きょうのことば 「主は私の羊飼いー6」
インマヌエル盛岡キリスト教会の2021年1月24日の礼拝メッセージをおつたえいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で47年目のご奉仕をしておられます。
説教題 『主は私の羊飼いー6』 (國光勝美 牧師)
聖書引証 旧約聖書 詩篇23篇1~6節
ダビデの賛歌
1 主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。
2 主は私を緑の牧場に伏させ いこいのみぎわに伴われます。
3 主は私のたましいを生き返らせ 御名のゆえに 私を義の道に導かれます。
4 たとえ 死の陰の谷を歩むとしても 私はわざわいを恐れません。 あなたが ともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖 それが私の慰めです。
5 私の敵をよそに あなたは私の前に食卓を整え 頭に香油を注いでくださいます。 私の杯は あふれています。
6 まことに 私のいのちの日の限り いつくしみと恵みが 私を追って来るでしょう。 私はいつまでも 主の家に住まいます。
(前回の復習は割愛いたします)
「主がともにおられる」、これはいったいどういうことなのだろうか。イザヤ書46章4節にも「あなたがたが白髪になっても、わたしは背負う。……わたしは運ぶ。背負って救い出す」とございます。ともにいてくださるという神様を、私たちはいったいどのようにして知ることができるのでしょう。
これは「聖霊による歩み」、このことに帰結するのではないか、このように導かれました。ここからが、きょうのメッセージの始まりとなります。
「ともにおられる」というときに、「聖霊によって歩む」。聴きなれていることばですけれども、それは具体的にどういうことか。くだかれやすい心。つまり、自分が行きたいところ、その方向にストップがかけられるとき、それは違うというときに、あくまでそれを通そうという思いがあったなら、あ、これは神様がストップをかけられたから方向変換しなければと、神様の前にくだかれ軌道修正することです。ダビデの持っているすばらしい霊的なものはなにかというと、ダビデは失敗を多くした王様でした。しかしそれを指摘されたときに、いつでもくだかれる心を持っていた。別な表現をすれば、教えられやすい心を持っていた。こういうことができるでしょう。
いま國光幾代子先生とのちょっとした会話が思いだされました。聖霊によって歩むという事に関わる話です。幾代子先生がまだ浦和の神学校で奉仕をしていたとき、用事があって院長室に行ったそうです。用件を済ませて部屋を出しなに、幾代子先生が院長先生に、「私、最近主がともにおられるということが、以前と違ってよく分かるようになった気がします」と言うと院長先生が振り向かれて「ちょっと待て。もういちどそのことを」というので「最近神様がともにいてくださるということが以前と違ってよくわかるようになりました」と繰り返した。すると院長先生が仰ったそうです。「それがどういうことを意味するか、ようくにれはみなさい。それはあなたがくだかれた教えられやすい心をもって日々歩んでいるからです。聖霊によって歩んでいるときに、聖霊が、ともにいてくださることを実感させてくださる。これは人に教えられてわかることじゃない。あなたが光の中を歩んでいるとき、くだかれやすい心、教えられやすい心をもって日々歩んでいるときに醸し出されてくるそういう自覚なんだ。だからそれをよくにれはむ(反芻する)ことです」。おそらく幾代子先生は、私にもそれに気づいてもらいたいと話してくださったのでしょう。
4節「たとえ 死の陰の谷を歩むとしても 私はわざわいを恐れません」
すごいことです。極限のときにあっても「わざわいを恐れません」。それは「あなたが ともにおられますから」。これが深い納得として捉えられる。その後「あなたのむちとあなたの杖 それが私の慰めです」。前回もすこし触れましたけれども、「あなたのむち」、これをある方は誤訳だと言い切ります。しかし私はそうではないように思います。第3版でも文語訳でも、それから2017年版新改訳でも原語をよく知っておられる方が改訂をして尚「むち」という言葉が出ていますので私はこれは受け入れるべきと思いますが、これは誤訳でそれは太い棒なんだと主張する人の意見も非常に興味があります。それは野獣と戦うための太い棒、それを羊飼いは持っている。ライオンが襲ってきたとしても羊飼いは、字義通りの「むち」というよりは扱いやすい太い棒のようなもので野獣と戦う。だから良き羊飼いがともにいてくださるからだいじょうぶであるというのです。
そして、「あなたの杖」というのは、前にもお話ししましたが、杖の先端が長くカーブしている。それを羊の首にかけてこっちだよと導く。「あなたのむちとあなたの杖 それが私の慰めです」。ダビデは自分の生涯を振り返りながら、ああよき牧者でいらっしゃるお方は、私を幾たびも、もう絶体絶命であるところから、よき羊飼いはそのむち、ここではむちとありますけれども、或いは、闘うための武器をもって、あなたが守って下さった。そして、私を正しい道に導いてくださった。これが4節の意味であります。
きょうは羊飼いである主と私。それを「王なる主の宴と私」というこのテーマに変えてみます。変えると言っても主が私の羊飼いという大きなテーマはまったく変わらないのですが、良き羊飼いであられるお方、5節を見てください。
5 私の敵をよそに あなたは私の前に食卓を整え 頭に香油を注いでくださいます。 私の杯は あふれています。
王様の豊かな宴、王なる主の祝宴、それが5節の大きな背景になっている。つまり1~4節までは牧場、羊。そういうたとえの中で真理が語られているのですけれども、5節になると、よき羊飼いなるお方が、実は王の王、主の主なるお方であって、そのお方が羊である私たちに豊かな宴を備えていてくださる。
きょうはこのところをすこし掘り下げてみたいと思います。
「私の敵をよそに」、敵の前で宴を張る。しかもこれは勝利の宴です。こんなことができるのでしょうか。だいじょうぶ。「死の陰の谷を歩む」という大きな戦いにあったとしてもだいじょうぶです。もうそれらのことがいとも軽いとでもいうかの勝利の祝宴。
ここで5節を一つひとつ見て行きましょう。「私の敵をよそに」、「主が備えられた宴」、「頭に香油を注いでくださいます」、VIP、これはボス・インポータント・パス。重要な賓客としての待遇です。そして「私の杯は溢れている」。この4つのところを深く味わってみたいと思います。
最初に、「私の敵をよそに」。
歴代誌第二の20章をお開き下さい。この20章1節に
1 その後のことであった。モアブ人とアンモン人、および彼らに合流した一部のアンモン人が、ヨシャファテと戦おうとして攻めて来た。
ヨシャファテ、これはよい王様として私たちが理解している人物です。ユダの王様ヨシャファテが、連合軍に囲まれてしまった。しかも2節を見ると
2すると、人々は来て、ヨシャファテに次のように告げた。「海の向こうのアラムから、大軍があなたに向かって攻めて来ました。早くも、彼らはハツェツォン・タマル、すなわちエン・ゲディに来ています。」
まさに絶体絶命の危機にヨシャファテは直面するのです。そのときに
3 ヨシャファテヨシャパテは恐れて、ただひたすら主に求め、ユダ全国に断食を布告した。
さあ、みんな断食して祈ろう。ヨシャファテは祈りはじめました。そのときにすばらしい励ましのことばがありました。ヤハジエルという預言者がヨシャファテを励ますのです。
17 この戦いは、あなたがたが戦うのではない。堅く立って、あなたがたとともにおられる主の救いを見よ。ユダとエルサレムよ、恐れてはならない。おののいてはならない。明日、彼らに向かって出陣せよ。主はあなたがたとともにおられる。』」
このことばを聞いて18、19節
18 それで、ヨシャファテは地にひれ伏し、ユダのすべての人々とエルサレムの住民も主の前にひれ伏して、主を礼拝した。
19 ケハテの子孫、コラの子孫であるレビ人たちは立ち上がり、大声をあげてイスラエルの神、主を賛美した。
これをずっと読んでいくと、ほんとうに胸が躍るようなすばらしい勝利が書かれています。
22 彼らが喜びと賛美の声をあげ始めると、主は伏兵を設けて、ユダに攻めて来たアンモン人、モアブ人、セイル山の人々を襲わせたので、彼らは打ち負かされた。
大勝利です。これはヨシャパテ王が絶体絶命となったときに、だいじょうぶだ、必ず勝つことができる。この戦いはあなたの戦いじゃない、わたしの戦いであると神様は仰っている。その神への絶大な信頼。
そして、これとよく似たところが新約聖書のローマ人への手紙8章37節、新約聖書の310頁にあります。
パウロが書いたローマ人への手紙の先ず8章31節を見ますと
8:31では、これらのことについて、どのように言えるでしょうか。神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう。 8:32私たちすべてのために、ご自分の御子さえも惜しむことなく死に渡された神が、どうして、御子とともにすべてのものを、私たちに恵んでくださらないことがあるでしょうか。
こう言って、彼は勝利のクライマックスの方に行くんですね。そして、
8:37しかし、これらすべてにおいても、私たちを愛してくださった方によって、私たちは圧倒的な勝利者です。
私たちは圧倒的な勝利を約束されている。「あなたは私の前に食卓を整えた」、これを味わうと、とても大きな恵みを感じるのです。食卓を整えてくださるのは誰ですか。ふつうは、しもべが主人のために食卓を整える。それが、王様ご自身が、主ご自身が羊のような私たちのために食卓を整えてくださる。わがままな迷いやすい私たち羊のために、よき羊飼いなるお方は、神の子羊はその羊のためにいのちを捨ててくださって、十字架に架かり、羊にいのちを与えるために、十字架の贖いを成し遂げてくださった。そして、復活をしてくださった。
「わたしが生き、あなたがたも生きることになるからです」(ヨハネの福音書14章19節)。十字架と復活、いやはての敵である死を前にしても、主は、ほら、私はあなたのために死に、贖いをなし、そして今もこのように生きているんだよ。
王なる主が羊のために自ら食卓を備えてくださる。主が備えられた食卓、来週私たちはそれを記念して聖餐式を持たせていただきますけれども、ああ、このような主が備えてくださる宴、十字架の贖い、復活の力、これは主が備えて下さったのです。
「頭に香油を注いでくださる」、これは最高級のもてなしです。主賓に対する当時として最高級の、しかも高価な油をもってする最高のもてなし。ここで、イエス様が十字架を目前にしておられたときに、ナルドの香油を惜しみなくイエス様の足に注いだあのマリアのことを思いだします。大いなる主の宴、主は私たちを、あなたはわたしの最も大切な者だよといって、最も高価な油を注いでくださる。さあ、あなたは私の血によって贖ったいちばん大切な主賓です。こういって私たちを備えてくださる。
そして、「私の杯は溢れています」。これはいったいどういうことなのだろうかと思い巡らすときに、私は詩編の63篇の場面が思い浮かびました。この63篇はダビデが自分の息子アブシャロムの反逆を受けて王座を追われ、命からがら荒野に一夜を過ごしたときのことです。それを思いながら63篇をご覧ください。
1 神よ あなたは私の神。私はあなたを切に求めます。水のない 衰え果てた乾いた地で 私のたましいは あなたに渇き 私の身も あなたをあえぎ求めます。
2 私は あなたの力と栄光を見るために こうして聖所で あなたを仰ぎ見ています
5 脂肪と髄をふるまわれたかのように 私のたましいは満ち足りています。
喜びにあふれた唇で 私の口はあなたを賛美します。
6 床の上で あなたを思い起こすとき 夜もすがら あなたのことを思い巡らすときに。
7 まことに あなたは私の助けでした。
御翼の陰で 私は喜び歌います。
8 私のたましいは あなたにすがり あなたの右の手は 私を支えてくださいます。
まさに死の陰の谷を歩むダビデの経験を、この63篇でダビでは証ししているのです。冷たい石を枕にして寝なければならない、襲われるかもしれない、そのようなときにダビデは「あなたに渇き、あなたを仰ぎ見て」そして5節を見ると「脂肪と髄をふるまわれたかのように」、これは最高の祝宴、ごちそうです。ダビデは「ああ十分です。主よ、あなたがともにいてくださる、このことだけで私はもう十分です」。「私の杯は溢れています」というのはこの63篇の中に解説されている、このように思ったことであります。
来週は「23篇の6節 まことに 私のいのちの日の限り いつくしみと恵みが 私を追って来るでしょう。 私はいつまでも 主の家に住まいます」、このところを。いつものみことばの学びというのではなくして、ほんとうに短い学びとなりますが、共に聖餐式に与り、そして教会総会へと入っていきます。
どうぞ23篇の神様が私達を過ちなく導いてくださいますようにと、願い祈っております。
※画像は教会からお借りしています。
⏰パソコンの前についてきっかり5時。1月31日5:00と画面の左に見て、切れの良さを感じ、また外にはまだ暗い中に真っ白な路が延び、ところどころに街路灯が、ビルの灯りが浮かび、そしてまだ崩れてはいない雪景色が静かに広がっておりました。昨日までにデータを起こし、けさ5時から書式に編集、6時ジャストの更新です。
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