を私たちは入る。そしてその羊となる。この門が悔い改めと信仰であり、この門を通らなければ入ることはできません。
「悔い改めと信仰」、これを使徒の働き2021節から抜き書きいたしましたけれども、パウロは言っています。
「ユダヤ人にもギリシア人にも」、これは他の民族はどうかという意味ではなく、当時のユダヤ人といえば神に選ばれた選民。そしてギリシア人というのはそれ以外の人たち、つまりどの人たちにおいてもとパウロはいうのです。パウロはどの人たちも「神に対して悔い改めること、そして、私たちの主イエスに対する信仰とをパウロは証ししているのだ」と言っています。これは、今日の私たちにもまったくそのまま当てはまるものであり、私たちの罪がイエス様の十字架を必要とした。神はそのひとり子をお与えになったほどに私たちを愛し私たちを罪の滅びから救うためにイエス様を十字架につけてくださった。

「主よ、あなたが神の裁きとしての十字架につけられたのは私の罪のためでした。罪のない仔羊が、私たちのために尊い血を流してくださった。イエス様有り難うございます」。このようにイエス様の十字架の贖いを信じる。神に対しての悔い改め、我らの主イエスに対しての信仰、これこそが私達が門を通るときに欠くべからざる大きな意味を持つものであります。

 イエス様はおっしゃいます。「わたしは良い牧者です。よい牧者は羊たちのためにいのちを捨てます」。この門であるイエス様のお救いに与った私たちは、そのお方の声を聞くことができるのであります。イエス様は仰います。「わたしの羊は私の声を聞く」。わたしの声を聞く。イエス様のお声を聞き分ける耳、それが門であるイエス様を通った羊たちの特徴であり特権です。イエス様の声を聞き分ける耳を私たちは持つことができます。それは何かというと御子イエスを神と告白する霊のそのお声です。

第一ヨハネの4章2~3
4:2神からの霊は、このようにして分かります。人となって来られたイエス・キリストを告白する霊はみな、神からのものです。4:3イエスを告白しない霊はみな、神からのものではありません。それは反キリストの霊です。あなたがたはそれが来ることを聞いていましたが、今すでに世に来ているのです。

 私は昔、神様の声を聞くということが、教会で、或いはクリスチャンどうしの会話の中で当たり前のように語られていることに正直戸惑いを感じたことがございました。まだ信仰を持って間もない時、神様がこのようにおっしゃったといった話を昔からの信者の方やクリスチャンの方々の会話に聞くと、どういうことなのか、それがわからない。私もいつになったらそういう表現ができるんだろうか。戸惑ったことを思い起こします。わたしの羊は私の声を聞く。

 ここで思いついたのはクッキングシートとペーパータオルです。私も少しは台所仕事をする事があります。クッキングシートとペーパータオルの使い分けはいい例話になるなと思います。神様のお声を聞くときに、例えばクッキングシートのようなものですと、神様のことばを水として、これをクッキングシートにこぼしても表面張力でころころと転がってしまいそこにはのこりません。一方ペーパータオルは、思う以上に水をしゅーっとよく吸ってくれます。料理に欠かせない2種類の紙ですけれども性質は対照的です。

 神様のお声を聞くときにクッキングシートのような心であってはならない。ペーパータオルのような心でなければならない。こう述べました。つまり、せっかく神様のことばが私達に来て私たちが受け入れないような、聞いてもコロコロコロとどこかへ転がって行ってしまうような、そういう心の状態、しかし、もう一つの方ではペーパータオル、ほんの小さな神様のおことばであってもきちんと受け止めて、さあーっとしみ込ませる。私の心はどっちだろうか。今日、私の心はどっちになっているだろうか。願わくは私たちの心が神様のお声を隅々までしっかりと吸収するペーパータオルのようであらせていただきたい、こう願うものです。

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ここに有名な絵があります。左の方はお祈りをしている少年サムエルの絵です。右側の方は、少年サムエルとエリという神に仕える老先生です。

この少年サムエルが寝ておりましたときに、「サムエル、サムエル」と誰かが呼ぶ声がしました。しかしサムエルには分からない。これが続くものですから、エリ先生にありのままにお話ししました。そうしたところ、エリ先生は、はっと気がつきました。そうか、これは神様があなたに語りかけているのだ。「いいかいサムエル、こんどそのお声がしたら『主よおはなしください。しもべは聞いております』と言いなさい」。このように老先生エリは幼いサムエルに言いました。サムエルはまた自分の部屋に戻りました。そこは主の臨在のある部屋なのです。するとまた「サムエル、サムエル」と神様の語りかけがありました。エリ先生に教えられたとおりにサムエルは「おはなしください。しもべは聞いております」と言いました

このおことばに関連した嬉しいエピソードがあります。よく話題にさせていただいておりますが、同じ教団で福井県に親しくさせていただいている先生がおられます。この先生と新年の挨拶をメールで交わしましたときに、私が、「ことしは詩篇の23篇のおことばに励まされて新年を踏み出しております。お祈り下さい」と申しました。すると、向こうの方からは「そうですか、私たちは今年は『おはなしください、しもべは聞いております』、これが私の与えられたおことばです。家内は違うようでしたけれども」とお返事がありました。奥様が与えられたおことばもお知らせ下さいました。私、皆様に聖書のおことばの栞を作ってお渡ししておりますので、先生と奥様の分も栞を作らせていただきました。

先生が「おはなしください、しもべは聞いております」を自分に与えられたものとして、意味を調べてみたそうです。「しもべはきいております」は、ただ漠然と音が聞こえるような意味ではなく、食い入るようにというか、今から一体何を語ってくださるのかと心から求めるように神様のことばを聞くこと。神様のおことばを真面目に真実な想いをもって聞くことであるということです。これを先生からご連絡をいただき、喜んで栞を作らせていただきました。まさにキッチンペーパーです。神様のおことばを余すところなくぜんぶ。

私が水曜日に、「牧師の書斎から」ということでズームでの集会を持たせていただいております。はじめは、日々その1日を始めるにあたって、聖書のおことばと解説が短く記されております「デーリー・ライト」をテキストにしてみました。私は個人的にはいつも朝にこれを読んで、おことばを味わっております。たとえば、イエスキリストご自身が律法を全うしてくださるお方なのだ、だからそのイエス様を心にいただく、これは詩篇40篇8節の「あなたのみ教えは私の心の内にあります」とリンクするのだなというように思い巡らしながら恵みをいただくわけです。日常忙しい方々にも、いくつかの短い、しかし内容の詰まったおことばで励まされるわけです。この用い方をひろ子先生と祈りながら、毎週水曜日の「牧師の書斎」からお分かちしたいとその都度、どういう切り口がいいだろうかなと思っているところです。

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 私たちが聖書通読をしておりますとき、神様は語ってくださいます。ほんとうに神様は語ってくださる。じゃ先生、語って下さるってどういうことですか。それは教えられる。或いは啓蒙されるということです。

 これは、初代総理蔦田二雄先生の薫陶を受けた方々はみんな知っていることですが、蔦田先生がよく仰いました。「聖書を読むときは2色の色鉛筆を使いなさい。とにかく毎日聖書を読みなさい。読んで、これは良いおことばだなあと思ったところには赤い線を引きなさい。あ、こんなことしちゃいけないんだな、と失敗に気付かされ、これは気を付けなければと教えられたところには青鉛筆で線を引きなさい」。

ひろ子先生はクリスチャンホームでしたから、当時は子どもも文語訳でしたけれども、これも習慣づけられていたそうで、教えられたからというよりはとにかく赤い線、青い線を引くのが楽しくてならないから引いたものだそうです。

いわんとするのは、聖書を読んでああそうかと思ったときには赤い線。ああこれは警戒しなくちゃ、わたしの失敗するところだと思ったなら青い線を引くというように聖書通読をしていると、神様が教えてくださる。或いは教会もいまはズームになっていますけれども、集会の中でも神様がみことばを通して語ってくださることがある。

聖書を読みましょう!

詩篇119105 汝(なんじ)のみことばわが足灯火(ともしび)、わが道の光なり。119:130 聖言(みことば)うちひらくれば光をはなちて 愚かなるものをさとからしむ

聖書を読みましょう!

きょうのズーム礼拝の中で、そうだ、聖書を読もう、こんなにすばらしい宝がつまっているのだから。こう捉えていただければ私はもう大感謝です。それから神様は生活の中で語ってくださることがあります。私たちは、日々の生活、色んな人との関りの中で暮らしています。考えさせられること、反省すべきことがいっぱいあります。そんなときに、ああそうだと聖書の中からそれを見出すことができます。

このチャートの中で光の中を歩むということがあります。「わたしの羊は私の声を聞く」とあります。光の中を歩んでいるときに神様は私たちに語ってくださる。そしてそのおことばをしっかりと捉えてそのお言葉に導かれて生きていく。このようにしていただきたいと思います。

 

私が献身し神学校に入って1年生の時の7月に、蔦田二雄先生が天に召されました。蔦田院長からは数か月しかクラスを受けることができませんでした。

そのクラスで、いい質問をさせていただいたなと今にして思うのですが、思いきって手を挙げて「先生、おことばが与えられるってどういうことですか?」と率直に質問しました。先生はにっこりされて「みことばが与えられるというのはね、洗濯機があるだろう。洗濯ものがぐるぐると回るだろう。そこにひゅっと指を入れると引っ掛かるだろう。みことばが与えられるというのは、ま、こんなことかな」そして「ただね、ぐるぐる回っている洗濯機が、いつまでもヨハネ316ばっかりだったらいけないぞ」。

聖書通読をしていると色々な聖書のことばが心の中にいっぱい蓄えられる。さて、この問題にどのように対処して行ったらいいのか、主はどのように導いてくださるか「主よ語りたまえ」とサムエルのように御前に出る。そして主が語ってくださったのならば、素直に従って行きたいという思いを持つこと。神様はその時々にいちばん必要なことばを語ってくださる。それはお一人お一人に違います。

人生のさまざまな局面の中で、聖書のことばが、これは健全に捉えて頂きたいと思うのです。洗濯機のように回る。それに指を入れるとばくっと引っ掛かる。それがみことばが与えられるということだとその面ばかりを強調されるとそれは不健全なことになってしまいますし、正しい神様の導きとはならない。けれども真実に遜って神様の導きとなるおことばを祈り求めるならば、主が語ってくださる。主は必ずその人に相応しいみことばをもってその人を導いてくださいます。

 

※音声データと画像は教会からお借りしています。
⏰6時22分更新

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