きょうのことば ー元旦礼拝&新年第一聖日礼拝ー
インマヌエル盛岡キリスト教会の2021年元旦と、1月の第一聖日(3日)の礼拝メッセージをおつたえいたします。國光勝美牧師、國光ひろ子牧師は、岩手で47年目のご奉仕をしておられます。
説教題 『主は私の羊飼い』 ―元旦礼拝― (國光勝美 牧師)
聖書引証 旧約聖書 詩篇23篇1~6節
ダビデの賛歌
1 主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。
2 主は私を緑の牧場に伏させ いこいのみぎわに伴われます。
3 主は私のたましいを生き返らせ 御名のゆえに 私を義の道に導かれます。
4 たとえ 死の陰の谷を歩むとしても 私はわざわいを恐れません。 あなたが ともにおられますから。あなたのむちとあなたの杖 それが私の慰めです。
5 私の敵をよそに あなたは私の前に食卓を整え 頭に香油を注いでくださいます。 私の杯は あふれています。
6 まことに 私のいのちの日の限り いつくしみと恵みが 私を追って来るでしょう。 私はいつまでも 主の家に住まいます。
けさは、主が詩篇23篇を語りかけて下さったと信仰をもって受け止めております。年末の感謝礼拝にも助走のように開かせていただいた箇所です。これを2021年のおことばとして元旦礼拝、そして、こんどの第一回の礼拝に「主は私の羊飼い」と題して、この詩篇23篇を扱わせていただきます。これを1節2節とゆっくりと区切って恵みをと導かれております。
さて、神様は私にとって「主は私の羊飼い」、このようなお方であります。詩篇18篇2節には「主はわが巌 わが砦 わが救い主 身を避けるわが岩 わが神。 わが盾 わが救いの角 わがやぐら」とございますが、天に帰られて久しいS兄にお祈りをお願いしますと、よくこの箇所を引用してお祈りを始められたものでした。神様とは、S兄にとっても私たちにとっても、ほんとうに「身を避けるわが岩 わが神」であります。すばらしい恵みです。
詩篇23篇はダビデの詩なのですが、「主は私の羊飼い」だとダビデはいっている。神様を「主はわが巌 わが砦 わが救い主 身を避けるわが岩 わが神。 わが盾 わが救いの角 わがやぐら」と捉えるのに比べて、「私の羊飼い」といったときには、そこに神様との人格的な交わりが感じられます。神様は私のことをよくご存知で人格的な交わりを持って下さるお方である。これは詩編18篇のそれとはまた違った恵みです。
「主は私の羊飼い」であるなら、自分の必要はすべて満たされる。また主が私の羊飼いであるから、それ以外のものは私にとって必要がない。このような頷きをこの1節から感じることはできないでしょうか。1節「主は私の羊飼い」に続いて「私は乏しいことがありません」とある。宝を持っているかどうかなんてことじゃない、主がどういうお方であるかを知れば乏しいことがない。この表現はおもしろいなと思います。だから私は豊かだという表現をするのではなく、乏しいことがない。つまり私の必要を主はご存知で、私にいま必要なものをちゃんと与えてくださる。私の生涯には尚これから必要なものが色々あるでしょうけれども、だけども、主が羊飼いであってくださるのであれば、それ以外のものは何もいらないというほどの意味がこの中にあるように感じます。だから私は乏しいことがない。
私のことをよくご存知で、わたしを導いてくださる。乏しきことがない。主が共にいて下さりさえすれば、それ以上のものは要らない、こういう確信に至ります。この23篇の1節は私達に主要な主題を投げかけていてくださる。そうお思いになりませんでしょうか。私たちの生涯で主が共にいてさえくださるのならば、それ以上のものは何もいらない。前回も申し上げましたが、これはダビデの生涯を振り返っての晩年の詩であるといわれています。ダビデ、ソロモンの栄華、その華々しい繁栄をダビデ自身も経験しました。しかし、それらぜんぶを思い返しながら、いいや私の人生にとっていちばん大切だったこと、それは主が共にいてくださった、このことであったと証しております。
ことし私たちの教会に、また私個人にも与えられました詩篇23篇の意味を、これでお分かりいただけましたでしょうか。
さて2節に主は私を緑の牧場に伏させとございます。これは羊が安心して草の上にやすんでいる、そういう状態を思い起こさせます。つまり満腹になって、ああ青い草を一杯食べることができた。それから、羊ばかりいるわけではない。ダビデの生涯をご存知の方は、彼が少年だったとき羊飼いだったこと、その羊飼いの少年ダビデを神様が選んで、このことは神様がサムエルにそれを告げたわけですけれども、ダビデは神様から選ばれて王様になった。サムエルはダビデの父親エッサイを訪問し、あなたの子どもたちの中に主が油を注がれる方がいると知らせる。エッサイは子どもたちを何人か紹介しましたけれどもサムエルは違うという。エッサイは羊飼いをしているいちばん小さな子がいるけれども、あの子はここに呼ぶ必要はないでしょう。ところが少年でありましたけれどもそのダビデが選ばれたのです。
ダビデは羊を荒き狼、野獣から守っていた。石つぶては彼の得意な武器でした。羊が外敵から守られ、牧場で安心して草を一杯食べることができ、緑の牧場に伏させ、そして憩いの水際に伴う。「緑の牧場に伏させ いこいのみぎわに伴われます」と詩篇にあるように。
ある先生がこの場所を講開されたときに、羊飼いが先頭になり羊がその後をついていく。ダビデが羊を飼ったこの地方は決して豊かな土壌ではない。緑の牧場というけれども、小岩井農場のように緑豊かな牧場ではない。だから草が生えているところを見つけては、お腹を空かせている羊たちがすこしでも満腹できるようにはからう。だけどもすぐ羊たちがそれを食べてしまう。羊飼いがまた草が生えている別なところに羊を導いていかなければならない。そういう意味でよき羊飼いというのは、羊の状態を良く知って導き、ゆっくりやすむことができるように絶えず気を配っているわけでありまして、その中で大切なことは水を確保することです。生き物にとって水がどれだけ大切なものであるか。これはもう想像していただけるだろうと思います。水を、よい羊飼いは確保しています。
羊が飲むことのできる水は、濁り溜まった水ではない。流れているきれいな水です。ドイツ大使館のある方が言っていました。ドイツの名前でバッハは日本でいえば小川さんですと。きれいな水の流れる小川。バッハのメヌエットでは、その小川の響きが感じられます。豊かにやすらう羊のすがたが想像せられます。よき羊飼いはその小川の水を確保する。これで印象深く水を思いだして頂けるかと思います。あそこにいけばきれいな水がある、あそこに行けば草がある。羊飼いはそれを知っているのです。そして羊はとても臆病な動物だといわれています。外敵があるとせっかく水があっても安心して飲むことができない。ここで4節を見ていただくと、あなたのむちとあなたの杖 それが私の慰めです。とこうあるのですが、「あなたのムチ」の別訳を見ますと、太いこん棒のような強い武器とあります。ダビデは狼や獅子と戦った。羊がちゃんと水を飲んだかどうか。いこいのみぎわにとダビデはいつも気を配っていた。
それからもう一つ、「あなたの杖」。長い杖、上が曲がっているのですが。羊は迷いやすいので優しく首に杖を伸ばして導く。いずれにせよ2節主は私を緑の牧場に伏させ。羊飼いの仕事には、当時の社会で最下層の人たちが携わっていました。群れを十分に食めるところに導いて、水のきれいなところに連れて行かなくちゃいけないし、またそういうところは、ほかの羊もやってきます。自分たちを押しのけて他の羊飼いたちが、これは俺のところだと奪ってしまうこともある。羊にはストレスがいっぱいです。せっかく飲んでいたのに。そのような状況にも対応して羊を飼う。羊飼いは当時の社会ではいちばん蔑視されていた仕事でした。
クリスマス、羊飼いたちがイエス様の誕生を真っ先にお祝できました。救い主なるお方が、ベツレヘムの馬小屋で飼い葉おけにお生まれになったときに、真っ先に駆けつけたのは羊飼いたちでした。ああ、この方だ。
私達を神様は羊飼いにたとえられているのです。こんな不可解なたとえってありませんでしょう。しかし、これはすばらしいたとえなのです。なぜならば、私たちの救い主、主イエス様は、いちばん低くなって下さったお方、世の中のいちばん貧しい辛い立場のそういう人たちのところにやってきて、そして、羊は動物の中でいちばん弱く愚かである。環境が整わないと眠れない動物だということも聞きました。
私たちはどうでしょうか。この羊たちと同じような自分たちであります。ダビデは、私は羊だ。羊の愚かさをよく知っている。ダビデは、私はほんとうに愚かなことをしてしまった。過ちをしてしまった。彼はそのようなことを言っております。
ここでちょっと逸れますが、教会学校の子どもたちとCSの教師で小岩井農場に行ったことがあります。ちょうど羊ショーがありました。その時のお話しがとても印象深かった。羊飼いをしている方がクイズを出しました。葛巻で羊飼いをしているというイベント企画の方でした。彼が葛巻で作っている羊の肉はほんとうにおいしいそうで、あの人の作った羊の肉をたべたいというリクエストがあるほど。有名な人でした。その彼のクイズです。羊がいちばんストレスを感じるのはどういうときでしょうか。子どもたちの真剣さ。牧師ですから聖書をおもいめぐらして。彼がいうには、羊は孤独になるといちばんストレスを感じる。ひとりになると羊はストレスで食べることができなくなる。寝ることもできない。環境が整わないと眠れない動物だということでした。私たちはどうでしょう。よきまことの牧者なるお方は、弱く迷いやすい、いちばん愚かな私たちを外敵から守り、われ乏しきことあらじと言わしめる。わたしが与えるものは世が与えるものとは違う。ストレス、それもぜんぶご存知で主がよき牧者として私たちを導いてくださる。
ダビデは羊飼いでした。そしてそのダビデが、主はわたしの羊飼い、このように23篇で堂々と述べているのでございます。
イザヤ40章11節
11 主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、懐に抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。
それでは、元旦礼拝に引き続きまして、この年の第一回目の聖日礼拝に「主は私の羊飼い」、この説教題でともに恵みに与りたいと思います。復習になるところもありますが。
「主は私の羊飼い」というときに、神様をどのように捉えているのか。詩篇の18篇にあるように、2 主はわが巌、わが砦、わが救い主、身を避けるわが岩、わが神。わが盾、わが救いの角、わがやぐら。こちらは力強い、ほんとうに依りすがって、隠れどころとして、そのように神様を捉えている。これは大きな恵みであります。それに対して、「主は羊飼い」というとき、この違いはなんなのか。それは23篇において、人格的なまじわり、これをダビデは23篇で述べている。ダビデは、神様と人格的な交わりを経験してきた、このように言う事ができるでしょう。
そして主は私の羊飼い、だから、自分の必要はすべて満たされている。そして、主が私の羊飼いであるから、それ以外のものは必要ないという確信。ですから「私には乏しいことがありません」。豊かであるといった肯定的な表現ではなく、乏しいことがありませんというこの言い回しは、とても興味ある意味の深い言葉だとこのように思います。主が私と共にいてさえくだされば、それ以上のものは私にはいりません。これが23篇の1節。まさに大きな中心であると確認させていただきました。
そして「緑の牧場に伏させてくださる」お方。羊が安心して休む。そしてお腹いっぱいに満たされて、寛いでいる。この状態。それからもう一つ、羊飼いなるお方は、いこいのみぎわに伴ってくださる。「緑の牧場」、草もそうですけれども、生き物にとって水というのは非常に意味のある生命的な必要であります。羊飼いが水場をしっかりと把握しておくのは非常に大切です。静かに流れてくる小川。安心して飲むことができる。いつ襲われるか分からないという時には水を飲ませることはできません。羊飼いがちゃんと水のある所に導いてくださる。このことを今日の私たち、よき羊飼いは、私たちに緑の野に伏させて、満ちたらせてくださる。個人において家庭においてよき羊飼いなるお方は、緑の牧場に私たちを導き伏させ、ともにいてくださる。
今日、私は、主がことし皆さん方をどのような緑の牧場に導いてくださるか、そして水を与えてくださるのか。そのことを思いめぐらしました。前回のお話しを思い起こしてください。この23篇は非常に牧歌的な雰囲気がしますが、実は、パレスチナの地というのは、それほど豊かな緑が生えているところとは必ずしもいえない。羊が増えてくるときに、その食欲を満たすために、何処に行ったらどれだけの羊を養えるか、食べ終わったらまた別なところに行って飢えないように導く。私たちの糧は聖書のみことばです。糧を求めて私たちは聖書を開きます。その時々の必要に応じて満たすことができたならどんなに幸いでしょうか。そんな思い巡らしをしているときに第一歴代4章10節が思い当たりました。
10 ヤベツはイスラエルの神に呼び求めて言った。「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあってわざわいから遠ざけ、私が痛みを覚えることがないようにしてください。」神は彼の願ったことをかなえられた。
ヤベツの祈りと言われているところです。いまから10年以上もまえのこと、ヤベツの祈りというこの場所を取り上げた方が。多くのクリスチャンたちに恵みを与えたことを思い起こします。
第一歴代4章10節の前後、1、2、3,4,5章ごらんください。
私とひろ子先生はいつも一緒に聖書を読んでおります。面白くないところもありますが、とにかく順番にずっと満遍なく読んでいます。新改訳2017年版が出たときに始めた読み合い、声を出して合わせて読むのですが、ついこの前12月の中頃に黙示録の最後までいきまして、終わったね、と一息つきました。3年ぐらいかかりました。
歴代誌の10章味気ないところだったんですけれども。23篇のようにめぐまれるところもあります。
この第一歴代4章のヤベツという人、9 ヤベツは彼の兄弟たちの中で最も重んじられた。彼の母は、「私が痛みのうちにこの子を産んだから」と言って、彼にヤベツという名をつけた
よほど難産だったんでしょうか。ヤベツ、欄外を見ると「痛み」。自分の名前に「痛い」という名前を付けられてしまった。そういう彼だったんですが、ヤベツは「私を大いに祝福し、私の地境を広げてくださいますように。御手が私とともにあってわざわいから遠ざけ、私が痛みを覚えることがないようにしてください。」
実に率直な大胆な祈りをしています。そして神は彼の願ったことをかなえられた。
これだけの分厚い聖書の中に、よき羊飼いが導いていてくださって、こんなおいしい草があるよ。ほかの読者は見過ごしにしているかもしれませんけれども、聖書の中に、いまあなたが必要としているのは、ここのところじゃないか。このようにして私のことをよくご存じの神様は、一人一人の、一匹一匹の羊を聖書の中で、この草を、このところはどう? というように、緑の草のあるところに羊を導いて伏させてくださる。このことを経験していくこと。みことばを神様から与えられてそれによって養われること、これを23篇を通して味わうならどんなに幸いでしょうか。
今年のおことばを皆さん方どのように祈り求めていらっしゃるでしょうか。教会は詩篇23篇とともに歩むことに致しました。それでは、私を、主はどういうおことばで導いてくださるでしょう。そのときヨハネの手紙第一の1章7節が通いました。
1:7もし私たちが、神が光の中におられるように、光の中を歩んでいるなら、互いに交わりを持ち、御子イエスの血がすべての罪から私たちをきよめてくださいます。
このおことばが一つのきっかけになりました。
私ども、3年前から家拝で一緒に聖書を読んで、二人でお祈りを捧げます。教会のために、会員のお一人おひとりを覚えながら、よほどのことが無い限り二人で祈っています。そのときに、このところずっと覚えておりますのは、その子イエスのすべての罪より我らをきよむというおことばです。どうぞイエス様の血が、病んでいる方のその部分、毛細血管の隅々までが御子イエスの血によってきよめられ癒されますように。必ずこのおことばをもってお祈りします。そして、そのお祈りをしているときに、ああそうだというように、もう一つ心に浮かぶのは、エゼキエル書47章9節です。
9 この川が流れて行くどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川が入るところでは、すべてのものが生きる。
これはエゼキエルという預言者が与えられた回復の幻なのです。エゼキエルが見た幻の中に、そこに神殿が回復されていた。その回復された神殿のところから、1節を見ると、神殿の敷居の下から東の方へと水が流れており、そして、東の方に流れていく水が、たんたんたんたんと、さっきバッハの小川のことを言いましたが、小川のように流れていく。やがて5節、6節を見ますと大きな川になっていくのがわかります。そして8彼は私に言った。「この水は東の地域に流れて行き、アラバに下って海に入る。海に注ぎ込まれると、そこの水は良くなる。そして9 この川が流れて行くどこででも、そこに群がるあらゆる生物は生き、非常に多くの魚がいるようになる。この水が入ると、そこの水が良くなるからである。この川が入るところでは、すべてのものが生きる。
このおことばが、御子イエスの血、すべての罪よりわれらをきよむ、というおことばとともに、このエゼキエルの47章9節、神殿から流れ出る水が行くところすべて生きる。そして12 川のほとりには、こちら側にもあちら側にも、あらゆる果樹が生長し、その葉も枯れず、実も絶えることがなく、毎月、新しい実をつける。その水が聖所から流れ出ているからである。その実は食物となり、その葉は薬となる。
病んでいる方々に、どうぞ御子イエス様の血が豊かに流れますように、そして、きよめられますように、そしてそれがエゼキエルにある神殿のもとから流れるきよい水がものみな生かして、豊かな結実を与えていきますようにと、このエゼキエルのおことばを心の拠り所としよう、このおことばを個人的にはいただこう、このような思いめぐらしの中にあるのです。
詩篇23篇にお帰りください。
1 主は私の羊飼い。私は乏しいことがありません。
2 主は私を緑の牧場に伏させ
こんなにすばらしい聖書のおことばが満ち満ちている。そして、いま必要な守りとなるおことばを、よき羊飼いであられる主が指し示し導いてくださる。どうか皆さ方も、きょう個人的に或いは家庭にあって、或いは職場にあって、どのような緑の牧場の草に私たちを導き、どのようなきよい水のほとりに私たちを導いてくださって、憩わせてくださるであろうか、そのことをみなさんがたと一緒にこの年の初めに心に留めたいと思っているのです。
イザヤ40章9~11節
9 シオンに良い知らせを伝える者よ、高い山に登れ。エルサレムに良い知らせを伝える者よ、力の限り声をあげよ。声をあげよ。恐れるな。ユダの町々に言え。「見よ、あなたがたの神を。」
10 見よ。神である主は力をもって来られ、その御腕で統べ治める。見よ。その報いは主とともにあり、その報酬は主の御前にある。
11 主は羊飼いのように、その群れを飼い、御腕に子羊を引き寄せ、懐に抱き、乳を飲ませる羊を優しく導く。
きょう皆さん方に、ヘンデルのメサイア、このみことばイザヤ40章9~11節が歌われておりますところと、マタイの福音書11章28~30までが歌われているところをお聴きいただきたいと思います。例年であればキャンドルサービスの日に鑑賞しておりましたが、ことしはそれもございませんので、部分的ではありますが、ここでご一緒にお聴きしましょう。
マタイの福音書11章28~30節
11:28すべて疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのもとに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。
11:29わたしは心が柔和でへりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすれば、たましいに安らぎを得ます。 11:30わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです。」
お帰りになられたら、ことし主がどのような緑の草を私たちに与えてくださるか、きょうこのメッセージを、或いは、デイリー・ライト、またダイジェスト・バイブルといったものもございます。これらを参考にことしの指針となるおことばを捉えていただければと願うことでございます。
※画像は教会からお借りしています。
⏰5時52分更新
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