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きょうのことば 『主は私の羊飼い』 ―年末感謝講壇―

インマヌエル盛岡キリスト教会20201227()の礼拝メッセージをおつたえいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で47年目のご奉仕をしておられます。(説教は1週間遅れで掲載しております)

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説教題 『主は私の羊飼い』 ―年末感謝講壇― (國光勝美 牧師)

聖書引証 旧約聖書 詩篇23篇1~6

ダビデの賛歌
1 主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。
2 主は私を緑の牧場に伏させ いこいのみぎわに伴われます。
3 主は私のたましいを生き返らせ 御名のゆえに 私を義の道に導かれます。
4 たとえ 死の陰の谷を歩むとしても 私はわざわいを恐れません。 あなたが ともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖 それが私の慰めです。
5 私の敵をよそに あなたは私の前に食卓を整え 頭に香油を注いでくださいます。 私の杯は あふれています。
6 まことに 私のいのちの日の限り いつくしみと恵みが 私を追って来るでしょう。 私はいつまでも 主の家に住まいます。

<お話し>

 1年を締めくくるこの朝は「主は私の羊飼い」、詩篇23篇に導かれました。皆さん方と共に恵みをお分かちさせていただきたいと願っております。

 (ここで教会の1年の動向、新型コロナの状況下にある活動などを振り返るときが持たれました)

  きょうは感謝とともに聖餐式を持とうとしております。

「主は私の羊飼い」、聖書に親しんでいる方々は、 ほんとうにそうだ、ほんとうに主は私の羊飼いでいらっしゃるとそれを経験的に深く納得し、このみことばを受け留めていらっしゃるだろうと思います。

 詩篇23篇は、ダビデが晩年になって、主はまことに私の羊飼いでいらしたと自分の生涯を振り返り詩に記したものです。ダビデは少年時代、羊飼いをしていました。そのときの王様は初代のイスラエル王サウルです。サウルは自分の王座が、敵との戦いに次々に勝利し人気が高まるダビデに簒奪されるのではないかと恐れ、ダビデの命を狙いました。しかし、ダビデは身に危険が迫る中で、羊飼いなるお方、命を守って下さるお方がおられる経験をいたしました。30歳で即位しイスラエル全土を統治しましたが、晩年は自分の息子アブサロムに裏切られ命を狙われることともなり、それは彼の生涯の中で最も悲しく辛いできごとでありました。荒野の中で、ダビデは経験的に、ああ、主は私の羊飼いであると納得したのであります。また、ダビデは人間の弱さも持っておりました。王座にあったときに、臣下ナタンの妻であるバテシバと関係を結んでしまいます。それを預言者ナタンに叱責されます。あなたはいったい何ということをしたのか。ダビデはその時、王の権威をもってナタンを殺すこともできたはずです。しかし、神様の前にほんとうに罪を悔い改め、主から扱いを受けたときに、義の道に導いてくださった憐れみ深い主を知ったのであります。ダビデはその生涯を通して理想の王であるといわれていますけれども、決して欠点のない王様ではありませんでした。しかし、主の前にいつでも砕かれ悔い改めて赦していただく、そのことを生涯かけて体験していきました。

 この23篇を知的に知っているというだけではなく、2020年の歩みを振り返って、或いは、自分の生涯を振り返って、ああ、主はほんとうに私の羊飼いでいらした。主は私と共にいてくださった。このように深く納得し頷くことができる歩みを一人ひとりがさせていただいたように思います。そして、私自身この1年を振り返るとき、まさに詩篇の23篇がそのとおりでした。主よ有り難うございます。主は私と共におられました。これからも主よ共にいてください。このように告白するものです。

 羊とは愚かなものです。迷いやすいものです。しかし羊のために命を捨て、羊をやさしく導き抱いてくださる主が私の主であってくださる。どうぞこの納得を深く深く確認をしていただく23篇でありたいと思っております。

 ここにニューヨーク市立大学のリハビリテーションルームに刻まれた詩がございます。
ベトナム戦争に従軍した若者が書いたといわれています。

 

苦難にある者たちの告白

大事をなそうとして
力を与えてほしいと神に求めたのに
慎み深く従順であるようにと
弱さを授かった

より偉大なことができるように
健康を求めたのに
よりよきことができるようにと
病弱を与えられた

幸せになろうとして
富を求めたのに
賢明であるようにと
貧困を授かった

世の人々の賞賛を得ようとして
権力を求めたのに
神の前にひざまづくようにと
弱さを授かった

人生を享楽しようと
あらゆるものを求めたのに
あらゆることを喜べるようにと
生命を授かった

求めたものは一つとして与えられなかったが
願いはすべて聞き届けられた
神の意にそわぬ者であるにもかかわらず
心の中の言い表せない祈りはすべてかなえられた

私はあらゆる人の中でもっとも豊かに祝福されたのだ

 これはまさに詩篇23篇そのものであるように思います。

 詩篇23篇、皆さんは新改訳2017で味わっておられるでしょう。こんどは私が親しんでおります文語訳聖書の方でお読みしてみます。

ダビデのうた

23:1ヱホバは我が牧者なり われ乏しきことあらじ

23:2ヱホバは我をみどりの野にふさせ いこひの水濱にともなひたまふ

23:3ヱホバはわが霊魂をいかし名のゆゑをもて我をただしき路にみちびき給ふ

23:4たとひわれ死のかげの谷をあゆむとも禍害をおそれじ なんぢ我とともに在せばなり なんぢの笞なんぢの杖われを慰む

23:5なんぢわが仇のまへに我がために筵をまうけ わが首にあぶらをそそぎたまふ わが酒杯はあふるるなり

23:6わが世にあらん限りはかならず恩惠と憐憫とわれにそひきたらん 我はとこしへにヱホバの宮にすまん

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(引き続き聖餐式が執り行われました)

 聖餐式はその生涯クリスチャンが折あるごとに主イエス様の十字架の贖い、そして、裂いてくださった十字架上のおからだ、流してくださった贖いの血潮、それをパンと葡萄の液を用いて、クリスチャンたちが何回も何回も思い起こし恵みを新たにさせていただく儀式です。洗礼式は生涯においてただ一度のものです。しかし聖餐式はその機会があったのならば感謝し謹んでこれを受けるべき聖餐の礼典であります。

聖書をお読みいたします。第一コリント112329

11:23私は主から受けたことを、あなたがたに伝えました。すなわち、主イエスは渡される夜、パンを取り、 11:24感謝の祈りをささげた後それを裂き、こう言われました。「これはあなたがたのための、わたしのからだです。わたしを覚えて、これを行いなさい。」 11:25食事の後、同じように杯を取って言われました。「この杯は、わたしの血による新しい契約です。飲むたびに、わたしを覚えて、これを行いなさい。」 11:26ですから、あなたがたは、このパンを食べ、杯を飲むたびに、主が来られるまで主の死を告げ知らせるのです。 11:27したがって、もし、ふさわしくない仕方でパンを食べ、主の杯を飲む者があれば、主のからだと血に対して罪を犯すことになります。 11:28だれでも、自分自身を吟味して、そのうえでパンを食べ、杯を飲みなさい。 11:29みからだをわきまえないで食べ、また飲む者は、自分自身に対するさばきを食べ、また飲むことになるのです。

賛美歌「しみもとがも♪」を歌って聖餐式に入りました。

※画像は教会からお借りしています。

⏰6:00更新

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