きょうのことば 『みことばと私』
インマヌエル盛岡キリスト教会の2021年02月21日(日)の礼拝メッセージをおつたえいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で48年目のご奉仕をしておられます。
説教題 『みことばとわたし』 (國光勝美 牧師)
聖書引証 旧約聖書 詩篇119篇105節
105 あなたのみことばは、私の足のともしび 私の道の光です。
<お話し> (前回の復習は割愛いたします)
きょうは上記にある詩篇119篇105節に導かれております。
みことばに導かれて信仰生活を送っているお互いでございますが、果たしてクリスチャン信仰にはどんな恵みと力があるのか、きょうはそれを「みことばとわたし」と題し、個人的なみことばとの関りを深めていきたいと思っております。
実は世の中に、そして私たちの生活には、神様のお声が満ち満ちています。
ここのところずいぶんと強風が続いております。教会の屋根にアンテナが立っていますが、それが強風でうまく受信できません。それで新しいアンテナを買ってきました。10年以上も前に一度、素人の私がやはりアンテナを交換したことがありました。それがずいぶん錆びついていました。あのときに確実に外して新しいポールをきちっと付け直せば今回のようなことはなかったんですが。なにせ錆ついている。何とか外そうと頑張ったのですが、風雨にさらされた錆びた鉄のボルトはどうやってみてもうまくいかない。あきらめて、ポールはそのままにして、買ってきたアンテナだけをその古いポールにつけて一応交換。交換はしたものの、はやり素人の雑さが現われてしまいまして、強風が吹くと方向が変わってしまう。NHKとかIBCとか他の局は見えるのですけれど、TV朝日だけが映りません。やっぱり直さなくちゃ。屋根の上に登る恐怖心はけっこうなものがあり、でも頑張って直しました。屋根の方で携帯で居間にいるひろ子先生に「どう? 映った?」と確認。「あ、映った映った」「じゃ他のチャンネルもチェックしてみて」。「ぜんぶ映ってる」。「これでよし」。
こんなところに長居は無用とそそくさと降りて来たんですが、また風で狂ってしまうでしょうから、今度はそれなりに覚悟して、接着剤を使うとかビニールテープを巻いて動かないような工夫が要るでしょう。角度が90度動いたアンテナを、他の家の屋根のアンテナの角度を参考にしながら直したところ、きれいに映ったわけです。それで気づきました。アンテナの角度がどんなに大切であるかということです。
私達も生活の中で思わぬ大風に見舞われることがある。或いはそれを試練といったらいいのでしょう、トラブルに巻き込まれてしまい、対処しなければならないときがあります。それを心の状態でいうなら、いつも神様の方に向いているはずのアンテナが狂ってしまう。そのときに、きちんと向きを合わせることです。神様の声はあるのです。それを受け取る側が、きちっと向きを調整するならばだいじょうぶ。その実物教訓を経験いたしました。
どうでしょうか。皆様方も神の声は満ちているんですけれども、いつでも自分の側の受信の状態をチェックするのは大切なことです。そして私たちは、神様のお声をしっかりと聴く。アンテナを調整してきちっと神様のお声に耳を傾ける。これは雄羊の脂に優る。生贄にまさる。突然このところを引用していますが、旧約時代のイスラエルの人たちは、神に喜ばれる礼拝をするために祭壇を築き、いけにえを捧げ、犠牲の動物の脂をささげていました。しかし今、神様はこれを私たちに求めておられるのでは決してない。それよりも、神様のお声に耳を傾け、お声をしっかりと聞いて、それに従って行こうとするその心の状態こそが神様が最も喜ばれることなのです。
アンテナをしっかりと神に向けて、そしてそのおことばに聞き従って行こうとするその心こそ第一サムエルの15章22節にあるような「おはなしください。しもべは聞いております」とのありようであり、これこそ、きよめの信仰ということができると思います。
「神様、あなたのお声に聞き従いたいと心から願っていますので、ですからどうぞあなたがお語り下さい。あなたのおことばの通りにしたいと願っています」。どうぞ先ほどの例話を参考にしてくださって、みことばに向かう角度、感度、そして、喜んでそれに従おうとする心、「おはなしください。しもべは聞いております」。これがきよめの信仰でなくて何でしょうか。
ここに詩篇123篇2節のことばを引用しておきました。
まことに、しもべたちの手が主人の手に向けられ 仕える女の目が女主人の手に向けられるように 私たちの目は私たちの神 主に向けられています。主が私たちをあわれんでくださるまで。
どうぞ、このような心をもって歩ませていただこうではありませんか。そして、これを思い巡らせておりますときに、「なんぢ犠牲と祭物とをよろこびたまはず汝わが耳をひらきたたまへり なんぢ燔祭と罪祭とをもとめたまはず」という詩篇40篇6節が過りましたが、これを新改訳2017で見ますと、
あなたは いけにえや穀物のささげものを お喜びにはなりませんでした。あなたはわたしの耳を開いてくださいました。全焼のささげものや罪のきよめのささげものを あなたは お求めになりませんでした。
これこそ、主イエス様の御心が表れているものです。
わが神よ 私は あなたのみこころを行うことを喜びとします。あなたのみおしえは 私の心のうちにあります。
この詩篇40篇8節はとても意味の深いことばであります。これはイエス様がクリスマスのときに受肉し人となられる以前に、父なる神様と子なるキリストが語っておられるところを、このおことばを通して垣間見させていただいている、こう解釈できるでしょう。イエス様は十字架におかかりになられ人となられる以前に、「父なる神様、わたしはあなたのみこころを行うことを喜びとします。あなたのみおしえは心の内にあります」。こういわれ主イエス様は父なる神様との会話をなさって、人としてこの世においで下さったのであります。
105 あなたのみことばは、私の足のともしび 私の道の光です。
先ごろ、13日の午後11時8分に、福島、郡山震度6強という地震がありましたが、3・11でも被害のあった郡山の教会に影響がございまして心を痛め、何とか先生ご夫妻に励ましのおことばをと思いお祈りしておりましたところ、イザヤ書63章9節のおことばが非常に心に深く示されました。
彼らが苦しむときには、いつも主も苦しみ、主の臨在の御使いが彼らを救った。その愛と憐れみによって、主は彼らを贖い、昔からずっと彼らを背負い、担ってくださった。
励ましのおことばをと思ってお祈りしておりましたところ、イザヤ63章9節のおことばが非常に心に深く示されました。
注意深く読みますと、「主の臨在の御使いが彼らを救った」とある。神様ご自身ではない御使いが彼らを救ったと読んで当然なのですが、学説を読みますと、この「神の臨在の御使いが彼らを救った」という、この「臨在が御使い」というのは、「神様の御顔」ということばと同じヘブルの言葉が使われています。神ご自身が見える形で臨在を表している、それが「主の臨在の御使い」という表現があるので、これは神の代理人と言う意味ではけっしてなくして、神ご自身の御顔が、神ご自身が彼らを救うという意味であります。
出エジプト記33章14節にあるように
「わたしの臨在がともに行き、あなたを休ませる」。
神の御顔の御使いが、これは神ご自身がともに行ってくださること。そして、ともに行ってくださり、その途上では、「憐れみによって主はかれらを贖い昔からずっと彼らを背負いになってくださった」。このおことばをこの礼拝のために思い巡らしをしておりましたときに与えられましたのが次のマタイの福音書8章8節です。
主よ、あなた様をわたしの屋根の下にお入れする資格は、私にはありません。ただ、おことばをください。そうすれば私のしもべは癒されます。
前後のことは省略させてください。そうだ、ただおことばをいただく。「あなたのみことばは私の足の灯、私の道の光」であってくださる。その神様のおことばがきょう礼拝に集われるお一人お一人に、どうかおことばがあたえられるように。これを切に願いました。そして詩篇23篇を思うと、よき羊飼いはしもとと杖をもって私たちを導いてくださる。山歩きが好きな私にとって、杖の重要さはよくわかります。登るのは里山ですが。それでも杖がある、ない、でこんなに違うのかと思います。信仰生活を歩んでいくとき、神様のおことばを与えられたとき、それを杖とし、その杖を持って握る。これは信仰です。神様が与えてくださったみことばを握りながら、日々を大切に一歩一歩歩んでまいりましょう。
※音声データ、画像は教会からお借りしています。
⏰眩しい朝の光が。6時51分更新
最近のコメント