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きょうのことば  「主の牧場の羊たち」

インマヌエル盛岡キリスト教会2021年02月07日の礼拝メッセージをおつたえいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で47年目のご奉仕をしておられます。

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説教題 『主の牧場の羊たち』  (國光勝美 牧師)
聖書引証 新約聖書 ヨハネの福音書10118

(前回の復習は割愛いたします)

 きょうは『主の牧場の羊たち』というテーマでメッセージを導かれております。詩篇23篇の学びは前回で一応区切らせていただきました。 先週、総会を越えて、この年どのようにみことばを関連付けていったらいいのでしょうかと導き求めておりましたときに、よき牧者でいらっしゃるお方に導かれている私たち、「主の牧場の羊たち」に焦点を合わせて恵みをいただきたいとヨハネの福音書10章をお開きした次第です。

この1節から6節まで。

10:1「まことに、まことに、あなたがたに言います。羊たちの囲いに、門から入らず、ほかのところを乗り越えて来る者は、盗人であり強盗です。 10:2しかし、門から入るの羊たちの牧者です。 10:3門番は牧者のために門を開き、羊たちはその声を聞き分けます。牧者は自分の羊たちを、それぞれの名で呼んで連れ出します。 10:4羊たちをみな外に出すと、牧者はその先頭に立って行き、羊たちはついて行きます。彼の声を知っているからです。 10:5しかし、ほかの人には決してついて行かず、逃げて行きます。ほかの人たちの声は知らないからです。」 10:6イエスはこの比喩を彼らに話されたが、彼らは、彼らは、イエスが話されたことが何のことなの、分からなかった。

 ここに牧者と盗人について記されています。読んでいただけばすぐに納得していただけるだろうと思います。所謂世の中の羊飼いである牧者が、主の羊を何とか盗もうとしている、そういう人たちのことについて記されているのが1節から6節です。

そして7節から10節には、羊たちの門であるキリストのことが記されています。

10:7そこで、再びイエスは言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしは羊たちの門です。 10:8わたしの前に来た者たちはみな、盗人であり強盗です。羊たちは彼らの言うことを聞きませんでした。 10:9わたしは門です。だれでも、わたしを通って入るなら救われます。また出たり入ったりして、牧草を見つけます。 10:10盗人が来るのは、盗んだり、殺したり、滅ぼしたりするためにほかなりません。わたしが来たのは、羊たちがいのちを得るため、それも豊かに得るためです。

 7節に「再びイエスは言われた。「まことに、まことに、あなたがたに言います。わたしは羊たちの門です」。で、「わたしの前に来たのは盗人であり強盗」である。でもイエス様は、「わたしは門である」そして「わたしを通って入るなら救われる」。このように710節まで記されてあります。

そして、11節から最後の18

10:11わたしは良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。 10:12牧者でない雇い人は、羊たちが自分のものではないので、狼が来るのを見ると、置き去りにして逃げてしまいます。それで、狼は羊たちを奪ったり散らしたりします。 10:13彼は雇い人で、羊たちのことを心にかけていないからです。 10:14わたしは良い牧者です。わたしはわたしのものを知っており、わたしのものは、わたしを知っています。 10:15ちょうど、父がわたしを知っておられ、わたしが父を知っているのと同じです。また、わたしは自分の羊のために自分のいのちを捨てます。 10:16わたしにはまた、この囲いに属さないほかの羊たちがいます。それらも、わたしは導かなければなりません。その羊たちはわたしの声に聞き従います。そして、一つの群れ、ひとりの牧者となるのです。 10:17わたしが再びいのちを得るために自分のいのちを捨てるからこそ、父はわたしを愛してくださいます。 10:18だれも、わたしからいのちを取りません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。わたしには、それを捨てる権威があり、再び得る権威があります。わたしはこの命令を、わたしの父から受けたのです。」

 この「よい牧者」とはイエス様ご自身を表しているのですけれども、イエス様はどういうことをしてくださるお方なのか。

「よい牧者なるお方は羊のためにいのちを捨てる」。ここによい牧者であるキリストが象徴的に記されております。これに、すぐる1月学び続けました詩篇23篇の「主はわが牧者」を合わせて恵みをいただこうとしているわけでございます。

 ここに示しました画像で、すこし豆知識を申し上げます。ヨハネの福音書の中でイエス様が、ご自分がどのようなものであるかを7つあげて自己紹介しておられます。これを覚えておくことは意味があるだろうと思ったしだいであります。

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 さて、ヨハネの福音書10章の最初の部分ですけれども。「偽りの羊飼い」、これはどういうものを意味しているのだろう。すこしチャート、図を用いてまとめてみました。イエス様は、自分よりも前に来た牧者は偽りのものだ、こういっておられます。それは「強盗であり盗人」であると。イエス様がここで偽りの羊飼いに注意をするようにといっておられるのは、実は、パリサイ人達のことで、彼らは指導的な立場にあって、これを行えばいのちを得ることができる、救いを得ることができると羊たちに教えているけれども、いやそうではない。「偽りの羊飼いたち」とは、それはわたしより前に来ている宗教的な指導者、パリサイ人たちである。彼らは結局まことの羊飼いである主イエス様を十字架につけ拒絶する。真の牧者としていらっしゃったイエス様を拒絶する、それが偽りの羊飼いたちなのだということをイエス様はこのところで述べていらっしゃいます。

イエス様は、「私は門です」と。7節以降のところにあります。「わたしは門です」。そして8節「わたしより前に来たものはみな盗人であり強盗です」。ほんとうの私の羊たちは彼らのいうことは聞き入れない。わたしが門なのだ。誰でも私を通って入るなら救われる。「わたしは門である」。そして「わたしを通って豊かないのちの糧を得ることができる。そしてそのよき牧者は11節以降に「羊のためにいのちを捨てる」と記されている。このところをしっかりと捉えたいと思います。

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 9節「わたしは門です。誰でもわたしを通って入るなら救われます」。私は23篇のメッセージを1か月取次がせていただきながら、羊は迷いやすく弱い存在である人間を表していると申しました。そんな者たちがイエス様の声を聞いて、聞き分けてそれに従っていく。23篇に見られる幸いな主の羊となるには、いったいどうしたらいいのか。

それはほんとうに一人ひとりがイエス様を救い主とする悔い改めの門を通っているかどうかによって違う。これを深く思うのです。罪を悔い改めませんと、今まで世の中の声に従う耳、生まれ変わる前は世の中の声に従う耳であり、そして私たちの歩みは自分の欲望を求める足。悔い改める前はこのような耳、イエス様の声ではなく世の中の声を聞く耳。自分の欲を求める足。それで歩いて来た私達でした。

しかし聖書はいうのです。「ユダヤ人にもギリシャ人にも、神に対する悔い改めと、私たちの主イエスに対する信仰を証ししてきたのです」という使徒の働きの2021節を引用しておきましたけれども。主の羊の特色は、一人ひとりがほんとうに悔い改めてイエス様を信じているということ、この門を通っている羊であるかどうかということ、これが決定的な違いです。この悔い改めとイエス様に対する信仰というものを知らない羊は、イエス様の声を聞き分けることができません。またイエス様が願っておられるような歩みをすることができません。「わたしは門である」とイエス様がおっしゃったとき、一人ひとりが真実に罪を悔い改めて、生まれ変わって、イエス様の声を聞く耳、イエス様のみ旨に喜んで従おうとする足。これを持つ羊であること。それが新生の恵みです。

これは何回私たちの信仰生活の中で、あの時、私は確かに神様の声を聞き分ける耳をいただいた。そして私の足は、神様のみ旨を喜んで従おうとする足になっている。生まれ変わっている羊たち。この私たちのために主イエス様は11節にありますように「良い羊飼いは私たちのためにいのちをお捨てくださいました。このお方を信じることによって私たちは新生、新しい神のいのちを持つことができるのであります。神の声を聞き、そして神様に従っていく足をもつことができるようになります。そして私たちはこのみことばを食することができます。そして私たちは「我が世にあらん限り必ず恵みと憐れみと我に添い来たらん。我はとこしえにエホバの宮に住まわん」という神様を仰ぐ、永遠を仰ぐ目が与えられます。

このヨハネの福音書10章を開きながら皆さんとご一緒にもういちど詩篇の236節を開いていただきたいと存じます。これは前回の時に最後にお開きしたチャートです。

6 まことに 私のいのちの日の限り 主が与えてくださったいのち、その使命がある限りいつくしみと恵みが 私を追って来るでしょう。
この「いつくしみ」というのは、「神の満足」、神が創世記の1章に、「はなはだよかった」。神様の満足のいつくしみ、その神様が私達を祝す。そして憐れみ。神様がイスラエルの民に忠実に必ず約束を果たしてくださるという愛情の表現が恵み、或いは憐れみということばにあらわされているのでございます。

そして詩篇の62篇

11神は一度告げられた。二度私はそれを聞いた。力は神のものであることを。12主よ 恵みもあなたのものです。

力と憐れみの神、いつくしみと恵みの神。これが生涯わたしを負ってくる。これは付きまとうというと否定的な意味合いになりますけれども、そのような表現が使われております。そのような表現が使われているほど、逃げようとしても逃げ切れない。そういうような強い表現。恵みと憐れみとが必ずわたしの生涯に付きまとう、つき従ってくる。それはまさに永遠的な祝福。「われはいつまでも主の家に住まい」。どうぞこの詩篇23篇の祝福、これがヨハネの福音書10章、よき羊飼いであられるお方と、そして、そのお方を私たちは悔い改めの門、救いの門をちゃんと通って、信仰を持って、このお方のお声を聞き、このお方を喜んで従って行く足、それをもって豊かな糧をいただく羊として歩ませていただきたいと存じます。

※データは教会からお借りしています。

⏰昨夜23時8分福島・宮城で震度6強の地震、今5時半時点でで80人の方々が怪我、原発には異常なし、津波の心配はないと。心痛みつつ、しかし、けさも聖書メッセージを更新します。
聖書のヨハネの黙示録22章13節「わたしはアルファであり、オメガである。最初であり、最後である。初めであり、終わりである。」
このことばが浮かびました。
5時39分更新

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